「生命線」「最後の恋」「女王人形」「チャック・モール」カルロス・フエンテス

 フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇』の他四篇を読んだ。

 

 

生命線

銃殺されるのを待つだけだった革命軍兵士の4人が監獄を脱出し、再び捕らえられ死ぬ


リーダー格で主人公のヘルバシオ・ポーラの感情の動きが目まぐるしく身につまされる。

こういうザ・男の血なま臭く乾いた話を読むのは久しぶりな気がする。ルルフォ『燃える平原』とか

各人の内面の吐露が〈〉で表されていて、独特な味わい・切迫感を醸し出している。

短いなかで4人のキャラを立たせている。


p.37

できれば、仲間のひとりひとりに代わって俺が牢獄から中庭へ歩いてゆきたかったんだが、そうはさせてくれなかった。俺は貧乏くじを引かされたんだ。

 

p.40

川底は血まみれの軍帽の羽飾りで干上がり、自分では気づかずに生贄の儀式を行っている人々のざわめきが聞こえ、旱魃と荒廃が作りだした多島海の島々を思わせる山々が連なっている。

「川底は血まみれの軍帽の羽飾りで干上がり」って? 川に兵士の死体が散乱している様子を婉曲的に表したのか、マジで軍帽の羽飾りで干上がったのか……
その次の生贄の儀式もよくわからない

 

p.45

「誰が勝つかなんてわかりっこない。すべてが勝つんだよ、ペドロ。誰も彼も生きているが、生き延びたやつが勝ちだ。この国じゃ、全員生き延びているだろう。さあ、立て、立つんだ」

そりゃ国民は生者だけで構成されてますけど……


p.46

頼むから足かせをしてくれ、でないとごろごろ転がり落ちてしまう。何かに縛られている方がいいんだ。生まれ落ちた瞬間から縛られているが、それが俺に科せられた逃れようのない罰なんだ。

 

 


最後の恋

子供の浜辺での遊び
やけに「無時間的」を強調するな…


若さと老い、清潔と猥雑 を前面に押し出したバカンス
バカンスの最中だけ若い女の子を雇って関係を持っている?
しかし雇った彼女は若くて健康な肉体の男と楽しそうにイチャイチャしている。その様子を嫉妬気味に観察し、2人の会話を妄想する中年男性
ウエルベックみたいだ


p.72

彼女は後でいろいろ説明するだろう。どういう説明をするんだろう。リリアは説明をするだろうか。ハビエルなら、リリアに説明してくれと言うだろうか。リリアはハビエルに説明するだろうか。

なんかいきなり変な狙った文章になって笑う。でもここがこの短篇ではいちばん好き


p.73

すべての人間がそういう醜い行いをしていると言うのか、そんなばかな! 彼は苦々しげに顔を歪めると、そう呟いた。誰もがそういうことをしていると言うのなら、わしの権力、わしの罪の意識が無意味なものになってしまうではないか。

あ、そういう。進んで悪者・加害者でありたいわけね。余計にキモいなぁ


中年ですらなくて老人なのか……
キモい爺さんがちょっと感傷的になる誰得な話だった。
なんか最後のほうは田山花袋『蒲団』みたいになってて笑った。
何が良いのかわからない

 


女王人形

 

pp.84-85

足音は庭園に敷き詰められた砂利の上を駆けてくると、僕の背後で立ち止まったが、それがアミラミアだった。彼女が何もしなかったら、きっと気づかなかったはずだが、あの午後、彼女はいたずら心を起こして、頬をぷーっとふくらませると、眉をしかめてタンポポの冠毛をふっと吹きかけて僕の耳をくすぐった。

なんだこのファンタジックで都合が良すぎる少女!? 7歳か……

 


イメージは『Summer Pockets』の紬

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やっぱり客体化された女性像をどの短篇でも扱ってるよなぁ
「純な魂」は女性主人公だけど、あれもやっぱり魔性の妹として客体化してる
(彼女を語り手に設定したのはその魔性を効果的に演出するため)

 

 


タイトルから察してはいたが、やっぱりkey作品のサブヒロインルートみたいな話(シナリオ)だった。(『サクラノ詩』にもこんなヤツいたな)
それにゴシックホラー味をふりかけた感じ。
フエンテスだーまえだった……?

 


チャック・モール

再読。『20世紀ラテンアメリカ短篇選』でかつて読んだことがある。
やっぱり、王道のホラー・怪談だなぁと思う以外に特に感慨はない。(そもそもほとんどホラーを読んだことがないのに「王道」なんて分かりようがないが、そうした素人が何となく「王道のホラー」だと感ずるところのもの、と受け取ってほしい)

女性が一切出てこないのが珍しい(「生命線」もそうか)
何だかんだで客体化された女性が出てこないと(すなわち都合よく消費できる女性が出てこないと)楽しめないのだな、と思い知らされて悩ましい。一丁前に悩んでいる素振りを見せずに開き直ればいいのかもしれないが。


p.12

キリスト教を供犠と典礼という熱情的で血なまぐさい側面から眺めれば、これはインディオたちの宗教が装いを変えてそのまま自然に拡張されたものだと考えられるだろう。だから、慈悲だの、愛だの、右の頬を打たれれば、左の頬を差し出せといったものがまったく無視されるんだ。メキシコでは万事、この調子だよ。人を信じようとすれば、その人間を殺さなければならないというわけさ。

(メキシコの)宗教の本質は血なまぐさい暴力性、ってこと?

 

p.23

僕はいまだに子供っぽい考えから抜けきれないでいるのだ。誰が言った言葉か思い出せないが、幼年時代というのは歳月によって食い荒らされた果実なのだ。僕は気がついてなかったが……。

 

 

訳者(木村榮一さん)による解説

 

pp.222-223

ここで「チャック・モール」の主人公フェリベルトを思い返してみると、彼はインディオが作った民芸品や古い時代の遺物や石像を収集し、自らインディオの文化のよき理解者をもって任じているが、これが真の理解でないことは言うまでもない。相互理解、それも対立する文化の相互理解というのは、民芸品や骨董品、古代の遺物をおっとり優雅に鑑賞するといった類のものではない。相手の文化を認めることが、時には自らがよって立っている文化的基盤を失うことになりかねないのである。その意味では、異文化間の相互理解というのは、人を死ぬか生きるかのぎりぎりの瀬戸際まで追いつめることもある。

なるほど〜。単なるゴシックホラーとか言って申し訳ありませんでした。
理解者になったつもりで「おっとり優雅に鑑賞」って、まんま海外文学を読んでいる自分にも刺さるよなぁ。勉強せねば。
(ただ、こうして明確な「作者からの立派なメッセージ」に小説を還元させてしまうのも考えもので、楽しむための読書と、学ぶための読書のバランス──両者の不可分性をめぐる態度が難しいところだ)


フエンテスバルザック信者なのね。リョサがフローベリアンだったように。
ラテアメ勢を読んでいくと結局フランス文学に行き着くなぁ

 

えっ、「生命線」は『澄みわたる大地』からの、「最後の恋」は『アルテミオ・クルスの死』からの抜粋なの!?
マジか、あのキモいおっさん、アルテミオ・クルスだったのか……

 

「女王人形」のアミラミアなど、フエンテスの作品によく登場する客体化された怪しく魅力的な女性像は、単なるヒロインではなく、エーリッヒ・ノイマンの言うところの「太母」であり、メキシコの根であるとかなんとか。ふーん

 

 

というわけで1冊読み終えたわけだが、「純な魂」がダントツで面白く好みだった。「アウラ」も結構面白かった。 他は微妙だったが、そのうち2作は後書きで「実は長篇の一部なんです」と知らされる罠。それじゃつまらなくても文句言えないやないかーい!

でも、『アルテミオ・クルスの死』を読むモチベが正直下がったな……あんなキモいおっさんに長々付き合いきれねえよ……

 

丸々1冊フエンテス読んだのは初だったが、どうだろう……うーん……「純な魂」は好きだけど全体としてはゴシック小説好きじゃないとキツいかも。文章も、作品ごとに仕掛けてくることはあれど、文体自体にそこまで魅力があるわけではないし。

1冊読んで判断するのは時期尚早とは言え、優先順位は下がったかもしれない。

 

 

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なんか岩波文庫がアマゾンの検索で出てこないんだけどなぜ!?

こないだは出たのに。

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澄みわたる大地

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ある島の可能性 (河出文庫)

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 老いて若い恋愛肉体関係を持てないことを嘆く中年男性の小説ならこっちのほうが好き

 

 

「アウラ」カルロス・フエンテス

 

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前記事に続き、岩波文庫フエンテス短篇集を読んだ。

 

 


アウラ

「君」……二人称小説だ!しかも『子供の領分』のような現在形

バス停でバスが停車せずスピード落とすだけってマジかよ。メキシコ…というか海外ではそれが一般的なのか?


老人の家に住み込みで雇われるって『ムーン・パレス』を思い出す


ホラーか?
指示の通りに建物を進んでいくなんてまるで「注文の多い料理店」だ

兎をベッド上に侍らせているお婆さん……
うさぎが日常に出てくると途端に幻想的な雰囲気を帯びるなぁ
コルタサル「パリにいる若い婦人に宛てた手紙」然り、「日常に潜む怪奇」の普遍的なモチーフなのか?

 


p.164

後ろを振り向いたとたんに、王冠のように並んでいる献灯の瞬く光に目を射られる。もう一度夫人に視線を戻すと、その目が異様に大きく見開かれている。目はまわりを囲んでいる角膜と同じ色をしているが、まるで液体のような透明感をたたえて大きく見開かれている。夫人は数分前までその視線を気取られまいとして目を閉じ、厚い瞼の皺の下に隠していた。いま君の目に映っているあの透明な目に影を落としているのは黒い瞳孔だけだ。その視線がふたたび乾いた洞窟の奥に身を潜めようとしている──退却しようとしているんだ、と君は考える。

すげー幻想的でまどろっこしい文体だ。明らかに雰囲気を作りに来てる

 


p.165

アウラ……」
君があの寝室に入ってはじめて夫人が身体を動かす。老女がもう一度手を伸ばすと、すぐそばで激しい人の息づかいが聞こえる。夫人と君の間にもう一本別の手が伸びてきて、老婆の指に触れる。横を見ると、若い娘がそばにいるが、真横にいる上に、突然音もなく現れたので、全身を見ることができない。たしかに音はしているのだが、その時は聞き取れず、あまりにも静かなので後になって音がしていたことに思い当たるといった類の物音だ。

びっくりした〜!音もなく真横から若い娘の手が現れるとかどんな状況だよ

 


p.166

寝室のまぶしい光が恐ろしいとでもいうように、少しずつ目を開けて行く。君はようやく、波のように打ち寄せ、泡立ち、静まって緑色になり、ふたたびふくれあがる海のような彼女の目を見るだろう。君はその目を見て、いや、思い違いだ、彼女の目は君がすでに見たことのある、あるいはいずれ見ることになるはずのべつの緑色の美しい目と変わるところはないと自分に言い聞かせるだろう。いや、自分を欺いてはいけない。打ち寄せ、変化して行くあの目は、君だけが予見し、求めることのできる風景を差し出しているのだ。

なんだこの文章!?!? 意味が取れない
アウラが現れてハッキリと文体が変わった。
>読了後追記:そういうことか。ここで既に伏線が貼られていたのね。


現在形だけでなく「君は〜するだろう」という推量・未来形の文も結構混じってきてる。

 

光と闇、視覚的な演出にかなり凝っている
映像的なことを小説でやろうとしてる?

 

自宅に荷物を取りに帰ろうとしたら止められたり、食卓に人数以上の食器が並んでいたり、屋根の上の庭で猫が燃えていたり、そんな庭や猫は存在しないとお婆さんに言われたり、めちゃくちゃ不穏だ〜〜〜生きて帰れる気がしねえ

 

p.186

目のところにぽっかり穴が開いた顔が間近に迫ってくるのを見て、声にならない叫び声をあげ、汗まみれになって目を覚ます。その手が君の顔と髪の毛をやさしく撫で、その唇が聞き取れないほどかすかな声でささやきかけ、君を慰め、静かにして、愛し合いましょうと語りかける。

悪夢から目を覚ましたっちゅーのに次の文もたいして変わらない光景が平然と続くのこわすぎ

 


p.189

「清らかで汚れない生活を送るにはひとり暮らしがいい、そう考えて皆さんは私たち女に孤独を強いるんですが、そういう人たちは、ひとりで暮らす方がかえって誘惑が多いということを忘れているんですよ」
「どういうことかよくわからないんですが」

本作でも女性思想について触れている
ズレまくってる会話がうまい

 


p.198

「これからお遊びをしましょう。あなたは何もしなくていいわ、私にまかせてくれればいいの」
オパール色の淡い光があたりを金色に染め、部屋にあるものやアウラをひとつに溶かし込んでいるが、ベッドに腰を下ろした君はその光がどこからくるのかと思ってまわりを見回す。光源を探して天井を見上げている君の様子を、アウラはそっとうかがっているのだろう。その声の感じから、彼女が君の前にひざまずいていることがわかる。
「空は高くも低くもなくて、私たちの上と下にあるの」

(読了後メモ)2人の相対的な位置関係と、光の空間的な配置と、それからこの建物=小説じたいの密室空間/時間を統合して扱っている文章がほんとうにうまい。最後の台詞はそれ単体で取り出してもかっこいい

 


p.203

それらの品物の名前をひとつひとつ読み、手で触れ、使用法や内容説明に目を通し、商標を声に出して読み上げるが、他者、名前も商標も、本来あるべき堅固さも欠けている他者のことを忘れようとして、そうしたものにしがみついているのだ。アウラはいったい僕に何を期待しているのだろう?

他者=アウラのこと?

 


p.205
「もうひとりの人」? やっぱりアウラとコンスエロ夫人は一心同体なのかな
片方が片方を乗っ取っているか、そもそも存在の根本から複製のようなものか

 


p.211

三枚目の写真には、軍服ではなく平服を着た老人と並んで、庭のベンチに腰をおろしているアウラが写っている。その写真は少しぼやけている。そこに写っているアウラは最初の写真ほど若くはないが、彼女であることはまちがいない。そして、彼……いや、写っているのは君だ。

なるほど〜これがしたかったがゆえの二人称なのね

 


p.212

君は時計に、人間の思い上がりが生みだした、偽りの時間を計るあの役立たずのしろものに二度と目を向けないだろう。時計の針は、真の時間を欺くために発明された長い時間をうんざりするほど単調に刻んでいるが、真の時間はどのような時計でも計ることはできない。まるで人間を嘲笑するかのように、致命的な速度で過ぎ去ってゆくのだ。ひとりの人間の人生、一世紀、五十年といったまやかしの時間を君はもう思い浮かべることはできない。君はもはや実体を欠いたほこりのような時間をすくい上げることはできないだろう。

時計で計れる単調な"まやかしの時間"の否定
本作でもメキシコ(新大陸)とフランス(ヨーロッパ)の対比が行われているが、真の時間(流動)⇔ 偽の時間(単調)という対立もここに重なってくるのだろうか

 


p.213

何時間も口をきかなかったせいで、まるで人の声のようにくぐもっている自分の声を聞くだろう。

こわっ。もう人ではなくなっているのか……

 


ーおしまいー

 

なるほど。
フェリーペ(「君」)、コンスエロ夫人、アウラの三角関係かと思いきや、夫人の夫リョレンテ将軍を含めた四角関係であり、そして本質的には男と女、たった2人の間の時間を超えた永遠の愛の話だった。
「純な魂」で一瞬勘違いした、いつの間にか視点人物が入れ替わったり人物の境界が融解する仕掛けがこっちではガッツリ使われていた。コルタサルっぽいな〜と思ってしまうが、時系列ではこっちが先だろう。
怪奇幻想ものとしてはポーの流れは当然汲んでいるのだろうなぁ

わりと正統派の怪奇小説なのに、ヨーロッパと対比する形でのメキシコのアイデンティティ……といった要素を主題に組み込んでくるのがとてもフエンテスらしい。

屋敷の壁を食い破るネズミやら松明・月などの照明描写、リョレンテ将軍の回想録、真っ暗な庭で栽培されている植物などなど、様々な要素が伏線としてキレイに回収され、非常に完成度の高い作品だった。
きれいにまとまり過ぎてるのは好みではないが、本作はみんな大好きファム・ファタルものだし、入れるべきところでギアを思い切り入れる文章にも凄みを感じ、かなり楽しめたというのが正直なところだ。


訳者解説によると、本作執筆中にパリで上映されていた溝口健二監督『雨月物語』と上田秋成による原作に衝撃を受けたらしい。川端『眠れる美女』にマルケスが影響されて『わが悲しき娼婦たちの思い出』を書いたように、日本の作品がラテアメ作家に意外と影響を与えていることが多くてびっくりする。そういえばプイグは小津安二郎成瀬巳喜男の大ファンだったらしい。

 

 

→次回

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子供の領分

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全編現在形ヌーヴォー・ロマン

 

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

 

 老人のもとで住み込みバイト

 

 兎, あちらとこちらが入れ替わる幻想怪奇小説

 

悪い娘の悪戯

悪い娘の悪戯

 

 大好きなファム・ファタル(=ニーニャ・マラ)小説

 

 

 

「純な魂」カルロス・フエンテス


ラテンアメリカ文学好きと言っておきながら未だほとんど読んだことがないフエンテス
この作家の名を初めてちゃんと認識したのは、セサル・アイラ『文学会議』──主人公のマッドサイエンティストが尊敬する作家フエンテスのクローンを大量生産して世界征服を企む──を読んだのがきっかけだ。最高の出会いである。


作品としては、その後に岩波文庫野谷文昭氏が編纂した『20世紀ラテンアメリカ短篇選』に収録されている短篇「チャック・モール」を読んだだけだ。この短編は怪奇ゴシック小説の傑作らしいが私にはあまりピンとこなかった。それも、今までフエンテスをしっかり読もうという気にならなかった遠因かもしれない。

 

フエンテスといえば、『澄みわたる大地』『テラ・ノストラ』そして最近岩波入りした『アルテミオ・クルスの死』(ふくろうさんの書評が良かったので積んである)といった大長篇こそ本命っぽいのだが、いきなりそこに挑んでも砕け散る予感しかしない。そんなとき、フエンテス入門としてうってつけの岩波文庫の短篇選『アウラ・純な魂 他四篇』が自室の本棚に見えたので(これ買ってたんだ……過去の自分ナイス!)喜び勇んで手にとった。

 気が早いが、本書が良かったら〈フィクションのエル・ドラード〉から出ている『ガラスの国境』を読んでみたい。積んでる『アルテミオ・クルスの死』にも挑戦したい。
そんな楽観と期待を胸に、まずは表題作の片方から読み始める。

 


・純な魂

ちょっとヤンデレっぽい女性がある男性に向けた1人語り書簡体?小説
この形式はやっぱりパワーがあるな
フエンテスの技巧によるものかはまだわからんが


やたらステロタイプな幼馴染エピソード
毎正月メキシコの海辺でふたり戯れた
3歳差かあ
尊い……

 

pp.121-122

海賊ブラッド、サンドカン、アイヴァンホーといったように新しい冒険をはじめるたびにあなたは変身したけれど、私はいつも名前もなければ、これといった特徴もない恐怖におののくお姫様という役どころだった。

次々と名前を変える勇敢な冒険者と、名前のない囚われのお姫様
『彼女の「正しい」名前とは何か』
ちょい家父長制への攻撃/皮肉っぽい?

 

p.123

私たちは真面目だったけど、決してもったいぶったりはしていなかった、ねっ、そうでしょう。うまく説明できないけど、私たちはきっとそうとも知らずお互いに支え合っていたのね。それはたぶん裸足の足の裏に感じとれる熱い砂や夜の静かな海、歩いている時にぶつかる腰、あなたがはいていた仕立ておろしの白くて長いズボンや買ったばかりの私の裾の広がった赤のスカート、そういったものと関係があったんでしょうね。


p.123

アン・ルイス、あなたも知っているように、たいていの男性は十四歳で成長が止まってしまうのよ──さいわい、私たちは十四歳にとどまってはいなかったけど。いつまでたっても十四歳のままで、自分が不安なものだから人に残酷なふるまいをする、それが男性至上主義の正体なのよ。


アン・ルイスは男性至上主義に染まりたくないからメキシコを飛び出してジュネーヴへ行ったというが、やっぱり根っからの男性至上主義に囚われているように思える。
風俗が嫌で女性をちゃんと理解したいという心がけは紳士かも知れないが家父長制と紙一重だ。


p.126

「私のことを忘れないでね。どうすればいつも一緒にいられるか、その方法を考えてね」

 


あれ、もしかして兄妹って比喩じゃなくてマジのやつ?
家が隣の幼馴染かと思ったらお兄ちゃん大好き妹だったのか。

 


p.133

あなたの手紙を読むたびに、これまでよくないとされてきたことすべてを聖別する必要があるということに気づきはじめたの。手袋をくるりと裏返しにしなければ生きてゆけない、そう自分に言いきかせているのよ、フアン・ルイス。いったい誰が私たち二人を引き裂いてしまったのかしら。奪い取られたものすべてを取り戻す時間なんてないわ。私はべつに何かしようと言ってるんじゃないのよ、プランを立てて何かしようなんて考えていないわ。私はラディゲと同じことを考えているだけなの。「純な魂のする無意識の工夫工面は、邪な心のする企みよりもはるかに特異なものである」

冒頭に引かれているように、題はラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』からの引用。

 


pp.135-136

クレールのそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。日曜になると、あなたたちは手をつなぎ、ひと言も口をきかずに何時間も歩いたのね。公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていた。長い間散歩しているうちに落葉を燃やす匂いが鼻をつくようになったけど、そんな風に散歩していて、むかし私たちが海岸を歩きまわった時のことを思い出したのね。

「公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていた、とあなたは書いた」や「公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていたのね」ではなく、「漂っていた」と書くのには単なる省略以上の効果があると思う。
このように、フアンが経験した事柄で、ときおり伝聞調が剥がれてあたかも語り手がその場にいたかのように描写されるのがゾッとしていい。
普通の三人称小説における越権行為を一人称の語り手の狂気を演出するために適切に使用している。
ストーリーが割とありきたりなぶん、地味に技巧的というかマニエリスティックだ。露骨な実験性まではいかず、表層は通常の書簡体小説になっているのも技術の高さを感じる。

 

文章は事前に身構えてたよりずっと読みやすい。
古典的な「おはなし」の趣がある

 

 

いや〜妹が暴走してるだけかと思いきや、兄の方もけっこうヤバくないか
ジュネーヴで出来た彼女をかつての妹との思い出に重ねて比較して、それを妹への手紙に書く…
伊達に近親間恋愛してないな

 

p.136

僕が部屋でひとりでいる時は、いつも君のことを考えていたんだ。そうした時間が今、僕のものになったんだ。君の背中が僕の胸にぴったりくっつき、僕はうしろから君の腰に腕をまわして一晩過ごし、夜明けを待つ。君もそのことに気がついて、振り向くと、目を閉じたまま僕にほほえみかけるんだ、クレール。

きめぇ〜〜〜
妹と彼女の区別がつかなくなってるやん
でも「どうして手紙をくれないんだ」と言ってるあたり、ちゃんと区別したうえで敢えていもうとに宛てて「クレール」と呼びかけているようにも思える。余計にキモいわ。最高


p.137
うわっ!!!!!
え!?!?マジ?!?
やりやがった……そういうことか。
こんなにキャッチーな仕掛けを臆面もなくやるとは
伊達に実験的なラテアメ文学の源流のひとつとされてないな(そうなの?)

あちらとこちらが入れ替わる。コルタサルみたいだが、夢と現実の反転ではなく、あくまでリアリズムに基づいた、メキシコ(ラテンアメリカ)とスイス(ヨーロッパ)という歴史的文化的空間が小説の語りの構造を通してすり替わり融合する。
ラテンアメリカ性」みたいなのがこの作家の追求するテーマらしいけど、それがすごくわかり易くあらわれてるなぁ


いや、違った。早合点の勘違いだった。
上で書いたことはぜんぶ誤り
てっきり語り手が妹クラウディアから彼女クレールにすり替わったと思ったけどそんなことは無かった。ただクラウディアが現在スイスに滞在しているため「あなたはひとりで生きてゆこうと考えてこちらに来たんでしょう」と語っているだけだった。

 

p.139「私は癖のない金髪を撫でつける」
クレールもクラウディアも金髪ストレートで明らかに類似性をもたせてはいる。


p.140
まぁそうなるよな、さんざん仄めかされていたため驚きはない(こっちは早とちりではない)
ヤンデレとか形容したのが申し訳なく思えてきたが、でもやっぱり並々ならぬ執着を互いにしているのは間違いないし…

 

p.142

僕を見る彼女の目つきが、君にそっくりなんだよ、クラウディア。君が海岸の岩にしがみついて、食人鬼から助けてもらおうと待っている時と同じ目なんだ。君は、僕が君を助け出そうとしているのか、それとも牢番になって君を殺そうとしているのかわからないふりをしている。けれども、時々ぷっと吹き出してしまって、一瞬のうちにせっかくの遊びが台無しになってしまうこともあったね。

クレールとの話にクラウディアとの記憶がシームレスに介入してきて乗っ取る。どちらのことを話しているのか曖昧になる。

 

 

pp.143-144

私はどちらでもいいのよ、フアン・ルイス。でも、私ひとりでは決められないのよ。生活も仕事も成りゆきまかせでやってゆくというのなら、それはそれでいいのよ。それとも、生活も仕事も今のまま続けてゆくというのなら、それでも構わないわ。だけど、仕事はその場かぎりのもので、愛は永遠だとか、その逆だといった考え方にはついて行けないのよ、わかるでしょう

(フアンからの手紙中の)クレールの台詞
仕事と生活(恋愛)の扱い方がバラバラなのには反対ってどういうことだ

 


pp.144-145

自分自身の闇の中で、秘められた知性を研ぎすまし、魂のほんのかすかな動きにも敏感に反応するよう感受性を鋭敏にした上で、自分の知覚、予知能力、現在の厄介な問題を弓のようにぎりぎり引き絞った。未来を見つめ、それに狙いをつけて的に当ててやろうと考えたんだ。矢は放たれた。けれども的がなかったんだ。前方には何もなかったんだよ、クラウディア。手の先が冷たくなるほど懸命になり、苦しんだ末に心の中に作り上げたもの、それが打ち寄せる波に洗われる砂の町のように脆く崩れ去ったんだ。けれど、消え去ったわけじゃない、記憶と呼ばれるあの大海へ帰って行った、つまり、少年時代やいろいろな遊び、僕たちの浜辺、喜び、むせ返るような暑さといったものへと回帰して行っただけなんだ。僕たちは将来に向けていろいろなことを計画したり、びっくりするようなことをしたりしているけれど、すべてはあの頃の模倣でしかないんだ。

兄もめちゃくちゃ幼少期の妹との思い出に執着してんなー

 

p.145
クレールからクラウディアに宛てた手紙の末尾「妹クレールより」がクソ怖い
宣戦布告やん

 


pp.146-147

私たちに愛、知性、若さ、沈黙以外の何ものかになるようにと求めてくるものがあるけど、そういうものを断固として撥ねつけなければいけないわ。まわりの人たちは私たちを変えて、自分たちと同じ人間にしようと考えているの。私たちを許せないのよ。フアン・ルイス、負けてはだめよ、お願いだから、あの日の午後、文学部のカフェで私に言った言葉を忘れないでね。そちらに一歩でも踏み出したら、もうおしまいよ。二度と戻れなくなるわ。

「負けてはだめよ」って切実だなぁ…
若者と大人を素朴に対立させて前者の立場から語りながら、後者へと飲み込まれてゆく絶望を記述する、かなり古典的な青春小説の枠組みも含んでるんだな。トニオ・クレエゲルのような。

 


p.148
妊娠→流産→自殺も非常に典型的な展開。
ここで男女カップルの人生観・仕事観のすれ違いから、メキシコを離れる動機だった男性至上主義へと繋げるわけね。はいはい。よく出来てるな

 

え、どゆこと!?
クレール宛の手紙にクラウディアのサイン?

訳者解説を読んでやっと理解した。そういうことか。別に流産が原因で自殺したわけじゃないのね。
クラウディア怖いし、クレールの父親の彼女への態度もめっちゃ怖い。
どんな手紙を送ったら自殺に追い込めるんだ。流産との時系列もよくわからない。

 

クラウディアはフアン・ルイスにとってメキシコに残してきた自分の半身でありアイデンティティである、と解説されていた。まさにその通りだよなぁ
成熟したヨーロッパに浸り大人へと足を踏み入れたことで、青春期の自我を体現するメキシコの半身から猛烈な反発を受け、崩壊してしまう。
フアンの歴代の彼女がヨーロッパ諸国を象徴してるというのも反論しようがないがあまりにシステマチックで笑った。

こういうウェルメイドで隙のない八方美人的な小説は好みでないんだけど、これはかなり好きだなぁ


旧大陸/新大陸のアイデンティティ云々は置いといて、男女の狂おしい結びつきを女性側から淡々と語る形式と、失われた青春へのノスタルジーと切迫的な崩壊というテーマが非常に好み。
あと男女の三角関係モノでもある。性癖

妹小説としてもかなりパワーがある。ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない
また兄妹の近親姦っぽい雰囲気の短篇としてコルタサル「占拠された屋敷」に比肩する出来栄えだろう


家父長制や男性至上主義については、この兄妹を一心同体とみなせば表層的には無化される(自分が自分を抑圧することは(最もナイーブな次元ではとりあえず)できない)が、しかしより深い次元では、個人のアイデンティティの中に根を張る、抽象的で複雑なレベルの抑圧として立ち上がってくるのではないか。
つまり、本作で描かれるクラウディアやクレールといった女性も、〈男性〉的主体の内部に位置するイマジナリーな女性であり、女性のひとり語りの形式を採ってはいるものの、根本的には男がその内面化された家父長制から勝手に自分を引き裂いて自己崩壊する話のようにも思える。
まーあんましフェミニズム的な読みばかりやっていても仕様がないが。付け焼き刃だし


付箋を貼った文をタイプしてて思ったこと。
素朴でわかり易い文章と言ったものの、つくづくいい文章だなぁと感じる。
プロットも形式も文章も好みで、お気に入りの短篇がまた1つ増えた。大満足

 

 次は中編「アウラ」を読む。 

 →読んだ

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アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

 

 

 

 

「占拠された屋敷」

 

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『ズボンをはいた雲』マヤコフスキー

 

「自分では到底理解できないようなぶっ飛んだ小説に出会いたくて海外文学を読んでいる」と公言するにも関わらず、詩を一切読まないのはヤバいんじゃないか?という焦りがしばらく前からあった。しかし日本の現代詩にはあまり食指が動かず、薦められた小笠原鳥類や中尾太一の詩集も秒で挫折してしまった。

(ちなみに現代短歌には数年前の一時期どハマりしていたが今は全く興味がない)

そこで、国内小説より海外小説を好んでいるように、海外詩から詩に入門すればいいのでは?という知見を得て、オススメの海外詩人を幾つか教えてもらった。そのうちの1つが、ロシアの詩人マヤコフスキーである。名前すら全然聞いたことなかった。

 

図書館へ行き、この著者によるペーパーバックの薄い詩集が何冊か並ぶなか、『ズボンをはいた雲』を手にとった。(「長靴をはいた猫」みたいだ)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 

めっちゃ睨んでくるやん……

 


記憶にあるかぎり、マジのガチで海外詩なんて一切読んだことない(書庫でパウル・ツェランヴァレリーの詩集を一瞬開いただけで「読んだ」カウントしていいならあるけど。義務教育課程で知らない間に読まされた可能性はあるが覚えてない)ので、人生初の海外詩読書だ!!!うおおおおおお楽しみ〜〜〜


詩の読み方なんて何も知らない※が、とりあえず率直に感じたことを書き留めていく。

※「私は小説の読み方なら知っている」と言うつもりはない。まぁこういう一般人の趣味レベルの文学なんて「好きなように読めばいいんだよ」とNPC的に言いまくってるだけで""それっぽさ""を醸し出せるだろう。研究者レベルでは話は別

 

 

pp.17-18

ぼくの精神には一筋の白髪もないし、
年寄りにありがちな優しさもない!
声の力で世界を完膚なきまでに破壊して、
ぼくは進む、美男子で
二十二歳。

これsoudaiさんの記事で読んだことある!!!ってなった。
あーあのときの詩人かマヤコフスキーって

kageboushi99m2.hatenablog.com

 

 

 

ザ・思春期/青年期の男子って感じの若さと自負と情熱がほとばしる詩
要するに何を言いたいのか/言ってるのか、かなり把握しやすい。初心者にうってつけかも

冒頭から「君ら」「あんた方」と、読み手(≠読者)に向けて痛烈に語りかけ…いや宣言をしてくる。未成年の主張みたい

詩って小説よりも一層、語り手/語られ手 が希薄でふわふわしてるイメージがあったから、こんなに誰が詩を書いていて誰に聞かせているのかが前景化しているのは新鮮だな

 

 

p.25

きこえる。
ベッドから降りる病人のように、
しずかに
神経がひとつ跳び下りた。 
そして今、
初めはかずかに
うごめいていたが、
やにわに駆けだした、
猛り立って、はっきりと。

神経の擬人化!

 

 

p.29

恋するぼくはもういちど博打を打ちに行こう、
眉の曲線を炎で照らしながら。
かまうもんか!
焼け落ちた家にだって
時には宿なしの浮浪者が住むだろう!

瞳が恋の炎に燃えているのを直接描写せず、「眉の曲線を炎で照らしながら」と婉曲的に表現するのいいな

 

 

pp.30-31

おおい!
みなさん!
賽銭泥棒が、
頭脳犯罪が、
人間虐殺が
大好きな人たちよ、
これより恐ろしいものを
見たことがありますかね、
ぼくが
泰然自若たるときの
ぼくの顔
より恐ろしいものを?

いきりキッズみたいで草

 


失恋に狂う自分を、火事で焼け落ちる建物に喩える。
人間要塞カポネ・"ギャング"・ベッジか?

 

えーと……詩を要約するのは無粋でナンセンスであることは承知でまとめると、
「俺は美男子で若さに満ちあふれているけど失恋して激情がほとばしる!うおおお」って感じ?(ひどい)

 

 

pp.36-37

かつてぼくは思っていた。
本はこうして作られると。
詩人がひとりやって来て、
苦もなく口を開く、
と、たちまちお人好しの意気揚々たる歌が始まる。
とんでもない!
事実はこうだ。
歌が始まる前に、あいつら、
足を肉刺だらけにして永いこと歩き回り、
心臓のへどろのなかでは、愚かな赤腹が弱々しくもがく。
脚韻を軋ませながら、あいつらが
恋と鶯で何やらスープらしきものを煮え立たせる一方、
舌なしの町は身をよじる、
叫ぶべき語るべき言葉を持たぬ町は。

 

pp.39-40

こけおどしの眉をゆがめて
町に化粧してやる大小のクルップたち。
口の中では、
死んだ言葉の屍が分解し、
脂ぎって生きながらえたのはただの二人、
「悪党」と、
もうひとり、なんとかいった、
確か「ボルシチ」だ。

詩人たちは
しゃくりあげ、むせび泣きながら、
髪ふりみだして町から逃げ出した。
「こんな二つの言葉では歌いきれませぬ。
乙女も、
恋も、
露に濡れた花々も」

 

えーと……耽美で高尚っぽい詩を理性的に作るのはクソで、もっと(この詩のように)激情に身を任せて「「魂」」でうたえや!!!お仕着せの響きの良い言葉じゃなくて、「悪党」とか「ボルシチ」といった「脂ぎって生きながらえた」単語こそが至高。おすまし顔の知識人はクソ!!!……ってこと?


その(いかにも原始的で若い)主張の是非はともかく、自己正当化のシステムを内部に組み込んでいるのはちょっとダサいなと思ったけど、まぁ主張・言説ってどれもそんなもんか。

 

 

p.41

ひとまたぎ二メートルの
頑丈なぼくらだから、
服従ではなく、八つ裂きにするんだ、
あいつらを、
ひとつびとつのダブルベッドに
何かのおまけみたいにしがみついてるあいつらを!

一人称「ぼく」で冒頭からずっと不遜な言を並べていたが、2に入るといつの間にか「ぼくら」も使われだしている。
主語がデカい。肥大する自意識
それもまた「若さ」に吸収されるのか……こういう解釈はヤだな

 

 

p.46

のっぽで、
助平な笑い話みたいなやつだと、
今日の種族にあざ笑われる
このぼくには
だれにも見えない「時」が、
山を越えてくる、その姿が見える。

まんま厨二病だよな……
置かれるコンテクストによって「文学」にも「痛い戯言」にも「コピペ」にもなる

すば日々の間宮卓司感

 


ここまで「自分全肯定・(仮想)敵全否定」を貫くのは若さどうこう言えなくなってくるというか、凄い気もする
「あなたは正しい。わたしは間違っている」が座右の銘の自分としては真逆で憧れ……はしないけど尊敬する

 

 

pp.48-50

ああ、どうしてだろう!
なぜだろう、
明るい楽しさのなかへ
汚れた大きな拳を振り上げるのは!

ぽっかり現れて、
頭を絶望の幕で包むのは
癪狂院から離れられぬ心だ。

すると、
戦艦沈没のとき、
呼吸困難で痙攣が起こり、
開いたハッチから跳び出すように、
自分の
叫びが出るまでに裂けた片目を通り抜けて、
狂ったブルリュックが這って来る。
涙の出つくした瞼をほとんど血に染めて、
這い出ると、
立ち上がり、
歩き始めた
と思うと、脂ぎった男には思いがけぬ優しさで
だしぬけに言った。
「いいなあ!」

落ちサビ? 勝利確定主題歌が流れ出す1分前みたいな
と思ったがブルリュックってなんだ。ようわからん

 

 

後半のマリアさまのくだりはよく分からなくてキツかった
詩は読むのに体力使うな〜 いったん集中が切れると1ページ1行も読み進められん
小説読んでるときも、「ちゃんと読めてない」と自分で感じる文は何度も何度も戻って読み返さなくては気がすまない(無視して読み進めると、大切な何かを置き去りにしているようなゾワゾワした焦燥感を覚えて我慢できない)のだが、詩だとこの性質がより顕著に顕れて読書をさらに困難なものにする……
『アカシアは花咲く』なんかは全文理解できなくて逆に大好きだが、それは例外だろう

 


人間を街に喩えるのと、街を人間に喩えるの(擬人化)とが両方あってそれらが円環的に一体化している気がする

 

 

いや何言ってるのかほんとわからん。何かが起こってるっぽい(解像度最低)

 

 

p.66

マリヤ! あいつらの
脂肪太りの耳に優しい言葉を押し込むなんて無理な話だろう。
小鳥は
唄で物乞いする、
飢えても声高く
歌ってる、
でも、おれは人間だ、マリヤ、
肺を患う夜がプレスニャ通りの汚れた手に吐き出した、
単純な男なんだ。

なんか「おれ」くん自信喪失してる?
青春の称揚と挫折……

 

 

p.68

きみ!
こわがるな、
腹に汗をかいた女どもが、おれの猪首に
濡れた山みたいに座っていても。
これはおれが生涯にわたって引きずってるんだ。
何百万もの巨大な純愛と、何兆もの汚れたちっぽけな愛をね。
こわがるな、
またもや
裏切りの荒模様のなかで、
数千の美人におれが言い寄っても。
マヤコフスキーを愛する女たち!)
だってこれは一つの王家の歴代の女王たちが
狂った男の心につぎつぎと即位しているのだから。

すげえ自信だな
名前出しちゃってるよ

p.69

マリヤ、近う寄れ!

恥知らずの裸でもいい、
不安に震えながらでもいい、
とにかくきみの唇の枯れることなき魅力をおくれ。
心を持つおれはかつて一度も五月まで生き長らえず、
過ぎし日々には
ただ百度の四月があるばかり。

かっこいい

 

 

pp.71-72

きみのからだを、
おれは守り、愛するだろう。
戦争でかたわになった
役立たずで
だれのものでもない
兵隊が
たった一本の足を守るように。

マリヤ、
いやなのか?
いやなのか!

はあ!

それならば、再び、
暗く、うなだれて、
おれが心臓を手に取り、
涙をふりかけてから、
汽車に轢かれた足を
巣に
運ぶ
犬ころのように
心臓を運ぶだけだ。

こんなコンパクトなフラれ方ある? ふられた後の描写哀しい
自分も今度失恋したら「はあ!」って言おう

 


失恋の腹いせに神様と天使に八つ当たりしてる


おー……最後はなんというか……かなり余韻のある終わり方
『JR』のラストみたいな

 

 

1と4がわかり易く恋愛(失恋)してて好きだな

初めは若さ全開だったが、最後のほうは寿命が尽きたあとのことを書いてて、人の一生、趨勢の悲哀が滲み出ている

 

分かったつもりになれるところは面白く、さっぱり分からないところはキツいのだが、普段「分からない小説が好き。分かってしまう小説はつまらない」と言ってるのとガッツリ矛盾してて焦る。小説と詩では、主にこちら側の習熟度なら受容態度やらが異なっているのがわかる

詩の読み方、楽しみ方がまだ確立していないので、慣れと研鑽の必要を感じる

ただ、これのような長篇詩のほうがまだ、小説に近くて読みやすい気がする

 


あ、T.S.エリオットの『荒地』は大学時代に読んでたわ。初海外詩じゃなかった
あれ何もわからんかったなぁ。聖書の引用とか知らんし

 

訳者のメモ

pp.83-84

こうして「テトラプティヒ」の意味が判明すれば、この作品が四つの章にわかれていること、それらひとつびとつの部分の主張や叫びが、作者の言う現代芸術のカテヒジス(教養問答)をかたちづくっていることなどが、おのずから知れる。「きみらの愛を(1章)、きみらの芸術を(2章)、きみらの機構を(3章)、きみらの宗教を(4章)倒せ」というカテヒジスは、要するに、きみらの愛や芸術や社会機構は、なっちょらん! それらを創り、司っているのが、唯一の神ならば、俺はナイフをふりかざして神をアラスカまで追い詰めてやる! という若いマヤコフスキーの大声の啖呵であって、極東の昭和時代の曖昧で中途半端な無神論者だった訳者は、たちまち魅入られてしまった。

なるほど〜
なんとなくはわかっていたが、3章は社会機構への啖呵だから理解しにくかったのか。

この後の、列車の客室で同乗した女性に「ズボンをはいた雲」という単語を口走ってしまい、自分が詩を書く前にパクられないよう、忘れさせるために必死で関係ない話題を喋りまくったというエピソードがおもろい。なんなら詩本編よりもおもろい

 

他のも読もうかな……でもこれで十分にマヤコフスキーは掴めたようにも思う。

とりあえずエミリー・ディキンソンは早めに読みたい。数年前にちょっとだけ読んで以来放置しているペソアにも久しぶりに挑戦してみようかな

 

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 
荒地 (岩波文庫)

荒地 (岩波文庫)

 
JR

JR

 

 

 

 

 

『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ

 

 

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 『笑いと忘却の書』を読もうと思ったきっかけはこのツイート

中期三作のうち唯一未読の本作は、偶然にも少し前に神戸三宮の古本屋で購入して積まれていた。『冗談』冒頭を読みかけの状態なのでやや気後れもするが読み始めた。

 

 


・第一部 失われた手紙

ザ・クンデラって感じ。めちゃくちゃ読みやすいんだよな〜。
政治的・思想的な話も多いのにスラスラ読める。1, 2ページごとに細かく章分けされているのもデカい。アレナスの長篇みたいな感じ

 

クンデラの小説の2大柱は、政治・哲学・文化論のような社会的/公的な要素と、セックスにまみれた男女間のラブロマンスという個人的/私的な要素だ。これらのバランス・混ぜ合わせ方が信じられないほど天才的。


政治の話ばかりでは小説として面白くならないからメロドラマを入れるとか、逆に浅薄な恋愛痴話ばかりでは文学的な重厚さが出ないから政治や思想の議論を盛り込むというように、どちらか一方が道具的に駆り出されているのではない。
両者が互いへと積極的に接近し、飲みこみ飲みこまれ合って「クンデラの小説」としか言いようがない芸術を形作る。

 

第1部を雑にまとめると、かつて革命闘争に燃えながら恋愛関係にあった二人──卑屈さから醜い女に愛情を求めてしまった黒歴史を消したがっている男ミレックと、元彼を裏切って体制側に着いたと思われているが実は彼のことしか頭にない醜いヤンデレ女ズデナの話。


冒頭にある、共産党指導者ゴットワルトの頭に載っている毛皮のトック帽──彼の側近だったが反逆者として写真からも歴史からも抹消されたクレメンティスが彼にあげたもの──というモチーフが、メインの話のさなかにくり返し喚起され、そのたびに深みを増していく。
こうした手法もクンデラの十八番だよなぁ

 

『不滅』で前景化する前の、作者自身が文中に積極的に顔を出して登場人物たちの「設定」や「真相」などについて語る手法も思い切り行使されている。普通に考えて、キャラクターの記号的な解釈を作者自身が作中でペラペラ喋ってしまうのは小説の自律性を損なうだけのはずなんだが、クンデラはそういう次元にない。この辺りをもっと分析して言語化できるようになりたい。

ジェンダー的にはかなり批判を免れない気がする。異性愛中心主義で、女性を典型的に客体化しているように思えるので。

 

 

・第二部 お母さん

ちょっとこれ……40ページほどの小編として完成度が高すぎる。
夫婦の父方の母と、二人の旧友の女性が同時に家に泊まることになる一夜。このまま演劇にできそうなほど「舞台」としてよく出来ている。

クンデラお馴染みの不倫するのに多くの女性にモテ続ける男(夫)カレル
結婚初期に気を抜いていたせいで、夫を糾弾する「上品な」女性という役割に押し込められてしまった妻マルケー
愛人カレルの策略によってマルケータの良き友人にもなった自称ラブハンターの女性エヴァ
昔夫婦と同居していた頃は嫌われていたが今では子供のように情けをかけられているカレルの"お母さん"
お母さんの古い友人で、カレルの幼少期に鮮烈な裸体のイメージを刻み込んだ美女ノラ夫人

 

第一部でクンデラジェンダー論に言及したが、ちょっとそう単純なものではないと思い知らされた。
エヴァは男性が女性を愛するようにしか女性を愛せない、つまり男性的なジェンダーロールを主体的に引き受けている人物で、友情と性欲しか抱かないため恋愛=結婚規範を解体できる位置にいる。
またエヴァマルケータの同性関係は、結婚して夫からの客体化を受けている女性が主体的な性を獲得する可能性の提示としても読める。

 

不倫、3P、おねショタ、レズビアンプレイ……性関係の密度が濃すぎる。
このパートの凄いのは、そうした愛欲関係だけではなく、彼らの「お母さん」が蚊帳の外に置かれずにシーンの展開に大きく関わってくる──ばかりか、お母さん視点の章も多分に挿入され、そこでオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡という戦争体験をも巻き込んで話が進む点である。
お母さんが再びカレル達の部屋に来訪して以降の物語のうねりは信じられないほど完璧に思える。


カレルがノラ夫人を重ねたエヴァを犯すときの「突進」という単語は、第一部で風景を眺めたことがないミレックが目標に向って「突進」するうえで空間を障害物だとみなしている、という文脈でも使用されており、本作のキーワードかもしれない。

 

 

・第三部 天使たち

ここに来てようやくタイトルにある「笑い」が前面に押し出されてきた。
笑いには、天使の笑いと悪魔の笑いの2種類がある。世界の秩序や人生の価値(="重さ", 『不滅』, ニーチェ永劫回帰)を称揚する天使たちに対して、世界の無秩序や人生の無価値さ(=『存在の耐えられない軽さ』)を喧伝する悪魔たち。
どちらに傾倒しすぎてもダメで、両者の釣り合いが取れていることで生きていくことができる。
ただこのパートでは、クンデラ(という登場人物)が迫害を受けた共産主義者を天使に見立てて批判的に描いている向きが強い。


イヨネスコ『犀』も、アニー・ルクレール『女の発言』も読みたくなった。後者は邦訳ないっぽい?

隊列と輪、行進とダンスという露骨な二項対立(の露骨性を自覚的に描く)

天使の笑いを体現する者たちが輪になってワンステップ, ツーステップ……そして地面から浮き上がって空に舞い上がるくだりは馬鹿馬鹿しくて(笑い!)面白いが、2人のアメリカ娘学生とその先生とで再演したのには流石にやり過ぎではと感じた。

笑い、滑稽さ、恥辱……みたいなものが残酷さや痛切さを喚起するのは、フラバル『あまりにも騒がしい孤独』でスキー中に糞を踏んでしまった女性の挿話を思い出した。あれメインの本をプレスして捨てる男の話よりも印象に残ってる

ようやく「私」ことミラン・クンデラなる人物が表に出てきた。
占星術、『不滅』のある章でも出てきた気がする。
クンデラ占星術コーナーの仕事を与えてくれた雑誌編集者Rが何度もトイレに行く描写もフラバル的な意味でとても理解できる。

 

 

・第四部 失われた手紙

あまりにも完璧なヒロイン導入

クンデラの女性キャラあるある
・田舎町のカフェでウェイトレスとして働きがち


第一部と同じ題であるが登場人物は異なる。
ミレックは自分の過去を消すために自ら手紙の持ち主である元カノのもとへ足を運び、タミナは自分の過去を忘れずにいるために亡命前の故郷プラハへと手紙を取りに行ってくれる人を必死で探した。もちろん両者とも手紙を手にすることはできない。

タミナを所有したがるユゴーは男性性に囚われたキモい男らしさがよく描かれていた。
口臭が不快な彼に一度体を明け渡したことで嘔吐したタミナの口も刺激臭にまみれるオチは、駝鳥の前で金の指輪を含んだ口を堅く閉じている夢ともキレイに連関しており──キレイ過ぎて辟易もするが──すごいと思った。

本も読まないのにある日とつぜん小説を書きたいと言い出すビビの馬鹿っぽさ、彼女に作家たることを指南しようとするヘボ作家バナカなど、やけに戯画的なキャラがたくさん出てきたが、それは過去しか見ていないタミナの冷ややかな眼を通しているがゆえだとも読める。

 

 

・第五部 リートスト

それが生の本質に迫るにも関わらず他の言語には存在しないチェコ語特有の単語「リートスト」だが、「惨めさ」や「屈辱感」のような概念だと読んだ。

リートストの例として語られる、典型的スノッブの男子大学生と田舎の肉屋の夫人クリスティナの逢瀬
プラハで開かれる大詩人たち(ゲーテレールモントフ、ペトラルカ、ヴォルテールなど実在の作家の名前を拝借している)の会合はなかなかバカバカしいというか、ドストエフスキー的な弁舌バトルの饗宴だった。

このパートはこれまでと異なり、細かな章ごとに単なるナンバリングではなく章題が添えられている。

 

・第六部 天使たち

第四部の主人公タミナ(西ヨーロッパの小都市のカフェでウェイトレスをしていた女性)の子供たちだけの島への旅と、「私」の父との記憶と音楽をめぐる回想が中心となる。

子供の島でのタミナの話はよく出来たホラーのようで薄ら寒く恐ろしかった。子供の無垢な恐ろしさはシャーリー・ジャクスンや『蝿の王』を思い出した。

 

 

・第七部 境界

「境界」というモチーフは第六部でタミナが囚われる観念を字面だけ引き継いでいるが、これまでの部をまたいで共通する単語と同様に、その内実は大きく異なっている。

 

やがてアメリカに渡ることになるヤンとその愛人エドヴィッジの言葉のない性行為、楽観的で大病を患っていた親友パセールの葬式、ヤンが趣くバルバラの乱交パーティ会場の描写など。
通底するテーマは、性や厳粛な場での笑い・滑稽さ。行為前の脱衣や人の葬式やユダヤホロコーストなど、厳粛で、そこで笑ってしまったら不謹慎、全てが台無しになるところに見出される笑いこそが「境界の向こう側」であり、官能が排された、ダフニスとクロエにとっての裸体ではないのか、という論。
『ダフニスとクロエの物語』は該当部分だけでも読んでみたい。

 

クンデラはかなり異常な性的嗜好を登場させることを好むよなぁ。舞台演出家が女性歌手にのみ全裸で練習をさせ、更に直腸に鉛筆をツッコんで姿勢を正確に把握するとかエゲツねえ……
そして、その異常性癖から、性の根源、人間存在の本質的な滑稽さみたいなものを取り出して論を展開することが多い。

 

それから、物事が意味を為せる最大の反復回数が「境界」であり、それを越えると何をしても笑いになってしまう、というくだり、お笑い芸人のネタで絶対に当てはまるやつありそうだが思いつかない……
天丼というか、それ単体では下らないのに、何度も何度も繰り返されるうちに、ある臨界点を越えると爆発的な笑いへと変質するような現象

 

最後の部まで、これまでとは異なる新しい登場人物のみの話が繰り広げられた。あまり締めの段という雰囲気はせず唐突に終わった。これは『不滅』で語られる、小説は結末に向かって単線的に進むものではない("終わりよければ全てよし" ではない)という考えの体現にも思える。


唯一、ヤンが(小説で語られる話のあとに)アメリカという新大陸へ渡って成功を収めることが明言されている点には、若干の意外性とともに幕切れの雰囲気を感じる。(黒い烏の生息域の変遷という裏ヨーロッパ史然り)チェコスロバキア、ロシア、フランスといったヨーロッパのみが言及されていた本書において「アメリカ」という固有名はなかなか斬新な響きをもっていたし、まさか出てくるとは思っていなかった。

 

 

 

 ー読了ー

第二部「お母さん」がいちばん面白かった。そこで登場した人物がそれっきりだったのが残念。後半の3部ほどはちょっと微妙というか読んでいてダレてしまった。文章は上手いとはいえ、ずっと通用するものでもないのだなぁという発見

部ごとに律儀に独立した人物たちとテーマで話を作ったことの功罪なのかな。もちろん作中で語られる「変奏曲」の形式を採っているのはわかるが、同じ変奏曲形式でも『存軽』『不滅』は章をまたいである程度共通のキャラクターの物語で構成されていただけに、本作のような独立した連作短篇形式だと長篇としてのリーダビリティ、魅力が落ちてしまう。
本作の醍醐味は、部をまたいでの「笑い」「忘却」「天使」「境界」といったテーマの重層的な変奏を解きほぐし分析し、どのように厳密に構成されているかを味わうことだとは思うのだが、今の自分はそこまでするモチベがない。


とはいえ、そこらへんの小説よりはよほど面白かった。1週間足らずで読んでしまったのも自分としては破格の速さで、それだけクンデラが面白く、自分好みであったということの証左だ。
作品の著者を名乗る「私」が登場してくる中期3部作の形式はとても魅力的だが、それ意外の、普通の小説の語りも気になるのでやはり『冗談』を読みたい。また、本当の短篇はどんな読み味だろうかということも気になるので、短篇集『微笑みを誘う愛の物語』あたりも読んでみたい。

 

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めちゃくちゃ付箋を貼ってしまったので、かえって引用のために入力するのが面倒くさくなった。これを見ればどれだけ私が本書を楽しんだかわかってもらえると思います。

 

 

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

 

 文庫版も出てるんだ。

 

 

 

『ヴァインランド』(4)トマス・ピンチョン

 

前回↓のつづき

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

 

6, 7, 8章まで読んだ。

 

 


6章(pp.102-134)

 

プレーリーの母フレネシの現在の話と、彼女の両親サーシャ/ハブ、それから母方の祖母ユーラ/祖父ジェスの代まで遡る人生記

フレネシがいかに密告まみれの政治的環境(共産主義の母とノンポリの父)で育てられたかがよくわかる。

現在彼女は幼くして別れたプレーリーに想いを馳せながら、サンベルト・シティの旧市街アパートで、フラッシュとその息子ジャスティンと暮らしている。(フラッシュとは別に結婚してないよね?)
フラッシュもフレネシも、政府の「証人」(〈プログラム〉の特別職員)として保護されている。
しかし、政府のコンピュータから突然、特別職員の多くのデータが抹消され、自分たちも見放される(再び犯罪者として地上に投げ捨てられる)危険性を感じ、また逃げるように住む町を変えなくてはいけないと覚悟する。
えーと……4章でたしかゾイドが盟友ヘクタから聞いた、フレネシのデータが消えて行方が分からなくなっているというのはここから少し先の話ってことでいいのかな。

 

 

「この町の歴史はね、安物の映画シナリオ並なの。作られ方もよく似てる。物語の1ヴァージョンができると、みんながすぐに寄ってたかって、それを食い物にするの。聞いたこともないような党派が入り込んできて、作り替えてしまう。登場人物も、彼らの行為も、どんどん入れ替わって、胸にしみるセリフがあっても、みんなに叩かれて平凡なのにされてしまうか、跡形もなく消されてしまう。50年台のハリウッド物語はね、あまりにも長すぎる。書き直しの手の入りすぎた作品にされてしまった。サウンドはもちろんなしよ。誰もしゃべらない、長大な無声映画なの」
p.121

サーシャが娘フレネシに向って語り聞かせる昔話

 

 

暗闇の中に、家々のTV画面が青白く音もなく揺れ、その光に引き寄せられて、ふだんは見かけない声高の鳥が集まってきた。あるものは、おとなしく椰子の木にとまって茂みに隠れ住むネズミを狙っているけれど、別の一群は窓の近くまで舞い降りて、どのアングルが画面を覗くのに都合よいかを探している。コマーシャルが始まると、それに合わせて鳥たちは、この世のものとも思えない澄んだ声で歌い返す。ときには自分たちのほうから歌い出す。
pp.122-123

鳥が家々のテレビを覗きに集まって歌い返す。
一歩だけリアリズムの領域から出ている塩梅がすき

 

 

この世には、自分を含め、制服の男への欲望を抑えられない女がいるのだ。高速に出ればハイウェイ・パトロールのおまわりあんとの間で起こることを夢想し、TVからジョンとパンチの再放送が流れればオナニーしたくなる。そんな娘の制服フェチを、サーシャは自分からの遺伝だと信じた。彼女自身、ローズボウルのパレードを最初に見に行って以来、今日に至るまで、権威なるもののイメージに無力に惹かれる、宿命的な疼きを自分の内部に感じていたのである。
pp.123-124

フレネシまさかの制服フェチ
でも反体制側だからこそ権威への無力感を覚えてそれが性的快感にまで繋がってしまうのはわかる気がする。
ヘテロ男性の女性警官フェチとかナースフェチとは違う。あくまで自分よりも強者の前で敗北する構図
ヒーローもののヒロインの敗北モノに近い

 

 

彼女はいまTVを回してソファに寝ころび、シャツのボタンを外し、パンツのジッパーを下げ、さあこれから──という折も折、裏口の網戸を男の拳が叩いている。まさにTVフリークの奇跡というべきか、網戸の向こう側にハンサムな連邦保安員が立っていた。網戸ごしに見る姿は、画素がやや角張りすぎているもののTV画像のようである。
p.124

ここ笑った
網戸ごし=ピクセル数が少なくて性癖の制服マッチョ男性が荒く見える──ってじゃかしいわ!上手く決ってるけど……
ヘクタに続いて二人目のTVフリーク
親の回想では映画の話が大きな位置を占めていたし、TVは80年台のポップカルチャーにとって重要なんだろうな

 

その存在(イチ)と非在(ゼロ)の連鎖が、人間の生と死の連鎖のようなものだとしたら──そしてもし一個の人間のすべてがゼロとイチの長大な連鎖によって表記可能であるとしたら──個人個人の生(イチ)と死(ゼロ)の長大な連鎖はどんな生き物を表すことになるのだろう。少なくとも一段高次の存在であるはずだ。天使? マイナーな神? それともUFOに乗ったクリーチャー? この生き物は、名前を一文字綴るのにも八人の人間の生と死が必要なのだから、その行状を記録するには、世界史の相当な部分が必要になる。
p.134

コンピュータ内の電子のビットを生死に対応させる発想やルビの振り方には安直さから忌避感を覚えるが、それを敷衍して「一段高次の存在」を考えるところや、その具体例のコミカルな列挙、そして「世界史」にまで行き着くあたりなんかは流石に馬鹿にできない魅力を感じる。

 


7章 (pp.135-156)

世界的富豪ラルフ・エイヴォーン邸での末娘ジェルソミーナの結婚披露宴

 

エイヴォーン氏は1章の〈キューカンバー・ラウンジ〉経営者ラルフ・ジュニアの父親で、彼がパーティのステージ用に急遽募集していたバンド枠に、プレーリーの彼氏イザヤたち御一行が2章の最後で出演が決まったのだった。
プレーリーは彼らと行動をともにしているので、プレーリーもエイヴォーン邸での宴に参列することになる。
そこで運命的に、父から別れ際に渡された名刺タケシ・フミモタのパートナーでフレネシの旧友だというくノ一、ダリル・ルイーズ・チェイステイン(DL)と出会う。
ブロックより先に母を見つけたいプレーリーは、イザヤらと別れてDLに付いていくことに決める。

 

プレーリーが ヴァインランドの父→彼氏のバンド御一行→母の旧友のくノ一 と複数の庇護対象を転々と渡り歩いている。

 

めちゃくちゃ豪華で上品な宴会場の描写に、これは絶対イザヤたち詐欺バンドがぶち壊す前フリだろw と思っていたが、案外ちゃんと演奏をこなせたようで意外。イタリア人詐欺がバレて用心棒に絞められそうになったがそれでも何やかんや凌いだらしいし。

 

早くも重要アイテム「謎の日本人タケシ・フミモタの名刺」が役に立った。RPGみたい
DLはフミモタの仕事上のパートナーかつフレネシの親友って出来すぎてない?とも思うが、パラノイアの一言で収まりがついてしまうのがピンチョンのズルいところだ。

 

ゾイドやフレネシ、ヘクタ、DLたちだけでなくエイヴォーン氏にまで危険人物扱いされている連邦保安官ブロック、マジで何者なんだ……完全にラスボスとして描かれてるぞ

 

フレネシとブロックにかつて何があったのか等をプレーリーは知らないため、彼女を介して読者への説明がされる。
こういう過去や現在の状況を把握していない若者キャラが出てくるために、本作はピンチョンのなかでも非常に読みやすい。

 

 

その女性は、うち解けながらも身構えているような、中断していた会話を再開しようとしているような顔で、プレーリーを見つめていた。
p.145

DLとの初対面シーン
比喩がうめえ

 

 

「ブロックに見つかる前にあたしたちがママを見つけられない?」 あまりにもストレートな願望の表現に、思わずDLは、素人のタップ・ダンサーがよくするみたいに、自分の足元を見つめてしまった。
p.152

 

 

「すぐまたさぁ、よくなるって」 彼は跪いて窓越しにさよならのキスをした。「最悪のCMが二つ三つ入っただけじゃん。ちょっとの間の辛抱さ」
p.155

イザヤとプレーリーの別れ
イザヤお前……かっこいいじゃねえか……

 

ダメな大人を書くのも上手いが、ピンチョンの書く若者・子供はとても良い
プレーリー視点のパートは特に読みやすいし純朴さと若々しさにあふれていて面白い

 

ゾイド、母フレネシ、娘プレーリーの3人それぞれの話を交互に進める感じだろうか。完全に家族の物語だ

 

 

 

 

8章 (p.157-p.188)

 

プレーリーの〈くノ一求道会〉滞在、DLの過去回想(フレネシとの出会い、幼少期と日本での武道入門)

 

DLに連れられて〈くノ一求道会〉のアジトである修道院に着いたプレーリーは、料理担当として腕を振るう。

 

求道会の会長:シスター・ロンシェル

 

プレーリーは働きながら求道会のデータベースで母について調べる。

母とDLのツーショット写真を見つけた→フレネシとDLの出会いの回想→DLの両親のエピソード→DLの子供時代のエピソード

 

〈秒速24コマ〉:フレネシとDLが所属していた映画集団

 

DLの父親:ムーディ・チェイステイン
少年時代からギャングで、保安官に声をかけられ軍隊へ。駐留地で信徒ノリーンと結婚し、終戦直後のカンザスでDL出生。
ムーディはジュードー・ジュージュツに夢中になり師範代にまでなる。
一家は日本へ渡り、DLはパチンコ店で武道家ノボルに勧誘される。ノボルのセンセイであるイノシロー師にDLは弟子入りし、彼独自のチープな忍術を短期間に叩き込まれる。

 

現在時制。DLの相棒タケシ・フミモタが修道院になかなかやって来ない。

 

 

「あなたお料理の方は?」
「すこしはやります。でも、ここ、まさか、料理人もいないんですか?」
「いないのならいいんだけどね、問題は、わんさかいるの。自分は料理ができるっていう病的な妄想を抱いているのが。(中略)いらっしゃい、実態を見ていただきましょう」
p.160

プレーリーが来るまでよく餓死しなかったな……

 

 

コーヒーのマグを手にした「くノ一求道会」の修道長の姿が、虚空の中から徐々に浮かび上がってきたのは、会話が始まってしばらくしてからのことである。すごい術、と少女は思った。魔法の才能をもってる人ってやっぱりいるんだと。だが、それは違うと説明された。ロシェル姉は、この部屋の影とその刻々の変化、物陰と物体間のスペースを完璧に記憶して、部屋になりきることができるのだという。部屋を熟知しきった今では、透明にして空虚なる空間と一体になることができるのだ、と。
p.164

能力バトル漫画みたいなの出てきて草

 

 

コンピュータがどれほど几帳面で融通の利かないものかということは以前から知っていた。文字間のスペース一つの違いが意味を持つ。ひょっとして霊たちもそんなふうなのだろうか。霊って、自分ひとりで考えることができるのだろうか。それとも生きている人の必要に導かれて動くだけなのだろうか。霊界に情報が──哀しみ、喪失、奪われた正義についての行文がパチパチと打ち込まれていくのに合わせて、霊は動き出すのか。でも、それじゃ、念の入ったフリにすぎない。霊としての仕事を果たすには、"リアル" であるためには、それ以上の存在でないとだめだ。
p.167

コンピュータ(ビット)から霊的なものに繋げるのは5章の終盤でもやってたな。
というか、ゾイドがフレネシを妄想して幽体離脱(笑)するくだりとか、本作では霊や魂が頻繁に言及される気がする。
まぁ『重力の虹』とかで降霊会やってたからお馴染みとも言えるけど……

 

 

DLとフレネシが隣り合って写っている写真のところでプレーリーは手を止めた。(中略)一緒に歩いている友人に向けられた、向けられつつあるフレネシの口もとに、疑いのこもった、抑えられた笑みがこぼれつつある。その友人とはDLだ。DLはしゃべっている。開いた口から下の歯列が光って見える。政治の話じゃない。プレーリーには感じることができた。派手やかなカリフォルニアの色が画素(ピクセル)ごとにシャープネスを高めた不死の世界で、お互いにとりつくろう必要のない、リラックスした表情がほころぶのを。権威に縛られた表情を脱け出して、自由な毎日の呼吸をするのを。イェイッ! プレーリーは拳に力を込めた。行け行けっ、このままどんどん進んでけっ!
p.168

最後のプレーリーのくだりエモい……
生き別れの母の学生時代の写真を発見して、母が親友と笑い合っている姿に思わず拳を握りしめてエールを送る娘……

 

 

DLはヘルメットを脱いだ。頭を振って肩に落とした髪の上に、オレンジ色の夕陽が当たって、ほうき星のような光のパターンができる。興奮した神経とペコペコのおなか、奇声を発したい気分のフレネシに状況はまだつかめていなかった。「あなた、誰の回し者?」
「バイクで流してただけさ。あんたの妄想(パラノイア)、元気いいなあ」
p.172

でた!例のセリフだ! これてっきり男(ゾイドあたり)が言うのかと思ってたらDLなんだ。

DLめっちゃかっこいい。1番人気のキャラじゃない? 前章でこれは親子3人の物語だと言ったけど、DLは脇役というには魅力的すぎる。親の代からガッツリ人生が語られるし。

 

フレネシとDLの出会いはまんま王道少年漫画のヒーロー登場シーンだし、この2人の関係アツいな。

 

 

「要するに彼らは、われわれを体から遠ざけておきたくて、専門家に任せろ、と洗脳するわけ。その方が大衆のコントロールが楽になるから」 これを教室の言葉に直せば、あなたは結局自分の体のことを、きちんと責任が取れるほど詳しく知ることはできないのだから、お医者さんや専門の研究者など、あなたの体を扱う資格のある人に任せましょう──となる。しかし、この「資格のある人」というのがいつのまにか、運動のコーチから職場の雇い主、勃起した男性へと自然に拡張していってしまう。そのことに怒りを込めて気づいたDLは、自分の体は自分のものだという過激な結論に達したのである。
p.187

それを「過激な結論」と形容してしまうディストピア、資本主義

 

 

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三分の一は越えた!!!

 

 

 

ヴァインランド (トマス・ピンチョン全小説)
 

 

 

 

「兎」「アカシア騎士団」金井美恵子

 

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 東京でフォロワーさんとオフ会したときに頂いた本

金井美恵子は自分からは読まないだろうな〜と思っていたのでありがてぇ

表題作ではなく、特にオススメされた短編2つを読んだ。

 


・兎

 

少女の名前は小百合といい、とりわけ悪い名前とも思わないけれど、鬼百合とか姫百合という名前だったら、自分でも満足できただろう、と説明するのだった。「でも、もちろん、今では誰もあたしの名前を知りませんし、覚えている人もいないのでしょうけれど。だから、あなたはあたしを姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」 p.162

……? 自分でその場で改名したのか。
「姫百合と呼んでください」とかでなく「姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」なのが不思議な印象を受ける。

 


兎の語りが自分が前に書いた掌編にちょっと似てる。「〜なのでした」「〜したのです」的な語り口調
金井美恵子ではなく川上弘美に影響されて書いたものだが、ここらへんの女流日本文学作家は似ているのかなぁ。迂闊なことは言えない

 


複数の兎や鳥を飼育して屠殺, 調理するシーンで、コルタサルの、喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話をちょっと思い出した。

 

 

こんな調子の会話が繰りかえされ、最後のラム入りココアを飲むころは、二人ともすっかり満腹して眠くなり、父親は葉巻きを吸い、あたしは口の中で舌に滲みて行くココアとラムの味をゆっくり味わいながら、満足しきって、眠ることを考えていました。物置小屋から庭を横切って家に帰り、二階の寝室に入るまでに触れる、少しばかりの冷たい空の空気は気持が良く、眠りを益々心地良いものにしてくれるのです。 p.168

「満腹して/満足しきって」「眠くなり/眠ることを」「ラム入りココアを/ココアとラムの味を」など、長めの1文のなかに同系統の単語をわざと重複させて粘ついたリズムを生み出しており、これが次の文の、物置小屋からの移動という動的な内容と「冷たい空の空気」の気持の良さを読み手にまで豊かに想像させる効果を発揮していると感じた。そして「眠り」で締める。
つまり、物置小屋→庭→二階の寝室という空間的移動の最中に"あたし"が感応する「リラックス/温かさ」→「忙しなさ/冷たさ」→「リラックス/温かさ」という緩急の往還を文章によって見事に演出している。

 


ある朝とつぜん家族がいなくなるという「事件」を目の当たりにしてもさほど動じず、むしろ少し喜びさえしている感じ(を端正な文体のレベルから表現している感じ)はありがちというか、すごく既視感がある。なんだっけな……ハルキ?
とにかく、こういうのはあまり新鮮に感じない。

 

兎少女の語りは「 」で大きく閉じられた長文が幾つか連なる構成だが、内部で一度も改行しない「」もあれば、何度も改行する「」もあって、その使い分けがよくわからん。


短編全体に社会の気配がしない。閉じられている。かろうじて社会の気配を遠くに感じられる箇所は、兎少女の「学校」や父親の「事務所」、それから冒頭の真の語り手の「医者」と「原稿用紙」(作家業?)あたりか。

 


捌いた兎の血を全裸で浴びる。なかなか官能的というか鮮烈だ。それまで匂いとか色彩で感じていた兎の血肉を肌で直接堪能し、遂には兎の毛皮の中に入ってしまった。
少女の暴力性の発露は、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』で藻屑が男子を殴るシーンもそうだが、やっぱりなかなか印象に残る(好き)

 

 

眼の中に、燃える火竜が飛び込んだように、深紅の闇がひろがり、白熱した炎が頭部で燃えあがり、そして、まっ黒な闇の中に落下して行きました。 p.175

父親が投げた水差しが顔に当たって割れたガラスが左眼につきささった時の描写。
「燃える火竜/白熱した炎」「深紅の闇/まっ黒な闇」ってやはり明らかにわざとらしく同系統の単語をくり返してるよね?
炎の眩しく燃え上がるイメージと、闇の冷たく広がるイメージを1文のなかで交互に提示している。炎→闇の推移を一度描けば十分な気がするが、炎→闇→炎→闇 としつこく二度も重ね書きする。


こういうのを文中のところどころで見かけるが、癖なのかな。本作に限って道具的に用いているのかな。

 

 


「兎を殺して調理して食する」ことと、「父親を殺す」ことがタブーとして扱われている?
前者によって「普通の人間」ではなくなり、後者によって「もう人間の世界には戻れないということを、改めて、はっきりと確認し」て、「兎の亡霊が自分にとりついたのをはっきりと自覚し」た。
とつぜん家族が消えるとか、兎を殺すことに快感を覚えるようになり、毛皮をかぶって兎になりすます(学校には行かなくなる)とか、ファンタジーとまではいかないがわりと非現実的なことを淡々と描写してきたが、上の2点がタブー的に作用していることに関しては現実の「常識」の範疇に物語が留まってしまったようで少し残念。


怪我した左眼だけでなく、そのうちに右眼まで見えなくなってくる。(兎は視力があまりよくないらしい)
左眼に兎の眼を模したガラスの破片が突き刺さった自分の顔を鏡越しに見た時のぞっとするほどの美しさが忘れられず、その姿を呼び起こすために飼っている兎たちの両眼をみんな刳りぬいてしまった。以前より兎を殺すことに快感を覚えなくなった。

 

ふーむ……グロテスクな光景に甘美さを感じる向きとか、「その時のあたしは、ぞっとするほど綺麗でした」というやや使い古された言い回しとか、結構ありきたりなことをやっている感じもする。殺して皮をかぶっていた兎に眼を傷つけられて兎のようになっていく流れも凡庸な変身譚というか、自分ー兎ー父親の三項をかなり理知的に取り扱っているように思える。

 

 

そして、私が彼女の素顔を見たのはこれが初めてだったのだが、彼女の顔が美しかったかどうか私にはわからない。 p.179

安直に「彼女の顔は美しかった」でも「醜かった」でもなく、「美しかったかどうか私にはわからない」なのめっちゃ良いな〜と思ったのだが、その後を読んでみると、「美しかったかどうか私にはわからない」のは、彼女の両眼とも潰れて酷いことになっていたからであって、「(原型を留めていないので、彼女の元の顔が)美しかったかどうか私にはわからない」ということらしいと気付いた。それじゃあそんなに好きでもないや

 

 

最初に「私」が兎少女に出会って語りだしたあとどうなったかが一切書かれずに「私が二度目に彼女にあったのは、ずっと後になってからだ」と飛ぶのは驚いた。一度目の邂逅と長話以後のやり取りが気になるが、そこはブラックボックスなのだなぁ
彼女が死んでいた(おそらく右眼にガラスを突き刺しての自死だろう)という展開も、兎のコスチュームを「私」が受け継いで、彼女ー兎ー私という三項をシステマティックに構築するオチも、想像の域を越えなかった。

 

 


というわけで、初・金井美恵子だったが、激推しされていたのでハードルが爆上がりして辛口というか穿った読み方をしてしまった感は否めない。自分でコントロールできるものではないが。
文体はうまぶってるな〜という感じ。(その超絶劣化版みたいなものを書いといて恐縮だが)
話の内容に関しては、社会から隔絶された空間で少女の静かかつ暴力的・官能的な振る舞いを辿るの自体は結構好みだと言える。ただし、兎と少女と私の三項の憑依-変身譚としてキレイにまとまり過ぎているところは好みでなかった。
それから、

書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。
と日記に記した日、私は新しい言えの近くを散歩するために、半ば義務的に外出の仕たくをした。
p.159

という、いかにも〜〜〜〜〜な冒頭には非常に辟易する。
一度目の長話以降を思い切ってカットしたのは「書かれないということ」なのだろうけれど。

 

 


・アカシア騎士団

「兎」と同じくルイス・キャロルが原文で冒頭に引用されている。どの短編もそうなのかと思って軽く調べた限りでは、本短編集でこの2編のみで Lewis Carroll 引用されているっぽい。なんたる偶然。一つの記事にまとめるのにちょうど収まりが良いな
最初の「愛の生活」では『鏡の国のアリス』が日本語で冒頭引用されているが。

 

 

私は彼の話を書こうと思う。ようするに、木やワニスの揮発性のにおいでも鎮めることの出来ない神経の話ということになるだろうか。 p.219

「神経の話」とな。たのしみ
語り手は小説家ということで、「兎」とともに私小説的な体裁をとっているのだろうか。

 

序盤の「私」の一人称部分を読んで、おそろしく稚拙で下品な言い回しになるが、「女性版村上春樹」という単語を想起してしまった。ほんとうに申し訳ない

「青年もしくは少年(と思えた)」風貌なのに、15年以上前に小説を書いていたということは軽く30は過ぎている筈だが、どういうことだ。めっちゃ若く見られるタイプなのか、作中人類の寿命がめちゃ長いのか、それともわずか数歳で小説を物したのか。なんか勘違いしてる?


プーサン(ニコラ・プッサン)のナルシス(ナルキッソス)とサロメ、絵画を全く知らないので調べた。
こういうポーズね、なるほど

 

 

彼は、今では木工場の経営者で、とっくに小説のころなのは忘れてしまっていて、時たま、書物のいっぱいつまった自分の部屋で、長い時間を一人きりで過すことがあっても、それは本を読むためというよりは、古い本の埃臭いにおいを嗅ぐためで、その臭いは、本の内容自体よりも、はるかに実在感のある、物質の臭いをたてるのであった。 p.220


埃「臭い」「におい」を「嗅ぐ」ためで、その「臭い」は……と、これまた露骨にすげぇ重ね書きしてくる。
「はるかに実在感のある、物質の臭い」という表現は感覚的な狙ってる感を感じてしまった。

 

 

こうして無事に暮らしていられるというのも、小説を書くなどという馬鹿気たことを、早い目にきっぱりと見切ったことのおかげで、わたしは、自分の文学的才能より、木材を信用するという、そんじょそこらの自己愛のかたまりじみた三文作家には、とうてい出切っこない客観的で物質的な、汚れのない人生を選ぶことが出来たのだ。本当に作家をやめてよかった。いわば悪夢から解放されたようなものだ。
どうやら、彼には新進作家だった時分に養ったらしい自己愛だけは、まだ残滓をとどめているようで、彼の言うように、作家が自己愛のかたまりであるのならば、まだ十分に作家として通用しそうな気配だったが、おそらく、そこまで自分を分析しない自己追求の姿勢の欠如のために、彼は小説というものにおのずから行きづまりを感じたのだろう、というのが当時の、なんらかの意味で枯れに注目していた、もしくは批判的だった数も多くはない批評家の意見の一致したところで、ああいった幼稚な小説は、いかに何でも発展性がなさすぎた、というのであった。 p.221

ここ草 辛辣ゥ!
どちらの段落も流石に文を狙って伸ばしてる感には若干イラッとくるが。

 

 


「彼はひどくもどかしい苛立ちを、手紙のために感じて腹を立てた」?
……あ、わかった。やっぱり勘違いしてたわ。彼=『アカシア騎士団』の著者=木工場の経営者("私"に物語っている人)で、彼のもとに手紙を書いた青年もしくは少年というのは別の人物ということね。完全に理解した。

 

 


「まったく新しく、同じ小説を書く」と聞けばボルヘス「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を連想せずにはいられんよなぁ。こっちは(15年が経った)同一人物による取り組みで、ボルヘスのは別人物(実在の人物, 小説と、架空の人物)であるのが相違点。

 

 


学校に生息する秘密組織アカシア騎士団。こういうのワクワクするなぁ。地下鉄に生息する秘密組織を描いたコルタサルの短編「ノートへの書付」を思い出す。学校に潜む謎と殺人事件といえば恩田陸六番目の小夜子』か。
「小学校と一緒に卒業してきたつもりの〜」とあるが、中学校なのだろうか。というか、舞台が日本なのか若干怪しい。

 

 

そして、不正を見のがすことのない騎士たちは、不正を制裁するために呼び出し状を送りつけ、送りつけられる側には、それなりのことをされるに足る理由があって、しかもその理由は、正統と正義によって批難されるべき過誤や不正と決っていた。 p.227


ここも通り過ぎそうになる寸前で「ん?」と引っかかった。
「しかもその理由は」という文節の後ろで前の理由を説明するはずだが、ちょっと言葉を変えたくらいであんまし説明になってなくない?「不正を制裁するために」と「それなりのことをされるに足る理由」と「正統と正義によって批難されるべき過誤や不正」って言ってることほぼ一緒じゃん。


というか、木工場の主人が語り始めたこの枠内物語は、しかし「」で括られるような彼の直接の語りではなく、また"私"の一人称のままのようにも思えず(「私」がまったく出てこないため)、神の視点的な三人称で語られている、と見なしていいのだろうか。「今や、〜なのである」のように、工場長から話を聞いている「私」の時制からすると明らかに今じゃないだろという内容を今として語っているし……

 

とか言ってたら次パートで「ぼく」による一人称になった。「龍生」という転校生の名からおそらく舞台は日本。

 


「(前略)少年たちの組織に似合わぬ不釣合な豪華さに、ぼくは面食らった」(p.229)とあるが、「似合わぬ」と「不釣合な」の片方で良くない?頭痛が痛いよう。 やっぱり意図的に重複させて文/文章のリズムをコントロールしてるんかな。僕には冗長で稚拙だとしか思えない。あ、中学生(たぶん)の「ぼく」による一人称だからわざと拙くしてるとか?にしては語彙ありすぎだよなぁ


校長と担任教師が騎士団の書記とかw いきなりコミカル・戯画的になってワロタ


ボルヘスとか言ってたらまんまドン・キホーテについて語られ出した。現実と虚構。絵画を元に書いたはずの『アカシア騎士団』は作者が知らぬままに全て現実に起こった出来事だという……いかにも〜〜(どんだけ〜〜の抑揚で)

 

 

そして、何事も起らず、ぼくらは再び目隠しをされて、林の入口に連れ戻された。 p.233

うおお。何事も起こらないんかい!すげえ丁寧というかダラダラと場面を描写していたから、一気に省略されるとビビって新鮮に感じちゃう。「兎」でもそうだったな。


「ぼく」と聡明な友人が二人だけの秘密を抱えて過ごす日々……というと、どうしてもミルハウザーエドウィン・マルハウス』を連想しちゃう。「ぼく」側の情報が少なく意図的に隠蔽されている感があるのもそう。死の匂いが立ち込めているのも。
それから化学実験室の細かい情景描写もちょっとミルハウザーっぽい。

 

 

なだからで妙に明るい不眠と孤独が、ぼくの感覚を敏感にさせた。 p.236

この1文好きだな

 

 

よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋は、かすかに湿っていて何種類かの薬の匂いがその湿り気の中にまじっていた。 pp.236-237


ずっと思っていたが、読点の位置がヘンテコというか独特じゃない?
ここの文も、「よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするか、もっと減らして「よく晴れて冬だというのにぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするのが自然な気がするんだけど、「ぼくの部屋は/かすかに湿っていて」を読点で切り離すにも関わらず「かすかに湿っていて/何種類かの」は一息で切り離さないのがとても不自然に思える。わざと?僕の読点の感性のほうがバグってる?
この文のみならず、入れないでいいところに読点を入れて、入れるだろうというところに入れてないことが2ページに1ヶ所くらいの頻度である。

 

それから龍生は、その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたちや、わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色や、死体(……)の見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形、身体から切り離されて首だけになってもまだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し、さらに龍生の顔を映し、それ等がやがて、濃さを増す林の中の夜に飲みこまれ、枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごしに、星が煌めいて見えたことを語った。 p.237


おい!!!これは流石に狙ってるでしょ!
「見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形」と「まだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し」なんてほぼ同じ内容なのにひとつの文中で並んじゃってるし、「その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたち」と「わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色」もわざわざ言い直さなくても「その短い冬の黄昏の南の空の色や雲のかたち」で良くない?「かたち」「形」と表記を変えるのももはやお馴染みの手法。極めつけは「枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごし」!!! 編み出す編み目ごし……笑ってしまった

 

 

だから、あくる日の新聞に、学校の裏手の林の中で、首を切り落とされた生徒の死体が発見された、というニュースが載っていることを両親に聞いた時、ぼくは、親たちとは別の意味で驚いたのである。非現実の世界で起きたことが、新聞に報道される、ということに、驚いて耳を疑ったのだ。 p.238

こはちょっとおもしろいな。
当の犯人から前日に直接聞いていても特になにも動揺しなかったのに、翌朝新聞の報道を見て驚くという倒錯。前日彼に言った「非現実だと認めてしまえば、かえってそれを受け入れるのは簡単なことだと思うね」という台詞そのままの反映なんだけど、「現実/非現実」とか、「現実/虚構」のような抽象的な対立構造で弄ばれても(凡庸過ぎて)響かなかったことが、こうしてニュースを見て驚くという現実の行為に移植・反映されるとおもしろく感じる、ということを発見した。


学校の秘密組織、顔は白い紙で覆い隠す、そして密告……もしかして和田たけあき『チュルリラチュルリラダッダッダ』の元ネタってこれ???知らんかったわー

 

 

あくる年、冬休み明けの学校へ復学してみると、龍生の席には誰もいなくて、あいつは今日は休んだの? と同級生に聞くと、彼は神妙な顔をして、あいつ? 誰のこと言ってるの? とたずね返し、ぼくは、質問をかえた。 p.239

死神代行篇でルキアが尸魂界に連行されたあとに登校した一護と桃原の会話じゃん

 


「ぼく」の語りは意味深な閉じ括弧"』"で締められるんだけど、これに対応する"『"が見渡しても見つからない。やっぱそういう意味深なやつですか。

 

 

締め方はやはりやや唐突というか、工場長のお話しを聞いての「私」の反応などは一切語られずに、『アカシア騎士団』と手紙についても宙吊りになって終わる。(純文あるある)
ただ、

私は、もちろん、あの木工場へ通うこともなくなった。なぜ、作家にあうために木工場へ通う必要があるだろう。そこは、もう私のあこがれていた静かな仕事場ではなく、ありふれた凡庸な作家の書斎で、それならば、自分の部屋にいるのと同じことだった。 p.240

という後日譚で終わる。(言わせて。「ありふれた凡庸な」!!!)

こういう終わり方をされると、木工場長の「作家辞めて良かった〜〜」という自己愛あたりの描写が本作の重要なテーマというか、虚構/現実うんぬんというより、結局のところ「作家」についての小説だったのかな、と思わされてしまってなんか嫌だ。終わり方ひとつで全体の読み方を左右されとうない〜


区切られたパートごとの語りの位相の関係や最後の意味深な』の件とか、わりとフクザツで作り込まれてそうだとは思うけれど、文体も話もそれほど惹かれない。エド丸やなぁ……で終わってしまう。

 

 

というわけで初の金井美恵子、短編を2つ読んだが、どちらも今ひとつだった。

わかったのは、
・一文が長い
・読点の打ち方が独特
・似た単語, 表現を重ねがち
・小説家である「私」を語り手にした枠物語を書きがち
・文体は端正だが個人的にそれほど面白みがない

あんまし好きになれる気がしないな……

 

そういえば書いてるときに気付いたのが、自分は好みでない小説を評するときに「いかにも」という単語を使いがちであるということ。要するに何らかの意味で「いかにも」だと思ってしまうようなやつは苦手だ。

しかし、「いかにも」だから苦手というより、苦手だから「いかにも」だと思うのかもしれない。にわとりたまご

結局は個別の事例を具体的に検証するしかないのかなぁ

 

 

 

ちなみに、各20ページほどの短編2つをメモしながら読むのに、合計5時間以上かかった。読むの遅すぎィ!

 

 

 

 

 「喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話」じゃなくて「喉から無限に子ウサギを吐き出すようになってしまった女の話」だった。

「パリにいる若い女性への手紙」

 

愛しのグレンダ

愛しのグレンダ

 

「ノートへの書付」:地下鉄に潜伏する秘密組織の話

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 みんなだいすき「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」

 

六番目の小夜子(新潮文庫)

六番目の小夜子(新潮文庫)

 

僕が読んだ数少ないホラー(?)小説

 

 

 

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