『踊る自由』大崎清夏

 

おとといの夜、雨が降りしきる新宿をわたしは歩いていた。わたしの隣にはお腹をすかせた人が歩いていて、わたしはその人に連れられるままに、ブックファーストへ向かった。地下の入口へ下る階段に、まるで映画の撮影をしているかのように、ダイナミックに寝そべった男女が顔を密着させていた。雨などまったく気にしていないか、むしろ雨だからこそその行為を決行しているかのどちらかであるようにわたしには思われた。わたしはぎょっとして階段に踏み出すのをためらったが、お腹をすかせた人は力強く階段を下っていった。その背中がわたしにはたいそう頼もしく見えた。

 

店内に入り、海外文学の棚の前にふたりで立った。そこは、以前わたしが別の人と待ち合わせたのと同じ場所だった。そのときと同じ赤いボストンバッグを床に置いて──これは迷惑な振る舞いである──わたしはもうひとりの人と本棚を眺め、そこに刺さっている本について言葉を交わしあった。まずラテンアメリカ文学の棚から──もうひとりの人がわたしに合わせてくれたのだと思われる──次第に左側の、ドイツ文学やフランス文学のほうへと移動していった。

 

一面の棚についてひととおり言葉をかわしあった後、右側の壁面の岩波文庫コーナーへ行き、似たようなことを繰り返して──「トリストラム・シャンディが無い!」「絶版ですよ」──「響きと怒りは他の文庫からも出ていたのでしたっけ」「文芸文庫にあります」「ああ、講談社文芸文庫」──そろそろ閉店時刻だからとレジへ向かう際に、先ほどの、海外文学の棚と向い合せになった棚に足が止まった。背後にあって気付いていなかったところに、ピンチョン全小説だとかなっちゃん全集だとかが並んでおり、その右側には詩歌のコーナーがあった。

 

海外文学の棚の前で言を弄していたときから、表紙や装丁の良し悪しが話題になっており、わたしは詩歌の棚に平積みされていた本に惹きつけられた。(いや、正確には表紙に惹かれたのではなく、その見慣れぬ出版社名──左右社──に引っかかったのだったかもしれない。)それはチョコレート色の地に金色の図形があしらわれた詩集だった。

 

 

踊る自由

 

踊るのが好きなわたしはタイトルにも惹かれないわけにはいかなかった。悔しいが。

 

 

以前から言っているように、最近のわたしは、小説の枠組みに入るか怪しいような、散文詩に近いぶっとんだ小説を好むと言いながらも詩をほとんど読んだことがないことに焦燥感を抱いている。わたしよりずっと詩にも詳しいもうひとりの人もそのことを知っているので、この本を手にとってパラパラめくり、「良さげ」と呟くわたしを好ましく見ていたのだろうと思う。

 

手にとってひらいて、最初の二篇「触って」「両性の合意」を読むというより見て、わたしは「これ良いかも」と呟いたのだった。もちろん、現代詩を1冊も通読したことのないわたしがここで発した「良いかも」とは、同時代の作品と比較したり、歴史的な文脈と照らし合わせたりしたのでも、またわたしの詩の好みに合いそうだということでもなく(どうして読んだこともないのに「詩の好み」を形成できるだろう)、もっと主観的かつ行為遂行的な理由──夜の、雨の、新宿の、他人に見られながら、わたしの目で見つけてわたしの手でとってひらいた、こうした出会い方をした一冊の詩集を買うことでしかわたしは詩を好きになれないのではないか、このタイミングを逃したらもうわたしは──によってわたしは「これ良いかも」と口に出したのだった。おそらく。そうでないよりは。

 

ということで、岩波文庫響きと怒り(上)』(日和って下巻は買わなかった)とともに、大崎清夏『踊る自由』をレジへ持っていき、有料の袋ごとリュックサックへいれて、コンビニおにぎりを食べて少しだけお腹が満たされた人と別れ、夜行バスに乗り込んだ。バスに揺られているあいだじゅう、足元にはリュックサックが──つまり、購入した詩集が──あった。早朝に帰宅し、デスクトップPCを起動してエロゲを少しやり(そういう気分だった)、就寝し、起床し、登校し、下校し、エロゲし、就寝し、起床して、買ってきた詩集を読み始めた。その翌日の午前中、さきほど、読み終えた。

 

詩集の内容の感想に入るまでにこれだけ前置きを書き連ねたことからわかるように、わたしは作者の名前もまったく知らないこの本に対して、詩の経験が乏しいわたしを豊穣な詩の世界へ導いてくれるような「運命の一冊」として期待していた節がある。(理想的な書店の使い方!こういうことがないからネット書店は、電子書籍はダメなんだ!)

 

白馬の王子様を待ち焦がれる可憐な淑女のそれとまったく同様に、わたしの期待は成就しなかった。ここですかさずわたしは幾つかのエクスキューズを挿入しなければならない。ひとつ、「期待はずれ」といっても字義通りのものではなく、ただわたしの期待が不当に高く非現実的過ぎただけで、決してつまらないものではなかった。ひとつ、そもそもわたしは詩集を読んだことがほとんど無いのだから、その良し悪しの判断や、もう少し穏当に言っても好き嫌いの判断をする能力がまだ十分に醸成されておらず、めくるめく感動を経験できないのはきわめて自然なことである。(数年前、海外文学を読み始めて最初の頃は読む本読む本ちっとも面白いと思えなかったことを思い出せ!)ここで訳知り顔の先達たちはひょっとすると次のように言うかもしれない。「詩を読むのに経験などいらない。誰しもが、あなた自身の感性に基づいて詩を楽しめばよい」などと。「訳知り顔の先達たち」の台詞としてこのようなハリボテしか生成できない点にわたしの詩の教養の無さを感じ取ってほしいのだが、自衛と同義の自虐は置いておいて、すべての建前や自分語りを乗り越えて、わたしはそろそろ詩の内容に踏み込まなければならない。

 

 

『踊る自由』は凝った装丁の詩集だ。普通の本にあるような表紙カバーが存在せず、本編の紙束と一体となっている。カバーの折返しのそではあるが、そこからカバーをめくろうとしても取り外せずに驚いた。

100ページ強のなかに「ふたりで」「ひとりで」「松浦佐用媛、舞い舞う」という3つの連作詩(であってるの?)が収録されている。それぞれの連作詩は10作の短い詩から成り立っている。10×3=30作 ≒ 100ページ

 

ひとつひとつの作品の感想を述べはしない。(述べられるほど特に思うことがない。読んでいる最中はあったのかもしれないが今はもう忘れてしまった。読中に書き残さないのも、直ちに再読をしないのも、ひとえにわたしの怠慢である。)

 

全体的に、わたしがなんとなく「現代詩ってこういうものなんだろうな」と想像していた現代詩っぽさ、ポエジー、意味のわからない部分とわかる部分の塩梅、抒情、エモさ、そうしたものは感じられた。そうしたものとしてしか感じられなかったのはわたしの怠慢か、控えめにいってもわたしの責任である。

 

ところどころ「良いな」「すごい!」と思う部分はあったと思う。ただ、それは一文や数行やせいぜい一段落しか続かずに、その詩を最後まで読むと、最初に感じた良さが霧散してしまうような印象を受けることがしばしばあった。

 

例えば、連作「ひとりで」より「プラネタリウムを辞める」の冒頭

 

Iさんがプラネタリウムを辞めた。雨の
   降っている日だった。毎朝いちばん早く起きた
 人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街でその日はわるい
ということになっていたけれど、雨はわるくないことを誰も
     わるくないことをIさんは知っていた。誰も
  わるくなく雨もわるくなくてもプラネタリウムの仕事を
辞めなくてはならなくなることもあるのだった。地球

(「地球」の後も次の行に文は続く。ぶつ切りを避けると全文引用することになってしまうので許してほしい)

 

この冒頭はなかなか好きだ。

「毎朝いちばん早く起きた人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街」という設定はチャームに溢れているし、「雨はわるくないことを誰もわるくないことをIさんは知っていた。」のようなそれ自体すこし意味が取りづらい攻めた言い回しの面白さが、文の途中の改行による読み手の意識のコントロールによってさらに高められていると感じた。

 

このあとの行で蠍座や傘、水滴といったモチーフが重ねられていき、冒頭の「Iさんがプラネタリウムを辞めた」に宿る詩的な世界はより鮮明になっていく。それが、わたしはあまり好ましく受け取ることが出来なかった。作品世界の解像度があがっていくことが、わたしのなかで、作品の魅力を高めることにつながらず、むしろ損なう方向に奉仕してしまっていた。つまり、簡単に言えば「最初のインパクトは良かったけど説明しすぎで落胆した」ということだ。

 

 

次の詩「図書館の完成を待つ」には更にその傾向があった。

 

胸の高鳴るような犯罪がもっと満ち溢れるべきだ
この街には。だから駅前に新しい図書館が建つのは
十分悦ばしいことだ、とHさんは思った。

 

この冒頭はやはり素晴らしい、と思った。

「胸の高鳴るような犯罪」が「もっと満ち溢れるべきだ」という一行目の清々しい痛快さが、犯罪とは結びつきにくい「図書館」という単語によって飛躍する。Hさんって一体どんな人物なんだ、と興味が湧く。

 

この詩の最後には、この冒頭3行がリフレインとして置かれている。冒頭の文とまったく同じなのに最後には違う意味合いとなって立ち現れる──当然リフレインにはそうした狙いがあるだろう。

しかし、わたしには、冒頭の3行のほうが、末尾の同じ3行よりもずっと魅力的に映った。冒頭3行のあとで、Hさんについて、この街の開発状況についての描写がある。それらの描写はこの作品世界を、わたしの頭のなかのイメージを広げ、より鮮明にして、物語を形作る。そして再び同じ3行が現れてこの詩は終わるわけだが、リフレインを読んでも「な〜んだ、そんなことか」と、まるでマジックの種明かしをされてしまったように、原初の興奮と鮮烈なイメージが色褪せてしまったかのように感じられた。「Hさんって一体どんな人物なんだ」と思いはしたが、その実、Hさんの正体について、わたしの頭の中のHさんのイメージについてそれ以上情報が加わることを望んでいなかったのかもしれないと、事後的に確認された。

 

 

これらは、要するに、文学作品のサイズの問題だ。小説でも似たようなことは頻繁にある。序盤はワクワクしていたけれど、読み進めると肩透かしを食らった。序盤で脳裏に焼き付いた作品世界のイメージと「違った」から落胆するのではなく、そもそも、それ以上イメージの解像度が上がることを望んでいない、曖昧なままで、多義的なままで、理解不能なままでいい、そうした意識があるように思われる。重厚なストーリーテリングによって作品世界を練り上げる長編小説にはできないことが短編小説にはある。短く、描写や説明が満足になされない、そもそも「説明」する対象の輪郭や存在が危ういままに作品世界を閉じて完成させてしまえる崇高さ、自由さ。そうした感慨をわたしは詩にも求めているのかもしれない。

 

 

「ふたりで」収録の「照明論」も、さいしょの一段落がいちばん面白かった。

 

「ふたりで」の最後を飾る「東京」でも

いま、天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、私は砂漠にひとりでいる。

というフレーズが途中に出てきてから、最後に

天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、
朝が来る。

という段落で詩が(そして連作「ふたりで」自体が)終わる。

 最後にリフレインが来ると「あぁ、このフレーズ気に入ってるんだな……」と少し微笑ましくも気恥ずかしいむず痒い心持ちになってしまう。

 

 

結局、最後まで面白く読めた、あるいは最後まで読むことで面白いと思えた作品は、この詩集そのものの冒頭の「触って」「両性の合意」「遺棄現場」あたりかなぁと思う。「線画の泉」の不穏さもなかなか良い。

ちなみに、これら連作「ふたりで」を構成する詩篇たちは題名通りどれも「私」と「あなた」についての描写が続くわけだが、これらがどうしても女性同士の関係でしか想像できなかったのは百合オタクの悪いところだと思う。百合オタクにはなりたくないと思いながらも結局このような実地体験で自身のスティグマが嫌でも露呈してしまう。STY(そういうとこやぞ)

 

最後の連作「松浦佐用媛、舞い舞う」は10篇どれも「ま」から始まる単語が冠され、8行×23列のフォーマットの非常にコンセプチュアルな作品となっている。

ただ、これらはピンとこなかった。先ほどのように「最初良かったけど落胆した」とかですらなく、本当に何も引っかからないまま、「お、おぅ……」という感じで読み終えてしまった。まだこの詩を堪能できる感受性が身についていないようなので、レベルを上げて戻ってきたい。

 

 

 

否定的な感想をいろいろ書いてしまったことに日和って既防線をはっておくと、そもそも最後まで読めた時点でかなり好きだった、少なくとも途中で投げ出すほど苦手でも嫌いでもなかったことは確かだ。

「わかってしまうと面白くない」と言いつつ、本当に何も理解できなければ好きになりようがないという非常にずるいシステムをじぶんは抱えているのだなぁと強く感じた。

 

また、これも初心者ならではの感覚だろうが、自宅で詩を読んでいると、「詩を読んでいる自分」という状況を客観視して、その状況、その行為の世俗との隔絶感に唖然としてしまう。もっと詩を読むことが日常的な行為となれば、詩を世俗の対極にナイーブに対置するこうした振る舞いはしなくなるのだろう。

 

ともあれ、「人生初、書店で予備知識ゼロのままフィーリングで詩集を買う」実績を解除できたこと、その一冊目が本詩集であったことをとても嬉しく思う。

これはまぎれもなく、わたしの「運命の一冊」である。

 

 

 

踊る自由

 

『ヴァインランド』(7)トマス・ピンチョン

hiddenstairs.hatenablog.com

 

やや時間が空いてしまいましたが、12章をやっと読みました。

 

 

12章 (pp.315-383)

 

<あらすじ>

(フレネシに撃たれて?)サナトイドとなったウィード・アートマンの遍歴

84年、カリフォルニアの北の奥にある心霊スポット〈ブラックストリーム・ホテル〉にて、年に一度の宴「サナトイド・ロースト'84」の第10回が進行中。幾世代にもわたる因果応報のパターンが立派なサナトイドを"顕彰"する。

そこで演奏する即席バンドのベースはヴァン・ミータ(ゾイドの元バンド仲間の相棒)

 

このときゾイドはホリーテイル近くの谷あいのマリワナ農家の知り合いの家に滞在していた。
ヴァインランド群のシェリフ(保安官)ウィリス・チャンコが難攻不落のホリーテイルを潰そうとするが守備網は堅い

その牙城を崩そうと、CAMPが雇った元ナチス・ドイツの空軍士官カール・ボップ率いる偵察部隊の飛行機がヴァインランドの空を舞う

そこに「忍びの者(ステルス・リグ)」の異名を取る特殊改造トラックがやってきて、ヴァインランド群じゅうの家庭に物語を語り聞かせられるオウムを売りさばいた。
<キューカンバー・ラウンジ>裏手にあるヴァン・ミータの賃貸小屋でも子供たちがオウムに熱狂し、その超常体験に参加できなくて焦りながら今夜もギグへ向かう(ここで話がサナトイドの宴に戻る)

 

常人とは時間の流れが異なるサナトイド達の宴は夜が深まるほどにスローテンポになっていき、ヴァン・ミータらのバンドは演奏に困る。

昔CMで見た覚えのある歯科医ラリー・エラズモ博士(宴に迷い込んだ)と会ったウィード・アートマンは、生前サーフ大学での最後の日々をおぼろげに思い出す。

エラズモは当時ウィードにつきまとい、半ば強制的に旧市街のオフィスへ呼びつけて怪しい診察を繰り返していた。(ブロックの陰謀)

〈ロックンロール人民共和国〉の長としてますます崇められるウィードと、BLGVNの残党に会うためパリへ行こうとしているレックスは次第に決裂していく。

ウィードがFBIのスパイだったと自分から言った、そうフレネシとレックスはハウイ(秒速24コマの男子)に語る。

もちろん、それはフレネシを操るブロックの陰謀である。ブロックからフレネシに渡された銃でレックスがウィードを撃つ。その決定的な瞬間をカメラは逃していた。

包囲された〈ロックンロール人民共和国〉は自壊する。たった3名の残党DL、ハウイ、スレッジは車(シボレー・ノマド)でブロックに連れ去られたフレネシを追う。ハイウェイを疾走して収容施設にDLは潜入、地下のオフィスで夢を見ていたフレネシを速やかに奪還する。バークレーに戻り男2人を降ろし、2人はメキシコの太平洋沿いの漁村キルバサソスへ。DLとフレネシはブロックの件で口論する。ドラッグを投与されて操られていたとフレネシは主張して慈悲を乞う。

その後、合衆国のラス・スエグラスでDLは彼女を降ろして別れた。そこでゾイドはフレネシと出会ったらしい。

 

ようやく話は現在時制、フィルムを観終わったプレーリー、DL、ディッツァの3人へ。ディッツァが双子姉妹のズィピから電話を受ける。田舎に引っ込んだが再び占星術に舞い戻ったミラージュ曰く、冥王星の逆行が滞っており不吉らしい。実際、ハウイがコカインで命を落としたのを筆頭に、〈秒速24コマ〉のメンバーらが次々と理由なく姿を消している。

DLは編集作業場に仕掛けられたに安物の盗聴器を見つけ、直ちに安全な場所へ避難することを決める。3人を乗せた車は夜のロスを疾走する。

 

 

<感想メモ>


オウムのしゃべる物語を聴きながら眠りについた子供たちが夢の国の熱帯林で落ち合って、木々の上すれすれを一晩中飛び続けるってめちゃくちゃ良いエピソードだな。

 

フレット:ギターの腕に横にいくつか付けられた金属の棒のこと。これに弦を抑えつけることで特定の振動数=音程が鳴る

これをヴァン・ミータは外したと。そりゃあ音程も何もあったもんじゃないわな。でも決まった音色から自由になってフラフラ飛び回る感じはまさしくピンチョン的でいいなぁ

 

歯医者といえば『V』の手術シーン!!!

 

p.332
これがほんとのカーセックス
アーンド愛車NTR

 

めちゃくちゃ甘ったるく感傷的な筆致だ・・・「革命に燃えていた若かりし自分たち」へのノスタルジーがすごい

郷愁というか、リアルタイムで自分たちの理想が破れていく敗北の美学みたいな
その回想を、自分たち(プレーリーからすれば母親)が撮った映像フィルムを観るという形式に収めて語るので、より一層魅力が増す。フレネシの照明・光周りの表現も多彩で、きわめて映像的な文章

 

アクロバティックかつシームレスに、語る年代や人物やシーンをスライドさせていく手法には『JR』っぽさも感じる。

 

〈秒速24コマ〉の常套句「ビー・グルーヴィ、でなきゃBムーヴィ」 めっちゃ良いな!!!

 

368
フレネシがよく見ていた高潮に沈む町の夢とても幻想的で美しい。
そこから現実のDLとの再会に繋がるのもめっちゃアツい。フレ×DLしか勝たん

 

373, 375
ピンチョン、ふざけたハイテンションでカオスな文体もあるけど、それを支えているのは正統的に上手い文章なんだよな。まじで普通に文章がめちゃくちゃ上手い。

 

375
長時間白熱した映像を観終えたプレーリーの心境を「LAレイカーズの試合後のバスケット・ボールのよう」と喩えるセンスすげ〜
的確よなぁ

 

 

あと3章、170ページ!!!

 

 

どうも、命知らずの猛者です。 
これら4冊のうち読み切れるのは果たして幾つなのでしょうか・・・乞うご期待!!!

今のところの読み易さは順に

ブラス・クーバス>>コレ愛>>>ヴァ>>>>夜みだ

です。

(ヨイヨルさん主催の毎週末読書会が無ければヴァインランドもとっくに投げ出していました。ほんとうに感謝しています)

 

 

 

 

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 もちろん買いました。何年も待たされたことはもちろん、ガイブンを読み始めて以来、初めて体験するピンチョン邦訳出版なので非常に感慨深いです。が、まだまだ読むのは先になりそう・・・・・・

 

 

『別荘』ホセ・ドノソ

 

 

「わからない、わからないわ。その話には分厚いベールを掛けておきましょう」(p.60) 

 

 

現代企画室から、ラテアメ邦訳界のシバニャンこと寺尾隆吉氏による翻訳で出ているホセ・ドノソ『別荘』を読んだ。550ページ、鈍器と呼べる小説を最後まで読み切れたのは今年は本書が1冊目かもしれない。(それほどに最近は長篇が読めない……すぐ飽きて別の小説に浮気してしまう)

 

ドノソは昨年『三つのブルジョワ物語』を読みはじめ、文章が読みづらく冒頭20ページほどで挫折したきりなので、ちゃんと読んだのはこの『別荘』が初めてだった。こちらは驚くほど読みやすい文章で、550ページを2週間で読み切れた。これは普段10ページ読むのに1時間かかる自分としては破格のスピードである。

 

本書の裏帯文に「理屈抜きに面白い傑作」とあるように、とにかく娯楽作品としてめちゃくちゃ面白かった。こんなにストーリーが躍動的かつ大量のキャラが立っている文学はあまり読んだことがなかったので新鮮で楽しかった。

 

 

そう、本書を読み始めてわたしが抱いた感想は「大量の美少女キャラが出てくる萌えアニメじゃん!!!」だった。

 

というのも、本作は総勢35名もの子供たち──ブルジョワ貴族ベントゥーラ一族の"いとこたち"──が別荘に子供だけで置き去りにされる話なのだ。なんというチャーミングな設定。

子供は女子17人・男子18人で、5歳から17歳までよりどりみどりである。

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この登場人物表は、『百年の孤独』の家系図とは異なり、原書にもとから付いている公式の表である。

 

やけにキャラの立った大量の美少女がひっきりなしに画面に入れ代わり立ち代わり登場する、ソシャゲのアニメ化作品。それがわたしの本作への第一印象であった。

 

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備え付けの登場人物表に書き込んでいってもいいのだが、わたしは人物相関図を書きながら読んだ。『百年の孤独』では家系図を書いたが、こちらは100年でなくたった2日間の話なのに50人をゆうに超えるキャラが出てくるため、非常に煩雑な図になった。

 

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多くの萌えキャラのなかでもわたしの最推しは、図書室に引きこもっている少女アラベラだ。

彼女は、あることを企んでいる主人公ウェンセスラオ(9歳, ♂)が彼女を頼りにして図書室を訪ねる場面で初登場する。

男物の服を着て髪を短く切ったウェンセスラオを見ても、アラベラは黙ったまま驚きの表情すら見せなかった。それでも、頭を後ろへやることで、小さな鼻の上を滑り落ちていた眼鏡の焦点を合わせながら、四倍に強化された視力で彼の姿を見つめた。アラベラが相手であれば、大げさな反応をされるのではないかという心配は無用だった。ほとんど図書室から出ることもないまま十三歳になっていた彼女にとって、もはや目新しいことなどまったく何もなかった。 (p.24)

「頭を後ろへやることで、小さな鼻の上を滑り落ちていた眼鏡の焦点を合わせながら」の部分を初めて読んだとき、「そんな萌えキャラみたいなヤツいる!?!?」とマジで声が出た。

 

アラベラの脳内イメージはパチュリーアグネスタキオンベアトリスだった。

 

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他にも作中で「美人」と明確に言及されているキャラが何人もおり、お姉さん属性キャラ、病弱系キャラ、愛憎うずまく巨大感情姉妹百合などオタクの好きなやつがてんこ盛りの小説である。

もちろん男子キャラも非常に多彩で面白い。"小悪魔"の異名を持つ主人公の美少年ウェンセスラオなんて、母親から溺愛されるあまり日頃から長髪にフリルのスカート・レースの下着などで女装をさせられている超クセの強いキャラクターだ。(彼は開始4ページで性器を開陳し、その4ページ後に従姉たちからスパンキングされる)

 

また、もちろん子供だけでなく、その両親たちも重要なキャラクターだ。ベントゥーラ一族の大人たちは、我々が「貴族」と聞いて思い浮かべるステレオタイプな負の側面を誇張したような戯画的な性格をしている。高慢で他人を見下していて、自分たちの既得権益の保持を第一に考え、都合の悪いことや変化には「分厚いベール」を覆いかぶせて見ないふりをする癖が染み付いている、保守主義の権化のような人物像だ。

 

このように、本作に登場する人間は、大人も子供も戯画化された「キャラクター」として設計されている。リアルな人物像ではなく、わざと虚構的・記号的に作られているのだ。

 

本作の大枠としては、醜いベントゥーラ一族の大人たちの保守主義と、それに反抗する子供たちや、『別荘』のあるマルランダ地方の抑圧されている原住民たちの革新主義の対立という、あまりにもシンプルな構図がある。

 

 

しかしながら、ラテンアメリカ文学史に残る大傑作と言われている作品がそんな単純な内容であるはずがない。

まずは「大人/子供」とか「貴族/原住民」といった粗野な図式によって理解されるが、読んでいくうちに、より複雑で有機的な構造をもっていることが分かってくるのである。

というのも簡単な話で、ベントゥーラの子供たちが35人、大人たちが13人いるなかで、彼らがそれぞれ一枚岩であるはずがないからだ。どいつもこいつも秘密の陰謀を抱えており、それぞれの利害関係のなかで同盟を結んだり裏切ったりする。

そうした、荒野に佇む1つの別荘で繰り広げられる陰謀と裏切りにまみれた群像劇が本作の読みどころである。

 

序盤わたしは「萌えアニメじゃん!」という感想をもったが、中盤になりストーリーが大きく動き出してくると、今度は「進撃の巨人じゃん!!!」と叫んだ。

 

槍の鉄柵に囲まれた閉鎖的な別荘の敷地と、その外の、食人種が蔓延ると噂されるグラミネアの危険な荒野。こうした「塀の内側/外側」という空間設計が途中で根底から覆る衝撃の展開、塀の内側の子供たちがそれぞれに秘密を抱えながら画策し、協力と裏切りを繰り返して進んでいく先の読めないストーリー・・・

 

完全に『進撃の巨人』ですありがとうございました

 

諫山創の次作、『別荘』コミカライズらしいですよ

 

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『別荘』アニメ化時のメインビジュアル(中央は女装したウェンセスラオ)

(もっと言えばリヴァイ→フベナル、エレン→マウロ、ミカサ→メラニア かな)

(もちろん、大量の子供たちが1つの閉鎖施設で共同生活する設定から『約束のネバーランド』を引き合いに出してもいいだろう)

 

 

このように、本作は、あの悪魔的な奇書『夜のみだらな鳥』の作者が書いたとは思えないほどに読みやすく、熱い展開が盛りだくさんの少年マンガのような文学作品だ。そりゃあ「理屈抜きに面白い傑作」なんて出版社が宣伝するのもうなずける。だって実質『進撃の巨人』なんだから。

 

 

 

・・・つまり、

 

萌えアニメ×少年マンガ

(『Lapis Re : LiGHTs.』×『進撃の巨人』)

 

 

これが、一読したわたしの端的な『別荘』観である。

つまり、ひじょーーーにオタク向きの作品といえる。

あと、わかる人だけわかってもらえればいいが、前半/後半の断層のしかけに「『凪のあすから』じゃん!」と叫んだ。

 

 

・・・しかし、それは読んだわたしがオタクだからそう感じただけのことではないのか?
わたしの文学鑑賞時に連想できる作品ストックがオタクコンテンツしかないだけのことではないか?

 

・・・・・・

 

いや、そうではない。というのも、本作は「現実に対して虚構を打ち立てて逃避する」というきわめてオタク的な命題が根底のテーマであるからだ。

 

それは何よりも、子供たちが別荘で行う「伯爵夫人は五時に出発した」に象徴されている。この即興のごっこ遊びは、子供らがベントゥーラ一族の大人としての資質──都合の悪いことは忘れて自らの見たいように世界を見る──を育むための教育的慣習のような側面があり、別荘の安定した現実世界が脅かされたときに、この劇に逃避することで子供たちのパニックを抑えて統制するために用いられてもいた。後戻り出来ないほど状況が変化してしまったなかで、「伯爵夫人は五時に出発した」の役に完全に入り込んで現実に戻らない選択をする子供もいた。

 

大人側も、ごっこ遊びは卒業して見下すようになったとはいえ、先ほど述べた「分厚いベールをかける」慣習によって本質的に同等な行為を常日頃繰り返している。たとえ自分の娘が亡くなっても「分厚いベールをかける」ことでその事実を忘却することができるのだ。

 

君たちに何か質問されるたびに大人たちは、驚きを隠してその場で適当な答えをでっち上げなくてはならなかったからね。それが単なる作り話だと認める勇気は誰にもなかった。楽園が現実のものとして定着してしまうと、この一家の人間にとって「現実」ほど重い言葉はないから、知らぬうちに彼らは、何の根拠もなく勝手に自分たちが作り上げた仮想世界にのめり込み、ありもしない鏡の向こうへ突き抜けて、そこから出られなくなったんだ。 (p.141)

 

 

それだけではない。

本作では要所要所で「作者」が顔を出して、作品の構成や今後の展開についてアレコレ語っていくメタ要素も特徴の1つとなっている。

 

もしこの話が創作でなく事実ならば、この場面を目撃した者が事件後に残した証言に基づいて、この最初の驚愕が引き起こしたあまりに不吉な重苦しさに耐えかねた子供たちや原住民たちが泣き出したばかりか、無知な者か若者か、密かにアドリアノ・ゴマラを崇拝していた者か、マルランダで起こっていた衝突の意味がよくわかっていなかった者か、ともかく、使用人の中にもこの悲嘆に声を合わせた者がいた、と書いてもいいところだ。 (p.330)

 

このように、本作はあくまで「創作」であることが定期的に作者によって強調される。そんな無粋なことをされると萎えると思われるかもしれないが、虚構だからこそ真に迫った体験ができる、現実よりも強度の高い虚構を構築してそこに逃避する、という本作の人物たちの思想がそのまま反映されているのだ。きわめてオタク的ではないか。

そもそも夏の三ヶ月の間だけバカンスを過ごす豪華絢爛な「別荘」という設定自体が非常に虚構的で、『アッシャー家の崩壊』などの正統ゴシック文学の流れを汲んでいる。

 

更には、終盤ではどこかのクンデラのように、作者である「私」が、登場人物であるベントゥーラ一族の大人と街で会ってバーで語り合い、書き上げた『別荘』の原稿を本人に読んでもらい感想を聞くシーンまである。

クンデラ『不滅』が92年、本書は78年なのでこちらのほうが早い。(筒井康隆朝のガスパール』も91-92年)

 

「なあ、もう行かないと、いいか……」
立ち上がろうとする彼に、どうだったか感想を訊く。彼は答える。
「さっぱりわからなかった……」
私はバツの悪い思いで笑う。別に珍しいことが書いてあるわけではないし、頭をひねって考える必要のあるほど凝った理念や構造に貫かれているわけでもない、文学的見地から言っても難しい作品ではないから、純粋に物語として受け入れてくれればそれでいいんだ、こう私は反論する。 (p.440)

 

他にも、別荘のダンスホールの壁面に描かれている騙し絵("トロンプ・ルイユ")が重要なモチーフとなっており、騙し絵のなかの「あちら側」の世界で暮らす人物たちと、それを騙し絵として認識する「こちら側」の人間たちの対比や交歓が幻想的に描かれている。

 

このように、実に様々なレベルで虚実のあわいを提示して幻惑させてくる。

 

ただ注意しておきたいのは、決してこうしたトリッキーなメタ形式が本質ではなく、何よりもまずベントゥーラ一族の子供たちによるストーリーが単純にめちゃくちゃ面白いということだ。あまりにメタフィクション性を強調するのは本作の受容にとって実りある行為ではない。

 

 

 

 

 

というわけで、『別荘』はソシャゲアニメ的な大量の美少女(や美男子)の記号的なキャラ造形が魅力的で、少年マンガのように陣営が流動的に変化する熱いストーリーと、とにかく面白い作品である。敷地を脱出して馬車で荒野へ駆け出すシーンなんて『進撃の巨人』中盤のようなワクワク感に大興奮しながら読んでいた。

 

ドノソといえば《グロテスク・リアリズム》なんて言葉があてられることもあるが、本作にそういう雰囲気はほとんど無い。序盤に一箇所だけかなり趣味の悪い事件が回想として語られるが、それ以外は狂気的というよりも疾走感や開放感、保守的すぎる大人たちの諧謔性など単純に面白い要素で満ち溢れている。

 

 

こんなにエンタメ的に面白いオタクコンテンツのような小説をドノソが書いているなんて思いもしなかった。

次はいよいよ本丸『夜みだ』に挑戦しようと思います……生きて帰ってこれるかな……

 

 

 

owlman.hateblo.jp

『別荘』が中ドノソ、『夜みだ』が大ドノソらしい。こわい

 

 

dain.cocolog-nifty.com

今まで小説のリアリティは、「小説世界がどれだけ現実らしいか」こそがスケーラーだった。しかし、小説が現実らしさをかなぐり捨て、「フィクションを読む現実」を突付けてくることで、今度は物語が現実を侵食しはじめる。

やっぱりdainさんの感想記事はすばらしい

 

 

tomkins.exblog.jp

 

 

blog.goo.ne.jp

全27記事にも及ぶ大変な労作感想。本作がいかにゴシック小説として完璧であるか、という点を軸にして語っていく。愛がすごいが、たしかにここまで書かせるほどの小説だというのも今ならうなずける。

 

 

note.com

そういえば『百年の孤独』の感想でも「本作を楽しむコツは限界オタクになること。マルケスはオタクに優しい」と書いていた。オタクはラテンアメリカ文学を読め

 

 

 

<以下途中までの読中メモ> ※ネタバレ注意

 

 

てっきり別荘を目的地に大人と子供でピクニックへ出かける話かと思ったら、避暑のため別荘で生活しているのがデフォルトで、別荘を出発地として大人が子供を置いてピクニックへ出かける話だった。30人を越える子供たちを別荘に置き去りで、召使いも皆ピクニックの従者につかせるなんてことある?非リアリズムではないが非現実的な塩梅の設定で良い。

waterplants.web.fc2.com繁茂する植物

 

開始4ページで性器が開陳された。
9歳の悪童ウェンセスラオが主人公か。図らずも『継母礼讃』に引き続き幼い子供の無垢なグロテスクさを描いた作品だ。こっちはアルフォンソと異なり邪悪な自覚があるっぽいけど。

母親から女装させられ人形扱いされることに嫌気が差している。かわいそう

 


p.24 図書館の主アナベルが萌えキャラすぎる。リゼロのベラトリクスか、アグネスタキオンみたいな感じ

 

今のところマジで大量の美少女が出てくる萌えアニメを観ている気分

男子キャラもいるけど、過激な百合厨じゃないからそんなに気にならない……というか異性愛規範を内面化しているのでむしろアド。(というか主人公の男子からして女装(させられ)属性持ち(の悪童)なので強い)

作者(を名乗る人物)が所々で顔を出して「これは私が発案した物語です」と口を挟むのはクンデラっぽい

え、図書館の本は背表紙だけで形骸的なものなの!?
じゃあ確かにアラベラはどうやって知識を…


31
大人というか、貴族・ブルジョワ階級の醜さしょうもなさを露骨に風刺してるな……

42
いちおう子供たちだけで置き去りにすることを問題にはしてたのね。17歳のフベナルがお目付役として残るので十分ということになったが。


2章

52
寓話的過ぎる要素で溢れたこの小説が、作中の語り手によってフィクションに過ぎないと強調されているという点に、どんな連関を見出せるか。
寓話性と虚構性

70
いくらなんでもアイーダとミニョン姉妹かわいそう過ぎる
こういう突き抜けたホラ話っぽいプチ挿話はいかにも南米というかマルケスっぽい

72
アイーダ-ミニョンの愛憎渦巻く姉妹関係いいな。
2人とも不細工で親からも誰からも愛されず、美しい弟への嫉妬が募り、妹は姉を虐めるが、姉の豊かな髪だけは「世界で一番美しい髪だと言って褒めていた」……いい……
ミニョンの暴力(殺人未遂)やウェンセスラオへの虐めは許されることではないが、根底には「外見のせいで誰からも愛されず貶められる2人は可哀想」というアドがあるために魅力へと昇華されるのが強い(めちゃくちゃ非倫理的な消費の仕方)


75
バルビナは色々とクソ女だけど何だかんだで夫には甘えたがりというかちゃんと愛してるのがかわいいな

インディオ?の原住民の描写は、サエール『孤児』よりも断然凄みがある。本作はわざと誇張してそのように演出してて、孤児は逆に淡々と描いているという狙いの違いがある

88
はい


3章

98
「伯爵夫人は5時に出発した」って何かと思ったら、いとこ達のごっこ遊び(アクション)の一種なのね。
大人の保守観を子供なりに引き受けるための儀式みたいなやつか

113
いちばん気に入ったの柵の槍に自分の好きな女の子の名前を付けるとかマウロなかなかやばくて草

121
ラテアメ文学あるある:何かにつけてオーラ出がち

そういや、起源のわからない槍の柵に囲まれて危険な外の世界から守られている内側で暮らす子供達…って場面設定まんま進撃の巨人やん
約ネバとかもそうか

132
これまで僕らが必死にやってきたことは何だったんだ!と世界観が大きく揺らぐ点も進撃っぽい

別荘に残された子供の人数と同じ33本の槍が、これまでは「地面か引き抜いて外れた槍」だったのが、今や「他とは違ってちゃんと埋まっていた槍」へと鮮やかにも反転した。とても面白い展開

子供達だけの生活といえば孤島モノ、『蠅の王』や『笑いと忘却の書』の5章に少し似てるかも

クレメンテ6歳とは思えないほど大人びた言動で良い
エドウィン・マルハウス』とか、歳の割に聡明過ぎる子供に弱い(科学の天才のような頭の良さじゃなくて、大人びている、世間をよく知っているかのような物言いをするのがタイプ)

138
アツい展開

141
作り話だと認める勇気……
これは作り話だとハナっから主張してくる本作の語り手はベントゥーラの大人たちとは真逆なのか

4章

152
男性器を見て文字通り目が潰れるの草

160
オレガリオ、セレステ、メラニア、マウロの4者関係めっちゃ複雑やな

174
あ、マジで騙し絵から出てきてたのか
直球の非現実要素は意外にも初?

5章

198, 201
カシルダ×コロンバはこれもう濃厚な姉妹百合判定出してもよろしいのではないでしょうか
※本書での濃厚な関係はだいたい嫉妬したり憎み合ったり蹴落としたり殺したりしてる。どいつもこいつも性格悪くて最高

公式で美少女/美人だと言われてるキャラがすでに4, 5人いる気が。
不細工/醜いと書かれてるキャラも複数名いる。
なにしろ33人も子供がいるので属性に困らない。
アイドルマスターシンデレラガールズか?

209
カシルダは金の亡者と言っても、金(きん)という物質自体に執着してるんだな
音だけで蝶番の番号を割り出すの草
それ話盛ってるやろ!って誇張法マルケス然りラテアメらしくて好き


6章

地味な顔を表現するのにこの文章が書けるのすげえな

240
進撃の巨人の中盤みたいな面白さ、ワクワク感がある

7章

247
槍のメラニアほんと草

第一部おわり!
いや〜アツい展開。これで半分か。ここからどうなるんだろう……楽しみだ〜

第二部
8章

本作での「人食い人種」もパラノイア的な存在だが、ピンチョンは権力や統治に反抗し解体する萌芽としてのパラノイアなのに対して、「本作の人食い人種」はむしろ大人たちの現実・秩序を維持するために敷いているパラノイアであるため真逆といえる


最後にフベナルとその両親のフクザツな三角関係がフィーチャーされて良かった

空気中に漂う微細粒子によって窒息するってちょっと『砂の女』を思い出す

 

 

 

 

『エバ・ルーナのお話』(1)イサベル・アジェンデ

 

これまでに読んだアジェンデは、岩波文庫『20世紀ラテンアメリカ傑作選』に入っていた「ワリマイ」のみ。

『精霊たちの家』に挑む前に、こちらの短篇集に手を出してしまった。『エバ・ルーナ』は未読だが問題ないらしいので。

 

プロローグと、最初の4つの短篇を読んだ。 

 

 

 

・プロローグ
冒頭からめっちゃシェヘラザードを押し出してくるやん・・・
いや文章うまいというか迫力あって好みだけど。

 


・二つの言葉
自分で自分に名前をつけた、言葉を売って暮らす少女暁のベリーサ


いきなりめっちゃ「言葉」を大事にします感出してくるやん・・・
言葉を大事にしている自分に酔ってそう(ひどい) Twitterによくいる感じのひと

 

文章がわかり易い。誰が何をした、というお話し口調なので。(タイトル通りのシェヘラザード設定)

これわりと原文も読みやすそうだな。スペイン語の勉強に使えそう

 

彼の顔は木の陰になっていた上に、それまで危ない橋を渡ってきた人間特有の陰もあって、彼女にはよく見えなかった。 p.15

こういう「そうはならんやろ……なるか?……なるかも……」と思わせられる描写すき
マルケスやドノソのような誇張法マジックリアリズムとは別物)

 

もしあの演説が輝くように美しくて腰の強い言葉で書かれていなかったら、たちまち使い古されてぼろぼろになっていただろう。 pp.18-19

「腰の強い言葉」!!! 日本文学では絶対にお目にかかれない表現だ

 

彼が広場の真ん中にしつらえられた壇上で演説をぶっているあいだ、エル・ムラートと部下のものたちはキャンディーを配ったり、金のスプレーで彼の名前を紙に書いたりしていた。けれどもそうした商人まがいのやり方は必要なかった。人々は、演説でうたわれている公約がじつにはっきりしており、論旨も詩のように明晰だったのでそちらに心を奪われていたのだ。彼がぶち上げる歴史の犯したあやまちを正そうという言葉に動かされて、彼らは生まれてはじめて笑みを浮かべた。 p.19

色々と面白すぎてズルいだろこれ
「論旨も詩のように明晰」:詩ってほんらい明晰さの象徴とされるものなんだなぁ
「生まれてはじめて笑みを浮かべた」:誇張!!!

 

彼らが立ち去った後には、夜空を美しく彩る彗星の記憶のように、希望の余韻が何日も空気中に漂っていた。 p.19

ラテアメあるある:なにかの香りや余韻や雰囲気などが実際に空気中に何日にもわたって漂いがち。『百年の孤独』でも何回も見た表現

 

けっこうジェンダー的なステレオタイプを意識的に押し出してる

「この魔女があなたの耳もとに囁きかけた言葉を返し、もとの男らしい人間に戻ってください、大佐」
言葉を操るのは神秘的な力を持つ(周縁化された)女性である、みたいな価値観
プロローグでも女性=言葉、男性=写真みたいなナイーブなこと言ってたな。
「男はAV、女性は官能小説」みたいな言い分

 

ベリーサの言葉というよりむしろ肉体に大佐もエル・ムラートも誘惑されて腑抜けにされたんじゃね?とすら思える

 


・悪い娘
の悪戯!!!(それはリョサ

十一歳のエレーナ・メヒーアス

 

「ひょろひょろに痩せていた上に血色が悪く(中略)身体は細く、妙に骨ばっていて、肘や膝の骨が今にも飛び出しそうな感じがした。」とか「本当は熱っぽい夢を心に秘めた情熱的な女の子だったのだが」とか「幼い頃は引っ込み思案のおとなしい子で」とか(全てp.22)、やけに重複する表現を連続して使ってない?金井美恵子か?

 

言葉vs歌

 

内気少女のわかいい初恋のお話かと思ったらガチストーカーというか犯罪者やんけ

 

中年になると、子供服の店に足を向け、綿のパンティーを買ってそれを愛撫して楽しむようになった。 p.34

エレーナのせいでベルナルがレベル高い方のロリコンになってて草

 

「男は別名保存、女は上書き保存」みたいな、また陳腐な男女論みたいなところにオチた。

 

 

・クラリーサ

クラリーサは町にまだ電灯がともっていない時代に生まれたが、長生きしたおかげでテレビの画面を通して最初の宇宙飛行士が月面をふわふわ遊泳するところを見ることができた。しかし、ローマ法王が来訪したときに、ゲイの男たちが尼僧に扮して法王を出迎えたのを見たが、そのショックがもとであの世へ旅立つことになった。 p.36

こんな書き出しある? 一撃必殺狙ってきてるやん
どの短篇も冒頭の導入(主人公の紹介)で読者(聞き手)を物語世界に引きつけようとキャッチーで魅力的に書いているのがわかる。「お話」のひとつの鉄則か。

「飲みすぎからくる不快感や兵役に取られる苦しみ、ひとりぼっちの寂しさに耐える力を与えてくれる」奇跡ってめちゃくちゃありがたいやん。

 

その後私が勤めを代えた関係でクラリーサと会えなくなったが、二十年後に再会してからは今も彼女と親しくしている。その間にはいろいろな障害があった。彼女の死もそのひとつだったが、さすがにあのときは彼女と意志の疎通をはかるのがむずかしくなった。 pp.37-38

あ、死後も頑張れば普通に交流できる系なのね。ペドロ・パラモ

 

夫がずっと引きこもっているのにどうやって身籠るんだ……

あ、普通に不倫してたのね。そこはリアルに行くのか・・・

 

マジックリアリズムを俗っぽく使っている、という見方もできると思う。
エンタメ的な面白さに奉仕している

 

指摘してもしょうがないけど、「知恵遅れの子供たちの世話をするために、二人の子供が生まれてきた」という神様の運命の釣り合わせを称揚する価値観は現代リベラル思想からするとかなりキツい(禍々しい)

個人の生の道具化、ハンナ・アーレントの「全体主義に反抗するために子供を生もう」みたいな思想とは全然違うがアウトプットは似たようなもの

ただ、そのわりに知恵遅れの子供2人がサクッと死んでいるのは、こうした単純な図式化による批判をかわす要素かもしれない。

 


ヒキガエルの口
これまた男性を惑わす魅力的な女性のお話

「遊び」楽しそう。目隠しされて下半身裸の状態の男たちがやる「鬼ごっこ」ってイメージすると面白いな

 

今の所どの話も女性主人公だけど、あんまりフェミニズム的にはよろしくない、保守的・伝統的な価値観に基づいているものばかり。もちろん話としては面白いんだけどね

 

 

 

 

「物語の終わり」レイナルド・アレナス

 

 邦訳があるアレナスのうちで最高傑作だと噂の短篇「物語の終わり」をやっと読んだ。
岩波書店『世界文学のフロンティア 5「私の謎」』収録。杉浦勉

(本書ではレイナルド・アレーナス表記)

 


ものすごいノスタルジー(文中でも言ってる)、ものすごく切実な語りかけ小説だ。

 

ウォレスや円城塔の短編くらい読みにくい。方向性はまるで違うけど。

あ、このうわごと感──それでいてこれ以上なく真剣に丁寧にこちらに語りかけてくる感じ──は、桜井晴也にちょっと似てるかも。

 

 

おわった。

20ページ読むのに約2時間半かかった。映画かよ
間違いなく既読のアレナスのなかでいちばん読みにくい。

語りや話の構造がフエンテス「純な魂」に似ているが、あっちはこんなに読みにくくない。

 

読点が多用されるため一文が長く、ストーリーと呼べるものがほぼ存在せず、「きみ」の位相や素性や「ぼく」との関係もはっきりせず、抽象的なことと具体的なことの語りが渾然一体になっており、ひじょーーーに読みにくい。小説というより散文詩に近いと思う。アレナスじゃなかったら多分途中で本を投げ出してたと思う。

 

 どうやら僕とは違うものを読んでいるっぽい

アレナス入門なら普通に『めくるめく世界』か、『夜になる前に』(未読だけど)を薦めるかな。『襲撃』でもいいと思う。『夜明け前のセレスティーノ』は前衛的な小説に耐性がないとびっくりするとは思う。でも本作よりは遥かに読みやすいでしょう

(『ハバナへの旅』はこれから読みますが多分1冊目向きではない)

 

 

「きみ」が歩いたりひとを見たり溶け込もうとする様子が描写される舞台は、ハバナとニューヨークの両方が幻想的に混じり合っているということでいいのかな。マジで次の文がどう来るか全く気が抜けないほど前衛的で難しかった。ベケットの小説3部作ってこんな感じなのかな。うわごとがずっと続く。

 

後半の街歩き(から樹木が街を侵略する描写)のくだりは土地や通り名の固有名詞が多かったのもあってピンとこなかったが、「ザ・サウザーモスト・ポイント・イン・USA」での語りにはブワッとものすごい力で持っていかれて泣きそうになるくだりが幾つかあった。

孤独、ノスタルジー、思い出──好きなように呼ぶがいい──、そのすべてをぼくは感じる、そのすべてをぼくは苦しむ、けれど同時に、そのすべてをぼくは楽しむ。でもとりわけ、ぼくがここまで来ることになったのは、勝利の感情を味わうという気持ち、確信のせいだ……。 p.269

 

だけれど、いまだ底知れない憎しみをもたないひとをなぐさめるのに、どんな理屈を持ち出せばよいのだろう? ひとりの人間はどうやって生き残るのだろう、かれが最も苦しみ、もはやそこに存在しないという場所が、まだかれを支えるたったひとつの場所である時には? ほら──ぼくはこだわった、だってぼくは頑固だから、分かっているだろう──、今はじめてぼくたちは人間になった、つまり、ぼくたちは憎んだり、思いのまま傷つけたりできるんだ、しかもサトウキビを刈る必要もなく……。 p.274

ここがいちばんすき。

 

序盤文のわけわからなさに困惑して、中盤でこれはめちゃくちゃヤバい!良い!一生読んでいきたい!と思い、終盤にかけてまたちょっとついていけなくなった。

すげぇ叙情的・感傷的なんだけど、前衛的・難解過ぎてそこまで辿り着けないかんじが悔しい。

訳者によると「現代スペイン語小説の最高の成果のひとつ」とある。原文も読めるようになりたい

一生読んでいきたい

 

 

 

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『ヴァインランド』(6)トマス・ピンチョン

 

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つづき

 

10章と11章を読んだ。

 



10章 (pp.279-295)

 

〈秒速24コマ〉の回想・フレネシとブロックの出会い

 

<あらすじ要約>
プレーリー、タケシ、DLの3人はLAの高層ビルに入っているタケシの探偵事務所へたどり着く。そこで〈秒速24コマ〉の仲間だったディッツァと合流。プレーリーは母フレネシ達が青春と命を掛けて撮ったフィルムを観せてもらう。そこではアナキストとして権力闘争の現場を映像に収めようとする若者たちの成果が映し出されていた。スクリーンはオレゴン州の反政府活動の裁判を映し出す。そこでフレネシはミスター検察官ブロック・ヴォンドと運命的な出会いをし、それがサーフ大学での事件へと繋がっていくのであった──

 


<付箋引用・感想メモ>

 

彼らはクロースアップの手法に──その曝け出す力、暴き立てるパワーに──格別の信頼を寄せていた。権力が腐敗していくプロセスは、人間の顔におのずと描き出される。大きくズームアップした人間の顔は、最高の感度を持つ記憶装置なのだ。光に対して真実を隠し通せる者がいるだろうか? pp.283-284

もうぜったいに真実味を取り戻すことはできない。
「ぜったいに?」ローカル局のレポーターが突っ込みを入れる。場所はサンワキーン・ヴァレーのどこかだろう。
ここでショットの切り返し。フレネシ・ゲイツが映し出される。部屋の中の二人の女性が座り直すのが感じられる。 p.284

〈秒速24コマ〉の撮る映像について説明する三人称の語りに、いきなり「ぜったいに?」という映像内のレポーターの突っ込みが入ることで、三人称の語りと映像内の(おそらくは)ナレーションが重なる。

また、次の段落の3文では「フレネシ・ゲイツが映し出される」という映像内のショットの切り返しと、「部屋の中の二人の女性が座り直す」という映像外(映像を観ているDLとディッツァ)への視点(ショット)の切り返しを続けて行っており、多分にメタ的な仕掛けが施されている。

 

これまでの章の回想では、誰かが誰かに語りだしたり、全知の語り手が勝手に喋りだしたりする形をとっていたが、この回想では「映像を見る」形でプレーリー(と読者)に、秒速24コマの話を伝えている。

 

こんなにも映画・映像についての小説だと思ってなかった。『重力の虹』のラストシーンでスクリーンにロケットが映し出されるメタ演出があったが、『ヴァインランド』では映画的演出をより発展させて広範囲に多岐にわたって、「過去(60's)と今(80's)」という物語の根本テーマとも結びつけて繰り広げている。正当進化していて良い。

 

 

姉妹の仕事ぶりを見ていると、思考なき行動というものの優美さに魅せられる。編集するのにズィピは爪とセロテープに頼り、ディッツァは歯とクリップを好んで使うのだけれど、ムヴィオラを回してみると、どちらの仕事もフレーム一つ狂いがない。作業中タバコはふかし放題で、TVは二、三台それぞれが別番組を流している。ラジオからはロック、それも好みのハードなアシッド系のものが流れっぱなし。その重厚なグルーヴ感の中で彼らの編集作業は続いた。グループの星占いを担当するミラージュが、双子座の二人に、日々の星位を教えるようになってからは、とんでもない時間に起き出して仕事を始めたり、新月の日には何もしなかったり。 pp.286-287

すげーキャラクターキャラクターしてる

 

 

〈秒速24コマ〉主要メンバーリスト
・リアリストな護衛役:DL, スレッジ
・夢に没頭するタイプ:ミラージュ(星占い役), ハウイ(金髪白人, ズィピ&ディッツァから嫌われている)
・天才フィルム・エディターのピスク姉妹:ディッツァ, ズィピ(ニューヨーク育ち)
・皆のご機嫌を取る役:クリシュナ
・照明係:フレネシ


こういう若者の集まりいいなぁ。〈ヤンデルレン〉みたいな
むしろ活動グループだから『野生の探偵たち』の〈はらわたリアリズム〉に近いかな

 

 

これらの無慈悲な映像にも、ときたま、偶然の産物としての救いがあった。デモ隊の一人にライフル銃を振り向ける州兵の腕に光る汗の逆光ショット、口が言うまいとしていることをすべて雄弁に伝えてしまっている農園主の顔のクロースアップ、ときどき割り込む田園と日没風景……。でも、これらはあまりに散発的で、スクリーンから溢れ出す陰惨なメッセージをさえぎるだけの力はない。
ある時点でプレーリーは理解した。これらのシーンのほとんどは、自分の母親がカメラを回している。だから、心をカラッポにしていれば、だんだん自分がママになり変わっていけるのではないか。ママと同じ眼を共有し、フレームが、疲れや恐れや吐き気から揺れ動くと、その振動に合わせて、ママの体をまるごと感じ、フレームの選択からママの考えを、歩いていってフィルムを入れカメラを回す動きからママの意志を感じることができるのではないか。 p.290

 

 

父ハブ・ゲイツが設計し、好んで「若い照明主任」と呼んでいた娘に伝授したこの装置を、フレネシはその場の必要に応じてカスタマイズし、ファシストの怪物である〈電力中枢〉からの生き血を、機会あるたびに吸い出すのに使っていた。この怪物は、竜巻や爆弾に似た情け容赦ない破壊者で、それ自体の意志をもって自覚的に動く。 p.293

電力と資本主義の怪物といえば、重力の虹の〈電球バイロン〉の挿話が思い出される。

 

フレネシが照明にめちゃくちゃこだわる人物である、というのがまた象徴的だ。光と影、表と裏、アナキスト運動家だったはずが警察の雇われ人に……

光と影、というのは2006年の『逆光』("Against the Day")でより深く掘り下げられるだろうし、そういえば前章(9章)にも朝と昼の光の当たり方によって町の見え方が変わるという描写があったな。

「ほら、見てごらん」 地平線から陽が射し始めていた。ふたりともほとんど眠らぬまま迎えた朝である。眼下の通りはみなクネクネとして傾斜も急な坂道なのだが、家々に通じるあらゆる路地も、段々をなす家の壁も、道の先の急なカーブも、ふだんは隠れて見えないところが、どうした具合か、いまこの窓から、すべてがくまなく捉えられる。一夜を路上で過ごして目を覚ましつつあるもの、カラの容器、誰かの落とした鍵、瓶、紙くず、それら一つひとつのものが、ダークな時の呪縛から解き放たれて、タケシとDLのいる窓に向かって、影も持たず、裏もなく、ただのんめりと、その存在を晒しているのだ。欠伸をしうごめき始め、それぞれの一日に散っていこうとする人たちを、ふたりはしばらく眺めた。「こんなに近くに見えるなんて──。あの人たちにも、あたしたちが見えるのかなあ」「トリックですね、朝の光の!」このままずっと、陽の昇っていく間、ここから眺め続けていたなら、町が姿を変えていく様子を間近に捉えることもできるだろう。物の端がゆっくりと回転し、物の影で内と外とが反転して、遠近の「法」が再び支配を取り戻していくさまが映し出されていっただろう。時計が九時を指すころ、窓から見る町の景色は、すっかり昼間のヴァージョンと入れ替わっているだろう。 pp.251-252

ここスゴく描写がきれいで印象に残っていた。
こうして読み返すと、「物の影で内と外とが反転して、遠近の「法」が再び支配を取り戻していく」とか非常に示唆に富む文だなぁ。映像内(出演者, 過去)と映像外(鑑賞者, 現在)の反転、遠近の法・・・
本作中の二項対立といえば、この世とあの世、生と死をさまよい歩くサナトイドも忘れてはならない。

プレーリーは映像に映った母親の姿ではなく、母親が撮った映像を見ることで、「ママになり変わっていけるのではないか」という錯覚、没入感と親近感を覚える。映像を「見る」(="過去を知る")という行為が、映像を「撮る」(="現在を生き、過去に伝える")という行為と疑似的に重なり合う。それは、一般に過去の出来事を現在として経験していく「小説を読む」という行為と同じことなのかもしれない。

 

なんか批評の真似事みたいな解釈を色々と誘われるけど、第一には、とにかく文章が良い!
引用しなかったけどフレネシとブロックの邂逅シーンなんてスゴく決まってる名シーンだと思う。

この章は短く映画的にまとまってて非常に好み。完成度が高い

 

 

 

11章 (pp.296-314)

 

サーフ大学での〈ロックンロール人民共和国〉成立、フレネシとブロックの逢瀬

 

当時の大統領リチャード・ニクソン邸のあるサンクレメンテのお膝元、トラセロ郡サーフ大学で、数学教授ウィード・アートマンを中心にして、大学の自治権をめぐってミニ国家「ロックンロール人民共和国」(通称"PR3乗")が設立される。ウィード自身には特に強いカリスマ性も意志もないのだが、192センチの長身のせいもあり、あれよあれよと祭り上げられてしまった。

彼の友人で東南アジア地域研究をする大学院生のレックス・スナヴルは、ヴェトナム戦争の知られざる共産主義過激派集団「ボルシェビキレーニン・グループ・オブ・ヴェトナム(BLGVN)」をイエスのように崇めて、「すべての憎き官憲を大学外へ(ADHOCの会)」をウィードを誘い発足させた。

PR3乗の建国宣言翌日には〈秒速24コマ〉がやって来た。フレネシはウィードに執着してカメラに収めようとするが、実は、PR3乗の内部崩壊を企むブロックにウィードの映像を渡すためだった。既に彼女はブロックと深い仲になっていた。

オクラホマシティでのブロックとの嵐の夜の逢瀬。ウィード-フレネシ-ブロックの三角関係のなかで、ブロックは「ウィードの魂がほしい」と言う──

 

「君はだね、私とウィードが通じ合うための媒体なんだ。それが君のすべてだ。ここもあそこも、きれいに縁取られた君の穴たちが、私たちを交互に運んで行き来する。香りのついたメッセージを小さな秘密の場所にしまい込んでね」 p.309

 

自分のことしか考えない最低の学生をそのまま大人に投影したようなヤツ──ではあっても、それとは全然別のどこかに、どう生きていっていいのか分からずに呆然としている少年の、ほんとうの彼がいて、わたしの介在を必要としている。わたしが一緒に手を引いて歩いていけば、その彷徨える魂を、光のもとへ、85番フィルターを入れた太陽プラス空の光へ、導いていき、本来彼がそうなれたはずの真っ直ぐな人間に戻してあげることができるかもしれない。〈ラヴ〉という、ちょっと前まであらゆるロック曲が歌い上げ、それさえあれば世界が救えるはずだった──でも今や魔法が色褪せ、みじめな用法に甘んじている言葉を、今なお信じて使えるのは、そうした思いの中だけだった。 pp.313-314

フレネシはダメ男にハマってしまうタイプか。ゾイドもダメ男だし……

ロックンロール人民共和国、通称ロッ共ワロタ。かわいい

フレネシは結局ブロックのスパイとみせかけたウィードの二重スパイなのか、ここの三角関係の緊張感がヤバい

 

 

→つづき

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トマス・ピンチョン全小説 ヴァインランド

トマス・ピンチョン全小説 ヴァインランド

 
野生の探偵たち〈上〉 (エクス・リブリス)
 
逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)

 

 

 

『ヴァインランド』(5)トマス・ピンチョン

 

hiddenstairs.hatenablog.com

の続き

 

 

9章 (pp.189-278)

 

DLがタケシ・フミモタと出会って相棒になるまでの話

 

<あらすじ要約>

彼女らを出会わせたのは例の富豪ラルフだった。日本で身に着けた忍術で幼くして格闘会のスターとなっていたDLに惚れ込んだラルフは、彼女がブロック・ヴォンドを恨んでいると知り、目的は同じだとして彼女を雇うためにオレゴン州のカフェで接触

しかしトラブルを避けたいDLは彼から逃げてオハイオ州コロンバスへ。そこで闇稼業から足を洗い、凡庸な女性の人生を歩もうと会社勤めを始めるが、ある日〈ピザハット〉の駐車場で誘拐され日本に連行され、性奴隷オークションにかけられることに。しかし彼女を高額で落札したのはラルフだった。

説得され、ヴォンド暗殺計画に協力することに決める。ヴォンドの愛人(であり自分の親友)フレネシになりきるメイクをDLはさせられる。狙うは国際検察シンポジウムのため彼がヒルトン東京に滞在しているとき。娼婦になりすまして〈忍法一年殺し〉(ニンジャ・デス・タッチ)をお見舞いする計画。

 

一方、フリーランス保険業界員として、タケシ・フミモタは〈ワワヅメ生命&非生命〉のビルを跡形もなく踏み潰した謎の巨大足跡の現場調査に。そこで旧友の爆弾処理オタク、ミノルと再会し、2人は大企業〈チプコ〉のヘリと東海道新幹線で東京へ。

足跡の件の陰謀調査のためヒルトン東京へ潜入。ミノルとはぐれたタケシは裏口でブロック・ヴォンドと初対面。車で攫われ、彼の身代わりの囮役として風俗〈春のデパート〉の地下室へ行かされる。そこにいたのはDL、しかし度の合わないカラコンをしていた彼女はタケシをブロックだと勘違いしたまま〈一年殺し〉をお見舞いしてしまう。人違いだと気付いたときには後の祭り、任務失敗でショックを受けたDLは〈くノ一求道会〉へ逃げ帰る。一年後に死を定められてしまい絶望するタケシは、ラルフの助言により、直してもらうためにDLを追って〈くノ一求道会〉へ赴く。

 

諸々を聞いた求道会のシスターは、罰としてDLとタケシは一年間共に行動するよう命ずる。会の装置パンキュトロンで治療を受けたタケシは、DLと共に下界へ追放される。ドライブスルーできなかったステーキ屋で〈サナトイド〉のオーソ・ボブと出会い、彼らの住むシェード・クリークで2人は〈カルマ調整クリニック〉を始めたのだった……

 


・・・・・・エピソードの密度が!!!濃い!!!!!
あいだにひっきりなしに挟まる癖の強すぎるプチ・エピソードを全部省いてこれだよ!!!!



〈読中メモ&引用〉

 

ん? DLはフレネシと出会った後の話なんだ。映画サークル〈秒速24コマ〉はどうなったんだ? あのあとフレネシはヴォンドと共にDLの前から去った? 時系列がようわからん。

 

〈ワワヅメ生命&非生命〉:ふざけた名前で草
その取締役ワワヅメ教授はフミモタのかつての恩師

 

ゴジラ(の足跡)でてきた!!!!!!!

 

陰の世界に君臨する巨大マルチ企業〈チプコ〉:これまたピンチョンらしいラスボスっぽい企業が出てきた。

 

東海道新幹線に自前の駅とか草 東京まで3時間弱って結構遠いな

 

ミノル:タケシの顔なじみの爆弾処理スペシャリスト

 

自分たちには手の届かない、高い高い場所で惑星サイズの抗争が年を越えて続いている。権力は集積し、命はその価値を下落させ、人事は入れ替わる──そういうことがかつてのギャング戦争や血族間の争いと同じルールで行われながら、規模だけは地球全体を巻き込むまでになってきている。 pp.212-213

ピンチョン作品の世界観を端的に言い表している

 

長年の保険マン人生の中で、保険金計算の数値が深遠な謎をたたえて動くのを見てきたタケシは、徴しと兆し、の彼方からのお告げ(メッセージ)というものに価値を置き、それらを求めて世の中を見つめる習慣を身につけていた。 p.214

「い(shi)」音でめっちゃ韻踏んでない? 「「徴しと兆し、の彼方からのメッセージ」なんてわざわざルビ振ってるし。
原文はどうなんだろう


タケシは保険会社勤め→フリーランスだったのね。忍者じゃなくて。

 

そろそろ、読み終えたページ数が溜まってきて、本を机に開いた状態のまま置いておけるようになった。

 

「セックスのところは、やっぱり飛ばしましょうかね」
「そう、まだ子供だから」DLが同意する。
「あなたたちぃ!」プレーリーが抗議する。
「それではモロにいきましょう──プラスチックの固くて滑らかな縁を指先でいじくっていたぼくは──震える手で──スロットにカードを差し入れたのですよ。すると──かすかな鳴き声みたいなのを立てて、その穴は──指からカードを吸い取って……」 p.217


プレーリーかわいい。タケシとDLの息の合い方がヤバい

 

どこかで時を告げるチャイムが聞こえる。古来の呼び名で、酉(コック)の刻だ。「堅茎(コック)の時とは意味深長ですねえ」と後にタケシは、話がこれに触れるたびコミカルな口調で言い添えて、いつもDLに睨まれるのだった。 p.219

原文は "cock" でおんどりとペニスを掛けているのだろうけど、日本語訳だと更に「刻(コク)」にも掛かっちゃうのが面白い
翻訳の妙

 


売春クラブ〈春のデパート〉にて度の合っていないカラコンをつけたDLは囮のタケシを見抜けずにヴォンド暗殺失敗

娼館×人の取り違えといえば『重力の虹』の後半でそんなエピソードあったような。海岸沿いに建つスゴい娼館と、スロースロップと間違えて敵キャラが捉えられ性器を切除されるくだり。

 

人はよく彼をお調子者と評するが、その真の原因は化学物質の分子組成にあったのかもしれない。 p.228

これも『V.』『重力の虹』でさんざん書いてきたピンチョンあるある。人体が物質的に還元されていくことの諦観と絶望


ミチコ・ヨママ:タケシの元妻。映画女優。出演したTVドラマ「脱線てんぷくベビーちゃん」はアメリカでも大人気
ミチコ・ヨママ・・・ww いいねぇ、外国人が頑張って考えたそれっぽい日本人の名前感が素晴らしい。タケシ・フミモタといい、ワワヅメ教授といい……

 

ゾイドといいタケシといい、くたびれた中年男性たちの物語でもあるよなぁ……

 

「あっそう」 男はムッと口を閉ざして、眉をしかめ、手にしたゲーム機に戻っていった。それはセックスと原爆の要素を組み入れた「陰核爆弾」という名のものであったけれども、サウンドチップが初期の安物のため、オルガズムに達したときも、薄っぺらな高音が、息が詰まったみたいにブツ切れになって聞えるだけ。爆発のほうはもっとみじめで、その瞬間、シャーというホワイトノイズが弱々しく響くだけ。 p.231

こういうポップカルチャーに皮肉とブラックジョークを振りかけて何気ない描写に組み込んでくるのほんとすき

 

この人、トーキョーで鉢合わせしてからずっと、逃げたあたしを求め続けてきたんだ、と。でも、これほどまでに自分に対して欲情する事情に関して、あの晩以上に理解が進んだわけではない。空を仰いで彼女は言った。「あんた、気が狂ってんのお?(ユー ファッキング・クレイジー)」「きみのお役に、このぼくが立つといいなと思いましてね、やってきたのですよ、ソバカスさん!」 pp.235-236

名シーン
DLとタケシ、ラブコメ少年マンガみたいな男女バディ関係だなぁ
アメリカ人くノ一と日本人保険員、1年後に死ぬ術を男に施してしまうが実は人違い、その責任を負って相棒になる──

『ダンダダン』の2人にちょっと似てるかも。男側が弱くて小さいところとか。

 

 

ヘイ、ドスケベ・ジャップ! (p.239)

セクハラしまくるのも少年漫画っぽい(それに女性側が制裁するいつもの構図)

 

──後にDLは、ことあるごとにタケシに向かって「あんたなんか、あのままパンキュトロンにかけっぱなしにしとくんだった」と叫んだのだが、この罵り言葉をあまりちょくちょく使ったもので、親しみの表現になってしまった。 p.239

 

シスターは、肩ではなく眉だけをすくめて、「原罪は犯さないこと。あの子があるがままに生きられるよう、お願いしますよ」。
そう言われてもねぇ、おばさん、当事者になると、キツいんだよねえ、と彼が無言でつぶやいたのは、もうロシェルが部屋を出ていった、いや、タケシが館を出ていった、いや、さらにそのあと、求道会の建物が視界から失われ、モミの林の上に見える峰自体がカリフォルニア海岸の雲の向こうに消えてからのことだった。 p.241

ここのスピード感ヤバ
映画的なカット演出にも一見思えるが、「〜〜した、いや、さらにそのあと、」という重ね塗りの手法は小説ならでは。

 

レンタルのファイアーバードでフリーウェイを飛ばしながらタケシもDLも感慨深そうだ。ふたりだけというのは東京のあの部屋以来である。
DLが運転席に顔を向けた。「これ、殺された代償なんだから。ご命令は何かしら?」
タケシはしばし考えて、「思いつかないなあ。ノー・セックスって条件だったしなあ」。
DLはすばやく、「あたしの気持ちも察してよね。あんたとさ、一年もだって」。
この先続いていく言い合いの、最初のジャブの一発である。ややあって、「じゃあ、こうしましょう。きみの好きなバス乗り場に連れてって、お山ん中への片道切符を買ってあげる。どうですか?」 pp.241-242

絵に描いたようなケンカップル。DL×タケシ尊い……

 

ワワヅメ教授との通話。東京ではぐれたミノルは行方不明。彼を始末した(であろう)連中は教授の采配でタケシ達を追っているとか。やっぱチプコが黒幕っぽいな


オーソ・ボブ・デュラーン:ヒッチハイカーかつサナトイド(『死んでいる、みたいで、ちょっと違う』ピンチョンの造語。旧訳では「シンデルロ」だったらしい) ボブ・ディランとは無関係?

またヤンデルレン(全病連)みたいな造語か。

 

ボブを車に乗せて彼の住処、ヴァインランド群のシェード・クリーク(御影川)へ。なんだかゾイドのほうと繋がりそうだぞ

そこで2人は〈カルマ調整クリニック〉としてサナトイドの面々の身の上話を聞く商売を始める。

 

え、サナトイドってマジで半分死んでる幽霊みたいな存在なの!? 比喩ではなく?
過去作で降霊会とか散々やってたけど……

 

一瞬の静寂。殺戮潜水艦〈アンスピーカブル〉号が、陽に照らされた静かな海でひょこんと潜望鏡を上げ、おっと自分は愛のボートではなかったと確認したのち、海の底へふたたび潜るみたいな、そんな微妙な一瞬だった。 p.252

比喩で造語の固有名詞を使うことある!? おもしれー

 

カルマの軌道修正は──彼は説明を続けた──もともとは何百年もかかることもあったのだ。事を動かす拍動は人の死だ。すべては生と死のサイクルでゆっくり動く、それが本来の姿なのだ。だが、世の中が市場経済で動くようになってくると、そんなにゆっくり構えていては、ビジネスとしてやっていけなくなってしまう。そこで現われたのが繰り延べシステム、すなわち未来を先取りしてカルマの借入れをするという算段である。近代のカルマ調整術からは、もはや〈死〉は置き去りにされていたのである。 p.253

カルマという前近代的でスピリチュアルな要素を資本主義経済という現代的でビジネスライクな要素で換骨奪胎する十八番

 

 

「あんたはね」ほんとに信じられないヤツだ、「シスター・ロシェルの東洋医学班チームにね、命を救ってもらってんの! 死んでたところを救い出してもらってんのよ。あの人たちが、タダでそこまでやってくれると思う? あんたにまわった請求書がね、このあたし! 一度あんたを殺した女をお供としてずっとそばに置いておく、それがあんたの支払い方法なんだからね。どれほどの義理の絆であんたにあたしが縛りつけられてるのか、わかる? わかんないか、あんたなんかに。"義理" ってものを創ったの、ニッポン人でしょうに、この、国民的な恥さらしめが!」 p.255

ラノベツンデレヒロインか? ってくらいオタクに優しい設定
DL的には間違えて殺してしまった借りがタケシにあるけど、タケシ的には命を救ってもらった借りがくノ一求道会に対してあるのか……DLとくノ一求道会の責任関係、シスターがDLに対してどれくらい会への所属を認めるかに依る気がする

 


〈カルマ調整師〉の仕事に出勤するタケシ達を待っていたのは、牽引ビジネスを営むヴァート&ブラッドのコンビ。
あ〜〜〜、かなり前にゾイドがプレーリーに会いにピザ屋に駆けつける前に会ってた2人だ!!!
4章 p.67~ 〈ヴァート&ブラッド商会〉:合法性の疑わしい牽引トラック・チーム

 

翌日、ヴァート&ブラッドはタケシ&DLにヴェトナム戦争の頃からの身の上話をはじめる……えっ!?お前らの回想入るの!?

今ではすっかり頭が上がらない、商会の事務員ティ・アン・チャンというヴェトナム女性との出会い

 

戦場でのエピソードに単なるバカ話を交えてかき回したような彼らの話が、ときに、炎の舌の奇跡が起こる寸前に霊に憑かれた者が見せるという癇癪的確信に満ちた意味不明の発声に肉薄するものがあった。 p.260

「炎の舌の奇跡が起こる寸前に霊に憑かれた者が見せるという癇癪的確信に満ちた意味不明の発声」って、ヴァインランドの語りそのものっぽいんだよな。すげー早口でドライブしていく文体

 

セッションを重ねるにつれ、タケシとDLの物語のほうも、この二人に少しずつ伝わっていった。(中略)ただこの二人は、他の客とは違って、「無料のアドヴァイス」とやらを押しつけたりせず、そのかわり、お互い同士、タケシとDLの物語の論評を展開した。ヴァートはそれをホームコメディとして楽しんでいたようで、タケシとDLの話になるたび、ライヴ・スタジオの聴衆に代わって、けたたましい笑い声を随所に差し挟んだ。
「そうゆうの、ちがうんじゃねえかなあ」ブラッドはヴァートの解釈に反対である。「もっと金曜映画劇場みてえんだよ。ほらよ、男のほうが不治の病を病ンデルっちゅう物語とかあるじゃねん」 p.260

相手の話の論評をその場で展開し、その解釈で揉めるのいいなぁ
私は少年漫画かラノベとして楽しんでいます

 

考えれば考えるほど、文字どおりの「マインドレスな悦び」というべきか、そういう状態に自分が押しやられていく気がする。つまり、その悦びを味わいつつ、同時に理性(マインド)を保っていることは、まったくもって不可能なのだ。 p.261

Gravity's Rainbow の初稿タイトルって確かMindless Pleasure だったよね!?


ヴァート&ブラッドの夜の牽引業エピソード。山腹から転落し果樹園のリンゴの木のてっぺんにひっかかった車を救い出せ!
→その車の運転手のサナトイドは巡礼者で、タケシの〈カルマ調整クリニック〉の噂を聞きつけてはるばるやって来たらしい。そっちと繋がるんかーい!しかも彼は10年前にフレネシに撃たれたとか……

 

「騒ぎなさんな。私はサナトイドだよ」
「ならご安心。オレたちの専門だ。車は?」
「ストレート」 この言葉に彼が込めた意味は、三次元の固体であって、シェード・クリークの町と牽引車の保管所を結ぶ道のりの途中でドロンと消えてしまわないということであった。サナトイドの車には、スクラップになってあの世に行ったはずが、生前に道路で重ねたカルマのために、再びこの世に返されたものも多く、そういう因果な車に、よくこれまでヴァートとブラッドはほとほと困らされていたのである。 pp.272-273

車まで生霊かよwww おもしろいな〜〜
ピンチョン、水素水とか量子力学の意思の波動みたいな疑似科学を、疑似科学と分かっているからこそ大好きそう

 

 

「そいつなら知ってるさ、ブラッド。町まで一緒に乗せてくわ」
「サテ……、その君たちの友だちは、いまこの辺りにいるんでしょうか」タケシが目を細めて部屋を見透かした。 p.273

この会話でいきなり視点・時系列がタケシ&DL側に戻ってびびった。

 

「ウィード・アートマン。あの男のことだもの、そりゃ出てくるわよね。いつ現れるか期待して、ちゃんと待ってるべきだった」
「あんたの仲間の女のこと、なんだとかかんだとか言ってたねえ」
「まだ機嫌は直ってねえみてえなんざ」ヴァートが言い添える。「あんなことになったんも、みんなあの女のせいだって言ってたいね」
霧隠の館の、光まぶしい調理室で、プレーリーはDLからいまの話を聞いていた。「ママが人を?殺した?」 pp.273-274

お次は現在時制の〈くノ一求道会〉でのプレーリー&DL&タケシ視点まで戻った!
つまり、ここでは


・現在(1984年頃)、〈くノ一求道会〉にてプレーリーがDL&タケシから2人の出会いの話を聞いている
→・シェード・クリークの〈カルマ調整クリニック〉で、ヴァート&ブラッドの身の上話をタケシとDLが聞いている
→→・夜にシェード・クリークの果樹園で車を救出したヴァート&ブラッドが助けたサナトイド、ウィード・アートマンから(10年前にトラセロ郡でフレネシに撃たれた)話を聞いている

 

という3重の入れ子構造を一気に2段駆け戻っている。

 

ウィード・アートマン:トラセロ郡〈白波(サーフ)大学〉の怪しい革命家だった。
インディペンデント・コントラクター(警察に協力して報酬を貰う民間人)のフレネシはブロックの指示でアートマンへの発砲を計画した。

 

ヴァート&ブラッドとかいうどうでもいい二人組のエピソードが最終的にタケシ、DLそしてフレネシ、ブロックまで繋がった。
脱線が多いと言うけれど、意外とメイン筋に最後の最後で合流する場合も多いかも・・・・・・そうかな?


やっと現在の〈くノ一求道会〉のプレーリーに話が戻った。(どういう状況だったっけ?)
フリーザーの中の蛍光に輝くバラエティ・ローフの処置にてんやわんやしている調理当番たちをよそに、プレーリー・DL・タケシは館を出発する。敵のヘリコプターが館を襲うが間一髪、地下通路から逃げ出して、DLのトランザムで3人は走り出す──

 

後部座席のプレーリーは、これが夢で、夢から覚めたらみんな別の人間、マイカーで週末のビーチに出かける家族になってたらいいな、と夢想した。どんなトラブルが起きてもコマーシャルをはさんでのやりとりが三十分も続いたあとは全部解決してるんだったら良いのになあ! と思い巡らしながら、身にふりかかった不条理をぐっとこらえているのだった。 p.278

プレーリー強く生きて・・・

TVやビデオといったマスメディアを現実の経験の上に重ねて解釈したり喩えたり現実逃避したりする描写がやっぱり多い。
今ならインターネット・SNS・動画サイトとかになるのかなぁ

 

 

 いや〜〜この矢継ぎ早に馬鹿らしいエピソードがまくし立てられる疾走する文体がスゲー気持ちいい

DLとタケシのキャラが立ちすぎて&エピソードが濃すぎてメインのゾイド・プレーリーらの話を忘れそう

すげ〜ポップなので、映画化か、漫画化か、アニメ化してほしい

 

 

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本文のやっと半分を越えた!!(巻末には分厚い解説案内が付いているので) 

 

付箋を貼ってる上側はこんなかんじ

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つづき→→

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

 

hiddenstairs.hatenablog.com

トマス・ピンチョン全小説 ヴァインランド

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V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

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