『アレフ』(1949)ホルヘ・ルイス・ボルヘス
鼓直 訳
ボルヘスを読むのは『伝奇集』に続いて2冊目
17作の短編が収録されている
- 不死の人
- 死人
- 神学者たち
- 戦士と囚われの女の物語
- タデオ・イシドロ・クルスの生涯
- エンマ・ツンツ
- アステリオーンの家
- もう一つの死
- ドイツ鎮魂曲
- アヴェロエスの探求
- ザーヒル
- 神の書跡
- アベンハカン・エル・ボハリー、おのが迷宮に死す。
- 二人の王と二つの迷宮
- 待ち受け
- 門口の男
- アレフ
- 感想まとめ
2025/10/3~11/6
不死の人
〈不死の人々の都〉への冒険譚
とりとめのない構成
不死の人ってホメロスかーいww 大ホラぶち上げてて笑う
ずっと冒険のあとをついてきていた部族の男こそが不死の人で、ホメーロスその人であった。
しかし、そうして語っている男自体が不死の人ホメーロスでもあるのでは?という矛盾が提出され、先に語っていた「不死の人はすべての人である(時間が無限だから)」という思索が実態を伴って浮かび上がる美しい構成。
……なんだけど、やっぱ私はボルヘスのこういう短編好きじゃねぇな〜〜〜と思う。頭でっかち過ぎるし、構造的にうまく出来すぎていて遊びが無くて面白くない。
無限へのフェティシズムなんかも、やってることほぼ「バベルの図書館」と同じだし。
むしろ、そういうミステリ的?なロジック/アイデアよりも、それを置いてもなお晦渋なこの文体・文章表現こそボルヘスの本質なのではないかと思う。(といっても、文章もそんな好きじゃないけど。読みにくいし)
死人
荒野の荒くれ男たちと暴力と死。ボスを暗殺しようと若者がのし上がっていたと思ったら、全ては掌の上で騙されていた、というとても単純なハナシ。「南部」の系譜か
神学者たち
「時間は円環」派を論駁したい似た立場の神学者たちのライバル意識。BL いいぞ〜
〈車輪〉は〈十字架〉の前に屈したが、アウレリアヌスとヨハネスは密かに戦いを続けた。二人はおなじ軍団で戦った。おなじ勲功を望み、おなじ〈敵〉に立ち向かった。口には出さないがアウレリアヌスは、ヨハネスを凌ぐつもりの無いような言葉は一語も書かなかった。 p.52
男の間での嫉妬の話……好き!
突然、二十語からなる文章が頭に浮かんだ。彼は喜んでそれを書き取ったが、その直後に、それが他人のものではないかという疑念に襲われた。……不安に悩まされることになった。その字句を変えたり削ったりすれば、表現の力を殺ぐことになる。手を加えなければ、憎悪する相手のものを剽窃することになる。 p.57-58
神学者のチャドだ
そういうことか〜 反復を否定するための字句が、最も憎い相手のそれの反復になってしまって二律背反に陥る(ことで、無限性か一回性かという神学の議論内容にプロットが接続される)ってことね
え、なんでヨハネスが告発処刑されるの? 因果がわからない
彼が炎に包まれようとした時、アウレリアヌスは思い切って視線を上げた。火の手が一瞬止まった。最初で最後だったが、アウレリアヌスは憎むべき相手の顔を見た。ある人間の顔を思い出させられたが、何者であるかまでは分からなかった。 p.59-60
アウレリアヌスはヨハネスの死に涙こそしなかったが、すでにその一部となっていた、不治の病が癒えた者が感じると思われるものを感じた。 p.60
すげぇ的確な表現だ……
正午に雷で森が焼け、アウレリアヌスはヨハネスとおなじ死に方をすることができた。 p.60-61
うおお…… BLだ……
計りがたい神にとっては彼はヨハネステデ・パンノイア(正統派の者と異端者、憎む者と憎まれる者、告発者と犠牲者)はただ一人の存在であることを、アウレリアヌスは楽園において悟ったと言うほうが正確である。 p.61
そういうことか〜〜 それがやりたかったのね〜〜
嫉妬BLという人間ドラマはかなり好みだけど、それがこうして思弁的なテーマに綺麗に回収される(オチがつく)点はやっぱり苦手だ。それさえなければボルヘスを好きになれるんだけど、それを無くしたらボルヘスではなくなるだろう。
男と男の非対称な(殺し-殺され)関係がラストで入れ替わる話と捉えれば、前作「死人」も割りかし本作と似た主題だと整理できるのか。
戦士と囚われの女の物語
侵略対象だった都市に魅力されて寝返った「蛮人」の戦士男と、インディオに拉致されてすっかり「野蛮」な部族の一員となったイギリス女。
さすがにオリエンタリズム全開すぎないか? サイード以前とはいえ。
しかし二人はある秘められた衝動に、理性より遥かに深い衝動に突き動かされたのだ。 p.69
歴史上の2人を本質的に「同一」とする見方は無限反復説の範疇だ。
タデオ・イシドロ・クルスの生涯
(肝心な、啓示的な夜は未来に身を潜めて、彼をひたすら待っていた。彼がついに自分自身の顔を見る夜は。彼がついに自分自身の名前を聴く夜は。よくよく考えれば、その夜は彼の生涯を要約するものである。さらに言えば、その夜の一瞬、その夜の一つの行為がである。行為はすべて私たちを要約するものだから。) p.74
ここかっこいい
ポール・ヴァレリーの有名な雷雨の夜のエピソードっぽい。
またかよ!! 「お前は俺だ」をずっとやっている。そういう短編集
戦っていた相手に寝返るのは前篇から引き続き。
すばひびにこういうエンドあったなそういや
エンマ・ツンツ
自死に追い込まれた父の復讐を果たす19の娘。
倒叙ミステリ的な?
いちおう、セックスした相手の男を入れ替える(同一視する)という点で例の無限反復性っぽい要素はある。
ボルヘスって思弁的で抽象的な話ばっかなイメージあるけど、一方でわりとサスペンスも多いよな……
サスペンスと思弁を両立・融合している。
重大な出来事は時間の外にある。理由は、そのなかでは直前の過去は未来から切り離されているか、出来事を形づくる部分が一貫性があるとも思えないか、のいずれかだ。 p.81-82
は?
アステリオーンの家
語り手と「家」の正体が最後で種明かし(どんでん返し)される。ワンアイデアなんだよな〜 伏線系・ミステリ好きからしたら嬉しいんだろうけど……
今回は人物ではなく家の各構造が無限反復的であった。
家のすべての部分は何度も反復され、どの場所も別の場所である。 p.90
ここから迷宮を導いたのか
二六時中、閉じた眼と荒い息遣いによって眠ったふりを装うこともある。(時折、実際に眠ってしまう。また時折、眼を開けると空の色が変わっている)。 p.89
ここ好き おしゃれ
『紙葉の家』のファンサイトでも言及されていた。
もう一つの死
死に方が対照的なふたりのダミアンの謎を追う
そして彼のおぼろなイメージは消えた、水が水中に消えるように。 p.101
良い直喩
タイムリープ多世界分岐もの
SFミステリだなあ
ドイツ鎮魂曲
ナチズムはその本質において、道徳的行為である。 p.110
「虎を描くツェ・ヤン」と題したあの深遠な詩の多くの六脚韻を、私は今でもそらで繰り返すことができる。この詩は虎の縞模様に似ており、静かに横たわった虎たちがひしめき、駆け回っている。 p.111
すごい比喩
横たわっているのに駆け回っているんだ
この間も、めでたい戦いの大いなる昼と大いなる夜は私たちの頭上を巡っていた。私たちの呼吸している空気には、愛にも似たある感情が漂っていた。ふいに海辺に立ったときのように、血の沸き胸のおどる思いを味わった。当時はすべてが、夢の趣までが異なっていた。 p.112-113
エモい
ヒトラーは一つの国のために戦っていると信じたが、実はすべての国のために、攻撃し憎悪しているあの国々のために戦ったのだ。 p.115
いつもの「お前は俺だ」論理
なんだかなぁ
反-政治性という名の強靭な政治性
ひとつのテーマに沿った短編を集めているコンセプチュアルな作品集なのはわかるが、流石にワンパターンすぎないか?と思ってしまう。
アヴェロエスの探求
どゆこと?? 17世紀スペインの著述家アヴェロエスについて語っていたが、ラストで「私」が出てきて、物語る者と物語られる者との関係?に着地する。
アリストテレス著作のなかの「悲劇」と「喜劇」という単語について
これも歴史と人間の無限の繰り返しについて何か言おうとしてはいるようだが、よくわからない
ザーヒル
ある日、バーのお釣りで手渡されたザーヒル硬貨に取り憑かれて、そのことしか考えられなくなってしまった「私」=「ボルヘス」の話。
前半のザーヒルを手にする前のモデル、テオデリナ・ビジャルが死ぬまでを語るパートはどういう意味があったんだ。たぶん後半に繋がってるんだろうけど普通に読み落としている。
ほんま、よくこんな文章書けるな。うまいけど、難しいし好きじゃないんだよな〜〜
私はもはや宇宙を知覚せず、ザーヒルを知覚するだろう。 p.146
最後の最後でお決まりの無限反復論に回収されて草
全体は任意の最小単位の反復によって再構成できる、というある種数学的な世界観。
神の書跡
前篇「ザーヒル」の続編、あるいは対を成す作品。
「ザーヒル」が、ある個体にとらわれてそのなかに全体を見出す話だったのに対して、こちらははじめに神の言葉=全体を解読するという目的ありきで、身の回りの個体のなかから解読対象を選び出す。
しかも選んだのが虎なのも前篇と通じている。
ミステリめいてもいる。暗号解読
アベンハカン・エル・ボハリー、おのが迷宮に死す。
迷宮殺人ミステリー ちゃんと探偵役がいて解決される
要するに犯人と被害者の入れ替わりトリックってことか
お前は俺だ、をずーっとやっている。そして迷宮フェチ
時間内容じたいは素直なミステリだが、語り方が文学。とてもまだるっこしい
二人の王と二つの迷宮
※1 これは教区司祭が説教壇で披露した話である。一六二ページを参照のこと。 p.175
前短篇のなかに出てきた話=スピンオフ掌編だ! ここにきて遂に明示的に作品同士が繋がった。
内容は素朴な復讐譚・寓話
待ち受け
夢とサスペンス
追われている身の男が、殺されるのを夢に見て、夢見るように殺される。
門口の男
ビオイ=カサーレス!?
よく分からない イギリス統治下のインドで誘拐され殺された裁判官の男グランケアン
事件がかなり前なのか直近なのか矛盾した描写。門にいた老人男と、その話の中の「狂人」の関係は? 同一人物?
家と家とが異なることなどありえない。肝心なのは、その家が建てられているのが地獄か天国かを知ることだ。 p.193
巻末解説に "語られる時間と語る時間との時差がいつの間にか消失する「門口の男」" とある p.246
やっぱそういう仕掛けだったのか。あんまし驚けなかった
アレフ
私=ボルヘス
屋敷の地下室で見えるという〈アレフ〉。すべての点が同一の点を占めている球体?
一瞬のうちに見た〈アレフ〉のイメージの数ページにわたる羅列=大喜利。
あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た(子供のころの私は、閉じた本の文字たちが、夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないが不思議でならなかった)。 p.215
素敵な発想
うーむ、どういうことやらさっぱり分からず終わってしまった。地下室でみた〈アレフ〉は偽物だとかなんとか
語り手が慕っていたっぽい亡きベアトリスはどう繋がってくるんだ
内田兆史による解説
1940年代前半の『伝奇集』と、後半の『アレフ』との対比。文明と野蛮という二項をいずれも取り込んだ。作者自身を語り手にするなど、より血肉が通った普遍的な作品が増えている、と…… それでも私にはまだまだ「頭でっかち」に思えてしまった。
『伝奇集』でいちばん好きだとよく言っている「南部」ってあとから加えられたのかよ。時期的には『アレフ』に入ってもおかしくないらしい。
最初の「不死の人」がボルヘスの短編のなかで最長なんだ……
感想まとめ
やっぱりボルヘスが苦手だ!!!!
SFやミステリのファンがうまぶって褒めたくなるのは分かるが、わたしはどちらのジャンルも嫌い寄りなので……
ワンアイデアなんだよな~~~ 頭でっかち。そしてワンパターン。無限反復、全は一にして一は全、お前は俺だ、をずっとやっている。
文章もすげぇとは思うけど読みづらさが勝って、好きにはなれない。
同じアルゼンチンの短編作家コルタサルは、ワンアイデアでも文章がめっちゃ好きだし、衒学的ではないから。。
思弁的/頭でっかちといえば、大学生の頃に読んだヴァレリー『ムッシュー・テスト』とかも似ているのかなぁ。あれは大好きだった。今読んだら分からないけど。
強いて挙げれば、「神学者たち」と「神の書跡」が好きだった。
ラテンアメリカの短編集たち・・・・など
『近代能楽集』三島由紀夫(1956)
なんやかんやで、三島の本を一冊読み通せたのはこれが初めてです……
こっち↑の古いバージョンを、実家の母の本棚から抜き取ってきて読んだ
2025/9/3(水)~10/2(木)
・邯鄲(かんたん)
おもしろい
戯曲だと三島の緻密な地の文がほぼ無いため、小説より読み易い
菊も次郎も狂っている
夢の中で次々と不可思議な人物が登場する幻想的・シュルレアリスム的な話
次郎 (言下に)ううん、僕は女を愛したことも愛されたこともありはしない。
菊 そうすると失恋でもないんですねえ。
次郎 あはは、菊やって、馬鹿だなあ。 失恋なんかするやつは、子供さあ。 p.13
美女 あなたったら素直な女が好きなのね。ずいぶん古風でいらっしゃるのね。すこし抵抗のある女じゃなければ、おもしろくないでしょう。
次郎 うわあ、うるさい。きまり文句だ。
美女 あたくしの名前は、キマリというのよ。
次郎 そんな馬鹿な名前、きいたことがない。
美女 ごらんなさい、名前になればきまり文句もきまり文句じゃなくなるんだわ。
次郎 そんなの、洒落にもなりゃしない。
美女 あら、慄えてる。あなたの手が、そら、蝶々みたいに、……つかまえたげる。(次郎の両手をおのれの両掌の内に包む) つかまえた。さもなけりゃ、あなたの手があなたからとんでゆくとこだったわよ。
次郎 君は空想家だね。
美女 (狡猾に笑いて)あなたの真似をしているのよ。 p.23
次郎 だから、きらいなんだ、お酒は。
美女 だって今はそんなことを言ってるけど、十年たつとあなたは呑んべになるわ。
次郎 それは知ってる。でも十年さきにどうせ呑んべになるからって、今呑まなければならない理由がどこにあるんだ。
美女 理窟を云うとき、あなたの目はずいぶんかわいいわ。自分の理窟に自分で酔ってる目。
次郎 今君の目のなかをこわいものがとおりすぎた。
美女 こわいものって何が?
次郎 女の目のなかにはね、ときどき狼がとおりすぎるんだよ。
美女 おおかたシェパアドのまちがいだわ。
次郎 僕はちっとも君を好きじゃない。
美女 それでも半年あとにわたしたちは結婚するのよ。
次郎 僕はちっとも君を好きじゃない。
美女 好きでなくたって、わたしたちは遠からず結婚するのよ。 p.23
素晴らしいやりとり
・綾の鼓
面白かった。
やはり台詞の力が強い。名言をいくらでも書けるタイプ
マダム そのおじいさんのラヴレターが、今日でもう何十通、いえ、何百通なんですの。
戸山 別々のところへ出せば、一つぐらい当るのにね。
金子 君の説は一理あるよ。しかし恋愛が結局蓋然性の問題ならね、一人の女の中にある蓋然性は、無数の女の中にある蓋然性と同じものかもしれないよ。
藤間 その恋文は、お見せになりましたか? 奥さんに。
マダム お見せできるわけがないじゃございませんか、みんな私が櫛拭きに使いましたの。
戸山 櫛ってそんなに汚れるもんなの?
マダム 櫛って、うちの犬の櫛でございますよ。うちにはワイヤーヘアード・フォックステリヤが五匹居りますの。櫛で頭や背中を掻いてやると目を細くして喜びますの。
金子 恋と犬とはどっちが早く駆けるでしょう。
藤間 さてどっちが早く汚れるでしょう。
マダム まあ、洒落た殿方とお話していると、心がうきうきいたします。
「恋と犬とはどっちが早く駆けるでしょう」←なにかのコピーに使えそう
亡霊 だが儂はもう幻じゃない。生きているあいだ、儂は幻だった。今では儂の夢みたものだけが残っている。儂を失望させることはもう誰にもできない。
笑いなさい! 笑いなさい! いくらでも笑いなさい! ・・・・・・あんた方は笑いながら死ぬだろう。 笑いながら腐るだろう。儂はそうじゃない。(舞台奥の窓のほうへ歩む)......儂はそうじゃない。笑われた人間は死にはしない。笑われた人間は腐らない。
迫力がある名シーン
左右両側に建物を配置する舞台設計。最後飛び降りるのが右側の窓ではなく奥側の窓からだというのも良い。
映画『たまこラブストーリー』の元ネタ?……は、別の海外演劇
・卒塔婆小町
「俗悪」がキーワード
生甲斐? 冗談をおいいでないよ。こうして生きているのが、生甲斐じゃないか。私は人参がほしくて駈ける馬じゃあない。 p.93
しかしあんたみたいなとんちきは、どんな美人も年をとると醜女になるだろうとお思いだろう。ふふ、大まちがいだ。美人はいつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりゃあ醜い美人というだけだ。あんまりみんなから別嬪だと言われつけて、もう七八十年この方、私は自分が美しくない、いや自分が美人のほかのものだと思い直すのが、面倒事になっているのさ。
いいね
・葵の上
精神分析 性的コンプレックス、リビドォ ←時代を感じる。
六 それに気がつかなかったあなたが悪かったんだわ。あたくしの目が、とっくに誇りを失くしていたことがわからなかったの? 高飛車な物言いをするとき、女はいちばん誇りを失くしているんです。 女が女王さまに憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持っているからだわ。......ああ、この膝。あなたの膝は、冷たい、硬い、枕ね。
光 康子さん……。
六 この枕なら眠れるわ。冷たい、硬い、決して熱くならない枕。 ……あたくしの枕は、頭をつけるとすぐ熱くなるの。 あたくしの頭は枕の熱いところから、冷たいところへ逃げまわって夜を明かすの。沙漠の熱い砂の上を足で歩ける人も、あたくしの枕の上は歩けない。 p.121
すげ~・・・
六 あなたって、あなたのそばにいる女が、ふとあたくしじゃなかったら、ってお考えになることあって?
光 ないよ、別段。
六 どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでしょう。今あたくしはあなたの右側にいるわ。そうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。もし左側にいるとするわ。そうすると、あなたの右側の横顔はもう見えないの。
光 僕は気体になって、蒸発しちまうほかはないな。
六 そうなの。あなたの右側にいるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。そこに誰かがきっと坐るような気がするの。 p.127
最高
ああ、そんな風に仰ることはそれはお薬よ。傷口を立ちどころに癒してしまうお薬よ。すばらしいお薬よ。 でも……あなたって、わかっているわ、こういう方なの。薬をさきに下さって、傷をあとからお与えになるの。決してその逆はなさらない。まず薬、薬のあとで傷、そうして傷のあとでは、決して薬は下さらないの。 ……いいえ、あたくし、わかっているの。あたくしはもうおばあさんだわ。一度傷をうけたら、若い女のように恢復が早くないわ。あなたがやさしいことを言るたびに、あたくしおそろしさにふるえるの。こんなによく利くお薬のあとでは、どんなにひどい傷が待っているだろうかと。 このごろではあたくし、あなたがやさしくない物の言い方をなさるほうがうれしいの。
台詞キレッキレだ
『源氏物語』を知っていればより楽しめるのだろう
下手側からいきなり白いヨットが出てきて病室のベッドを覆い隠す場面転換が演劇ならではって感じで良い
・班女(はんじょ)
四十歳で「老女」かあ
ヘテロ百合三角関係だ
あの人の不幸は美しくて、完全無欠です。誰もあの人の不幸に手出しをすることはできません。 p.144
異性愛に同性愛が打ち勝つ話でうれしい
・道成寺
クソデカい箪笥のオークション。踊り子が乱入して品物がいわく付きであることを明かす。
大道具の活用
恋人の男を喪った女が、自身の美しい「顔」のままに生きていくことを受け入れられるようになる話
・熊野
「第四の壁」が原義のベタフィクションの意で使われてるとこ初めて見たかも
50代実業家の宗盛はクソ男だけど台詞にキレがある。
楽しみというのは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでいる。その輝やく声、そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立って、出かけて行かなくちゃならんのだ。 p.190
どうしてそんなに自分の感情を大切にするんだ、ユヤ。それは一種の病気だよ。 p.191
ふたりの対照的な掛け合いがすごい
うわー 終盤で盤面がひっくり返って真偽の位相がしっちゃかめっちゃかになった。
「女は嘘つきで悪どい」というミソジニーのステロタイプとはいえ、ちゃんと名作の風格があってなかなかに面白い。この戯曲集および三島の作品はだいたいそうなんだろうな。
・弱法師(よろぼし)
視覚障害者を超然とした「狂人」に位置づける、非常にナイーブな設定ではあるが、やはりこういうキャラの台詞回しが上手い。
何だって言葉なんか喋るんです。黙っているか、泣いているか、どちらかにしなさい。あなたのそんなきれいな声が、言葉なんか喋ったら台なしだ。 p.212
これが僕の形でなんかありはしない。地球のおもてのいたるところの凸凹の、そのつづきの凸凹にすぎないんだ。 p.214
「狂った」哀れな男が、最終的には、より懐の深い女に包まれて支配される構図の話はこれで何作目だろう
おわり!
けっこう面白かった。三島の装飾的で文学センス抜群のお堅い文体には苦手意識があるが、戯曲だとそういう地の文がなくて、キレッキレの台詞回しだけを楽しめるので、読み易いし自分に向いていた。三島は戯曲から入門するのがいいのかもしれない。
どの作品も基本的に「女」というものを愛に狂っていたり悪どかったりと異化して描いているが、そうしたミソジニーを簡単に一蹴できないほどの風格があった(曖昧な表現)。やはり真の右翼的知性を学ぶために三島はちゃんと読んでいきたいなぁと思った。
『紙葉の家』マーク・Z・ダニエレブスキー(2000)
嶋田洋一 訳
……ああ、いや、何の話だっけ? ホラーだけどホラーじゃなく、むしろ悲哀の話?
20世紀のアメリカ文学を締めくくる超実験的な「奇書」として海外文学好きに広く知られながらも、絶版で価格高騰しているため入手困難な『紙葉の家』(House of Leaves)を読んだので、感想を書きます。
きっかけ
もともと『紙葉の家』の存在や評判は知っていましたが、入手困難だし、「奇書」をありがたがるフェイズはしょーじき卒業したし……と思って読んでいませんでした。
そんな本書に手を出すきっかけは、友人たちと雑談していて「今流行りのモダンホラーやモキュメンタリー、リミナルスペース、SCPなどの源流のひとつが『紙葉の家』らしい」と聞いたためです。
わたしはホラーもリミナルスペースもそんなに興味はないので半身で聴いていたところに、突如、名前だけは知っている文学作品が話題に上がって繫がりが見えたため、がぜん興味を抱きました。
さいきん邦訳が出版された『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』というカルチャー解説本のなかでも、『紙葉の家』にかなり紙幅が割かれているようです。
映画化までしたゲーム「8番出口」も、遡れば『紙葉の家』の影響下にあるといえるかもしれません。
その後、読んでいたボルヘス『アレフ』のいち短編について検索していたら、やはり『紙葉の家』を研究するファンサイトに遭遇したこともあり(また紙葉の家お前かよ!)、読む機運が高まっている天の啓示を感じました。
そこで、地域の市立図書館で調べてみたところ、利用可能だったためすぐに借りて、ひと月かけて、返却期限ギリギリでなんとか読み終えました。
買おうとすると数万円は下らないため、読みたいだけならば図書館で借りて読むのがオススメです。
以下、「感想まとめ」そして「感想メモ」の順番で載せます。
とうぜんネタバレを含みます。
感想まとめ
まぁまぁ面白かった!
が、めちゃくちゃ面白かったか、好きだったかと問われると首肯できない。わたしの尊敬する人々はみんな絶賛しているので、単にわたしの好みがねじ曲がっているか、本書を深く味わう技能に欠けているということだろう。
たしかに前衛実験性はある。めちゃくちゃある。……のだが、それよりも「20世紀アメリカの伝統的なポストモダン文学の正統後継者/優等生」だなぁというのが読後の第一印象。
というのも、何重もの入れ子構造や円環構造を成すメタメタフィクションや、文字が縦横無尽にページを走りまわるタイポグラフィ表現など、表層はヤバそうだが、肝心の物語内容は、アメリカの家族の崩壊と再生! 夫婦や母息子の絆!……などと、アメリカ文学で死ぬほど見たことをド直球にやっていたからだ。
最後の母親からの書簡ラッシュなど、こんなにも感傷的でエモーショナルでいいの!?と思うくらいだ。『鬼滅の刃』の回想シーンかと思った。
ジョニー・トルーアントという男の錯乱した一人称の語り(どれだけ酒やドラッグをきめて、どれだけ女と寝たか)や、本文よりも長い注釈芸なんかも、はいはい現代アメリカ文学でよくあるやつ……という。
ゆえに、見かけ上のヤバさに比して、実際の文学的な革新性はあまり感じられなかった。堂々とベタをやっていて、高い完成度で成功はしているものの、それゆえにあんまり面白みもない。ピンチョンやギャディス、レサマ=リマとかのほうがずっと凄いし面白いと私は思う。
とはいえ、文章はふつうに上手いし、小説を読んでて、次はどこを読めばいいのか「道に迷った」体験は初めてだったし、『ネイヴィッドソン記録』の冒険ホラーパートは素直にワクワクした。ホラー小説というより、冒険小説の面白さがあった。(しかし、家のなかからは一歩も出ない「冒険」なのだが……。『ナルニア』フォロワーともいえる)
タイトル通り、不思議な〈家〉を主題とした小説だが、その意味するところは、家の建築的な側面のみならず、〈家族〉にまで至る。
ジョニーの親子関係がひとつの中心要素であり、ここはお互いに巨大感情がエグいため、マザコン文学好きにはおすすめしたい。
本質的には、家族の話がしたいから、家についてのホラー小説の体裁をとったのだといえる。
リビングから無限に続く暗黒の迷宮……という設定からは、いかに現代(アメリカ)人にとって「家族」というものが重く深く暗く根深い問題であるか、を思い知らされる。
こう考えると、まさしく王道のアメリカ・ポストモダン文学をやっている。
ただ、それゆえに、というべきか、夫婦の話を扱う際に、夫ウィルを冒険好きで未知を科学的に探究して解明することをやめられない男性として描き、逆に妻カレンは冒険したがらず「家」に籠って、風水などのスピリチュアルに頼りながら子供を見守りながら夫の帰りを待つ女性にする、というジェンダー・ステレオタイプをそのまんま踏襲した構図だったのがかなり嫌だった。そこまで「ベタ」というか、性差別的な設定にするしかなかったのかぁ、と。
(ただし、マザコン的な主題にも関連して、著者はかなり自覚的に、わざとこうした保守的な要素を必然的に選び取って描いているのだとも思う……ので、複雑な心境になる)
・ケア労働/在宅ワーク小説
女(妻)は「家」に籠って夫の帰りを待つ……といっても、では男は「家の外」へと出かけるのかといったら違って、むしろ「家の中」の、より奥深くへと冒険に出かけていく構図になるのが、本作の設定の見事なところだ。「男は外/女は内」というジェンダー差別的な構図をパロディして異化している、とも読めるのである。
実際、迷宮へと続く冒険の入り口は家のリビング(=中心部)に存在する。そのため、リビングは「家」のもっとも内側でありながら、「外」へ向かう冒険の前線基地でもある、というアンビバレントな状況になっている。小学生の子どもの悩みに父親が寄り添おうとするのを、仕事仲間が冒険のしたくの邪魔だと一蹴する描写は印象的だった。なぜなら、家庭外の「仕事」と家庭内の育児という「ケア労働」とがひとつの場で同時に起こることでコンフリクトを生んでいる、と読めるからだ。
こうした描写は、現代のケア労働に関する議論にも十分に繋げられるし、あるいは在宅勤務中に仕事部屋に子供が入ってくる──というようなシチュエーションも連想させて非常に興味深い。その意味でも、刊行から25年が経ったいま読まれるべきアクチュアルな小説だと思う。
本作のなかでも、『ネイヴィッドソン記録』へのジェンダー批評的な分析・解釈がいっぱい語られているのが引用されていた。これらはいわばパロディであり、それなりに面白いが、雑だな~薄っぺらいな~~とも思った。精神分析やその他いろいろ、全方位の学者や批評家・コメンテーターを茶化して諷刺していた。
・映像と文章
「外側より内側の長さのほうが長い家」「無限に続く廊下」というアイデアはキャッチーで魅力的だが、本作が単なる怪奇ホラー小説の枠に収まらず、現在まで多大な影響を与えているのは、その間メディア性/メタフィクション性ゆえだろう。
本作の大半を占めるのは、ピュリッツァー賞をも受賞したフォトジャーナリスト、ウィル・ネイヴィッドソンが撮って編集した『ネイヴィッドソン記録』という映像作品(についてザンパノが資料収集してまとめた文書『ネイヴィッドソン記録』)だ。
つまり、「起こっていること」を小説のベタレベルでそのまま描くのではなく、まず、それを無数のカメラで「撮ったもの」という映像の階層を持ち込む。そしてさらに、いちど映像メディアで作品化しているものを、無数の学者やインタビュイーが論じたり語ったりした「文書を編纂したもの」というテキスト(文字)の階層で包んだものが、本書の本文として提示されている。
この時点でかなり特異な構造になっている。本作はいわば「映画評論の体裁をとった小説」として読めるからだ。登場人物が~~をした、という形ではなくて、「映像のなかで登場人物が~~をした、ということが○○によって~~という風に論じられている」というややこしい構造だ。
じっさい、ザンパノの『ネイヴィッドソン記録』の文体は、映像内の出来事をそのまま語るよりも、それをひとつの「映像作品」としてみて、ネイヴィッドソンの卓越したカメラ技術によってどのように撮られており、それがどのような効果を生んでいるか、という批評的な目線での語りに寄っている。
ゆえに本書は「映画小説」のひとつのアイデアとしてなかなか面白い。
映像メディアと文章メディアの関係を主題としている、と読めるからだ。(本作が映画化できない/させていないのは、おそらくそれが理由だろう。いくら映像が大事な作品だからといっても、映像そのものではなく、映像についての文字での語りが必須の文学作品だからだ)
ちなみに、こうした階層構造を根底で支えているのは、不可思議な家の設定ではなくて、ネイヴィッドソンが家に引っ越してきてから各部屋に設置して常時起動し続けている「ハイ8」というビデオカメラだと思う。
現代でいえば、定点カメラとか、あるいはGo Proのような持ち運べるアクションカメラの用途を兼ねているものだと認識している。このハイ8によって『ネイヴィッドソン記録』の大半の映像が撮られているため、90年代当時の先端の技術が大活躍している、という意味でもポストモダン文学を地で行っている。
・こんな人にオススメ
モキュメンタリーホラー、都市伝説やリミナルスペースなどの現代サブカルチャーに興味がある人は、読んで損はないと思います。
いわゆる「考察」系作品好きも楽しめると思います。
現代アメリカのポストモダン文学好きも、もちろん読むべきです(そういう人はもうとっくに読んでるのでしょうけれど)
わたしは久しぶりに現代アメリカ長編を読んで疲れたので、しばらくこういうのはもう、いいかな・・・・
最後に、わたしが本書でいちばん笑ったところを挙げます。
作中ではいろんな実在する著名人(作家や哲学者、映画監督など)が登場して、「それっぽい」発言をさせられているのですが、スティーブン・キングやデリダ、ポール・オースター、キューブリック、スティーブ・ウォズニアックなどと並んで、ダグラス・ホフスタッターが出てきたのに爆笑しました。・・・いや確かに本書に登場するのにめっちゃ相応しいけど!!
無限パターンに関するそれっぽいうっっっすいことを言わされていて笑うとともに「やっぱこの人ってこういうところでいじられるポジションなんだ~~」と納得しました。
感想メモ
25/10/12(日)
読み始めた。
文体は典型的な現代アメリカ小説のそれ。ボルヘスとかより遥かに読み易い。
入れ子的なメタフィクション構成は王道のポストモダン文学。
ただ皮肉なのは、この本の中心にあるドキュメンタリーがフィクションだって事実に変わりはない点だ。ザンパノは最初から、何が本当で何が本当じゃないかってことが、ここでは関係ないのを知ってたんだ。結果は同じなんだから。 p.xxi
①48歳のカメラマン男性ウィル・ネイヴィッドソンが撮ったホームビデオ=『ネイヴィッドソン記録』
②それを謎の老人男ザンパノが(でっち上げて?)書物の形式にまとめ上げた『ネイヴィッドソン記録』
③それを、ザンパノの死後に彼の家から見つけ出して編纂したのがジョニー・トルーアントという男
という、少なくとも三重の入れ子構造になっている設定。
ジョニー・トルーアントの注釈の脱線自分語りがおもしれ〜 パンチング・バッグと極楽鳥の話とか。
4章まで。
4日間出掛けているあいだに、謎のスペースが寝室の隣に出現している。そのせいか、家の内側から測った長さが、外側から測った長さよりも1/4インチ長いという不可思議なことに。
さらに、どんどんと謎スペースが拡大している?
家の不条理文学といえば、コルタサル「占拠された屋敷」だなぁ
外から見ると何もないが、内側からはその先に空間が伸びているトマソン的な扉といえば、『雪子の国』のだいだい屋敷だ。
今のところ、『ネイヴィッドソン記録』本文のネイヴィッドソンらのゴシックホラーっぽい本筋も、長い注釈の中で展開されるジョニー・トルーアントの語る筋も、なかなか興味深い。
トルーアントの語りの文章がなかなかいい。
5章から
ジョニーの注釈芸での饒舌な語りが本気出してきた。かなりトリップしていて意味が掴めない。
ネイヴィッドソン記録の"エコー"を導くためだけに長々とエコーの神話的/科学的な解説を前置きする構成。
タトゥー見習いジョニー・トルーアントが惚れている6歳年上のストリッパーの呼称「サンパー」って、日本語名だと「とんすけ」なんだ。
『バンビ』に出てくる兎
ネイヴィッドソンが深夜にこっそり、あの廊下を探検して道に迷い、真っ暗で巨大な空間に行き当たったのと響き合う(エコーする)ように、ザンパノの原注で写真家の名前が数ページに渡って延々と列挙される。注釈そのものが果てのない空間のようだ。
本/小説という形式にいかに迷路性を持ち込むか、という試み。
5章の長い注釈と6章
編者注でもつっこまれているように、ジョニーの語りはかなり錯綜している。アメリカ文学のお作法
犬や猫は、ネイヴィッドソンの家の廊下に入ることができない(入っても外に抜けてしまう)のか。人間だけの精神的なものに関わってるということか
7章〜
登山家の男ホロウェイとその助手ふたりが家に到着、何度も探検を試みる。
ネイヴィッドソンは、妻カレンがホロウェイに浮気をしていることを不安に感じて嫉妬しながら、廊下の調査でもホロウェイに実権を握られたことを悔しがる。
有り得ない家という非現実ホラー要素そのものではなく、明らかにそれを〈家〉の問題として抽象化して、夫婦関係の破綻や男同士の権力闘争などを描こうとしている。雑なジェンダー批評のようなものも引用で繰り広げられていて笑える。
しかしながら、不倫したり風水に頼ったりする妻と、未知への探検・科学的調査の指揮をとりたい夫という図式はステロタイプをなぞっているのも確かだ。
夫婦や家庭の不和・綻びが主題という点まで非常にオーソドックスな(現代)アメリカ文学だといえる。
彼にとってあの家は、世間からの認知を約束するものと映っているのだ。 p.109
ホロウェイもウィル・ネイヴィッドソンも、この家を自分が世間で評価されるための道具として認識しているのが滑稽ながら生々しい。
ホロウェイのほうはこうした家庭内の緊張やそれにともなうストレスで探検の準備を邪魔されるのが許せなかった。 p.109
ウィルの息子チャドが学校でいじめられているらしくて父らが心配するのを、ホロウェイが探検の邪魔だと疎ましく思うさまはなかなか興味深い。ふつう登山など探検する場所は、こうした育児・ケアの場である〈家〉からかけ離れた、対照的な空間である。
しかし、いまはその家そのものが不可思議かつ無限の広さを持った得体の知れない空間となっているがゆえに、両極が繋がって重なり合っており、こうした不和が生じることになる。
夫の出航(出征)を港=家で見送って待つ妻、のような構図をうまくいじって異化しているといえる。
本文と原注を章末までまず読んでから、クソ長いトルーアントの注釈語りを読むことにする。
トルーアント25歳なんかい!!
家の壁から響くSOSと、ネイヴィッドソン記録のカット割りそのもののSOS的な編集の重ね合わせ。さらに、それを語るザンパノの文章もが謎のモールス信号によって切り分けられ、SOSを作り出している。そのメタメディア性への強いこだわり。
9章
トルーアントのエッチな女性遍歴は続く。タチアナに見抜きさせてもらった体験は妄想なのか本当なのか
ホロウェイ達はいちおう長い螺旋階段の底についたのか。そして「迷宮」に入って迷い込んでしまったと。ミノタウロスの伝説に関する解釈の注釈。
本文で迷路が取り上げられるのに伴って、いよいよ紙面そのものがタイポグラフィの本領を発揮して迷路じみてくる。どの順序で読んでいけばいいのか全く分からない。迷う。読書中に迷宮入りするというなかなかない体験をさせてもらえる。
列挙で異様なタイポグラフィページの文字数をかせいでるのか〜
「家」にない家具や設備を並べていく、ページの真ん中の四角い枠。裏側はまるで文字が透けたように鏡対照に印刷されている。
延々と数十ページに渡って列挙される、ネイヴィッドソンの家とは "似ていない" 世界中の建築のなかに、日本のものも含まれている。つくばセンタービル、広島市現代美術館、帝国ホテルなど。
返す刀で建築家を列挙しながらページが巻き戻るのか…… 本を逆さまにした
食糧場所を荒らした謎のうなり声の主を狩ろうとホロウェイが狂って、助手ふたりに置いてかれてしまった。なるほど〜そうなるのか……
「何だか気味が悪いぜ」長い登りの途中でワックスがつぶやく。「何かについて考えるのをやめると、そいつが消えてくみたいなんだ。ポケットのジッパーのことを忘れると、それがなくなる。ここには当然だってものが一つもない」 p.151
ひょえ〜…… 怪奇探検小説だ
うわー…… 錯乱したホロウェイが、なぜかワックスらに合流してライフル誤射してしまう。その後は積極的にふたりを狙って追い続ける…… 怖ぇ〜 ジェドは健気だしワックスは可哀想だし……。味方が敵になる展開がいっちゃん絶望的で怖いからな
『ネイヴィッドソン記録』が本物のドキュメンタリー映像なのか、デジタル加工の産物なのか。これはAI生成技術が躍進する現代ではますますホットなトピックか
p.179 クストリッツァ『アンダーグラウンド』の前にカンヌ受賞していたという、実在の殺人を撮った猟奇映画は架空のものらしくてよかった〜
10章
現実の世界と違い、家の中でのネイヴィッドソンの行程は、比喩的のみならず文字どおりに短縮されたのだ。 p.200
10章に入り、ページあたりの文字数が極端に減った。スイスイ読める。
作中でホロウェイらを助けに廊下へ入ったネイヴィッドソンが、わずか5分で階段の底に到達してしまったことと、明らかに対応している。
伸び縮みする家=本。
p.211〜
ジェドが頭を銃弾で撃ち抜かれるところで、スローモーション的に、もっともページあたりの文字数が少なくなる。次々とドアが閉まっていくのと、読者がページをめくる動作が重ね合わされてもいるか。
これ、よく縦書きで翻訳したなぁと思う。というか原書はどうなってるんだ。横書きだと、縦書きほどタイポグラフィによる一方向の運動性を持たせにくい気がするが。(左ページ下から右ページ上へとジグザグに戻る軌跡になってしまうので)
彼の生命が自分の言葉の行間に滑り落ちていってちまったのが悔やまれる。 p.280注釈
ウィルとトムの双子をヤコブとエサウに喩える論考を紹介した後、いきなり「トムの物語」が始まった。真っ暗な地下空洞のなかにひとり何日も取り残されて通信中継拠点となっているトムが、ひとりで滑稽話をカメラにしているさま。
p.298〜
でもその胸は、それだけで一つの物語だった。巨大だなんて表現じゃとても足りない。DDDカップ、その食塩水の袋には一つの海が丸ごと入ってるみたいだ。左は紅海、右は死海。一たび嵐があれば沿岸の街をごっそりさらってくだろうし、内陸の村だって保証の限りじゃない。 p.299下 注
笑った
犬が死にます 可哀想に
トムやるやん!
あーあぁ…… ほんとに伸び縮みしまくるんだな。もはや物理的な実体/実態があるビックリハウスだ。
今のところおれの唯一の推進力となってるのは、『ネイヴィッドソン記録』を仕上げたいって、いささか場違いな情熱だ。あの家の謎が解ければ、おれの問題も解決すると思ってるのかもしれない。だがもしそうだとすると、そうじゃなくても不思議はないけど、答えがわかったときには問いそのものが消滅してることになる。 p.331下 注
もはやしばらく前から、トルーアントの注釈パートが本編の進行を遅らせる最大の障壁と化している。はやく本編読み進めたいが…… 戻ってきてあとで読み返す気もしないだろうから、いま片付けるしかない。
フォークナー、ケルアック、ブコウスキー?などの、フランクな語り口の男が管を巻く系譜(適当)
何千何万の猫の前足がそれを予見して、その反射が空の蒼穹に第二の影を映して……〈暴虐〉はその秘密の積み荷とともに失われ……しぃぃぃぃぃぃぃ……誰が知ってるはずがある、その第二船倉の空気溜まりのことを? p.333下注
……ああ、いや、何の話だっけ? ホラーだけどホラーじゃなく、むしろ悲哀の話? p.334下注
結局なんの話だったんだ…… ジョニーの妄想? 実際の過去じゃあないよね?
13章
ボルヘスの引用!
p.347〜 ネイヴィ帰還した〜! まぁ後のインタビューとかやってるから生きてはいると分かってたけど。
それまでずっと、おれは自分の喧嘩っ早い性格を勇敢さだと勘違いして、たとえ自分が十三歳で相手が海兵隊上がりの怪物でも、頭から突っ込んでくのが気高いことだと思い違いしてた。怒りもまた恐怖を隠す一つの形だってことに気がついてなかったんだ。本当の勇気ってのは恐怖を受け入れて、相手を恐怖し、本当に恐怖して、それをもっとずっと勇敢な選択に振り向けることだった。 p.363注上
『BLEACH』の東仙の持論の元ネタだ
このレイモンドがジョニーの父親で、そこから逃げ出してティーンエイジャーが単身アラスカへ行ったのね。寄宿学校
ある瞬間、急にすべてがありえないほど遠く混乱して感じられ、おれの自意識は非現実化し、非人格化し、見当識喪失がはなはだしくて、おれは信じ込む──つまり、ザンパノの作品と強く結びついてるってこの恐ろしい感覚は、一つのありえないことを暗示してるんじゃないかって。何をかと言えば、それがおれを作ったってことをだ。おれからそれへじゃなく、それからおれへ。 p.364注上
まぁこれだけ病んで錯乱してればこういう発想になるよね。メタ的にも妥当
ホロウェイの持っていたカメラの内容に関する、識者のいろんな考察(ホロウェイは鬱傾向にあり自殺願望があった説)について。焦げつきによる欠落が多く非常に読みにくい。
一見、いろいろとやりたい放題だけど、作品における「真実」の設定自体はある程度カッチリ決まっている感じはまさしく『響きと怒り』を思い出す。20世紀アメリカ文学の正統後継作。
p.370〜
ホロウェイ・テープのラスト、第十三部で彼が自死したあと、その亡骸を怪物的な闇?が呑み込んだように見えることについて。
ザンパノは監禁されてるけど、どこにだか聞いたらきっとびっくりするだろう。おれの中にだ。 p.378注下
トルーアントがザンパノに囚われているのか、その逆なのか。
《脱出》
遂に家そのものが大きく動いて中の住人を脅かす。めちゃくちゃだ。アッシャー家の崩壊。
ネイヴィッドソンが超人的。SASUKEのクリフハンガーみたいなことしてない?
トムーーー!!!! ハリウッド映画並のアクションシーンとドラマティックな最期だ。
じっさい、映像(映画)と文章(小説)の関係についての作品ではある。嗚呼アメリカン・ポストモダン文学!
14章
カレンがニューヨークでしていた、若い男性俳優ファウラーとの不倫疑惑について。
自分で満足してるものが、そもそもの最初からなければよかったと急に思っちまうんだ。それでめちゃくちゃになる。あの女もそうだった。めちゃくちゃになって、でもやっぱり亭主がいないとだめなんだ。まあこの手の話はいつもそうだけど、気がついたときにはもう亭主はいなくなってるのさ。 p.396
ファウラー談
急に思っちゃうのわかる〜
p.395注の、トルーアントの母の形見(鹿型のロケット)の話、ベタに泣けるなぁ
マザコン文学でもあるのか?
15章
トムの死後、カレンは子ども2人を連れてニューヨークに逃避したが、夫ウィル・ネイヴィッドソンはレストンと共にあの家に残って実験を続けている。のか〜…… ほんま男どもは……ってこと? 『サマーウォーズ』的な
でも大量の映像をカレンが編集してるのね。それは嫌じゃないんだ。技能もあるんだ。
カレンがその編集した映像をいろんな人に見せて感想を訊いた「部分的聞き書き」が始まった。
ダグラス・ホフスタッター出てきて草wwww 現実に存在する著名人を平気で登場さすな。ふざけまくっている
『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を雑に引いた、それっぽい「言いそうなこと」を創作している。
哲学や精神分析やジェンダー批評とかのパロディも多いけど、表層的で薄いな〜 ちょっと面白いには面白いけど。
インタビュー集形式の小説ということで、『野生の探偵たち』とは読み比べたい。ボラーニョも半分アメリカ文学みたいなもんだし
p.404 番人(キーパー)=家政婦(ハウスキーパー)という掛け言葉
スティーヴン・キングやスティーヴ・ウォズニアックまで登場。2000年はもうAppleがかなり覇権を握りかけていた頃だっけか
デリダやキューブリック、ハロルド・ブルームまで。キューブリックに勝手に絶賛させている。
もしわたしでなかったら、あなたに映画の才能はないと言っていたかもしれない。これはすべて実際にあったことだと思う。 p.414
カレンが次に制作した6分間の映像。ウィルがこれまで撮ってきた写真を散りばめた、愛する夫に、彼への己の感情に迫ろうとする16ミリ映画。
そして個人史が爆発する。 p.419
ここからのくだりは、ザンパノの三人称の筆致だがかなりエモーショナルだ。
ネイヴィッドソンは風景を撮らない。人間が何よりも重要だったからだ。 p.419
だが画面はそれを追ってはいない。露光が強すぎて、三人は爆発する光の中へと溶けていく。 p.420
この短篇を作るのに必要な勤勉さと忍耐と訓練と時間のかかる調査──百回を軽く越える編集作業をしているのだ──によって、カレンははじめてネイヴィッドソンを、彼女の個人的な恐怖の投影物以外のものとして見ることができた。 p.420
p.421 うおお〜 時々ネイヴィッドソンが口にしていた「デリアル」という人名の謎もここで回収してきた! しかも実在のピュリッツァー賞写真(ケヴィン・カーターのハゲワシの写真)をフィクションで乗っ取る形で。
なんかこれで終わっていいんじゃない?というくらいにはいきなり前向きで感動的な感じになった。ここから続くの怖いな〜
p.422〜
16章〜
もうテレビ番組やナショナルジオグラフィック雑誌に連絡して取材してもらおう、我々の手には余る、と諦めたレストンと乾杯した直後、ネイヴィッドソンはひとりであの家へ戻って行方不明になる。
なぜからが戻ったのか、3つの仮説(基準)が解説される。
神は家なんだ。ぼくたちの家が神の住む家だとか、神の持ち物だとか言ってるわけじゃない。家自体が神そのものなんだ。 p.445
妻カレンに宛てた手紙より。
p.449〜
ネイヴィッドソンの大冒険 依然として、ページのタイポグラフィと家のなかの空間がリンクしている。すいすい読み進められる。
『紙葉の家』という本をネイヴィッドソンが持参してきて、虚空のなかで読み始めた。メタフィクション。『百年の孤独』?
マッチで火を灯して、本のページを燃やして灯にしながら読み進める。スリリングな展開
21章
p.555〜
トルーアントの語りが本文に来た。あれでザンパノの『ネイヴィッドソン記録』は終わったってことか。
悪友ルードが薬で狂って交通事故死したらしい。
完全にトルーアントも錯乱している。信頼できない語り手
その日記は半年前に遡り、ネイヴィッドソンの家があるヴァージニア州一帯を見に行き、母がいた施設や前に住んでいた家の跡地を訪れる。マザコン文学。めちゃくちゃノスタルジックで感傷的。
「10月30日」……今日じゃん!
p.580 アリゾナ州フラッグスタッフのバーで演奏していたバンドから、『紙葉の家』を渡される。トルーアント自身が関わっているものを。
……どゆこと? いつのまにか出版社に持ち込んでたってこと?
また母親との描写。エモーショナル!
チアノーゼで亡くなった赤ん坊と、4日間ずっと寄り添って歌い続けた母親の話。てっきりジョニー・トルーアントのことかと思ったが、どゆこと? 母の愛に関する挿話を塗り重ねている?
22、23章
カレンがあの廊下に初めて踏み込んで、ネイヴィッドソンを救い出した!
うおおお アメリカ家族の崩壊と再生!!
最後はハロウィーンか〜 ちょうど明日だ
10/31(金) p.612〜
付録
ペリカン詩は流し読みで飛ばした
ジョニー・トルーアントの母から届く手紙の数々。息子への愛がものすごい。むせかえりそうなほど。
精神を患っており、かつて息子の首を絞めて殺しかけたことで、夫に精神療養施設へと入れられた。
単語の一文字目を繋いで読む暗号。よう翻訳したなぁ 新しい院長先生に疎まれて、みんなに夜な夜なレイプされていることを訴える救援の暗号だったが、本人が錯乱して妄想していただけだったらしい。院長も変わっていない。
59歳で自死。かなしい
ジョニーは1971年ごろの生まれのようだ。彼の人生が間接的になんとなく把握はできた。
11/1(土) p.741〜
残りの付録も読み終えた!
それ以外の細かい点でも、たとえば別バージョンとして、単色刷りで索引や付属書のない版や、逆に赤や紫まで使った "フルカラー・バージョン" もあり得るという設定になっていますが、実際にはもちろんそんな本は出ていません。 訳者あとがき
えっ そうなの!? 最初のほうのページに書いてた、4バージョンあるというやつ…… 騙された~~
長ぇ廊下が出てくる繫がり……(こちらはミステリなのでちゃんと理屈付けされる)
『四つ子ぐらし (1)~(8)』ひのひまり(2018~)
以前の記事↑で読みたいと言っていた、今の小学生に大人気のシリーズ『四つ子ぐらし』を8巻まで読みました。
児童文学に MV がある時代……!
ボイスドラマがある時代……!
あらすじ
私、宮美(みやび)三風(みふ)。
両親も親戚もいなくって、ひとりぼっちの小学校6年生……だと、12年間ずっと思っていたのに!
なんとある日、四つ子だったことがわかったの!!!!
顔も声もまったく同じ女の子、 一花ちゃん、二鳥ちゃん、四月ちゃん。
それぞれ別の場所で孤独に育った私たちは、これから四人、一つ屋根の下で暮らすことになった。
だけど、四つ子だけの生活は、大混乱!
その上、育ってきた環境の違いが思わぬすれ違いを生んで…?
みんな同じで、みんな違う! キュートな姉妹生活、始まります!
あらすじの時点で、この跳ねるような一人称の文体がたまりませんね
2018年に刊行が始まり、2025年7月末時点で21巻まで出ている人気シリーズです。とりあえず8巻まで読んだので、各巻の感想を載せます。
- 1巻 「ひみつの姉妹生活、スタート!」
- 2巻 「三つ子探偵、一花ちゃんを追う!」
- 3巻 「学校生活はウワサだらけ!」
- 4巻 「再会の遊園地」
- 5巻 上「初恋の人の正体」
- 5巻 下 「お母さんとペンダントのひみつ」
- 6巻 「夏のキャンプは恋の予感」
- 7巻 「嵐の日は大さわぎ!」
- 8巻 「新学期は事件がいっぱい!」
- まとめ
※ネタバレ注意
1巻 「ひみつの姉妹生活、スタート!」
児童文学特有の、倫理観が激ヤバな大人や制度を背景として、それぞれ別々に育てられた四つ子が出会い、子どもだけで共同生活をはじめる話。
これまで家族を持てなかった子どもの「家族」や「姉妹」への憧れや執着が、この一巻では描かれる。
平たくいえば直球の姉妹百合モノ。本巻の時点では一花と二鳥のペア、三風と四月のペアが推されていた。
同い年なんだから姉とか妹とかにそんなにこだわらなくてもいいのに……とも思うけれど、それも、これまで与えられていなかった家族関係を取り戻そうと切実にやっているのだろう。
女児向けならではの、あまりにも理想化された美少年キャラとのヘテロ恋愛の萌芽要素は、ヘテロ成人男性からすると爆笑してしまった。キュンキュンもするけど。。
あまりにもヤバすぎるお母さん(?)の正体は、実の母も双子か四つ子かで、その姉妹(つまり主人公たちの叔母)ではないかと予想。
孤児の中学生たちを集めて子どもだけで共同生活させるのが国のプロジェクトとして進行してる設定じたいが大人からすれば仰天してしまうが、本来の読者たる子ども視点に立てば、子どもたちだけでの暮らしなんてワクワクするだろう。それを脅かす大人(家族)が現れるところからも、子どもvs大人、という児童文学の黄金の二項対立に則っているのがわかる。
2巻 「三つ子探偵、一花ちゃんを追う!」
四つ子設定を生かした姉の尾行プロットが面白かった。途中から三手に分かれてそれぞれが一花と顔を間違えられて色々ある。
本巻の主題は一花の「ほんとうのわたし」を問うことだと考えると、その過程で四つ子であること(交換可能性)を利用しまくっているのはある意味皮肉でおもしろい。
最後の一花の本音の吐露には号泣した。
またその前の、大切な人の入院でナイーブになり、これから自分たちだけで生きていけるだろうかと一花が悩むくだりは、あまりに切実で胸が痛んだ。これが「自立」を求めるネオリベラリズム社会の末路か……と。
だけど、病院からの帰り道……一人になったら、急にこわくなったの。
そりゃ、社会はきびしい、自立はむずかしいって私、わかってるつもりだった。
けど、あの千草ちゃんでもダメなのか、そんなに過酷なのかって、体じゅうがぞくぞくして。
夜になって、家に帰った私には……。
何があったか説明する心の余裕なんて、もう残されてはいなかった。
私……今でも不安なの。
私たち、子どもたちだけで自立できるのかしら。
いつかお金がなくなって、うえて病気になったりしないかしら。
それは、さけられるの?
さけるためには、どうすればいいの?
いくら考えても、わからない。
もう、だれも、千草ちゃんみたいに、なってほしくないのよ……。p.140
未来が不安──。
その気持ち、私も本当によくわかる。
私、施設にいたころ「高校を卒業したら自立しなくちゃいけない」って言われてた。
たよれる人なんてだれもいないのに、一人で生きていかなくちゃならないなんて。
考えただけで、永遠に止まない雨の中に、一人取りのこされたような気持ちになってた。
私……一人で生きて……ひとりぼっちで、死んでいくのかな? p.141
もはや子どもを抑圧したり敵対したりする「大人」すらほとんどいなくなり、13歳の子どもが、まるで20歳の大人のように自らの将来を不安視して苦悩する、そのさまが児童文学でアクチュアリティをもって描かれる社会……
子どもが大人に隠れて自分たちだけで「自立」したいと願うのは良いし、児童文学はそうした子どもの願いを形にするツールのひとつであるべきだ。
でも、まだ義務教育も終わっていない年齢の子どもに「自立"しなきゃいけない"」と悩ませて人生の行く末を不安がるさまを、児童文学でこのようにあたかも一般的な子供の苦悩のように描くことが自然なものだとされるのは違うだろ……と思う。
この作品が悪いのではなく、ここ二十年ほどで本当に社会の底が抜けているんだなぁと感じてしまい、たいへんつらく、これからを生きる子どもたちに申し訳ない。
なんでアラサーの自分らが抱くような切実な悩みを12歳が抱いてしまっているんだよ……
つまり、従来の児童文学ならば(クソデカ主語)、いくら子どもが「自立」することを願ってそれを実現するさまを描いていても、あくまで大人は子どもを庇護する責任を放棄しておらず、だからこそ子どもから鬱陶しがられて反発される役回りに徹していた。そうすべきだ。子どもが大人の庇護を抑圧と見做して反抗するのはあるべき姿だろう。
でも、本作では親も親に代わる児童養護施設も「国」も大人は皆、はなから自分たちの庇護責任を放り出して、子どもに「自立」を押し付けているので、子どもは「自立しなきゃこのさき生きていけない」と悩むことになっている。
そうしたシチュエーションを前提にしているので、いくら四つ子姉妹の尊い姉妹百合の日常が繰り広げられて「私たち子どもだけで生活するのって、大変だけど、楽しい!」と前向きに幸福に描かれていても、それをそのまま良いものとして受け取ることに躊躇いが生じてしまう。
大人が子どもに全力で向き合って、ちゃんと嫌われることの大切さ。
関わりを絶って嫌われることすらせずに、子ども自身に将来の不安を抱かせてしまう大人や社会はクソだ。
子どもたちよどうか、ちゃんと自立できるだろうかとか、社会でやっていけるだろうかとか、そういうことで悩まないでほしい。親や教師や周りの大人たちほんとうぜぇ〜とか、そういうことで悩んでいてほしい(というのも嫌な押し付けだが……)。
子どもにとって「自立」は、憧れや夢であっても重くのしかかる"現実"ではあってほしくない。
その意味では、終盤に再登場する自称母親は、明確な「悪役」であるだけまだマシかもしれない。いや、アイツもクソだが……
児童文学における「大人」の表象について考えたい。
例えば宗田理『ぼくらの七日間戦争』(1985)では、大人は主人公たる子どもたちにとって明確に(戯画的な)悪役であり、子どもの活躍の前に情けなく滑稽に敗北していくことに徹している。
むろん、児童に体罰したり性暴力をふるったり誘拐したりとヤバいことをしまくっているわけだが、ちゃんと子どもに反発されてコテンパンにされるような「悪者」として子どもとの関わりを最後まで保っていて、今考えるとある意味で格好いい大人たちだなぁとも思えてくる。少なくとも、子どもに「自立」を押し付けて庇護責任を放棄する大人、物語中に悪役としてすらほとんど登場しない大人よりはマシ。
子どもの頃は、「ぼくらシリーズ」に出てくるような大人なんかには絶対なりたくない、ダサい、と思っていたような気がするけれど、いざ大人になってみると、こういう「負け役」を子どもに対して全うできる大人こそが格好いいあるべき大人像なんだな、と思える。
大人にもなってみるものだなぁ。子どもの頃に読んでいた小説を、新たな目で読み直して発見をしていけるのだから。
3巻 「学校生活はウワサだらけ!」
ふつうにおはなしが面白かった。
新キャラがふたり登場。三風の異性愛プロットを加速させる三角関係ライバル要員と、四月のパートナー要員。
しづなおはさすがに尊すぎる。
このメイン7人で今後やっていくのか、さらに増やすのか……
四つ子姉妹に次々と異性のパートナーができていく……
(児童文学のヘテロ描写は大性癖なので悶えながら読んでいる)
今、そのことを正直に話したら……
姉妹は、湊くんのことをうたがって、悪く思うようになるかもしれない。
私の好きな人たちが、私の好きな人をきらいになっちゃうなんて。
そんなのって、悲しいよ。
あっ。あ……、『好きな人』って、『友達として』ね!
私、一人で勝手にほおを熱くして、首をふった。 p.80
ウ"ッ""!!(急な動悸)
たしかに私、心の調子が、昨日からちょっと変だ。
『好き』とか『元カレ元カノ』とかいう単語に反応して、胸がギュン、ってなったり。
ふいに湊くんにあいさつされて、飛びあがったり。
ういなちゃんに変なこと聞かれて、さけんじゃったり。
もしかして。
私って、もしかして、湊くんのこと──。
……ううん、そんなのないよ。 p.110
素直に胸ギュンです
──「港みたいな活気あふれる明るい人になってほしい、って思いをこめて「湊」」
杏ちゃんの言葉を思いだす。
湊くんは、名前にこめられた願いどおり、活気あふれる明るい人に育ったんだなぁ。
「私も、湊くんのそういうところは、す──」
「好き?」
「す、ご、い、って思ったの~っ」 p.111
湊くんは私のこと、ただの友達としか思ってないだろうし。
もしかしたら、私と仲よくしてくれてるのだって、私が四つ子の一人で、めずらしくて、目立ってて、面白いからってだけの理由かもしれないし。
もしそうなら、私が湊くんを好きになったって意味ないし。
……そうだよ、意味がないんだ。
想いがとどかないのなら──失恋するかもしれないなら──傷つくってわかってるなら。
恋なんて、したくない。
──「感情の種類が変わっただけよ。大きさは変わらないの」
なんて、私、一花ちゃんみたいに、あんなにおだやかな表情で言えそうにないもの。
いやだからべつに私は湊くんのこと好きってわけじゃないんだけどっ。
「はぁ~………………」
……あ~もうヤダ。
自分が何を考えてるのかわからなくなってきたよ~…………。 p.112
「好きってわけじゃないんだけどっ」の末尾の「っ」、これが児童文学の好きなところ。
「わからなくなってきたよ~…………」の「~…………」も、児童小説を読む醍醐味だと思う。
児童小説の恋愛描写からしか得られない栄養素がある。
主人公の三風は今のところヘテロで少女漫画チックな美少年との異性恋愛関係に突き進んでいるが、姉の一花はかつて歳上の同性に「恋」をしていたと語る。
小学生の同性愛(「恋」)をここまできちんと描いてくれて感涙したので、長いですが引用します。
「『なんだ』とはなんなんよ。一花の初恋は?」
「えぇ、私?」
「うちが言うたんやから、一花も言わなあかんで」
二鳥ちゃんにつめよられ、一花ちゃんは、
「うーん……」
としばらくうなって。
それから、ポツンとこう言った。
「千草ちゃん、かしら」
「「「えっ?」」」
千草さん?
一花ちゃんの初恋の人が?
千草さんは、一花ちゃんが里親さんの家にいたときに出会った、六歳年上のお姉さん。
心がすさんで不良になっていた一花ちゃんは、千草さんのおかげで、立ちなおることができたんだって。
だけど、
「え……やっぱり……え……? ていうか千草さんって、女の人やろ?」
とまどった口調で、二鳥ちゃんがたずねる。
それって、初恋なの?
疑問な私たちに、一花ちゃんは大まじめに答えた。
「もちろん、千草ちゃんは女の子よ。だけど、あれはたぶん恋だったんだと思うの。だって私、小さいころから、ずっと男の子みたいなショートカットだったのに、千草ちゃんのロングヘアにあこがれて、髪をのばすようになったんだもの」
「「「おぉお……!」」」
「髪がちょっとずつのびて、ちょっとずつ千草ちゃんに近づいていくんだな……って思ったら、鏡の前でこう、胸がキュッ、ってなったのよね……」
「「「うわぁ……!」」」
一花ちゃんの話があまりにも胸キュンだったので、私たち三人の妹はもだえた。
恋って、こういうキラキラした、甘酸っぱい気持ちのことをいうのかな?
だとしたら、すっごくステキ!
「ねぇ、今でも千草さんのことが好き?」
私が聞くと、一花ちゃんはうなずいた。
「もちろん大好きよ。でも恋ではなくなったわね」
「どうして?」
「私が小学六年生になったばかりのころ、千草ちゃんに彼氏ができちゃったからよ」
「「「えっ」」」
それってつまり……失恋?
自分の好きな人が、自分以外の人を、特別に好きになっちゃうなんて……。
キラキラでふくらんでいた私の胸は、あっという間にしぼんでしまった。
二鳥ちゃんも四月ちゃんも、なんともいえない顔で口をつぐんでる。
でも、一花ちゃんの表情はおだやかだ。
「私の恋は結局実らなかったけど……千草ちゃんが大切な人だってことは変わらないわ。感情の種類が変わっただけよ。大きさは変わらないの」 p.85~87
それが恋だと、本人の口からしっかり言ってくれることの、なんと尊く素晴らしいことか。
失恋して「恋ではなくなった」ことまで語り、ややもすれば「子供の同性のお姉さんへの憧れなんて、所詮本物の恋じゃなくて一過性のものでしょ」というようなありふれた同性愛差別に傾くことを懸念してしまう……が、しかしここはむしろ、「失恋」して「恋ではなくなった」と宣言することで、確かにあのときのわたしの感情は「恋」だったのだと、事後的に認めてあげているのだと、自分で名前を付けて肯定している場面だとわたしは読みたい。
だって、一花のおだやかな表情には、自分の人生を肯定して歩んでいく確かな強さが表れているから。
「私、小さいころから、ずっと男の子みたいなショートカットだったのに、千草ちゃんのロングヘアにあこがれて、髪をのばすようになったんだもの」「髪がちょっとずつのびて、ちょっとずつ千草ちゃんに近づいていくんだな……って思ったら、鏡の前でこう、胸がキュッ、ってなったのよね……」←さすがにノーベル児童文学賞
もう一度言っておく。
児童小説の恋愛描写からしか得られない栄養素がある。
4巻 「再会の遊園地」
「だから絶対忘れへん。お母ちゃんやお父ちゃんとすごした日々のことも、もらった愛情のことも、それがどんなふうに終わってしまったのかも。忘れへんけど、前は向く。ゆるさないけど、ゆるす。うちにはそれができる」 p.191
二鳥ちゃんの「ゆるし」に関する描写がちょっとすごすぎて号泣した。
児童小説とは思えないとんでもないことをやってのけている。
いろんなことがあるけれど、この先も人生は続いていくんだな。
そんな、悲しいような、気合いを入れるような、ふしぎな気分。
私はぐっと顔を上げて、前を見た。 p.197-198
5巻 上「初恋の人の正体」
双子(四つ子)トリックオチを酷使してて笑う。
あと、ここぞという場面でめくると挿絵+フキダシの漫画的な見開きが来る演出は、最近の児童小説やラノベなどで一般的なんだろうかとびっくりした。
麗さんの正体は1巻での予想通り。
死を知ったあとの悪夢がなかなかに怖くて、怖かったです。
5巻 下 「お母さんとペンダントのひみつ」
四ツ橋家のお屋敷の間取りが細かく説明され始めたときは、これから殺人事件が起きて館モノの本格ミステリが始まるのかと思った。
というのは冗談としても、いやはや、なかなかに重い話ですねぇほんとうに……
麗さんの事情が明らかになった上で、三風たちにしてきた所業を許せるのか、という点は当然に気になってしまうけれど、それよりも個人的には、麗の父(=三風たちの祖父)であるところの元社長があまりにも形骸的なイヤ〜な〈父〉、父権制の暴力性を象徴するかのような人物として(娘・麗の口から)語られていたことに引っかかる。
そういう諸悪の根源のような〈父〉を設定してしまうと、このシリーズの物語全体のトーンがなにかリアリティを欠いた薄いものになってしまいやしないか、という心配がある。
あと単純に、大企業の社長とかそういう社会的にデカいスケールに拡大していくのが、あんまり好みではない、というのがある。
とはいえ、四ツ橋の豪邸で一夜お泊まりしてみての違和感・疎外感から、自分たち子どもだけで生活している〈四つ子ぐらし〉の意義を見出して、さらにはそれを、自分たちのまだ見ぬ母の生の確信へと繋いでいく手つきには感動してしまった。
要するに、良家で甘やかされて育った麗は、今でもある意味で親=生家から自立できていない「子ども」であり、そんな麗を自立させるための姉・雅の出奔であり、その娘たちの「四つ子ぐらし」がある……という関係。
そうかぁ、本質的には、自立計画の対象は麗さんだったってことかぁ。
今回の下巻は、ほぼ四ツ橋家に行って帰るだけの、極めて動きの少ないプロットになっており、そのどっしりとした佇まいからも、ちゃんと親子や家族、きょうだいの物語をやるんだという覚悟と風格を感じた。
母・雅が生きているとして、なぜ出産直後に娘4人をバラバラに施設に預けたのか、そしてなぜ誰とも連絡をとっていないのか、の2点はしっかりと(ヘイトを生まないように)回収しなければならない。難しそう。
それから、麗にしろ雅にしろ、「母」だけが取り沙汰されていて、「父」の責任の話がほとんど出てこない点はずっと気になっているが、今回三風がひとりで父のことにも想いを馳せ始めていたのと、雅・麗の父のヤバさが言及されたのとで、ようやくそちらも描かれ始めたか、と安心はした。李央くんの「乳母」である雪村さんの存在には注目したい。
てか李央・トウキの双子兄弟関係も良さげですね。アイドルトウキの魅力について語り合う李央と二鳥のシーンよかった。
ラストの引きもいいですね。
そうそう、李央くんかトウキくんのどちらかが三風に好意を寄せてくれたら恋愛図式がまた一段と面白くなるよなぁ~と思っていたところだったので、2人ともがとは! それでこそ主人公や!!
6巻 「夏のキャンプは恋の予感」
子供の三角関係の葛藤を丁寧に描いてくれて、おじさんはずっと興奮してしまいます……(変質者)
いろいろとシリアスに引っ張って、けっきょく無難なところに落ち着いたと思いきや、そもそも「恋」とは、「好き」とは……という点を、メインの姉妹愛(家族愛)と結び付けて問い直す展開にはうなった。
排他性と恋愛の関係は難しいよなぁ。排他性は恋愛感情(関係)の必要条件なのか、十分条件なのか、いずれでもないのか。
杏ちゃん、三風ら主人公に都合の良い性格の造形をされているなぁと思ってしまうが、もう少し真剣に彼女のことを見つめていけば、固有の魅力として立ち上がっていく気はする。
7巻 「嵐の日は大さわぎ!」
ほとんど家から出ずに、逆に次々と来客(子ども)が尋ねてきて、みんなで嵐の1日を乗り切るアットホームな巻。
クラスの爽やか男子(本命)に、それからいとこのアイドルと御曹司に……と、三風さん爆モテ状態。少女マンガって感じでよい。
二鳥んと李央くんの初々しい関係もひじょーに推せる。
遂に三風が本命の湊くんへ姉妹の来歴の秘密を打ち明けることができた。
トウキや李央たちへの三風の感情はきょうだい愛のようなものであり、恋心とは異なるっぽい。
何度も背中を押されるのがアイドルソングの歌詞というところに作者のアイドル好きが伺える。
それから、四つ子姉妹百合(シスターフッド)だけでなく、李央とトウキの双子兄弟BL関係もかなりアツいことが発覚した。
8巻 「新学期は事件がいっぱい!」
三風が絵を描くのを無価値だと思ってしまったエピソードを話したあとに、聴いていたみんながそれぞれに励ますくだりが優しい世界すぎて泣いてしまった。
趣味にしても部活にしても「将来役に立たないことを今やる価値があるのか」という悩みは、子どもに限らず、生産性主義とネオリベラリズムが吹き荒れる現代社会では普遍的な問題だろう。そんな問いを、親がおらず子どもたちだけで自立をしなければならない厳しい設定の上で扱うこと自体が、かなりクリティカルかつクリティックだと思う。
「助けて」と声を上げられない人にいかに気付いてあげられるか。自暴自棄になったとき、いかに自分が心から好きなものを楽しんで立ち直ることができるか。本作で扱われているテーマは、どれも身に沁みる。四月さんと直幸くんの関係のスローペースな進展が今回も微笑ましすぎてニヤケが止まらなかった。
まとめ
ま~じでオススメです。大人にも。
四姉妹はみんな個性的でかわいいし、姉妹の絆に毎回涙腺がやられています。かなり過酷で悲惨なバックグラウンドを設定していますが、そこに真剣に向き合って取り組んでいる気概も見えて信頼できますし、子どもの恋愛描写には見悶えています。
児童文学が好きな/好きだったひと、子どもが好きなひと、(姉妹)百合が好きなひと、イマの子どもが何読んでるか興味があるひと、み~んなにオススメします!
1話の試し読みはこちら↑
マンガ版も出ているようなので、小説より漫画派の方はそちらでも!
その漫画のボイスコミック化?も少ししているようです。声優陣が豪華!
わたしも続きを読んでいきたいです!
同じ角川つばさ文庫の『ふたごチャレンジ!』もオススメです。
LGBTQ+に関心があるひとも、ないひとも、ぜひ。
こういう小説に幼いときから触れられる今の子どもが羨ましいです。
・これまでの児童文学の感想リスト
『ハーモニー』伊藤計劃(2008)
人生初・伊藤計劃でした。
『ハーモニー』はず~~っと読みたいと思って数年間積んでいて、この度ようやく人生の節目を迎えるにあたって、向き合うことができました。
以下、読んでいる最中の感想メモなのですが、先に言っておくと、わたしは本書をあまり楽しめませんでした。かなり否定的なことを書きまくっているため、本作や本著者のファン、そしてSF好きは読まないほうがいいと思います。
そもそもわたしはSFというジャンルがかなり苦手です。日本SFの最高傑作のひとつに数えられるであろう本作も、その例に漏れず、でした。SFとして出来が良いゆえに、余計にわたしには合わないのかもしれません。
読み終えてひとつ思うのは、「高校生か大学1, 2年生くらいの頃に読んでいたら……」ということです。
今のわたしは、みんなが大絶賛して高評価しているものであればあるほど、ハードルが上がり、貶してやろうという底意地の悪い気持ちを無意識に抱え込んでしまう、どうしようもなく幼稚なクズになり果ててしまったので、まだかろうじてそうではなかったあの頃の自分なら、素直に楽しめていたのかな……という気持ちでいっぱいです。
2025/7/27~30
感想メモ
1章
とても若い、青春っぽい青臭い主題だなぁ 回想している学生編は。
そして特別な者同士の二者関係として持ち上げられているきらいがあり苦手だ、ミァハもトァンも。
トァンの父ちゃんがメディケアの提唱者とか、そういう設定が…… SFをちゃんとやるために必要なのだろうけど、きわめてご都合主義的で狭く薄っぺらい世界だと思ってしまう。セカイ系だからそれでいいのか?
p.26 『特性のない男』で草
「生府」などのディストピアもじり造語はR.アレナス『襲撃』を連想する。
p.50まで
リソースとしてこの世界に生まれさせられたことに反抗するさまを、反生殖主義にも通底すると読むことくらいしか、今のところこの小説の好みな点がない。
キアンという第三者の存在は事前に知らなくて、(三角関係を)期待したが、なんか自殺したらしいし、ふたりほど特別ではない腰巾着だったらしくて哀しい。早くもミァハとトァンのカップリングのアンチなので。
ファム・ファタルのガールミーツガールもの
1章終わり p.102まで
トァンの、自分(とミァハ)以外はどうでもいい、自分らだけが特別で孤独だ──とでもいうような思考と語りが鼻持ちならない。28歳だというけれど、実質的に思春期の精神性だ。厨二病ともいう。じぶんも思春期に読んでいたら楽しめたのかなぁ。「螺旋監察官」などのカッコいい用語や、プログラムのコーディング調の文体?なんかも……。
そうした彼女の傲慢さ、特権性が、ラストのキアンの自死(同時多発自死)によって相対化され批判されるのかな。今後の展開に期待。
疑問文の語尾に「?」を付けずに「……」で代用しているのが特徴的だ。疑問を持ってはいけないから使える文字リストから剥奪されている的なディストピア設定?
生命主義社会では、生まれた人間の健康に気遣うだけでなく、なるべくたくさんの子供を生むように、という出生(奨励)主義が伴うことは避け難いように思うが、今のところあんまりそういう話は出てきてない。出生主義を押し出すと、一般的なディストピアに近づき過ぎてしまうから控えているのだろうか。
2章
いや、何千人もが一斉に謎の自死を遂げているから、キアンはトァンやミァハの特別側に寄らず、むしろ没個性的な大衆側に放られたようだ。
大量一斉不審死事件を5日間というリミットのうちに捜査するサスペンス・ミステリが本筋か。
死んだファム・ファタルの謎を追って旅する女女の物語といえば『マイ・ブロークン・マリコ』(漫画/映画)とかを思い出す。あれは遺体(謎)を探し求めてるというより、骨壷を持って一緒に逃げる話だけど。
キアンは「ごめんね、ミァハ」と唯一遺言を発して死んだので、他の何千人もの自死者とは違う特別な存在なのかもしれないが、結局のところそれはトァンが事件の捜査をするための手掛かりとして、あるいはトァンがミァハの謎に迫るために配置されているに過ぎない。キアンの存在そのものが、かなり舞台装置に近い。
「プライベート」は卑猥・猥褻・エッチな言葉であり概念である。なるほど
かつてのミァハも現在のトァンも、生命主義社会に適応した〈大人〉でいることを拒否して〈子供〉であり続けようとしている。
だから本作がとても青臭く幼稚にすら思えることは必然であり、また、ヘテロではなく同性ペアの関係(百合)を主題としていることも納得はできる。
異性間でセックスをしたり結婚したり子供を生んだりしたら、自身は否応なしに〈大人〉になってしまうのだから。
それを拒否するために〈子供〉であり続けようとして、ミァハは自死に成功して、トァンは螺旋監視官の職に就き海外の戦地で過ごしている。
ミァハが実親に育てられず、チェチェンの戦地から日本の家に養子として引き取られたことも、生殖を中心とした家族の気配をなるべく抹消せんとする設定に思えてきた。
トァンが父に向き合う父娘関係のハナシになってくるのか?
砂漠地帯で取り引きした民にしろ、男性の登場人物に注目したくなる。
ミァハの腰巾着、それはとんでもない誤解だった。あのときあの場所にいた少女は、たぶんミァハよりも、勿論わたしなんかよりもずっとずっと強くて、気高くて、誰に助けを求めることもできない孤独な場所に立っていたのだ。たったひとりで。
零下堂キアンは、あのとき間違いなく「大人」だった。 p.151
トァンが自らの傲慢な考えをやや自覚して再考を促されたのはよい。が、よく考えれば、ここでキアンが「大人」だったことになれば、「子供」だったミァハとトァンは余計にふたりだけ特別になっていやしないか?
父の同僚ケイタ教授もう85歳なんか。父は?
『ナチスは「良いこと」もしたのか』みたいな話題になってる。が、その健康管理政策が本作のディストピア生命主義社会のプロトタイプだと位置付けられて、批判的な意味合いを帯びるのがおもしろい。
バグダッドを世界の中心に設定するのは、執筆された2000年代初頭の時代性を感じる。
ミァハの遺体が検体として父に渡されたようだけど、鹿目まどかのように、この生命社会のネットワーク基盤として、概念として利用され生き続けてたらヤダな…… 可哀想とかではなく、結局まだ死んでないのかよ、それでトァンとの感動の再会やら別れやらをやるつもりかよ、と思っちゃうので。
p.168 伊達に多くの紛争地帯などでネゴシエーションしてきたわけじゃないから舐めるなよ、と言わんばかりのトァンの態度がちょくちょく描かれる。私SUGEE系っぽくてムカつく!(←幼稚)
意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来バラバラな断片の集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている、おめでたい生き物なのさ。 p.170
ひとつの自我を持った「個人」を最小単位とせず、さらに細分化して分解・解体する。無我論というか、物質主義なら当然行き着くところ。
個人が社会のリソースとして位置付けられる全体主義だけでなく、個人を内部から解体する視座も同じ生命科学によって提示される。
マクロとマクロの両極がディストピアとして立ち現れ、その中間領域で寄る辺ない「個人」の魂と実存(=小説・物語)は彷徨する。
まぁ、王道のSFであり、王道のロマーン(小説)か。
いろんな意味で、SF初心者、文学初心者にはいいかもしれない
p.173 逆に、精神こそ肉体を生き延びさせるために取っ替え引っ替えされるべき潜在的なデッドメディアなのでは、というトァンの論はよく分からない。ケイタ教授が返したように、種の保存と進化の観点で見れば、遺伝子の乗り物的な意味で確かにそうかも知らんけど、それはトァンたちの「自分の肉体を自由に使いたい」姿勢とは相反するのでは?
あ〜やっぱりミァハ生きてた? 死者からの言伝……
p.182 「このカラダは自分ひとりのもの」 ほらぁ〜ミァハはさっきトァンが言ってたのと反対のことを語っている。
p.183 〈/body〉というコードの定型タグが、自死したキアンの死体(body)の意にもあからさまに重ね合わされている。
3章
せっかく現実とはやや異なる世界を提示しているディストピアSFなのに、それを語る主人公の感性があまりにもわれわれ読者側に近くて、こんな生命主義社会はおかしい!と違和感を幼い頃から抱いているのが勿体無いと思う。異化の本領が発揮できない。信頼できない語り手の逆。共感できない語り手のほうがこの設定ではおもしろいはずなのに、あまりにも共感できてしまう。
でも、この小説がやりたいことは、これでいいんだよね。トァンは言わば、このSF小説とわれわれ読者を繋ぐ橋の役割を果たしている。SF慣れしていない読者をSFの世界になめらかに招き入れるためのガイド役。こんな(異)世界おかしいと思わない?と、この小説のなかで彼女(とミァハ)だけは主張し続ける。私たちが共感しやすい丸い主張を。こんなプライバシーのない窮屈な世界嫌だな〜いまの世界で良かった!と。
私からすれば、それは異なる世界への想像力に欠け、現実に留まって肯定しようとするきわめて保守的で馬鹿らしい、マッチポンプにも似た構造に思えるけれど、こと「SF入門」としては易しい見事な内容である。
「陰謀説」だというけれど、そうした陰謀論的な物語になることは、自分たちだけはこの世界のおかしさに気付いている……という青臭いスタンスの延長にある必然だろう。
ミァハ?は完全に全世界規模のテロリストだ。自死という最小のテロ=抗議行為から、全世界の人間を巻き込んだ革命へ。テロや革命もまた「青春」の花形だ。
デスゲームものになるん? こわ……
自らの意志や身体の内面がそのまま〈世界〉と直接に繋がっている、というセカイ系の思想をSF的に実装した設定といえる。イラク戦争といいデスゲームといい、全体的に00年代の香りが濃厚。
現在時からの経過時間による報酬系の活性化を示したグラフにおいて、指数曲線が合理的で、双曲線が不合理、というのはよくわからない。指数関数って、遠い未来になるほどに爆発的に報酬系が増大していくってこと? それはもはや行動を全て後回しにした、達観し切った人間ではなかろうか。
生命主義にアンチを張って自死を試みた子供はたくさんいたが、なかでもミァハの絶望が最も深かった。唯一無二ではないが、相対的に特別ではあった。
だから父は実の娘トァンではなくミァハを被験対象に選んだ。そのことに悔しがる?トァン。父親を巡る寝取られ・三角関係?
p.263 完全な調和(ハーモニー)が取れた意志のプログラムとは、意志も意識も無くなった状態である。……そうですか。
なんかずっとダラダラ、思弁的で哲学的っぽいことを述べ立てているけど、もちろん本当の哲学や自然科学に比べたら見せかけの薄っぺらい内容であり、深く真面目に考えればすぐに矛盾や底が見えてしまう嘘(フィクション)である。なんだかなぁ。こういうのに素直に騙される読者がSFに向いているのだろうなぁ
p.264 外面上は意識の有無は見分けが付かないと言っておきながら、ミァハたちへの実験ではあたかも有無が把握できているかのように語っている。哲学的ゾンビとかのレベルですら話を作っていない。きわめて素朴で幼稚。
p.270 意志とか意識とか魂?とかが、脳の報酬系を少し弄ることで簡単に消え失せてしまう唯物的なものだと、その魂の神話を見かけ上は解体しているようでいて、実はその逆をやっている。「無い」状態を素朴に想定することで、「有る」状態をも前提として神話化してしまっている。実際の意志はそんな単純なものではない。簡単にオンオフできるような意志/意識などありはしない。生命進化史のどこかの時点で人類が獲得した意識などありはしない。
ミァハが生まれた、先天的に意識がない民族、という設定は、そうした意識の神話化を完成させているともいえる。
p.271 「指数的」ってなんなんだマジで。用語の定義を説明してほしい。ふわっとした雰囲気の語用ではなくて。
「fMRIによれば確かに意識活動が脳内に生じていないはずの彼らは」って、やっぱり客観的に有無が観測できるものとして意識を設定してるじゃん。外見上は判断できないって、ほんとに素朴な意味でかよ。fMRIでなら分かるんかい。それで測定できる「意識活動」ってのがなんなのか、そしてミァハたち民族はなぜそれがなくとも合理的な判断をして生活できているのか教えてほしいですね。
そして性虐待の過去設定!! あーあ、いつものやつですね…… ファム・ファタルは娼婦であり聖女である、という正統的なミソジニーの発露。魅力的な女性を、「ヒロイン」を、とことん客体化して、見栄えの良い、われわれ読者にとって興味が惹かれる、テンションの上がる、キャラクター商品として造形する凡庸な芸術。
意識を持たない民族として生まれて、レイプされまくった少女。後天的に「意識」のようなものを獲得した少女。天才で特別で世界に叛逆しようと自死を選んだ少女。おめでたいですね。そういう存在をおいしく消費する文化は。そういう存在との"尊い関係"をおいしく消費する文化は。
とりあえず、自分が思う「意識」とは全く別のものを「意識」と呼んでアレコレえすえふをやっているんだろう、この小説は。そう考えないとアホらしすぎてこれ以上読んでいられない。
銃撃戦や闘争劇などのアクションシーンを描くの下手すぎないか……? こんなにも茶番の場面はなかなかない。
しかも娘を庇って死ぬことで親の愛を示した(のかもしれないと評される)のも笑うしかない。すべてが薄っぺらい。
トァンとミァハ以外の舞台装置である登場人物たちが次々と都合よく死んでいく。
/body 2人目
あと、序盤から薄々気になってはいたけど、イラクのバグダッドにしろ、砂漠の民ケル・トゥアレグにしろ、チェチェン民族にしろ、それらの物語上での扱いに、かなりオリエンタリズムというか、第三世界への差別意識が感じられて危ういなぁと思う。
4章
キアンの弁当も、わたしの弁当も、お母さんが生活パターンデザイナーの送ってくれる選択肢によって、隅々まで栄養コントロールされている。 p.285
「お母さんが」は要らないのでは? それか「お母さんが生活パターンデザイナーから受け取る選択肢」に変える。じゃないとなんか変だよこの文。
こういう風に、てにおは・係り受けというか、文法が微妙におかしい文がたまーにあるんだよな、この小説。べつに平均的には決して拙い文章ではないのだけど。
それとも、こういう細かい違和も、SF的な意図が潜んだ精緻な仕掛けなのだろうか?
p.291 ようやくフーコーに言及した。ずっと下敷きにはしていたけど。生権力。
『監獄の誕生』読んだことないけど、生権力とかって近代のもたらしたものだよね? たしか。とすれば、小説も、そして自由な個人の間に結ばれる関係を尊ぶ百合も、生権力と同じく近代の産物だから、否定しようとしているものと肯定・礼賛しようとしているものが同じ根を持っているという、なかなかに皮肉な構図になってるのか。
前近代にも百合は存在し得るのか? 中世や古代のフェミニズムとか……
螺旋監査官の上司(主席)も次世代ヒトなんとかの一員だったのか〜
p.304 その秘密組織の2派から共に注目される、ミァハとヌァザ(父)にとって大切な人の共通部分に、世界でゆいいつ当てはまるのがトァン。ミァハよりもこいつがいちばん特別な存在か。さすが主人公!
p.305 世界を破滅させようとしているミァハの真意を理解できるのも、わたしひとりだけ! 子供の妄想。
これはそもそもの始まりから個人的な事件だったし、その展開もどんどん個人的な狭路にはまっていった。正直に言おう、こうして世界中で暴動や集団自殺が続いている今も、わたしは別に世界のことなんか気に掛けちゃいなかった。 p.306
そうなんだよな〜〜 この物語そのものが、トァンという主人公とミァハとのエモい関係のために用意された「個人的な狭路」でしかないので、とてもつまらない。
世界の命運は自分にかかっているけど、自分は世界のことなんかどうでもよくて、アイツのことだけが大事、という幼稚なロマンチシズム。
「ええ、とってもプライベートな事情があるの」
「プライベートかぁ。淫靡でいいねぇ」 p.314
そうか、プライベートなものは猥褻であるという社会をそもそも設定したのも、すべてはトァンとミァハの関係をエモく(エロく)演出するためか。序盤の回想でミァハがトァンの胸を揉んでいたのも、そういうことか〜
マジで、自分が大嫌いな「閉塞的な二者関係のロマンスを過剰に尊く演出するハナシ」の最たるもの、ってかんじだ。
わたしは固定カップリングのアンチだから。そいつらの関係を持ち上げるために周りの人々や世界が舞台装置として扱われるようなカップリングのアンチだから。
『小市民シリーズ』が嫌いなのとだいたい似たような理由だ。
ウーヴェという同僚の男もトァンと似たようなスタンスで気が合いそうなのは良いね
社会の暗黙の常識=「空気」が云々という表現には、あぁそういえば確かに00年代前半には「空気読めない」だのなんだのというフレーズが流行ってたなぁと懐かしくなる。10年代からSNSの時代が到来して、逆にもう言わなくなって久しいよなぁ
「お前、本当に自分のことしか考えてない女なんだな」 p.320
これが美徳となるように、他の大衆はみんなのことを考える生命主義の世界を設定している。そりゃ、そういう人たちに比べたらトァンは自分のことしか考えてないも同然だが、しかし正確には「自分とミァハのことしか考えてない」なんだよなぁ。ミァハもどうでもよくて、本当に自分のことしか考えてないんならトァンのこと好きになれたかもしれないのに。
まるで修験者ね、とわたしは息をあえがせながら思った。神様に会うための修行をしているみたい。ミァハが神様なんて、とても思えないし思いたくないけど。 p.322
いや実際、ロマン主義小説は語り手たる個人の、神への「告白」の形式を取るのだから、いろんな意味でミァハは "神様" だろう。そういうことを考えて読んでたら、この文に行き当たったので少し驚いた。
喜怒哀楽、脳で起こるすべての現象が、その時々で人類が置かれた環境において、生存上有利になる特性だったから付加されてきた「だけだ」ということになれば、多くの倫理はその絶対的な根拠を失う。絶対的であることを止めた倫理──相対的な倫理──は脆い。 p.327
である(科学的事実)と、べき(倫理規範)を混同する初歩の自然主義的誤謬を恥ずかしげもなく開陳している。倫理とはなんたるかがまったくわかっていない。なんなんだ。高校生の頃とかだったらこういうのにコロっと騙されちゃっていたかな。
閉塞的な二者関係のロマンス(百合)要素だけが合わないかと思いきや、肝心のSF要素が本当に酷い。前半の、生命主義ディストピア設定あたりはそれほど酷いとは思わなかったが、後半になって意識とは何か、倫理とは何か、といったより哲学的な領域に踏み込んだ途端にボロが出まくっている印象を受ける。
単に、自分が生命や健康やプライバシーにはあまり興味がなくて、意識や倫理にはそれなりに興味があるから、中途半端な哲学っぽいSF描写に引っかかってしまうだけかもしれない。
ミァハは片手で周囲を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。 p.333
これぞセカイ系
じぶんの身の回り、「周囲」がすなわちひとっ飛びで「世界」になる。
常に、既に。それがWacthMeの目指すところ p.334
ちょうど引用しようと思ったところが誤字ってる。「WatchMe」ね
つねにすでに、always-already だ。
だからわたしはね、そんなものをカラダに入れられる前に、本が読むものでなく自分自身になっちゃう前に、女の子のまま死のうと思ったの。
このおっぱいも、おしりも、おなかも全部、本なんかじゃないって証明するために。 p.334
なぜ「女の子」という語がここでミァハに選ばれているのか。「生身の人間のまま死のうと思ったの」とかじゃダメなのか。
記述問題でありそう。配点10
生命社会のSF設定のなかで、男女の解剖学的性差、セックスに関しての記述はほとんどされてこなかった。しかし、本作では全体として、暗にあるいは明らかに、「女の子」を未熟な、まだ生命管理システムに犯されていないプリミティブで生身の身体の象徴として位置付けている。男性の身体性にはほぼ言及されないが、ゆえに「男性=人工(近代)/女性=自然(前近代)」という極めて古典的でナイーブな性差別的ステレオタイプに立脚しているといえる。男児や少年、若い男はこの小説に登場しない。それは「子供=女の子」という図式を採用しているからだ。
最初の「百合SF」特集が男性中心主義的だと批判されていたのも、ひじょうに納得がいく。国内の百合SFのメルクマール的な作品であろう本書が、こんなにも女性差別的な表象に溢れているのだから。
これだけ生命医療が管理されたディストピアでは、生殖活動もまた管理され奨励・強制されていないと不自然だと上で書いた。「生殖」周りの描写が徹底的に排除/隠蔽されていることは、この公共的な生命社会においてもなお残っている最後の「プライベート」=卑猥な領域だからだろうか。このあたりと、ここでのミァハの「女の子」発言は通底しているだろう。ただ、まだあんまり整理はできていない。
背も大きくなったし、おっぱいもわたしよりずっとしっかりしてた。かわいい女の子のまま。御冷ミァハは美少女のままだった。 p.337
……はい
「わたしにのし掛かってきた将校はね、わたしに繰り返し入れながら、年代物のトカレフの先をわたしに触らせてた。これが銃だ、これが鋼だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつのペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口に銃口を突っこんで、何度も何度も突き入れてきた」 p.339
ペニス=銃、鋼
男性の身体は「自然」とは反対の、人工的な機械である、と。
「わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。首を吊ってた」 p.340
いや「男の子」出てきとるやん! こうして間接的に言及される程度ではあるけど。
その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい p.348
いや、あれこれ悩んで自殺する人がいなくなるんだったら、それは十分に意識の有無で人間が変わってるじゃないか。
いったいこの小説は「意識」をどういうものだと設定しているのか、自分にはさっぱり理解できない。完全に矛盾しているように思えるが、わたしがこの高尚なエスエフ議論を理解できていないだけの可能性だって全然ある。
先天的な意識がなく、またこの世界から早く消えたがっていたミァハを殺すことは、トァンが彼女を救済するのと同じであり、ある意味では本来のミァハへと生まれさせる(生まれ変わらせる)行為である。殺すことは究極の愛の発露。ふたりの関係の昇華。
そして、そのふたりの関係の昇華が、同時に全世界の全人類の意識の消失=死=調和になる。ここに於いて、この究極的に幼稚なセカイ系のロマンスは完成する。
トァンの一人称で語っていたと思われていた叙述、語り手=主体が、実は全人類の調和した擬似意識によるものであると最後に明かされる。「わたし」と「世界」のハーモニー。はいはい、よかったね。
おわり
おわり!
お疲れ様でした〜
解説でのインタビュー引用で、ロジックからしかエモーションを描けない、と著者が語っていたのには得心する。だって、キアンや父を殺されたトァンの悲しみとか、まったく上手に描けていなかったから……。ゆえにラストのミァハへの復讐のくだりも、どこかハリボテの、それこそあのひゅーひゅー風が通り抜ける舞台設定通りの空虚さがあった。すべてはミァハとの関係を精算して昇華するための補助装置なのだから。
あと、「ここで描かれているユートピアは、実は倒立したディストピアだ」的な、したり顔の解説がこういう類の作品ではよ~くなされるけど、見かけるたびに苦笑してしまう。ユートピアとディストピアはそもそも原義からして本質的に同じ意味の言葉だから。すべてのユートピアはディストピアだし、すべてのディストピアはユートピアでもある。だから「このユートピアは"実は"ディストピアでもある!」などという指摘は、情報量ゼロの、きわめて空虚な文言だ。
ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には格差がない代わりに人間の個性を否定した非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである。従って、本来の意味からすると、社会主義や共産主義の文脈で用いられるべき言葉である。
伊藤計劃を初めて読み終えたことで、全身が「以前/以後」になってきた。
もう「計劃以前」には戻れない。
『虐殺器官』読もうかなぁ……かなりモチベは削がれた……
追記
この記事と同内容のものをnoteにも投稿していたのですが、そちらのコメント欄にて、本書の有用なレビューを教えていただいたので、それを読んでの感想・反応をnoteのほうで追記いたしました。興味があればお読みください。
『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ(1970)
読書メモ

1章
静かに忍び寄って、しだいに勢いを増し、初めはほんの少々かげらせるだけだが、やがてすべての光を、すべての、すべての光を、そう、すべての、すべての光を奪ってしまうものの訪れを待ちつづける。 p.28
これは先週、メルセデス・バーソンが死んだときに、がらくたの山のなかに放りこんだやつだが、実は、彼女もそれを、別にあてもないのに、ただなんとなく、ほかの死人の遺品のなかから拾いあげたのだ。そのほかの死人だって、別の人間から、別の老婆から、別の死人からそれを……。 p.34
2章
過ぎていくとは思えない分秒が、時間がそれでも過ぎていくにつれて、人声は燠火(おきび)のように徐々に消える。p. 37
3章
4章
5章
イリス・マテルーナよ、お前はつまらない人間だ。そこを除いたものは余分な殻でしかないほどお前の中心的なものだが、その豊穣な子宮を取り巻いた原始的な生命の片割れにすぎないのだ、お前は。
イリス・マテルーナよ、お前は動く肉の塊にすぎない。
いずれにせよ、お前は小さく切りきざまれ、他人の肉体にひとつひとつ移植される。他人に分け与えられて、お前の存在は消えるのだ。
もはや抵抗を続けることはできず、言いなりになるほかない。服従するのをやめ、自分の意志と欲望を持とうとすれば、耐えがたい苦痛を味わうことになるからだ。
彼らを眺めるおれの目の苦痛こそ、彼らの浪費する幸福の供給源だったのだ。
《ヒガンテ》が通りを歩いていても誰も見向きもしないのに、《ヒガンテ》がおれでなくたって、誰も気づきゃしないだろう。 p.89
規則正しい間をおいて戸口が連なる、一枚の壁のような長い家並み。91
6章
7章
8章
「みんなは、ダミアナという名前さえ忘れてしまった。ただ、イリスの赤ちゃん、と呼んでいる。」 p.129
「イリスはダミアナの股を開く。むき出しの性器の醜悪さもおれに嫌悪を感じさせない。むしろその逆だ。たいそう慎み深くて純潔なおれたちが大事に守ってきた肉体の一部を《ムディート》の目にさらして、それを恥ずかしいとも思わない。七人の老婆の仲間入りをしたために、おれの性が消えたことを、その事実は意味しているのだろうか。おれのからだは徐々に小さくなっていく。おれは、おれの性器を隠しておくこともできるのだ、声を隠してきたように。」 p.130
9章
10章
11章
12章
13章
でも魔女のお告げなんですよ。あの方がひと晩、このわたしの部屋でいっしょにお過ごしになれば、イネスお嬢様、あなたは間違いなく、みごもることができるんでございますよ。 p.220
シスター・ベニータ、おれがおれであることを認めてくれ、と要求する声を、彼女が聞こうとしなかったあの瞬間から、実は、おれは唖になったのだ…… p.222
ウンベルト、わたしの精力を思いのままにできるのは君なんだ。わたしが君の腕の傷を奪ったように、君はわたしの力を奪ってしまった。わたしのそばを決して離れないでくれ。ねたましさであふれた君の視線が、わたしには必要なんだ。それでやっと、わたしは男でいることができる。 p.232
それは混沌あるいは無秩序そのものであり、死がとった別の形、最悪の形だった。 p.234
ペータ・ポンセのような老婆たちには、時間を重ね合わせたり混乱させたりする力がそなわっている。彼女たちは時間を掛けたり割ったりする。あらゆる出来事はその皺だらけの手の上で、華やかなプリズムに当たったように屈折し、拡散する。彼女たちはものごとの連続的な流れを断ち、その一片一片を平行に並べたり、折り曲げたり、輪にしたりして、自分たちのもくろみに役立ちそうな仕組みを作りあげる。 p.228
14章
醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子に与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった。 p.236
15章
16章
17章
「愛する」ことと「殺す」ことは等しく、「この人を消し去りたい」と「この人になりたい」は等しい。醜悪な老婆こそが絶世の美女であり、ただ一人畸形でない者こそが異常な畸形として疎外される。
18章
19章
20章
21章
22章
23章
24章
壺にかけられたお前の手に集中している視線。ゲームはまだ始まっていない。その目の前で繰りひろげられようとしている大勝負に夢中になり、老婆や孤児たちは息を殺している。お前が壺をあげる。
「四だわ。一、二、三、四、と……」
黄色い牝犬は、ほかの犬に追われながら逃げる。銀色に輝く月夜に土煙だけを残して駆け抜ける、復讐の念に燃えた旗手たちに追われて逃げる。毛の脱けた皮膚をひっ掻く茂みのなかに身を隠す。水たまりや湖を、何百年もの歳月や川を渡る。しかし、胃が痛くなるような飢えを満たすことはできない。口にする残飯や、がじる骨が十分ではないのだ。苦労して盗んだ餌をくわえて、しょっちゅうそんな目に遭っているが、どやされないうちに逃げだす。共犯者の星が指さす方角に向かって走る。山を駆けのぼり、谷に駆けおりる。当然果たさなければならないのに、その見込みのないあることを果たすために、走りに走る。獰猛な獣どもに八つ裂きにされるのを避けて、物陰にひそむ。連中は、醜悪で、痩せこけて、貧欲だというので、黄色い牝犬を憎んでいるのだ。彼女は畑や砂漠、荒れた岩場や棘を伸ばして刺そうとするサンザシの森を走りに走る。通りや公園を駆け抜ける。闇にまぎれてほんの少し人家に近づき、めぼしいものを求めてうろつきまわる。牝犬は痩せていて、虱だらけで、臆病だ。黄色い牝犬は獰猛ではない。決して攻撃はしない。その気がないことはないのだが、噛みつくことさえしない。しかし、四頭の黒い犬が遊びに夢中になっていると、機会を逃さず彼らの脚の下にもぐりこんで臓物をかっさらい、闇のなかの公園に身をひそめる。いつものように目を光らせながらあたりを警戒する。月に向かって吠え、忠告や謎をとく鍵を求める。月も知らないことを伝え、その助けを求める。引き裂かれた死体が庭師によって発見されなかったところを見ると、月は助けを与えたのだろう。黄色い牝犬は走る。走りに走る。弱っているくせに、ほかの犬が追いつけないほどの速さで走る。疲れきって休まなければならないはずなのに、いつも先頭を駆けていく。眠るときは何十年も眠る、誰にも見つからない森の奥で。目を覚ますとそこを出て、ごみ捨て場で餌をあさる。そして、若い男たちに蹴とばされる……あっちへ行けったら! 頼む、ゆっくりやらせてくれ。何も、そんなにじろじろ見るこたぁないだろ! いやな犬だぜ、ズボンを破くなよ。破いたらその顔を思いつきり蹴っ飛ばして、ぐしゃぐしゃにしてやるぞ!……おい、見ろよ! 舌なめずりしてるみたいだぜ。おれもゲラゲラ、お前もゲラゲラ。おれのツツサキは下がっちゃうし、お前はパンティーを上にあげちゃう。これじゃあ、おれもお前も気分が出るわきゃねえよ。あいつだけじゃないか、よがってるのは?……黄色い牝犬はふたたび逃げだす。舌を垂らして、あえぎながら走り去る。土埃と、追いつけなくて怒り狂うほかの犬の吠え声が、あとに残される。彼女はいつも飢えているが、しかしいつも敏捷だ。ほかの犬よりも敏捷で油断がない。黄色い牝犬はすでにゴールに迫っている。老婆たちは笑い、大声でわめく。お互いに賭ける。歯をほじくる。ののしり合い、金切り声をあげる。みんな親切なイネス夫人が勝つことを願っているのだ……黄色い犬が勝ちますように。緑や、黒や、青や、白が勝ったりしませんように。黄色い犬はいつも強いんです。勝つに決まっています。どうぞ勝たせてやってください……六が出て、黄色い牝犬はついに水たまりを越えた。もう一度、さいころが振られる。四が出た。一、二、三、四。彼女はゴールに倒れこむ。
「やったわ!」
「黄色い犬の勝ちよ!」
「わたしが勝ったの」
「イネス奥様の勝ちです!」
「よかった!」
「イネス奥様、おめでとうございます!」 p.435-437
25章
26章
わたしは、いつも黄色い犬だわ。やめるわけにはいかないの。山や道や畑を走らせたり、小川や湖を渡らせたりする義務があるのよ。わたしの手のなかで生に返るのよ。ほんとに、わたしには年寄りから巻きあげようなんてつもりはないの。あんながらくたが要るわけはありません。現に着ている汚れも破れも少しはましな服を、垢だらけで虫喰いもひどいものと替えたいっていうのなら、話は別だけど。わたしは勝ちたくないの。犬のほうがトラックを走りまわって、わたしを無理やり勝たせるのよ…… p.469
「わたしは、この歯を賭けます」
闇のなかに浮んだ顔が落ち着きを取り戻す。手をぼろの下に隠す。さまざまなことを見てきたはずだが、じくじくした目が、これから見られるものへの期待で光る。押し黙った老婆たちの輪が、それぞれゲーム盤の一方について、金箔の玉座の下にひざまずいたふたりを締めつける。黄色い犬がイネス、白い犬がイリスだ。さいころが壺のなかで鳴る。
「数の大きいほうが先よ」
イネスが二、イリスが四を出す。イリスからだ。白い犬がまた四だ。一、二、三、四。白い犬はプラスチック製で、同じ安っぽい材料でできた小さな台の上にのっている。それをイリスの手が進める。ゲーム盤はありふれたボール紙製で、家や斜面や小川がまずい筆で描かれている。イネスが五を出す。いらいらしながらそのときを待っていた黄色い犬が、パッと飛びだす。吠えながら畑を突っきる。一で、埃っぽい道を駆け抜ける。二で、月桂樹の生垣をくぐる。三で、月を映した水たまりのなかで足を止め、水をちょっぴり飲む。四で、なだらかな山腹を駆けあがって、五で、一軒の農場の中庭に達し、なおも走りつづける。白いプラスチック製の犬は後ろに取り残され、黄色い犬の姿はほとんど見えない。それは、かつてないスピードで走る。おれがほしいからだ。おれが自分のものになるからだ。めざましい勝ちっぷりでおれを手に入れたくて、それで黄色い犬は頑張っているのだ……一、二、三、四、五、六……イネス奥様は、ほんとにツイてるわ!……彼女はまた振る……四だわ。一、二、三、四……おれはイネスのものになりそうだ。黄色い犬のやつ、その腕がペータ・ポンセの腕に変わってしまわないうちに、イネスの腕におれを抱かせてしまうにちがいない。仮にペータ・ポンセのものに変わったら、その腕はおれを捉えて放さないだろう。おれのセックスはその腐ったセックスにのっとられるだろう。貧欲なうじ虫であふれたそのセックスのなかで、おれのセックスも腐っていくだろう。黄色い犬はおれをあの老婆の腕から救おうとしているわけだ。走れ、黄色い犬よ。月に吠えながら、稲妻を追いながら、走れ、走れ。プラスチックの犬の影はどこにもない。老婆たちが金切り声をあげる。身もだえする。ロザリオの祈りをくちずさむ。どちらに勝ってほしいのか、本人たちが分からなくなる。気の毒なイリスが寒さにふるえていることを知りながら、みんながイネス夫人に賭ける。ついにおれはお前のものになるのだ。かつて存在しなかったほど完璧だが、しかし十人の危険な騎手から身を隠すために、沼の岸の燈心草の茂みをくぐる黄色い犬には従順な、あのイネスのなごりでしかないのかもしれないけれど。黄色い犬の揺れる影である老婆たちの顔がかげり、その瞬間だけ別の顔が浮かびあがる……一、二、三……たった三だわ、でも、ゴールは目の前ですもの、どうってことありませんわ、イネス奥様……さあ、イリス、急がなきゃ。あまり狙わないほうがいいわよ。さあ、振って……なんだ、たった二よ……こんどはイネス奥様ですよ。簡単に勝てそうですわね……一、二、三、四、五、六。あら、もどらなきゃ……でも六ですから、もう一度振れます……三だわ。一、二、三……ちょうどだ。お前の勝ちだ。黄色い犬がゴールインしたのを見て、イリスは悲鳴をあげ、顔を蔽う。一方、老婆たちはイネス夫人におめでとうを言う。イリスは用のない抜け殻に化してしまう。もはや福者でもなんでもない。イネスが立ちあがり、自分の入れ歯を蹴とばす。蹴とばされて入れ歯は礼拝堂のすみっこへ消える。イネスはその腕で──昔のふくよかさをおれは記憶している──いそいそとおれを抱きあげる。彼女こそ真の福者なのだ。彼女こそ奇跡の女性なのだ。 p.476-478
27章
……おれに手を貸そうとするように、ふたりは街灯の下に立ち止まる。畸形たちはおれに同情を差しのべる。おれの唇の動きをじっと見つめる。シラブルを、単語を、それから意味を読み取り始める。仰天しながら聞く。おれはもう身振りをあまり使う必要はない。おれたちは話をする。いくらでも話すことがある。おれとあんたたちは、話すことが山ほどあるはずだ。最後までおれの指示にしたがってほしい。彼を完全に抹殺することを、ここで、おれに約束してほしい。 p.498
ぼくがいわば抽象的な存在に戻ることを認めてくれさえすれば、父の死後、ぼくの財産をどうするかは、あんたたちの勝手さ。外に5日間いて、ぼくは生きることへの興味を失った。ある詩人が言っているよ。『生きる? 生きるだと? なんだ、それは? そんなことは代わりに召使いにやらせておけ』って。あんたたちはぼくの召使いだ。あんたたちは、ぼくが生きることを拒絶したものを生きるんだ。現実を知ったいまでは、ぼくは人為的な世界にしか興味がない p.504
28章
「結局、いい作品を書こうと思って……ウンベルトの困ったところは、ひとつは、わたしの伝記が文学的な素材だと信じていることだった」「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏みこんでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗りこめられたその迷路のほうが、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりとしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、不安定で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった……そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと……」「面白いね、エンペラトリス。きみは大した文芸批評家だ」「長いあいだ彼といっしょでしたからね」「そうだな。しかし、わたしが思うに、彼の根本的な問題は、わたしに精神的な高さとある強固さを持たせる必要があるにもかかわらず、気の毒なことに、わたしにはそれが欠けていたことだった。だから、あんな風にわたしの伝記を建造しなければならなかったし、そのなかに自分を見失う結果にも…… pp.508-509
29章
30章
つまり『夜のみだらな鳥』の説話の構造は、詩の領域のそれを利用しているとも言えるし、詩における説話の構造を小説として成立させようとしているとも言える。『夜のみだらな鳥』は幻想小説ではなく、詩の説話構造を借りた妄想小説なのである。
『夜のみだらな鳥』のあらすじ紹介(この小説のあらすじを書くことにどんな意味があるかということを、寺尾自身が知っていながらもなお)に終始し、この小説の構造についての分析に至らない。苦し紛れに『夜のみだらな鳥』における方法のことを「負の魔術的リアリズム」などと呼んでみせるが、そんなものがあり得るとは私には信じがたい。
このような文章を読んで、私は寺尾が素直に『夜のみだらな鳥』は魔術的リアリズムによる小説ではない、と結論づけたら楽になれるだろうにと、心底思う。私はラテンアメリカ文学をむやみに魔術的リアリズムで括る必要はないと考えているので、寺尾の議論に賛成できないのだ。では、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』には」何があるのか? それこそが私の今回のテーマであって、これまで23回にわたって書き継いできた原動力になっている。まとめて言えば次のようになるだろう。『夜のみだらな鳥』は閉所恐怖と相続恐怖を特徴とするゴシック小説であり、二つの恐怖を極限にまで推し進めた、ラテンアメリカ文学最大のゴシック小説である。一方『夜のみだらな鳥』は、執拗な繰り返しと取り替え可能性の偏在、そして多くの矛盾を孕んでいる。
『緑の家』マリオ・バルガス=リョサ(1966)
ラテンアメリカ文学好きを自称しているのに未読だった『緑の家』(1966)をようやく読みました。(上下巻に分かれている岩波文庫で)
上巻の最初のページに 1965 と書いてあるが、1966 の誤字?(第2刷)
このうち『悪い娘の悪戯』はオールタイムベストといっていいくらいに好きな小説です。ノーベル文学賞作家が本気で書いたラノベだと思っています。〈ファム・ファタール〉ものが好きなひとは必読です。
『継母礼賛』はノクターンノベルズにありそうなポルノ小説でえっちで良かったです。『街と犬たち』は、少年たちが主人公の軍人士官学校モノで、ホモソーシャルな雰囲気があまり好みではありませんでした。
初期の代表作『緑の家』に関しては、「密林の娼館〈緑の家〉の話らしい」「バラバラのストーリーが並行して語られるめっちゃ読みづらい小説らしい」というくらいの事前知識でした。
はじめに、読後の感想を載せたのち、読み進めている最中にとっていたメモ書きを載せます。メモを取りながらでないと、内容の把握・整理が難しかったです。
なお、感想もメモも、わたしの主観で書いたものに過ぎないため、内容には多くの間違いが含まれていると思われます。勘違いしたままメモしていて、後の章で「あ、そういうことか! ずっと勘違いしてた~」と書き足している箇所もたくさんあります。その点を注意してお読みください。
読んだ期間:2025/6/18(水)~7/3(木)
計:15日間
感想まとめ
年代も場所も人物も異なる5つほどのエピソードを順繰りに並行して語っていく群像劇的な構成だが、期待していたほどには終盤で「バラバラに思われていた物語たちがひとつに収束し……!」ていなかった印象。もちろん互いに緩やかに繋がってはいるが、全体でひとつの壮大な物語を織りなしている感は薄い。ストーリー上のカタルシスもない。
前作『街と犬たち』でも使われていた、リョサお得意の、いきなり次の行や文から場面を切り替える、映画のジャンプカット的な文章技法は全編を通じて大盤振る舞いされていた。身構えたが、これは慣れればそんなに混乱はしない。なんとなくでも、ちゃんと切り替えが理解できるようにうまく書かれている。変わる行にシャーペンで線を引きながら読んだ。
この技法もさることながら、文体上の最大の特徴は、会話を地の文に埋め込み、かつ「~と言った。」を省略するところだと思う。誰がその台詞を言ったのかが分かりにくい場合がある。例えば、次の文章を読んでみてほしい。(『緑の家』上巻 p.27より)
シスター・パトロシニオは顔面蒼白、口もとが引きつり、指は黒い玉の数珠をしっかりとにぎっている。軍曹、相手は子供だということ、忘れないでくださいね。分かってます、分かってますよ! 〈デブ〉と〈クロ〉は、いいか、あの裸虫たちをおとなしく押さえておくんだ。シスター、シスターは何も心配することはありませんよ。それでも、シスター・パトロシニオは、乱暴だけは、お願いですから止めてくださいね! 船頭が、そこらの物はわたしが引き受けますから。
登場人物が沢山でてきてややこしいのもあるだろうが、それ以上に違和感があっただろう。"○○が「~~」と言った。" という構造の文をリョサは、 "○○が、~~。" とだけ書くことが多い。したがって、上の引用をわかりやすく書き換えるならば、
シスター・パトロシニオは顔面蒼白、口もとが引きつり、指は黒い玉の数珠をしっかりとにぎっている。シスター・パトロシニオは言った。
「軍曹、相手は子供だということ、忘れないでくださいね。」
「分かってます、分かってますよ!」と軍曹は答え、「〈デブ〉と〈クロ〉は、いいか、あの裸虫たちをおとなしく押さえておくんだ。シスター、シスターは何も心配することはありませんよ。」と言った。
それでも、シスター・パトロシニオは、「乱暴だけは、お願いですから止めてくださいね!」と言った。
船頭が「そこらの物はわたしが引き受けますから。」と言った。
のようになるだろうか。(あってる自信はない)(戯曲のト書き形式のほうが分かりやすい……)
もちろん、ずっとこういう難解な文章が続くわけではなく、パートごとに文体はガラッと変わる。しかし、一見誰が喋っているのか分からない台詞が並んだと思ったら、いつの間にか時空間すら飛んで全然別の場面の話をしている(と思ったらいつの間にか戻ってきている)……というように、文章に翻弄されて、それを自分でひとつひとつ推理して読み解いていかなければならない箇所もあった。
このように、パートごとの時系列や繫がり・どこで場面がシームレスに切り替わっているかを、読み進めながら自分で考えて整理していくのは、パズル的な面白さがあった。しかし逆にいえば、そういう表面的な小手先の面白さしかなくて、「小説」としての面白みや凄みはあまり感じられなかった、というのが正直なところ。
パズルを自分なりに当てはめたらそれで満足してしまうし、そもそも、こんな面倒な細切れのシャッフル構成にするよりも、ひとつひとつのエピソードをある程度連続して読ませてほしかったと思う。
ちょっと面白くなりそうなところで一旦打ち切られて別のパートに行き、続きはしばらく先にお預けにされることが続く読書体験。巧みなクリフハンガーといえば聞こえはいいが、ひとつひとつで読めば正直大したことない話を、細かく分割して再構築することで、さも複雑で有機的で奥深い物語のように見せかけているだけではないか、という身も蓋もないことを思ってしまった。
もちろん、そうした再構築型の構成が文学的に高く評価されてきたのだろうが、素人のわたしからすると、よくあるメロドラマやサスペンスなどのエンタメ小噺を、なんとか水増しして虚勢を張っているように感じられた。
「結局なんの話だったんだ?」と、読み終えてから呆気に取られてしまっているかもしれない。ひとつひとつの場面は思い出せるが、それらがひとつのまとまりとなって像を結ばない。これは本作の瑕疵というよりも、読み手であるわたしの力不足を示しているに過ぎないが……。今のわたしでは歯が立たなかった、と言い換えてもいいのかもしれない。
リョサは本質的にエンタメ通俗作家ではないか、という確信が私の中で深まった。ジャンプカット的な技巧やシャッフル群像劇構成を排して、一本道のエンタメ通俗小説として開き直って書いた『悪い娘の悪戯』を、わたしはこの世でいちばん面白い小説のひとつだと思う。
つまり、初期三部作など、ノーベル文学賞の授賞理由となったようなブンガク的に大層な初期作よりも、力の抜けた中期・後期の作品のほうがわたしは好みだと思われる。したがって、積んでいる『ラ・カテドラルでの対話』は飛ばして、『パンタレオン大尉と女たち』や『フリアとシナリオライター』などのコメディ色の強い長編を優先的に読んでいきたい。
物語の主な舞台は、大きく分ければ、密林の田舎町サンタ・マリーア・デ・ニエバと、砂漠の町ピウラのふたつ。(詳細にいえば、より東側の町イキートスや、ニエバから密林を分け入っていくサンティアーゴや「フシーアの島」、ウラクサといったインディオたちの集落がある)
その中でも、やはりピウラでの物語がもっとも印象深く、愛着が湧いて面白かった。ピウラのなかでも周縁部にあるスラム地区マンガチェリーアの下町人情あふれる人々の描写はグッときたし、ひとつの町の年代記として、『百年の孤独』や『丁子と肉桂のガブリエラ』にも少しだけ近い読み味の魅力があった。ピウラでのエピソードだけを纏めていたら、もっと好きだったと思う。
いうほど〈緑の家〉は出てこなかった。〈緑の家〉を主要な舞台にするというよりも、それを昔あったらしい伝説的な存在として、物語の土台に敷いている。〈緑の家〉を知っている層と知らない層がいて、そういう人々が交流していく様子を描くことで、ピウラの町に流れた時間の厚みを演出していた。
サンタ・マリーア・デ・ニエバ編では、ボルハ守備隊や治安警備隊といった、軍隊的な男たちのホモソーシャルな空間のパートがキツかった。これは前作『街と犬たち』でも感じたことなので、おそらく私はリョサのこうした側面が苦手なのだろう。インディオの集落を襲撃して略奪・誘拐を繰り返すくだりも……。
伝道所のシスターたちを交えて、「未開」の部族であるインディオたちを町に連れてきて文明化させてあげるほうがいいのか否か、という植民地主義的なテーマもいっしゅん浮上していた気がするが、最終的にどう処理されたのか、単に物語の1パーツで終わっていたようで納得いかない。
ホモソ描写とも地続きだが、なにより、「女好き」な男たちによる女性蔑視/差別的な言動がいたるところで繰り広げられるのをひらすら読まされたのがしんどかった。DV・モラハラ・性暴力・援助交際・ロリコン・児童虐待・グルーミング……クズ男の博覧会といった様相を呈していた。クズ男が好きなひとにはオススメの小説です。
もちろん、『街と犬たち』同様に、これらは男権社会のおぞましさと愚かしさを誤魔化さずに丹念に描き出そうとした結果であり、フェミニズム的にむしろポジティブなものではあるのだろう。
が、にしてもキツいし、しかも最終的にはそんなクズ男たち──少女を誘拐して孕ませて死なせたドン・アンセルモや、DV男のリトゥーマなど──も、なんやかんやみんな必死に生きてきて、無駄じゃなかったね、えらかったね、エモかったね、的な "赦された" トーンで絞められているように感じて、えぇ……と引いてしまった。(フシーアの最後は気の毒だが自業自得としか思えない)
まともな男は、船頭ニエベスと、ドン・アキリーノおじさんくらいか。この2人はマジで聖人だった。ニエベスの末路が可哀想というか気になる。
最推しは楽士エル・ホーベン・アレハンドロという中二病おじさん。『ガールズ&パンツァー』のミカさん的な、かっこつけて深そうなことをぼそっといいたがる、愛すべきキャラ。
![]()
弦楽器弾きなのもエル・ホーベンと共通している
女性陣は……主人公格のボニファシアをはじめ、ラリータ、ラ・チュンガ・チュンギータ、アンヘリカ・メルセーデス、アントニア、フアナ・バウラ、シスター・アンヘリカなどなど、印象深いキャラはたくさんいるものの、男性陣に比べると目立っていなかったというか、男たちに人生を翻弄されている人が多くて痛ましかった。ボニファシアとアントニアは特に。
そんななかでも、ラリータは計3人の男の「妻」として渡り歩いて、力強く生き抜いていて良かったし、ラ・チュンガやメルセーデスは頼れる「姐御」的な存在としてピウラで切り盛りしているのが眩しかった。
もっとも印象深い場面は、〈緑の家〉が焼け落ちるくだり(Ⅲ部1章C)。あそこは、いわゆる典型的な "カーニバル" 描写で好き。(そういえば、フシーアたちが「島」を開拓するために密林を燃やす場面も似た魅力があった。これら2シーンはおそらく構造的に響き合うように位置付けられているのだろうと今気付いた。)
ボニファシアの結婚式でシスター・アンヘリカと抱き合うシーン(Ⅳ部1章A)は直球に感動的で泣けた。ツンデレシスター。
Ⅳ部Cパートの、アンセルモがアントニアに恋焦がれる二人称の怒涛のロリコンおじさん語りはなかなか迫力があった。意識の流れっぽくなっていて、客観的に最も「文学的」なのはこのパートだと思う。ペルー版『ロリータ』。キモすぎるが。
感想メモ
Ⅰ部
0章(と便宜上、呼称)
文章がかなり特殊ですげぇ読みづらい!
改行がなく、「 」も使わず、三人称の地の文と発話が混在しており、さらに
"Aは〜〜と言った"
の "と言った" が省略されることが多い。
一文一文はきわめて短く平易だが、文章総体としては、誰が何をしているのか、状況の把握と整理が難しい。
しかも最初から登場人物がかなり多い。10人近く出てくる。『街と犬たち』の冒頭も大人数が集まるシーンからだったな。
『響きと怒り』の第1章や、『JR』の特殊な語りをマイルドにした感じ。老婆などいろんな人々がうわごとを言っている雰囲気はドノソ『夜のみだらな鳥』っぽさもある。
おそらく、初っ端でかまそうとしているだけであって、ずっとこれが続くわけではないと信じたい。。
軍曹率いる治安警備隊が、チカイスという集落のアグアルナ族からふたりの少女を拉致してきた?
2人のシスターが交渉役
1章
A
文章が普通になった! よかった〜〜
ニエバ川とマラニョン川の合流地点にある町サンタ・マリーア・デ・ニエバ。その丘の上にある尼僧院から、生徒たちが密林へ逃げ出した。管理人ボニファシアが果樹園の鍵を開けて彼女らを逃したという。『街と犬たち』が士官学校から男子生徒たちが街へ抜け出す話だったが、今度は女子生徒が密林へ抜け出すのか。
前章から、ふたりのシスター(アンヘリカ&パトロシニオ)は続投。
B
空行を置いて場面が移る。
ブラジルから脱獄してきた「日本人」(日系人?)フシーアと、アキリーノ「じいさん」がふたりマラニョン川を下る。
脱獄時の回想と現在時制がシームレスに切り替わる。これくらいなら全然混乱はしない。
p.50 「フリオ・レアテギ」は重要人物そう
C
再び移る。
砂漠の只中にある町ピウラのあらましを、三人称の語り手が語る。
こうした恩知らずな人間たちが夜の楽しみと女を求めるのを見かねたのか、ついに天が(ガルシーア神父に言わせると、「悪魔、いまわしいペテン師」が)彼らに喜びをもたらすことになった。かくして、騒々しい歓楽の不夜城〈緑の家〉が誕生した。 p.56
唐突にタイトル回収
サンタ・マリーアじゃなくてピウラにあるんだ
D
ロベルト・デルガド伍長は故郷のバグアに帰るため上司のアルテミオ・キローガ大尉から3週間の外出許可証をもらう。
p.60 船頭アドリアン・ニエベス! こいつが別々の場面を繋ぐ文字通りのキーマンか
E
1章ラストは、ガルシーア神父p.62 とかマンガチェリーアp.65 とか出てきているので、たぶんピウラの町の場面。
町の「番長」ホセフィノ・ローハスは、同じく番長として因縁のあるリトゥーマが首都リマから帰郷してきたことを、レオン兄弟(エル・モノ&ホセ)から伝えられる。
リトゥーマは再会の飲みの場を〈緑の家〉にしようと告げる。
〈緑の家〉はラ・チュンガ・チュンギータの店なのね
p.64 ホセフィノとリトゥーマの因縁、「あの女」とかいってるし十中八九〈緑の家〉関連だろ
1章おわり!
えーと、場面にして5つのパート(便宜的にA〜Eと命名)が羅列された。それぞれのパートで出てきた人物名や地名を忘れずにいて、場面同士のつながりを見つけていかなければならないっぽい。パズルだ……
これ以上増えなければいけるだろうけど、増えそうだな〜 計5場面を章ごとに定点観測して最後に収束するんだったら分かりやすいのに。
2章
A
尼僧院長とシスター・アンヘリカが、生徒たちを逃したボニファシアを詰問・説教する。1章Aパート続きだ! ボニファシアは孤児として尼僧院に拾われて育てられ、使用人的なことをしている。
p.75 昨日連れられてきた2人のアグアルナ族の子たちも一緒に逃げたんだ。
この尼僧院の普段のスケジュールや内部構造などが解説される。
生徒は二十人ほどいるが、すべて六歳から十五歳までのアグアルナ族の少女たちである。 p.78
え〜そうなの!? 尼僧院はアグアルナ族から少女を連れ去ってきて成り立っているということ? 序章では部族の大人たち同意してなかったように思えたが、実はまっとうな教育機関に預けるみたいに許容しているのかな
B
引き続きマラニョン川下りをしながらフシーアとアキリーノじいさんが会話する。
フシーアは昔、ブラジル・アマゾン近くの街イキートスにいた頃に、フリオ・レアテギの部下をやっていて、裏切って金を持ち逃げした?
フリオ・レアテギはホテル経営や密売などで稼いだ大金持ちらしいが、マフィアなのかなぁ
レアテギに媚びへつらっているドン・ファビオは、サンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官? フシーアとの会話ではイキートスのホテルマンみたいな挙動をしているが。そしてフシーアはホテルから逃げ出す際にムカついた猫の首を絞めて宙吊りにしていたらしい。サイコパス?
フシーアの回想に合わせて、別の時間軸の語りが入ってくる。まとめると、
①フシーアとアキリーノの会話(現在)
②ドン・ファビオとフリア・レアテギの会話(過去)
③フシーアとドン・ファビオの会話(大過去)
の3つが行を跨いで映画のジャンプカットのように切り替わっていく。
喋っている人物と、会話の相手の名前が時間軸を見分けるタグとして機能しているので、意外とすんなり理解できる。
どこで切り替わるかをページ上部に書き込みながら読むと、ちょっとペンシルパズルやってるみたくて楽しい。
「あんなものはくその役にも立ちゃあしない。地図を作った連中はこのアマゾン地方が片時もじっとしていない、燃える女みたいなものだってことが分かっていないんだ。ここでは、川も木も生き物もすべてその姿を変えてゆく。わしたちが住んでいるのは狂った大地なんだよ、フシーア。」 p.84
フシーアはアキリーノとモヨバンバで出会い、スカウトしたらしい。フシーアがレアテギの部下をやっていた時系列がよく分からん。
C
ピウラの町の叙事詩パート
謎多き若い男アンセルモがピウラに辿り着いて町に馴染むまで
おそらく長旅をしてきたのだろう、その動作は緩慢で疲れ切っているように見えた。 p.89
このように三人称の地の文は全知の語り手ではなく、民話調のように親しみ易くしている。
D
1章にはなかった新パートだ Dというか「F」?
フリオ・レアテギ含む4名のお偉いさんの会話
場所がサンタ・マリーア・デ・ニエバなのかイキートスなのか。どちらでもありそうな描写。また複数の時間軸が知らぬ間に入れ替わっているのかな。
計画を掻き回している「あの二人組」とはフシーア&アキリーノのこと?
あとサンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官って結局誰なんだ。ドン・ファビオじゃなくてドン・フリオ・レアテギ? もしドン・フリオとフリオ・レアテギが別人だったらもうお手上げ。
ウラクサのアグアルナ族に関しては、1章Dで言及されていた。
まったくどうなっているんだ、連中はイキートスを人間だと思っているんだ、なんにも分かっちゃいないんだよ、ボニーノ。 p.100
いや他人事ではなく、自分もマジで誰が誰だか、人名と地名すらも混乱してきた。
イキートスというのはボスの名前じゃない。この川下にある町の名だ。マラニョン川を下って行くと、その町に行ける。 p.101
イキートスってマラニョン川の下流にあるの? マラニョン川の流れる方向が想定と反対かもしれない。分水嶺みたいに、内陸の途中で反対向きになるのかな。
このパート何も分からん! あとで読み直します!
E
ピウラの外れにあるスラム街マンガチェリーアへ、そこで生まれ育ったレオン兄弟に案内されてホセフィノとリトゥーマが再会し、4人で飲み交わす。
今回は特に切り替わりが無かったと思う。
p.105 故人ドミティーラ・ヤーラ婆さんはいかにもまた言及されそう
p.110 「ボニファシアのために乾杯!」!? EのリトゥーマたちとAの尼僧院が繋がるのか。ピウラとサンタ・マリーア・デ・ニエバでは場所もかなり離れているが…… そもそも時系列もわからん。毎章、サプライジングな絞め方をしてくる
3章
A
ボニファシアは、どうか伝道所から追い出さないでくれと尼僧院長に懇願する。彼女が、食料貯蔵庫に隠れていたチカイスの少女2人に揚げバナナをあげる回想場面がところどころに挿入される。
ボニファシアがアグアルナ族の言葉を話せるのマジだったんだ。元アグアルナ族出身とか?
B
女性に関する罵倒語「すべた」って語源はポルトガル語・スペイン語なんだ! じゃあ翻訳で使うのも理に適っていると。
フシーアは浸水の町ベレンにてフリオ・レアテギの部下として、ゴムをタバコと偽って密輸していたが、ラリータという娘と駆け落ちした。→マラニョン川にあるレアテギの土地ウチャマーラへ。
ラリータの母親はフシーアに騙されたことに驚き、弁護士に相談する。
「知り合った頃はまだ世間知らずの生娘だった」とフシーアは言った。「時々子供みたいに泣き出したな。こっちの虫の居所が悪い時はひっぱたいてやったが、そうでない時はよく飴を買ってやったもんだ。そうだな、娘と女房をいっしょにもらったような感じだったよ。」 p.124-125
基本的には
①フシーアとアキリーノの会話
②ラリータの母親とポルティーリョ弁護士の会話
が交互に切り替わる構成だが、最後のp.131-132で
③フリオ・レアテギとポルティーリョ弁護士の会話??
が挿入される。③の人物は自信ない。フシーアかも。
C
アンセルモの奇行にピウラの住人たちは興味津々。明け方に宿泊先の馬に乗って散歩したり、砂漠に土地を購入したり。
馬の散歩に遭遇したのは、ホセフィノの父であるカルロス・ローハス。Eに登場するホセフィノがまだ赤ん坊の頃らしいので、時系列は「C→2~30年→E」といったところか。Eのリトゥーマがアンセルモの子だったりして?
あと序章から「ランチ」という語が出てきていて、文脈上、いかだや小舟のようなものだと思われるが、検索しても不明
D
キローガ大尉率いるボルハ守備隊は、近くの部族の集落を襲撃しては男を攫ってきて収監し入隊させている?
1章D(p.56)の続きで、ロベルト・デルガド伍長が故郷バグアに行くために、新人船頭アドリアン・ニエベスとアグアルナ族の無口なポーターの3人でランチに乗って川上へ出発する。2日後ウラクサへ到着して、もぬけの殻の集落に夜営して金品を強奪。返り討ちにあいそう。大尉に持ち帰ると約束した蚊に刺され用の塗り薬は見当たらない。
E
ホセフィノとリトゥーマたち4人の呑み会は続く。ジャンプカットなし
リトゥーマはリマで、序章の〈クロ〉=カルデナス伍長と一緒にいた(軍隊?牢屋?)。リトゥーマはピウラで革命関係のある事件を起こして町を去ったらしい。《革命連合》、サンチェス・セーロ将軍?⇔敵対関係にある「アプリスタ」派閥
「彼女は娼婦になったんだ」とホセフィノが言った。「今、〈緑の家〉で働いている。」 p.150
ボニファシアはリトゥーマの元恋人だったのか? 少なくとも想いを寄せてはいたっぽい。Aで尼僧院を追放されてピウラに行き着いてリトゥーマたちと知り合い、リトゥーマがリマへ去ったあとに〈緑の家〉に入ったのかなぁ。てか、〈緑の家〉がまだ噂に上るだけでしっかり登場してない。早く見せてくれ。『桐島、部活辞めるってよ。』パターンはやめてくれよ
4章
A
ボニファシアが2人のインディオの少女を気の毒に思って扉から逃がそうとしていたところに、他の生徒たちもやってきて一緒に脱走しちゃったわけね。
幼児のボニファシアがウラクサからサンタ・マリーア・デ・ニエバに連れてこられたときに、一緒に連行されてきたインディオの男は、伝道所に数か月滞在したのち、「罪を犯した」(たぶん姦通)ことで髪を切られて木に吊るされた。ボニファシアはその男を自分の父親ではないかと疑っている。その男から「悪魔」が自分に乗り移ったのではないかと信じている。インディオにとって "髪を切られる" ことがどれほど屈辱的なことなのか。それで、シラミを取るためにシスターが少女たちの髪を切る前に、ボニファシアは彼女たちを逃がしてあげたくなった、と。
「急にひとりの子がわたしのほうに近づいて来ました」とボニファシアは言った。「近寄ってきたのは小さいほうの子だったのですが、わたしを抱きしめに来たと思っていましたら、その小さな指でわたしの髪の毛についているシラミを探しはじめたのです。そばに来たのはそのためだったのです、院長様。」
「どうしてあの子たちを寝室に連れ戻さなかったのです?」と尼僧院長は尋ねた。
「きっとあの子たち、嬉しかったんですわ。わたしが食べものをもって行って上げたので、お礼のつもりでそうしてくれたんです」とボニファシアは続けた。「ですが、シラミが見つからなかったものですから、それは悲しそうな顔をしました。その顔を見てわたしは、ああ、シラミがいればいいのに、どうか一匹でもいいから見つかりますようにと心の中で祈りました。」 p.162
ほっこり
B
フシーアとラリータは結婚してたのか? 「奥さん」「女房」とは「情婦」の単なる言い換え? 当時のラリータ15歳かよ そんな少女にすっかりご執心のフリオ・レアテギは完全に援助交際のパパ活おじさんと化している。
国外逃亡するためにフシーアは、フリオのもとにラリータを置いていこうとしたが、彼女はフシーアを追いかけてきた。フシーアはエクアドルに逃げる予定だったが結局ペルー国内から出られなかった。
C
〈緑の家〉ができるまで/できてから
ようやくだよ! なるほど、前章Cでアンセルモが砂漠の土地を買ったのは、〈緑の家〉を建てるためか。
ピウラの町では、最初の〈緑の家〉、母胎ともいえるあの建物についていろいろと取沙汰された。だが、今ではそれがどんな建物だったのか、あの家にまつわるほんとうの歴史がどのようなものだったのかを正確に知っている人はいない。当時のことを覚えている人はほとんどいないし、たとえいたとしても筋の通らない矛盾した話をした上に、自分が実際に見聞きしたことと頭の中ででっち上げたことをごっちゃにしてしまうのだ。 p.177
「あの音楽が聞こえてくると、男たちの顔つきが変わったものですよ」とヴェールをかけた信心深い老女たちが言った。「あの音楽が男たちを家庭から引き離したのです。あれが聞こえてくると、男たちは街路へ、ビエホ・プエンテ橋のほうへ引き寄せられて行きました。」 p.179
「〈緑の家〉が町に不幸をもたらしたというのは、たぶん本当だろうね」と老人たちは唇を舐めながら言った。「しかし、あの店ではみんなさんざんいい思いをしたからな。」 p.179
〈緑の家〉ができて以降、ピウラの町は水害・干害・虫害などに襲われた。が、外の町からも〈緑の家〉へ客が来るようになり、町はよそ者でひしめくようになった。
一年目は、女が四人しかいなかった。しかし、二年目に入ってその女たちがやめて行くと、ドン・アンセルモはよその土地から八人の女を連れて来た。言い伝えによると、最盛期の〈緑の家〉には二十人ばかりの女が働いていたと言われる。女たちは町はずれにある道を通ってあの建物に向かって行った。ビエホ・プエンテ橋の上に立つと、〈緑の家〉に向かって行く女の姿が見え、彼女たちの金切り声や呪詛の言葉が聞こえてきた。 p.183-184
〈緑の家〉を利用したり軽蔑したりする周りの人びとの描写は多いが、そこで実際に働く女性たちの情報はここくらいしかない。
ドン・アンセルモの経営する〈緑の家〉は繫盛するにつれて縦横に伸び広がって行った。あの建物はまるで生き物のように膨張し、成長しはじめた。 p.184
全盛期の〈緑の家〉には、大勢の女たちのほかにマンガチェリーア生まれの若い娘アンヘリカ・メルセーデスが住み込んでいた。彼女は母親からさまざまなソースに関する知識やその作り方を教えこまれていた。 p.186
Eパートでは「アンヘリカ・メルセーデスの店」を立派に切り盛りしているアンヘリカの少女期か。
D
案の定、アグアルナ族にデルガド伍長たちは襲われる。なんとか船頭アドリアン・ニエベスだけは川を下って逃げ、マラニョン川からも外れて彷徨った挙句に、フシーアとラリータが暮らす島に辿り着く。巻頭の地図に「フシーアの島」があったからな。
これでBとDが合流した! この第Ⅰ部でA~Eがだいたいまとまるってことか。第Ⅱ部はまた違うバラバラのパートになるのかなぁ
ニエベス、船頭をやってるときにボルハ守備隊に捕まって兵隊にさせられていたのか。
そういや確かに、Bのフシーアとアキリーノの会話でニエベスの名前出てきてたな
E
ボニファシアが〈緑の家〉で働いていると知ってショックで傷心のリトゥーマ。意外と繊細だ。
リトゥーマはリマで刑務所にいたのね。政治的な行動で逮捕されたのか。ホセフィノたちも一緒にいたからピウラから一旦離れて潜伏していたと。
ボニファシアも、ホセフィノやリトゥーマたちの仲間の一員だったようだ。事件のときは身重だったが無事に産んではいないらしい。
ホセとエル・モノとリトゥーマの3人が幼馴染で、ホセフィノだけ違うのか
p.198 リトゥーマは「治安警備隊」に入った? 0章の治安警備隊と同じ? いつの事?
3人の反対を振り切ってリトゥーマは〈緑の家〉へ行く……ところで第Ⅰ部おわり!
Ⅰ部まとめ
第Ⅰ部の全4章は、それぞれA~Eの5つの節(パート)に分かれていた。
A:サンタ・マリーア・デ・ニエバの伝道所から少女たちをボニファシアが逃がしてしまった話
B:マラニョン川を下りながら、フシーアがアキリーノに語る身の上話
C:砂漠の町ピウラに謎多き男アンセルモがやってきて〈緑の家〉を大繁盛させるまでの年代記
D:ボルハ守備隊のロベルト・デルガド伍長に連れられて船頭アドリアン・ニエベスらがウラクサ方面へ行く話
E:リマの刑務所から釈放されたリトゥーマがピウラに凱旋して仲間のホセフィノらと再会する話
ただし第2章のDに相当する節(F)だけは、Dとはかなり異なる、フリオ・レアテギ達の会話だった。
また、第1章の前の、第0章に当たるパートは、2人のシスターと「治安警備隊」がアグアルナ族から2人の少女を拉致して、Aの伝道所へ連れていく場面が描かれていた。
現時点での各パートの関係を整理すると、
・C→E/0→A→E
まずCとEは、いずれもピウラを舞台としており、C→Eの順で推定2, 30年ほどの隔たりがある。Eでは立派な大人(若者?)のホセフィノが、3章のCではまだ赤ん坊であり、Eでは存在して久しい〈緑の家〉が建つまでの過程をCでは描いているため。ホセフィノの年齢が分かれば、CとEの年代差も特定できる。
また、Eで〈緑の家〉の娼婦となっているらしいボニファシアは、Aの中心人物である。しかし、ピウラとサンタ・マリーア・デ・ニエバと、舞台がかなり離れている。おそらく、Aで伝道所を追い出されたボニファシアがピウラに辿り着いてリトゥーマ達と知り合って、彼らの逮捕後に娼婦になったのだとすれば、A→Eの時系列である。Aにて、ボニファシアが幼児の頃に伝道所に引き取られて育てられたと語られるため、E→Aの可能性は低い。A時点でのボニファシアの年齢が知りたい。
さらに、第0章で攫ったアグアルナ族の少女ふたりが、Aで伝道所に来ていたので、0→A。
0章とE-5章で「治安警備隊」の言及があるが、関連性は不明。
中心人物はボニファシア、ホセフィノ、リトゥーマ、アンセルモ
・(0→)D→B/F↔B
BとDは、第4章Dの最後にて繋がった。Dの船頭ニエベスが命からがら行き着いたのが、第4章Bの最後で語られる、フシーアとラリータが逃避行して築いた「島」である。
また、Bにてフシーアのかつての仕事仲間・上司であったフリオ・レアテギは、第3章のFの中心人物であり、ここの会話中で言及される「例の2人組」とはBのフシーア&アキリーノかもしれない。Fの時系列は不明なので、Bとの順序も分からない。
0章の治安警備隊にも船頭ニエベスはいる。これがDのボルハ守備隊とは別物なのか微妙。しかも1章Dにてニエベスは「新兵」としてすぐに伍長との旅に出発していたため、その前に0章の拉致作戦に参加していたのか分からない。
中心人物はニエベス、フシーア、フリオ・レアテギ
大きく分類すると以上の2つのまとまりになる。これら2グループが、第Ⅱ部以降でさらに繋がり、1つの大きな流れになっていくいくことに期待。
このように、とにかく構成にめちゃくちゃ凝っている小説なので、正直あんまり小説を読んでいる感じはしない。ペンシルパズル的な面白さ。
それと、章ごとに順番に読んでいくよりも、パートごとに、まずAを1~5章続けて読んで……というほうが読みやすく面白そうではある。でも、そうだと分かるためにはまず第Ⅰ部を通読しないといけない、という罠。
パート別にいうと、Aが今のところいちばん面白いかな~ ボニファシアが伝道所から逃がしちゃった少女たちの行方が気になる。そのボニファシアがEで娼婦となって登場するのも興味を惹かれる。ピウラという町の歴史が地の文のみで語られるCも好き。つまり、↑の分類のひとつ目のほうが現時点では好き。ふたつ目の、フシーアやニエベスのほうは、軍隊とか襲撃とか密輸とか裏切りとか、なんか怖いし…… こちらのヒロインのラリータに期待はしている。
Ⅱ部
3章までしかない! 1章減ってる
0章
フリオ・レアテギがサンタ・マリーア・デ・ニエバに到着して、行政官ファビオ・クエスタ(I-2Bのドン・ファビオp.81)や、I-Fの3人(マヌエル・アギラ、ペドロ・エスカビーノ、アレバロ・ベンサス)と会い、伝道所を訪ねる。
第I部2章Bに出てきた「ドン・ファビオ」=ファビオ・クエスタはやっぱりイキートスのホテルマンから、ニエバに移って行政官になったのね。フリオ・レアテギの斡旋で。
フリオ・レアテギもお世話になったシスター・アスンシオンが亡くなった。レアテギ以前はニエバにいたんだ。
フリオの妻が伝道所に礼拝堂を作った?
フリオ・レアテギ夫妻と弁護士ポルティーリョ夫妻それぞれの子守りをしてもらうために、伝道所の生徒ふたりをイキートスへ連れて行こうとしている。建前上は、ここは女中の職業紹介所ではないのです、という尼僧院長に、内心で憤るフリオ。ゴマをするファビオ。
ボルハ守備隊も治安警備隊も名前が出ている。別組織だがどちらもニエバにいるらしい。
ここでフリオ・レアテギに引き取られる予定だったのがボニファシアか! でも彼女は嫌がって、伝道所に残ることになった…… ウラクサから来て4年か。10歳弱とかそのくらい? それで、他の生徒は学業を終えてどこかに引き取られていく中、ボニファシアだけは伝道所に留まりたくて使用人ポジションで働いていたところに、あの逃走補助事件を起こして追放されてピウラに流れ着いたってかんじか。
I-Aより前の時系列だ。でもこれで、ボニファシアとフリオ・レアテギが面識あったことが判明して、第I部の2つの物語グループが早速繋がった。
ウラクサからボニファシアが連行された時にフリオ・レアテギは絡んでいるってことかな、当時の彼女を見ているのだから。
1章
A
軍曹と治安警備隊と船頭ニエベス……I-0章の面子だ!
I-Aで伝道所から脱走した少女たちを連れ戻すために密林を探し回っている。そりゃ大変だ
そもそもインディオの子供たちをニエバに連れてきて伝道所にぶち込んで教育・キリスト教化・文明化するべきかについて議論を交わす治安警備隊と軍曹たち。
えっ!? 船頭ニエベスのところにラリータと、伝道所を追放されたボニファシアがいる!?
船頭ニエベスは、I-5Dでフシーア&ラリータの島に辿り着いてから、ニエバで治安警備隊に入っているのか。I-Dのボルハ守備隊→フシーアの島→II-Aのニエバ治安警備隊、という遍歴。
B
引き続きフシーアとアキリーノの川下り中の会話。イキートスの対岸の都市サン・パブロに向かってるの? 逆方向だと思ってた
p.242 島に残してきたパンターチャってフシーアとラリータの子供?
クロスカッティング演出で、行政官ドン・ファビオ・クエスタとポルティーリョ弁護士の会話。2人はフリオ・レアテギに向けて喋りかけているようだが、フリオは一度も台詞がないので本当にその場にいるのか怪しい。ポルティーリョ弁護士と同一人物の可能性ある? 2人はインディオと白人のゴム商人からゴムを盗む盗賊の話題で持ちきり。フシーアが「島」でお世話になったウアンビサ族が盗賊にいるらしいが、フシーアたちが盗賊なのかなぁ
C
ピウラでの出来事だが、I部と連続的ではなく、時系列が分からない
町の名士である農場主のキローガ夫妻(ドン・ロベルトとドーニャ・ルシーア)は捨て子の女児アントニアを養子にするつもりだった。しかし引き取る前にキローガ夫妻は強盗に殺されてしまった。アントニアだけは奇跡的に一命を取り留め、町のみんなに哀れまれ可愛がられて育った。
……えーとまず、キローガ夫妻とはI部D p.56に出てきたアルテミオ・キローガ大尉とは別人? ドン・ロベルトはロベルト・デルガド伍長とは無関係? アントニアってこれまでに出てきてないよな?
D
言うてたらキローガ大尉とデルガド伍長が登場したw フリオ・レアテギもいるじゃん
彼ら3人が11人の軍隊を率いて、ウラクサのアグアルナ族を騙して襲撃。部族のリーダーはフム。既にどこかで登場していた覚え……
フリオってニエバの行政官なのか。のちにファビオにその座を譲ったってこと? 大尉や伍長よりもフリオは立場が上らしい。ロリコン?
E
リトゥーマやホセフィノたち4人は〈緑の家〉へ
まだ一応、アンセルモは目と足を悪くしているが相変わらずハープを弾いている。「ハープ弾きのおやじさん」として親しまれている。
「ひとりは娼婦で、もうひとりは乳牛か」とリトゥーマが呟いた。「よほど女を見る目がないんだな、おれは。」 p.255
ボニファシアだけじゃなくてリーラという女性も好きだったのかリトゥーマは。
それがラ・チュンガの店で、そこもやはり〈緑の家〉と呼ばれていた。 p.256
まるで〈緑の家〉が複数あるような言い方
リトゥーマはリマで服役してたんじゃなくて、サンタ・マリーア・デ・ニエバで軍隊に入らされていた? 店主ラ・チュンガが「軍曹」と呼んでるし…… まさかI部0章とかの軍曹ってリトゥーマだったのか?
ホセフィノやリトゥーマは店主から出禁くらっている。何をやらかしたんだ
「ラ・セルバティカ」ってボニファシアのこと?
2章
A
1章Aで誘った通り、サンタ・マリーア・デ・ニエバにて「軍曹」(=多分リトゥーマ)が船頭アドリアン・ニエベスの密林の家に招待されている。家の中にはラリータがいる。
「アキリーノというのは、いちばん上の子だね?」と軍曹が尋ねた。 p.264
えっ!? ラリータとフシーアの子? ニエベスの子? いずれにせよ、アキリーノってフシーアよりも年長じゃなかったのか
おそらく同名の人物がいる。『響きと怒り』だ
ニエベスとラリータが夫婦っぽいなぁ……
ボニファシアまで引き取られてる! 1-Aで言ってた通りだ。フシーアの存在が謎。アキリーノより年下なら、まだ生まれてないのか。じゃあI部5-Dあたりでニエベスが川を流されて「フシーアの島」に辿り着いたのはなんだったんだ。そもそもラリータをここに連れてきたのはフシーアじゃなかったか。
フシーアかニエベスかラリータが2人いる? 時間が歪んでいる?
そういうことか〜 軍曹=リトゥーマの経歴が分かってきた。ピウラのマンガチェリーア地区で生まれ育ち、治安警備隊に入隊してリーラといい感じになっていたが、サンタ・マリーア・デ・ニエバに異動になったことで破局。ニエバでは軍曹として働き、ここで船頭ニエベスとその妻ラリータの紹介のもとボニファシアと知り合い、ピウラに戻るときに一緒に連れて行く。しかしピウラで何らかの事件を起こしてリマに投獄され、何年後かに帰郷した時にはボニファシアは娼婦に、リーラは他所の男の妻になっていた、と……。
伝道所の生徒たちは密林で無事に発見されたようでよかった……かな。例の新入り2人だけ行方不明
この時点で推測するに、アキリーノが2人いるんかなぁ…… てか、ラリータはフシーアの妻だったはずだよね。p.192-3参照
2人の元に船頭ニエベスが辿り着いて身を寄せたあと、フシーアが何らかの形で死ぬかいなくなって、ラリータがニエベスと再婚したのかなぁ。ニエベスがフシーアから妻を寝取ったかたちだもんな。そして、フシーアがお世話になったアキリーノじいさんにちなんで子供の名前を付けた……とすれば辻褄は合うか。すると少年アキリーノはニエベスの子ではなくフシーアの子なのか?
ここにきて、これまでのBパートのフシーアとアキリーノじいさんの会話を見返す必要が出てきた……
B
とか言ってたら早速、フシーアとアキリーノじいさんが船頭ニエベスについて語っている! 読者を大いに混乱させて疑問を持たせてすぐに、それについて別視点から説明を与えてくれる、ユーザーフレンドリーなんだか意地悪なのか分からない巧い構成。
なるほどね。要するに、不能で最低の不倫モラハラ暴力夫であるフシーアから離れるために、ラリータはニエベスに夜這いして2人で「島」から駆け落ちしたのか〜。
ニエベスはめちゃくちゃいい奴だし、アキリーノじいさんもいい人すぎる。それに比べてフシーアは…… 身体が病気で蝕まれて脚も動かさなかったと嘆息するが、天罰としか思えない。
「食えない女だよ、あいつは。昔は若かったし、顔に吹き出物もなかったが、おれはわざと結婚してやらなかったんだ。いずれ自分の魅力が衰えた頃に結婚してもらえると踏んでいたのさ。」 p.283-284
フシーア夫妻とウアンビサ族で構成される島に、アグアルナ族のリーダーだったフムも連行されてきたのか。パンターチャも別部族の男か。女かと思った。
C
中老年女性と女児の組み合わせ好き(石牟礼道子『椿の海の記』とか) 洗濯女フアナ・バウラと盲目の孤児アントニア。
町のみんなで子供を見守って育てるかんじ良いなぁ。
少女がおとなしくじっとしている日は、洗濯女は軽い足取りで家にとって返し、ロバの手綱を解くと、洗濯物を集めて川に向かう。アントニアが不安そうに彼女の手を握って離さない時は、彼女も横にかけてやさしく慰めてやる。アントニアが行っていいと言うまで、彼女は何度も何度も手で尋ねた。 p.291
アントニア無事でいてくれ〜 これまでの傾向だと、このあと別のパートでアントニアが言及されるはず。
D
あ〜II部1章Dでの治安警備隊のウラクサ襲撃は、第I部4章Dでデルガド伍長とポーターがアグアルナ族から袋叩きにされた報復か。伍長殺されてなかったのね。
デルガド伍長もなかなか悪くて、自分が略奪しようとして反撃されたのに被害者面している。船頭ニエベスはインディオたちに殺されたのだと主張。
フリオ・レアテギは相変わらずロリコンだなぁ。このインディオの少女はボニファシアかな。流石にアントニアではないか。赤ん坊の状態でピウラの名士夫妻に発見されてるし。
族長フムは、ここで生き残ってどのようにフシーアの島に流れ着くのだろう。
イラクサのアグアルナ族はここ10年間ペドロ・エスカビーノとゴム・革の取り引きをしていたが、突然もうエスカビーノに採集物を渡さず、自分たちでイキートスで売ると言い出す。そりゃあ伍長やフリオ・レアテギらは怒るだろうが、そもそもインディオから搾取し続けていたのはお前らだからなぁ。
ボニファシアとニエベスの境遇を中心に整理すれば、パート間のおよその時系列は見えてくる。このDパートが現在時としてはいちばん過去なんじゃないか?
I部Bフシーアが回想するラリータとの出会いと「島」に辿り着く過程
→II部1,2-D伍長がウラクサ略奪の返り討ちにあい、船頭ニエベスはフシーアの島へ
→II部2-Bで回想されたラリータとニエベスの駆け落ち(サンタ・マリーア・デ・ニエバへ)
→第I部A伝道所からボニファシアが生徒を逃して退所
→II部1-Aニエベス&ラリータ夫妻がボニファシアを引き取る
→II部2-A軍曹リトゥーマがニエベス夫妻の家に招待され、ボニファシアと知り合って共にピウラへ
→Eリトゥーマは事件を起こしてリマへ収監され、ボニファシアは〈緑の家〉の娼婦に
→Eリトゥーマが帰郷
まだまだ書き足りない筋がたくさんある
E
ラ・セルバティカ=ボニファシア?はホセフィノに連れられてリトゥーマと再会して、フロアで踊る。リトゥーマは、なんとか自分がショックを受けていないふりをするのに必死。そんな様子をホセフィノや店主ラ・チュンガ・チュンギータは複雑なまなざしで見つめる。
3章
A
リトゥーマ軍曹が、家を空けるニエベス&ラリータ夫妻に頼まれてボニファシアに会いに行き、強姦して処女を奪う。まったくどいつもこいつも……
ランチって住居兼用の船のことか?
B
ボニファシアもフシーアの島にいたことあるの!? シャプラ族とウアンビサ族が抗争した時に、シャプラ族でボニファシアだけは殺されずにフシーアとウアンビサ族に島へ連れてこられた。当時12歳。意外と大きい! もっと幼児かと。
じゃあ船頭ニエベスやラリータとは、その時からの付き合いだってことね。でも、そのあとニエベスとラリータが駆け落ちした際には、ボニファシアは島に残された。そのあとボニファシアはどういう顛末でサンタ・マリーア・デ・ニエバの伝道所に引き取られたんだ? ひたすらに翻弄される気の毒で壮絶な人生すぎる。伝道所に引き取られたのが何歳のときなんだろう。
じゃあII部2-Dのウラクサの少女はボニファシアではない? そもそもアグアルナ族ではないものな。
フシーアが協力して島で一緒に住んでいるウアンビサ族は、インディオのなかでも誇り高く好戦的な部族らしい。
町から密林に逃げて死にかけていた白人のパンターチャを拾って島に連れてきたのはアキリーノじいさん。パンターチャは麻薬中毒ですっかり頭がやられている。だから疎まれているのか。しかし彼はフシーアが病に侵され寝たきりになった時に寄り添ってくれた。
C
短い
行方不明だったアントニアは、アンセルモが〈緑の家〉に匿っていた!? のに、彼女は死んでしまったと洗濯女フアナ・バウラに慟哭して謝罪するアンセルモ。どういうことだ…… よく分からないけど、この小説には基本的にクズな男しか出てこないのか。船頭ニエベスとアキリーノじいさんだけが良心
D
襲撃したウラクサで、アグアルナ族の男たちを鞭打ちし、女たちを輪姦する治安警備隊の男たち。(行政官フリオ・レアテギ、キローガ大尉、デルガド伍長)
捕虜のインディオ女性たちをレイプしようと上司に願い出る、顔のない男たちの描写がホモソーシャルをうまく表現していてうげぇっとなる。
そう言えば、ご婦人方のことをすっかり忘れていたな、大尉、とフリオ・レアテギが言う。兵隊たちは急に立ち上がると、何も言わずに行政官のほうへ進み出る。口元が引き締まり、据わった目がぎらぎら光っている。しかし、こういうことは行政官のお心ひとつですからね、ドン・フリオ。決めていただければ、わたしのほうは言われた通りにします。フリオ・レアテギは兵隊ひとりひとりの顔をじっと穴のあくほど見つめる。兵隊たちの体がひとつに溶け合い、沢山の顔がいっせいに行政官のほうへ突き出される。 p.338
ここで平然を気取っているキローガ大尉も、このあと夜にこっそり捕虜の少女を犯そうとするという……。
こういう軍隊の男たちを、より滑稽に風刺したのが『パンタレオン大尉と女たち』か。
キローガ大尉に襲われかけてフリオ・レアテギに助け出された少女、やっぱりボニファシアなのか? 伝道所に連れて行くと言われてるし……。
シャプラ族→フシーアの島→フムに連れられアグアルナ族→治安警備隊の捕虜→伝道所→ニエベスの家→軍曹リトゥーマとピウラへ ってこと??
フムも鞭打たれる。フムの遍歴・時系列もよく分からん。フシーアの島からニエベスとラリータが駆け落ちしたあと、フムとボニファシアはウラクサのアグアルナ族で暮らしていたのか? だとすればいちおう辻褄が合うか……??
ウラクサでニエベスやデルガド伍長が襲われて(I部4-D)から、治安警備隊が仕返しするまでに相当な期間が空いてないとおかしくなる。だって、ニエベスがフシーアの島に辿り着いて、シャプラ族からボニファシアがやってきて、ニエベスとラリータが駆け落ちして、フムとボニファシアがアグアルナ族に合流して……という一連の出来事があいだに挟まっていないとおかしいので。それとも密林の時間は変幻自在とかいうあれなのか。
足もとでは焚き火が死にかけた老犬のように喘いでいる。 p.340
比喩
E
リトゥーマが〈緑の家〉の外でホセフィノを半殺しにする。エル・モノやホセ、そしてラ・セルバティカ(=ボニファシア?)も加勢する。リトゥーマはホセフィノを殴ったかと思えばラ・セルバティカを蹴りもして、とにかく情緒不安定。
なんでボニファシアが娼婦になったことでリトゥーマはホセフィノを裏切り者扱いするんだ。逮捕前に「あいつを頼む」と約束でもしてたのか。それとも、娼婦になったことを服役中のリトゥーマにいち早く伝えなかったことに憤っているのか。
幼稚でヒステリックなクズ男の博覧会、といった様相を呈してきた。き、きつい・・・・・・
ラ・セルバティカとボニファシアが別人の可能性もまだあるか……?
Ⅱ部まとめ
第Ⅱ部おわり。
Ⅰ部から俄然、各パートが繋がって物語の全体像が浮かび上がり始めた。ただ、それゆえにさらに疑問も沸いた。
ボニファシアの遍歴がとにかく凄まじくて、ちゃんと整理したい。フシーア-ラリータ-ニエベスがNTR不倫駆け落ち三角関係を成していた、というのがこの第Ⅱ部でわかったいちばん大きな情報だろう。また、サンタ・マリーア・デ・ニエバの「軍曹」がEのリトゥーマだったと分かったのもデカい。(でも単なる役職名だから、リトゥーマ以外の軍曹を指している場合もあるかもなんだよな……)
ニエベス&ラリータの仲介で、リトゥーマとボニファシアが出会ったのだということも。
ボニファシア→{フシーア-(ラリータ-ニエベス)}→リトゥーマ という図式
フシーアの島からニエベス&ラリータが駆け落ちしたあと、①フシーアはどうしたのか、②ボニファシアはどうしたのか、③フムはどうしたのか、が知りたい。
Cの孤児アントニアは何だったのか、本当に死んでしまったのか気になる。
~ここから下巻~
Ⅲ部
下巻は上巻よりも1.5倍くらい分厚い!! 本文450ページ
0章
サンタ・マリーア・デ・ニエバ駐屯地に、新たな中尉が赴任してきた。坊主のインディオ、フムが吊し上げられた話を聞く。ジャンプカットで過去と切り替わって行く。
→II部3-Dの続き。ウラクサのアグアルナ族、フムをボルハ守備隊が罰する。
意味不明だったI部2-D(F)パートのフリオ・レアテギ含む4人が揃っている!
I部4-Aで言及されていた、罪を犯したインディオが木に吊るされている場面だ! フムだったのね。じゃあ確かに、ここでの少女はボニファシアだ。「悪魔」ってこのことかぁ。
通訳って船頭ニエベスだったのかよ。まぁフシーアの島でウアンビサ族と住んでいたものな。
ニエベスも駐屯地に来て2ヶ月。
やっぱり、ボルハ守備隊と治安警備隊は別々のようだ。
デルガド伍長がいて、フムを吊し上げたのが前者。
現在時制で、新たな中尉が来たのが治安警備隊。
そして船頭ニエベスは、ボルハ守備隊→治安警備隊と両方を渡り歩いており、しかもボルハ守備隊から行方不明になった船頭が自分のことだと治安警備隊の連中にはバレていないっぽい。どんな顔して聞いてるんだ……
1章
A
II部Aの続き
伝道所の生徒たちは無事に保護されたらしい。
ニエベス夫妻の所にボニファシアが身を寄せていることに〈デブ〉が気付き、彼女を狙っていることをリトゥーマ軍曹に話す。軍曹はもうボニファシアに惚れており、「この任務が終わったら結婚しよう」と盛大なフラグを建築。他の男に彼女が見られるのも嫌がり、すでにモラハラ暴力夫の片鱗が出ている。
ボルハ守備隊のキローガ大尉と、治安警備隊の「中尉」がごっちゃになりがち。
フリオ・レアテギの命令?により、サンティアーゴのフシーアの島にいる盗賊たちを討伐しに行くことに。治安警備隊とボルハ守備隊の共同作戦。
これで盗賊=フシーア達、はほぼ確定。
その命令を聞いた船頭ニエベスは、理由をつけて断る。そりゃ、フシーア達にしろボルハ守備隊にしろ、以前一緒にいたんだから気まずいし面倒なことになるから避けたいよなぁ。
〈デブ〉は残るらしいが、それで軍曹が留守のうちに寝取られたりしない? 大丈夫?
B
II部よりも以前のフシーア達の話。というか、Bで初めて、過去回想の形式ではなく、当時の時制で語られるパートだ。
フリオ・レアテギから逃げ出したフシーアと、彼の後を追って付いてきたラリータが、エクアドルに行くことを諦めて、サンティアーゴ近くの密林の奥の「島」を開拓して定住するまで。鬱蒼とした密林の描写がなかなか良い。島の木を丸ごと焼き払うくだりも。
フシーアって、こうして島を開拓して住み始める前にも、取引相手のウアンビサ族と半年ほど暮らしたり、アキリーノじいさんと島に居たことがあるんだ。
C
あ〜やっぱりアントニア死んじゃったんだ。可哀想に。ガルシーア神父と町の女たちが葬列を成して狂騒的になっていく描写がとても好き。
〈緑の家〉が燃えはじめた。ゆるやかに渦をまいてピウラの空に立ち昇って行く灰色の煙の中に、鋭い刃を思わせる紫色の炎がのぞいていた。 p.55
アンセルモは料理人アンヘリカ・メルセーデスと子供をもうけたのか?
けっきょくアントニアは何故死んでしまったのか分からん。
あの店で働いている女、ガジナセーラの女、マンガチェリーアの住人、彼らは誰ひとりとして火に包まれ燃え落ちていく〈緑の家〉を見ようとはしなかった。またしても、いつものように砂の雨が降りはじめた。この地上につかの間姿を現した〈緑の家〉は、再び砂漠の砂に帰って行った。 p.59-59
これ時系列いつなんだ。このときまだアンセルモが盲目になっていないとすれば、Eで〈緑の家〉があるように、このあと再建されるのかな。
E
あれっ DじゃなくてEの続きだ! はじめて一つの章に5つではなく4つのパートが収められている。まぁ実質、0章がDだったからな……
すぐ前のCで語られた〈緑の家〉焼失時、ホセフィノは5歳だった。なるほど、そういう時系列か。〈緑の家〉はまた再建されたってことね。
火事の元凶かつ張本人であるアンセルモはホセフィノやラ・セルバティカ(ボニファシア)たちに、火事は無かったととぼける。もしかしてホセフィノたち若い世代は、アンセルモが〈緑の家〉の家を建てたこと自体を知らない?
ラ・セルバティカが知りたがっていた回想。ホセフィノとレオン兄弟がポーカーで買って気前よくラ・チュンガ・チュンギータの店で飲んでいたら、農夫セミナリオが絡んできて喧嘩になりかける。相手は拳銃を持っているのでやり過ごす。
2章
A
リトゥーマ軍曹が「島」へ遠征にいっているあいだに、結婚式用の衣装の布地を手に入れようと、ボニファシアはニエバ川でいかだ行商をしているアキリーノじいさんのところへ赴く。アキリーノはボニファシアを見て、かつて「島」にいたインディオの少女だと思い出す。
ふたりはラリータ&ニエベス夫妻の家に集まり、ボニファシアは無事に布地を貰う。
アキリーノじいさんと、ニエベス夫妻の子供アキリーノが初めて同時に出てきた。
アキリーノじいさんがサンタ・マリーア・デ・ニエバに来る途中に、島への遠征部隊(治安警備隊とボルハ守備隊)とすれ違ったらしい。何か不穏な様子。
B
島でフシーアとラリータ夫妻は、麻薬をやったパンターチャのうわ言を聞く。
物資を届けてくれるはずのアキリーノじいさんがなかなか来ないので、みんなで亀を捕まえにいく。
ラリータが妊娠し始めている。この子が少年アキリーノなのか、堕したりするのか。
この頃、フリオ・レアテギはサンタ・マリーア・デ・ニエバ行政官の座を退いて、イキートスへ行くようだ。
ウラクサでのボルハ守備隊・デルガド伍長ら袋叩き事件があり、このあともうすぐ船頭ニエベスが島に流れ着く時系列。ボニファシアはまだ先か。
C
〈緑の家〉が焼失して、ドン・アンセルモはピウラの町の反対側の貧困地区マンガチェリーアに移り住んだ。殿上人から浮浪者・ハープ弾きへの転落。
ラ・チュンガ・チュンギータってアンセルモの娘だったんだ。前回の1-Cで燃え盛る〈緑の家〉からアンヘリカ・メルセーデスに助け出された赤ん坊がラ・チュンガか。やがて、アンヘリカを育てていたフアナ・バウラに引き取られることに。アンセルモを赦したのだろうか。亡くなったあの子の代わりだろうか。
ピウラの街区が開発されて急速に近代化していく様子。マンガチェリーアだけは掘立て小屋のまま変わらない。ノスタルジー
E
第3部はどの章も4パートで通すようだ。Dがいちばん興味なかったからなくなって有難い。
あ〜リトゥーマが刑務所送りになる事件って、この日に農場主セミナリオを銃殺でもするのかな。次章あたりでは語られるだろう。
いつの話かようやく分かった。
治安警備隊("ポリ")に入隊したリトゥーマ軍曹が、サンタ・マリーア・デ・ニエバで結婚したボニファシアを連れて故郷ピウラに赴任してきた頃の話を、あとから(リトゥーマ逮捕後に)回想しているんだ。
その頃ボニファシアは妊娠していた。(これが後に堕ろされる子か)
ホセフィノとレオン兄弟の3人がラ・チュンガ・チュンギータの店で飲んでいて、農場主セミナリオに絡まれかけていたところに、リトゥーマが部下を連れて見回りにやってくる。部下を帰したあとはホセフィノたち4人で楽しく飲んでいるが、再びセミナリオが絡み、リトゥーマをめちゃくちゃ煽る。一度頭を冷やすといってリトゥーマが外に出ている隙に、ホセフィノは親友の妻ボニファシアに手を出そうとしていると話す。ホモソだな〜。これで実際にこのあとリトゥーマが刑務所行きでいなくなって、ボニファシアは好き放題されたってことか。そりゃボコボコにされるわ。
「なんとかしてあの女と寝てみたいと思うんだが、自分でもその理由が分からないんだ」とホセフィノが言った。「どこといって魅力はないんだがな。」 p.116
そりゃあ親友リトゥーマがあれだけ惚れているところを見せられているからでしょう。欲望の模倣。
アンセルモの楽団仲間であるエル・ホーベンがめっちゃいい。ボソっとそれっぽい深そうなことを言うおじさんキャラ。
「美人とは言えませんが、丸ぼちゃのかわいい女ですよ」とボーラスが答えた。「ハイヒールを履くと、まだ様になりませんがね。」
「ですが、きれいな目をしてます」とエル・ホーベンが言った。「大きくて神秘的な緑色の目ですが、きっとお師匠さんがごらんになったら、気に入ると思いますよ。」
「緑色かね?」とハープ弾きが言った。「それはいい。」 p.109-110
ボニファシアってそんなに美人ではないのが共通認識なのか。そして緑色がとにかく好きなアンセルモ。
3章
A
ウアンビサ族の島に着いた中尉たち。しかしそこはもぬけのからで、もうだいぶ前に出て行ったらしかった。
治安警備隊のリトゥーマ軍曹と、ボルハ守備隊のデルガド軍曹(伍長から変わったんだ)。
治安警備隊が警察で、ボルハ守備隊が兵隊ね。ようやく違いがわかってきた。
おそらくパンターチャだと思われる男が、ギリ生き残っていた。薬草でうわ言を吐いて夢見ている。成果としてなんとか生かして連れて帰りたい中尉たち。
この新任中尉の名前が一切出ないのが怪しすぎる。既に出てきてる誰かかなぁ。
B
ラリータの陣痛が始まり、ドン・アキリーノが産婆代わりに出産介助をする。だからアキリーノと名付けたのか! 妻の出産時にも酷い接し方をするし全然協力しないフシーアまじでクズ男だ。
船頭ニエベスはひと月前から島に居着いており、ウアンビサ族たちがアグアルナ族のフムをこないだ連れてきたところ。
フシーアとアキリーノじいさんはこの時点でもう10年の付き合い。2人の来歴が、アキリーノの口から出産前のラリータに語られる。それを最初から知りたかった。フシーアがアキリーノを誘って、野営地やインディオの集落への行商人的な仕事を始める。そのうちフシーアは裏切りや盗みをしまくって警察にも目をつけられ、ウアンビサ族と一緒に暮らしたり、アキリーノじいさんと一度別れたりする。そしてフリオ・レアテギの下で働くようになる。
ドン・アキリーノは跪いて彼女を撫でている。もう少しの辛抱だよ、ラリータ、しばらくしたら生まれるから、落着くんだ。フシーアが横から、少しはウアンビサ族の女を見習ったらどうだ。子供が生まれそうになると、あの連中は密林へ行って、子供を産んでくるんだぞ。 p.140
ガチでクズすぎる!!!
頼むから、ラリータの出産と、アキリーノとフシーアの会話が別々の場面のクロスカッティングであってくれ……と願うほど。でも残念ながらここは切り替えとかではなく、マジで妻の出産中に隣で全然関係ない儲け話をしているらしい。……いや、やっぱり回想に切り替わってるなこれ。でもフシーアがクズ夫であることは変わらないが。。
アキリーノじいさんが聖人すぎる。そりゃ名前にあやかりたくもなるわ。
ん?? フムはサンタ・マリーア・デ・ニエバで木に吊るされて拷問を受けた後か! ……じゃあボニファシアはいない?? どうなっている。なにか大きな勘違いをしていたっぽい。
フムとボニファシアは一緒にウラクサから島に連れてこられたんじゃなかったっけ。違うか。
上巻p.322 II部3-Bの内容では、ボニファシアは12歳の時にシャプラ族の生き残りとして島に連れて来られた。そのときすでに少アキリーノは生まれてある程度育っているので、このパートよりも数年後ということになる。でも「ボニファシア」とは一度も明言されてないんだよな〜〜
あ、そうか。ニエバでフムが木に吊るされた時、すでにボニファシアもニエバに連れて来られているのだと勘違いしていたが、ここがだいぶズレていて、間に何年もの月日が流れているのかな。整理してみる。
ウラクサのアグアルナ族の長フムが、やってきたデルガド伍長を袋叩きにする
→報復としてニエバに連行されて木に吊るされる。
→ウラクサに戻ってから、どういうわけかアキリーノじいさんに付いて「島」へ1人で来る。
(このひと月ほど前に、デルガド伍長と一緒にウラクサに行った船頭ニエベスも島へ流れ着いている。なおここまでボニファシアはずっと、故郷シャプラ族で暮らしている)
→島のウアンビサ族がシャプラ族と交戦してボニファシアが島に来る→まもなくニエベスとラリータが駆け落ち
→フムがボニファシアを連れてウラクサへ戻る?
→またウラクサがニエバの隊に襲撃されて、ボニファシアは捕虜にされたのち、伝道所に入れられる
→フリオ・レアテギによってイキートスへ連れていかれそうになるが、無しになる
→伝道所で下働きをしていたが、生徒たちを逃がしてしまう
→ニエベスとラリータ夫妻のもとへ
→軍曹リトゥーマと出会い結婚
→ピウラへ
→リトゥーマが刑務所送りになり、ボニファシアは娼婦になる
……ざっとこんな感じか?? つまり、ウラクサは少なくとも3回は襲撃されているし、フムは2度、ニエバで捕虜となっているってことか。しかも、フムと船頭ニエベスは、よく考えたらはじめは完全に敵対関係だったのに、島で共同生活することになっているという。。
C
アンセルモがエル・ホーベン・アレハンドロとトラック運転者ボーラスと知り合って3人で楽団を結成するまで。推しのことが語られて嬉しいよ…… このトリオ尊いなぁ
アンセルモとホーベンたちはそんなに歳の差があったんだな。同じくらいの年齢かと。
下町マンガチェリーアの人々の人情気質がとてもグッとくる。『丁子と肉桂のガブリエラ』を思い出す。
E
農場主セミナリオとリトゥーマは互いに銃を手に掛けるが、店主ラ・チュンガがあいだに割って入って場を取りなす。このクソガキの男どもめが……。
セミナリオは、店を貸し切って、叔父チャピロ・セミナリオをピウラにはもういない「本物の男」だと自慢する。ドン・アンセルモに叔父の思い出話をしてもらうなど。(アンセルモは口を滑らせて〈緑の家〉のことに触れてしまい、問い詰められる)
それにリトゥーマも張り合い、サンタ・マリーア・デ・ニエバで尊敬していたシプリアーノ中尉のことを自慢し始める。
リトゥーマ軍曹と一緒にニエバの治安警備隊にいたのはシプリアーノ中尉か。そんなに女性人気があったのか。
やがて、中尉のロシアンルーレットの話題から、セミナリオとリトゥーマのふたりで今からロシアンルーレットをやることに……
4章
A
中尉たちは、「島」にいたパンターチャから諸々を訊き出し、船頭ニエベスがもともと島にいたことを知ったのかな。
すでに島を離れてサンタ・マリーア・デ・ニエバへ帰ろうとしているが、密林の雨で、ウラクサ?に足止めされている。
パンターチャへの尋問・拷問は続く
ニエバで捕まっていたフムを一度釈放したのはフリオ・レアテギだったんだ。
そうか、最初の拘留でフムの通訳をしてたのはニエベスだから、嘘の通訳をしていた可能性もあるのか。。
とりあえずボニファシアはフシーアがいなくなった後に、フムかウアンビサ族と一緒に島を出ていったらしい。
B
アキリーノを出産した後のラリータ。フシーアとまだ正式には結婚してないのか。だんだんフシーアがつれなくなってきて、ラリータはフムとの距離を縮めようとしていた?
突然出ていったフムが島に帰ってきた、というが、これは一度目の拘留(木に吊るされ髪の毛を剃られる)の前からすでに島にいたってこと? フムはウラクサと島をもともと行ったり来たりしていたのか? フムの遍歴がいまだによく分からない。
Ⅳ部ではBパートも無くなっててほしいな……ACEだけでいい
C
ピウラのあちこちには、再び娼家が建ち始めていた。
ドロテオの店で働いていたラ・チュンガは、ドロテオと大喧嘩した末に、どういうわけか店主の座を奪った。ラ・チュンガを引き取っていた洗濯女フアナ・バウラは亡くなった。パトロシニオ・ナーヤも。フアナの葬式で、親子?であるアンセルモとラ・チュンガは相対しても特に抱き合うなどはしなかった。(この二人は親子でいいのか? ラ・チュンガの母が一切語られないし……)
ラ・チュンガは自分の店をレストランとして改装し、〈緑の家〉の再来かと噂された。(緑色には塗っていない)
ラ・チュンガはアンセルモたち楽団に、自分の店で演奏しないかと交渉を持ち掛けた。やっぱり父親のことを気に掛けているってことかなぁ
Cパートがいちばん好きなので、あっという間に終わってしまって寂しい
E
完全にキレたリトゥーマ軍曹がセミナリオにロシアンルーレットを持ち掛け、後攻のセミナリオが当たりを引いて死ぬ。なんとも愚かな、茶番劇。政治運動とかで投獄されたわけじゃないのかよ……
今気付いたんだけど、もしかして、ラ・セルバティカ(=ボニファシア)が〈緑の家〉で働き始めたというのは、娼婦になったのではなく、ラ・チュンガが再建したレストラン〈緑の家〉の給仕になっただけか。リトゥーマがあんなにショックを受けていたのは何故だ。ボニファシアがホセフィノと同棲し始めてて妻を寝取られたからってこと?
Ⅳ部
第3章まで
各章のパートはⅢ部と同じくABCEの4つずつのようだ。
0章
島の一行(フシーア、パンターチャ、ニエベス、ウアンビサ族の男たち)がムラート族の集落を襲い、ゴムと革を強奪する。ボスであるフシーアの命令を守らずにウアンビサ族のインディオは、ムラート族の呪術師の老翁の首を切ってしまう。命令をきかせられないことで、とフシーアは憤る。彼の脚が病に侵されているのではないかとニエベスやパンターチャは噂する。
先日フムが島からいなくなったらしい。ニエベスはムラート族のアキータイという装飾品?をこっそり持ち帰る。ラリータへの贈り物かな。パンターチャはボニファシアを狙っている。
1章
A
リトゥーマ軍曹とボニファシアの結婚式の日が近づいてきている。ラリータは伝道所に、ボニファシアの結婚が決まったことを報告しに行く。ボニファシアが最も懐いていたシスター・アンヘリカは、彼女には絶対に伝道所へ足を踏み入れさせない、という。
リトゥーマは先に「島」遠征から帰らせてもらい、シプリアーノ中尉はまだ川に足止めをくらってサンタ・マリーア・デ・ニエバに戻ってきていない。
結婚式当日。礼拝堂で、ドン・ファビオや治安警備隊の4人たち、そしてシスターたちの列席のもと、無事に執り行われる。
シスター・アンヘリカ……泣泣泣 ツンデレおばあさん。色々言うけどボニファシアのことが大切で仕方ないんだね……
シスター・アンヘリカが、どうして一度も顔を見せなかったのです? いつもいつもシスターのことを考え、夢に見ていたんです。それを聞いてシスター・アンヘリカが、さあ、ここにあるものをお食べ、ジュースもあるからね。
「わたしは調理場に入れてもらえなかったのですよ、ドン・ファビオ」とシスター・グリセルダが言った。「今度は、シスター・アンヘリカのお手柄ですわ。お気に入りのボニファシアのために何もかも用意なさったのですから。」
「この子のためでなかったら、とても出来ませんでしたよ」とシスター・アンヘリカが言った。「この子がまだ小さかった頃は、乳母か召使のようにこき使われ、今度はコックさんに早変わりしたんですよ。」
なんとか怒ったような気むずかしい顔をつくろおうとするのだが、声がかすれ、異教徒のようなしゃがれ声になったかと思うと、急に目がうるみ、口もとが歪んですすり泣きはじめた。そして、指の曲がった手で何度もボニファシアの背中を叩いた。 p.231
愛でしかない。多幸ムードすぎてこのあとが怖い。ボニファシアはけっきょくサンタ・マリーア・デ・ニエバを離れて夫リトゥーマに付いてピウラへ行ってしまうんだもんな……
「いい旦那さんになるんですよ。」シスター・アンヘリカは軍曹の腕を掴み、激しく揺すぶりながら唸るように言った。「あの子に手をあげたり、ほかの女といっしょになったりしたら許しませんからね。やさしくしてやるんですよ!」
「ええ、もちろんですよ」と軍曹はどぎまぎして答えた。「妻を深く愛していますから、どうかご安心ください。」 p.233
B
このパートでは久しぶりに、フシーアとアキリーノの川下り現在時制。それと、フシーア&ラリータ夫妻の仲がかなり悪化してきている頃の村の回想。フシーアの脚の腐敗が進み、夫婦の営みはもう出来なくなっている。ラリータは船頭ニエベスの小屋へ。
シプリアーノ中尉が新任かと思っていたが、シプリアーノから別の新任中尉になったのか。
フムは、島とニエバをこっそり行ったり来たりしていて、レアテギに取られたウラクサのゴムを返してもらうよう働きかけていたらしい
フムが話していた、ウラクサに住み着こうとした2人の白人ボニーノとテオフィロについて。ようやく名前が出てきた。フシーア&アキリーノじゃなかったのね。フムたちウラクサのインディオを扇動して、辺りの白人を皆殺しにしようと画策。
C
これまでのCパートのように三人称叙述ではなく、おそらくドン・アンセルモの主観的な語り(意識の流れ)っぽくなっており、かなり意味が取りづらい。アンセルモを「お前」と二人称の主語で語ってもいる。なんだこれ……
アンセルモは、盲目の少女アントニアに恋していた? 16歳くらいの少女に……(思っていたより大きかった)
アンセルモが、アントニアを引き取って〈緑の家〉に連れていく前か、直後くらいの時系列がシャッフルされて渾然一体となっているよう。正確には全く分からない。
アンセルモの従者ハシント、友人?のドン・エウセビオも登場。
E
リトゥーマ&ボニファシア夫妻がピウラで暮らし始めた頃。まだリトゥーマが殺害事件を起こす前。
リトゥーマとレオン兄弟がたしか従兄弟だから、ボニファシアをホセたちは「従姉さん」と呼んでいる。
なかなか都会のピウラに馴染めないボニファシアに酷く当たるリトゥーマ。ハイヒールをうまく履けない妻を殴る。出身地サンタ・マリーア・デ・ニエバを田舎だとバカにする。
なんでみんな結婚したら亭主関白みたく酷いモラハラDV男になっちゃうの? ニエベスだけだよマトモなのは……
レオン兄弟は床に坐ると、手をあげるのは愛している証拠だって言うからね。チュルカーナ山に住んでる女たちがよく言うじゃないか、殴る亭主ほど奥さんを愛しているってね。もっとも、密林のほうじゃどうだか知らないけど。一、ニの三、さあ、ねえさん、もう旦那を許してやってくれよ。機嫌を直して、顔を起こすんだ。 p.258
夫リトゥーマが寝ている隙に、ホセフィノがボニファシアを口説きにかかる。ボニファシアは、夫に知られることを恐れてはいるが、好意を寄せられていること自体は拒んでいない? だからリトゥーマ収監後にくっついたのね。残当
2章
A
リトゥーマとボニファシアの結婚式からしばらく経って。
中尉の命令で、リトゥーマ軍曹率いる治安警備隊の一行は、元盗賊の仲間だった船頭アドリアン・ニエベスを逮捕しに行く。島にいた麻薬中毒のパンターチャと共に収監する命令。
リトゥーマは、ボニファシアとの仲介をしてもらい恩人であるニエベスをなんとか逃がそうと説得したが、ニエベス本人がもう密林を逃げ回るつもりがなく、仕方なく逮捕した。ボニファシアの身体を狙っていた治安警備隊の〈デブ〉は、今度は夫が逮捕されて1人身になるラリータを狙っている。
B
アキリーノは、脚が壊死しかかっているフシーアを、サン・パブロで降ろそうとしている。イキートスの対岸の地域。フシーアは他の場所で降ろしてほしい。彼らが島を出てから30日目か…… 意外と経ってない?
一方、ラリータがニエベスと共に島を夜逃げする時が回想される。フムが逃げる手助けをしてくれた。
フシーアは駄目になっている脚を妻ラリータに見られたくなくてあんな態度をとってるのか?
パンターチャはシャプラ族の女……ボニファシアと出来ている? ただ面倒を見てあげてるだけかな
C
やべ〜〜・・・ 前章から引き続き、アンセルモおじさんによる16歳の盲目の少女アントニア(トニータ)への恋というか性欲・支配欲にまみれた激キモの内的独白が延々と垂れ流される。『ロリータ』始まったな……
アンセルモのトニータへの関わり方は、完全に、現代でいうところの性的グルーミングだ。あくまで両想いだから!と必死に思い込もうとしている。
町の人々にバレないよう、馬に乗せて誘拐して、自分の城である〈緑の家〉の塔の小部屋で犯す……
非常に気持ち悪いのだけど、残念なことにというべきか、この小説をここまで600ページ読んできていちばん「文学的」なパートだとも感じた。ロマン主義文学の延長上。
わたしは罪を犯してはいません、神父様。あの女(ひと)を死なせたのはわたしの責任ですが、それ以外に間違ったことは何ひとつしていません。それを聞いて神父が、あなたは策を弄し、力づくであのようなことをしたではありませんか。お前は答える。いいえ、策を弄した覚えはありません。たしかにあの人は目も見えず、口もきけませんでした。しかし、それでも二人は心から愛し合い、理解し合っていたのです。そうです、これは真実本当のことです。 p.293-294
彼女は頬にお前の唇がそっと触れるのを感じる。興奮がおさまったのか、かたく強張っていたその体の緊張が解ける。熱い夏に降る雨が虹をかけて空を彩るように、お前の唇の下で彼女の肌が美しく色づく。 p.297
なんか美しい比喩で誤魔化そうとすんな!!
「お前」=アンセルモ 二人称叙述
小さな兎のようなかわいい乳房だね。夜、夢の中に現れたんだよ、この子兎たちが。部屋に飛び込んできたので捕まえようとしたが、逃げられてしまった。だが、お前の乳房のほうがずっと柔らかくて生き生きとしているよ。 p.301
キショすぎ!!!!!
息づかいが激しくなり、両腕を広げてお前を迎える。塔の小部屋が揺れはじめ、部屋全体が熱く熱してついには燃える砂丘の中にその姿を消した。 p.301
性行為でエクスタシーに達するのをこうして婉曲的にカッコよく表現するのやかましいわ!
ロリ系エロゲが始まったのかと思った。
次章でようやく、死なせてしまった時のことが語られるのかな
E
自分でも悪い女だと思うけど、あんたが好きよと彼女が囁くように言った。「でも、そんな話はもう止めて、訊かないで。罪深いことよ。」 p.306
夫のリトゥーマが収監されたリマへ妻ボニファシアは行きたがるが、お金が無いので、ホセフィノに引き取られて身体を重ねる日々。お腹の子をたとえ流産だとしても産みたい、というボニファシアをホセフィノが「俺のプライドのために産むな!」(意訳)と罵倒する。
まじでクズ男の博覧会といった様相を呈してきている。そういうのが好きな人にはオススメ
すげぇよくある姦通メロドラマなんだよな…… ひねった構成や文体で前衛性を出しても、本質は、かなり通俗的な不倫メロドラマとミソジニー男たちの欲望にまみれた話。エンタメ。
女性がとにかく自立することが難しく、男に依存しなければ生きていけないような悲惨な境遇ばかりでつらい。そういう、男権社会の現実をありありと描き出している点で文学的に価値があるのかもしれないが……うーむ…………
リョサの本質は、ミソジニー男たちのホモソーシャルを通俗的なメロドラマに落とし込み、表層だけ小難しく風変わりにして前衛性を演出しているエンタメ小説家、なのではないか。
ミソジニー通俗小説家として開き直った『悪い娘の悪戯』のほうが大好き。
3章
A
ボニファシアとリトゥーマ夫妻が、ピウラへ向けてサンタ・マリーア・デ・ニエバを出発する。
ボニファシアとシスター・アンヘリカの関係、そしてラリータとの絆がとても良い。
ニエベスはイキートスに収監されたのか。残されたラリータは伝道所の下働きをして夫に会いに行く資金を貯めている。奇しくもボニファシアの後釜に収まったかたちだ。
B
サン・パブロに到着するも、ここに置いていかれるのをとにかく嫌がるフシーア。冷徹に話を進めるアキリーノ。
ラリータたちが島から夜逃げした後の回想。パンターチャやボニファシア、フムらを島に残して、ドン・アキリーノの薦めでフシーアは島を出たのか。そういう順番なのね
C
ウラジミール・ナボコフ『トニータ』つづき
わしはたしかにしあわせだが、彼女はどう思っているんだろう? どうにかしてそれを知ることができないだろうか。 p.337
うわ〜そういうことか…… アンセルモはアントニア(トニータ)を妊娠させていて、彼女の死後、燃え盛る〈緑の家〉から救出された赤子ラ・チュンガがその子だったのか……ドン引きにも程がある
それでも、妊娠した以上は、〈緑の家〉の女たちなど、祝って協力してくれるんだ。まぁそりゃ、アントニアやお腹の子に罪は無いし……
出産で亡くなったのだろうか というか、1年近く行方不明のまま匿っていたってことだよな……
はじめ、アントニアをもっと幼児だと思っていたので、あの赤子の母が彼女だという発想に至らなかった。
これでいいのかどうか、最後にもう一度よく考えてみるのだ。人生とはこういうものなのかどうか、もし彼女がいなかったら、あるいは彼女とお前の二人きりだったらどうなっていたか、すべては夢だったのかどうか、現実に起こることというのはいつも夢とは少しばかり違うのかどうか、よく考えてみるがいい。そして、これがほんとうに最後だが、お前はもう何もかも諦めてしまったのかどうか、そしてもしそうなら、それは、彼女が死んでしまったからなのか、それとも自分ももう齢なので、次に死ぬのは自分だと悟っているからなのかどうか、そこのところをよく考えてみるのだ。 p.343-344
アンセルモが死ぬ間際になって回想している形式だから「お前」なのか。フエンテス『アルテミオ・クルスの死』(1962)の二人称パートに影響受けてるのかな。
E
ラ・チュンガの店での勤務終わりに、ラ・セルバティカ(ボニファシア)はホセフィノの迎えを待っている。酔っ払って遅れてくる。エル・モノ(レオン兄弟)の誕生日だからと、彼女を連れていく。エル・モノはボニファシアに手を出したくて追いかけ回す。まじで可哀想
エル・ホーベンの言動相変わらず好きだ 周りの女性たちには分け隔てなく丁寧に接するが、昔の恨みで歌のなかでは女がいかに酷いかを未練がましく歌いまくる。「本当のこと」だと言って。
えっ アンセルモって密林にいたことがある? 日はアキリーノ辺りと同一人物だったらどうしよう。流石にそれはないか。
Ⅳ部おわり!
あとはエピローグ
エピローグ
エピローグは各章がパートに分かれていない!
0~3章が短く、最後の4章が50ページほどある
0章
フリオ・レアテギが、サンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官を辞めてイキートスへ帰り実業家の本業に専念する。
その前に、伝道所に緑の目の少女を預け入れた。ボニファシアを伝道所に入れたのってレアテギだったんだ。どこかの章で、2人の少女を引き取りに来なかったっけ。あれはボニファシアじゃなかったのか。数年ぶりの再会だったってこと?
広場ではフムが見せしめとしてカピローナの木に吊るされており、尼僧院長はその処置に反対するがレアテギは聞き入れない。見せしめの後は解放してウラクサへ帰すつもり。
その後、彼はお仲間のマヌエルテアギラやペドロ・エスカビーノ、アレバロ・ベンサスと共に会食する。
1章
フシーアのもとへ1年ぶりにアキリーノが見舞いに来る。あまりの悪臭にアキリーノはすぐ帰りたがるがフシーアがなんとか引き留める。フシーアほんとアキリーノのことが大好きだなぁ
フシーア、病状が悪化したのか、かなり幼児退行してるみたくなってる。痛ましい
ニエベスの子供やあの治安警備隊の子供たちもすっかり大きくなったが、どの子もラリータにそっくりで、父親似は一人もいないよ。 p.375
えっ なに、ラリータは治安警備隊の誰かとも子をもうけたの? ニエベスが死んじゃって再婚したとか?
〈デブ〉と、か……
あ、そうか、ニエベスはイキートスに収監されたんだった。それで結局サンタ・マリーア・デ・ニエバには戻ってこれなくて、〈デブ〉とラリータが子供を産んだのか。ラリータもなかなか波瀾万丈な生涯だ。それでも生きててなにより
2章
ドン・アンセルモが倒れ、ラ・セルバティカ(ボニファシア)がタクシーで連れてきた仇敵ガルシーア神父に看取られて、大往生する。最終章はこういう臨終の雰囲気が色濃い。
ラ・チュンガは自分の父親だとわかってるよなぁやっぱり。
3章
ラリータは、息子アキリーノの結婚式のため、夫ウアンバチャーノ=〈デブ〉と共に故郷イキートスへ行く。夫は船酔い
アキリーノ少年も立派になって……
かつての夫ニエベスは最近釈放されてブラジルの方へ働きに行ったらしい。もう離婚手続きなどはしてるってこと? 何があったんだ…… 前夫の話題になるとウアンバチャーノは気まずそうにして話を逸らす。
4章
2章の続きだ。アンセルモを看取ったガルシーア神父とセバーリョス医師の帰路。マンガチェリーアのアンヘリカ・メルセーデスの店へ朝食を食べに寄る。
〈緑の家〉の存在はピウラの若者にとってもはや都市伝説と化している。火事はおよそ30年前か 神父が「火刑人」と揶揄されるようになった原因
アントニアが死にかけており、アンセルモがセバーリョス医師を呼びにきたときを回想。当時、医師や神父は30代。意外と若い? 現在70歳いってないのか。〈緑の家〉の塔に入ってはじめて、セバーリョスは、アンセルモの「妻」がトニータだと知った。やはり出産時のことだろうか
p.421 突然場面が切り替わる。ラ・セルバティカ(ボニファシア)をホセフィノが強姦しようとしている? あ、ちがう。出産か。ホセフィノとの子なのか、それともリトゥーマとの既に妊娠していた子なのか……。
アントニアとボニファシアの、30年の時を隔てた出産シーンを同時並行で描く。いかにもなクライマックスだなぁ 出産シーンのカットインといえば『さよならの朝に約束の花をかざろう』を思い出す(夫は戦争、妻は出産、という夫婦のステロタイプ性役割を強調する演出)。
そして、現在時制でガルシーア神父が震える手で肉を食べていることも、セバーリョスが語るアントニアの出産・死亡シーンとあからさまに重ね合わされて対比されている。アンヘリカ・メルセーデスは当時15歳の「生娘」。
ドミティーラが、すっかりマンガチェリーアの人々にとって「聖女」になっている。皆に愛されたひとが死後このように語り継がれてローカルに神格化される風習はなかなかグッとくる。
アンセルモがアントニアに対して行ったことの是非を、今さらセバーリョス医師とガルシーア神父が議論する。セバーリョス医師が擁護しているが、こればっかりは完全に神父側だ(というかガルシーア神父はこの小説でずっと正論しか言っていない)。アントニアがいくら彼に懐いて愛していたように見えるからといって、アンセルモの加害性は変わらない。権威勾配とかグルーミングという概念が存在しない時代だからなぁ……
レオン兄弟がアンヘリカ・メルセーデスの店やってきて神父や医師と合流。神父とこの店で会えた珍しさにはしゃぐが、アンセルモの訃報を聞いて流石に御悔みムードになる。ボニファシアとリトゥーマも来て、マンガチェリーアのこの店で通夜をやりたいと掛け合う。リトゥーマがミサをガルシーア神父に頼もうとして、罵り合いになる。前言撤回。やっぱりこの神父もなかなか酷い。
えっ アンセルモってボニファシアと同郷なの!? サンタ・マリーア・デ・ニエバ近くの村、密林育ち。だから〈緑の家〉や緑のハープだったのね。ニエバ編の別名の誰かと同一人物かなぁ……『街と犬たち』でもそうだったし。ニエベスか、アキリーノだと面白いが、時系列が矛盾しまくる。
現在はリトゥーマをボニファシアが養っている状態か。ホセフィノはどうなったんだろう。そしてさっきの出産回想は、やっぱりリトゥーマが逮捕された時に孕んでいた子で、死産なのかなぁ。
ホセフィノとはボコボコにして以来、喧嘩別れしてマンガチェリーアから追放したのか…… ボニファシアはホセフィノに復讐されるのが恐いのでリトゥーマと一緒に住んでいる。
おわり!!! 最後もガルシーア神父とセバーリョス医師のふたりで締め。これまでそんなに中心的な位置を占めていなかったこの2人がこんな大役を仰せつかるとはなぁ。
なんというか、いろいろあったけど、ドン・アンセルモはマンガチェリーアの人々にとっては愛されていたし、亡くなって哀しいね。すべては過ぎ去ってゆくね…… 的な、男の郷愁と悲哀エモみたいな終わり方だった。ロリコンクズ男をそんないい話風にされても納得はできない。主人公といっていいボニファシア(ラ・セルバティカ)のラストも、釈放されて帰ってきた無職の夫リトゥーマをヒモとして養って〈緑の家〉で働いていて、相変わらず夫からのDVモラハラはあるけどなんやかんやピウラで楽しくやってますエンドで、それでいいのか……とモヤモヤはする。(現〈緑の家〉は娼館じゃなくて単なる飲食店なんだよね? 昔の〈緑の家〉を知っている人たちが引きずって勘違いしてるだけってことだよね)













