『アレフ』(1949)ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 

鼓直

 

ボルヘスを読むのは『伝奇集』に続いて2冊目

17作の短編が収録されている

 

 

 

2025/10/3~11/6

 

 

不死の人

〈不死の人々の都〉への冒険譚
とりとめのない構成
不死の人ってホメロスかーいww 大ホラぶち上げてて笑う
ずっと冒険のあとをついてきていた部族の男こそが不死の人で、ホメーロスその人であった。
しかし、そうして語っている男自体が不死の人ホメーロスでもあるのでは?という矛盾が提出され、先に語っていた「不死の人はすべての人である(時間が無限だから)」という思索が実態を伴って浮かび上がる美しい構成。

……なんだけど、やっぱ私はボルヘスのこういう短編好きじゃねぇな〜〜〜と思う。頭でっかち過ぎるし、構造的にうまく出来すぎていて遊びが無くて面白くない。

無限へのフェティシズムなんかも、やってることほぼ「バベルの図書館」と同じだし。
むしろ、そういうミステリ的?なロジック/アイデアよりも、それを置いてもなお晦渋なこの文体・文章表現こそボルヘスの本質なのではないかと思う。(といっても、文章もそんな好きじゃないけど。読みにくいし)

 


死人

荒野の荒くれ男たちと暴力と死。ボスを暗殺しようと若者がのし上がっていたと思ったら、全ては掌の上で騙されていた、というとても単純なハナシ。「南部」の系譜か

 


神学者たち

「時間は円環」派を論駁したい似た立場の神学者たちのライバル意識。BL いいぞ〜

 〈車輪〉は〈十字架〉の前に屈したが、アウレリアヌスとヨハネスは密かに戦いを続けた。二人はおなじ軍団で戦った。おなじ勲功を望み、おなじ〈敵〉に立ち向かった。口には出さないがアウレリアヌスは、ヨハネスを凌ぐつもりの無いような言葉は一語も書かなかった。 p.52

男の間での嫉妬の話……好き!

 

 突然、二十語からなる文章が頭に浮かんだ。彼は喜んでそれを書き取ったが、その直後に、それが他人のものではないかという疑念に襲われた。……不安に悩まされることになった。その字句を変えたり削ったりすれば、表現の力を殺ぐことになる。手を加えなければ、憎悪する相手のものを剽窃することになる。 p.57-58

神学者のチャドだ

 

そういうことか〜 反復を否定するための字句が、最も憎い相手のそれの反復になってしまって二律背反に陥る(ことで、無限性か一回性かという神学の議論内容にプロットが接続される)ってことね

え、なんでヨハネスが告発処刑されるの? 因果がわからない

 彼が炎に包まれようとした時、アウレリアヌスは思い切って視線を上げた。火の手が一瞬止まった。最初で最後だったが、アウレリアヌスは憎むべき相手の顔を見た。ある人間の顔を思い出させられたが、何者であるかまでは分からなかった。 p.59-60

 アウレリアヌスはヨハネスの死に涙こそしなかったが、すでにその一部となっていた、不治の病が癒えた者が感じると思われるものを感じた。 p.60

すげぇ的確な表現だ……

 正午に雷で森が焼け、アウレリアヌスはヨハネスとおなじ死に方をすることができた。 p.60-61

うおお…… BLだ……

 計りがたい神にとっては彼はヨハネステデ・パンノイア(正統派の者と異端者、憎む者と憎まれる者、告発者と犠牲者)はただ一人の存在であることを、アウレリアヌスは楽園において悟ったと言うほうが正確である。 p.61

そういうことか〜〜 それがやりたかったのね〜〜

嫉妬BLという人間ドラマはかなり好みだけど、それがこうして思弁的なテーマに綺麗に回収される(オチがつく)点はやっぱり苦手だ。それさえなければボルヘスを好きになれるんだけど、それを無くしたらボルヘスではなくなるだろう。

男と男の非対称な(殺し-殺され)関係がラストで入れ替わる話と捉えれば、前作「死人」も割りかし本作と似た主題だと整理できるのか。

 

戦士と囚われの女の物語

侵略対象だった都市に魅力されて寝返った「蛮人」の戦士男と、インディオに拉致されてすっかり「野蛮」な部族の一員となったイギリス女。
さすがにオリエンタリズム全開すぎないか? サイード以前とはいえ。

 しかし二人はある秘められた衝動に、理性より遥かに深い衝動に突き動かされたのだ。 p.69

歴史上の2人を本質的に「同一」とする見方は無限反復説の範疇だ。

 

タデオ・イシドロ・クルスの生涯

 (肝心な、啓示的な夜は未来に身を潜めて、彼をひたすら待っていた。彼がついに自分自身の顔を見る夜は。彼がついに自分自身の名前を聴く夜は。よくよく考えれば、その夜は彼の生涯を要約するものである。さらに言えば、その夜の一瞬、その夜の一つの行為がである。行為はすべて私たちを要約するものだから。) p.74

ここかっこいい
ポール・ヴァレリーの有名な雷雨の夜のエピソードっぽい。

 

またかよ!! 「お前は俺だ」をずっとやっている。そういう短編集
戦っていた相手に寝返るのは前篇から引き続き。
すばひびにこういうエンドあったなそういや


エンマ・ツンツ

自死に追い込まれた父の復讐を果たす19の娘。
倒叙ミステリ的な?

いちおう、セックスした相手の男を入れ替える(同一視する)という点で例の無限反復性っぽい要素はある。

ボルヘスって思弁的で抽象的な話ばっかなイメージあるけど、一方でわりとサスペンスも多いよな……

サスペンスと思弁を両立・融合している。

 重大な出来事は時間の外にある。理由は、そのなかでは直前の過去は未来から切り離されているか、出来事を形づくる部分が一貫性があるとも思えないか、のいずれかだ。 p.81-82

は?

 


アステリオーンの家

語り手と「家」の正体が最後で種明かし(どんでん返し)される。ワンアイデアなんだよな〜 伏線系・ミステリ好きからしたら嬉しいんだろうけど……

今回は人物ではなく家の各構造が無限反復的であった。

 家のすべての部分は何度も反復され、どの場所も別の場所である。 p.90

ここから迷宮を導いたのか

 二六時中、閉じた眼と荒い息遣いによって眠ったふりを装うこともある。(時折、実際に眠ってしまう。また時折、眼を開けると空の色が変わっている)。 p.89

ここ好き おしゃれ

 

houseofleaves.akazunoma.com

『紙葉の家』のファンサイトでも言及されていた。

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もう一つの死

死に方が対照的なふたりのダミアンの謎を追う

 そして彼のおぼろなイメージは消えた、水が水中に消えるように。 p.101

良い直喩

タイムリープ多世界分岐もの
SFミステリだなあ

 


ドイツ鎮魂曲

ヒトラーが語り手かと思ったが、ナチスの別の有名人らしい

 

 ナチズムはその本質において、道徳的行為である。 p.110

 

 「虎を描くツェ・ヤン」と題したあの深遠な詩の多くの六脚韻を、私は今でもそらで繰り返すことができる。この詩は虎の縞模様に似ており、静かに横たわった虎たちがひしめき、駆け回っている。 p.111

すごい比喩
横たわっているのに駆け回っているんだ

 この間も、めでたい戦いの大いなる昼と大いなる夜は私たちの頭上を巡っていた。私たちの呼吸している空気には、愛にも似たある感情が漂っていた。ふいに海辺に立ったときのように、血の沸き胸のおどる思いを味わった。当時はすべてが、夢の趣までが異なっていた。 p.112-113

エモい

 ヒトラーは一つの国のために戦っていると信じたが、実はすべての国のために、攻撃し憎悪しているあの国々のために戦ったのだ。 p.115

いつもの「お前は俺だ」論理
なんだかなぁ
反-政治性という名の強靭な政治性

 


ひとつのテーマに沿った短編を集めているコンセプチュアルな作品集なのはわかるが、流石にワンパターンすぎないか?と思ってしまう。


アヴェロエスの探求

どゆこと?? 17世紀スペインの著述家アヴェロエスについて語っていたが、ラストで「私」が出てきて、物語る者と物語られる者との関係?に着地する。
アリストテレス著作のなかの「悲劇」と「喜劇」という単語について
これも歴史と人間の無限の繰り返しについて何か言おうとしてはいるようだが、よくわからない


ザーヒル

ある日、バーのお釣りで手渡されたザーヒル硬貨に取り憑かれて、そのことしか考えられなくなってしまった「私」=「ボルヘス」の話。
前半のザーヒルを手にする前のモデル、テオデリナ・ビジャルが死ぬまでを語るパートはどういう意味があったんだ。たぶん後半に繋がってるんだろうけど普通に読み落としている。
ほんま、よくこんな文章書けるな。うまいけど、難しいし好きじゃないんだよな〜〜

 私はもはや宇宙を知覚せず、ザーヒルを知覚するだろう。 p.146

最後の最後でお決まりの無限反復論に回収されて草
全体は任意の最小単位の反復によって再構成できる、というある種数学的な世界観。

 

神の書跡

前篇「ザーヒル」の続編、あるいは対を成す作品。
「ザーヒル」が、ある個体にとらわれてそのなかに全体を見出す話だったのに対して、こちらははじめに神の言葉=全体を解読するという目的ありきで、身の回りの個体のなかから解読対象を選び出す。
しかも選んだのが虎なのも前篇と通じている。
ミステリめいてもいる。暗号解読

 

アベンハカン・エル・ボハリー、おのが迷宮に死す。

迷宮殺人ミステリー ちゃんと探偵役がいて解決される
要するに犯人と被害者の入れ替わりトリックってことか
お前は俺だ、をずーっとやっている。そして迷宮フェチ
時間内容じたいは素直なミステリだが、語り方が文学。とてもまだるっこしい

 


二人の王と二つの迷宮

 ※1 これは教区司祭が説教壇で披露した話である。一六二ページを参照のこと。 p.175

前短篇のなかに出てきた話=スピンオフ掌編だ! ここにきて遂に明示的に作品同士が繋がった。
内容は素朴な復讐譚・寓話

 

待ち受け

夢とサスペンス
追われている身の男が、殺されるのを夢に見て、夢見るように殺される。


門口の男

ビオイ=カサーレス!?
よく分からない イギリス統治下のインドで誘拐され殺された裁判官の男グランケアン
事件がかなり前なのか直近なのか矛盾した描写。門にいた老人男と、その話の中の「狂人」の関係は? 同一人物?

 家と家とが異なることなどありえない。肝心なのは、その家が建てられているのが地獄か天国かを知ることだ。 p.193

巻末解説に "語られる時間と語る時間との時差がいつの間にか消失する「門口の男」" とある p.246
やっぱそういう仕掛けだったのか。あんまし驚けなかった



アレフ

私=ボルヘス
屋敷の地下室で見えるという〈アレフ〉。すべての点が同一の点を占めている球体?
一瞬のうちに見た〈アレフ〉のイメージの数ページにわたる羅列=大喜利

 あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た(子供のころの私は、閉じた本の文字たちが、夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないが不思議でならなかった)。 p.215

素敵な発想

うーむ、どういうことやらさっぱり分からず終わってしまった。地下室でみた〈アレフ〉は偽物だとかなんとか
語り手が慕っていたっぽい亡きベアトリスはどう繋がってくるんだ

 

内田兆史による解説

1940年代前半の『伝奇集』と、後半の『アレフ』との対比。文明と野蛮という二項をいずれも取り込んだ。作者自身を語り手にするなど、より血肉が通った普遍的な作品が増えている、と…… それでも私にはまだまだ「頭でっかち」に思えてしまった。

『伝奇集』でいちばん好きだとよく言っている「南部」ってあとから加えられたのかよ。時期的には『アレフ』に入ってもおかしくないらしい。

最初の「不死の人」がボルヘスの短編のなかで最長なんだ……

 

 

感想まとめ

やっぱりボルヘスが苦手だ!!!!
SFやミステリのファンがうまぶって褒めたくなるのは分かるが、わたしはどちらのジャンルも嫌い寄りなので……

ワンアイデアなんだよな~~~ 頭でっかち。そしてワンパターン。無限反復、全は一にして一は全、お前は俺だ、をずっとやっている。

文章もすげぇとは思うけど読みづらさが勝って、好きにはなれない。

同じアルゼンチンの短編作家コルタサルは、ワンアイデアでも文章がめっちゃ好きだし、衒学的ではないから。。

思弁的/頭でっかちといえば、大学生の頃に読んだヴァレリームッシュー・テスト』とかも似ているのかなぁ。あれは大好きだった。今読んだら分からないけど。

 

強いて挙げれば、「神学者たち」と「神の書跡」が好きだった。

 

 

 

 

 

ラテンアメリカの短編集たち・・・・など

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『近代能楽集』三島由紀夫(1956)

 

 

なんやかんやで、三島の本を一冊読み通せたのはこれが初めてです……

 

こっち↑の古いバージョンを、実家の母の本棚から抜き取ってきて読んだ

 

2025/9/3(水)~10/2(木)

 

・邯鄲(かんたん)

おもしろい
戯曲だと三島の緻密な地の文がほぼ無いため、小説より読み易い

菊も次郎も狂っている
夢の中で次々と不可思議な人物が登場する幻想的・シュルレアリスム的な話

 次郎 (言下に)ううん、僕は女を愛したことも愛されたこともありはしない。
 菊  そうすると失恋でもないんですねえ。
 次郎 あはは、菊やって、馬鹿だなあ。 失恋なんかするやつは、子供さあ。 p.13

 

 美女 あなたったら素直な女が好きなのね。ずいぶん古風でいらっしゃるのね。すこし抵抗のある女じゃなければ、おもしろくないでしょう。
 次郎  うわあ、うるさい。きまり文句だ。
 美女  あたくしの名前は、キマリというのよ。
 次郎  そんな馬鹿な名前、きいたことがない。
 美女  ごらんなさい、名前になればきまり文句もきまり文句じゃなくなるんだわ。
 次郎  そんなの、洒落にもなりゃしない。
 美女  あら、慄えてる。あなたの手が、そら、蝶々みたいに、……つかまえたげる。(次郎の両手をおのれの両掌の内に包む) つかまえた。さもなけりゃ、あなたの手があなたからとんでゆくとこだったわよ。
 次郎  君は空想家だね。
 美女  (狡猾に笑いて)あなたの真似をしているのよ。 p.23

 

 次郎  だから、きらいなんだ、お酒は。
 美女  だって今はそんなことを言ってるけど、十年たつとあなたは呑んべになるわ。
 次郎  それは知ってる。でも十年さきにどうせ呑んべになるからって、今呑まなければならない理由がどこにあるんだ。
 美女  理窟を云うとき、あなたの目はずいぶんかわいいわ。自分の理窟に自分で酔ってる目。
 次郎  今君の目のなかをこわいものがとおりすぎた。
 美女  こわいものって何が?
 次郎  女の目のなかにはね、ときどき狼がとおりすぎるんだよ。
 美女  おおかたシェパアドのまちがいだわ。
 次郎  僕はちっとも君を好きじゃない。
 美女  それでも半年あとにわたしたちは結婚するのよ。
 次郎  僕はちっとも君を好きじゃない。
 美女  好きでなくたって、わたしたちは遠からず結婚するのよ。 p.23

素晴らしいやりとり

 


・綾の鼓

面白かった。
やはり台詞の力が強い。名言をいくらでも書けるタイプ

 マダム そのおじいさんのラヴレターが、今日でもう何十通、いえ、何百通なんですの。
 戸山  別々のところへ出せば、一つぐらい当るのにね。
 金子  君の説は一理あるよ。しかし恋愛が結局蓋然性の問題ならね、一人の女の中にある蓋然性は、無数の女の中にある蓋然性と同じものかもしれないよ。
 藤間  その恋文は、お見せになりましたか? 奥さんに。
 マダム お見せできるわけがないじゃございませんか、みんな私が櫛拭きに使いましたの。
 戸山  櫛ってそんなに汚れるもんなの?
 マダム 櫛って、うちの犬の櫛でございますよ。うちにはワイヤーヘアード・フォックステリヤが五匹居りますの。櫛で頭や背中を掻いてやると目を細くして喜びますの。
 金子  恋と犬とはどっちが早く駆けるでしょう。
 藤間  さてどっちが早く汚れるでしょう。
 マダム まあ、洒落た殿方とお話していると、心がうきうきいたします。

「恋と犬とはどっちが早く駆けるでしょう」←なにかのコピーに使えそう

 

 亡霊  だが儂はもう幻じゃない。生きているあいだ、儂は幻だった。今では儂の夢みたものだけが残っている。儂を失望させることはもう誰にもできない。 

 

 笑いなさい! 笑いなさい! いくらでも笑いなさい! ・・・・・・あんた方は笑いながら死ぬだろう。 笑いながら腐るだろう。儂はそうじゃない。(舞台奥の窓のほうへ歩む)......儂はそうじゃない。笑われた人間は死にはしない。笑われた人間は腐らない。

迫力がある名シーン

左右両側に建物を配置する舞台設計。最後飛び降りるのが右側の窓ではなく奥側の窓からだというのも良い。

映画『たまこラブストーリー』の元ネタ?……は、別の海外演劇

 


卒塔婆小町

「俗悪」がキーワード

生甲斐? 冗談をおいいでないよ。こうして生きているのが、生甲斐じゃないか。私は人参がほしくて駈ける馬じゃあない。 p.93

 しかしあんたみたいなとんちきは、どんな美人も年をとると醜女になるだろうとお思いだろう。ふふ、大まちがいだ。美人はいつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりゃあ醜い美人というだけだ。あんまりみんなから別嬪だと言われつけて、もう七八十年この方、私は自分が美しくない、いや自分が美人のほかのものだと思い直すのが、面倒事になっているのさ。

いいね

 


・葵の上

精神分析 性的コンプレックス、リビドォ ←時代を感じる。

 六  それに気がつかなかったあなたが悪かったんだわ。あたくしの目が、とっくに誇りを失くしていたことがわからなかったの? 高飛車な物言いをするとき、女はいちばん誇りを失くしているんです。 女が女王さまに憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持っているからだわ。......ああ、この膝。あなたの膝は、冷たい、硬い、枕ね。
 光  康子さん……。
 六  この枕なら眠れるわ。冷たい、硬い、決して熱くならない枕。 ……あたくしの枕は、頭をつけるとすぐ熱くなるの。 あたくしの頭は枕の熱いところから、冷たいところへ逃げまわって夜を明かすの。沙漠の熱い砂の上を足で歩ける人も、あたくしの枕の上は歩けない。 p.121

すげ~・・・

 

 六  あなたって、あなたのそばにいる女が、ふとあたくしじゃなかったら、ってお考えになることあって?
 光  ないよ、別段。
 六  どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでしょう。今あたくしはあなたの右側にいるわ。そうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。もし左側にいるとするわ。そうすると、あなたの右側の横顔はもう見えないの。
 光  僕は気体になって、蒸発しちまうほかはないな。
 六  そうなの。あなたの右側にいるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。そこに誰かがきっと坐るような気がするの。 p.127

最高

ああ、そんな風に仰ることはそれはお薬よ。傷口を立ちどころに癒してしまうお薬よ。すばらしいお薬よ。 でも……あなたって、わかっているわ、こういう方なの。薬をさきに下さって、傷をあとからお与えになるの。決してその逆はなさらない。まず薬、薬のあとで傷、そうして傷のあとでは、決して薬は下さらないの。 ……いいえ、あたくし、わかっているの。あたくしはもうおばあさんだわ。一度傷をうけたら、若い女のように恢復が早くないわ。あなたがやさしいことを言るたびに、あたくしおそろしさにふるえるの。こんなによく利くお薬のあとでは、どんなにひどい傷が待っているだろうかと。 このごろではあたくし、あなたがやさしくない物の言い方をなさるほうがうれしいの。

台詞キレッキレだ

源氏物語』を知っていればより楽しめるのだろう

下手側からいきなり白いヨットが出てきて病室のベッドを覆い隠す場面転換が演劇ならではって感じで良い

 


・班女(はんじょ)

四十歳で「老女」かあ
ヘテロ百合三角関係だ

 あの人の不幸は美しくて、完全無欠です。誰もあの人の不幸に手出しをすることはできません。 p.144

異性愛に同性愛が打ち勝つ話でうれしい

 

道成寺

クソデカい箪笥のオークション。踊り子が乱入して品物がいわく付きであることを明かす。
大道具の活用
恋人の男を喪った女が、自身の美しい「顔」のままに生きていくことを受け入れられるようになる話

 


・熊野

「第四の壁」が原義のベタフィクションの意で使われてるとこ初めて見たかも
50代実業家の宗盛はクソ男だけど台詞にキレがある。

 楽しみというのは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでいる。その輝やく声、そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立って、出かけて行かなくちゃならんのだ。 p.190

どうしてそんなに自分の感情を大切にするんだ、ユヤ。それは一種の病気だよ。 p.191

ふたりの対照的な掛け合いがすごい

 

うわー 終盤で盤面がひっくり返って真偽の位相がしっちゃかめっちゃかになった。

「女は嘘つきで悪どい」というミソジニーステロタイプとはいえ、ちゃんと名作の風格があってなかなかに面白い。この戯曲集および三島の作品はだいたいそうなんだろうな。

 


・弱法師(よろぼし)

視覚障害者を超然とした「狂人」に位置づける、非常にナイーブな設定ではあるが、やはりこういうキャラの台詞回しが上手い。

 何だって言葉なんか喋るんです。黙っているか、泣いているか、どちらかにしなさい。あなたのそんなきれいな声が、言葉なんか喋ったら台なしだ。 p.212

 これが僕の形でなんかありはしない。地球のおもてのいたるところの凸凹の、そのつづきの凸凹にすぎないんだ。 p.214


「狂った」哀れな男が、最終的には、より懐の深い女に包まれて支配される構図の話はこれで何作目だろう

 

 


おわり!

けっこう面白かった。三島の装飾的で文学センス抜群のお堅い文体には苦手意識があるが、戯曲だとそういう地の文がなくて、キレッキレの台詞回しだけを楽しめるので、読み易いし自分に向いていた。三島は戯曲から入門するのがいいのかもしれない。

どの作品も基本的に「女」というものを愛に狂っていたり悪どかったりと異化して描いているが、そうしたミソジニーを簡単に一蹴できないほどの風格があった(曖昧な表現)。やはり真の右翼的知性を学ぶために三島はちゃんと読んでいきたいなぁと思った。

 

 

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『紙葉の家』マーク・Z・ダニエレブスキー(2000)

 

 

紙葉の家

紙葉の家

Amazon

 嶋田洋一 訳

 

 

……ああ、いや、何の話だっけ? ホラーだけどホラーじゃなく、むしろ悲哀の話?

 

 

 

20世紀のアメリカ文学を締めくくる超実験的な「奇書」として海外文学好きに広く知られながらも、絶版で価格高騰しているため入手困難な『紙葉の家』(House of Leaves)を読んだので、感想を書きます。

 

きっかけ

もともと『紙葉の家』の存在や評判は知っていましたが、入手困難だし、「奇書」をありがたがるフェイズはしょーじき卒業したし……と思って読んでいませんでした。
そんな本書に手を出すきっかけは、友人たちと雑談していて「今流行りのモダンホラーやモキュメンタリー、リミナルスペース、SCPなどの源流のひとつが『紙葉の家』らしい」と聞いたためです。

わたしはホラーもリミナルスペースもそんなに興味はないので半身で聴いていたところに、突如、名前だけは知っている文学作品が話題に上がって繫がりが見えたため、がぜん興味を抱きました。

さいきん邦訳が出版された『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』というカルチャー解説本のなかでも、『紙葉の家』にかなり紙幅が割かれているようです。

リミナルスペース

リミナルスペース

  • 作者:ALT236
  • フィルムアート社
Amazon
 
第3章のまるまる1節で取り上げられている

 

映画化までしたゲーム「8番出口」も、遡れば『紙葉の家』の影響下にあるといえるかもしれません。

その後、読んでいたボルヘス『アレフ』のいち短編について検索していたら、やはり『紙葉の家』を研究するファンサイトに遭遇したこともあり(また紙葉の家お前かよ!)、読む機運が高まっている天の啓示を感じました。

houseofleaves.akazunoma.com

 

そこで、地域の市立図書館で調べてみたところ、利用可能だったためすぐに借りて、ひと月かけて、返却期限ギリギリでなんとか読み終えました。

買おうとすると数万円は下らないため、読みたいだけならば図書館で借りて読むのがオススメです。

 

 

以下、「感想まとめ」そして「感想メモ」の順番で載せます。

とうぜんネタバレを含みます。

 

 

感想まとめ

まぁまぁ面白かった!
が、めちゃくちゃ面白かったか、好きだったかと問われると首肯できない。わたしの尊敬する人々はみんな絶賛しているので、単にわたしの好みがねじ曲がっているか、本書を深く味わう技能に欠けているということだろう。

たしかに前衛実験性はある。めちゃくちゃある。……のだが、それよりも「20世紀アメリカの伝統的なポストモダン文学の正統後継者/優等生」だなぁというのが読後の第一印象。

というのも、何重もの入れ子構造や円環構造を成すメタメタフィクションや、文字が縦横無尽にページを走りまわるタイポグラフィ表現など、表層はヤバそうだが、肝心の物語内容は、アメリカの家族の崩壊と再生! 夫婦や母息子の絆!……などと、アメリカ文学で死ぬほど見たことをド直球にやっていたからだ。

最後の母親からの書簡ラッシュなど、こんなにも感傷的でエモーショナルでいいの!?と思うくらいだ。『鬼滅の刃』の回想シーンかと思った。

ジョニー・トルーアントという男の錯乱した一人称の語り(どれだけ酒やドラッグをきめて、どれだけ女と寝たか)や、本文よりも長い注釈芸なんかも、はいはい現代アメリカ文学でよくあるやつ……という。

ゆえに、見かけ上のヤバさに比して、実際の文学的な革新性はあまり感じられなかった。堂々とベタをやっていて、高い完成度で成功はしているものの、それゆえにあんまり面白みもない。ピンチョンギャディスレサマ=リマとかのほうがずっと凄いし面白いと私は思う。

 

とはいえ、文章はふつうに上手いし、小説を読んでて、次はどこを読めばいいのか「道に迷った」体験は初めてだったし、『ネイヴィッドソン記録』の冒険ホラーパートは素直にワクワクした。ホラー小説というより、冒険小説の面白さがあった。(しかし、家のなかからは一歩も出ない「冒険」なのだが……。『ナルニア』フォロワーともいえる)

タイトル通り、不思議な〈家〉を主題とした小説だが、その意味するところは、家の建築的な側面のみならず、〈家族〉にまで至る。

ジョニーの親子関係がひとつの中心要素であり、ここはお互いに巨大感情がエグいため、ザコン文学好きにはおすすめしたい。

 

本質的には、家族の話がしたいから、家についてのホラー小説の体裁をとったのだといえる。
リビングから無限に続く暗黒の迷宮……という設定からは、いかに現代(アメリカ)人にとって「家族」というものが重く深く暗く根深い問題であるか、を思い知らされる。
こう考えると、まさしく王道のアメリカ・ポストモダン文学をやっている。

 

ただ、それゆえに、というべきか、夫婦の話を扱う際に、夫ウィルを冒険好きで未知を科学的に探究して解明することをやめられない男性として描き、逆に妻カレンは冒険したがらず「家」に籠って、風水などのスピリチュアルに頼りながら子供を見守りながら夫の帰りを待つ女性にする、というジェンダーステレオタイプをそのまんま踏襲した構図だったのがかなり嫌だった。そこまで「ベタ」というか、性差別的な設定にするしかなかったのかぁ、と。
(ただし、マザコン的な主題にも関連して、著者はかなり自覚的に、わざとこうした保守的な要素を必然的に選び取って描いているのだとも思う……ので、複雑な心境になる)

 

・ケア労働/在宅ワーク小説

女(妻)は「家」に籠って夫の帰りを待つ……といっても、では男は「家の外」へと出かけるのかといったら違って、むしろ「家の中」の、より奥深くへと冒険に出かけていく構図になるのが、本作の設定の見事なところだ。「男は外/女は内」というジェンダー差別的な構図をパロディして異化している、とも読めるのである。

実際、迷宮へと続く冒険の入り口は家のリビング(=中心部)に存在する。そのため、リビングは「家」のもっとも内側でありながら、「外」へ向かう冒険の前線基地でもある、というアンビバレントな状況になっている。小学生の子どもの悩みに父親が寄り添おうとするのを、仕事仲間が冒険のしたくの邪魔だと一蹴する描写は印象的だった。なぜなら、家庭外の「仕事」と家庭内の育児という「ケア労働」とがひとつの場で同時に起こることでコンフリクトを生んでいる、と読めるからだ。

こうした描写は、現代のケア労働に関する議論にも十分に繋げられるし、あるいは在宅勤務中に仕事部屋に子供が入ってくる──というようなシチュエーションも連想させて非常に興味深い。その意味でも、刊行から25年が経ったいま読まれるべきアクチュアルな小説だと思う。

本作のなかでも、『ネイヴィッドソン記録』へのジェンダー批評的な分析・解釈がいっぱい語られているのが引用されていた。これらはいわばパロディであり、それなりに面白いが、雑だな~薄っぺらいな~~とも思った。精神分析やその他いろいろ、全方位の学者や批評家・コメンテーターを茶化して諷刺していた。

 

・映像と文章

「外側より内側の長さのほうが長い家」「無限に続く廊下」というアイデアはキャッチーで魅力的だが、本作が単なる怪奇ホラー小説の枠に収まらず、現在まで多大な影響を与えているのは、その間メディア性/メタフィクション性ゆえだろう。

本作の大半を占めるのは、ピュリッツァー賞をも受賞したフォトジャーナリスト、ウィル・ネイヴィッドソンが撮って編集した『ネイヴィッドソン記録』という映像作品(についてザンパノが資料収集してまとめた文書『ネイヴィッドソン記録』)だ。

つまり、「起こっていること」を小説のベタレベルでそのまま描くのではなく、まず、それを無数のカメラで「撮ったもの」という映像の階層を持ち込む。そしてさらに、いちど映像メディアで作品化しているものを、無数の学者やインタビュイーが論じたり語ったりした「文書を編纂したもの」というテキスト(文字)の階層で包んだものが、本書の本文として提示されている。

この時点でかなり特異な構造になっている。本作はいわば「映画評論の体裁をとった小説」として読めるからだ。登場人物が~~をした、という形ではなくて、「映像のなかで登場人物が~~をした、ということが○○によって~~という風に論じられている」というややこしい構造だ。

じっさい、ザンパノの『ネイヴィッドソン記録』の文体は、映像内の出来事をそのまま語るよりも、それをひとつの「映像作品」としてみて、ネイヴィッドソンの卓越したカメラ技術によってどのように撮られており、それがどのような効果を生んでいるか、という批評的な目線での語りに寄っている。

ゆえに本書は「映画小説」のひとつのアイデアとしてなかなか面白い。

映像メディアと文章メディアの関係を主題としている、と読めるからだ。(本作が映画化できない/させていないのは、おそらくそれが理由だろう。いくら映像が大事な作品だからといっても、映像そのものではなく、映像についての文字での語りが必須の文学作品だからだ)

 

ちなみに、こうした階層構造を根底で支えているのは、不可思議な家の設定ではなくて、ネイヴィッドソンが家に引っ越してきてから各部屋に設置して常時起動し続けている「ハイ8」というビデオカメラだと思う。

ja.wikipedia.org

現代でいえば、定点カメラとか、あるいはGo Proのような持ち運べるアクションカメラの用途を兼ねているものだと認識している。このハイ8によって『ネイヴィッドソン記録』の大半の映像が撮られているため、90年代当時の先端の技術が大活躍している、という意味でもポストモダン文学を地で行っている。

 

 

・こんな人にオススメ

モキュメンタリーホラー、都市伝説やリミナルスペースなどの現代サブカルチャーに興味がある人は、読んで損はないと思います。
いわゆる「考察」系作品好きも楽しめると思います。
現代アメリカのポストモダン文学好きも、もちろん読むべきです(そういう人はもうとっくに読んでるのでしょうけれど)

 

わたしは久しぶりに現代アメリカ長編を読んで疲れたので、しばらくこういうのはもう、いいかな・・・・

 

最後に、わたしが本書でいちばん笑ったところを挙げます。

作中ではいろんな実在する著名人(作家や哲学者、映画監督など)が登場して、「それっぽい」発言をさせられているのですが、スティーブン・キングデリダポール・オースターキューブリックスティーブ・ウォズニアックなどと並んで、ダグラス・ホフスタッターが出てきたのに爆笑しました。・・・いや確かに本書に登場するのにめっちゃ相応しいけど!!
無限パターンに関するそれっぽいうっっっすいことを言わされていて笑うとともに「やっぱこの人ってこういうところでいじられるポジションなんだ~~」と納得しました。

感想メモ

25/10/12(日)
読み始めた。
文体は典型的な現代アメリカ小説のそれ。ボルヘスとかより遥かに読み易い。
入れ子的なメタフィクション構成は王道のポストモダン文学。

ただ皮肉なのは、この本の中心にあるドキュメンタリーがフィクションだって事実に変わりはない点だ。ザンパノは最初から、何が本当で何が本当じゃないかってことが、ここでは関係ないのを知ってたんだ。結果は同じなんだから。 p.xxi

①48歳のカメラマン男性ウィル・ネイヴィッドソンが撮ったホームビデオ=『ネイヴィッドソン記録』
②それを謎の老人男ザンパノが(でっち上げて?)書物の形式にまとめ上げた『ネイヴィッドソン記録』
③それを、ザンパノの死後に彼の家から見つけ出して編纂したのがジョニー・トルーアントという男

という、少なくとも三重の入れ子構造になっている設定。

ジョニー・トルーアントの注釈の脱線自分語りがおもしれ〜 パンチング・バッグと極楽鳥の話とか。

4章まで。
4日間出掛けているあいだに、謎のスペースが寝室の隣に出現している。そのせいか、家の内側から測った長さが、外側から測った長さよりも1/4インチ長いという不可思議なことに。
さらに、どんどんと謎スペースが拡大している?

家の不条理文学といえば、コルタサル「占拠された屋敷」だなぁ
外から見ると何もないが、内側からはその先に空間が伸びているトマソン的な扉といえば、『雪子の国』だいだい屋敷だ。

今のところ、『ネイヴィッドソン記録』本文のネイヴィッドソンらのゴシックホラーっぽい本筋も、長い注釈の中で展開されるジョニー・トルーアントの語る筋も、なかなか興味深い。
ルーアントの語りの文章がなかなかいい。

5章から

ジョニーの注釈芸での饒舌な語りが本気出してきた。かなりトリップしていて意味が掴めない。

ネイヴィッドソン記録の"エコー"を導くためだけに長々とエコーの神話的/科学的な解説を前置きする構成。

タトゥー見習いジョニー・トルーアントが惚れている6歳年上のストリッパーの呼称「サンパー」って、日本語名だと「とんすけ」なんだ。
『バンビ』に出てくる兎

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ネイヴィッドソンが深夜にこっそり、あの廊下を探検して道に迷い、真っ暗で巨大な空間に行き当たったのと響き合う(エコーする)ように、ザンパノの原注で写真家の名前が数ページに渡って延々と列挙される。注釈そのものが果てのない空間のようだ。

本/小説という形式にいかに迷路性を持ち込むか、という試み。

 

5章の長い注釈と6章
編者注でもつっこまれているように、ジョニーの語りはかなり錯綜している。アメリカ文学のお作法

犬や猫は、ネイヴィッドソンの家の廊下に入ることができない(入っても外に抜けてしまう)のか。人間だけの精神的なものに関わってるということか

 

7章〜
登山家の男ホロウェイとその助手ふたりが家に到着、何度も探検を試みる。

ネイヴィッドソンは、妻カレンがホロウェイに浮気をしていることを不安に感じて嫉妬しながら、廊下の調査でもホロウェイに実権を握られたことを悔しがる。

有り得ない家という非現実ホラー要素そのものではなく、明らかにそれを〈家〉の問題として抽象化して、夫婦関係の破綻や男同士の権力闘争などを描こうとしている。雑なジェンダー批評のようなものも引用で繰り広げられていて笑える。

しかしながら、不倫したり風水に頼ったりする妻と、未知への探検・科学的調査の指揮をとりたい夫という図式はステロタイプをなぞっているのも確かだ。
夫婦や家庭の不和・綻びが主題という点まで非常にオーソドックスな(現代)アメリカ文学だといえる。

彼にとってあの家は、世間からの認知を約束するものと映っているのだ。 p.109

ホロウェイもウィル・ネイヴィッドソンも、この家を自分が世間で評価されるための道具として認識しているのが滑稽ながら生々しい。

ホロウェイのほうはこうした家庭内の緊張やそれにともなうストレスで探検の準備を邪魔されるのが許せなかった。 p.109

ウィルの息子チャドが学校でいじめられているらしくて父らが心配するのを、ホロウェイが探検の邪魔だと疎ましく思うさまはなかなか興味深い。ふつう登山など探検する場所は、こうした育児・ケアの場である〈家〉からかけ離れた、対照的な空間である。

しかし、いまはその家そのものが不可思議かつ無限の広さを持った得体の知れない空間となっているがゆえに、両極が繋がって重なり合っており、こうした不和が生じることになる。
夫の出航(出征)を港=家で見送って待つ妻、のような構図をうまくいじって異化しているといえる。

 

本文と原注を章末までまず読んでから、クソ長いトルーアントの注釈語りを読むことにする。

ルーアント25歳なんかい!!
家の壁から響くSOSと、ネイヴィッドソン記録のカット割りそのもののSOS的な編集の重ね合わせ。さらに、それを語るザンパノの文章もが謎のモールス信号によって切り分けられ、SOSを作り出している。そのメタメディア性への強いこだわり。

 

9章
ルーアントのエッチな女性遍歴は続く。タチアナに見抜きさせてもらった体験は妄想なのか本当なのか

ホロウェイ達はいちおう長い螺旋階段の底についたのか。そして「迷宮」に入って迷い込んでしまったと。ミノタウロスの伝説に関する解釈の注釈。
本文で迷路が取り上げられるのに伴って、いよいよ紙面そのものがタイポグラフィの本領を発揮して迷路じみてくる。どの順序で読んでいけばいいのか全く分からない。迷う。読書中に迷宮入りするというなかなかない体験をさせてもらえる。

列挙で異様なタイポグラフィページの文字数をかせいでるのか〜
「家」にない家具や設備を並べていく、ページの真ん中の四角い枠。裏側はまるで文字が透けたように鏡対照に印刷されている。
延々と数十ページに渡って列挙される、ネイヴィッドソンの家とは "似ていない" 世界中の建築のなかに、日本のものも含まれている。つくばセンタービル、広島市現代美術館、帝国ホテルなど。
返す刀で建築家を列挙しながらページが巻き戻るのか…… 本を逆さまにした

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ピンチョンやボルヘスなどが注釈で引用されている。

食糧場所を荒らした謎のうなり声の主を狩ろうとホロウェイが狂って、助手ふたりに置いてかれてしまった。なるほど〜そうなるのか……

「何だか気味が悪いぜ」長い登りの途中でワックスがつぶやく。「何かについて考えるのをやめると、そいつが消えてくみたいなんだ。ポケットのジッパーのことを忘れると、それがなくなる。ここには当然だってものが一つもない」 p.151

ひょえ〜……  怪奇探検小説だ

うわー……  錯乱したホロウェイが、なぜかワックスらに合流してライフル誤射してしまう。その後は積極的にふたりを狙って追い続ける…… 怖ぇ〜 ジェドは健気だしワックスは可哀想だし……。味方が敵になる展開がいっちゃん絶望的で怖いからな

『ネイヴィッドソン記録』が本物のドキュメンタリー映像なのか、デジタル加工の産物なのか。これはAI生成技術が躍進する現代ではますますホットなトピックか

p.179 クストリッツァアンダーグラウンド』の前にカンヌ受賞していたという、実在の殺人を撮った猟奇映画は架空のものらしくてよかった〜

 

10章

現実の世界と違い、家の中でのネイヴィッドソンの行程は、比喩的のみならず文字どおりに短縮されたのだ。 p.200

10章に入り、ページあたりの文字数が極端に減った。スイスイ読める。
作中でホロウェイらを助けに廊下へ入ったネイヴィッドソンが、わずか5分で階段の底に到達してしまったことと、明らかに対応している。
伸び縮みする家=本。

 

p.211〜

ジェドが頭を銃弾で撃ち抜かれるところで、スローモーション的に、もっともページあたりの文字数が少なくなる。次々とドアが閉まっていくのと、読者がページをめくる動作が重ね合わされてもいるか。

これ、よく縦書きで翻訳したなぁと思う。というか原書はどうなってるんだ。横書きだと、縦書きほどタイポグラフィによる一方向の運動性を持たせにくい気がするが。(左ページ下から右ページ上へとジグザグに戻る軌跡になってしまうので)

彼の生命が自分の言葉の行間に滑り落ちていってちまったのが悔やまれる。 p.280注釈

ウィルとトムの双子をヤコブエサウに喩える論考を紹介した後、いきなり「トムの物語」が始まった。真っ暗な地下空洞のなかにひとり何日も取り残されて通信中継拠点となっているトムが、ひとりで滑稽話をカメラにしているさま。

 

p.298〜

でもその胸は、それだけで一つの物語だった。巨大だなんて表現じゃとても足りない。DDDカップ、その食塩水の袋には一つの海が丸ごと入ってるみたいだ。左は紅海、右は死海。一たび嵐があれば沿岸の街をごっそりさらってくだろうし、内陸の村だって保証の限りじゃない。 p.299下 注

笑った

犬が死にます 可哀想に

トムやるやん!

あーあぁ…… ほんとに伸び縮みしまくるんだな。もはや物理的な実体/実態があるビックリハウスだ。

今のところおれの唯一の推進力となってるのは、『ネイヴィッドソン記録』を仕上げたいって、いささか場違いな情熱だ。あの家の謎が解ければ、おれの問題も解決すると思ってるのかもしれない。だがもしそうだとすると、そうじゃなくても不思議はないけど、答えがわかったときには問いそのものが消滅してることになる。 p.331下 注

もはやしばらく前から、トルーアントの注釈パートが本編の進行を遅らせる最大の障壁と化している。はやく本編読み進めたいが…… 戻ってきてあとで読み返す気もしないだろうから、いま片付けるしかない。
フォークナー、ケルアック、ブコウスキー?などの、フランクな語り口の男が管を巻く系譜(適当)

何千何万の猫の前足がそれを予見して、その反射が空の蒼穹に第二の影を映して……〈暴虐〉はその秘密の積み荷とともに失われ……しぃぃぃぃぃぃぃ……誰が知ってるはずがある、その第二船倉の空気溜まりのことを? p.333下注

……ああ、いや、何の話だっけ? ホラーだけどホラーじゃなく、むしろ悲哀の話? p.334下注

結局なんの話だったんだ…… ジョニーの妄想? 実際の過去じゃあないよね?

 

13章
ボルヘスの引用!

p.347〜 ネイヴィ帰還した〜! まぁ後のインタビューとかやってるから生きてはいると分かってたけど。

それまでずっと、おれは自分の喧嘩っ早い性格を勇敢さだと勘違いして、たとえ自分が十三歳で相手が海兵隊上がりの怪物でも、頭から突っ込んでくのが気高いことだと思い違いしてた。怒りもまた恐怖を隠す一つの形だってことに気がついてなかったんだ。本当の勇気ってのは恐怖を受け入れて、相手を恐怖し、本当に恐怖して、それをもっとずっと勇敢な選択に振り向けることだった。 p.363注上

BLEACH』の東仙の持論の元ネタだ
このレイモンドがジョニーの父親で、そこから逃げ出してティーンエイジャーが単身アラスカへ行ったのね。寄宿学校

ある瞬間、急にすべてがありえないほど遠く混乱して感じられ、おれの自意識は非現実化し、非人格化し、見当識喪失がはなはだしくて、おれは信じ込む──つまり、ザンパノの作品と強く結びついてるってこの恐ろしい感覚は、一つのありえないことを暗示してるんじゃないかって。何をかと言えば、それがおれを作ったってことをだ。おれからそれへじゃなく、それからおれへ。 p.364注上

まぁこれだけ病んで錯乱してればこういう発想になるよね。メタ的にも妥当

ホロウェイの持っていたカメラの内容に関する、識者のいろんな考察(ホロウェイは鬱傾向にあり自殺願望があった説)について。焦げつきによる欠落が多く非常に読みにくい。

一見、いろいろとやりたい放題だけど、作品における「真実」の設定自体はある程度カッチリ決まっている感じはまさしく『響きと怒り』を思い出す。20世紀アメリカ文学の正統後継作。

p.370〜
ホロウェイ・テープのラスト、第十三部で彼が自死したあと、その亡骸を怪物的な闇?が呑み込んだように見えることについて。

ザンパノは監禁されてるけど、どこにだか聞いたらきっとびっくりするだろう。おれの中にだ。 p.378注下

ルーアントがザンパノに囚われているのか、その逆なのか。

《脱出》
遂に家そのものが大きく動いて中の住人を脅かす。めちゃくちゃだ。アッシャー家の崩壊。
ネイヴィッドソンが超人的。SASUKEのクリフハンガーみたいなことしてない?

トムーーー!!!! ハリウッド映画並のアクションシーンとドラマティックな最期だ。
じっさい、映像(映画)と文章(小説)の関係についての作品ではある。嗚呼アメリカン・ポストモダン文学!

 

14章
カレンがニューヨークでしていた、若い男性俳優ファウラーとの不倫疑惑について。

自分で満足してるものが、そもそもの最初からなければよかったと急に思っちまうんだ。それでめちゃくちゃになる。あの女もそうだった。めちゃくちゃになって、でもやっぱり亭主がいないとだめなんだ。まあこの手の話はいつもそうだけど、気がついたときにはもう亭主はいなくなってるのさ。 p.396

ファウラー談
急に思っちゃうのわかる〜

p.395注の、トルーアントの母の形見(鹿型のロケット)の話、ベタに泣けるなぁ
ザコン文学でもあるのか?

 

15章
トムの死後、カレンは子ども2人を連れてニューヨークに逃避したが、夫ウィル・ネイヴィッドソンはレストンと共にあの家に残って実験を続けている。のか〜…… ほんま男どもは……ってこと? 『サマーウォーズ』的な
でも大量の映像をカレンが編集してるのね。それは嫌じゃないんだ。技能もあるんだ。

カレンがその編集した映像をいろんな人に見せて感想を訊いた「部分的聞き書き」が始まった。
ダグラス・ホフスタッター出てきて草wwww 現実に存在する著名人を平気で登場さすな。ふざけまくっている
ゲーデル・エッシャー・バッハ』を雑に引いた、それっぽい「言いそうなこと」を創作している。
哲学や精神分析ジェンダー批評とかのパロディも多いけど、表層的で薄いな〜 ちょっと面白いには面白いけど。
インタビュー集形式の小説ということで、『野生の探偵たち』とは読み比べたい。ボラーニョも半分アメリカ文学みたいなもんだし

 

p.404 番人(キーパー)=家政婦(ハウスキーパー)という掛け言葉
スティーヴン・キングやスティーヴ・ウォズニアックまで登場。2000年はもうAppleがかなり覇権を握りかけていた頃だっけか
デリダキューブリック、ハロルド・ブルームまで。キューブリックに勝手に絶賛させている。

もしわたしでなかったら、あなたに映画の才能はないと言っていたかもしれない。これはすべて実際にあったことだと思う。 p.414

 

カレンが次に制作した6分間の映像。ウィルがこれまで撮ってきた写真を散りばめた、愛する夫に、彼への己の感情に迫ろうとする16ミリ映画。

そして個人史が爆発する。 p.419

ここからのくだりは、ザンパノの三人称の筆致だがかなりエモーショナルだ。

ネイヴィッドソンは風景を撮らない。人間が何よりも重要だったからだ。 p.419

だが画面はそれを追ってはいない。露光が強すぎて、三人は爆発する光の中へと溶けていく。 p.420

この短篇を作るのに必要な勤勉さと忍耐と訓練と時間のかかる調査──百回を軽く越える編集作業をしているのだ──によって、カレンははじめてネイヴィッドソンを、彼女の個人的な恐怖の投影物以外のものとして見ることができた。 p.420

p.421 うおお〜 時々ネイヴィッドソンが口にしていた「デリアル」という人名の謎もここで回収してきた! しかも実在のピュリッツァー賞写真(ケヴィン・カーターのハゲワシの写真)をフィクションで乗っ取る形で。
なんかこれで終わっていいんじゃない?というくらいにはいきなり前向きで感動的な感じになった。ここから続くの怖いな〜

 

p.422〜
16章〜
もうテレビ番組やナショナルジオグラフィック雑誌に連絡して取材してもらおう、我々の手には余る、と諦めたレストンと乾杯した直後、ネイヴィッドソンはひとりであの家へ戻って行方不明になる。
なぜからが戻ったのか、3つの仮説(基準)が解説される。

神は家なんだ。ぼくたちの家が神の住む家だとか、神の持ち物だとか言ってるわけじゃない。家自体が神そのものなんだ。 p.445

妻カレンに宛てた手紙より。

 

p.449〜
ネイヴィッドソンの大冒険 依然として、ページのタイポグラフィと家のなかの空間がリンクしている。すいすい読み進められる。
『紙葉の家』という本をネイヴィッドソンが持参してきて、虚空のなかで読み始めた。メタフィクション。『百年の孤独』?
マッチで火を灯して、本のページを燃やして灯にしながら読み進める。スリリングな展開

 

21章
p.555〜
ルーアントの語りが本文に来た。あれでザンパノの『ネイヴィッドソン記録』は終わったってことか。
悪友ルードが薬で狂って交通事故死したらしい。
完全にトルーアントも錯乱している。信頼できない語り手
その日記は半年前に遡り、ネイヴィッドソンの家があるヴァージニア州一帯を見に行き、母がいた施設や前に住んでいた家の跡地を訪れる。マザコン文学。めちゃくちゃノスタルジックで感傷的。
「10月30日」……今日じゃん!

p.580 アリゾナ州フラッグスタッフのバーで演奏していたバンドから、『紙葉の家』を渡される。トルーアント自身が関わっているものを。
……どゆこと? いつのまにか出版社に持ち込んでたってこと?

また母親との描写。エモーショナル!
チアノーゼで亡くなった赤ん坊と、4日間ずっと寄り添って歌い続けた母親の話。てっきりジョニー・トルーアントのことかと思ったが、どゆこと? 母の愛に関する挿話を塗り重ねている?

 

22、23章
カレンがあの廊下に初めて踏み込んで、ネイヴィッドソンを救い出した!
うおおお アメリカ家族の崩壊と再生!!
最後はハロウィーンか〜 ちょうど明日だ

 

10/31(金) p.612〜
付録
ペリカン詩は流し読みで飛ばした
ジョニー・トルーアントの母から届く手紙の数々。息子への愛がものすごい。むせかえりそうなほど。
精神を患っており、かつて息子の首を絞めて殺しかけたことで、夫に精神療養施設へと入れられた。
単語の一文字目を繋いで読む暗号。よう翻訳したなぁ 新しい院長先生に疎まれて、みんなに夜な夜なレイプされていることを訴える救援の暗号だったが、本人が錯乱して妄想していただけだったらしい。院長も変わっていない。
59歳で自死。かなしい
ジョニーは1971年ごろの生まれのようだ。彼の人生が間接的になんとなく把握はできた。

 

11/1(土) p.741〜
残りの付録も読み終えた!

それ以外の細かい点でも、たとえば別バージョンとして、単色刷りで索引や付属書のない版や、逆に赤や紫まで使った "フルカラー・バージョン" もあり得るという設定になっていますが、実際にはもちろんそんな本は出ていません。 訳者あとがき

えっ そうなの!? 最初のほうのページに書いてた、4バージョンあるというやつ…… 騙された~~

 

 

 

 

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長ぇ廊下が出てくる繫がり……(こちらはミステリなのでちゃんと理屈付けされる)

 

『四つ子ぐらし (1)~(8)』ひのひまり(2018~)

 

以前の記事↑で読みたいと言っていた、今の小学生に大人気のシリーズ『四つ子ぐらし』を8巻まで読みました。

 

 

児童文学に MV がある時代……!

 

ボイスドラマがある時代……!

 

 

あらすじ
私、宮美(みやび)三風(みふ)。
両親も親戚もいなくって、ひとりぼっちの小学校6年生……だと、12年間ずっと思っていたのに!
なんとある日、四つ子だったことがわかったの!!!!
顔も声もまったく同じ女の子、 一花ちゃん、二鳥ちゃん、四月ちゃん。
それぞれ別の場所で孤独に育った私たちは、これから四人、一つ屋根の下で暮らすことになった。
だけど、四つ子だけの生活は、大混乱!
その上、育ってきた環境の違いが思わぬすれ違いを生んで…?
みんな同じで、みんな違う! キュートな姉妹生活、始まります!

公式サイト より

あらすじの時点で、この跳ねるような一人称の文体がたまりませんね

2018年に刊行が始まり、2025年7月末時点で21巻まで出ている人気シリーズです。とりあえず8巻まで読んだので、各巻の感想を載せます。

 

 

 

※ネタバレ注意

 

1巻 「ひみつの姉妹生活、スタート!」

児童文学特有の、倫理観が激ヤバな大人や制度を背景として、それぞれ別々に育てられた四つ子が出会い、子どもだけで共同生活をはじめる話。

これまで家族を持てなかった子どもの「家族」や「姉妹」への憧れや執着が、この一巻では描かれる。

平たくいえば直球の姉妹百合モノ。本巻の時点では一花と二鳥のペア、三風と四月のペアが推されていた。

同い年なんだから姉とか妹とかにそんなにこだわらなくてもいいのに……とも思うけれど、それも、これまで与えられていなかった家族関係を取り戻そうと切実にやっているのだろう。

女児向けならではの、あまりにも理想化された美少年キャラとのヘテロ恋愛の萌芽要素は、ヘテロ成人男性からすると爆笑してしまった。キュンキュンもするけど。。

あまりにもヤバすぎるお母さん(?)の正体は、実の母も双子か四つ子かで、その姉妹(つまり主人公たちの叔母)ではないかと予想。

孤児の中学生たちを集めて子どもだけで共同生活させるのが国のプロジェクトとして進行してる設定じたいが大人からすれば仰天してしまうが、本来の読者たる子ども視点に立てば、子どもたちだけでの暮らしなんてワクワクするだろう。それを脅かす大人(家族)が現れるところからも、子どもvs大人、という児童文学の黄金の二項対立に則っているのがわかる。

 

2巻 「三つ子探偵、一花ちゃんを追う!」

四つ子設定を生かした姉の尾行プロットが面白かった。途中から三手に分かれてそれぞれが一花と顔を間違えられて色々ある。

本巻の主題は一花の「ほんとうのわたし」を問うことだと考えると、その過程で四つ子であること(交換可能性)を利用しまくっているのはある意味皮肉でおもしろい。
最後の一花の本音の吐露には号泣した。

 

またその前の、大切な人の入院でナイーブになり、これから自分たちだけで生きていけるだろうかと一花が悩むくだりは、あまりに切実で胸が痛んだ。これが「自立」を求めるネオリベラリズム社会の末路か……と。

だけど、病院からの帰り道……一人になったら、急にこわくなったの。
そりゃ、社会はきびしい、自立はむずかしいって私、わかってるつもりだった。
けど、あの千草ちゃんでもダメなのか、そんなに過酷なのかって、体じゅうがぞくぞくして。
夜になって、家に帰った私には……。
何があったか説明する心の余裕なんて、もう残されてはいなかった。

私……今でも不安なの。
私たち、子どもたちだけで自立できるのかしら。
いつかお金がなくなって、うえて病気になったりしないかしら。
それは、さけられるの?
さけるためには、どうすればいいの?
いくら考えても、わからない。
もう、だれも、千草ちゃんみたいに、なってほしくないのよ……。p.140

未来が不安──。
その気持ち、私も本当によくわかる。
私、施設にいたころ「高校を卒業したら自立しなくちゃいけない」って言われてた。
たよれる人なんてだれもいないのに、一人で生きていかなくちゃならないなんて。
考えただけで、永遠に止まない雨の中に、一人取りのこされたような気持ちになってた。
私……一人で生きて……ひとりぼっちで、死んでいくのかな? p.141

もはや子どもを抑圧したり敵対したりする「大人」すらほとんどいなくなり、13歳の子どもが、まるで20歳の大人のように自らの将来を不安視して苦悩する、そのさまが児童文学でアクチュアリティをもって描かれる社会……

子どもが大人に隠れて自分たちだけで「自立」したいと願うのは良いし、児童文学はそうした子どもの願いを形にするツールのひとつであるべきだ。

でも、まだ義務教育も終わっていない年齢の子どもに「自立"しなきゃいけない"」と悩ませて人生の行く末を不安がるさまを、児童文学でこのようにあたかも一般的な子供の苦悩のように描くことが自然なものだとされるのは違うだろ……と思う。

この作品が悪いのではなく、ここ二十年ほどで本当に社会の底が抜けているんだなぁと感じてしまい、たいへんつらく、これからを生きる子どもたちに申し訳ない。

なんでアラサーの自分らが抱くような切実な悩みを12歳が抱いてしまっているんだよ……

 

つまり、従来の児童文学ならば(クソデカ主語)、いくら子どもが「自立」することを願ってそれを実現するさまを描いていても、あくまで大人は子どもを庇護する責任を放棄しておらず、だからこそ子どもから鬱陶しがられて反発される役回りに徹していた。そうすべきだ。子どもが大人の庇護を抑圧と見做して反抗するのはあるべき姿だろう。

でも、本作では親も親に代わる児童養護施設も「国」も大人は皆、はなから自分たちの庇護責任を放り出して、子どもに「自立」を押し付けているので、子どもは「自立しなきゃこのさき生きていけない」と悩むことになっている。

そうしたシチュエーションを前提にしているので、いくら四つ子姉妹の尊い姉妹百合の日常が繰り広げられて「私たち子どもだけで生活するのって、大変だけど、楽しい!」と前向きに幸福に描かれていても、それをそのまま良いものとして受け取ることに躊躇いが生じてしまう。

 

大人が子どもに全力で向き合って、ちゃんと嫌われることの大切さ。

関わりを絶って嫌われることすらせずに、子ども自身に将来の不安を抱かせてしまう大人や社会はクソだ。

子どもたちよどうか、ちゃんと自立できるだろうかとか、社会でやっていけるだろうかとか、そういうことで悩まないでほしい。親や教師や周りの大人たちほんとうぜぇ〜とか、そういうことで悩んでいてほしい(というのも嫌な押し付けだが……)。

子どもにとって「自立」は、憧れや夢であっても重くのしかかる"現実"ではあってほしくない。

その意味では、終盤に再登場する自称母親は、明確な「悪役」であるだけまだマシかもしれない。いや、アイツもクソだが…… 

 

児童文学における「大人」の表象について考えたい。
例えば宗田理ぼくらの七日間戦争』(1985)では、大人は主人公たる子どもたちにとって明確に(戯画的な)悪役であり、子どもの活躍の前に情けなく滑稽に敗北していくことに徹している。

むろん、児童に体罰したり性暴力をふるったり誘拐したりとヤバいことをしまくっているわけだが、ちゃんと子どもに反発されてコテンパンにされるような「悪者」として子どもとの関わりを最後まで保っていて、今考えるとある意味で格好いい大人たちだなぁとも思えてくる。少なくとも、子どもに「自立」を押し付けて庇護責任を放棄する大人、物語中に悪役としてすらほとんど登場しない大人よりはマシ。

子どもの頃は、「ぼくらシリーズ」に出てくるような大人なんかには絶対なりたくない、ダサい、と思っていたような気がするけれど、いざ大人になってみると、こういう「負け役」を子どもに対して全うできる大人こそが格好いいあるべき大人像なんだな、と思える。

 

大人にもなってみるものだなぁ。子どもの頃に読んでいた小説を、新たな目で読み直して発見をしていけるのだから。

 

 

3巻 「学校生活はウワサだらけ!」

ふつうにおはなしが面白かった。
新キャラがふたり登場。三風の異性愛プロットを加速させる三角関係ライバル要員と、四月のパートナー要員。
しづなおはさすがに尊すぎる。

このメイン7人で今後やっていくのか、さらに増やすのか……

 

四つ子姉妹に次々と異性のパートナーができていく……
(児童文学のヘテロ描写は大性癖なので悶えながら読んでいる)

今、そのことを正直に話したら……
姉妹は、湊くんのことをうたがって、悪く思うようになるかもしれない。
私の好きな人たちが、私の好きな人をきらいになっちゃうなんて。
そんなのって、悲しいよ。
あっ。あ……、『好きな人』って、『友達として』ね!
私、一人で勝手にほおを熱くして、首をふった。 p.80

ウ"ッ""!!(急な動悸)

たしかに私、心の調子が、昨日からちょっと変だ。
『好き』とか『元カレ元カノ』とかいう単語に反応して、胸がギュン、ってなったり。
ふいに湊くんにあいさつされて、飛びあがったり。
ういなちゃんに変なこと聞かれて、さけんじゃったり。
もしかして。
私って、もしかして、湊くんのこと──。
……ううん、そんなのないよ。 p.110

素直に胸ギュンです

──「港みたいな活気あふれる明るい人になってほしい、って思いをこめて「湊」」
杏ちゃんの言葉を思いだす。
湊くんは、名前にこめられた願いどおり、活気あふれる明るい人に育ったんだなぁ。
「私も、湊くんのそういうところは、す──」
「好き?」
「す、ご、い、って思ったの~っ」 p.111

湊くんは私のこと、ただの友達としか思ってないだろうし。
もしかしたら、私と仲よくしてくれてるのだって、私が四つ子の一人で、めずらしくて、目立ってて、面白いからってだけの理由かもしれないし。
もしそうなら、私が湊くんを好きになったって意味ないし。
……そうだよ、意味がないんだ。
想いがとどかないのなら──失恋するかもしれないなら──傷つくってわかってるなら。
恋なんて、したくない。
──「感情の種類が変わっただけよ。大きさは変わらないの」
なんて、私、一花ちゃんみたいに、あんなにおだやかな表情で言えそうにないもの。
いやだからべつに私は湊くんのこと好きってわけじゃないんだけどっ。
「はぁ~………………」
……あ~もうヤダ。
自分が何を考えてるのかわからなくなってきたよ~…………。 p.112

「好きってわけじゃないんだけどっ」の末尾の「っ」、これが児童文学の好きなところ。
「わからなくなってきたよ~…………」の「~…………」も、児童小説を読む醍醐味だと思う。

児童小説の恋愛描写からしか得られない栄養素がある。

 

主人公の三風は今のところヘテロで少女漫画チックな美少年との異性恋愛関係に突き進んでいるが、姉の一花はかつて歳上の同性に「恋」をしていたと語る
小学生の同性愛(「恋」)をここまできちんと描いてくれて感涙したので、長いですが引用します。

「『なんだ』とはなんなんよ。一花の初恋は?」
「えぇ、私?」
「うちが言うたんやから、一花も言わなあかんで」
二鳥ちゃんにつめよられ、一花ちゃんは、
「うーん……」
としばらくうなって。
それから、ポツンとこう言った。
「千草ちゃん、かしら」
「「「えっ?」」」
千草さん?
一花ちゃんの初恋の人が?
千草さんは、一花ちゃんが里親さんの家にいたときに出会った、六歳年上のお姉さん。
心がすさんで不良になっていた一花ちゃんは、千草さんのおかげで、立ちなおることができたんだって。
だけど、
「え……やっぱり……え……? ていうか千草さんって、女の人やろ?」
とまどった口調で、二鳥ちゃんがたずねる。
それって、初恋なの?
疑問な私たちに、一花ちゃんは大まじめに答えた。
「もちろん、千草ちゃんは女の子よ。だけど、あれはたぶん恋だったんだと思うの。だって私、小さいころから、ずっと男の子みたいなショートカットだったのに、千草ちゃんのロングヘアにあこがれて、髪をのばすようになったんだもの」
「「「おぉお……!」」」
「髪がちょっとずつのびて、ちょっとずつ千草ちゃんに近づいていくんだな……って思ったら、鏡の前でこう、胸がキュッ、ってなったのよね……」
「「「うわぁ……!」」」
一花ちゃんの話があまりにも胸キュンだったので、私たち三人の妹はもだえた。
恋って、こういうキラキラした、甘酸っぱい気持ちのことをいうのかな?
だとしたら、すっごくステキ!
「ねぇ、今でも千草さんのことが好き?」
私が聞くと、一花ちゃんはうなずいた。
「もちろん大好きよ。でも恋ではなくなったわね」
「どうして?」
「私が小学六年生になったばかりのころ、千草ちゃんに彼氏ができちゃったからよ」
「「「えっ」」」
それってつまり……失恋?
自分の好きな人が、自分以外の人を、特別に好きになっちゃうなんて……。
キラキラでふくらんでいた私の胸は、あっという間にしぼんでしまった。
二鳥ちゃんも四月ちゃんも、なんともいえない顔で口をつぐんでる。
でも、一花ちゃんの表情はおだやかだ。
「私の恋は結局実らなかったけど……千草ちゃんが大切な人だってことは変わらないわ。感情の種類が変わっただけよ。大きさは変わらないの」 p.85~87

それが恋だと、本人の口からしっかり言ってくれることの、なんと尊く素晴らしいことか。

失恋して「恋ではなくなった」ことまで語り、ややもすれば「子供の同性のお姉さんへの憧れなんて、所詮本物の恋じゃなくて一過性のものでしょ」というようなありふれた同性愛差別に傾くことを懸念してしまう……が、しかしここはむしろ、「失恋」して「恋ではなくなった」と宣言することで、確かにあのときのわたしの感情は「恋」だったのだと、事後的に認めてあげているのだと、自分で名前を付けて肯定している場面だとわたしは読みたい。

だって、一花のおだやかな表情には、自分の人生を肯定して歩んでいく確かな強さが表れているから。

 

「私、小さいころから、ずっと男の子みたいなショートカットだったのに、千草ちゃんのロングヘアにあこがれて、髪をのばすようになったんだもの」「髪がちょっとずつのびて、ちょっとずつ千草ちゃんに近づいていくんだな……って思ったら、鏡の前でこう、胸がキュッ、ってなったのよね……」←さすがにノーベル児童文学賞

 

もう一度言っておく。
児童小説の恋愛描写からしか得られない栄養素がある。

 

 

4巻 「再会の遊園地」

「だから絶対忘れへん。お母ちゃんやお父ちゃんとすごした日々のことも、もらった愛情のことも、それがどんなふうに終わってしまったのかも。忘れへんけど、前は向く。ゆるさないけど、ゆるす。うちにはそれができる」 p.191

二鳥ちゃんの「ゆるし」に関する描写がちょっとすごすぎて号泣した。
児童小説とは思えないとんでもないことをやってのけている。

いろんなことがあるけれど、この先も人生は続いていくんだな。
そんな、悲しいような、気合いを入れるような、ふしぎな気分。
私はぐっと顔を上げて、前を見た。 p.197-198

 

 

 

5巻 上「初恋の人の正体」

双子(四つ子)トリックオチを酷使してて笑う。

あと、ここぞという場面でめくると挿絵+フキダシの漫画的な見開きが来る演出は、最近の児童小説やラノベなどで一般的なんだろうかとびっくりした。

麗さんの正体は1巻での予想通り。
死を知ったあとの悪夢がなかなかに怖くて、怖かったです。

 

 

5巻 下 「お母さんとペンダントのひみつ」

四ツ橋家のお屋敷の間取りが細かく説明され始めたときは、これから殺人事件が起きて館モノの本格ミステリが始まるのかと思った。

というのは冗談としても、いやはや、なかなかに重い話ですねぇほんとうに……

麗さんの事情が明らかになった上で、三風たちにしてきた所業を許せるのか、という点は当然に気になってしまうけれど、それよりも個人的には、麗の父(=三風たちの祖父)であるところの元社長があまりにも形骸的なイヤ〜な〈父〉、父権制の暴力性を象徴するかのような人物として(娘・麗の口から)語られていたことに引っかかる。

そういう諸悪の根源のような〈父〉を設定してしまうと、このシリーズの物語全体のトーンがなにかリアリティを欠いた薄いものになってしまいやしないか、という心配がある。
あと単純に、大企業の社長とかそういう社会的にデカいスケールに拡大していくのが、あんまり好みではない、というのがある。

とはいえ、四ツ橋の豪邸で一夜お泊まりしてみての違和感・疎外感から、自分たち子どもだけで生活している〈四つ子ぐらし〉の意義を見出して、さらにはそれを、自分たちのまだ見ぬ母の生の確信へと繋いでいく手つきには感動してしまった。

要するに、良家で甘やかされて育った麗は、今でもある意味で親=生家から自立できていない「子ども」であり、そんな麗を自立させるための姉・雅の出奔であり、その娘たちの「四つ子ぐらし」がある……という関係。
そうかぁ、本質的には、自立計画の対象は麗さんだったってことかぁ。

 

今回の下巻は、ほぼ四ツ橋家に行って帰るだけの、極めて動きの少ないプロットになっており、そのどっしりとした佇まいからも、ちゃんと親子や家族、きょうだいの物語をやるんだという覚悟と風格を感じた。

母・雅が生きているとして、なぜ出産直後に娘4人をバラバラに施設に預けたのか、そしてなぜ誰とも連絡をとっていないのか、の2点はしっかりと(ヘイトを生まないように)回収しなければならない。難しそう。

それから、麗にしろ雅にしろ、「母」だけが取り沙汰されていて、「父」の責任の話がほとんど出てこない点はずっと気になっているが、今回三風がひとりで父のことにも想いを馳せ始めていたのと、雅・麗の父のヤバさが言及されたのとで、ようやくそちらも描かれ始めたか、と安心はした。李央くんの「乳母」である雪村さんの存在には注目したい。

てか李央・トウキの双子兄弟関係も良さげですね。アイドルトウキの魅力について語り合う李央と二鳥のシーンよかった。

ラストの引きもいいですね。
そうそう、李央くんかトウキくんのどちらかが三風に好意を寄せてくれたら恋愛図式がまた一段と面白くなるよなぁ~と思っていたところだったので、2人ともがとは! それでこそ主人公や!!

 

 

6巻 「夏のキャンプは恋の予感」

子供の三角関係の葛藤を丁寧に描いてくれて、おじさんはずっと興奮してしまいます……(変質者)

いろいろとシリアスに引っ張って、けっきょく無難なところに落ち着いたと思いきや、そもそも「恋」とは、「好き」とは……という点を、メインの姉妹愛(家族愛)と結び付けて問い直す展開にはうなった。

排他性と恋愛の関係は難しいよなぁ。排他性は恋愛感情(関係)の必要条件なのか、十分条件なのか、いずれでもないのか。

杏ちゃん、三風ら主人公に都合の良い性格の造形をされているなぁと思ってしまうが、もう少し真剣に彼女のことを見つめていけば、固有の魅力として立ち上がっていく気はする。

 

 

7巻 「嵐の日は大さわぎ!」

ほとんど家から出ずに、逆に次々と来客(子ども)が尋ねてきて、みんなで嵐の1日を乗り切るアットホームな巻。

クラスの爽やか男子(本命)に、それからいとこのアイドルと御曹司に……と、三風さん爆モテ状態。少女マンガって感じでよい。
二鳥んと李央くんの初々しい関係もひじょーに推せる。

遂に三風が本命の湊くんへ姉妹の来歴の秘密を打ち明けることができた。
トウキや李央たちへの三風の感情はきょうだい愛のようなものであり、恋心とは異なるっぽい。

何度も背中を押されるのがアイドルソングの歌詞というところに作者のアイドル好きが伺える。

それから、四つ子姉妹百合(シスターフッド)だけでなく、李央とトウキの双子兄弟BL関係もかなりアツいことが発覚した。

 

 

8巻 「新学期は事件がいっぱい!」

三風が絵を描くのを無価値だと思ってしまったエピソードを話したあとに、聴いていたみんながそれぞれに励ますくだりが優しい世界すぎて泣いてしまった。

趣味にしても部活にしても「将来役に立たないことを今やる価値があるのか」という悩みは、子どもに限らず、生産性主義とネオリベラリズムが吹き荒れる現代社会では普遍的な問題だろう。そんな問いを、親がおらず子どもたちだけで自立をしなければならない厳しい設定の上で扱うこと自体が、かなりクリティカルかつクリティックだと思う。

「助けて」と声を上げられない人にいかに気付いてあげられるか。自暴自棄になったとき、いかに自分が心から好きなものを楽しんで立ち直ることができるか。本作で扱われているテーマは、どれも身に沁みる。四月さんと直幸くんの関係のスローペースな進展が今回も微笑ましすぎてニヤケが止まらなかった。

 

 

まとめ

ま~じでオススメです。大人にも。

四姉妹はみんな個性的でかわいいし、姉妹の絆に毎回涙腺がやられています。かなり過酷で悲惨なバックグラウンドを設定していますが、そこに真剣に向き合って取り組んでいる気概も見えて信頼できますし、子どもの恋愛描写には見悶えています。

児童文学が好きな/好きだったひと、子どもが好きなひと、(姉妹)百合が好きなひと、イマの子どもが何読んでるか興味があるひと、み~んなにオススメします!

1話の試し読みはこちら↑

 

 

マンガ版も出ているようなので、小説より漫画派の方はそちらでも!

 

その漫画のボイスコミック化?も少ししているようです。声優陣が豪華!

わたしも続きを読んでいきたいです!

 

 

同じ角川つばさ文庫の『ふたごチャレンジ!』もオススメです。

LGBTQ+に関心があるひとも、ないひとも、ぜひ。

こういう小説に幼いときから触れられる今の子どもが羨ましいです。

 

 

 

・これまでの児童文学の感想リスト

 

 

『ハーモニー』伊藤計劃(2008)

 
 

人生初・伊藤計劃でした。

『ハーモニー』はず~~っと読みたいと思って数年間積んでいて、この度ようやく人生の節目を迎えるにあたって、向き合うことができました。

 

以下、読んでいる最中の感想メモなのですが、先に言っておくと、わたしは本書をあまり楽しめませんでした。かなり否定的なことを書きまくっているため、本作や本著者のファン、そしてSF好きは読まないほうがいいと思います。

 

そもそもわたしはSFというジャンルがかなり苦手です。日本SFの最高傑作のひとつに数えられるであろう本作も、その例に漏れず、でした。SFとして出来が良いゆえに、余計にわたしには合わないのかもしれません。

 

読み終えてひとつ思うのは、「高校生か大学1, 2年生くらいの頃に読んでいたら……」ということです。

 

今のわたしは、みんなが大絶賛して高評価しているものであればあるほど、ハードルが上がり、貶してやろうという底意地の悪い気持ちを無意識に抱え込んでしまう、どうしようもなく幼稚なクズになり果ててしまったので、まだかろうじてそうではなかったあの頃の自分なら、素直に楽しめていたのかな……という気持ちでいっぱいです。

 

 

 

2025/7/27~30

感想メモ

1章

とても若い、青春っぽい青臭い主題だなぁ 回想している学生編は。
そして特別な者同士の二者関係として持ち上げられているきらいがあり苦手だ、ミァハもトァンも。

トァンの父ちゃんがメディケアの提唱者とか、そういう設定が…… SFをちゃんとやるために必要なのだろうけど、きわめてご都合主義的で狭く薄っぺらい世界だと思ってしまう。セカイ系だからそれでいいのか?

p.26 『特性のない男』で草
「生府」などのディストピアもじり造語はR.アレナス『襲撃』を連想する。

 

 

p.50まで
リソースとしてこの世界に生まれさせられたことに反抗するさまを、反生殖主義にも通底すると読むことくらいしか、今のところこの小説の好みな点がない。

キアンという第三者の存在は事前に知らなくて、(三角関係を)期待したが、なんか自殺したらしいし、ふたりほど特別ではない腰巾着だったらしくて哀しい。早くもミァハとトァンのカップリングのアンチなので。
ファム・ファタルのガールミーツガールもの

 

1章終わり p.102まで
トァンの、自分(とミァハ)以外はどうでもいい、自分らだけが特別で孤独だ──とでもいうような思考と語りが鼻持ちならない。28歳だというけれど、実質的に思春期の精神性だ。厨二病ともいう。じぶんも思春期に読んでいたら楽しめたのかなぁ。「螺旋監察官」などのカッコいい用語や、プログラムのコーディング調の文体?なんかも……。
そうした彼女の傲慢さ、特権性が、ラストのキアンの自死(同時多発自死)によって相対化され批判されるのかな。今後の展開に期待。

疑問文の語尾に「?」を付けずに「……」で代用しているのが特徴的だ。疑問を持ってはいけないから使える文字リストから剥奪されている的なディストピア設定?

生命主義社会では、生まれた人間の健康に気遣うだけでなく、なるべくたくさんの子供を生むように、という出生(奨励)主義が伴うことは避け難いように思うが、今のところあんまりそういう話は出てきてない。出生主義を押し出すと、一般的なディストピアに近づき過ぎてしまうから控えているのだろうか。

 

2章

いや、何千人もが一斉に謎の自死を遂げているから、キアンはトァンやミァハの特別側に寄らず、むしろ没個性的な大衆側に放られたようだ。
大量一斉不審死事件を5日間というリミットのうちに捜査するサスペンス・ミステリが本筋か。

死んだファム・ファタルの謎を追って旅する女女の物語といえば『マイ・ブロークン・マリコ』(漫画/映画)とかを思い出す。あれは遺体(謎)を探し求めてるというより、骨壷を持って一緒に逃げる話だけど。

キアンは「ごめんね、ミァハ」と唯一遺言を発して死んだので、他の何千人もの自死者とは違う特別な存在なのかもしれないが、結局のところそれはトァンが事件の捜査をするための手掛かりとして、あるいはトァンがミァハの謎に迫るために配置されているに過ぎない。キアンの存在そのものが、かなり舞台装置に近い。

「プライベート」は卑猥・猥褻・エッチな言葉であり概念である。なるほど

かつてのミァハも現在のトァンも、生命主義社会に適応した〈大人〉でいることを拒否して〈子供〉であり続けようとしている。

だから本作がとても青臭く幼稚にすら思えることは必然であり、また、ヘテロではなく同性ペアの関係(百合)を主題としていることも納得はできる。
異性間でセックスをしたり結婚したり子供を生んだりしたら、自身は否応なしに〈大人〉になってしまうのだから。

それを拒否するために〈子供〉であり続けようとして、ミァハは自死に成功して、トァンは螺旋監視官の職に就き海外の戦地で過ごしている。

ミァハが実親に育てられず、チェチェンの戦地から日本の家に養子として引き取られたことも、生殖を中心とした家族の気配をなるべく抹消せんとする設定に思えてきた。

 

トァンが父に向き合う父娘関係のハナシになってくるのか?
砂漠地帯で取り引きした民にしろ、男性の登場人物に注目したくなる。

ミァハの腰巾着、それはとんでもない誤解だった。あのときあの場所にいた少女は、たぶんミァハよりも、勿論わたしなんかよりもずっとずっと強くて、気高くて、誰に助けを求めることもできない孤独な場所に立っていたのだ。たったひとりで。
零下堂キアンは、あのとき間違いなく「大人」だった。 p.151

トァンが自らの傲慢な考えをやや自覚して再考を促されたのはよい。が、よく考えれば、ここでキアンが「大人」だったことになれば、「子供」だったミァハとトァンは余計にふたりだけ特別になっていやしないか?

父の同僚ケイタ教授もう85歳なんか。父は?
ナチスは「良いこと」もしたのか』みたいな話題になってる。が、その健康管理政策が本作のディストピア生命主義社会のプロトタイプだと位置付けられて、批判的な意味合いを帯びるのがおもしろい。

 

バグダッドを世界の中心に設定するのは、執筆された2000年代初頭の時代性を感じる。

ミァハの遺体が検体として父に渡されたようだけど、鹿目まどかのように、この生命社会のネットワーク基盤として、概念として利用され生き続けてたらヤダな…… 可哀想とかではなく、結局まだ死んでないのかよ、それでトァンとの感動の再会やら別れやらをやるつもりかよ、と思っちゃうので。

 

p.168 伊達に多くの紛争地帯などでネゴシエーションしてきたわけじゃないから舐めるなよ、と言わんばかりのトァンの態度がちょくちょく描かれる。私SUGEE系っぽくてムカつく!(←幼稚)

 

意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来バラバラな断片の集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている、おめでたい生き物なのさ。 p.170

ひとつの自我を持った「個人」を最小単位とせず、さらに細分化して分解・解体する。無我論というか、物質主義なら当然行き着くところ。
個人が社会のリソースとして位置付けられる全体主義だけでなく、個人を内部から解体する視座も同じ生命科学によって提示される。

マクロとマクロの両極がディストピアとして立ち現れ、その中間領域で寄る辺ない「個人」の魂と実存(=小説・物語)は彷徨する。
まぁ、王道のSFであり、王道のロマーン(小説)か。
いろんな意味で、SF初心者、文学初心者にはいいかもしれない

 

p.173 逆に、精神こそ肉体を生き延びさせるために取っ替え引っ替えされるべき潜在的なデッドメディアなのでは、というトァンの論はよく分からない。ケイタ教授が返したように、種の保存と進化の観点で見れば、遺伝子の乗り物的な意味で確かにそうかも知らんけど、それはトァンたちの「自分の肉体を自由に使いたい」姿勢とは相反するのでは?

あ〜やっぱりミァハ生きてた? 死者からの言伝……

p.182 「このカラダは自分ひとりのもの」 ほらぁ〜ミァハはさっきトァンが言ってたのと反対のことを語っている。

p.183 〈/body〉というコードの定型タグが、自死したキアンの死体(body)の意にもあからさまに重ね合わされている。 

 

3章

せっかく現実とはやや異なる世界を提示しているディストピアSFなのに、それを語る主人公の感性があまりにもわれわれ読者側に近くて、こんな生命主義社会はおかしい!と違和感を幼い頃から抱いているのが勿体無いと思う。異化の本領が発揮できない。信頼できない語り手の逆。共感できない語り手のほうがこの設定ではおもしろいはずなのに、あまりにも共感できてしまう。

でも、この小説がやりたいことは、これでいいんだよね。トァンは言わば、このSF小説とわれわれ読者を繋ぐ橋の役割を果たしている。SF慣れしていない読者をSFの世界になめらかに招き入れるためのガイド役。こんな(異)世界おかしいと思わない?と、この小説のなかで彼女(とミァハ)だけは主張し続ける。私たちが共感しやすい丸い主張を。こんなプライバシーのない窮屈な世界嫌だな〜いまの世界で良かった!と。

私からすれば、それは異なる世界への想像力に欠け、現実に留まって肯定しようとするきわめて保守的で馬鹿らしい、マッチポンプにも似た構造に思えるけれど、こと「SF入門」としては易しい見事な内容である。

 

「陰謀説」だというけれど、そうした陰謀論的な物語になることは、自分たちだけはこの世界のおかしさに気付いている……という青臭いスタンスの延長にある必然だろう。
ミァハ?は完全に全世界規模のテロリストだ。自死という最小のテロ=抗議行為から、全世界の人間を巻き込んだ革命へ。テロや革命もまた「青春」の花形だ。
デスゲームものになるん? こわ……

 

自らの意志や身体の内面がそのまま〈世界〉と直接に繋がっている、というセカイ系の思想をSF的に実装した設定といえる。イラク戦争といいデスゲームといい、全体的に00年代の香りが濃厚。

 

現在時からの経過時間による報酬系の活性化を示したグラフにおいて、指数曲線が合理的で、双曲線が不合理、というのはよくわからない。指数関数って、遠い未来になるほどに爆発的に報酬系が増大していくってこと? それはもはや行動を全て後回しにした、達観し切った人間ではなかろうか。

 

生命主義にアンチを張って自死を試みた子供はたくさんいたが、なかでもミァハの絶望が最も深かった。唯一無二ではないが、相対的に特別ではあった。
だから父は実の娘トァンではなくミァハを被験対象に選んだ。そのことに悔しがる?トァン。父親を巡る寝取られ・三角関係?

 

p.263 完全な調和(ハーモニー)が取れた意志のプログラムとは、意志も意識も無くなった状態である。……そうですか。

なんかずっとダラダラ、思弁的で哲学的っぽいことを述べ立てているけど、もちろん本当の哲学や自然科学に比べたら見せかけの薄っぺらい内容であり、深く真面目に考えればすぐに矛盾や底が見えてしまう嘘(フィクション)である。なんだかなぁ。こういうのに素直に騙される読者がSFに向いているのだろうなぁ

p.264 外面上は意識の有無は見分けが付かないと言っておきながら、ミァハたちへの実験ではあたかも有無が把握できているかのように語っている。哲学的ゾンビとかのレベルですら話を作っていない。きわめて素朴で幼稚。

p.270 意志とか意識とか魂?とかが、脳の報酬系を少し弄ることで簡単に消え失せてしまう唯物的なものだと、その魂の神話を見かけ上は解体しているようでいて、実はその逆をやっている。「無い」状態を素朴に想定することで、「有る」状態をも前提として神話化してしまっている。実際の意志はそんな単純なものではない。簡単にオンオフできるような意志/意識などありはしない。生命進化史のどこかの時点で人類が獲得した意識などありはしない。
ミァハが生まれた、先天的に意識がない民族、という設定は、そうした意識の神話化を完成させているともいえる。

 

p.271 「指数的」ってなんなんだマジで。用語の定義を説明してほしい。ふわっとした雰囲気の語用ではなくて。

fMRIによれば確かに意識活動が脳内に生じていないはずの彼らは」って、やっぱり客観的に有無が観測できるものとして意識を設定してるじゃん。外見上は判断できないって、ほんとに素朴な意味でかよ。fMRIでなら分かるんかい。それで測定できる「意識活動」ってのがなんなのか、そしてミァハたち民族はなぜそれがなくとも合理的な判断をして生活できているのか教えてほしいですね。

そして性虐待の過去設定!! あーあ、いつものやつですね…… ファム・ファタルは娼婦であり聖女である、という正統的なミソジニーの発露。魅力的な女性を、「ヒロイン」を、とことん客体化して、見栄えの良い、われわれ読者にとって興味が惹かれる、テンションの上がる、キャラクター商品として造形する凡庸な芸術。

意識を持たない民族として生まれて、レイプされまくった少女。後天的に「意識」のようなものを獲得した少女。天才で特別で世界に叛逆しようと自死を選んだ少女。おめでたいですね。そういう存在をおいしく消費する文化は。そういう存在との"尊い関係"をおいしく消費する文化は。

 

とりあえず、自分が思う「意識」とは全く別のものを「意識」と呼んでアレコレえすえふをやっているんだろう、この小説は。そう考えないとアホらしすぎてこれ以上読んでいられない。

銃撃戦や闘争劇などのアクションシーンを描くの下手すぎないか……? こんなにも茶番の場面はなかなかない。
しかも娘を庇って死ぬことで親の愛を示した(のかもしれないと評される)のも笑うしかない。すべてが薄っぺらい。

トァンとミァハ以外の舞台装置である登場人物たちが次々と都合よく死んでいく。
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あと、序盤から薄々気になってはいたけど、イラクバグダッドにしろ、砂漠の民ケル・トゥアレグにしろ、チェチェン民族にしろ、それらの物語上での扱いに、かなりオリエンタリズムというか、第三世界への差別意識が感じられて危ういなぁと思う。

 

4章

キアンの弁当も、わたしの弁当も、お母さんが生活パターンデザイナーの送ってくれる選択肢によって、隅々まで栄養コントロールされている。 p.285

「お母さんが」は要らないのでは? それか「お母さんが生活パターンデザイナーから受け取る選択肢」に変える。じゃないとなんか変だよこの文。
こういう風に、てにおは・係り受けというか、文法が微妙におかしい文がたまーにあるんだよな、この小説。べつに平均的には決して拙い文章ではないのだけど。
それとも、こういう細かい違和も、SF的な意図が潜んだ精緻な仕掛けなのだろうか?

 

p.291 ようやくフーコーに言及した。ずっと下敷きにはしていたけど。生権力。

『監獄の誕生』読んだことないけど、生権力とかって近代のもたらしたものだよね? たしか。とすれば、小説も、そして自由な個人の間に結ばれる関係を尊ぶ百合も、生権力と同じく近代の産物だから、否定しようとしているものと肯定・礼賛しようとしているものが同じ根を持っているという、なかなかに皮肉な構図になってるのか。
前近代にも百合は存在し得るのか? 中世や古代のフェミニズムとか……

 

螺旋監査官の上司(主席)も次世代ヒトなんとかの一員だったのか〜
p.304 その秘密組織の2派から共に注目される、ミァハとヌァザ(父)にとって大切な人の共通部分に、世界でゆいいつ当てはまるのがトァン。ミァハよりもこいつがいちばん特別な存在か。さすが主人公!

p.305 世界を破滅させようとしているミァハの真意を理解できるのも、わたしひとりだけ! 子供の妄想。

これはそもそもの始まりから個人的な事件だったし、その展開もどんどん個人的な狭路にはまっていった。正直に言おう、こうして世界中で暴動や集団自殺が続いている今も、わたしは別に世界のことなんか気に掛けちゃいなかった。 p.306

そうなんだよな〜〜 この物語そのものが、トァンという主人公とミァハとのエモい関係のために用意された「個人的な狭路」でしかないので、とてもつまらない。
世界の命運は自分にかかっているけど、自分は世界のことなんかどうでもよくて、アイツのことだけが大事、という幼稚なロマンチシズム。

「ええ、とってもプライベートな事情があるの」
「プライベートかぁ。淫靡でいいねぇ」 p.314

そうか、プライベートなものは猥褻であるという社会をそもそも設定したのも、すべてはトァンとミァハの関係をエモく(エロく)演出するためか。序盤の回想でミァハがトァンの胸を揉んでいたのも、そういうことか〜

マジで、自分が大嫌いな「閉塞的な二者関係のロマンスを過剰に尊く演出するハナシ」の最たるもの、ってかんじだ。
わたしは固定カップリングのアンチだから。そいつらの関係を持ち上げるために周りの人々や世界が舞台装置として扱われるようなカップリングのアンチだから。

小市民シリーズ』が嫌いなのとだいたい似たような理由だ。

 

  

ウーヴェという同僚の男もトァンと似たようなスタンスで気が合いそうなのは良いね

社会の暗黙の常識=「空気」が云々という表現には、あぁそういえば確かに00年代前半には「空気読めない」だのなんだのというフレーズが流行ってたなぁと懐かしくなる。10年代からSNSの時代が到来して、逆にもう言わなくなって久しいよなぁ

 

「お前、本当に自分のことしか考えてない女なんだな」 p.320

これが美徳となるように、他の大衆はみんなのことを考える生命主義の世界を設定している。そりゃ、そういう人たちに比べたらトァンは自分のことしか考えてないも同然だが、しかし正確には「自分とミァハのことしか考えてない」なんだよなぁ。ミァハもどうでもよくて、本当に自分のことしか考えてないんならトァンのこと好きになれたかもしれないのに。

 

まるで修験者ね、とわたしは息をあえがせながら思った。神様に会うための修行をしているみたい。ミァハが神様なんて、とても思えないし思いたくないけど。 p.322

いや実際、ロマン主義小説は語り手たる個人の、神への「告白」の形式を取るのだから、いろんな意味でミァハは "神様" だろう。そういうことを考えて読んでたら、この文に行き当たったので少し驚いた。

 

喜怒哀楽、脳で起こるすべての現象が、その時々で人類が置かれた環境において、生存上有利になる特性だったから付加されてきた「だけだ」ということになれば、多くの倫理はその絶対的な根拠を失う。絶対的であることを止めた倫理──相対的な倫理──は脆い。 p.327

である(科学的事実)と、べき(倫理規範)を混同する初歩の自然主義的誤謬を恥ずかしげもなく開陳している。倫理とはなんたるかがまったくわかっていない。なんなんだ。高校生の頃とかだったらこういうのにコロっと騙されちゃっていたかな。

閉塞的な二者関係のロマンス(百合)要素だけが合わないかと思いきや、肝心のSF要素が本当に酷い。前半の、生命主義ディストピア設定あたりはそれほど酷いとは思わなかったが、後半になって意識とは何か、倫理とは何か、といったより哲学的な領域に踏み込んだ途端にボロが出まくっている印象を受ける。

単に、自分が生命や健康やプライバシーにはあまり興味がなくて、意識や倫理にはそれなりに興味があるから、中途半端な哲学っぽいSF描写に引っかかってしまうだけかもしれない。

ミァハは片手で周囲を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。 p.333

これぞセカイ系
じぶんの身の回り、「周囲」がすなわちひとっ飛びで「世界」になる。

常に、既に。それがWacthMeの目指すところ p.334

ちょうど引用しようと思ったところが誤字ってる。「WatchMe」ね
つねにすでに、always-already だ。

つねにすでに - Wikipedia ja.m.wikipedia.org  
 

だからわたしはね、そんなものをカラダに入れられる前に、本が読むものでなく自分自身になっちゃう前に、女の子のまま死のうと思ったの。
このおっぱいも、おしりも、おなかも全部、本なんかじゃないって証明するために。 p.334

なぜ「女の子」という語がここでミァハに選ばれているのか。「生身の人間のまま死のうと思ったの」とかじゃダメなのか。
記述問題でありそう。配点10

生命社会のSF設定のなかで、男女の解剖学的性差、セックスに関しての記述はほとんどされてこなかった。しかし、本作では全体として、暗にあるいは明らかに、「女の子」を未熟な、まだ生命管理システムに犯されていないプリミティブで生身の身体の象徴として位置付けている。男性の身体性にはほぼ言及されないが、ゆえに「男性=人工(近代)/女性=自然(前近代)」という極めて古典的でナイーブな性差別的ステレオタイプに立脚しているといえる。男児や少年、若い男はこの小説に登場しない。それは「子供=女の子」という図式を採用しているからだ。

最初の「百合SF」特集が男性中心主義的だと批判されていたのも、ひじょうに納得がいく。国内の百合SFのメルクマール的な作品であろう本書が、こんなにも女性差別的な表象に溢れているのだから。

これだけ生命医療が管理されたディストピアでは、生殖活動もまた管理され奨励・強制されていないと不自然だと上で書いた。「生殖」周りの描写が徹底的に排除/隠蔽されていることは、この公共的な生命社会においてもなお残っている最後の「プライベート」=卑猥な領域だからだろうか。このあたりと、ここでのミァハの「女の子」発言は通底しているだろう。ただ、まだあんまり整理はできていない。

背も大きくなったし、おっぱいもわたしよりずっとしっかりしてた。かわいい女の子のまま。御冷ミァハは美少女のままだった。 p.337

……はい

「わたしにのし掛かってきた将校はね、わたしに繰り返し入れながら、年代物のトカレフの先をわたしに触らせてた。これが銃だ、これが鋼だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつのペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口に銃口を突っこんで、何度も何度も突き入れてきた」 p.339

ペニス=銃、鋼
男性の身体は「自然」とは反対の、人工的な機械である、と。

「わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。首を吊ってた」 p.340

いや「男の子」出てきとるやん! こうして間接的に言及される程度ではあるけど。

その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい p.348

いや、あれこれ悩んで自殺する人がいなくなるんだったら、それは十分に意識の有無で人間が変わってるじゃないか。

いったいこの小説は「意識」をどういうものだと設定しているのか、自分にはさっぱり理解できない。完全に矛盾しているように思えるが、わたしがこの高尚なエスエフ議論を理解できていないだけの可能性だって全然ある。

 

先天的な意識がなく、またこの世界から早く消えたがっていたミァハを殺すことは、トァンが彼女を救済するのと同じであり、ある意味では本来のミァハへと生まれさせる(生まれ変わらせる)行為である。殺すことは究極の愛の発露。ふたりの関係の昇華。

そして、そのふたりの関係の昇華が、同時に全世界の全人類の意識の消失=死=調和になる。ここに於いて、この究極的に幼稚なセカイ系のロマンスは完成する。

 

トァンの一人称で語っていたと思われていた叙述、語り手=主体が、実は全人類の調和した擬似意識によるものであると最後に明かされる。「わたし」と「世界」のハーモニー。はいはい、よかったね。

 

おわり

おわり!
お疲れ様でした〜
解説でのインタビュー引用で、ロジックからしかエモーションを描けない、と著者が語っていたのには得心する。だって、キアンや父を殺されたトァンの悲しみとか、まったく上手に描けていなかったから……。ゆえにラストのミァハへの復讐のくだりも、どこかハリボテの、それこそあのひゅーひゅー風が通り抜ける舞台設定通りの空虚さがあった。すべてはミァハとの関係を精算して昇華するための補助装置なのだから。

あと、「ここで描かれているユートピアは、実は倒立したディストピアだ」的な、したり顔の解説がこういう類の作品ではよ~くなされるけど、見かけるたびに苦笑してしまう。ユートピアディストピアはそもそも原義からして本質的に同じ意味の言葉だから。すべてのユートピアディストピアだし、すべてのディストピアユートピアでもある。だから「このユートピアは"実は"ディストピアでもある!」などという指摘は、情報量ゼロの、きわめて空虚な文言だ。

ユートピア - Wikipedia ja.wikipedia.org  

ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には格差がない代わりに人間の個性を否定した非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである。従って、本来の意味からすると、社会主義共産主義の文脈で用いられるべき言葉である。

 

 

伊藤計劃を初めて読み終えたことで、全身が「以前/以後」になってきた。

もう「計劃以前」には戻れない。

虐殺器官』読もうかなぁ……かなりモチベは削がれた……

 

 

 

追記

この記事と同内容のものをnoteにも投稿していたのですが、そちらのコメント欄にて、本書の有用なレビューを教えていただいたので、それを読んでの感想・反応をnoteのほうで追記いたしました。興味があればお読みください。

 

 

『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ(1970)

 
 投稿し忘れていたシリーズ
 
 
読んだ期間:2021/6/6~2023/1/16
 

読書メモ

※行頭の数字は基本的にページ番号の意です
 

1章

冒頭から文章が難しいよぉ〜 『別荘』とは桁違いだよぉ〜人物固有名がすでに飽和してるよぉ

 

 
誰かの死・葬式から始まるのは『コレラの時代の愛』を連想する(ありふれた手法ではある)
 
14
三人称かと思ってたらいきなり「おれ」の一人称になってびびった。こいつがあの悪名高いムディートか
 
語りがすでにかなり怪しいなぁ。会話が括弧にくくられず、複数名の発話がそのまま地の文にうわ言・独白のように溶け込んでいる。リアリズムの徹底から読者に不親切な感じはギャディス『JR』を思い出す。

 
そういや『別荘』の終盤の作者語りで、「道徳的な写実主義で人気を博したから今度は不道徳な洗練された虚構的文体をやっているのだ」的なことを言ってたが、やっぱり夜みだが写実的文体ってことか。
 
別荘のいとこたち → 修道院の孤児たち
ドノソ子供好きだな〜
 
21
「お尻をモクモクさせながら」???
水切りって何? 腰掛けてる(21)し、食器用の水切りラックみたいなものではない?
 
23「建物の外に吊るされ、蝋燭の灯りで照らされた檻のなかに閉じ込められながら」なるほど。でっかい檻なのか
ババルーってどんな音楽だろう
 
22
いきなりなかなか不道徳で印象的なシーン。いいねえ
「正面の窓で髪をとかしていた女は、音楽のボリュームをあげ、手すりに肘を突いて見物する。」ここすき。通りの雰囲気、この見せ物の日常性などが伝わってくる。
イリスに求婚する《ヒガンテ》がボール紙の変な帽子を被っているのは顔を隠すため?(ヒガンテという名称もそのため?)
 
28
大量の空き部屋←わかる
大量の中庭←???
空き部屋ひとつにつき中庭があるってこの修道院どういう間取りだよ
 
静かに忍び寄って、しだいに勢いを増し、初めはほんの少々かげらせるだけだが、やがてすべての光を、すべての、すべての光を、そう、すべての、すべての光を奪ってしまうものの訪れを待ちつづける。 p.28
これが噂の反復か。シーン単位とかもっと大きなスケールでくり返すと思ってたけど、単語・文節単位でひとつの文のなかで反復するのか〜
アンソニー・ドーノソ『すべての、すべての見えない、すべての光、そう、すべての見えない光』
 
29
ムディートがシスター・ベニータへ向けて「あなた」と語っている。三人称と一人称と二人称のハイブリッド
それは『めくるめく世界』のようなわかり易い並列ではなく、ひとつの語りのなかでこれらが溶け合っている。

 

 
すでに語りが極まってるなぁ。迫力がすごい
現在時制での描写(1,2,3人称)と、現在時制での発話(複数人)と、過去自制の発話(複数人)がすべて地の文に入れ込まれているために、どこで切り替わったのか、誰が誰と話しているのか等を推測しながら読まなければならない。
『JR』を思い出すが、あっちは戯曲のように台詞中心のブラックコメディで、こっちは地の文中心の悪夢的な幻想譚なのでぜんぜん違う……のに最後の出力だけやけに似た感覚を覚えるのが面白い。いや面白いとか余裕ぶっこいてられねぇわ
 
 
ブリヒダが夫人の墓の空間を確保しておくとか、死んだらまた別の老婆が部屋に入居するとか、生死にまたがって人間同士の差異・境界が意味をなさなくなって非個性的な均質化された人間(あるいは死人)となる、みたいなモチーフが強調されている。
一人ひとりの人間なんてどうせ代替可能な肉の塊に過ぎない、という感覚
大量の子供などの群像を好んで描くのも、個々の人間より、集団の動態にあらわれる無個性や代替可能性を表現したかったからではないか
 
31
埃とか綿毛と聞くと身構えてしまう別荘後遺症
 
これは先週、メルセデス・バーソンが死んだときに、がらくたの山のなかに放りこんだやつだが、実は、彼女もそれを、別にあてもないのに、ただなんとなく、ほかの死人の遺品のなかから拾いあげたのだ。そのほかの死人だって、別の人間から、別の老婆から、別の死人からそれを……。 p.34
「生命のバトン」ならぬ「死のバトン」だなあ
 
35
地の文中の発話者の切り替わりが「……」で表されているっぽいことに今更気付いた。それでも非常に読みにくく、本当に正しいか怪しいところもある・・・
 
36
やっと出られた!(1章から)
 
 

2章

過ぎていくとは思えない分秒が、時間がそれでも過ぎていくにつれて、人声は燠火(おきび)のように徐々に消える。p. 37
 
フエンテスの円環的な時間、カルペンティエールの逆行する時間に対して、本作の時間間隔はそもそも止まっているように思える。止まっているというか、たとえ動いていたとしても、止まっているのと同じくらいに均質で無意味な時間=生
 
2章は短いし、大半がおとぎ話なので読みやすかった。
ブリヒダが生きてるので1章より前の話だよな
イリス妊娠してたの? 1章で踊ってたのは出産後なのか?
 
 
6/11(Fri.)

3章

2,3章は1章に比べてかなり読みやすい。短いし
 
 
(日付不明)

4章

地下室と七人の老婆
イリスの妊娠が発覚し、その子供を地下室で育てようと準備を進める老婆たち(+ムディート)について
イリスの生理が来ていないことを怪しんだ世話人リータは、老婆仲間のブリヒダやマリア・ベニテスに相談し、妊娠していると発覚する。しかしイリスは処女だったので、老婆たちは「奇跡の子」であると思い込み、いずれ自分たちを救済してくれるであろうこの子を自分たちの手で育てようと決める。(ブリヒダには他人をインブンチェにしてみたい願望があった)
はじめは3人だけの秘密にしようとしていたが、結局アマリアやローサ・ペレス, ドーラを含めた6人にまで仲間が増える。(後に2章で見たように《ムディート》が加わる)
 
ムディートは、イリスの子をいずれドン・ヘロニモの子供にして修道院を継がせることで、自分が末永く院に身を潜めていられることを目論んでいる。
 
ムディートは、修道院の奥にある自分だけの中庭に6人の老婆たちを案内し、奥のドアから秘密の地下室へ導く。
子供をこっそり育てる絶好の場所が見つかった老婆たちは歓喜し、赤ん坊のための道具や部屋の準備を意気揚々と進める。
いちばん熱心だったブリヒダが死に(1章へ繋がる)、代わりにダミアナが補充される。
お腹が大きくなってきたイリスを地下室のベッドに寝かせるが、イリス本人には自分が妊娠していると教えず、お母さんごっこであると偽る。
老婆たちは決して、イリスを妊娠させた父親の存在を認めようとはしない。
女性(老婆)だけで奇跡の子を育てることで、その恩恵に与ろうとしている。
 
 
 
 

5章

やはり、「人権? なにそれおいしいの?」とでも言わんばかりに人の尊厳や個性を無化するような思想が根底にある。
それが、誰が喋っているのか、誰に向けて喋っているのか判然としない文体にも現れている。
『JR』はちゃんと個人の区別がある上で、わざと誰が喋っているのかわからなくしたり、人物の捉え間違いをしているが、こっちはよりラディカルに、そもそも個人間に明確な区別がなく、人物の輪郭を融解させている
 
 
76
イリス・マテルーナよ、お前はつまらない人間だ。そこを除いたものは余分な殻でしかないほどお前の中心的なものだが、その豊穣な子宮を取り巻いた原始的な生命の片割れにすぎないのだ、お前は。
どこぞの議員もここまで言えば一周回って炎上しなかったかも?
 
 
80
イリス・マテルーナよ、お前は動く肉の塊にすぎない。
 
82
いずれにせよ、お前は小さく切りきざまれ、他人の肉体にひとつひとつ移植される。他人に分け与えられて、お前の存在は消えるのだ。
 
83
もはや抵抗を続けることはできず、言いなりになるほかない。服従するのをやめ、自分の意志と欲望を持とうとすれば、耐えがたい苦痛を味わうことになるからだ。
 
84
彼らを眺めるおれの目の苦痛こそ、彼らの浪費する幸福の供給源だったのだ。
→ 苦痛や恥辱や劣等感などの負の感情が転じて人や世界を動かすエネルギーとなるという思想。ザ・ネガティヴ文学
 
《ヒガンテ》が通りを歩いていても誰も見向きもしないのに、《ヒガンテ》がおれでなくたって、誰も気づきゃしないだろう。 p.89
そもそも誰も他人に興味がない。ゆえに代替可能
 
規則正しい間をおいて戸口が連なる、一枚の壁のような長い家並み。91
人だけでなく、家々の個性も剥奪してのっぺりとした「一枚の壁」とみなす。
 
93 急ブレーキした車のライトに照らされた2人(イリスとヒガンテ=ムディート)の描写がエモ美しい。スチュアート・ダイベックみたい
 
アスーラ博士とドン・ヘロニモ、どちらもムディートの目を狙っている(と彼は思っている)けど、もしかして同一人物??
エンペラトリスやペータ・ポンセをも恐れているけど、このへんの因縁はまだ不明
 
ムディートは恐れている人間が多すぎる。けれど、誰に対してもビクビクしているからこそ、その負の態度が転じて、主従・攻守の逆転のように強い立場になって行動を起こす可能性もある。(イリスとの関係)
まさに本作の思想を体現するかのような人物造形。ヨッ、主人公の器!
 
 

6章

イリスを妊娠させたのは、《ヒガンテ》のお面を被ったムディートだった。
妊娠が発覚すればもうお面を借りる必要はないが、ロムアルドはムディートからの代金を当てにしていたため泣きつく。
そこでムディートは、ロムアルドがヒガンテのお面を被らずにイリスを誘惑できたら、月賦の時計の残額分の金を払うと約束する。しかしロムアルドの素顔を見たイリスは「チョンチョンだわ!」と罵り、嫌がる。(※チリに伝わる魔物・人面妖精のこと) こうして、イリスを孕ませたのは確実に自分であると安心するムディート
後部座席から一部始終をみていたムディートは、お面をつけてヒガンテに扮してイリスを助け出す。
 
ヒガンテのお面さえ被ればヤれるというイリスの評判は市全体へ広まり、多くの人々が押しかけた。
ついにはムディートの思惑通りドン・ヘロニモもやってきて、うまく勃たなくて焦っている時にムディートが彼の前に顔を見せる。その衝撃でなんとか行為を終えられたヘロニモは、イリスを妊娠させたのは自分であると思いこむだろう。
これこそがムディートの計画だった。イリスのお腹にいる自分の子を、ヘロニモが自分の子であると認知することで、その子がアスコイティア家の嫡男として修道院の所有者となり、取り壊しを中止させ、ムディートは安心して修道院に留まることができる。
 
 
ムディートの家族(姉と両親の4人家族)、俗っぽい姓のペニャローサ家について
小学教師の父親は、息子に立派な紳士、ひとかどの人間になってほしいと願っていた。その期待は、生まれながらに紳士である貴族たちへの羨望と劣等感に基づくものだった。
ある日、紳士らしい服を買ってもらうために父に連れられた市の中心部で、ムディートはヘロニモとすれ違い、彼の手袋が腕に触れたのを感じる。それ以来、ムディートはヘロニモへの強い渇望を抱くようになった。当時ヘロニモはヨーロッパから帰国した直後で、結婚する直前だった。
 
 
103
ウンベルトの父の「彼自身の空想によって疎外され」る感覚わかるなぁ。
絶対に自分では到達できない、あまりに自分とかけ離れた存在に抱く羨望・嫉妬と、それがゆえの安心感
敗北の美学というかマゾヒズムというか・・・
 
105
ウンベルト→ヘロニモの巨大感情
父が「ヘロニモ・デ・アスコイティア」とゆっくり発音するところあまりにドラマチックで笑っちゃった。
 
 

7章

この章ではムディートはヒガンデの頭(お面)に憑依(?)している?視点が乗り移っている?
町の若い男子ティートが《ヒガンテ》の面をロムアルドから借りてイリスとセックスしようとするが、黄色い犬がフォードの中まで入ってきて、結局かわされた。
 
ティートの兄ガブリエルが営む書店に来たロムアルドに、弟が損した分の金を返せとガブリエルは迫る
ロムアルドはそれを突っぱねようとするが、近くにいた青年四人組に絡まれる
ヒガンテの仮面は四人組に太鼓のように叩かれ、それに合わせて四人組とティートは踊る
ぼろぼろになっていく仮面を嘆いて、店内にいるイリスが泣き叫ぶ。しかし四人組にそそのかされて誘惑ダンスをもする。
殴られたロムアルドはムディートのことをバラそうとするが、彼はムディートの正体を知らない。
四人組にヒガンテの仮面は破壊される
残った鼻はペニス(のよう)になってしまった。それすらも折られてしまう
ロムアルドは逃げ出す。金を奪い返すことができなかったティートを、ガブリエルが慰める。
店のカウンターの奥でヒガンテの服を見つけるが、気に留めない。
 
パン助=パンパン=娼婦、あばずれ女などの差別用語
こんな言葉はじめて知った
 
「おれの頭」って何!?と最初困惑した。ムディートは色んなものに呪術的に憑依していくのか、あのお面が特別な品物なのか。仮面の視点で、自分からは何も出来ずその場を実況するだけというのはある意味で隠しカメラ(『JR』)っぽさもある。
物体視点で語る小説ほかにもあった気がするけどパッと出てこねえ
 
やっぱりドノソはある程度たくさん人がいる場の狂乱的な雰囲気のシーンを書くのが上手い。ロムアルドとイリスが去って、仲間たちも掃除を手伝わずに雨の中次々帰っていく、その熱狂が消沈した雰囲気への以降も良かった。掃除を手伝うアニセートえらい。
学園モノ書いてほしい
 
 

8章

修道院の地下室で、[七人の老婆]は雨に濡れて疲労困憊のイリスをベットに横たえる。(おそらく7章の書店シーンの直後)
イリスの父親は妻を殺して死刑判決が下ったという新聞記事から、今頃はもう死んでいる(父親いたの?→5章)と老婆たちは話す。イリスは父の死を悲しんでいる?
ブリヒダの穴埋めとして入った老婆の一人ダミアナは下っ端として酷使されていたが、突如幼児退行して呻く。
イリスはダミアナを本物の幼児として扱い授乳する。
イリスと残りの老婆たちはダミアナを寝かせる。イリスはダミアナを抱いて子守唄を歌う。
「みんなは、ダミアナという名前さえ忘れてしまった。ただ、イリスの赤ちゃん、と呼んでいる。」 p.129
 
「イリスはダミアナの股を開く。むき出しの性器の醜悪さもおれに嫌悪を感じさせない。むしろその逆だ。たいそう慎み深くて純潔なおれたちが大事に守ってきた肉体の一部を《ムディート》の目にさらして、それを恥ずかしいとも思わない。七人の老婆の仲間入りをしたために、おれの性が消えたことを、その事実は意味しているのだろうか。おれのからだは徐々に小さくなっていく。おれは、おれの性器を隠しておくこともできるのだ、声を隠してきたように。」 p.130
ダミアナは縮んでしまい、しだいに簡単なことばしか話せなくなった。イリスも以前とはまったくちがう、「ダミアナの母親」になってしまった。(p.133まで)
ムディートは、ブリヒダの遺品から見つけたスイスの山小屋のオルゴールに、出産後のイリス(とダミアナ)を閉じ込めようと画策している。
 
そんなある日ムディートが地下室に降りていこうとすると、赤ん坊のはずのダミアナがイリスにこっそり社会情勢や時事について新聞の話題を喋りまくっていた。
幼児退行は老婆達を騙すための”フリ”だったのだ。ダミアナはイリスを修道院から救い出し、子供の真の父親(と思っている)《ヒガンテ》=ロムアルドを探し出して一緒に暮らしてもらうつもりだったのだ。そう考えたムディートは、2人を警戒して監視するようになる。
 
イリスが出産するのはいつだろうと話す老婆たち。
かつてイリスが処女であると告げた呪い師マリア・ベニテスは、以前イリスが中庭で発作を起こした際に、男が修道院に忍び込んで彼女を妊娠させたのではないかと恐る恐る語る。
それを聞いて、妊娠中に男と寝ると、かたわ(身体障害者)の子が生まれるという言い伝えを盛んに話す老婆たち。畸形の子が生まれることをムディートは歓迎する。ドン・ヘロニモの子、アスコイティア家の跡継ぎに相応しいと彼は考える。
 
ムディートのブリヒダ&イリス監視は続く。
イリスの子をロムアルドの元へ渡したいダミアナ&イリス vs ヘロニモの元へ渡したいムディート
ムディートはペータ・ポンセを恐れて自分から町の外に出ることはしない
ダミアナは修道院から突如として姿を消した。老婆は再び6人に
イリスは外に出してほしいとムディートにせがみ、誘惑する
あなたが本当は唖でないことをシスター・ベニータに言いつけるわよ、とムディートを脅迫するイリス
彼女は外へ出てもダミアナと再会はせずに、自分の子の父親を捜して一緒に暮らしたいと言う
イリスの誘惑を何とかかわして、「自分が代わりに外へ出て父親を捜してこよう」と提案するムディート
なんとかヘロニモの元へイリスを届けたい
父親を連れてくるまで山小屋のオルゴールで遊んでいてくれとイリスに言い残してムディートは去るが、門を出た瞬間に何者かによってかんぬきが下ろされ、彼は雨が降りしきる町へ投げ出される。
 
 
(イリスは妊娠してるハズだがお腹が大きくなる描写がまだない→お腹に子供がいる描写があった)
 
ムディートは出版するつもりのない大量の原稿や、彼の名が挙げられた批評などがあるらしいことから察するに、かつては作家・小説家だった?
小説家の語り手は即座にメタ作者的な位置づけをしてしまいたくなるが、どうであろう。
『別荘』ではドノソが直接に作者兼語り手として作中に出てきたが、本作ではどうなのか。ムディートの過去が語られるのを待ちたい。
 
ムディートの語りが安定しない。自分こそがイリスの子の父親であるとか、そうではないとか、自分は老婆であるとかそうではないとか、言ってることがコロコロ変わる。嘘をついている、信頼できない語り手であるというよりも、もっとぐちゃぐちゃしている印象。精神倒錯的に狂っている、白痴のような語りというわけでもない。
「信頼できない語り手」や「白痴」という単語に/彼個人に 押し込められる異常性ではなく、修道院やこの小説世界全体が寄る辺無さに覆われている。まさにその寄る辺無さを積み重ねて小説が構築されている。そんなイメージをここまでで受ける。
 
特に「真相がわからない」要素として「〇〇を孕ませた、あの子の父親は誰だ」というのはとても王道の要素なんだと感じた。ヒストリアの子の父親はサスペンダー男ではなくエレンなのではという流言を思い出した。
 
ただ、そうした寄る辺無さ、ところどころの怪しい点はあれど、文章自体はそんなに錯乱しておらず、2章以降はかなり読みやすい端正な文章と言えるのではないか。
また、いきなり幼児の振る舞いをし始めたダミアナが実は策謀のための演技でした〜という「普通の小説」っぽい、異常性を否定する、そこそこロジックの通った展開もある。
何もかもがめちゃくちゃでヤバいわけではなく、『夜のみだらな鳥』という前評判のバイアスを除けば、実は結構王道の文学作品なのではという気もする。
ドノソはラテンアメリカの<ブーム>世代で最も文学的な作家と言われることがあるらしいのも頷ける。
 
赤ん坊のフリをする老婆、それに合わせて母親として振る舞うイリスなんかは、『別荘』の<伯爵夫人は午後六時に出発した>だ!!!とテンションが上がった。
ごっこ遊び(虚構)を現実と混同したり、それを現実として受け入れてしまうような倒錯性のモチーフを好む。スイスの山小屋のオルゴール(ミニチュア模型)も同じ。
騙し絵のような、思わず本物と見紛うほどの精巧な作り物への志向は強い。ドノソの小説観が窺える。
(それだけに、ダミアナの幼児退行が策略だという展開にはちょっとズッコケた)
 
 
 

9章

(8章の続き?年月が飛んでいる可能性もある)
《ムディート》がシスター・ベニータ(あなた)に向けて語る
ムディートはドン・ヘロニモの屋敷へ忍び込み、書斎に100冊もある自分の著書のうち1冊を盗み出した。警察が彼を追うが、車に轢かれそうになりながらも逃げ切る。
盗んだ自分の本を河原で燃やして焚火をしていると、様々に仮装した "顔のない連中" が集まってくる。
いつか100冊全部を燃やせば、完全に顔のない連中の仲間に入ることができると考える。
アイデンティティを仮面のように自由につけ外す顔のない連中(ムディート)と、自己同一性にこだわる普通の人々(シスター・ベニータ)の対比
焚火が終わり、連中は去っていく。
 
いきなり年月が飛び、ドン・ヘロニモは死に、例の子供《ボーイ》は予言通り畸形児として生まれ、すでに少年に育っている。
自分の著書を屋敷から盗んだ罪でムディートは警察に拘束されており、屋敷の住人としてボーイが呼び出され、小部屋で対面する。ムディートはボーイの成長をずっと盗み見てきたが、ボーイはムディートのことを知らない。
ボーイは父ヘロニモの書斎の本を読んで育った。ボーイの興味を惹くために問題の本の著書は自分だとムディートは言う。
その証拠に、その本のどの部分もそらで書けると宣言する。
 
※ムディートの著書には、ボーイやヘロニモやイネスが登場人物として出てくる。当然、この『夜のみだらな鳥』自体がムディートの著書であるというメタフィクショナルな仕掛けの線を勘ぐってしまう。全てが彼の創作であれば、『夜みだ』がムディートの一人称小説であり、記述や時系列の怪しいことも合点がいく。(しかし、著書は180ページと言及されており、夜みだは原書でもそんなに薄くないだろう)
 
ボーイの誕生に立ち会うヘロニモ。彼は自分の息子である畸形児をみて殺そうとするが思い留まる。彼は息子をリンコナーダに住まわせ、自分は寄り付かないようにする。人々は次第に、ヘロニモに畸形の息子がいることを忘れてしまった。彼は公人としてエリートであり非常に魅力的であったからである。
彼は上院議員の引退演説のあと、隠居生活を送った。数年後に彼が死ぬと国中の人が哀しみ、葬儀は盛大に行われた。
 
以上のくだりは、ムディートが空で書いた「序文」であった(そうなの?)
ボーイは彼の前から去り、ムディートも釈放された。結局、彼が忍び込んだ屋敷の主人は来なかった。(誰?ヘロニモは死んでるよね)
雨の中ムディートは修道院へ帰る。
 
 
ヘロニモ、「特権階級のエリート男性」をあまりにも戯画化したような人物像。調和の権化
だからこそ、その息子が映えるし意味深くなる。
 
国の英雄ヘロニモの哀悼シーンは『コレラの時代の愛』のウルビーノ博士のそれを連想する

 

 
「Aであり、かつAではない」という矛盾が根底にある小説といえばアイラ『わたしの物語』もそうだが、あちらがふざけているのに対してこっちはもっと荘厳で文学的。
 
 
 

10章

ドン・クレメンテの生前の話
叔父のドン・クレメンテ・デ・アスコイディアがヘロニモを迎える(時系列どうなってるんだ)
金曜日には男性の有名人を食事に招いているという。この国の政治を牛耳っているのは料理人のマリア・ベニテスだという噂がある。
ヘロニモは、大戦のためにヨーロッパから帰ってきたと述べる。政治の話題が出たため、派閥のメンバー同士が乱暴な言葉を投げ合い、やがて人々は帰ってゆく。ヘロニモは、「自由に尊厳を与えてくれる義務」を求めてこの土地に帰ってきたのだった。
ドン・クレメンテは、ヘロニモに代議士に立候補してほしいと伝える。ヘロニモは嫌がる。政界で名を上げることはクレメンテの夢だった。ヘロニモは、クレメンテの前から消えてしまおうかと考える。その時、クレメンテはホウレン草を喉に詰まらせる。
 
 
ヨーロッパにわたり祖国のあるアメリカ大陸を忌避するも、自身のなかの拭えぬ〈アメリカ大陸性〉に葛藤するヘロニモ、フエンテス作品に通ずるものがある。
 
ドン・クレメンテがヘロニモのことを《ボーイ》と呼んでいたが、一般名詞的にも使われてるのか?
 
ドン・クレメンテの家父長制と神への信仰心が結びついた象徴としてのあの修道院
 
 
 

11章

pp.181-191
ヘロニモとイネスの馴れ初め〜結婚初夜
議員候補としての旅行の合間のパーティーで、ヘロニモはイネス・サンティリャーナに一目惚れし、すぐに2人は親族公認の仲となり結婚の支度が進められる。
挙式の一週間前の昼食会のあと、イネスは乳母ペータ・ポンセを自分たちと一緒に結婚生活に連れていくとヘロニモに嘆願する。
かつてイネスが修道院ですさまじい腹痛に襲われた際にペータ・ポンセが痛みを「吸って」救ってくれたため、命の恩人として大切にしている。吸ったあと、イネスの代わりにペータ・ポンセはずっと腹痛に苦しんでいるのだという。
 
イネスがヘロニモをペータ・ポンセの住む汚く薄暗い倉へ連れて行く。ヘロニモは老婆の不浄さに愕然とし、一刻も早くここからイネスを連れ出さなければいけないと考える。
ペータはヘロニモに、三枚の立派な白ハンカチを贈る。彼女の不潔さとは似ても似つかないそのハンカチに、ヘロニモはショックを受けて世界が揺らぐような不安感を覚える。
立ち去る際にヘロニモはペータ・ポンセの手に金をにぎらせた。
 
結婚生活にペータ・ポンセも連れて行くなど到底賛同できないヘロニモ。ペータに穢されたイネスを浄め、呪われた修道院を取り壊すのが自分の役目だと考える。それを聞いて怒ったイネスは夫の頬に爪をたてて流血させる。その頬のまま彼は結婚式を迎える。
ドン・クレメンテから、「夫にからだを拒むことは犯してはならぬ大罪である」と教えられたイネスは、初夜にその大罪を犯す。拒まれたヘロニモは早朝には正気を失い、「なんでもしますから」と約束する。(なんでもするとは言っていない)
こうしてイネスはペータ・ポンセを連れていくという希望を夫に承服させることに成功したのである。
 
その夜から、ベッドの上のヘロニモとイネスは、彼らふたりきりというわけにはいかなくなった。ある影、このおれの影、《ボーイ》の影、福者イネスの影が、いつも彼らにつきまとった。あの初夜の晩、彼らを励ましながら勝ちを争っていたのも、実はドン・クレメンテとペータ・ポンセだった。ボール紙細工のでくを操る人形師のような、ふたりだったのだ。 p.191
 
イネスと同名の修道院の伝説的な聖女イネス・デ・アスコイティア(福者イネス):重要人物そう
 
 
 
 

12章

pp.192-212
おれ=ヘロニモ
君=イネス
お前たち=ヘロニモの飼犬たち
 
選挙の前日
ヘロニモとイネスの結婚生活5年目、リンコナーダの庭園でヘロニモは四頭の犬を飼っていた。彼らのための臓物を黄色い牝犬が横取りする。この牝犬はイネスのお気に入りらしい。
飼犬を世話する小作人は明日の選挙で自分の敵に投票するだろう、なぜなら自分を憎んでいるから──とヘロニモは考える。
 
結婚して5年間、イネスはヘロニモと性行為することを避け続けていた(マジ?)。
夜遅く、庭園の茂みで光る飼犬たちの目に囲まれながら、ヘロニモはイネスを茂みへと連れ出し、落ち葉の上でセックスをする。
飼犬の目は「ふたりの幸福を要求する証人たちの目」であり、「証人であるお前たちこそ主人なのだ」とヘロニモは言う。
 
シームレスに語りが《ムディート》へと切り替わる。(数行でまたヘロニモへ戻る)
ムディートはシスター・ベニータ(あなた)に向けて語る。飼犬たちの目のうちのふたつはおれの目で、ふたりの行為を覗き見していたのだと。
 
犬たちの目の光が薄れ始め、ヘロニモは慌ててことを終えようとする。イネスが絶頂して叫び声をあげたが、それは黄色い牝犬を至近距離で見たからでもあった。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
 
選挙中、急進党の勝利が確実視されていた地区で投票箱が何者かによって盗まれた。急進党陣営はこれを保守党の仕業だと考えて、ヘロニモのクラブ(教会)の前の広場に群衆が集った。
出ていけば命が危険だという仲間からの制止を振り切って、ヘロニモはリンコナーダへ帰ろうと教会の扉を開けて広場に出る。
群衆と一触即発になり、同行していたウンベルト(ムディート)がヘロニモを教会へと戻す。
ふたりは教会の屋根を伝って裏道から逃げようとするが、屋根の上にいるところを群衆に見つかり、一発発砲され、ヘロニモは司祭館の中庭へと落ちていった。警察が来るが、誰が撃ったのか誰もわからない。警部は教会の扉を叩き、司祭と対面する。
以上が公式の新聞や書物に書かれていることだが、実は撃たれたのはヘロニモではなくウンベルトだった、と彼自身がシスター・ベニータに語る。
 
ヘロニモが広場に出たとき、ウンベルトは彼のポンチョの背後に隠れるように立っていた。実はウンベルトはヘロニモを憎んでおり群衆の仲間になりたかったが、それと当時にヘロニモ自身になりたいという倒錯した思いを抱いていた。それゆえに、教会の屋根から逃げようとしたときに、ヘロニモを騙ってウンベルトが屋根の上に仁王立ちになり、腕に銃弾を受けたのだ。
被弾して中庭へころがったウンベルトは司祭とヘロニモに介抱され、一命を取り留めた。ヘロニモはこれを絶好の機会だとして、ウンベルトと同じ位置に包帯を巻き、彼の血を付け、自分が撃たれたように扮した。
これによって世間を味方につけ、ヘロニモは選挙に勝ち上院議員となった。
 
 
 

13章

pp.213-234
・イネスの懐妊
イネスはヘロニモが仕事で家を空けているとき、よくリンコナーダの建物の奥に住むペータ・ポンセに会いに行った。彼女はそこで老婆に新婚生活の愚痴や不妊の悩みを打ち明けた。
女ふたりは生まれる赤ん坊のための服や下着を縫っていたが、思うように妊娠できずに5年もの年月がたつにつれて、縫う服が次第に小さくなっていった。服以外にもベッドやテーブルや椅子などの家具のミニチュアも作った。
そうして、選挙の日の夜に、ペータ・ポンセは自分の汚部屋に主人ドン・ヘロニモを連れてくるように、「おれ」=ウンベルト(《ムディート》)に告げた。
 
でも魔女のお告げなんですよ。あの方がひと晩、このわたしの部屋でいっしょにお過ごしになれば、イネスお嬢様、あなたは間違いなく、みごもることができるんでございますよ。 p.220
(魔女≒福者イネス?)
 
選挙当日、(前章で語られたように)広場で負傷したウンベルトはリンコナーダの家に搬送された。自身をヘロニモだと思い込んでいたウンベルトは、その夜更けにペータの部屋へ赴いた。するとイネスが現れ、ふたりはペータの汚いベッドの上で交わった。彼女はウンベルトのペニスを受け入れたが、それ以外の身体の接触は徹底して拒んだ。
 
シスター・ベニータ、おれがおれであることを認めてくれ、と要求する声を、彼女が聞こうとしなかったあの瞬間から、実は、おれは唖になったのだ……  p.222
 
その夜(多分)、ドン・ヘロニモも帰宅し、イネスとふたりで寝ていた。外の窓のところで例の黄色い牝犬がずっと吠えていた。それに我慢できずにヘロニモは彼の四頭の黒い犬を引き連れて外へ出て、その牝犬を喰い殺させた。
翌日、ヘロニモとウンベルトは首府へ発った。数カ月後に帰ってきたとき、庭師に聞いても黄色い牝犬の死骸なんて無かったと言われた。
夫が外に出ているあいだにイネスはペータの部屋でウンベルトと性交していたのか? そうではなく、実はウンベルトと交わったのはペータ・ポンセだったのだ、と彼は語る。
ウンベルト≒ヘロニモ、ペータ≒イネス、という妄想的な対応関係のもと、ウンベルトとペータという「闇のカップル」が交わることで、ヘロニモとイネスという「光のカップル」が交わったことになり、数カ月後、イネスはようやく懐妊をしたのだ、と。
 
あの夜以来、ペータは再びの行為を求めてウンベルトを付けまわすようになった。瞳以外をアスーラ博士の手術で変えてもらったウンベルトは、これで彼女に見つからないだろう……と思っている。
 
イネスが妊娠してから、ヘロニモは不能になった。彼はウンベルトを誘って貸し切りの女郎屋(風俗)へ行くようになった。そこでヘロニモは自分が女と交わるところをウンベルトに眺めさせた。そうすることでヘロニモは興奮できた。
 
ウンベルト、わたしの精力を思いのままにできるのは君なんだ。わたしが君の腕の傷を奪ったように、君はわたしの力を奪ってしまった。わたしのそばを決して離れないでくれ。ねたましさであふれた君の視線が、わたしには必要なんだ。それでやっと、わたしは男でいることができる。 p.232
 
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遂に生まれた《ボーイ》は醜悪きわまりない畸形だった。
それは混沌あるいは無秩序そのものであり、死がとった別の形、最悪の形だった。 p.234
 
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ペータ・ポンセのような老婆たちには、時間を重ね合わせたり混乱させたりする力がそなわっている。彼女たちは時間を掛けたり割ったりする。あらゆる出来事はその皺だらけの手の上で、華やかなプリズムに当たったように屈折し、拡散する。彼女たちはものごとの連続的な流れを断ち、その一片一片を平行に並べたり、折り曲げたり、輪にしたりして、自分たちのもくろみに役立ちそうな仕組みを作りあげる。 p.228
 
 
 
 
2022年4月18日 深夜〜
13章までで中断していたのを再開。14, 15章
父親による息子への壮大な虐待モノと見ることもできる。
 
 

14章

pp.235-244
 
・畸形の王国
《ボーイ》のために、父ヘロニモはリンコナーダの屋敷から「外の世界」に繋がるモノを徹底的に排除した。
畸形の息子が自身を「畸形」で「異常」なものだと認識しないように、各地から畸形の人間を集めて《ボーイ》の召使いとして雇った。《ボーイ》の身の回りの世話以外では、畸形の人々は屋敷の敷地内で好きに社会を作って暮らしていいとした。
そうして、互いに惹かれ合う者たちも現れた。
 
醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子に与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった。 p.236
 
ヘロニモはウンベルト(《ムディート》)を畸形の王国の責任者にした。畸形の召使いたちはウンベルトを通してしかヘロニモに連絡できない。
屋敷で唯一畸形でないウンベルトこそ「異常な人間」であり、《ボーイ》に「畸形」の何たるかを教える役目があった。
またウンベルトはヘロニモから作家としての才を認められており、リンコナーダの暮らし、《ボーイ》の世界を記録する仕事も任された。
 
 
・屋敷に雇われた畸形の人々
エンペラトリス:ヘロニモの遠い親戚。とても小さい
ミス・ドーリー:世界一の大女。
ラリー:ミス・ドーリーの亭主。手足がとても長く頭が小さい。
アスーラ博士:顔のほぼ中央に隻眼がある。
ベルタ:下半身不随の女。トカゲのように這って移動するため手や腕が異常に太い。
メルチョール:赤黒い肌を持つ男。顔はぶちになっている。
バシリオ:大頭の怪力男
 
 
 

15章

pp.245-260
 畸形夫妻の追放
《ボーイ》は出産直後にアスーラ博士の手術を受けて一命をとりとめた。
リンコナーダの屋敷に畸形たちが住みはじめて数年が経ち、彼らのなかでも階級が形成されていた。召使いのトップはエンペラトリス。ウンベルトは年に一度しかヘロニモと連絡をとれない。
アスーラ博士は次第に《ボーイ》の世話に飽きて男女構わず近くの畸形たちと情交に耽るようになった。
そんなあるとき《ボーイ》が緑色の下痢をするようになった。その原因は、ミス・ドーリーが母乳を飲ませていたことだった。彼女とラリー夫妻のあいだには何人も子供が生まれたが、畸形児ではなかったので屋敷から外に出さざるを得ず、代わりに《ボーイ》を育てようとしていた。
それを目撃したウンベルトとエンペラトリスは、ただちにふたりを追放することに決めた。
ミス・ドーリーの胸に抱かれた《ボーイ》はウンベルトを見て「コワイ」と言った。その場にいたエンペラトリス、ミス・ドーリー、ラリーの3人にも嘲笑された。自分だけが畸形でないことに疎外感を覚えていたウンベルトにはこれが決定的なトラウマになった。
 
 
 
4/19
16, 17章
 

16章

pp.261-280
・ウンベルト・ペニャローサの苦悩と変身
ウンベルトは主人ヘロニモに任された通り、《ボーイ》にまつわる記録を書こうとするが、胃が痛んでなかなか書き始められない。先日、エンペラトリスたちから嘲笑されたことも深く尾を引いている。彼は焦燥し、エンペラトリスが自分と深い仲になって地位を乗っ取るつもりではないかと考える。彼女を殺さなければと思い、そして同時に彼女に欲情している自分に気付く。
彼は法学生時代に人類学博物館のミイラの展示の前で初めてドン・ヘロニモに出会ったときのことを思い出す。あのとき作家だと名乗らなければ今こうしていることもなかったのに、と後悔する。
痛みと苦悩に堪えきれなくなったウンベルトはエンペラトリスの部屋へ行く。そこには畸形たちが集まっている。ウンベルトはベッドに寝かされて下痢をする。アスーラ博士が介抱する。畸形たちの血が彼に輸血され、彼の身体はみんなの畸形を取り込んで変貌していく。彼のもとの血はどんどん吸い取られていく。畸形たちは「普通」の人間の血を欲しがっていて、自分は騙されたのだと妄想する。遂には「ウンベルト・ペニャローサ」という名まで略奪される。
 
 
 

17章

pp.281-292
・病床の回想
名前を奪われて《ムディート》となった「おれ」は、ドン・ヘロニモの費用援助によって病院に入れられていた。危篤状態でからだの八十パーセントが切除され、なんとか一命をとりとめたらしい。彼は自分が看護婦たちから嫌われている、と思い込んでいる。また、入院ではなく監禁であり、患者ではなく囚人なのだと考え、ヘロニモに騙されたと語る。
彼は再び法学生時代のヘロニモと出会った頃を思い出す。彼は法学の道を諦めて、場末のバー・エルクレスで大学の仲間たちと駄弁り、小説を書いていた。バーで働くソイラ・ブランカ・ローサ(ロシータ)と関係を持っていた。
小説を出版するコネも金も無かった彼は、ヘロニモに手紙を書き、100部の印刷代金を融資してもらったことで、念願の作家デビューを果たす。新聞に彼の名前が乗り、そこで実の父は初めて息子が文学を志していたと知る。息子が名士ドン・ヘロニモと繋がりがあると聞いて驚き、すぐに挨拶に行くように言う。それに嫌気がさした「おれ」は家を出てロシータと同棲を始める。
大学の仲間たちとは疎遠になっていたある日、バーにいる「おれ」の元にドン・ヘロニモが会いに来る。父から自分の居場所を聞いてきたようだ。ヘロニモを拒絶するが、彼はロシータに「あした十時に屋敷へ来てくれ」と住所が書かれた名刺を渡してバーを去る。「おれ」はその名刺を破り捨てる。
 
 
p.291 変な誤植 「 [ 」 が文中に挟まっている。
 
 
 
これで半分を過ぎた。
 
倫理を徹底的に排除しているからこそ、逆説的に真の倫理が浮かび上がってくるような倒錯構造。
語り手ウンベルトが本当に存在するのかも怪しくなってきた。「本当に存在する」かどうか、という問いが融解し、意味をなさなくなる。いろんな他の人物とウンベルトが同一視される。ドン・ヘロニモ、ペータ・ポンセ、エンペラトリス……。
何もかもが倒錯している。きたないはきれい、きれいはきたない。あらゆる価値の両極が同一化して円環を成す。

「愛する」ことと「殺す」ことは等しく、「この人を消し去りたい」と「この人になりたい」は等しい。醜悪な老婆こそが絶世の美女であり、ただ一人畸形でない者こそが異常な畸形として疎外される。

 
いうほど露悪的・グロテスクではないし、いうほど難解でもない。
というのも、ドノソの文章の基調は正統派のゴシック小説の文体であるし、ジョイスのように言語遊戯レベルで文章が崩壊しているわけではない。一文一文は明瞭に意味を成す。ただ、その構成と世界観が徹底的に倒錯しているため、慣れるまではきつい。
読んでいて吐き気がする、ようなことも今のところない。ケッチャム『隣の家の少女』とか、web上のグロ小説とか、現実に起きた凄惨な事件のルポとかのほうがずっと気分が悪くなると思う。
本書の読書体験は、そういう直球のグロテスクさ、露悪とは異なる次元にある。うまく言えないが、「心地よい(悪)夢」のような感じ。いうほど「悪夢」感もなく、ベースはリアリズムの近代小説で、そこに実験的な構成と語り、そして装飾的な退廃エピソード群によって特異な世界観が構築されている。ホラーでもスプラッタでもないし、むしろ独特な居心地の良さすら覚える。
 
 
 

18章

pp.293-310
 
病状のムディートは肉体の80%が切除されていた。彼の身体の断片は畸形たちに移植され、彼らは正常な身体になっていった。
それだけでなく、彼らの畸形の部分をムディートに移植することで、それが次第に正常なものへと変質するため、それを再び自分の身体に移植し直す、という方法もとられているようだった。
 
 
アスーラ博士の手によって、《ムディート》のペニスをヘロニモに移植する手術が計画される。
実はあの夜、ペータ・ポンセと性交したのはウンベルトではなくヘロニモで、ペータの中に入ったヘロニモのペニスは腐って使い物にならなくなってしまった。(イネスを抱いていたのはウンベルトだった?)
だからヘロニモは、ムディートのペニスを奪うことにした。
 
屋敷を逃げ出して牧場のような公園(草むら)で焚火をしながら夜を明かしていたムディートをペータ・ポンセが追いかけて、寝ている彼のズボンの前を開けてペニスの有無を確認する。
 
ムディートと結婚することになった[エンペラトリス]は、ウェディングドレスを着て彼のベッドの横でずっと待っていた。病床で結婚の儀をあげかけたが、彼のペニスの有無を見て(?)、エンペラトリスは逃げ出してしまった。
 
《ムディート》が病室から通りを眺めていた四角い窓は、実は壁に貼られた写真だった。彼はずっと閉じ込められていたことに発狂して写真を剥がして引き裂いた。
 
 
 
 

19章

pp.311-331
 
エンカルナシオン修道院の取り壊しが決まり、売却物の目録の制作が始まっていた。
シスター・ベニータとラケル夫人が話す。
シスター・ベニータは長年この修道院で老人たちの世話をしてきた。牧師様に、転職させてくれるよう何度も頼んできたが聞き入れられなかった。修道院が無くなるということで、もう老人たちの世話は絶対にしたくないと思っている。
 
ラケル夫人が、先日亡くなった女中ブリヒダとの過去を話す。
ブリヒダは株・投資に関して天賦の才を持っており、ものすごい資産を蓄えていた。彼女は外出が嫌いだったので、不動産の売買や管理にはなぜか主人であるラケル夫人がこき使われていた。
ブリヒダは生前から、自分の(豪華な)葬式の段取りを細かく手配していた。
ブリヒダが遺した莫大な資金をどうするかラケル夫人は悩んでいる。修道院にいる老人たちの豪華な介護病院を建てて、そこの世話役をやってもらえないかとシスター・ベニータに告げるが、当然断られる。
 
修道院の礼拝堂の灯明のところにある、唯一価値のある聖餅をアソカル神父が盗みに来た。
それを、いちばん後ろの席でうとうとしながらシスター・ベニータが見ている。椅子に乗って取ろうとしている神父に「危ない」と注意するよう《ムディート》に頼むが、彼は唖なので喋れない。
壊れそうな不安定な椅子の上で神父はジタバタする。その様を見てシスター・ベニータはついにこらえきれず大笑いしてしまう。神父は椅子から転落し、「畜生」と吐き捨てる。彼は聖餅を持ち去っていく。
 
 
 

20章

pp.332-356
 
・妊婦イリス・マテルーナと老婆たち、そして《ムディート》
競売人たちによって物が運び出され、がらんどうになった礼拝堂で、老婆たちは身籠っているイリス・マテルーナを囲んで祈る。修道院が完全に取り壊されて追い出される前にイリスに出産してもらい、その奇跡の子供に天国へ連れて行ってもらうため。老婆たちは中庭の石像の欠片を拾い集めて接合し、聖像を作ってイリスを祀る。
イリスは《ムディート》を「人形」として子供に見立てて抱いている。20パーセントの小さな身体になってしまった彼は子供のよう。
《ムディート》はしばしば修道院のどこかへ逃げて身を隠す。イリスは老婆たちに、彼(=自分の子供)をすぐに探し出してここへ持ってくるよう命令する。老婆たちは必死に探し回り、本の山の上にいたりする《ムディート》を見つける。発見された《ムディート》は繃帯でグルグル巻きにされ身動きがとれない状態で地下室のベッドのイリスの隣に添い寝させられる。
毎夜、監視役の一人の老婆が寝静まった頃、繃帯に我慢できなくなった《ムディート》はイリスに助けを求める。イリスはお腹の子供の父親ロムアルドに会って子を認知してもらいたがっているため、《ムディート》を夜の町に解き放ってロムアルドを探させていた。しかし《ムディート》曰く、彼は貧しくイリスの子の父親になる気はなく、追っ手から必死に逃げ回っているという。
《ムディート》はイリスに、ロムアルドは諦めて、金を調達した自分と一緒に修道院を出るように持ちかける。しかし彼女は今夜も、《ムディート》だけを夜の町へと出ていかせる。今夜ロムアルドを連れてこなかったらペニスを切ってもらう、と脅す。
彼のペニスはヘロニモのものであるらしい。
 
 
 

21章

pp.357-376
 
・イネス夫人の電報とイネス・デ・アスコイティアの伝説
修道院に[イネス]夫人からの電報が届いた。近いうちに修道院に帰還するようだ。バチカン教皇の決定に反して、そこではいまだに「福者」という言葉が使われていた。
 
・イネス・デ・アスコイティア(福者イネス)の昔話
18世紀末、マウレ河の南の農園に住むバスク系の裕福な地主がいた。彼は9人の息子とひとり娘の父親である。このひとり娘が、のちの福者イネスである。
彼は農園からはるばる旅して、姉が院長を務めるカプチン派の修道院を訪れ、16になるひとり娘をそこに軟禁しようとした。理由は不明。姉に説得され、彼はその場所に一族と神とを直接に結ぶ礼拝堂を建立し、そこにイネスを死ぬまで閉じ込めることにした。牢審役の尼僧たちが住み着いてイネスの見張りと面倒を見始めた。イネスは修道の誓いは立てなかった。独立戦争期のあと、20歳で息を引き取った。
大きな地震の際、イネスが中庭の中央にひざまづいて両手を広げることで、修道院の崩落を止めた、という伝説がある。その時の彼女の腕はまるで枯れ木のようだった。(これが現存する修道院最古の中庭の一本木の由来?)
こうした「奇跡」は次第に噂になり、死後数十年をへてようやく、大司教まで伝わった。大司教が彼女の柩を開くと、柩の繻子が真新しかったという。この墓の所在は不明。
 
《ムディート》の想像。魔女イネス=福者イネス
福者イネスは修道院で地元の男と交わって妊娠・出産していたのではないか。地主の父はそれを隠蔽するために彼女を修道院に閉じ込め、「福者」に仕立て上げた。
その男は捜索もされなかったが、子供は農園に捨てられた。そこで育てられた子供は成長し、その土地一帯に母方のアスコイティアの血をばら撒いた。それがペータ・ポンセの祖先・血筋であるという。すなわちペータ・ポンセにはイネス・デ・アスコイティアの血が流れている。自身に流れる高貴な血を認めさせるためにムディートを追いかけ回している、と「おれ」は考える。
 
《ムディート》の幼少期、色んな老婆にたらい回しにされたあげく、ペータ・ポンセに連れられてエンカルナシオン修道院に最初にやってきた、という老婆たちの噂話。(ヘロニモとの出会いの回想では父親がいなかったっけ?)
 
 
 
 
 
 
 
2023/1/12 再開 pp.376-430(22章から23章の終わりまで)
 

22章

pp.377-401
ヨーロッパから修道院に帰ってきたイネス夫人は、自分の部屋の壁紙を貼り替えさせた。壁紙と壁の間には古新聞が入っている。
イネス夫人がドーラとリータとドッグレースの賭けをやる。
イネスは召使いの声真似をして夫ヘロニモに電話をし、服や毛布、ボードゲームなどの物品を家から修道院に送ってくれるよう頼む。夫はそれが妻の声だと気付かない。
 

23章

イネスがヨーロッパ滞在していた真の目的は列福ではなくアスーラ医師に不妊でありながら60過ぎまで月経が止まない子宮を剔出してもらうことだった。しかし、当人の知らないうちに、子宮だけでなく他の内臓器官もほとんど剔出され、金持ちに売却されていた。
ムディートはヘロニモの屋敷の近くまで行って聞き耳を立てる。ヘロニモとラケル夫人が話している。
クリス(クリソフォロ・アスーラ医師)の相方エンペラトリス(ヘロニモの従妹)の苦悩・愚痴。畸形の王国からウンベルトが出ていってから何年も経つ。《ボーイ》の生育に関する毎月の報告書でエンペラトリスはヘロニモに嘘をつき続けてきたが、自分が真実を彼に話すだけでこの王国が崩壊することに想いを馳せる。《ボーイ》はすくすく育ち、いまは身の回りのすべてに疑問を持ち、誰彼かまわず質問しまくるお年頃のよう。
 
 
久しぶりに読んだら読みやすすぎてわろた
その原因が、『パラディーソ』のあとだからなのか、たまたま読みやすい章なのか、天気の良い温かいお昼時に外で読んだからなのかは分からない。

 

 
でも上で書いているように、やっぱりドノソって文章自体はとても端正で意味も取りやすいんだよな。
『夜みだ』は、そのきちんとした文章で語られる内容が、「〇〇です。やっぱり〇〇じゃないです。いやさっきのは嘘でした〜」みたいに何が本当なのか判然とせず曖昧で幻惑的なだけ。あとは語り手ムディートの位相と人称、それから「……」で挿入されるうわ言に慣れれば問題ない。そもそも文章がずっとおかしすぎる『パラディーソ』なんかとは全く違う。
完成度は『夜みだ』のほうが圧倒的に高いと思う。ただ、ヤバさ、エネルギー、衝撃度でいったら『パラディーソ』になる。ドノソも当然『パラディーソ』は読んでいただろうから、本書もいちおうその影響下にあるとは言えるのかな。
しかしながら、『夜みだ』、テーマがすごく好みではあると再確認した。いち個人という人物の輪郭、アイデンティティが融解して、アスーラ医師の手術によって人体を部分的に交換可能にされ、何が自分なのかいつの間にかわからなくなっていく……という内容は好きだ。
正/陽の男に対する負/陰の女の倒錯的な復讐というジェンダー面だったり、また死ぬことと生まれること、「産むこと」のおぞましさというやや反出生主義/反生殖主義的な側面だったりも好ましい。(もちろん、単純な男女二元論/ジェンダーバイナリーや、女性性を定める本質主義フェミニズムクィア理論的に問題含みであることは承知のうえで。)
 
 
1/13 金

24章

pp.429-442
夫に注文していた物品が修道院に届き、イネス夫人はゲーム盤類を老婆たちに配る。老婆たちは嬉々として遊び始める。
イネスは数人の老婆を誘って賭けドッグレースをする。彼女自身も豪華な衣服や宝石を賭けると宣言し、人だかりができる。イネスの「黄色い牝犬」はリードを守りきり一着でゴールする。イネスは老婆たちの賭けていた粗末な私物をすべて装着して出ていく。再び夫ヘロニモにリータの声真似で電話をし、屋敷にある自分のものをすべて修道院に早急に運ぶよう頼む。その豪華な私物を賭け事で老婆たちに配ってやろうと考えてのことだった。
 
イネスの「黄色い牝犬」が駆けるシーン(p.436-)、それがすごろくゲームの出来事から一気に実際の犬の疾走の描写に切り替わって最後まで行き着くところの文章が最高だった。ちょっと泣きそうになった。ここが本書の「サビ」かもしれない。以前にヘロニモ宅で登場した「黄色い牝犬」にもここで繋がる。
壺にかけられたお前の手に集中している視線。ゲームはまだ始まっていない。その目の前で繰りひろげられようとしている大勝負に夢中になり、老婆や孤児たちは息を殺している。お前が壺をあげる。
「四だわ。一、二、三、四、と……」
 黄色い牝犬は、ほかの犬に追われながら逃げる。銀色に輝く月夜に土煙だけを残して駆け抜ける、復讐の念に燃えた旗手たちに追われて逃げる。毛の脱けた皮膚をひっ掻く茂みのなかに身を隠す。水たまりや湖を、何百年もの歳月や川を渡る。しかし、胃が痛くなるような飢えを満たすことはできない。口にする残飯や、がじる骨が十分ではないのだ。苦労して盗んだ餌をくわえて、しょっちゅうそんな目に遭っているが、どやされないうちに逃げだす。共犯者の星が指さす方角に向かって走る。山を駆けのぼり、谷に駆けおりる。当然果たさなければならないのに、その見込みのないあることを果たすために、走りに走る。獰猛な獣どもに八つ裂きにされるのを避けて、物陰にひそむ。連中は、醜悪で、痩せこけて、貧欲だというので、黄色い牝犬を憎んでいるのだ。彼女は畑や砂漠、荒れた岩場や棘を伸ばして刺そうとするサンザシの森を走りに走る。通りや公園を駆け抜ける。闇にまぎれてほんの少し人家に近づき、めぼしいものを求めてうろつきまわる。牝犬は痩せていて、虱だらけで、臆病だ。黄色い牝犬は獰猛ではない。決して攻撃はしない。その気がないことはないのだが、噛みつくことさえしない。しかし、四頭の黒い犬が遊びに夢中になっていると、機会を逃さず彼らの脚の下にもぐりこんで臓物をかっさらい、闇のなかの公園に身をひそめる。いつものように目を光らせながらあたりを警戒する。月に向かって吠え、忠告や謎をとく鍵を求める。月も知らないことを伝え、その助けを求める。引き裂かれた死体が庭師によって発見されなかったところを見ると、月は助けを与えたのだろう。黄色い牝犬は走る。走りに走る。弱っているくせに、ほかの犬が追いつけないほどの速さで走る。疲れきって休まなければならないはずなのに、いつも先頭を駆けていく。眠るときは何十年も眠る、誰にも見つからない森の奥で。目を覚ますとそこを出て、ごみ捨て場で餌をあさる。そして、若い男たちに蹴とばされる……あっちへ行けったら! 頼む、ゆっくりやらせてくれ。何も、そんなにじろじろ見るこたぁないだろ! いやな犬だぜ、ズボンを破くなよ。破いたらその顔を思いつきり蹴っ飛ばして、ぐしゃぐしゃにしてやるぞ!……おい、見ろよ! 舌なめずりしてるみたいだぜ。おれもゲラゲラ、お前もゲラゲラ。おれのツツサキは下がっちゃうし、お前はパンティーを上にあげちゃう。これじゃあ、おれもお前も気分が出るわきゃねえよ。あいつだけじゃないか、よがってるのは?……黄色い牝犬はふたたび逃げだす。舌を垂らして、あえぎながら走り去る。土埃と、追いつけなくて怒り狂うほかの犬の吠え声が、あとに残される。彼女はいつも飢えているが、しかしいつも敏捷だ。ほかの犬よりも敏捷で油断がない。黄色い牝犬はすでにゴールに迫っている。老婆たちは笑い、大声でわめく。お互いに賭ける。歯をほじくる。ののしり合い、金切り声をあげる。みんな親切なイネス夫人が勝つことを願っているのだ……黄色い犬が勝ちますように。緑や、黒や、青や、白が勝ったりしませんように。黄色い犬はいつも強いんです。勝つに決まっています。どうぞ勝たせてやってください……六が出て、黄色い牝犬はついに水たまりを越えた。もう一度、さいころが振られる。四が出た。一、二、三、四。彼女はゴールに倒れこむ。
「やったわ!」
「黄色い犬の勝ちよ!」
「わたしが勝ったの」
「イネス奥様の勝ちです!」
「よかった!」
「イネス奥様、おめでとうございます!」 p.435-437
 
老婆たちが夢中になってトランプやボードゲームをする場面も、子供と老人の倒錯として印象深い。そもそもこの修道院が取り壊されたあとに建てられると噂の《少年の家》という孤児施設(実際には建てられないらしい)も、老人と子供の対比=合一だし。老いと幼さが同一視され、死から誕生へと、穢れから純粋さへと逆行する。
 
 

25章

pp.443-463
解答編みたいな章だな。これまで語られてきた物事の真相が明かされる。
 
ヘロニモ ー ムディート
イネス  ー ペータ・ポンセ
という男女四者の構図
 
イネスがアスーラ博士の手術を受けた真の目的は、子宮切除ではなく「歳をとる」ためだった。臓器をより老いた者のそれと交換してもらう。
アンチ-アンチエイジングじゃん
しかし、イネスのその行動を見越して、ペータ・ポンセがあらかじめアスーラ博士に自身の臓器を保管してもらっていた。ペータはイネスへの嫉みから彼女と一体化することを狙っていた。
その罠にまんまとハマり、イネスはペータに身体を侵食されたのだった。
ペータの根本的な望みは、ヘロニモ=ムディートに抱いてもらうこと? よくわからん
 
とにかく、ここでは「イネス」とか「ムディート」といった名前による同定/差別化による指示が機能していない。
しっかりとした文章で物語ることで、逆説的に言語、言葉の現実への届かなさ、無力さを描き出している。しかしまた、真相を撹乱するのもまた言葉に他ならず、言葉の無力さとそれゆえの万能さを同時に示しているともとれる。
これは言語それ自体が飛翔していく『パラディーソ』とは対照的であるが、結果的には同じところに行き着いているようにも思える。
 
てか、これもまた「老女が存在感のある小説」じゃん!! ペータやイネスもそうだけど、修道院で暮らす大勢のモブ老婆たちの存在感、描写もすごい。
 
 

26章

イネスがイリスとおこなう、電話越しの会話を演じるゲームが面白い。2回目はイネスがヘロニモ役を、イリスがイネス役を演じる。
1/14(土)26章おわり
聖者ということになったイリスからイネス夫人がドッグレースで物を奪い続け、遂には子供──ムディートでありボーイ──をわが物とする。(この最終ラウンドの「黄色い犬」の描写がやっぱり良い。もうタイトル『黄色い犬』でもいいとおもう)
わたしは、いつも黄色い犬だわ。やめるわけにはいかないの。山や道や畑を走らせたり、小川や湖を渡らせたりする義務があるのよ。わたしの手のなかで生に返るのよ。ほんとに、わたしには年寄りから巻きあげようなんてつもりはないの。あんながらくたが要るわけはありません。現に着ている汚れも破れも少しはましな服を、垢だらけで虫喰いもひどいものと替えたいっていうのなら、話は別だけど。わたしは勝ちたくないの。犬のほうがトラックを走りまわって、わたしを無理やり勝たせるのよ…… p.469
 
「わたしは、この歯を賭けます」
 闇のなかに浮んだ顔が落ち着きを取り戻す。手をぼろの下に隠す。さまざまなことを見てきたはずだが、じくじくした目が、これから見られるものへの期待で光る。押し黙った老婆たちの輪が、それぞれゲーム盤の一方について、金箔の玉座の下にひざまずいたふたりを締めつける。黄色い犬がイネス、白い犬がイリスだ。さいころが壺のなかで鳴る。
「数の大きいほうが先よ」
 イネスが二、イリスが四を出す。イリスからだ。白い犬がまた四だ。一、二、三、四。白い犬はプラスチック製で、同じ安っぽい材料でできた小さな台の上にのっている。それをイリスの手が進める。ゲーム盤はありふれたボール紙製で、家や斜面や小川がまずい筆で描かれている。イネスが五を出す。いらいらしながらそのときを待っていた黄色い犬が、パッと飛びだす。吠えながら畑を突っきる。一で、埃っぽい道を駆け抜ける。二で、月桂樹の生垣をくぐる。三で、月を映した水たまりのなかで足を止め、水をちょっぴり飲む。四で、なだらかな山腹を駆けあがって、五で、一軒の農場の中庭に達し、なおも走りつづける。白いプラスチック製の犬は後ろに取り残され、黄色い犬の姿はほとんど見えない。それは、かつてないスピードで走る。おれがほしいからだ。おれが自分のものになるからだ。めざましい勝ちっぷりでおれを手に入れたくて、それで黄色い犬は頑張っているのだ……一、二、三、四、五、六……イネス奥様は、ほんとにツイてるわ!……彼女はまた振る……四だわ。一、二、三、四……おれはイネスのものになりそうだ。黄色い犬のやつ、その腕がペータ・ポンセの腕に変わってしまわないうちに、イネスの腕におれを抱かせてしまうにちがいない。仮にペータ・ポンセのものに変わったら、その腕はおれを捉えて放さないだろう。おれのセックスはその腐ったセックスにのっとられるだろう。貧欲なうじ虫であふれたそのセックスのなかで、おれのセックスも腐っていくだろう。黄色い犬はおれをあの老婆の腕から救おうとしているわけだ。走れ、黄色い犬よ。月に吠えながら、稲妻を追いながら、走れ、走れ。プラスチックの犬の影はどこにもない。老婆たちが金切り声をあげる。身もだえする。ロザリオの祈りをくちずさむ。どちらに勝ってほしいのか、本人たちが分からなくなる。気の毒なイリスが寒さにふるえていることを知りながら、みんながイネス夫人に賭ける。ついにおれはお前のものになるのだ。かつて存在しなかったほど完璧だが、しかし十人の危険な騎手から身を隠すために、沼の岸の燈心草の茂みをくぐる黄色い犬には従順な、あのイネスのなごりでしかないのかもしれないけれど。黄色い犬の揺れる影である老婆たちの顔がかげり、その瞬間だけ別の顔が浮かびあがる……一、二、三……たった三だわ、でも、ゴールは目の前ですもの、どうってことありませんわ、イネス奥様……さあ、イリス、急がなきゃ。あまり狙わないほうがいいわよ。さあ、振って……なんだ、たった二よ……こんどはイネス奥様ですよ。簡単に勝てそうですわね……一、二、三、四、五、六。あら、もどらなきゃ……でも六ですから、もう一度振れます……三だわ。一、二、三……ちょうどだ。お前の勝ちだ。黄色い犬がゴールインしたのを見て、イリスは悲鳴をあげ、顔を蔽う。一方、老婆たちはイネス夫人におめでとうを言う。イリスは用のない抜け殻に化してしまう。もはや福者でもなんでもない。イネスが立ちあがり、自分の入れ歯を蹴とばす。蹴とばされて入れ歯は礼拝堂のすみっこへ消える。イネスはその腕で──昔のふくよかさをおれは記憶している──いそいそとおれを抱きあげる。彼女こそ真の福者なのだ。彼女こそ奇跡の女性なのだ。 p.476-478
こうして自分自身が聖者になったイネスは、しかし夜にベッドで赤ん坊と寝ているときに、ムディートに襲われ、それを騒ぎ立てて完全に狂ったと思われた老婆たちに救急車を呼ばれ、精神病院へと強制送還されてしまう。こうしてムディートは、ペータ=ラケル修道院から追放することに成功した。
イネスはここで退場か?
 
1/15 日

27章

pp.4-506
リンコナーダから《ボーイ》が脱走して行方不明になっている、と、ヘロニモとの年一の会合を済ませたあとでエンペラトリスは夫アスーラ博士(クリス)から告げられる。ふたりでヨーロッパへ逃げよう、と薄汚れた喫茶店で夫から提案される。知らないうちに周りの席は人("おれ")で埋まっており、畸形であるエンペラトリスらふたりを奇異の目で見ている。店から出るが、《ムディート》が追いかけてきて、ヘロニモ抹殺についてお願いされる。
 
……おれに手を貸そうとするように、ふたりは街灯の下に立ち止まる。畸形たちはおれに同情を差しのべる。おれの唇の動きをじっと見つめる。シラブルを、単語を、それから意味を読み取り始める。仰天しながら聞く。おれはもう身振りをあまり使う必要はない。おれたちは話をする。いくらでも話すことがある。おれとあんたたちは、話すことが山ほどあるはずだ。最後までおれの指示にしたがってほしい。彼を完全に抹殺することを、ここで、おれに約束してほしい。 p.498
 
リンコナーダの屋敷にふたりが戻ると、中庭のドアから《ボーイ》が現れて、ふたりに裸になるよう命じた。彼は5日間外の世界を見て色んなことを知って戻ってきたらしい。その5日間の記憶を脳から剔出し、以前の無知な状態に戻してほしいとアスーラ博士に頼む。
 
ぼくがいわば抽象的な存在に戻ることを認めてくれさえすれば、父の死後、ぼくの財産をどうするかは、あんたたちの勝手さ。外に5日間いて、ぼくは生きることへの興味を失った。ある詩人が言っているよ。『生きる? 生きるだと? なんだ、それは? そんなことは代わりに召使いにやらせておけ』って。あんたたちはぼくの召使いだ。あんたたちは、ぼくが生きることを拒絶したものを生きるんだ。現実を知ったいまでは、ぼくは人為的な世界にしか興味がない p.504
 
ヘロニモが《ボーイ》にしたことって究極の幼児虐待であると同時に、親から子への愛の究極的なかたちとも言える。畸形として生まれ、彼にとって生き辛いマジョリティの社会に晒されずに幸せに育ってほしい、という親の想い。上の引用とひっくるめて反出生主義っぽさは強い。そもそもなんで生んだんや、って話だけど、《ボーイ》に関してはまさに出生にいちばんの謎があって、処女懐胎とかいう線もあるくらいだしな……。
 
現実を見ないようにするために、虚構の、ゲームの世界をつくってそこに逃避する……というのは後の『別荘』でも描かれている。
やっぱりドノソの文学(観)って「現実逃避」なんだろうな。
ただ、エヴァのシンジ君的な「引きこもり」の文学(私小説)ではなくて、複数の人間の集団でゲームのルールを取り決めて虚構に耽溺するという、ある程度の社会性の上に成り立った現実逃避。陽キャの集団引きこもり。
これはおそらくチリのブルジョワ階級風刺といった、社会階層を戯画化してドノソが小説化していることも関係するのだろう。社会階層はひとりではなりたたない。
 
また『別荘』の現実逃避との違いもある。
あちらはブルジョワ階級の大人やその子供たちが、周囲の都合の悪い残酷な現実を見て見ぬ振りするために遊戯などに逃避する形だが、今作は畸形という社会的なマイノリティ達が「世間」から逃避する形で、社会階層としては対照的になっている。
強者/差別者の逃避と、弱者/被差別者の逃避。これらをひとまとめにして語ることには抵抗があるが、ひとつの単純な解釈としては、「恵まれていようがいまいが、人間は現実逃避する生き物である」という人間観を作品群全体で提示しているとか?
 
エンペラトリスとアスーラは、ヨーロッパ行きを取りやめ、リンコナーダでこれからも生きていくことを決意する。
エンペラトリスは、《ムディート》(=ウンベルト・ペニャローサ)が《ボーイ》に外で接触して何かを話したことを察する。
 
ムディートとボーイってほぼ同一人物みたいな感じだと思ってたけどそうじゃないんか。実質的に同じっぽいけどなぁ……。ヘロニモ≒ムディート、のように。ペータ≒イネス、のように。
ここの男ふたりの関係が、この話のいちばん根幹の謎であり矛盾、メビウスの輪であるだろうことは察せられる。
 

28章

pp.507-
ヘロニモがリンコナーダの庭園を訪れ、ウンベルトの部屋に寝泊まりすることに決める。
 
「結局、いい作品を書こうと思って……ウンベルトの困ったところは、ひとつは、わたしの伝記が文学的な素材だと信じていることだった」
「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏みこんでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗りこめられたその迷路のほうが、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりとしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、不安定で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった……そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと……」
「面白いね、エンペラトリス。きみは大した文芸批評家だ」
「長いあいだ彼といっしょでしたからね」
「そうだな。しかし、わたしが思うに、彼の根本的な問題は、わたしに精神的な高さとある強固さを持たせる必要があるにもかかわらず、気の毒なことに、わたしにはそれが欠けていたことだった。だから、あんな風にわたしの伝記を建造しなければならなかったし、そのなかに自分を見失う結果にも…… pp.508-509
 
終盤で露骨にこの小説自体を指していそうなことを作中人物に話させるのも『別荘』と同じだ。
ヘロニモの欠点を彼自身にこうして小説内で語らせる、という皮肉(復讐)?
 
ヘロニモは《ボーイ》に対面するのを先延ばしにし続けるが、《ボーイ》を結婚させて子供を作らせようとエンペラトリスに語る。
エンペラトリスはそのヘロニモの計画を《ボーイ》に伝え、父親に抗戦してリンコナーダの庭園を自分が守っていくと宣言する。
 
父と息子の対決。クライマックスっぽくなってきました。
「正しい世界」の体現者であり主人公サイドを抑圧する〈父〉ヘロニモの造形は、どうしても『パラディーソ』のホセ・エウヘニオ父ちゃんを連想する。独裁体制などの政治的な社会背景から、ラテアメ文学でこういういかにもな家父長キャラが登場しがち、みたいな論はあるのだろうか。
 
1/16 月 p.514~p.568

29章

ヘロニモと《ボーイ》の歪んだ父子関係の構築。父殺し。ここのヘロニモの死はかなり典型的で「こういうやつね」と思った。池の水面に映った自分の「顔」に手を伸ばして溺死。水面の「鏡」がドノソ的な虚構/現実の境界面(『別荘』における騙し絵のような)の最たるものであることは分かるが、もう少し想像を超えてきてほしかったかな〜
 

30章

 
おわり!!!
ラストは謎の老婆(ペータ・ポンセ? "魔女"?)による橋の下での焚火かぁ
 
マイクロバスで老婆達が出発する直前の修道院に500個のカボチャが届けられるのワロタ。最後に一気にカボチャが持っていくかと思った。老婆たちは最後まで元気だった。ウッキウキのピクニック気分だ(天国行き)。ピクニックといえば『別荘』だけど、大量の人物がわちゃわちゃやるのは『別荘』の一族の子供たちと似ている。子供↔老婆
 
修道院でのブリヒダの死/葬儀で始まり、ブリヒダの遺産で他の老婆たちが新しい施設(天国?)に移れるようになって修道院の取り壊しで終わる。にしても修道院ぜったい易易と取り壊せないだろ。呪われるフラグがビンビンなんですけど。
 
・まとめ
1年半かけて読了。最後の3分の1は、レサマ=リマ『パラディーソ』を2ヶ月間かけて読んだあとに向き合ったためか、読みやすくてびっくりした……。
いうほど悪夢的でも狂気的でもグロテスクでもなく、個人のアイデンティティが融解していく姿勢に心地よさ、安心感すら覚えた。
あと大量のお婆ちゃんたちが元気にわちゃわちゃやっててくれてるのが読んでて楽しい。
いちばん刺さった箇所は賭けドッグレースでイネス夫人の黄色いコマがひた走る描写。自分が本作に『夜のみだらな鳥』以外の題をつけるなら『黄色い牝犬』にするかな。
 
 
 
つまり『夜のみだらな鳥』の説話の構造は、詩の領域のそれを利用しているとも言えるし、詩における説話の構造を小説として成立させようとしているとも言える。『夜のみだらな鳥』は幻想小説ではなく、詩の説話構造を借りた妄想小説なのである。
そしてツヴェタン・トドロフは詩を幻想文学の世界から除外する。なぜなら「幻想は虚構の中でしか存続しえない。つまり、詩は幻想的ではありえないのだ」から。『夜のみだらな鳥』は虚構ですらない。それはホセ・ドノソ自身の内実を詩的妄想として構築したものに他ならないからだ。
 
寺尾隆吉は次に「魔術的リアリズムの新展開」として、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』を取り上げていくが、その語り口はルルフォやガルシア=マルケスを論じるときほど滑らかとは言い難い。
『夜のみだらな鳥』のあらすじ紹介(この小説のあらすじを書くことにどんな意味があるかということを、寺尾自身が知っていながらもなお)に終始し、この小説の構造についての分析に至らない。苦し紛れに『夜のみだらな鳥』における方法のことを「負の魔術的リアリズム」などと呼んでみせるが、そんなものがあり得るとは私には信じがたい。
寺尾が言うところの『夜のみだらな鳥』への評価を見ると、ことごとく『百年の孤独』とは逆方向を向いていて、それでも「魔術的リアリズム」を言い立てるなら〝負の〟という形容詞を付加するしか仕方がないのである。
 
このような文章を読んで、私は寺尾が素直に『夜のみだらな鳥』は魔術的リアリズムによる小説ではない、と結論づけたら楽になれるだろうにと、心底思う。私はラテンアメリカ文学をむやみに魔術的リアリズムで括る必要はないと考えているので、寺尾の議論に賛成できないのだ。
では、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』には」何があるのか? それこそが私の今回のテーマであって、これまで23回にわたって書き継いできた原動力になっている。まとめて言えば次のようになるだろう。
『夜のみだらな鳥』は閉所恐怖と相続恐怖を特徴とするゴシック小説であり、二つの恐怖を極限にまで推し進めた、ラテンアメリカ文学最大のゴシック小説である。一方『夜のみだらな鳥』は、執拗な繰り返しと取り替え可能性の偏在、そして多くの矛盾を孕んでいる。
それはこの作品が伝統的な小説のディスクールによって書かれているのではなく、むしろ詩のディスクールによって書かれているからである。小説のディスクールは表象を必要とするが、詩のそれは表象を拒否するのであるから。
 
やはりこの方も、自分と同じくドッグレースの黄色い犬が走る場面を重要な箇所に挙げている。
また、『夜みだ』は幻想小説ですらなく妄想小説であり、描いている虚構のリアリティを追求する小説のディスクールによってではなく、言葉そのものを表象している点で詩のディスクールを採っている、という指摘が興味深い。
また、寺尾隆吉『魔術的リアリズム』における、夜みだを「負の魔術的リアリズム」と呼ぶのではなく、もっとはっきりと「これは魔術的リアリズムではない」と言ってしまったほうが良いという主張には首肯せざるを得ない。じぶんも、これのどこに魔術的リアリズム要素があるのだろうと思いながら読んでいた。
 
 
 

『緑の家』マリオ・バルガス=リョサ(1966)

 

木村榮一

 

ラテンアメリカ文学好きを自称しているのに未読だった『緑の家』(1966)をようやく読みました。(上下巻に分かれている岩波文庫で)

上巻の最初のページに 1965 と書いてあるが、1966 の誤字?(第2刷)

 

バルガス=リョサの小説で既読なのは、『悪い娘の悪戯』(2006)、『継母礼賛』(1988)、そしてデビュー長編の『街と犬たち』(1963, 旧訳は『都会と犬ども』)の3作です。

このうち『悪い娘の悪戯』はオールタイムベストといっていいくらいに好きな小説です。ノーベル文学賞作家が本気で書いたラノベだと思っています。〈ファム・ファタール〉ものが好きなひとは必読です。

 

『継母礼賛』はノクターンノベルズにありそうなポルノ小説でえっちで良かったです。『街と犬たち』は、少年たちが主人公の軍人士官学校モノで、ホモソーシャルな雰囲気があまり好みではありませんでした。

初期の代表作『緑の家』に関しては、「密林の娼館〈緑の家〉の話らしい」「バラバラのストーリーが並行して語られるめっちゃ読みづらい小説らしい」というくらいの事前知識でした。

 

はじめに、読後の感想を載せたのち、読み進めている最中にとっていたメモ書きを載せます。メモを取りながらでないと、内容の把握・整理が難しかったです。

なお、感想もメモも、わたしの主観で書いたものに過ぎないため、内容には多くの間違いが含まれていると思われます。勘違いしたままメモしていて、後の章で「あ、そういうことか! ずっと勘違いしてた~」と書き足している箇所もたくさんあります。その点を注意してお読みください。

 

読んだ期間:2025/6/18(水)~7/3(木)
計:15日間

 

感想まとめ

年代も場所も人物も異なる5つほどのエピソードを順繰りに並行して語っていく群像劇的な構成だが、期待していたほどには終盤で「バラバラに思われていた物語たちがひとつに収束し……!」ていなかった印象。もちろん互いに緩やかに繋がってはいるが、全体でひとつの壮大な物語を織りなしている感は薄い。ストーリー上のカタルシスもない。

前作『街と犬たち』でも使われていた、リョサお得意の、いきなり次の行や文から場面を切り替える、映画のジャンプカット的な文章技法は全編を通じて大盤振る舞いされていた。身構えたが、これは慣れればそんなに混乱はしない。なんとなくでも、ちゃんと切り替えが理解できるようにうまく書かれている。変わる行にシャーペンで線を引きながら読んだ。

この技法もさることながら、文体上の最大の特徴は、会話を地の文に埋め込み、かつ「~と言った。」を省略するところだと思う。誰がその台詞を言ったのかが分かりにくい場合がある。例えば、次の文章を読んでみてほしい。(『緑の家』上巻 p.27より)

シスター・パトロシニオは顔面蒼白、口もとが引きつり、指は黒い玉の数珠をしっかりとにぎっている。軍曹、相手は子供だということ、忘れないでくださいね。分かってます、分かってますよ! 〈デブ〉と〈クロ〉は、いいか、あの裸虫たちをおとなしく押さえておくんだ。シスター、シスターは何も心配することはありませんよ。それでも、シスター・パトロシニオは、乱暴だけは、お願いですから止めてくださいね! 船頭が、そこらの物はわたしが引き受けますから。

登場人物が沢山でてきてややこしいのもあるだろうが、それ以上に違和感があっただろう。"○○が「~~」と言った。" という構造の文をリョサは、 "○○が、~~。" とだけ書くことが多い。したがって、上の引用をわかりやすく書き換えるならば、

シスター・パトロシニオは顔面蒼白、口もとが引きつり、指は黒い玉の数珠をしっかりとにぎっている。シスター・パトロシニオは言った。
軍曹、相手は子供だということ、忘れないでくださいね。
分かってます、分かってますよ!」と軍曹は答え、「〈デブ〉と〈クロ〉は、いいか、あの裸虫たちをおとなしく押さえておくんだ。シスター、シスターは何も心配することはありませんよ。」と言った。
それでも、シスター・パトロシニオは、乱暴だけは、お願いですから止めてくださいね!」と言った。
船頭がそこらの物はわたしが引き受けますから。」と言った。

のようになるだろうか。(あってる自信はない)(戯曲のト書き形式のほうが分かりやすい……)

 

もちろん、ずっとこういう難解な文章が続くわけではなく、パートごとに文体はガラッと変わる。しかし、一見誰が喋っているのか分からない台詞が並んだと思ったら、いつの間にか時空間すら飛んで全然別の場面の話をしている(と思ったらいつの間にか戻ってきている)……というように、文章に翻弄されて、それを自分でひとつひとつ推理して読み解いていかなければならない箇所もあった。

このように、パートごとの時系列や繫がり・どこで場面がシームレスに切り替わっているかを、読み進めながら自分で考えて整理していくのは、パズル的な面白さがあった。しかし逆にいえば、そういう表面的な小手先の面白さしかなくて、「小説」としての面白みや凄みはあまり感じられなかった、というのが正直なところ。

パズルを自分なりに当てはめたらそれで満足してしまうし、そもそも、こんな面倒な細切れのシャッフル構成にするよりも、ひとつひとつのエピソードをある程度連続して読ませてほしかったと思う。

ちょっと面白くなりそうなところで一旦打ち切られて別のパートに行き、続きはしばらく先にお預けにされることが続く読書体験。巧みなクリフハンガーといえば聞こえはいいが、ひとつひとつで読めば正直大したことない話を、細かく分割して再構築することで、さも複雑で有機的で奥深い物語のように見せかけているだけではないか、という身も蓋もないことを思ってしまった。

もちろん、そうした再構築型の構成が文学的に高く評価されてきたのだろうが、素人のわたしからすると、よくあるメロドラマやサスペンスなどのエンタメ小噺を、なんとか水増しして虚勢を張っているように感じられた。

「結局なんの話だったんだ?」と、読み終えてから呆気に取られてしまっているかもしれない。ひとつひとつの場面は思い出せるが、それらがひとつのまとまりとなって像を結ばない。これは本作の瑕疵というよりも、読み手であるわたしの力不足を示しているに過ぎないが……。今のわたしでは歯が立たなかった、と言い換えてもいいのかもしれない。

リョサ本質的にエンタメ通俗作家ではないか、という確信が私の中で深まった。ジャンプカット的な技巧やシャッフル群像劇構成を排して、一本道のエンタメ通俗小説として開き直って書いた『悪い娘の悪戯』を、わたしはこの世でいちばん面白い小説のひとつだと思う。

つまり、初期三部作など、ノーベル文学賞の授賞理由となったようなブンガク的に大層な初期作よりも、力の抜けた中期・後期の作品のほうがわたしは好みだと思われる。したがって、積んでいる『ラ・カテドラルでの対話』は飛ばして、『パンタレオン大尉と女たち』や『フリアとシナリオライター』などのコメディ色の強い長編を優先的に読んでいきたい。

 

物語の主な舞台は、大きく分ければ、密林の田舎町サンタ・マリーア・デ・ニエバと、砂漠の町ピウラのふたつ。(詳細にいえば、より東側の町イキートスや、ニエバから密林を分け入っていくサンティアーゴや「フシーアの島」、ウラクサといったインディオたちの集落がある)

その中でも、やはりピウラでの物語がもっとも印象深く、愛着が湧いて面白かった。ピウラのなかでも周縁部にあるスラム地区マンガチェリーアの下町人情あふれる人々の描写はグッときたし、ひとつの町の年代記として、『百年の孤独』や『丁子と肉桂のガブリエラ』にも少しだけ近い読み味の魅力があった。ピウラでのエピソードだけを纏めていたら、もっと好きだったと思う。

 

 

いうほど〈緑の家〉は出てこなかった。〈緑の家〉を主要な舞台にするというよりも、それを昔あったらしい伝説的な存在として、物語の土台に敷いている。〈緑の家〉を知っている層と知らない層がいて、そういう人々が交流していく様子を描くことで、ピウラの町に流れた時間の厚みを演出していた。

サンタ・マリーア・デ・ニエバ編では、ボルハ守備隊や治安警備隊といった、軍隊的な男たちのホモソーシャルな空間のパートがキツかった。これは前作『街と犬たち』でも感じたことなので、おそらく私はリョサのこうした側面が苦手なのだろう。インディオの集落を襲撃して略奪・誘拐を繰り返すくだりも……。

伝道所のシスターたちを交えて、「未開」の部族であるインディオたちを町に連れてきて文明化させてあげるほうがいいのか否か、という植民地主義的なテーマもいっしゅん浮上していた気がするが、最終的にどう処理されたのか、単に物語の1パーツで終わっていたようで納得いかない。

ホモソ描写とも地続きだが、なにより、「女好き」な男たちによる女性蔑視/差別的な言動がいたるところで繰り広げられるのをひらすら読まされたのがしんどかった。DV・モラハラ・性暴力・援助交際ロリコン児童虐待・グルーミング……クズ男の博覧会といった様相を呈していた。クズ男が好きなひとにはオススメの小説です。

もちろん、『街と犬たち』同様に、これらは男権社会のおぞましさと愚かしさを誤魔化さずに丹念に描き出そうとした結果であり、フェミニズム的にむしろポジティブなものではあるのだろう。

が、にしてもキツいし、しかも最終的にはそんなクズ男たち──少女を誘拐して孕ませて死なせたドン・アンセルモや、DV男のリトゥーマなど──も、なんやかんやみんな必死に生きてきて、無駄じゃなかったね、えらかったね、エモかったね、的な "赦された" トーンで絞められているように感じて、えぇ……と引いてしまった。(フシーアの最後は気の毒だが自業自得としか思えない)

まともな男は、船頭ニエベスと、ドン・アキリーノおじさんくらいか。この2人はマジで聖人だった。ニエベスの末路が可哀想というか気になる。

最推しは楽士エル・ホーベン・アレハンドロという中二病おじさん。『ガールズ&パンツァー』のミカさん的な、かっこつけて深そうなことをぼそっといいたがる、愛すべきキャラ。

弦楽器弾きなのもエル・ホーベンと共通している

 

女性陣は……主人公格のボニファシアをはじめ、ラリータ、ラ・チュンガ・チュンギータ、アンヘリカ・メルセーデス、アントニア、フアナ・バウラ、シスター・アンヘリカなどなど、印象深いキャラはたくさんいるものの、男性陣に比べると目立っていなかったというか、男たちに人生を翻弄されている人が多くて痛ましかった。ボニファシアとアントニアは特に。

そんななかでも、ラリータは計3人の男の「妻」として渡り歩いて、力強く生き抜いていて良かったし、ラ・チュンガやメルセーデスは頼れる「姐御」的な存在としてピウラで切り盛りしているのが眩しかった。

 

もっとも印象深い場面は、〈緑の家〉が焼け落ちるくだり(Ⅲ部1章C)。あそこは、いわゆる典型的な "カーニバル" 描写で好き。(そういえば、フシーアたちが「島」を開拓するために密林を燃やす場面も似た魅力があった。これら2シーンはおそらく構造的に響き合うように位置付けられているのだろうと今気付いた。)

ボニファシアの結婚式でシスター・アンヘリカと抱き合うシーン(Ⅳ部1章A)は直球に感動的で泣けた。ツンデレシスター。

Ⅳ部Cパートの、アンセルモがアントニアに恋焦がれる二人称の怒涛のロリコンおじさん語りはなかなか迫力があった。意識の流れっぽくなっていて、客観的に最も「文学的」なのはこのパートだと思う。ペルー版『ロリータ』。キモすぎるが。

 

感想メモ

Ⅰ部

0章(と便宜上、呼称)

文章がかなり特殊ですげぇ読みづらい!
改行がなく、「 」も使わず、三人称の地の文と発話が混在しており、さらに
"Aは〜〜と言った"
の "と言った" が省略されることが多い。
一文一文はきわめて短く平易だが、文章総体としては、誰が何をしているのか、状況の把握と整理が難しい。
しかも最初から登場人物がかなり多い。10人近く出てくる。『街と犬たち』の冒頭も大人数が集まるシーンからだったな。
『響きと怒り』の第1章や、『JR』の特殊な語りをマイルドにした感じ。老婆などいろんな人々がうわごとを言っている雰囲気はドノソ『夜のみだらな鳥』っぽさもある。
おそらく、初っ端でかまそうとしているだけであって、ずっとこれが続くわけではないと信じたい。。

軍曹率いる治安警備隊が、チカイスという集落のアグアルナ族からふたりの少女を拉致してきた?
2人のシスターが交渉役

 

1章

A
文章が普通になった! よかった〜〜
エバ川とマラニョン川の合流地点にある町サンタ・マリーア・デ・ニエバ。その丘の上にある尼僧院から、生徒たちが密林へ逃げ出した。管理人ボニファシアが果樹園の鍵を開けて彼女らを逃したという。『街と犬たち』が士官学校から男子生徒たちが街へ抜け出す話だったが、今度は女子生徒が密林へ抜け出すのか。
前章から、ふたりのシスター(アンヘリカ&パトロシニオ)は続投。

 

B
空行を置いて場面が移る。
ブラジルから脱獄してきた「日本人」(日系人?)フシーアと、アキリーノ「じいさん」がふたりマラニョン川を下る。
脱獄時の回想と現在時制がシームレスに切り替わる。これくらいなら全然混乱はしない。
p.50 「フリオ・レアテギ」は重要人物そう

 

C
再び移る。
砂漠の只中にある町ピウラのあらましを、三人称の語り手が語る。

こうした恩知らずな人間たちが夜の楽しみと女を求めるのを見かねたのか、ついに天が(ガルシーア神父に言わせると、「悪魔、いまわしいペテン師」が)彼らに喜びをもたらすことになった。かくして、騒々しい歓楽の不夜城〈緑の家〉が誕生した。 p.56

唐突にタイトル回収
サンタ・マリーアじゃなくてピウラにあるんだ

 

D
ロベルト・デルガド伍長は故郷のバグアに帰るため上司のアルテミオ・キローガ大尉から3週間の外出許可証をもらう。
p.60 船頭アドリアンニエベス! こいつが別々の場面を繋ぐ文字通りのキーマンか

 

E
1章ラストは、ガルシーア神父p.62 とかマンガチェリーアp.65 とか出てきているので、たぶんピウラの町の場面。
町の「番長」ホセフィノ・ローハスは、同じく番長として因縁のあるリトゥーマが首都リマから帰郷してきたことを、レオン兄弟(エル・モノ&ホセ)から伝えられる。
リトゥーマは再会の飲みの場を〈緑の家〉にしようと告げる。
〈緑の家〉はラ・チュンガ・チュンギータの店なのね
p.64 ホセフィノとリトゥーマの因縁、「あの女」とかいってるし十中八九〈緑の家〉関連だろ

 

1章おわり!
えーと、場面にして5つのパート(便宜的にA〜Eと命名)が羅列された。それぞれのパートで出てきた人物名や地名を忘れずにいて、場面同士のつながりを見つけていかなければならないっぽい。パズルだ……
これ以上増えなければいけるだろうけど、増えそうだな〜 計5場面を章ごとに定点観測して最後に収束するんだったら分かりやすいのに。

 

2章

A
尼僧院長とシスター・アンヘリカが、生徒たちを逃したボニファシアを詰問・説教する。1章Aパート続きだ! ボニファシアは孤児として尼僧院に拾われて育てられ、使用人的なことをしている。
p.75 昨日連れられてきた2人のアグアルナ族の子たちも一緒に逃げたんだ。
この尼僧院の普段のスケジュールや内部構造などが解説される。

生徒は二十人ほどいるが、すべて六歳から十五歳までのアグアルナ族の少女たちである。 p.78

え〜そうなの!? 尼僧院はアグアルナ族から少女を連れ去ってきて成り立っているということ? 序章では部族の大人たち同意してなかったように思えたが、実はまっとうな教育機関に預けるみたいに許容しているのかな

 

B
引き続きマラニョン川下りをしながらフシーアとアキリーノじいさんが会話する。
フシーアは昔、ブラジル・アマゾン近くの街イキートスにいた頃に、フリオ・レアテギの部下をやっていて、裏切って金を持ち逃げした?
フリオ・レアテギはホテル経営や密売などで稼いだ大金持ちらしいが、マフィアなのかなぁ
レアテギに媚びへつらっているドン・ファビオは、サンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官? フシーアとの会話ではイキートスのホテルマンみたいな挙動をしているが。そしてフシーアはホテルから逃げ出す際にムカついた猫の首を絞めて宙吊りにしていたらしい。サイコパス

フシーアの回想に合わせて、別の時間軸の語りが入ってくる。まとめると、

①フシーアとアキリーノの会話(現在)
②ドン・ファビオとフリア・レアテギの会話(過去)
③フシーアとドン・ファビオの会話(大過去)

の3つが行を跨いで映画のジャンプカットのように切り替わっていく。
喋っている人物と、会話の相手の名前が時間軸を見分けるタグとして機能しているので、意外とすんなり理解できる。
どこで切り替わるかをページ上部に書き込みながら読むと、ちょっとペンシルパズルやってるみたくて楽しい。

「あんなものはくその役にも立ちゃあしない。地図を作った連中はこのアマゾン地方が片時もじっとしていない、燃える女みたいなものだってことが分かっていないんだ。ここでは、川も木も生き物もすべてその姿を変えてゆく。わしたちが住んでいるのは狂った大地なんだよ、フシーア。」 p.84

フシーアはアキリーノとモヨバンバで出会い、スカウトしたらしい。フシーアがレアテギの部下をやっていた時系列がよく分からん。

 

C
ピウラの町の叙事詩パート
謎多き若い男アンセルモがピウラに辿り着いて町に馴染むまで

おそらく長旅をしてきたのだろう、その動作は緩慢で疲れ切っているように見えた。 p.89

このように三人称の地の文は全知の語り手ではなく、民話調のように親しみ易くしている。

 

D
1章にはなかった新パートだ Dというか「F」?
フリオ・レアテギ含む4名のお偉いさんの会話
場所がサンタ・マリーア・デ・ニエバなのかイキートスなのか。どちらでもありそうな描写。また複数の時間軸が知らぬ間に入れ替わっているのかな。
計画を掻き回している「あの二人組」とはフシーア&アキリーノのこと?
あとサンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官って結局誰なんだ。ドン・ファビオじゃなくてドン・フリオ・レアテギ? もしドン・フリオとフリオ・レアテギが別人だったらもうお手上げ。
ラクサのアグアルナ族に関しては、1章Dで言及されていた。

まったくどうなっているんだ、連中はイキートスを人間だと思っているんだ、なんにも分かっちゃいないんだよ、ボニーノ。 p.100

いや他人事ではなく、自分もマジで誰が誰だか、人名と地名すらも混乱してきた。

イキートスというのはボスの名前じゃない。この川下にある町の名だ。マラニョン川を下って行くと、その町に行ける。 p.101

イキートスってマラニョン川の下流にあるの? マラニョン川の流れる方向が想定と反対かもしれない。分水嶺みたいに、内陸の途中で反対向きになるのかな。
このパート何も分からん! あとで読み直します!

 

E
ピウラの外れにあるスラム街マンガチェリーアへ、そこで生まれ育ったレオン兄弟に案内されてホセフィノとリトゥーマが再会し、4人で飲み交わす。
今回は特に切り替わりが無かったと思う。
p.105 故人ドミティーラ・ヤーラ婆さんはいかにもまた言及されそう
p.110 「ボニファシアのために乾杯!」!? EのリトゥーマたちとAの尼僧院が繋がるのか。ピウラとサンタ・マリーア・デ・ニエバでは場所もかなり離れているが…… そもそも時系列もわからん。毎章、サプライジングな絞め方をしてくる

 

3章

A
ボニファシアは、どうか伝道所から追い出さないでくれと尼僧院長に懇願する。彼女が、食料貯蔵庫に隠れていたチカイスの少女2人に揚げバナナをあげる回想場面がところどころに挿入される。
ボニファシアがアグアルナ族の言葉を話せるのマジだったんだ。元アグアルナ族出身とか?

 

B

 女性に関する罵倒語「すべた」って語源はポルトガル語スペイン語なんだ! じゃあ翻訳で使うのも理に適っていると。

フシーアは浸水の町ベレンにてフリオ・レアテギの部下として、ゴムをタバコと偽って密輸していたが、ラリータという娘と駆け落ちした。→マラニョン川にあるレアテギの土地ウチャマーラへ。

ラリータの母親はフシーアに騙されたことに驚き、弁護士に相談する。

「知り合った頃はまだ世間知らずの生娘だった」とフシーアは言った。「時々子供みたいに泣き出したな。こっちの虫の居所が悪い時はひっぱたいてやったが、そうでない時はよく飴を買ってやったもんだ。そうだな、娘と女房をいっしょにもらったような感じだったよ。」 p.124-125

基本的には

①フシーアとアキリーノの会話
②ラリータの母親とポルティーリョ弁護士の会話

が交互に切り替わる構成だが、最後のp.131-132で

③フリオ・レアテギとポルティーリョ弁護士の会話??

が挿入される。③の人物は自信ない。フシーアかも。

 

C
アンセルモの奇行にピウラの住人たちは興味津々。明け方に宿泊先の馬に乗って散歩したり、砂漠に土地を購入したり。
馬の散歩に遭遇したのは、ホセフィノの父であるカルロス・ローハス。Eに登場するホセフィノがまだ赤ん坊の頃らしいので、時系列は「C→2~30年→E」といったところか。Eのリトゥーマがアンセルモの子だったりして?
あと序章から「ランチ」という語が出てきていて、文脈上、いかだや小舟のようなものだと思われるが、検索しても不明

 

D
キローガ大尉率いるボルハ守備隊は、近くの部族の集落を襲撃しては男を攫ってきて収監し入隊させている?
1章D(p.56)の続きで、ロベルト・デルガド伍長が故郷バグアに行くために、新人船頭アドリアンニエベスとアグアルナ族の無口なポーターの3人でランチに乗って川上へ出発する。2日後ウラクサへ到着して、もぬけの殻の集落に夜営して金品を強奪。返り討ちにあいそう。大尉に持ち帰ると約束した蚊に刺され用の塗り薬は見当たらない。

 

E
ホセフィノとリトゥーマたち4人の呑み会は続く。ジャンプカットなし
リトゥーマはリマで、序章の〈クロ〉=カルデナス伍長と一緒にいた(軍隊?牢屋?)。リトゥーマはピウラで革命関係のある事件を起こして町を去ったらしい。《革命連合》、サンチェス・セーロ将軍?⇔敵対関係にある「アプリスタ」派閥

「彼女は娼婦になったんだ」とホセフィノが言った。「今、〈緑の家〉で働いている。」 p.150

ボニファシアはリトゥーマの元恋人だったのか? 少なくとも想いを寄せてはいたっぽい。Aで尼僧院を追放されてピウラに行き着いてリトゥーマたちと知り合い、リトゥーマがリマへ去ったあとに〈緑の家〉に入ったのかなぁ。てか、〈緑の家〉がまだ噂に上るだけでしっかり登場してない。早く見せてくれ。『桐島、部活辞めるってよ。』パターンはやめてくれよ

 

4章

A
ボニファシアが2人のインディオの少女を気の毒に思って扉から逃がそうとしていたところに、他の生徒たちもやってきて一緒に脱走しちゃったわけね。

幼児のボニファシアがウラクサからサンタ・マリーア・デ・ニエバに連れてこられたときに、一緒に連行されてきたインディオの男は、伝道所に数か月滞在したのち、「罪を犯した」(たぶん姦通)ことで髪を切られて木に吊るされた。ボニファシアはその男を自分の父親ではないかと疑っている。その男から「悪魔」が自分に乗り移ったのではないかと信じている。インディオにとって "髪を切られる" ことがどれほど屈辱的なことなのか。それで、シラミを取るためにシスターが少女たちの髪を切る前に、ボニファシアは彼女たちを逃がしてあげたくなった、と。

「急にひとりの子がわたしのほうに近づいて来ました」とボニファシアは言った。「近寄ってきたのは小さいほうの子だったのですが、わたしを抱きしめに来たと思っていましたら、その小さな指でわたしの髪の毛についているシラミを探しはじめたのです。そばに来たのはそのためだったのです、院長様。」
「どうしてあの子たちを寝室に連れ戻さなかったのです?」と尼僧院長は尋ねた。
「きっとあの子たち、嬉しかったんですわ。わたしが食べものをもって行って上げたので、お礼のつもりでそうしてくれたんです」とボニファシアは続けた。「ですが、シラミが見つからなかったものですから、それは悲しそうな顔をしました。その顔を見てわたしは、ああ、シラミがいればいいのに、どうか一匹でもいいから見つかりますようにと心の中で祈りました。」 p.162

ほっこり

 

B
フシーアとラリータは結婚してたのか? 「奥さん」「女房」とは「情婦」の単なる言い換え? 当時のラリータ15歳かよ そんな少女にすっかりご執心のフリオ・レアテギは完全に援助交際パパ活おじさんと化している。
国外逃亡するためにフシーアは、フリオのもとにラリータを置いていこうとしたが、彼女はフシーアを追いかけてきた。フシーアはエクアドルに逃げる予定だったが結局ペルー国内から出られなかった。

 


〈緑の家〉ができるまで/できてから

ようやくだよ! なるほど、前章Cでアンセルモが砂漠の土地を買ったのは、〈緑の家〉を建てるためか。

ピウラの町では、最初の〈緑の家〉、母胎ともいえるあの建物についていろいろと取沙汰された。だが、今ではそれがどんな建物だったのか、あの家にまつわるほんとうの歴史がどのようなものだったのかを正確に知っている人はいない。当時のことを覚えている人はほとんどいないし、たとえいたとしても筋の通らない矛盾した話をした上に、自分が実際に見聞きしたことと頭の中ででっち上げたことをごっちゃにしてしまうのだ。 p.177

「あの音楽が聞こえてくると、男たちの顔つきが変わったものですよ」とヴェールをかけた信心深い老女たちが言った。「あの音楽が男たちを家庭から引き離したのです。あれが聞こえてくると、男たちは街路へ、ビエホ・プエンテ橋のほうへ引き寄せられて行きました。」 p.179

「〈緑の家〉が町に不幸をもたらしたというのは、たぶん本当だろうね」と老人たちは唇を舐めながら言った。「しかし、あの店ではみんなさんざんいい思いをしたからな。」 p.179

〈緑の家〉ができて以降、ピウラの町は水害・干害・虫害などに襲われた。が、外の町からも〈緑の家〉へ客が来るようになり、町はよそ者でひしめくようになった。

一年目は、女が四人しかいなかった。しかし、二年目に入ってその女たちがやめて行くと、ドン・アンセルモはよその土地から八人の女を連れて来た。言い伝えによると、最盛期の〈緑の家〉には二十人ばかりの女が働いていたと言われる。女たちは町はずれにある道を通ってあの建物に向かって行った。ビエホ・プエンテ橋の上に立つと、〈緑の家〉に向かって行く女の姿が見え、彼女たちの金切り声や呪詛の言葉が聞こえてきた。 p.183-184

〈緑の家〉を利用したり軽蔑したりする周りの人びとの描写は多いが、そこで実際に働く女性たちの情報はここくらいしかない。

ドン・アンセルモの経営する〈緑の家〉は繫盛するにつれて縦横に伸び広がって行った。あの建物はまるで生き物のように膨張し、成長しはじめた。 p.184

全盛期の〈緑の家〉には、大勢の女たちのほかにマンガチェリーア生まれの若い娘アンヘリカ・メルセーデスが住み込んでいた。彼女は母親からさまざまなソースに関する知識やその作り方を教えこまれていた。 p.186

Eパートでは「アンヘリカ・メルセーデスの店」を立派に切り盛りしているアンヘリカの少女期か。

 

D
案の定、アグアルナ族にデルガド伍長たちは襲われる。なんとか船頭アドリアンニエベスだけは川を下って逃げ、マラニョン川からも外れて彷徨った挙句に、フシーアとラリータが暮らす島に辿り着く。巻頭の地図に「フシーアの島」があったからな。
これでBとDが合流した! この第Ⅰ部でA~Eがだいたいまとまるってことか。第Ⅱ部はまた違うバラバラのパートになるのかなぁ
ニエベス、船頭をやってるときにボルハ守備隊に捕まって兵隊にさせられていたのか。
そういや確かに、Bのフシーアとアキリーノの会話でニエベスの名前出てきてたな

 

E
ボニファシアが〈緑の家〉で働いていると知ってショックで傷心のリトゥーマ。意外と繊細だ。

リトゥーマはリマで刑務所にいたのね。政治的な行動で逮捕されたのか。ホセフィノたちも一緒にいたからピウラから一旦離れて潜伏していたと。
ボニファシアも、ホセフィノやリトゥーマたちの仲間の一員だったようだ。事件のときは身重だったが無事に産んではいないらしい。

ホセとエル・モノとリトゥーマの3人が幼馴染で、ホセフィノだけ違うのか

p.198 リトゥーマは「治安警備隊」に入った? 0章の治安警備隊と同じ? いつの事?
3人の反対を振り切ってリトゥーマは〈緑の家〉へ行く……ところで第Ⅰ部おわり!

 

Ⅰ部まとめ

第Ⅰ部の全4章は、それぞれA~Eの5つの節(パート)に分かれていた。

A:サンタ・マリーア・デ・ニエバの伝道所から少女たちをボニファシアが逃がしてしまった話
Bマラニョン川を下りながら、フシーアがアキリーノに語る身の上話
C:砂漠の町ピウラに謎多き男アンセルモがやってきて〈緑の家〉を大繁盛させるまでの年代記
D:ボルハ守備隊のロベルト・デルガド伍長に連れられて船頭アドリアンニエベスらがウラクサ方面へ行く話
E:リマの刑務所から釈放されたリトゥーマがピウラに凱旋して仲間のホセフィノらと再会する話

ただし第2章のDに相当する節(F)だけは、Dとはかなり異なる、フリオ・レアテギ達の会話だった。

また、第1章の前の、第0章に当たるパートは、2人のシスターと「治安警備隊」がアグアルナ族から2人の少女を拉致して、Aの伝道所へ連れていく場面が描かれていた。

 

現時点での各パートの関係を整理すると、

・C→E/0→A→E
まずCとEは、いずれもピウラを舞台としており、C→Eの順で推定2, 30年ほどの隔たりがある。Eでは立派な大人(若者?)のホセフィノが、3章のCではまだ赤ん坊であり、Eでは存在して久しい〈緑の家〉が建つまでの過程をCでは描いているため。ホセフィノの年齢が分かれば、CとEの年代差も特定できる。

また、Eで〈緑の家〉の娼婦となっているらしいボニファシアは、Aの中心人物である。しかし、ピウラとサンタ・マリーア・デ・ニエバと、舞台がかなり離れている。おそらく、Aで伝道所を追い出されたボニファシアがピウラに辿り着いてリトゥーマ達と知り合って、彼らの逮捕後に娼婦になったのだとすれば、A→Eの時系列である。Aにて、ボニファシアが幼児の頃に伝道所に引き取られて育てられたと語られるため、E→Aの可能性は低い。A時点でのボニファシアの年齢が知りたい。

さらに、第0章で攫ったアグアルナ族の少女ふたりが、Aで伝道所に来ていたので、0→A。

0章とE-5章で「治安警備隊」の言及があるが、関連性は不明。

中心人物はボニファシア、ホセフィノ、リトゥーマ、アンセルモ

 

・(0→)D→B/F↔B
BとDは、第4章Dの最後にて繋がった。Dの船頭ニエベスが命からがら行き着いたのが、第4章Bの最後で語られる、フシーアとラリータが逃避行して築いた「島」である。

また、Bにてフシーアのかつての仕事仲間・上司であったフリオ・レアテギは、第3章のFの中心人物であり、ここの会話中で言及される「例の2人組」とはBのフシーア&アキリーノかもしれない。Fの時系列は不明なので、Bとの順序も分からない。

0章の治安警備隊にも船頭ニエベスはいる。これがDのボルハ守備隊とは別物なのか微妙。しかも1章Dにてニエベスは「新兵」としてすぐに伍長との旅に出発していたため、その前に0章の拉致作戦に参加していたのか分からない。

中心人物はニエベス、フシーア、フリオ・レアテギ

大きく分類すると以上の2つのまとまりになる。これら2グループが、第Ⅱ部以降でさらに繋がり、1つの大きな流れになっていくいくことに期待。

 

このように、とにかく構成にめちゃくちゃ凝っている小説なので、正直あんまり小説を読んでいる感じはしない。ペンシルパズル的な面白さ。

それと、章ごとに順番に読んでいくよりも、パートごとに、まずAを1~5章続けて読んで……というほうが読みやすく面白そうではある。でも、そうだと分かるためにはまず第Ⅰ部を通読しないといけない、という罠。

パート別にいうと、Aが今のところいちばん面白いかな~ ボニファシアが伝道所から逃がしちゃった少女たちの行方が気になる。そのボニファシアがEで娼婦となって登場するのも興味を惹かれる。ピウラという町の歴史が地の文のみで語られるCも好き。つまり、↑の分類のひとつ目のほうが現時点では好き。ふたつ目の、フシーアやニエベスのほうは、軍隊とか襲撃とか密輸とか裏切りとか、なんか怖いし…… こちらのヒロインのラリータに期待はしている。

 

Ⅱ部

3章までしかない! 1章減ってる

0章

フリオ・レアテギがサンタ・マリーア・デ・ニエバに到着して、行政官ファビオ・クエスタ(I-2Bのドン・ファビオp.81)や、I-Fの3人(マヌエル・アギラ、ペドロ・エスカビーノ、アレバロ・ベンサス)と会い、伝道所を訪ねる。

第I部2章Bに出てきた「ドン・ファビオ」=ファビオ・クエスタはやっぱりイキートスのホテルマンから、ニエバに移って行政官になったのね。フリオ・レアテギの斡旋で。
フリオ・レアテギもお世話になったシスター・アスンシオンが亡くなった。レアテギ以前はニエバにいたんだ。

フリオの妻が伝道所に礼拝堂を作った?
フリオ・レアテギ夫妻と弁護士ポルティーリョ夫妻それぞれの子守りをしてもらうために、伝道所の生徒ふたりをイキートスへ連れて行こうとしている。建前上は、ここは女中の職業紹介所ではないのです、という尼僧院長に、内心で憤るフリオ。ゴマをするファビオ。

ボルハ守備隊も治安警備隊も名前が出ている。別組織だがどちらもニエバにいるらしい。

ここでフリオ・レアテギに引き取られる予定だったのがボニファシアか! でも彼女は嫌がって、伝道所に残ることになった…… ウラクサから来て4年か。10歳弱とかそのくらい? それで、他の生徒は学業を終えてどこかに引き取られていく中、ボニファシアだけは伝道所に留まりたくて使用人ポジションで働いていたところに、あの逃走補助事件を起こして追放されてピウラに流れ着いたってかんじか。

I-Aより前の時系列だ。でもこれで、ボニファシアとフリオ・レアテギが面識あったことが判明して、第I部の2つの物語グループが早速繋がった。

ラクサからボニファシアが連行された時にフリオ・レアテギは絡んでいるってことかな、当時の彼女を見ているのだから。

 

1章

A
軍曹と治安警備隊と船頭ニエベス……I-0章の面子だ!
I-Aで伝道所から脱走した少女たちを連れ戻すために密林を探し回っている。そりゃ大変だ
そもそもインディオの子供たちをニエバに連れてきて伝道所にぶち込んで教育・キリスト教化・文明化するべきかについて議論を交わす治安警備隊と軍曹たち。
えっ!? 船頭ニエベスのところにラリータと、伝道所を追放されたボニファシアがいる!?
船頭ニエベスは、I-5Dでフシーア&ラリータの島に辿り着いてから、ニエバで治安警備隊に入っているのか。I-Dのボルハ守備隊→フシーアの島→II-Aのニエバ治安警備隊、という遍歴。

 

B
引き続きフシーアとアキリーノの川下り中の会話。イキートスの対岸の都市サン・パブロに向かってるの? 逆方向だと思ってた
p.242 島に残してきたパンターチャってフシーアとラリータの子供?
クロスカッティング演出で、行政官ドン・ファビオ・クエスタとポルティーリョ弁護士の会話。2人はフリオ・レアテギに向けて喋りかけているようだが、フリオは一度も台詞がないので本当にその場にいるのか怪しい。ポルティーリョ弁護士と同一人物の可能性ある? 2人はインディオと白人のゴム商人からゴムを盗む盗賊の話題で持ちきり。フシーアが「島」でお世話になったウアンビサ族が盗賊にいるらしいが、フシーアたちが盗賊なのかなぁ

 

C
ピウラでの出来事だが、I部と連続的ではなく、時系列が分からない
町の名士である農場主のキローガ夫妻(ドン・ロベルトとドーニャ・ルシーア)は捨て子の女児アントニアを養子にするつもりだった。しかし引き取る前にキローガ夫妻は強盗に殺されてしまった。アントニアだけは奇跡的に一命を取り留め、町のみんなに哀れまれ可愛がられて育った。

……えーとまず、キローガ夫妻とはI部D p.56に出てきたアルテミオ・キローガ大尉とは別人? ドン・ロベルトはロベルト・デルガド伍長とは無関係? アントニアってこれまでに出てきてないよな?

 

D
言うてたらキローガ大尉とデルガド伍長が登場したw フリオ・レアテギもいるじゃん
彼ら3人が11人の軍隊を率いて、ウラクサのアグアルナ族を騙して襲撃。部族のリーダーはフム。既にどこかで登場していた覚え……
フリオってニエバの行政官なのか。のちにファビオにその座を譲ったってこと? 大尉や伍長よりもフリオは立場が上らしい。ロリコン

 

E
リトゥーマやホセフィノたち4人は〈緑の家〉へ
まだ一応、アンセルモは目と足を悪くしているが相変わらずハープを弾いている。「ハープ弾きのおやじさん」として親しまれている。

「ひとりは娼婦で、もうひとりは乳牛か」とリトゥーマが呟いた。「よほど女を見る目がないんだな、おれは。」 p.255

ボニファシアだけじゃなくてリーラという女性も好きだったのかリトゥーマは。

それがラ・チュンガの店で、そこもやはり〈緑の家〉と呼ばれていた。 p.256

まるで〈緑の家〉が複数あるような言い方

 

リトゥーマはリマで服役してたんじゃなくて、サンタ・マリーア・デ・ニエバで軍隊に入らされていた? 店主ラ・チュンガが「軍曹」と呼んでるし…… まさかI部0章とかの軍曹ってリトゥーマだったのか?

ホセフィノやリトゥーマは店主から出禁くらっている。何をやらかしたんだ
「ラ・セルバティカ」ってボニファシアのこと?

 

2章

A
1章Aで誘った通り、サンタ・マリーア・デ・ニエバにて「軍曹」(=多分リトゥーマ)が船頭アドリアンニエベスの密林の家に招待されている。家の中にはラリータがいる。

「アキリーノというのは、いちばん上の子だね?」と軍曹が尋ねた。 p.264

えっ!? ラリータとフシーアの子? ニエベスの子? いずれにせよ、アキリーノってフシーアよりも年長じゃなかったのか
おそらく同名の人物がいる。『響きと怒り』だ
ニエベスとラリータが夫婦っぽいなぁ……

ボニファシアまで引き取られてる! 1-Aで言ってた通りだ。フシーアの存在が謎。アキリーノより年下なら、まだ生まれてないのか。じゃあI部5-Dあたりでニエベスが川を流されて「フシーアの島」に辿り着いたのはなんだったんだ。そもそもラリータをここに連れてきたのはフシーアじゃなかったか。

フシーアかニエベスかラリータが2人いる? 時間が歪んでいる?
そういうことか〜 軍曹=リトゥーマの経歴が分かってきた。ピウラのマンガチェリーア地区で生まれ育ち、治安警備隊に入隊してリーラといい感じになっていたが、サンタ・マリーア・デ・ニエバに異動になったことで破局。ニエバでは軍曹として働き、ここで船頭ニエベスとその妻ラリータの紹介のもとボニファシアと知り合い、ピウラに戻るときに一緒に連れて行く。しかしピウラで何らかの事件を起こしてリマに投獄され、何年後かに帰郷した時にはボニファシアは娼婦に、リーラは他所の男の妻になっていた、と……。

伝道所の生徒たちは密林で無事に発見されたようでよかった……かな。例の新入り2人だけ行方不明

この時点で推測するに、アキリーノが2人いるんかなぁ…… てか、ラリータはフシーアの妻だったはずだよね。p.192-3参照

2人の元に船頭ニエベスが辿り着いて身を寄せたあと、フシーアが何らかの形で死ぬかいなくなって、ラリータがニエベスと再婚したのかなぁ。ニエベスがフシーアから妻を寝取ったかたちだもんな。そして、フシーアがお世話になったアキリーノじいさんにちなんで子供の名前を付けた……とすれば辻褄は合うか。すると少年アキリーノはニエベスの子ではなくフシーアの子なのか?
ここにきて、これまでのBパートのフシーアとアキリーノじいさんの会話を見返す必要が出てきた……

 

B
とか言ってたら早速、フシーアとアキリーノじいさんが船頭ニエベスについて語っている! 読者を大いに混乱させて疑問を持たせてすぐに、それについて別視点から説明を与えてくれる、ユーザーフレンドリーなんだか意地悪なのか分からない巧い構成。
なるほどね。要するに、不能で最低の不倫モラハラ暴力夫であるフシーアから離れるために、ラリータはニエベスに夜這いして2人で「島」から駆け落ちしたのか〜。

ニエベスはめちゃくちゃいい奴だし、アキリーノじいさんもいい人すぎる。それに比べてフシーアは…… 身体が病気で蝕まれて脚も動かさなかったと嘆息するが、天罰としか思えない。

「食えない女だよ、あいつは。昔は若かったし、顔に吹き出物もなかったが、おれはわざと結婚してやらなかったんだ。いずれ自分の魅力が衰えた頃に結婚してもらえると踏んでいたのさ。」 p.283-284

フシーア夫妻とウアンビサ族で構成される島に、アグアルナ族のリーダーだったフムも連行されてきたのか。パンターチャも別部族の男か。女かと思った。

 

C
中老年女性と女児の組み合わせ好き(石牟礼道子『椿の海の記』とか) 洗濯女フアナ・バウラと盲目の孤児アントニア。
町のみんなで子供を見守って育てるかんじ良いなぁ。

少女がおとなしくじっとしている日は、洗濯女は軽い足取りで家にとって返し、ロバの手綱を解くと、洗濯物を集めて川に向かう。アントニアが不安そうに彼女の手を握って離さない時は、彼女も横にかけてやさしく慰めてやる。アントニアが行っていいと言うまで、彼女は何度も何度も手で尋ねた。 p.291

アントニア無事でいてくれ〜 これまでの傾向だと、このあと別のパートでアントニアが言及されるはず。

 

D
あ〜II部1章Dでの治安警備隊のウラクサ襲撃は、第I部4章Dでデルガド伍長とポーターがアグアルナ族から袋叩きにされた報復か。伍長殺されてなかったのね。
デルガド伍長もなかなか悪くて、自分が略奪しようとして反撃されたのに被害者面している。船頭ニエベスインディオたちに殺されたのだと主張。
フリオ・レアテギは相変わらずロリコンだなぁ。このインディオの少女はボニファシアかな。流石にアントニアではないか。赤ん坊の状態でピウラの名士夫妻に発見されてるし。

族長フムは、ここで生き残ってどのようにフシーアの島に流れ着くのだろう。
イラクサのアグアルナ族はここ10年間ペドロ・エスカビーノとゴム・革の取り引きをしていたが、突然もうエスカビーノに採集物を渡さず、自分たちでイキートスで売ると言い出す。そりゃあ伍長やフリオ・レアテギらは怒るだろうが、そもそもインディオから搾取し続けていたのはお前らだからなぁ。

ボニファシアとニエベスの境遇を中心に整理すれば、パート間のおよその時系列は見えてくる。このDパートが現在時としてはいちばん過去なんじゃないか?

I部Bフシーアが回想するラリータとの出会いと「島」に辿り着く過程
→II部1,2-D伍長がウラクサ略奪の返り討ちにあい、船頭ニエベスはフシーアの島へ
→II部2-Bで回想されたラリータとニエベスの駆け落ち(サンタ・マリーア・デ・ニエバへ)
→第I部A伝道所からボニファシアが生徒を逃して退所
→II部1-Aニエベス&ラリータ夫妻がボニファシアを引き取る
→II部2-A軍曹リトゥーマがニエベス夫妻の家に招待され、ボニファシアと知り合って共にピウラへ
→Eリトゥーマは事件を起こしてリマへ収監され、ボニファシアは〈緑の家〉の娼婦に
→Eリトゥーマが帰郷

まだまだ書き足りない筋がたくさんある

 

E
ラ・セルバティカ=ボニファシア?はホセフィノに連れられてリトゥーマと再会して、フロアで踊る。リトゥーマは、なんとか自分がショックを受けていないふりをするのに必死。そんな様子をホセフィノや店主ラ・チュンガ・チュンギータは複雑なまなざしで見つめる。

 

3章

A
リトゥーマ軍曹が、家を空けるニエベス&ラリータ夫妻に頼まれてボニファシアに会いに行き、強姦して処女を奪う。まったくどいつもこいつも……
ランチって住居兼用の船のことか?

B
ボニファシアもフシーアの島にいたことあるの!? シャプラ族とウアンビサ族が抗争した時に、シャプラ族でボニファシアだけは殺されずにフシーアとウアンビサ族に島へ連れてこられた。当時12歳。意外と大きい! もっと幼児かと。
じゃあ船頭ニエベスやラリータとは、その時からの付き合いだってことね。でも、そのあとニエベスとラリータが駆け落ちした際には、ボニファシアは島に残された。そのあとボニファシアはどういう顛末でサンタ・マリーア・デ・ニエバの伝道所に引き取られたんだ? ひたすらに翻弄される気の毒で壮絶な人生すぎる。伝道所に引き取られたのが何歳のときなんだろう。

じゃあII部2-Dのウラクサの少女はボニファシアではない? そもそもアグアルナ族ではないものな。
フシーアが協力して島で一緒に住んでいるウアンビサ族は、インディオのなかでも誇り高く好戦的な部族らしい。

町から密林に逃げて死にかけていた白人のパンターチャを拾って島に連れてきたのはアキリーノじいさん。パンターチャは麻薬中毒ですっかり頭がやられている。だから疎まれているのか。しかし彼はフシーアが病に侵され寝たきりになった時に寄り添ってくれた。

 

C
短い
行方不明だったアントニアは、アンセルモが〈緑の家〉に匿っていた!? のに、彼女は死んでしまったと洗濯女フアナ・バウラに慟哭して謝罪するアンセルモ。どういうことだ…… よく分からないけど、この小説には基本的にクズな男しか出てこないのか。船頭ニエベスとアキリーノじいさんだけが良心

 

D
襲撃したウラクサで、アグアルナ族の男たちを鞭打ちし、女たちを輪姦する治安警備隊の男たち。(行政官フリオ・レアテギ、キローガ大尉、デルガド伍長)
捕虜のインディオ女性たちをレイプしようと上司に願い出る、顔のない男たちの描写がホモソーシャルをうまく表現していてうげぇっとなる。

そう言えば、ご婦人方のことをすっかり忘れていたな、大尉、とフリオ・レアテギが言う。兵隊たちは急に立ち上がると、何も言わずに行政官のほうへ進み出る。口元が引き締まり、据わった目がぎらぎら光っている。しかし、こういうことは行政官のお心ひとつですからね、ドン・フリオ。決めていただければ、わたしのほうは言われた通りにします。フリオ・レアテギは兵隊ひとりひとりの顔をじっと穴のあくほど見つめる。兵隊たちの体がひとつに溶け合い、沢山の顔がいっせいに行政官のほうへ突き出される。 p.338

ここで平然を気取っているキローガ大尉も、このあと夜にこっそり捕虜の少女を犯そうとするという……。

こういう軍隊の男たちを、より滑稽に風刺したのが『パンタレオン大尉と女たち』か。
キローガ大尉に襲われかけてフリオ・レアテギに助け出された少女、やっぱりボニファシアなのか? 伝道所に連れて行くと言われてるし……。
シャプラ族→フシーアの島→フムに連れられアグアルナ族→治安警備隊の捕虜→伝道所→ニエベスの家→軍曹リトゥーマとピウラへ ってこと??

フムも鞭打たれる。フムの遍歴・時系列もよく分からん。フシーアの島からニエベスとラリータが駆け落ちしたあと、フムとボニファシアはウラクサのアグアルナ族で暮らしていたのか? だとすればいちおう辻褄が合うか……??

ラクサニエベスデルガド伍長が襲われて(I部4-D)から、治安警備隊が仕返しするまでに相当な期間が空いてないとおかしくなる。だって、ニエベスがフシーアの島に辿り着いて、シャプラ族からボニファシアがやってきて、ニエベスとラリータが駆け落ちして、フムとボニファシアがアグアルナ族に合流して……という一連の出来事があいだに挟まっていないとおかしいので。それとも密林の時間は変幻自在とかいうあれなのか。

足もとでは焚き火が死にかけた老犬のように喘いでいる。 p.340

比喩

 

E
リトゥーマが〈緑の家〉の外でホセフィノを半殺しにする。エル・モノやホセ、そしてラ・セルバティカ(=ボニファシア?)も加勢する。リトゥーマはホセフィノを殴ったかと思えばラ・セルバティカを蹴りもして、とにかく情緒不安定。
なんでボニファシアが娼婦になったことでリトゥーマはホセフィノを裏切り者扱いするんだ。逮捕前に「あいつを頼む」と約束でもしてたのか。それとも、娼婦になったことを服役中のリトゥーマにいち早く伝えなかったことに憤っているのか。
幼稚でヒステリックなクズ男の博覧会、といった様相を呈してきた。き、きつい・・・・・・
ラ・セルバティカとボニファシアが別人の可能性もまだあるか……?

 

Ⅱ部まとめ

第Ⅱ部おわり。
Ⅰ部から俄然、各パートが繋がって物語の全体像が浮かび上がり始めた。ただ、それゆえにさらに疑問も沸いた。

ボニファシアの遍歴がとにかく凄まじくて、ちゃんと整理したい。フシーア-ラリータ-ニエベスNTR不倫駆け落ち三角関係を成していた、というのがこの第Ⅱ部でわかったいちばん大きな情報だろう。また、サンタ・マリーア・デ・ニエバの「軍曹」がEのリトゥーマだったと分かったのもデカい。(でも単なる役職名だから、リトゥーマ以外の軍曹を指している場合もあるかもなんだよな……)

ニエベス&ラリータの仲介で、リトゥーマとボニファシアが出会ったのだということも。
ボニファシア→{フシーア-(ラリータ-ニエベス)}→リトゥーマ  という図式

フシーアの島からニエベス&ラリータが駆け落ちしたあと、①フシーアはどうしたのか、②ボニファシアはどうしたのか、③フムはどうしたのか、が知りたい。
Cの孤児アントニアは何だったのか、本当に死んでしまったのか気になる。

 

~ここから下巻

 

Ⅲ部

下巻は上巻よりも1.5倍くらい分厚い!! 本文450ページ

0章

サンタ・マリーア・デ・ニエバ駐屯地に、新たな中尉が赴任してきた。坊主のインディオ、フムが吊し上げられた話を聞く。ジャンプカットで過去と切り替わって行く。
→II部3-Dの続き。ウラクサのアグアルナ族、フムをボルハ守備隊が罰する。
意味不明だったI部2-D(F)パートのフリオ・レアテギ含む4人が揃っている!

I部4-Aで言及されていた、罪を犯したインディオが木に吊るされている場面だ! フムだったのね。じゃあ確かに、ここでの少女はボニファシアだ。「悪魔」ってこのことかぁ。

通訳って船頭ニエベスだったのかよ。まぁフシーアの島でウアンビサ族と住んでいたものな。
ニエベスも駐屯地に来て2ヶ月。

やっぱり、ボルハ守備隊と治安警備隊は別々のようだ。
デルガド伍長がいて、フムを吊し上げたのが前者。
現在時制で、新たな中尉が来たのが治安警備隊。
そして船頭ニエベスは、ボルハ守備隊→治安警備隊と両方を渡り歩いており、しかもボルハ守備隊から行方不明になった船頭が自分のことだと治安警備隊の連中にはバレていないっぽい。どんな顔して聞いてるんだ……

 

1章

A
II部Aの続き
伝道所の生徒たちは無事に保護されたらしい。
ニエベス夫妻の所にボニファシアが身を寄せていることに〈デブ〉が気付き、彼女を狙っていることをリトゥーマ軍曹に話す。軍曹はもうボニファシアに惚れており、「この任務が終わったら結婚しよう」と盛大なフラグを建築。他の男に彼女が見られるのも嫌がり、すでにモラハラ暴力夫の片鱗が出ている。

ボルハ守備隊のキローガ大尉と、治安警備隊の「中尉」がごっちゃになりがち。
フリオ・レアテギの命令?により、サンティアーゴのフシーアの島にいる盗賊たちを討伐しに行くことに。治安警備隊とボルハ守備隊の共同作戦。
これで盗賊=フシーア達、はほぼ確定。

その命令を聞いた船頭ニエベスは、理由をつけて断る。そりゃ、フシーア達にしろボルハ守備隊にしろ、以前一緒にいたんだから気まずいし面倒なことになるから避けたいよなぁ。
〈デブ〉は残るらしいが、それで軍曹が留守のうちに寝取られたりしない? 大丈夫?

 

B
II部よりも以前のフシーア達の話。というか、Bで初めて、過去回想の形式ではなく、当時の時制で語られるパートだ。
フリオ・レアテギから逃げ出したフシーアと、彼の後を追って付いてきたラリータが、エクアドルに行くことを諦めて、サンティアーゴ近くの密林の奥の「島」を開拓して定住するまで。鬱蒼とした密林の描写がなかなか良い。島の木を丸ごと焼き払うくだりも。
フシーアって、こうして島を開拓して住み始める前にも、取引相手のウアンビサ族と半年ほど暮らしたり、アキリーノじいさんと島に居たことがあるんだ。

 

C
あ〜やっぱりアントニア死んじゃったんだ。可哀想に。ガルシーア神父と町の女たちが葬列を成して狂騒的になっていく描写がとても好き。

〈緑の家〉が燃えはじめた。ゆるやかに渦をまいてピウラの空に立ち昇って行く灰色の煙の中に、鋭い刃を思わせる紫色の炎がのぞいていた。 p.55

アンセルモは料理人アンヘリカ・メルセーデスと子供をもうけたのか?
けっきょくアントニアは何故死んでしまったのか分からん。

あの店で働いている女、ガジナセーラの女、マンガチェリーアの住人、彼らは誰ひとりとして火に包まれ燃え落ちていく〈緑の家〉を見ようとはしなかった。またしても、いつものように砂の雨が降りはじめた。この地上につかの間姿を現した〈緑の家〉は、再び砂漠の砂に帰って行った。 p.59-59

これ時系列いつなんだ。このときまだアンセルモが盲目になっていないとすれば、Eで〈緑の家〉があるように、このあと再建されるのかな。

 

E
あれっ DじゃなくてEの続きだ! はじめて一つの章に5つではなく4つのパートが収められている。まぁ実質、0章がDだったからな……

すぐ前のCで語られた〈緑の家〉焼失時、ホセフィノは5歳だった。なるほど、そういう時系列か。〈緑の家〉はまた再建されたってことね。
火事の元凶かつ張本人であるアンセルモはホセフィノやラ・セルバティカ(ボニファシア)たちに、火事は無かったととぼける。もしかしてホセフィノたち若い世代は、アンセルモが〈緑の家〉の家を建てたこと自体を知らない?

ラ・セルバティカが知りたがっていた回想。ホセフィノとレオン兄弟がポーカーで買って気前よくラ・チュンガ・チュンギータの店で飲んでいたら、農夫セミナリオが絡んできて喧嘩になりかける。相手は拳銃を持っているのでやり過ごす。

 

2章

A
リトゥーマ軍曹が「島」へ遠征にいっているあいだに、結婚式用の衣装の布地を手に入れようと、ボニファシアはニエバ川でいかだ行商をしているアキリーノじいさんのところへ赴く。アキリーノはボニファシアを見て、かつて「島」にいたインディオの少女だと思い出す。

ふたりはラリータ&ニエベス夫妻の家に集まり、ボニファシアは無事に布地を貰う。
アキリーノじいさんと、ニエベス夫妻の子供アキリーノが初めて同時に出てきた。
アキリーノじいさんがサンタ・マリーア・デ・ニエバに来る途中に、島への遠征部隊(治安警備隊とボルハ守備隊)とすれ違ったらしい。何か不穏な様子。

 

B
島でフシーアとラリータ夫妻は、麻薬をやったパンターチャのうわ言を聞く。
物資を届けてくれるはずのアキリーノじいさんがなかなか来ないので、みんなで亀を捕まえにいく。
ラリータが妊娠し始めている。この子が少年アキリーノなのか、堕したりするのか。
この頃、フリオ・レアテギはサンタ・マリーア・デ・ニエバ行政官の座を退いて、イキートスへ行くようだ。
ラクサでのボルハ守備隊・デルガド伍長ら袋叩き事件があり、このあともうすぐ船頭ニエベスが島に流れ着く時系列。ボニファシアはまだ先か。

 

C
〈緑の家〉が焼失して、ドン・アンセルモはピウラの町の反対側の貧困地区マンガチェリーアに移り住んだ。殿上人から浮浪者・ハープ弾きへの転落。

ラ・チュンガ・チュンギータってアンセルモの娘だったんだ。前回の1-Cで燃え盛る〈緑の家〉からアンヘリカ・メルセーデスに助け出された赤ん坊がラ・チュンガか。やがて、アンヘリカを育てていたフアナ・バウラに引き取られることに。アンセルモを赦したのだろうか。亡くなったあの子の代わりだろうか。

ピウラの街区が開発されて急速に近代化していく様子。マンガチェリーアだけは掘立て小屋のまま変わらない。ノスタルジー

 

E
第3部はどの章も4パートで通すようだ。Dがいちばん興味なかったからなくなって有難い。

あ〜リトゥーマが刑務所送りになる事件って、この日に農場主セミナリオを銃殺でもするのかな。次章あたりでは語られるだろう。

いつの話かようやく分かった。
治安警備隊("ポリ")に入隊したリトゥーマ軍曹が、サンタ・マリーア・デ・ニエバで結婚したボニファシアを連れて故郷ピウラに赴任してきた頃の話を、あとから(リトゥーマ逮捕後に)回想しているんだ。
その頃ボニファシアは妊娠していた。(これが後に堕ろされる子か)

ホセフィノとレオン兄弟の3人がラ・チュンガ・チュンギータの店で飲んでいて、農場主セミナリオに絡まれかけていたところに、リトゥーマが部下を連れて見回りにやってくる。部下を帰したあとはホセフィノたち4人で楽しく飲んでいるが、再びセミナリオが絡み、リトゥーマをめちゃくちゃ煽る。一度頭を冷やすといってリトゥーマが外に出ている隙に、ホセフィノは親友の妻ボニファシアに手を出そうとしていると話す。ホモソだな〜。これで実際にこのあとリトゥーマが刑務所行きでいなくなって、ボニファシアは好き放題されたってことか。そりゃボコボコにされるわ。

「なんとかしてあの女と寝てみたいと思うんだが、自分でもその理由が分からないんだ」とホセフィノが言った。「どこといって魅力はないんだがな。」 p.116

そりゃあ親友リトゥーマがあれだけ惚れているところを見せられているからでしょう。欲望の模倣。

 

アンセルモの楽団仲間であるエル・ホーベンがめっちゃいい。ボソっとそれっぽい深そうなことを言うおじさんキャラ。

「美人とは言えませんが、丸ぼちゃのかわいい女ですよ」とボーラスが答えた。「ハイヒールを履くと、まだ様になりませんがね。」
「ですが、きれいな目をしてます」とエル・ホーベンが言った。「大きくて神秘的な緑色の目ですが、きっとお師匠さんがごらんになったら、気に入ると思いますよ。」
「緑色かね?」とハープ弾きが言った。「それはいい。」 p.109-110

ボニファシアってそんなに美人ではないのが共通認識なのか。そして緑色がとにかく好きなアンセルモ。

 

3章

A
ウアンビサ族の島に着いた中尉たち。しかしそこはもぬけのからで、もうだいぶ前に出て行ったらしかった。
治安警備隊のリトゥーマ軍曹と、ボルハ守備隊のデルガド軍曹(伍長から変わったんだ)。

治安警備隊が警察で、ボルハ守備隊が兵隊ね。ようやく違いがわかってきた。
おそらくパンターチャだと思われる男が、ギリ生き残っていた。薬草でうわ言を吐いて夢見ている。成果としてなんとか生かして連れて帰りたい中尉たち。
この新任中尉の名前が一切出ないのが怪しすぎる。既に出てきてる誰かかなぁ。

 

B
ラリータの陣痛が始まり、ドン・アキリーノが産婆代わりに出産介助をする。だからアキリーノと名付けたのか! 妻の出産時にも酷い接し方をするし全然協力しないフシーアまじでクズ男だ。
船頭ニエベスはひと月前から島に居着いており、ウアンビサ族たちがアグアルナ族のフムをこないだ連れてきたところ。

フシーアとアキリーノじいさんはこの時点でもう10年の付き合い。2人の来歴が、アキリーノの口から出産前のラリータに語られる。それを最初から知りたかった。フシーアがアキリーノを誘って、野営地やインディオの集落への行商人的な仕事を始める。そのうちフシーアは裏切りや盗みをしまくって警察にも目をつけられ、ウアンビサ族と一緒に暮らしたり、アキリーノじいさんと一度別れたりする。そしてフリオ・レアテギの下で働くようになる。

ドン・アキリーノは跪いて彼女を撫でている。もう少しの辛抱だよ、ラリータ、しばらくしたら生まれるから、落着くんだ。フシーアが横から、少しはウアンビサ族の女を見習ったらどうだ。子供が生まれそうになると、あの連中は密林へ行って、子供を産んでくるんだぞ。 p.140

ガチでクズすぎる!!!
頼むから、ラリータの出産と、アキリーノとフシーアの会話が別々の場面のクロスカッティングであってくれ……と願うほど。でも残念ながらここは切り替えとかではなく、マジで妻の出産中に隣で全然関係ない儲け話をしているらしい。……いや、やっぱり回想に切り替わってるなこれ。でもフシーアがクズ夫であることは変わらないが。。
アキリーノじいさんが聖人すぎる。そりゃ名前にあやかりたくもなるわ。

ん?? フムはサンタ・マリーア・デ・ニエバで木に吊るされて拷問を受けた後か! ……じゃあボニファシアはいない?? どうなっている。なにか大きな勘違いをしていたっぽい。
フムとボニファシアは一緒にウラクサから島に連れてこられたんじゃなかったっけ。違うか。

上巻p.322 II部3-Bの内容では、ボニファシアは12歳の時にシャプラ族の生き残りとして島に連れて来られた。そのときすでに少アキリーノは生まれてある程度育っているので、このパートよりも数年後ということになる。でも「ボニファシア」とは一度も明言されてないんだよな〜〜

あ、そうか。ニエバでフムが木に吊るされた時、すでにボニファシアもニエバに連れて来られているのだと勘違いしていたが、ここがだいぶズレていて、間に何年もの月日が流れているのかな。整理してみる。

ラクサのアグアルナ族の長フムが、やってきたデルガド伍長を袋叩きにする

→報復としてニエバに連行されて木に吊るされる。

→ウラクサに戻ってから、どういうわけかアキリーノじいさんに付いて「島」へ1人で来る。

(このひと月ほど前に、デルガド伍長と一緒にウラクサに行った船頭ニエベスも島へ流れ着いている。なおここまでボニファシアはずっと、故郷シャプラ族で暮らしている)
→島のウアンビサ族がシャプラ族と交戦してボニファシアが島に来る

→まもなくニエベスとラリータが駆け落ち

→フムがボニファシアを連れてウラクサへ戻る?

→またウラクサがニエバの隊に襲撃されて、ボニファシアは捕虜にされたのち、伝道所に入れられる

→フリオ・レアテギによってイキートスへ連れていかれそうになるが、無しになる

→伝道所で下働きをしていたが、生徒たちを逃がしてしまう

ニエベスとラリータ夫妻のもとへ

→軍曹リトゥーマと出会い結婚

→ピウラへ

→リトゥーマが刑務所送りになり、ボニファシアは娼婦になる

……ざっとこんな感じか?? つまり、ウラクサは少なくとも3回は襲撃されているし、フムは2度、ニエバで捕虜となっているってことか。しかも、フムと船頭ニエベスは、よく考えたらはじめは完全に敵対関係だったのに、島で共同生活することになっているという。。

 

C
アンセルモがエル・ホーベン・アレハンドロとトラック運転者ボーラスと知り合って3人で楽団を結成するまで。推しのことが語られて嬉しいよ…… このトリオ尊いなぁ
アンセルモとホーベンたちはそんなに歳の差があったんだな。同じくらいの年齢かと。
下町マンガチェリーアの人々の人情気質がとてもグッとくる。『丁子と肉桂のガブリエラ』を思い出す。

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

E
農場主セミナリオとリトゥーマは互いに銃を手に掛けるが、店主ラ・チュンガがあいだに割って入って場を取りなす。このクソガキの男どもめが……。

セミナリオは、店を貸し切って、叔父チャピロ・セミナリオをピウラにはもういない「本物の男」だと自慢する。ドン・アンセルモに叔父の思い出話をしてもらうなど。(アンセルモは口を滑らせて〈緑の家〉のことに触れてしまい、問い詰められる)
それにリトゥーマも張り合い、サンタ・マリーア・デ・ニエバで尊敬していたシプリアーノ中尉のことを自慢し始める。

リトゥーマ軍曹と一緒にニエバの治安警備隊にいたのはシプリアーノ中尉か。そんなに女性人気があったのか。
やがて、中尉のロシアンルーレットの話題から、セミナリオとリトゥーマのふたりで今からロシアンルーレットをやることに……

 

4章

A
中尉たちは、「島」にいたパンターチャから諸々を訊き出し、船頭ニエベスがもともと島にいたことを知ったのかな。
すでに島を離れてサンタ・マリーア・デ・ニエバへ帰ろうとしているが、密林の雨で、ウラクサ?に足止めされている。

パンターチャへの尋問・拷問は続く
エバで捕まっていたフムを一度釈放したのはフリオ・レアテギだったんだ。
そうか、最初の拘留でフムの通訳をしてたのはニエベスだから、嘘の通訳をしていた可能性もあるのか。。

とりあえずボニファシアはフシーアがいなくなった後に、フムかウアンビサ族と一緒に島を出ていったらしい。

 

B
アキリーノを出産した後のラリータ。フシーアとまだ正式には結婚してないのか。だんだんフシーアがつれなくなってきて、ラリータはフムとの距離を縮めようとしていた?
突然出ていったフムが島に帰ってきた、というが、これは一度目の拘留(木に吊るされ髪の毛を剃られる)の前からすでに島にいたってこと? フムはウラクサと島をもともと行ったり来たりしていたのか? フムの遍歴がいまだによく分からない。
Ⅳ部ではBパートも無くなっててほしいな……ACEだけでいい

 

C
ピウラのあちこちには、再び娼家が建ち始めていた。
ドロテオの店で働いていたラ・チュンガは、ドロテオと大喧嘩した末に、どういうわけか店主の座を奪った。ラ・チュンガを引き取っていた洗濯女フアナ・バウラは亡くなった。パトロシニオ・ナーヤも。フアナの葬式で、親子?であるアンセルモとラ・チュンガは相対しても特に抱き合うなどはしなかった。(この二人は親子でいいのか? ラ・チュンガの母が一切語られないし……)

ラ・チュンガは自分の店をレストランとして改装し、〈緑の家〉の再来かと噂された。(緑色には塗っていない)
ラ・チュンガはアンセルモたち楽団に、自分の店で演奏しないかと交渉を持ち掛けた。やっぱり父親のことを気に掛けているってことかなぁ
Cパートがいちばん好きなので、あっという間に終わってしまって寂しい

 

E
完全にキレたリトゥーマ軍曹がセミナリオにロシアンルーレットを持ち掛け、後攻のセミナリオが当たりを引いて死ぬ。なんとも愚かな、茶番劇。政治運動とかで投獄されたわけじゃないのかよ……

今気付いたんだけど、もしかして、ラ・セルバティカ(=ボニファシア)が〈緑の家〉で働き始めたというのは、娼婦になったのではなく、ラ・チュンガが再建したレストラン〈緑の家〉の給仕になっただけか。リトゥーマがあんなにショックを受けていたのは何故だ。ボニファシアがホセフィノと同棲し始めてて妻を寝取られたからってこと?

 

Ⅳ部

第3章まで
各章のパートはⅢ部と同じくABCEの4つずつのようだ。

0章

島の一行(フシーア、パンターチャ、ニエベス、ウアンビサ族の男たち)がムラート族の集落を襲い、ゴムと革を強奪する。ボスであるフシーアの命令を守らずにウアンビサ族のインディオは、ムラート族の呪術師の老翁の首を切ってしまう。命令をきかせられないことで、とフシーアは憤る。彼の脚が病に侵されているのではないかとニエベスパンターチャは噂する。

先日フムが島からいなくなったらしい。ニエベスムラート族のアキータイという装飾品?をこっそり持ち帰る。ラリータへの贈り物かな。パンターチャはボニファシアを狙っている。

 

1章

A
リトゥーマ軍曹とボニファシアの結婚式の日が近づいてきている。ラリータは伝道所に、ボニファシアの結婚が決まったことを報告しに行く。ボニファシアが最も懐いていたシスター・アンヘリカは、彼女には絶対に伝道所へ足を踏み入れさせない、という。
リトゥーマは先に「島」遠征から帰らせてもらい、シプリアーノ中尉はまだ川に足止めをくらってサンタ・マリーア・デ・ニエバに戻ってきていない。

結婚式当日。礼拝堂で、ドン・ファビオや治安警備隊の4人たち、そしてシスターたちの列席のもと、無事に執り行われる。
シスター・アンヘリカ……泣泣泣 ツンデレおばあさん。色々言うけどボニファシアのことが大切で仕方ないんだね……

シスター・アンヘリカが、どうして一度も顔を見せなかったのです? いつもいつもシスターのことを考え、夢に見ていたんです。それを聞いてシスター・アンヘリカが、さあ、ここにあるものをお食べ、ジュースもあるからね。
「わたしは調理場に入れてもらえなかったのですよ、ドン・ファビオ」とシスター・グリセルダが言った。「今度は、シスター・アンヘリカのお手柄ですわ。お気に入りのボニファシアのために何もかも用意なさったのですから。」
「この子のためでなかったら、とても出来ませんでしたよ」とシスター・アンヘリカが言った。「この子がまだ小さかった頃は、乳母か召使のようにこき使われ、今度はコックさんに早変わりしたんですよ。」
なんとか怒ったような気むずかしい顔をつくろおうとするのだが、声がかすれ、異教徒のようなしゃがれ声になったかと思うと、急に目がうるみ、口もとが歪んですすり泣きはじめた。そして、指の曲がった手で何度もボニファシアの背中を叩いた。 p.231

愛でしかない。多幸ムードすぎてこのあとが怖い。ボニファシアはけっきょくサンタ・マリーア・デ・ニエバを離れて夫リトゥーマに付いてピウラへ行ってしまうんだもんな……

「いい旦那さんになるんですよ。」シスター・アンヘリカは軍曹の腕を掴み、激しく揺すぶりながら唸るように言った。「あの子に手をあげたり、ほかの女といっしょになったりしたら許しませんからね。やさしくしてやるんですよ!」
「ええ、もちろんですよ」と軍曹はどぎまぎして答えた。「妻を深く愛していますから、どうかご安心ください。」 p.233

 

B
このパートでは久しぶりに、フシーアとアキリーノの川下り現在時制。それと、フシーア&ラリータ夫妻の仲がかなり悪化してきている頃の村の回想。フシーアの脚の腐敗が進み、夫婦の営みはもう出来なくなっている。ラリータは船頭ニエベスの小屋へ。
シプリアーノ中尉が新任かと思っていたが、シプリアーノから別の新任中尉になったのか。

フムは、島とニエバをこっそり行ったり来たりしていて、レアテギに取られたウラクサのゴムを返してもらうよう働きかけていたらしい
フムが話していた、ウラクサに住み着こうとした2人の白人ボニーノとテオフィロについて。ようやく名前が出てきた。フシーア&アキリーノじゃなかったのね。フムたちウラクサインディオを扇動して、辺りの白人を皆殺しにしようと画策。

 

C
これまでのCパートのように三人称叙述ではなく、おそらくドン・アンセルモの主観的な語り(意識の流れ)っぽくなっており、かなり意味が取りづらい。アンセルモを「お前」と二人称の主語で語ってもいる。なんだこれ……

アンセルモは、盲目の少女アントニアに恋していた? 16歳くらいの少女に……(思っていたより大きかった)
アンセルモが、アントニアを引き取って〈緑の家〉に連れていく前か、直後くらいの時系列がシャッフルされて渾然一体となっているよう。正確には全く分からない。
アンセルモの従者ハシント、友人?のドン・エウセビオも登場。

 

E
リトゥーマ&ボニファシア夫妻がピウラで暮らし始めた頃。まだリトゥーマが殺害事件を起こす前。
リトゥーマとレオン兄弟がたしか従兄弟だから、ボニファシアをホセたちは「従姉さん」と呼んでいる。
なかなか都会のピウラに馴染めないボニファシアに酷く当たるリトゥーマ。ハイヒールをうまく履けない妻を殴る。出身地サンタ・マリーア・デ・ニエバを田舎だとバカにする。

なんでみんな結婚したら亭主関白みたく酷いモラハラDV男になっちゃうの? ニエベスだけだよマトモなのは……

レオン兄弟は床に坐ると、手をあげるのは愛している証拠だって言うからね。チュルカーナ山に住んでる女たちがよく言うじゃないか、殴る亭主ほど奥さんを愛しているってね。もっとも、密林のほうじゃどうだか知らないけど。一、ニの三、さあ、ねえさん、もう旦那を許してやってくれよ。機嫌を直して、顔を起こすんだ。 p.258

夫リトゥーマが寝ている隙に、ホセフィノがボニファシアを口説きにかかる。ボニファシアは、夫に知られることを恐れてはいるが、好意を寄せられていること自体は拒んでいない? だからリトゥーマ収監後にくっついたのね。残当

 

2章

A
リトゥーマとボニファシアの結婚式からしばらく経って。
中尉の命令で、リトゥーマ軍曹率いる治安警備隊の一行は、元盗賊の仲間だった船頭アドリアンニエベスを逮捕しに行く。島にいた麻薬中毒パンターチャと共に収監する命令。

リトゥーマは、ボニファシアとの仲介をしてもらい恩人であるニエベスをなんとか逃がそうと説得したが、ニエベス本人がもう密林を逃げ回るつもりがなく、仕方なく逮捕した。ボニファシアの身体を狙っていた治安警備隊の〈デブ〉は、今度は夫が逮捕されて1人身になるラリータを狙っている。

 

B
アキリーノは、脚が壊死しかかっているフシーアを、サン・パブロで降ろそうとしている。イキートスの対岸の地域。フシーアは他の場所で降ろしてほしい。彼らが島を出てから30日目か…… 意外と経ってない?
一方、ラリータがニエベスと共に島を夜逃げする時が回想される。フムが逃げる手助けをしてくれた。
フシーアは駄目になっている脚を妻ラリータに見られたくなくてあんな態度をとってるのか?
パンターチャはシャプラ族の女……ボニファシアと出来ている? ただ面倒を見てあげてるだけかな

 

C
やべ〜〜・・・ 前章から引き続き、アンセルモおじさんによる16歳の盲目の少女アントニア(トニータ)への恋というか性欲・支配欲にまみれた激キモの内的独白が延々と垂れ流される。『ロリータ』始まったな……

アンセルモのトニータへの関わり方は、完全に、現代でいうところの性的グルーミングだ。あくまで両想いだから!と必死に思い込もうとしている。
町の人々にバレないよう、馬に乗せて誘拐して、自分の城である〈緑の家〉の塔の小部屋で犯す……

非常に気持ち悪いのだけど、残念なことにというべきか、この小説をここまで600ページ読んできていちばん「文学的」なパートだとも感じた。ロマン主義文学の延長上。

わたしは罪を犯してはいません、神父様。あの女(ひと)を死なせたのはわたしの責任ですが、それ以外に間違ったことは何ひとつしていません。それを聞いて神父が、あなたは策を弄し、力づくであのようなことをしたではありませんか。お前は答える。いいえ、策を弄した覚えはありません。たしかにあの人は目も見えず、口もきけませんでした。しかし、それでも二人は心から愛し合い、理解し合っていたのです。そうです、これは真実本当のことです。 p.293-294

彼女は頬にお前の唇がそっと触れるのを感じる。興奮がおさまったのか、かたく強張っていたその体の緊張が解ける。熱い夏に降る雨が虹をかけて空を彩るように、お前の唇の下で彼女の肌が美しく色づく。 p.297

なんか美しい比喩で誤魔化そうとすんな!!
「お前」=アンセルモ  二人称叙述

小さな兎のようなかわいい乳房だね。夜、夢の中に現れたんだよ、この子兎たちが。部屋に飛び込んできたので捕まえようとしたが、逃げられてしまった。だが、お前の乳房のほうがずっと柔らかくて生き生きとしているよ。 p.301

キショすぎ!!!!!

息づかいが激しくなり、両腕を広げてお前を迎える。塔の小部屋が揺れはじめ、部屋全体が熱く熱してついには燃える砂丘の中にその姿を消した。 p.301

性行為でエクスタシーに達するのをこうして婉曲的にカッコよく表現するのやかましいわ!

ロリ系エロゲが始まったのかと思った。
次章でようやく、死なせてしまった時のことが語られるのかな

 

E

自分でも悪い女だと思うけど、あんたが好きよと彼女が囁くように言った。「でも、そんな話はもう止めて、訊かないで。罪深いことよ。」 p.306

夫のリトゥーマが収監されたリマへ妻ボニファシアは行きたがるが、お金が無いので、ホセフィノに引き取られて身体を重ねる日々。お腹の子をたとえ流産だとしても産みたい、というボニファシアをホセフィノが「俺のプライドのために産むな!」(意訳)と罵倒する。

まじでクズ男の博覧会といった様相を呈してきている。そういうのが好きな人にはオススメ

すげぇよくある姦通メロドラマなんだよな…… ひねった構成や文体で前衛性を出しても、本質は、かなり通俗的な不倫メロドラマとミソジニー男たちの欲望にまみれた話。エンタメ。

女性がとにかく自立することが難しく、男に依存しなければ生きていけないような悲惨な境遇ばかりでつらい。そういう、男権社会の現実をありありと描き出している点で文学的に価値があるのかもしれないが……うーむ…………

リョサの本質は、ミソジニー男たちのホモソーシャル通俗的なメロドラマに落とし込み、表層だけ小難しく風変わりにして前衛性を演出しているエンタメ小説家、なのではないか。
ミソジニー通俗小説家として開き直った『悪い娘の悪戯』のほうが大好き。

 

 

3章

A
ボニファシアとリトゥーマ夫妻が、ピウラへ向けてサンタ・マリーア・デ・ニエバを出発する。
ボニファシアとシスター・アンヘリカの関係、そしてラリータとの絆がとても良い。
ニエベスはイキートスに収監されたのか。残されたラリータは伝道所の下働きをして夫に会いに行く資金を貯めている。奇しくもボニファシアの後釜に収まったかたちだ。

 

B
サン・パブロに到着するも、ここに置いていかれるのをとにかく嫌がるフシーア。冷徹に話を進めるアキリーノ。
ラリータたちが島から夜逃げした後の回想。パンターチャやボニファシア、フムらを島に残して、ドン・アキリーノの薦めでフシーアは島を出たのか。そういう順番なのね

 

C
ウラジミール・ナボコフ『トニータ』つづき

わしはたしかにしあわせだが、彼女はどう思っているんだろう? どうにかしてそれを知ることができないだろうか。 p.337

うわ〜そういうことか…… アンセルモはアントニア(トニータ)を妊娠させていて、彼女の死後、燃え盛る〈緑の家〉から救出された赤子ラ・チュンガがその子だったのか……ドン引きにも程がある

それでも、妊娠した以上は、〈緑の家〉の女たちなど、祝って協力してくれるんだ。まぁそりゃ、アントニアやお腹の子に罪は無いし……
出産で亡くなったのだろうか  というか、1年近く行方不明のまま匿っていたってことだよな……

はじめ、アントニアをもっと幼児だと思っていたので、あの赤子の母が彼女だという発想に至らなかった。

これでいいのかどうか、最後にもう一度よく考えてみるのだ。人生とはこういうものなのかどうか、もし彼女がいなかったら、あるいは彼女とお前の二人きりだったらどうなっていたか、すべては夢だったのかどうか、現実に起こることというのはいつも夢とは少しばかり違うのかどうか、よく考えてみるがいい。そして、これがほんとうに最後だが、お前はもう何もかも諦めてしまったのかどうか、そしてもしそうなら、それは、彼女が死んでしまったからなのか、それとも自分ももう齢なので、次に死ぬのは自分だと悟っているからなのかどうか、そこのところをよく考えてみるのだ。 p.343-344

アンセルモが死ぬ間際になって回想している形式だから「お前」なのか。フエンテス『アルテミオ・クルスの死』(1962)の二人称パートに影響受けてるのかな。

 

E
ラ・チュンガの店での勤務終わりに、ラ・セルバティカ(ボニファシア)はホセフィノの迎えを待っている。酔っ払って遅れてくる。エル・モノ(レオン兄弟)の誕生日だからと、彼女を連れていく。エル・モノはボニファシアに手を出したくて追いかけ回す。まじで可哀想

エル・ホーベンの言動相変わらず好きだ 周りの女性たちには分け隔てなく丁寧に接するが、昔の恨みで歌のなかでは女がいかに酷いかを未練がましく歌いまくる。「本当のこと」だと言って。

えっ アンセルモって密林にいたことがある? 日はアキリーノ辺りと同一人物だったらどうしよう。流石にそれはないか。

 

Ⅳ部おわり!
あとはエピローグ

 

エピローグ

エピローグは各章がパートに分かれていない!
0~3章が短く、最後の4章が50ページほどある

0章

フリオ・レアテギが、サンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官を辞めてイキートスへ帰り実業家の本業に専念する。
その前に、伝道所に緑の目の少女を預け入れた。ボニファシアを伝道所に入れたのってレアテギだったんだ。どこかの章で、2人の少女を引き取りに来なかったっけ。あれはボニファシアじゃなかったのか。数年ぶりの再会だったってこと?
広場ではフムが見せしめとしてカピローナの木に吊るされており、尼僧院長はその処置に反対するがレアテギは聞き入れない。見せしめの後は解放してウラクサへ帰すつもり。
その後、彼はお仲間のマヌエルテアギラやペドロ・エスカビーノ、アレバロ・ベンサスと共に会食する。

 

1章

フシーアのもとへ1年ぶりにアキリーノが見舞いに来る。あまりの悪臭にアキリーノはすぐ帰りたがるがフシーアがなんとか引き留める。フシーアほんとアキリーノのことが大好きだなぁ
フシーア、病状が悪化したのか、かなり幼児退行してるみたくなってる。痛ましい

ニエベスの子供やあの治安警備隊の子供たちもすっかり大きくなったが、どの子もラリータにそっくりで、父親似は一人もいないよ。 p.375

えっ なに、ラリータは治安警備隊の誰かとも子をもうけたの? ニエベスが死んじゃって再婚したとか?
〈デブ〉と、か……

あ、そうか、ニエベスはイキートスに収監されたんだった。それで結局サンタ・マリーア・デ・ニエバには戻ってこれなくて、〈デブ〉とラリータが子供を産んだのか。ラリータもなかなか波瀾万丈な生涯だ。それでも生きててなにより

 

2章

ドン・アンセルモが倒れ、ラ・セルバティカ(ボニファシア)がタクシーで連れてきた仇敵ガルシーア神父に看取られて、大往生する。最終章はこういう臨終の雰囲気が色濃い。
ラ・チュンガは自分の父親だとわかってるよなぁやっぱり。

 

3章

ラリータは、息子アキリーノの結婚式のため、夫ウアンバチャーノ=〈デブ〉と共に故郷イキートスへ行く。夫は船酔い
アキリーノ少年も立派になって……
かつての夫ニエベスは最近釈放されてブラジルの方へ働きに行ったらしい。もう離婚手続きなどはしてるってこと? 何があったんだ…… 前夫の話題になるとウアンバチャーノは気まずそうにして話を逸らす。

 

4章

2章の続きだ。アンセルモを看取ったガルシーア神父とセバーリョス医師の帰路。マンガチェリーアのアンヘリカ・メルセーデスの店へ朝食を食べに寄る。

〈緑の家〉の存在はピウラの若者にとってもはや都市伝説と化している。火事はおよそ30年前か 神父が「火刑人」と揶揄されるようになった原因

アントニアが死にかけており、アンセルモがセバーリョス医師を呼びにきたときを回想。当時、医師や神父は30代。意外と若い? 現在70歳いってないのか。〈緑の家〉の塔に入ってはじめて、セバーリョスは、アンセルモの「妻」がトニータだと知った。やはり出産時のことだろうか

p.421 突然場面が切り替わる。ラ・セルバティカ(ボニファシア)をホセフィノが強姦しようとしている? あ、ちがう。出産か。ホセフィノとの子なのか、それともリトゥーマとの既に妊娠していた子なのか……。

アントニアとボニファシアの、30年の時を隔てた出産シーンを同時並行で描く。いかにもなクライマックスだなぁ 出産シーンのカットインといえば『さよならの朝に約束の花をかざろう』を思い出す(夫は戦争、妻は出産、という夫婦のステロタイプ性役割を強調する演出)。

そして、現在時制でガルシーア神父が震える手で肉を食べていることも、セバーリョスが語るアントニアの出産・死亡シーンとあからさまに重ね合わされて対比されている。アンヘリカ・メルセーデスは当時15歳の「生娘」。

ドミティーラが、すっかりマンガチェリーアの人々にとって「聖女」になっている。皆に愛されたひとが死後このように語り継がれてローカルに神格化される風習はなかなかグッとくる。

アンセルモがアントニアに対して行ったことの是非を、今さらセバーリョス医師とガルシーア神父が議論する。セバーリョス医師が擁護しているが、こればっかりは完全に神父側だ(というかガルシーア神父はこの小説でずっと正論しか言っていない)。アントニアがいくら彼に懐いて愛していたように見えるからといって、アンセルモの加害性は変わらない。権威勾配とかグルーミングという概念が存在しない時代だからなぁ……

レオン兄弟がアンヘリカ・メルセーデスの店やってきて神父や医師と合流。神父とこの店で会えた珍しさにはしゃぐが、アンセルモの訃報を聞いて流石に御悔みムードになる。ボニファシアとリトゥーマも来て、マンガチェリーアのこの店で通夜をやりたいと掛け合う。リトゥーマがミサをガルシーア神父に頼もうとして、罵り合いになる。前言撤回。やっぱりこの神父もなかなか酷い。

えっ アンセルモってボニファシアと同郷なの!? サンタ・マリーア・デ・ニエバ近くの村、密林育ち。だから〈緑の家〉や緑のハープだったのね。ニエバ編の別名の誰かと同一人物かなぁ……『街と犬たち』でもそうだったし。ニエベスか、アキリーノだと面白いが、時系列が矛盾しまくる。
現在はリトゥーマをボニファシアが養っている状態か。ホセフィノはどうなったんだろう。そしてさっきの出産回想は、やっぱりリトゥーマが逮捕された時に孕んでいた子で、死産なのかなぁ。

ホセフィノとはボコボコにして以来、喧嘩別れしてマンガチェリーアから追放したのか…… ボニファシアはホセフィノに復讐されるのが恐いのでリトゥーマと一緒に住んでいる。

 

 

おわり!!! 最後もガルシーア神父とセバーリョス医師のふたりで締め。これまでそんなに中心的な位置を占めていなかったこの2人がこんな大役を仰せつかるとはなぁ。

なんというか、いろいろあったけど、ドン・アンセルモはマンガチェリーアの人々にとっては愛されていたし、亡くなって哀しいね。すべては過ぎ去ってゆくね…… 的な、男の郷愁と悲哀エモみたいな終わり方だった。ロリコンクズ男をそんないい話風にされても納得はできない。主人公といっていいボニファシア(ラ・セルバティカ)のラストも、釈放されて帰ってきた無職の夫リトゥーマをヒモとして養って〈緑の家〉で働いていて、相変わらず夫からのDVモラハラはあるけどなんやかんやピウラで楽しくやってますエンドで、それでいいのか……とモヤモヤはする。(現〈緑の家〉は娼館じゃなくて単なる飲食店なんだよね? 昔の〈緑の家〉を知っている人たちが引きずって勘違いしてるだけってことだよね)