『ふたごチャレンジ! 「フツウ」なんかブッとばせ!!』七都にい(2021)
「いま小学生に人気らしい」と親に薦められたので買って読みました。
2025/2/8(土)
・読書メモ
児童文学にありがち〜♪
めちゃくちゃヤバい両親〜♪
「お母さんはね、『あかねくん』と『かえでちゃん』を生んだつもりはないの……」 p.20
そもそも生む段階で、女の子や男の子として生むつもりであることだって無理では?と思ったけど、胎内にいる頃から解剖学的な性別は分かっているから、妊娠出産の当事者として、そういうジェンダーの刷り込みはあるのか。なかなか非当事者には想像が難しい
あかねは「男の子っぽい」ものが好きだけれど、一人称は「うち」という、比較的、女子/女性が使いがちなものを使ってるんだな。「女の子らしい」かえでは「ぼく」だし。唯一ここだけ?
それは、一人称のレベルからあかねが「ぼく」や「おれ」で、かえでが「わたし」「あたし」「うち」等だと流石に読者がこんがらがるから……というある種の妥協なのか、それとも別の積極的な意義があるのか。
まぁそもそもどんな一人称を使おうが、性別・ジェンダーとは関係なく自由であるはず!というのが本作のテーマに照らしても正しいわけだし、わたしがこうしてこの点に引っ掛かること自体が保守的なのかもしれない。ごめんなさい。
2章おわり
初っ端からすげぇ哀しい、シリアスな展開なんですけど!!
誕生日ではなく自分との「おわかれ会」 p.26
なるほど結婚式のような祝い事の場は、伝統的・保守的なジェンダー規範や異性愛規範がものすごく色濃く、それを再生産して次代に繋げていくマイノリティ抑圧的なイベントだが、その類としてお誕生日会をまず設定して「みんな、いったいだれのことをお祝いしてるんだろう」p.25 と主人公に思わせる。マイノリティの子どものアイデンティティ危機/乖離を象徴的に描く。この舞台設定と展開は見事だなぁ
もちろんあかねやかえでがトランスジェンダーかどうかはまだ分からない(本人たちにとっても)だろうが、そもそも子どものジェンダーアイデンティティなんて、大人に比べてずっと曖昧で流動的だろう。(もちろん、大人のそれが固定的で曖昧さの余地がないわけではない。)
そして、大前提として子どもはみんな、社会のなかでの「マイノリティ」である。自立しておらず、権力関係から保護者たる大人たちの言うことを聞かなければならない場面が非常に多い。つまり、ここで主人公のふたりは、二重のマイノリティとして「大人」社会の「ふつう」という規範によって個人の尊厳を否定されている。それも、ほんらい個としてもっとも尊重され存在が祝福されるべきお誕生日会という場で。
ここで双子という設定も効いていることは言うまでもない。「個として尊重」といいつつ、双子なのでふたりまとめてのお誕生日会であり、また例年おそろいのものの色違いをプレゼントとして選ばされているとの記述もある。つまり、そもそもこのふたりは双子であるがゆえに、日頃から親の(バイナリー規範に基づく)ジェンダー観に振り回され続けてきたのだ。
ひとつ気になるのは、今言った「バイナリー(性別二元論)」と双子という要素が暗に結び付けられているような設定であることだ。
そっくりの一卵性双生児という鏡対称なモチーフをあてがわれやすいキャラ設定に、それぞれ「男の子らしさ」と「女の子らしさ」があたかも鏡写しのように "反転" したような内面の造形をすることの危うさがある。
すなわち、いくら本作がジェンダーの「ふつう」に疑問を呈する姿勢の物語でも、「男の子っぽいものが好きな女の子と、女の子っぽいものが好きな男の子の双子」として安易に読める基本設定は、「性別は男と女の2種類のみが存在し、両者は "対" になっている」というマイノリティ抑圧的な男女二元論を温存して強化してしまう恐れがある。性別は男と女の2種類だけではないし、そもそもそれらだって中身や輪郭がかっちり定まっているものではないし、そして男と女は別に対称的な存在でもなんでもない。そうしたクィアネスが生じる余地は現時点では見受けられない。
「男らしさ/女らしさ」が明確に存在する、というジェンダー本質主義も呼び込む恐れがあるが、そこは今のところ、かなり気を遣って書かれている。(あかねやかえで当人たちの口からは決して「うちは男の子らしい」的な台詞を言わせていない)
さっきまでの空気とはうって変わって、お葬式みたいだ。 p.27
うおお……
お誕生会ではなく、自分との「おわかれ会」、そして自分の「お葬式」── 自己を弔う、というモチーフ。マジョリティの価値観に、社会によって傷つけられ殺されることの多いマイノリティの苦しみが、子どもの言葉で鮮烈に表現されている。
「かえで! 今日、うちらのお誕生日会なんてなかった。そうでしょ⁉︎」 p.29
とても悲痛だけど、とても力強い。
「生」という、根本的に、自分ではない他者から身勝手に与えられたものを勝手に祝福されて自己同一化を強制されるお誕生日会というものを否定する。そしてその上で、「性」は、自分の好き勝手に自分で模索して選んで生きていくことができるものなんだと、自分で自分を、高らかに肯定する。モンちゃん……
p.30
自分たちで作った、自分たちのお誕生日会のための輪飾りを自分たちの手で引き裂く行為。自分たちを縛り付けて苦しめる「ふつう」という規範の円環を自らビリビリに破いて自由を手にする姿が印象的に書かれている。「めでたい場」をぶち壊すようなマイノリティの怒りの発露。それはまだ、マジョリティのいる誕生会の本番中に起こして台無しにして周囲を白けさせる/迷惑がらせるような革命行為ではないけれども、それでもこれはふたりの自由への第一歩である。
うちはゴミ袋をつかむと、かえでにむけて、いきおいよくひっくり返した。
輪飾りだったものが、紙吹雪のようにかえでにふりそそぐ。 p.30
紙吹雪が積もって、うちのドレスと、かえでのスーツがおおいかくされていく──。 p.31
輪飾り→紙吹雪 というモチーフの鮮やかな転換=読み替え! 自らを縛っていた輪っかが、自らを祝福する紙吹雪となる。見たくないもの=抑圧的なジェンダー規範の具象化たるドレスとスーツを覆い隠してくれる。
双子だから、ふたりいるから、お互いに「しかえし」=祝福を反復させて祝い合えるのも感動的で良いね。
「転校先で、性別をとりかえちゃえば……本当に、『あかねくん』と『かえでちゃん』になれば……⁉︎」 p.32
やっぱそういう流れか〜
先述の性別二元論をどう乗り越えていくか、あるいは温存し強化してしまうのか、に注目だな
ところで、これでふたりは両親のもとを離れておばあちゃんの家に引っ越すようだけれど、児童文学において祖母や叔母叔父やいとこ、あるいは親族でもない年長者のもとへ転居する展開って王道だよなぁ。児童文学といえるか微妙だけど『西の魔女が死んだ』とかが代表的。
なかでも祖母のもとに引っ越して自己を見つめ直すカウンセリング的な物語が多いのはなぜだろう。やっぱり「魔女」表象と関わりがあるのかな。子どもを苦しめる現代社会=人里から離れた、自然あふれる祖母の家に引っ越してリラックスするやつ。
「おばあちゃん」自体に、なにかそういった、合理主義とは対照的な癒し効果を期待するのも、現代人のひとつのオリエンタリズム&性差別&エイジズム?なのだろうか。
4章
父方の祖母か
父の仕事の都合というけど、単身赴任せずに子どもだけを祖母のもとに送るのか。都合上とはいえなかなかな設定
一気に3ヶ月飛んで夏休みになった。夏に祖母の家へ引っ越す──こういうの、どうしてワクワクするんだろう。実際そんなこと経験したことないのに。
夏=田舎(前近代)→ノスタルジー&冒険ファンタジー……という定式
「あーちゃん、かえちゃん〜!」
「おばあちゃん!」 p.37
確かにおばあちゃんがかわいいかわいい双子の孫を呼ぶならば、わざわざ男女で呼び分けずにどちらもちゃん付けするだろうな、という納得感。
あと、ご年配なので久しぶりに会うかわいいかわいい双子の孫を見分けられなくても仕方ないだろうな、という納得感もある。
ますます顔を赤らめるかえで。
うはあ、好きな子にいじわるしたくなるらしい男子の心が、ちょっとわかったかも。 p.47
そんなところまで「男の子らしさ」を踏襲しなくていいっ!w
でも実際、トランス男性にもtoxic masculinityが存在するのか、するとしたらその「有害さ」はストレート男性のそれと違いはあるのか……などの問題はかなり興味深いな。
ん? ええと……いったん整理しておきたいんだけど、
あかねは女子、かえでは男子だと認識しているおばあちゃんの前では、ふたりの存在(名前)ごとすり替えた演技をして、あかねはおしとやかに振る舞ってかえでのように、かえでは元気に振る舞ってあかねのように思わせる。
そして、ふたりの素性を知らない学校の人たちの前では、ふたりの性別のみをすり替えて誤認させ、あかねは男子でかえでは女子だと思わせる、ってことか。
つまり、家と学校ではすり替えの対象が違うので演技の内容も違うと。……大変じゃね? 読んでるこっちもこんがらがる。
どちらかというと、本来の自分らしさを出せるのは学校で、家でおばあちゃんといる時は完全に別人だと思わせるために演技しなきゃいけないから面倒なのかな。でも学校でも性別は入れ替えてるから、トイレや着替えや体育、健康診断などはちょっとトラブルになりそう。てか健康診断を誤魔化すのは無理じゃね? 第二次性徴前ならいけるか……?
そもそも、なんでおばあちゃんの前で存在を入れ替えなきゃいけないんだろう。そのままじゃダメなのか。
しかも、それだと家に学校の友達を招いた時とかにヤバくない? あかねを、おばあちゃんはかえで(女子)だと認識していて、友達はあかね(男子)だと認識しているってことだから…… 名前も性別も食い違ってるじゃん!! むしろおばあちゃんの前ではありのままのほうが良かったのでは……? そうすれば、友達とおばあちゃんとでふたりの名前は一致していたはずだ。性別は食い違うけど。
……いや、おばあちゃんの前でつねに存在が入れ替わってるわけじゃないのか? 場合に応じて、それぞれを都合の良い方に思わせているかんじ?
だったら流石におばあちゃんの認識力を低く設定し過ぎでかわいそうだけど。
p.62 ここでいきなり三人称叙述になった。逃げるあかねを見送る辻堂先生に焦点化するための三人称パート。
この保健室の先生が探偵役みたくなるのか……? というか、早めに秘密を見抜いてふたりの理解者になってくれるのかな。そうすれば健康診断も乗り切れるし。
こういうとき多機能トイレあると便利だよなぁ、まさに。
p.65 文字フォントを大きく変えてコミカルな演出に使う。さいきんの児童文学のトレンド?
かえでさん、普段おとなしくて怒ると怖いタイプか……
辻堂先生……😭😭
良かったねぇ……っ!!
保健室にのみバリアフリートイレがあるのね
「女の人にしては背が高い」とも言われてたし、「個人的な事情」って辻堂先生まさかトランス女性なのか。
自分らしさとは何かを真剣に考えて、それを貫くために勇気を持っておこなう「チャレンジ」は、まさしくchallengingな……困難だけれど、同時にやりがいのある素晴らしい挑戦だ。
「女の子の顔」の傷を過剰に心配する、ど直球の女性差別。そのせいで大好きなサッカーを辞めさせられて、可哀想すぎる…… めちゃくちゃ酷い親だ。毒親なだけではなくモンスターペアレンツでもある。児相に通報しよう
──ロコちゃんか。女の子?
あのとき、ぼく、どうしてわざわざ、性別をたしかめたんだろう。 p.97
なるほど〜!
周囲だけでなく、主人公ふたり自身の中にあるジェンダーの固定観念や規範をも俎上に乗せてときほぐしていくわけね。すばらしい👍
ある人を紹介されたとき、まず性別を知りたいと当たり前に思ってしまうのはなぜか。人間ではなくはじめはペットからこの問題を導入することで、マジョリティ読者を置いていかずに引き込むのもうまい。
クラブ名は、前半が青色で、後半が赤色で書かれている。 p.103
こういうとこな〜〜 キホンだけど、だからこそ普遍的にタチが悪いんだよな。
クラスの男子・藤司がかえでを好きになったとあかねに告白。小4男子で珍しい……と言っちゃうのも差別的か。
かえでのセクシュアリティはいったん置いている。藤司は自分がかえでのタイプじゃないと告げられても逆に燃えてしまう、コミカルな展開。
にしても、あかねは「男の子らしい」から恋愛の機微が分からなくて、逆にかえでは分かる……みたいなのも、やっぱり男女をひっくり返してるだけで、むしろ男らしさ/女らしさという流通しているジェンダー規範を反転させただけで綺麗になぞって再生産している気が……。
肉が好き/嫌いとかも、画一的すぎやしないか? 「男らしさ」「女らしさ」そのものを解体しないと。仮にふたりがトランスジェンダーだったら、まさしく「男/女らしさ」を完璧に体現していることになる。(からこそ、トランス設定にはしないと予想するが……)
決裂展開
みんなを騙してまでチャレンジを続けるのはつらいかえでと、そんなことはないと強がるあかね。
やっぱり、少なくともおばあちゃんには自然体で接したらどうだろう。何が問題なんだ? あんまり男らしさん女らしさを押し付けてきそうにもないし。
スマホの連絡先を交換して、手をふる。 p.130
小4でスマホ持ってるのが当たり前なのか〜!
こういう、さらっと自然な感じで出てくる世代間ギャップがいちばん"来る"よね…… 大人になってから読む現代児童文学の醍醐味でもある。
車いすユーザーの太陽くんと出会うあかね。
フェンス越しで学区も違うのが象徴的。
なるほど障害者にもインクルーシブに登場させるのね、というのと、このふたりが恋愛関係に……!?というドキドキが。そこは保守的に異性愛なのか〜 でもあかねが「女子」だと決まったわけではない……のか? トランス男性の余地は残されてないのかな。
しかし、「女子」だと見抜かれた上で、サッカー好きなところなど、ありのままの自分を肯定されることにあかねは喜びを覚えていたから、女性ではあるんだろう。少なくとも今のところは。、
北大路さん……!! 立派すぎる
そういや、章タイトル周りや、場面展開の時にある丸と三角の図形◯△って、男女別トイレにあるような男性女性マークを意識してるのだろうか。それらが、男性とも女性とも取れないままにふわふわ浮かび並んでいるデザイン……。
p.142 ん? 凛との「女の子同士の関係」の継続をかえでは望んでいる。ってことは、かえでは「男子」が本来の自分だとは思いたくないってこと? トランス女性の可能性がある。あかねよりも。
双子でもここでトランス/ストレートと分かれるのだとしたら、気持ち悪いほどの「鏡像」から解き放たれてそれぞれが真に自由に生きるようで、すごく良いな。『放浪息子』を思い出す。子どもから成長するにつれ、トランスか、単なる異性装趣味のストレートかで登場人物たちの道が分かれていく物語。
p.150 ここで太陽くんへ何てメッセージ送ったのかのディテール欲しかった
p.155 校長こわっ! 傍点やめてくれ〜〜
p.158
なるほど。「自分らしさ」を考えるうえで、自分以外のひとが関係ないわけではない。むしろ、誰に「ありのままの自分」を認めてもらいたいのか、ありのままで過ごしたいのか、を考えることは大切。他者を通じて自己を見つめる。辻堂先生もなかなか良いこと言うなぁ。
p.169 「ぶあつい雲のすき間から光がさしたみたいに」という比喩が双子でまったく同じだ。芸コマ
p.175 うお〜やっぱりかえではあかねとは違って……
ひとまず「心の性別」を確定させずに、「わからない」ままでいることを肯定してくれる辻堂先生。いったんクエスチョニングって感じか。
p.207 ぎゃ〜 校長ヒールすぎぃ〜!
でも、「性差によって得意なことが違う」という主張に対抗して「得意は性別ではなくその人次第だ」と反論するのは、この議論の位置付け(校長を言い負かす目的)からしてあるていど妥当ではあるけれど、やや引っ掛かる。「人は得意なものをやるべき」という校長の立論に乗っかってしまっているから。小学生のクラブ活動なんだから、そもそも得意かどうかで決められるべきじゃなくて、各々の好きにさせてあげるのがいちばんだろう。
「どういう問題なんですか? 校長先生こそ、『なんか気に入らない』っていう、たかが気持ちの問題を、社会とかいう大きな言葉で、まるめこもうとしてるんじゃないですか?」 p.216
北大路さんレスバ強すぎる……!
やっぱりおばあちゃんは気付いてたか。心強い。
校長ヤバすぎるだろ 児童文学のヒール役の大人は酷ければ酷いほど(反抗する子どもが輝くから)良いとはいっても、これはキツいっす……
なるほど〜北大路鈴華さんにそんな背景が。
くん付け/ちゃん付けが、実質的に、「本人が男女どちらだと認識されたいか」を示す記号として機能している。ホントは男性だってちゃん付けされていいし、女性だってくん付けされて全然いいけど、まぁ小説上のひとつの単純化としてはいいかな。
おわり!!
最後は家に帰ってからのおばあちゃんとの会話パートもなく、藤司との和解だけやって爆速で畳んだ。かえでのカミングアウトを受けてもなお、好きという気持ちを曲げない藤司くん、推せる。
「チャレンジ」が意味することが、柔軟に変わっていくのが良かった。たとえ双子の「とりかえ」チャレンジを途中で辞めても、苦悩の末の辞めるという決断も含めてふたりにとってまぎれもなくチャレンジだったし、そのあとの、明確な目的(とりかえをバラした上で好きなクラブに入ることを認めさせる)を設定してのカミングアウト作戦は、よくぞここまでチャレンジングなことを思いついて実行できたなぁと驚くほど。
次巻からは、どんなチャレンジをしていくのだろうか。校長とおばあちゃんの幼馴染関係、太陽くんとあかねの関係、かえでと藤司くんの関係、辻堂先生の個人的な秘密、などなど、楽しみで気になることはいっぱいだ。
何より、じぶんが小学生の頃は、こんなジェンダークィアな児童文学なんてあり得なかったから、それだけでもう感動しちゃう。し、これが実際に今の小学生たちに大人気だというのがまた、大人や社会の自己満足じゃあなくて、本当に子どもたちが読みたいものとして受け入れられているってことで、何より嬉しい。未来は明るいなぁ
じぶんの頃の大好きだった児童文学は、今にして読み返せばひじょ〜にジェンダー規範に囚われているし、異性愛主義だし、じぶんの保守的な価値観の醸成にめちゃくちゃ影響を及ぼしているから…… 今でも大好きだけど!!
作者あとがき 「とりかへばや物語」が元ネタか〜〜

