『七つの海を照らす星』(2008)七河迦南

 

 

2025/1/18〜21

 

 

  ※ネタバレ注意!!!!!!!

 

 

 

 


1/18(土)

第一話 今は亡き星の光も

児童養護施設が舞台!
24歳で2年目の職員の北沢春菜が語り手 「わたし」の一人称叙述だが、葉子の回想部分は三人称的に書かれている。
児童養護施設が舞台だからか、児童文学・YAっぽい読みやすい文章。気取りがない。
名探偵役は児童相談所の海王という中年男か。

めっちゃサクサク進むな。一瞬で解決した。
心配な養護児童との関わり、というかなり繊細な問題をミステリとして扱い推理するなんてどうなんだ……とちょっと苦笑いしてしまったが、最終的には児童と大人の関係についての小説として誠実だと感じられたので良かった。児相と児童の面談の内容を第三者である養護施設職員が聞き出すことの業務上のプライバシー遵守に関してもしっかり配慮があって安心できる。

どの「物語」を信じるかは、それぞれの自由。推理とは解釈であり、あくまで人が納得してより良く生きることが出来るためにあるものである。海王は、葉子の苦しみを和らげる手助けをするために、自分の推理を伝えた。

「少しだけ不思議を残しておいた方が、全てを明らかにしてしまうより落ち着ける、そんな時もある」 p.67 

今はもう無い星(ひと)でも、その光がこちらに届いているのならば、それはまだあり続けているのと同じである。

 

いい話だった!

謎の魅力や推理の納得度がどうと言うより、子どもに寄り添うことが芯にある話だから好き。施設の大人たちが子供になんとか寄り添おうとして頑張っている優しい人たちで良かった…… 哀しい話だけれど過去の事件(歴史ミステリ?)として現在に生きる者が前向きな希望を持てる話で後味は悪くない。

 虚弱児施設というのがあったんだ、知らなかった。保育関連の知識まで身につく!(ミステリとしては専門知識が必要な推理はややズルいのだろうけど)

短編としてさくっとコンパクトにまとまっている点も好印象。
未解決の蘇り?の謎はあとで回収されるのだろうか。

最後の、海を背景に消えていく海王さん、マジで神様みたいで笑った。なんなんだこの人は。完璧超人すぎてぜんぜん人間味が見えない。

 

 

 

1/19(日)

第二話 滅びの指輪

小6まで戸籍が無かった、現高3の浅田優姫。
『虎に翼』でも観た、離婚や親権などの家庭裁判所案件の知識が語られる。

え〜っ! 大胆な真相だ……

酷い生育環境を生きてきた戸籍のなかった少女、というこれまたシリアスな設定を下地にして、外連味のあるトリックをやるとは思わないじゃん。。物語のトーンをどう読めばいいんだ。児童養護施設という設定が、ミステリとしての意外性には貢献しているが、納得度は下げている? かといって単にミステリのための都合のいい舞台装置として利用している感じはなくて、ちゃんと子供たちとそれを取り巻く大人たちの生を誠実に描こうとしていると感じる。

公立小学校の土曜授業が廃止されたのは平成14年から。私立はまだやってるところもあった。毎回こういうプチ・教育保育豆知識を推理に絡めてくるのか。

 

うわぁ重いって!! 父親からの性的虐待……

本当の浅田優姫さんのほうが小6の時点で児相や養護施設のことなどに詳し過ぎるし、逞し過ぎる。さすがに現実的に我が子を別の戸籍のない子供と入れ替えるなんてあり得ないだろうと思うけれど、それを言ったら、我が子に性的虐待をすることのほうがよほど「あり得ない」。でも残念ながら「現実的」に存在してしまうものなんだよな。

「真実というのは人を幸せにするものだ、とわたしは考えています」 p.123

互いの辛い経験を伝え合い、わかり合えたと思えたことが、二人の心のバランスを保ち、自分を否定せずに自分の物語を確認し、そして全く新たな物語を創り出すことにつながったのでしょう。 p.124

この作品にとって推理とは、ひとが幸せに生きるための新たな物語を創り出すことなんだな。

心の傷を抱えた児童同士が共通点を見い出し合うことでうまく自分を確立して生きていけるようになること。よく知らないけど、児童の発達心理学的にも裏付けがありそうだ。

 

あの頃の浅田優姫は惨めなんかじゃなかった。薄汚れていたけれど、今と変わらず、いえ、もしかしたら今よりもっと誇り高く見えた。あたしは彼女が大好きで、彼女の昔を引き受けていることはあたしのささやかな誇りでもあったんです。 p.120

とても可哀想な子どもたちの話だけれど、あまりにもフィクショナルな少女ふたりの掛け替えのない入れ替わり関係が、シスターフッド……百合としても良いし、最終的には、つらい境遇の子どもが幸せに生きていけるようにするために、周りの大人はどう関わって寄り添って助けて上げるべきなのか、という大人の責務の話になるのがいい。

七海学園は鉄道網などの立地的にも、いろいろ抱えた子がふらっと最後に流れ着く場所みたいになってるのか。七海出身じゃない被虐待児ふたりが七海の廃屋で運命的に出会ってるんですけど。

 

ええっ!? オチこわいんですけど!! これどっちだ? あくまで偽の父親を脅迫して復讐しようとしているのを敢えて「恋人」と称して同級生の前で仲睦まじそうに振る舞っているのか、それとも本当に恋人なのか…… だから幸せってこと? 現優姫が心配していたのはこのことだったのか。さすがに前者だと信じたいが……

情報通で噂好きの中2の亜紀は使い勝手のいいトリックスター的な立ち位置だけど、後に彼女メインの回もあるのかな。

 

 


1/20(月)

第三話 血文字の短冊

春菜の学友、育ちのいい野中佳音さんいいね
海王さん娘ふたりいるんだ。50歳近いのかな
これまでも少し登場していた中1の沙羅 優しい父親に嫌われているんじゃないかとショックを受ける

児童養護施設児童相談所が、子どもという「謎」に対するワトソンとホームズの関係ってことだよな。施設で何か困り事があって手に負えないときに児相に相談して良いアドバイスがないか訊く。
突然のショスタコーヴィッチの交響曲

ウランってすごい名前だと思ったら安藤藍ね。なるほど。双子の兄が安藤勤=アトム。おもしろい

お〜今回は海王さんの推理をわざと春菜がはしょって、枠物語の外側の佳音に解いてみろと挑戦させるパターンか。(児童たちの名前ガッツリ出しちゃってますけど守秘義務は〜!?)

海王さんの推理ばかりだと流石にくどくなってくるからかな。いいと思う

トリックの核心は父親がアメリカ人であることを隠していた、という信頼できない語り手による叙述トリック。序盤に意味深に出てきた三単現のsやら「アイヘイトユー」やらが伏線として回収される、かなりお行儀のいい日常の謎。これもウミガメとしていけそう
竹林に入って悩みを短冊に書いた謎の子どもは、第一話で葉子が玲弥に見間違えた謎の少女と同じ?

 

 

第四話 夏期転住

お〜やった! 佳音さん続投だ
ハンドル握ると豹変とかまーた素朴な設定を……

施設の卒園生同士での結婚。在園中は特に意識してなかったが、4歳年上の俊樹のほうがOBとして顔を出しているときに、高3で最年長だった美香と惹かれ合い、ふたりとも卒園して社会人同士になってから付き合い出したと。なんかリアルだな……ワクワクしてきた。

夏の高原で出会った謎の白ワンピース少女だ!! 小松崎直(なお)。年齢的に例の謎の少女とだいたい一致しそう

俊樹の名を入れた回文 「愛しき君のみ聞きし問い」 こんなん好きになっちゃうやろ〜! めちゃエモくて良い……

泳ぎたがらないのとか、足が速いのとか、男子説あるな。ショートカットだし。だから先生に訊いてもそんな女の子いないと言われたのでは。

てか、実誠学園の生徒っぽいな。だったら夏期転住のあと消えたのも納得できる。賄いのおばさんが両学園を担当しているのも伏線だ。みどり先生が直に普通に接していたのはなぜだろう。でもこの先生しかふたりに会ってないから、賄いのおばさんから直の事情を聞いていたのかな。
また男女の双子とか? インドア派とアウトドア派の。小穴直と小松崎直の謎。

山荘脇の非常階段の踊り場から増水した川へ飛び込んだのを消えたと錯覚してそう。

やっぱり雨が降った!
実誠学園の黄色いタンクトップと旗はカモフラージュか

 

推理パートに児童福祉法がこう何度も引用されるミステリあんまないぞ

だいたい予想通りだった。実誠学園長がもともと床屋なのもそういうことか〜
児童福祉のプロの大人たちが協力して、悪い大人・政治家から子どもを守るために陰謀を企んでいた。アツい真相

単に子どもを守り通すだけじゃなく、法的にギリ正当な手続きを踏む条件も満たしているとして考えている点がポイントかな。

あ、海王さんから聴いたんじゃなくて春菜が自分で推理したのか。
ペネロピ・ファーマー『夏の小鳥たち』 ケストナーといい、ちょくちょく実在の本が出てくる。

とても好きな話だった。ひと夏の幻の美少年。エモいし、根底には児童福祉に携わる大人たちの尊い働きがあるのがいい。

 

 


1/21(火)

第五話 裏庭

うわ〜! めちゃくちゃ良い高校生たちのヘテロ四角関係じゃないか…… 明→加奈子の感情と行動が味わい深すぎる…… モテ男が、幼い頃から姉のように良くしてくれた2個上の女の子にずっと片想いしていて、その少女の恋路を密かに応援するために自分が悪者になる……健気すぎるだろ!! イケメンが健気に片想いするやつに弱いんだよわたしは!!! 幸せになってくれ……

都合上、ミラーのように向こう側にも明とだいたい似た状況の健気な片想い女子がいるのがちょっとウケるけどw

加奈子の、自分は両親に無視されて弟だけが可愛がられるという悲惨な家庭環境を考えても、弟のような存在の明はどれほど複雑でそれでも大切に想っていることか。
再入園でプレッシャーがかかっている加奈子を優しく支えてくれた杉山くんもいい奴だし……

 

にしても、新聞への一通の頭書によって、県や児相や全施設を巻き込んだ騒動になることのリアリティとスリリングさには変な汗が出た。まぁ、子どもの人権が第一だからね…… 恋愛に厳しすぎる施設がちゃんと見直されるきっかけになったのならよかったよ。

けっきょく、加奈子が10年前に見たという裏庭から来た少女の謎はやはり持ち越されるようだ。最終話で明かされることに期待。亜紀メイン回になるのかなぁ

 

 


第六話 暗闇の天使

トンネル内で囁きかける天使の声、という10年隔たった2つの事件をまったく別のトリックで解き明かす。珍しく2つともオチは察しがついたけれども、やはり謎の美少女はその間にも登場して持ち越される。

トランスジェンダーをミステリのトリックに使うのは、なかなか危ういものではある。しかも、MtFで声がなぜか女性のようである、という設定で、それはむしろFtMっぽさも感じる。「性同一性障害」という語が用いられている点でも時代を感じる。

p.325辺りの春菜の児童や仕事への矜持の独白や、p.337の海王さんの考え方の記述はとてもよかった。

最後にトンネルから出てきた女子たちが泣きながら仲直りして手を繋いで帰っていくところも好き。小6とはいえ小学生の喧嘩と仲直りってこんなもんだよね。

佳音さんが前座とはいえ第一の謎を解き明かす探偵役を果たしていたのもよかった。

謎の少女は海王さんに関係ありそうだと予想。なぜなら海王さんがこれまであまりにも超然とした完璧な善人の名探偵であり、逆に不自然なくらい掘り下げられていないから。

でも、確かに児童福祉関係にはこういう、めちゃくちゃ苦労してきたんだろうけどそんなことおくびにも出さずにいつも明るくにこやかに振る舞って本当に子供想いで責任感も優しさもある完璧人間みたいな職員いるんだよな…… あながちフィクションの中だけの理想的な造形だと切り捨てられないリアリティがあるのがおそろしいところ。
だから、児童福祉に携わる大人として尊敬してもいるし、あまりにも完璧な名探偵だからといって鼻につく感じがないのだと思う。

 

 

第七話 七つの海を照らす星

マジで学園七不思議をきれいにこれまでの計6話で解き明かしてきたのか……
えっまさか謎の少女の正体は佳音さん? 確かにトンネルの謎に興味を持って現場検証しようとしていた、とかは一致するな。葉子が見たという蘇った先輩もそれっぽい。まさか七海出身なのか。
うわーマジか…… ひと夏の美少女/美少年がまた反転した。佳音さんが運動神経いい設定も伏線だったか。じゃあ前話でトンネルの謎を解いたのは彼女が張本人だったからか。
お〜春菜の就職面接の日に車で送ってもらっていたのも、最初の謎に繋がるのか……芸術的だ
直が好きだという小説『夏の小鳥たち』を言い当てられたのも本人だったから。
可哀想。マジでこの悪役だけはとびっきりクソな大人だ。
これまで七海学園の児童たちに寄り添って謎を解いてきたけれど、最後にこうして、そんな学園にすら入らなかった悲惨な境遇にいた子どもの話に収束させて、その上で、前向きで明るい幸せな物語にしている……

そういや夏期転住の回だけ実は海王さんが推理してないのか。それは語られていた事件の登場人物だったから。
専攻でもないのに児童福祉論の講座を最前列で熱心に聴講してるところから仲良くなったって言ってたな〜そういや。。

わたしは、何か気のきいた応答をしなくっちゃ、と焦ったが、結局「へへっ」という間の抜けた照れ笑いが出ただけだった。 p.376

泣ける
あの爆走エピソードまでも泣ける話になるなんて思ってないじゃんかよぉ!!

p.377 そうか、そうだよなぁ。夏期転住回で春菜が推理をしていたのは佳音に向けて。つまり佳音にしてみれば、あの頃の自分がいかに大人たちに福祉と法律によって守られていたのかを痛感させられる体験だったのか…… 推理パートそのものの意味がこうしてあとから新しく浮かび上がるのすごいな。

p.381「いやぁ、本当にいい子でしたねえ」
決め台詞が決まりすぎている。泣く

メモ取らずに頭だけで回文作るのムズイだろ
まさかの作者ペンネ―ムの伏線回収と、メタ小説目配せ 児童たちの名前をいじったから守秘義務に反しないって? それは色々と苦しくないか。だいぶ具体的な名前をトリックに使ってるし。
あと、幼い頃の佳音を救った児相の女性職員って意味深だけど誰なんだろう。次作に出てくるのかな。ワンチャン作者の分身か?とも思った。

 

 

 

おわり!!!

いや~~面白かった。完成度高いっすね……
児童養護施設のことは門外漢だが、むかし児童福祉系の仕事をしていたのもあり、単なるミステリという以上に、自分にとって迫真性のある題材だったことが、こんなにも楽しめた大きな要因であることは間違いない。それを棚に上げても万人にオススメできる名作ミステリだと思うけれど。

児童養護施設を舞台にしているということもあり、児童文学っぽさが強かったのも自分好みだった理由に挙げられる。といっても、子どもが主人公ではなくて、あくまでそこで働く大人を語り手として、大人目線で子どものことを想って寄り添っていく姿勢が物語に通底していた。しかもそれがミステリとして、子どもに関する謎を提示して真相を解明する構造にまでしっかりと組み込まれているのがお見事。推理して真相を解き明かすことは、ひとが幸せに生きるための「物語」を見つけ出すことである、という崇高な思想が何度も語られ、実際の事件の推理でもそれが鮮やかに体現されていた。

主人公の新人保育士・春奈が語り手=ワトソン役であり、名探偵役は児童相談所の海王というおじさん。正直、海王さんに関しては、理想的な「いい人」過ぎて、まだそれ以上の人間像が掴めていない。神様なんじゃないかと疑っている。次作では掘り下げられるんだろうか。若かりし頃の挫折談とか読みたい。(海王さんの神さまっぽさの1%くらいは、作者の筆名「七河迦南」の「迦」の仏っぽさから来ているのではないかと気付いた。お釈迦さまでしか見たことない字!!)

これはいわゆる「青春ミステリ」ではないよな。中高生の色恋沙汰も出てくるとはいえ、小学生たちもいるので、やはり「児童文学」っぽさのほうが強い。

 

最終話での凄まじい伏線回収にはビビった。気付けなかったな~~悔しい。佳音さんがそもそもサブキャラとして最初から魅力的で好きだったのが敗因か。悔いなし! これほどお手本のような大振りのフーダニット伏線回収どんでん返しあるんだろうか。あるかぁ……
やっぱり、ミステリを楽しむうえで重要なのはトリックや推理の質の高さよりも、まず登場人物/キャラクターを好きになれるかどうかだと思う。名探偵の海王さんは好きでも嫌いでもない(神様のようなので)けれど、主人公の春菜はまぁ好きだし、何より毎話ごとに登場する七海学園の子どもたちはみんな大好きだ。すくすく育って幸せになってくれ。
だから、やはり私にとって本作は児童文学のように「子ども」が主役の物語だから、苦手意識のあるミステリでも受け入れられたんだと思う。パスワードシリーズやはやみねかおるなどの児童ミステリ育ちなので……
ミステリの苦手さよりも児童文学の好きさが優ったといえる。児童文学ミステリを漁るか・・・
2話と4話が特に好きだったかな~~

 

 

 

 

 

『全校生徒ラジオ』(2024)有沢佳映

 

 

 

こちら↑の記事を読んで興味を持った(ありがとうございます)のですが、年末に実家へ帰省したらなんと!用意されていました……

 

 


2024/12/28~30
3日間


横書き。基本的にポッドキャストの会話文だけで進む。戯曲みたいな。マヌエル・プイグウィリアム・ギャディスエヴァン・ダーラのような。

意外と読みにくい。女子中学生の雑談のリアリズムを志向しているのか、非常に内容が取り留めのないもので、ほんとうにポッドキャストを垂れ流して聴いている感じだから。読書!って気構えでいくと徒労感が半端ない。

テキストは、そのポッドキャストをとあるリスナーの同学年男子が全編文字起こししたものである、という設定。あくまで文字化されて書かれたものであるという位相ヘの執着があるのかは分からない。どちらかというと、その男子との関係のドラマをやりたいがための建付けっぽい。

見知らぬ同い年女子たちのポッドキャストを毎回文字起こしするってかなりヤバいけど、各話の結部にあるこの男子パート(ゆいいつの地の文)がいちばん面白い気がする。ここがなかったら読める気がしない。

 

このポッドキャストが面白いかどうか客観的に判断するために、男の子が自室でなく家の色んなところや外で聴いてみるのおもろい。

 だからまず、自分の部屋から出た。『全校生徒ラジオ』を家の中のいろんな場所で聴いてみた(もちろんトイレと風呂は除く)。場所が変わったらそんなにいいものにも聴こえないかもしれないから。自分の部屋で閉じこもって聴いてるせいで、のめりこみすぎてるのかもしれないから。
 だけど、キッチンで冷蔵庫に寄りかかってアイス食べながらとか、居間でエアロバイク漕ぎながら、それとか廊下に横になって聴いたり、ベランダで日光を浴びながら聴いても、やっぱりちょっと笑っちゃうし、気がつくとイヤホンが熱くなるまで集中してしまう。
 それで、次は外で聴いてみた。 p.93

 

 

不登校のリスナー男子くん、両親と仲良くて微笑ましい。家族との連絡手段Discordなんだ……
ハンドクラップダンス? 調べたらむしろ足と手をタッチしててキツそう

 

 

読み終えた。

えっ!? 第4回で紹介してたポッドキャスト番組、実在するんだ…… 奥付けで知った衝撃の事実。ぜんぶ架空とばかり思っていた。でもその後でキタニタツヤとか新しい学校のリーダーズとかbase ball bearとか実在アーティスト紹介回あったしな。
ゆとたわが実際に聴けるという喜びよ。

 

主人公?の男の子、転校しちゃった友達の高柳くんのこと好きすぎでかわいい。Big Loveじゃんこんなの。

 

夏休み限定のつもりだったとはな〜 学業優先はそりゃそうすべきなんだけど、真面目で禁欲的だよな〜 それは大きな物語がないままにマジでほぼポッドキャストの文字起こしだけで一冊の小説として走り切ったこの作品そのものにも言える>禁欲的

 

最後には、ポッドキャストは終わらずとも、不登校のリスナー男子が自分でもポッドキャストを始めるために学校で仲間を探そうと決意するという、やや前向きで座りのいい締めくくり。やっぱりこの小説の主人公は彼であって、これはポッドキャストをやる女子4人の話というよりも、それを熱心に聴いて文字起こしする1人の男の子の話なんだな。


ポッドキャスト外の描写が皆無なので、彼女たちが作中世界に実在してるかすら分からないし。ぜんぶ演技だったらどうしよう。本当に禁欲的だ。


どこまでもリスナーの話。配信する側の物語ではない。だから、男子も配信する側に回ろうと決めたところで物語は終わる。あとは小説として描くのではなくポッドキャストを聴けばいいから。(最後まで匿名なのも普遍的なリスナーの表象として造形しているのだろう)

 

でも、正直なところをいえば、もっと普通の、ポッドキャストをやっている女子4人の普段の生活も含めた小説が読みたかったし、この先の男の子のポッドキャスト奮闘記も読みたかったよ。。

 


東北か北海道っぽいよな 居住地
北陸って線もあるのか?

 

 

 

 

 

 

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『赤村崎葵子の分析はデタラメ』十階堂一系(2013)

 

 



2025/1/13(月祝)〜16(木)
3日間

1章 ラブレターを分析する
男主人公たちは高2。他人の痛みに敏感であれ、という両親の教えから物語が始まる。どう回収されるのか。
男主人公トキオと葵子(テル)のボケツッコミのやり取りにまだ慣れておらず、やや寒い ラノベではヒロインがボケ、男主人公がツッコミの構図は一般的。まだ赤村崎さんのキャラは掴めていない。エキセントリッククール系かと思いきやふつうにトキオに脇くすぐられて悶えたりもしてるし。トキオとは熟年夫婦感もあるツーカーな関係に見える。
章末の「チャットルーム」パートであっさり事件が解決される構成か。本編でテルが(分かっていたにもかかわらず)推理を披露しなかった理由まで付ける。わざとデタラメな「分析」をしていたということか。これウミガメにできねぇかな……と考えてるけど、ミステリで解決時にうまくハマって納得感を高めるための幾つかの手がかりを、ウミガメでは問題文として初めから出しておくのはあまりに不自然な気がする。だから質問で徐々に手がかりも見出してもらうかたちになるんだけど、それはさすがに誘導ナシでは難しすぎるジレンマ。
トミノが好きな人ってお兄ちゃん? 同学年にいるならわざわざ4階の教室前を兄とラブラブな感じで歩かないだろう。
にしても、シリーズものミステリの最初期にありがちな「犯人が身内(今後のレギュラーキャラ)」のやつ好きなんだよな。松原秀行とはやみねかおる育ちなので……。

 

1/15(水)
2章 ドネーションを分析する
相変わらずずっと夫婦漫才をやっている 毎週末ゲーセンでのカモトキのランクをこっそり翌日にテルが塗り替えてるのワロタ
変なことに突っ走って男主人公を振り回す、古き良きハルヒ系ヒロイン。かつ探偵役。
カモトキくんはぼやきながらも丁寧にツッコむ。
テルの「分析」をカモトキがあまり聴きたがらないのが良い。ありがたく拝聴していたら相当ウザいので。物語自体に分析・推理を茶化す視座がある。変人の探偵が勝手に爆走しているのを冷ややかに眺めているような。
しかしたまにカモトキの発言にテルがツッコむこともある。段々このふたりの掛け合いが楽しめるようになってきた。
東藤巡ちゃん。堂々巡り。高身長天真爛漫アホキャラ。これまたなんとも言えない素朴なサブヒロインだ…… 章ごとに3人目のゲストキャラを招くのか。
p.107 「滔々と」へのツッコミ草
またなんか良い感じに真相がチャットルームで明かされて終わった。寄付と尾行が「人を救いたいという心」で繋がる。テルが本編でわざと誤った推理をする理由付けまで毎回行うのか。
あとチャットでのWillhelmが本当にテルと同一人物なのだろうか。トキオはカモトキくん?
今回の真相の納得感は……微妙かなぁ。ケータイをチラチラ見たり目を離したりしてたのがバス酔い対策だというのも呆れちゃう。

 

 


1/16(木)
3章 ディテクティブを分析する
また色恋・嫉妬関連の犯行動機か。テルは優しいなぁ 毎回人を傷つけないようにわざと的確な推理をせずに道化を演じる。ちょっと夢水清志郎っぽくもある
犯人は化学部1年の近藤くんってこと? なんかめっちゃトミノの机の匂い嗅いでたし。
てかそれよりも、大戸三雫さん何なんだ。こいつがWillhelmだったのか……テルの「ヴィルヘルムが囁いている」とかいう口癖を同室で聴いて拝借したのか。
ん? これまでチャットルームで真相を推理してきたのが三雫さんだとしたら、テルは道化を演じるとかじゃなくて本当に的外れな分析をしていただけの可能性もあるってことか。
名探偵は誰かという謎、トリック、フーダニット。テルや三雫という人物の本性を謎として提示していく。
シンプルに三雫さんのキャラデザは萌えですが……
東藤めぐるさんもいいキャラしてる 絶妙なかき回し賑やかしポジション
物語の基調はずっとハイテンションなコメディなのに、ちゃんと複雑な仕掛けのミステリもやっててすごいなと思う。

 


4章 ヴィルヘルムを分析する

「テル」がヴィルヘルム・テルから取られていることに今更気付いた。
三雫さんはわざとカモトキくんを騙そうとWillhelmのHNを使っていたわけじゃないのか
ん? カモトキとWillhelm=三雫は、高校入学前からチャットしていたのか。じゃあカモトキはテルよりも三雫さんとのほうが付き合いが長い? そして三雫とテルも大戸兄繋がりで幼馴染……と。大戸三雫さんが重要人物すぎる。てか三雫ってどんな名前だよほんと。
これ幼馴染百合の可能性あるよね?

>さすがアメリカ人の話す言葉を仕事にするだけあるな……。 p.235
冗談にしてもヤバすぎる!

身近な憧れの人の死を媒介にして繋がるふたり。死の三角関係-幼馴染百合?
にしても、よくこんなにも毎回、多重解決モノというか、わざわざデタラメの分析の内容と、それをでっち上げる理由まで考えつくものだ。

これ、ここに来てテルの本命が今は亡き大戸輝明だと明かされる精神的な寝取られとも読めるな。これまで男主人公にベタベタくっついていちゃついていたのは、幼い頃からの想い人が死によって完全なものになってしまったから、あとはもう遊びで他の人と戯れるだけ……みたいなモード。

うわ〜そうか、本命が別にいたのはカモトキのほうも同じか。しかもこちらは勘違い。
テルとカモトキ。それぞれヴィルヘルムとWillhelm──大戸輝明と大戸三雫──という、より大切な相手がいたのに、片や死別による代替物として、片や勘違いによって、これまで1年間互いにくっついて過ごしていた。これは……いいな。珍しく好きな二者関係だ。これまで一緒にいた高校生男女の関係の破綻。かなりトロピカルパフェです……
大戸兄妹を含めて四者関係といってもいい。

他人の痛みに敏感なカモトキくん実は攻撃性・嗜虐性があった? そうなの? ぜんぜん納得いかない。

えっ!? どういう終わり方!? スパッと別れないの?? なにこの「私たちの分析はまだまだ続く」エンドは!?!? ラノベだからあまりにもバッドエンドっぽいのは許されないのかな。

 

 

裏分析コーナー
Willhelm=三雫さんの推理の真偽をも引っ掻き回してひっくり返していく。けっきょくテルや三雫の分析はデタラメなのか、宙吊りにされ続ける。うーむ……探偵の推理を相対化するのはいいけど、ここまでやるとそれはそれで嫌だな。宙吊りであること自体がなにか重大な意義を持っていればいいのかもだけど。
3章のトミノを好きな犯人って神田なつみさんだったの!?
そして、ラストのカモトキはやっぱりテルのことがどうでもいいわけではなく、なんやかんやで好いている……というハピエンにひっくり返そうとしている。日和ったな。
まぁそりゃあテルのこと嫌いではないだろうけど。。てかWillhelmとチャットしてたのって高校でテルと知り合う前からなんだよね? ならやはり、個人的には互いに一番の相手ではないことに気づいて破綻するほうが好きだな。

 


・感想まとめ
ミステリのお決まり的な推理(分析)そのものの非厳密性や誤謬性(総じて "デタラメさ" )を主題として、何重にも真相がひっくり返っていく物語は比較的好みではあった。しかし、理由があってわざとデタラメな推理をしている場合と、本人は正しいと思っていても間違っている(結果的にデタラメな)場合とが混在するどころか最後まで峻別されない点が多々あり、単に煙に巻いているだけなんじゃないかとも感じてしまった。『密閉教室』とかもそうだけど、そういうメタミステリというか、ポスト・ミステリみたいなことをミステリのジャンル内でやられてもモヤモヤが残るだけ。(幻想文学など、はじめから「真理なにそれおいしいの?」な作品だったらいい) あとがき後のおまけコーナー的な裏分析編も、さらにどんでん返ししているというよりも、厳密に考えたら本編での推理にも穴があることの言い訳だったり、別の可能性も思いついたから言い得だと思って書き足しているだけだったり……と悪し様に捉えてしまった。何重にも真相が書き換えられるのは、そうであるように精巧に構築されているのではなく、そもそもひとつの正当の推理を当てはめて解決することができない穴だらけ・矛盾だらけの破綻した内容なのではないか?

「推理」ではなくあくまで「分析」を掲げているのも、その差異に意味を見出しているというよりも、なにか文句を言われたときの逃げではないかと思えてくる始末。これは「推理」モノ(ミステリ)じゃなくてあくまで「分析」モノなので……的な。

作中では語られていないが想定はされている「真相」があり、丹念な精読によって読者はそれを分析してみせよ、という読者への挑戦状形式のミステリなのだとしたら、それはそれでムカつく。解答がきちんと書かれていない問題集は作者の怠慢の産物だと思っているので。作者だけが悦に入っているのはプロ失格では。ちゃんと真相を開示するところまで物語として上手く描けない作者の未熟さの現れでしょう。

 

キャラは大戸三雫さんが素直に萌えでした。
ただし、テル(葵子)とカモトキの関係の実態が最終章で明かされてからは、グッと評価が上がった。閉じた二者関係じゃなくて、他の人物が介在する関係が好きなので…… ラブコメラノベの男主人公とメインヒロインとが、互いにフラれるというか、もっと大切な人が相手にはいると知って動揺する展開を初めて読んだので新鮮さがすごい。まぁラストにはそれでもふたりの関係だって大事だよね、相思相愛ではあるよね…という微温的なかんじにまとめられてしまい残念ではあったが…… やるなら徹底的にやってほしいですね。

 

 

 

 

 

続編は配達待ち中です

 

 

 

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『空飛ぶ馬』北村薫(1989)

 

 

 

2024/1/30〜12/28
計9日間

 


2024/1/30(火)
小市民シリーズやパスワードシリーズの流れで、「日常の謎」系ミステリの日本における源流のひとつであるらしい北村薫を読み始めた。

 

織部の霊

文章がいい。情景描写などにもかなり気合が入っており、うまい。きょうびあまり使われないであろう80年代の日本語の言い回し?。気品があり、知的で、かつそれほど気取っている風でもない絶妙な雰囲気が心地良い。

村夫子然とした顔 p.24

 

推理の題材は「事件」ですらなくて「不思議なこと」だ。しかも何十年も前の話だし。
解決まで読んでもほーんそうですか……としか。驚きや納得感はまったくない。

執筆年代&作中年代がやや昔というのと、さらにそのなかで昔の話(しかも骨董品に関する話題)をしているので、単純に知識がなく、「実は出品目録に写真が載っていた!!」と明かされてもそうなんだ~密室に知らないヒミツの抜け道があった~としか思えない。

ただ、教授の長い昔語りそれ自体はおはなしとして引き込まれた。文章が良いし、寝たきりの叔父さんが妻の葬式のときに妻の着物を自分の布団に入れてくれと甥っ子(現教授)に頼むシーンではちょっとウルっときた(そこからのオチも!)。

今のところはまだ名探偵役の円柴(えんし)のキャラ像も掴めていない。「四十をわずか前にしている」p.32 妻子持ちとのこと。そんな人気実力派落語家の彼を「追っかけ」ている(今なら「推し」ていると言うだろう)二十歳直前の「私」。

追っかけている著名人とバディを組んで探偵モノをやれるなんてすごい設定だな。夢小説? 落語家というところがまたシブいけど刊行当時はそうでもなかったのか。

 


・砂糖合戦
2/23(金) p.91〜104
2/26(月) p.104〜140

マクベス』の3人の魔女をモチーフとして、喫茶店での女学生たちの謎めいた行動の真相を明らかにする。
主人公が『ブヴァールとペキュシュ』読んでる
謎解き要素は、ウミガメのスープとして味わいたかった……と思ってしまうようなものだった。
フー/ホワイダニットとしては、単純に性格のかなり悪い若い女性が犯人だった、というもので、後味が良くない!

 


2/27(火) p.141〜191

・胡桃の中の鳥

暫定でいちばん面白い話かも。宮城・蔵王への夏の旅
主人公の(大学の)友達の正子ちゃん(しょうちゃん)の歯に衣着せないキャラがかなり良い。現地出身の江美ちゃんも加わって女子大生3人での旅。宿での憩い/晩酌の時間の雰囲気なんかがたまらない。

主人公の「私」は相変わらずめちゃくちゃ文学作品読んどる。横光利一宮本輝アナトール・フランス、『梁塵秘抄』、『去来抄』…… ものすごい読書家でインテリだ。こういう人物が「読書家キャラ」として戯画化/客体化されずにしれっと語り手の座に居座っているのがよいなぁ。

それでいて、晩酌時に「女」の嫌らしさについて軽く議論となったときの描写を見るに、「女らしくなさ」にコンプレックスを抱いているようにも思える。正ちゃんは「女らしさ」を軽蔑して「女らしくなさ」に誇りを持っているタイプで、江美ちゃんは「女らしさ」をわりと受け入れているほう。このあたりは注目せざるを得ないが、ちょっと何も言うことができない。コメントしづらい。

今のところ単なる旅行記であって、(円紫さんの)謎解き要素が出てきていないのがまた好印象の一因だろう。
70ページ弱の短編ですでに50ページ終わったのに、まだ「謎」が登場していない。

2/28(水) p.191〜215

「胡桃の中の鳥」読んだ。……なにこれ、めっちゃ重い、可哀想な話なんだけど!! 友達との楽しい3人旅はどうした!?
正ちゃんの「子供嫌い」発言もこうして回収されるの残念すぎる。なーにが「聖母子像のように見えた」だよ。
章題や最初のほうの話題そのまんまなんだが。
てかゆきちゃんの母親ばかりが描写されて父親はいっさい出てこないのもムカつく。徹底的に「女」の話にしようとしている。

 

 

・赤頭巾

12/21(土) 〜p.244

相変わらず文章がとても上手い。ミステリじゃなければもっと好きだったのに……

12/26(木)

おわり! いろいろあってどうなるのかと思ったら、けっきょく不倫オチやないかーい!!
平凡ないい人そうに見える人に宿るねちっこい嫌らしさ、性格の悪さ、恐ろしさ。そ、そっかぁ……
ミステリとしての納得感はない。
グリム童話赤ずきんを絵本作家がリライトしたものを解釈するなかで、森長さんの人間性が掘り下げられていくくだりは結構良かった。
不倫の逢瀬のサイン代わりに幼い我が子を夜中に雨の中、ひとりで公園につっ立たせる親がいるか??? 前編もそうだけど、大人の都合で子どもが酷い目に逢う話が続くので胸糞悪いっすね。。
だからこそ、最後のひき逃げ未遂シーンに繋がるわけだけど。子どもの前であのまま逃げるわけにはいかない親心と気まずさ。

 


12/27(木)、28(金)
・空飛ぶ馬
前編「赤頭巾」と似たような謎を、今度は対照的にほっこりハートフルな真相として解き明かす、クリスマス・ストーリー。

 

 

まとめ
北村薫『空飛ぶ馬』終わり。
日常の謎」ミステリとして知っているのが米澤穂信古典部や小尻民シリーズくらいしか無いため(古典部はアニメしか見たことないし)、日本におけるそれらの始祖であるらしい本作を読んでみたのだが、米澤の「青春ミステリ」感とはまったく違う趣だったことがまずいちばんの驚き。

日常の謎」と「青春ミステリ」がほぼ同義だと思っていたわたしにとって、本書の、大学生の若い女性を主人公とした「日常の謎」ミステリは、そういうものもあるのか、というかんじ。

89年刊行ということで、2000年代以降に確立したライトノベル的な学園青春モノ感もまったく無く、氷室冴子少女小説などに近い読み味で新鮮だった。
文章が端正でうまかったのが好印象。

しかしミステリとしては特段に惹きつけられた謎も、納得感に打ち震わされた真相の解決も一つもなく、そうですか……と流してしまった。

また、名探偵役である人気噺家・円紫という男の造形もあまり好みではなかった。一般に名探偵キャラが嫌いであるうえに、さらに落語の天才である属性も乗っかって、鼻持ちならなかった。主人公の「私」ととくだんヘテロロマンス的な関係を匂わせることもないところが、昨今のラノベ風青春ミステリとはやはり一線を画していると思う。

かといって、「私」も瘦せ型ではあるものの美人であるらしいことは都度描写され、自身でもそれを内心感じてはいるようではあるところが、少女漫画風というか、俺TUEEE系ならぬ私SUGEE系に片足突っ込んでいるのでは疑惑もある。

2次元美少女萌えコンテンツとはまったく異なる若い女性性の位置づけと表現はなかなか好ましかった。むろん、かといって昨今のシスターフッドフェミニズム的な姿勢ではなく、あくまで80年代の価値観で素朴に知的で自立した女性として生きることの肯定を描くことに留まっている。

解説で北村薫の名言として紹介されてたの、ペソアかと思った。調べたら微妙に違った。

 

『冬期限定ボンボンショコラ事件』米澤穂信(2024)

 

発売直後に買ってなんとなく読む気がしなくて1年積んでいたのを、読んだ。

 

小市民シリーズの過去作の感想は以下の通り(巴里マカロンは未読)

hiddenstairs.hatenablog.com

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

 

※ネタバレ注意!!!



2025/1/4(土)~1/9(木):計4日間

 

 

 


1/4(土)

第1章

第2章

いくら小鳩くんのことが好きではないからといって、さすがに轢き逃げされて大学受験できなくなるのは可哀想……
犯人への厳罰を求めるのは意外 小鳩くんも意外と「ふつう」の人? むしろ異端なのか
3年前の類似の轢き逃げ事件と比較して重ね合わせながら進んでいく。自死したらしい元同級生の男子の謎がどう絡んでくるのか

 

 

1/7(火) p.88〜147

第3章

今回もしかして小鳩くん安楽椅子探偵をやるのか? 安楽椅子探偵ならぬ病床探偵だけど。先行例けっこうありそうだな。(牢屋探偵とかもいるのだろう)

というか、3年前の事件について現在時制から回想しているのだから、スリーピングマーダーの亜種ではないか? 殺人は起きてないけれど。

 

小鳩くんと小佐内さんはこうして出会ったのね。中学3年の6月に知り合ったんだ。なんとなく、もう少し前、1, 2年生の時から仲良かったのかと。

てか小鳩くんの探偵ぶりたいエゴイズムがかなりヤバいな。それが一人称の地の文の語りのうちに滲み出ている。そういう描写がうまい。

他の凡庸な奴らは事件のことなんて1日で忘れてしまったけれど、俺たちふたりだけは執着して追い続けたことで邂逅を果たした──ってか? 相変わらず自分達の非凡さの演出に抜かりがなくてイラつくわ〜〜

~閑話突入~

小市民シリーズを読み始めた頃は、中学生男女が恋愛ではないと必死で否定しながら特別な関係を結ぶことに(異性愛主義の立場から)自分はイラついているのかと思っていたけれど、ジェンダーセクシャリティ問わず、自分たちだけは世間とは違うとして閉塞的な二者関係に耽溺することが一般に嫌いなのだと思う(そうでありたいと思う)。排他的な二者関係というか。

例えばもし小佐内さんが小鳩くんとは別の人物とも、まったく同じように良き小市民を目指すための互恵関係を結んでいたとしたら──小鳩くんがどう思うだろうか、ということ以上に、この小市民シリーズのファンはどう思うだろうか。おそらくショックを受けるのではないだろうか。好ましくないと感じるのではないか。多くは、ふたりの特別さに魅力を覚えていると思うから。

そんな幻想を徹底的に内側から打ち砕いたのが『夏期』であり、そして実際にいま言ったような「第三者」を双方に配置したのが『秋期』である。だからわたしは『夏期』のラストが大好きだし、結局ふたりの特別さを再確認して強調したに過ぎなかった『秋期』は大嫌いである。

ヘテロだろうが百合だろうがBLだろうがアロマンティックだろうがノンバイナリーだろうが、「ふたり」の特別さに酔いしれるような物語がわたしは苦手なのだと思う。運命のふたり、とか、かけがえのないふたり、というようなものを素直に受け入れられない。むしろ、かけがえのある関係に魅力を見出す傾向にある。

だから、わたしは、ヒマワリがみすずに懐く理由を「いちばん初めに出会ったのがわたしだったからだよ。それ以外に理由なんてない」と言い切る『みすずの国』が大好きだし、『WHITE ALBUM2』ではかずさルートより雪菜ルートのほうが大好きである。三角関係や寝取られモノが好みなのは、「ふたり」に閉じてほしくないからだ。

 

閑話休題

3年前は小佐内さんが被害に遭って、今回は小鳩くんが被害に遭った。名探偵は事件の部外者なのにノコノコ現れてズケズケと口を出すイメージがあるが、この物語のひき逃げ事件ではいずれも、メインキャラが被害者の張本人になっている。

まぁ、小鳩くんはともかく、小佐内さんは名探偵ではなく、自分に損害を与えた者を地の果てまで追いかけて喰らう復讐者だから、張本人なのは今回に限ったことではないけど。そう考えると小佐内さんは毎回、事件に巻き込まれて被害に遭っているのか。不幸体質/巻き込まれ体質? そういう点でワトスン役として定番の造形とは言えるか。

小佐内さんを典型に括ることには躊躇わざるを得ないが、個人的には彼女も特別というより凡庸に堕としたい心根がないといえば嘘になる。
古典部シリーズの千反田さんはどうだっけ。「私、気になります!」だから好奇心旺盛な部外者ポジションか。

 

 

第4章

ぼくたちは、互いに近親憎悪をかき立てるほど似てはいない。けれど、同好の士という感覚を持つぐらいには……いや、どちらかというと、同病相憐れむぐらいには、似ているところがある。 pp.121-122

「同病相憐れむ」!! きっしょい表現!! きっしょい分析!! きっしょい関係!! あ〜やんなっちゃうわ、ほんと。

 

p.122 「互恵関係」の言い出しっぺはやはりお前か、小鳩…… それに微笑んで了承する小佐内さんも相当に気持ち悪い。厨二病の痛いふたりを見ているよう。中3だけど。


p.133 轢かれかけて水溜りに落ちて服を濡らした直後に9キロ歩くとか、小佐内さんヤバすぎる…… 狂ってる?それ、褒め言葉ね。

 

中学生だからできないことがあるのはたしかだとして、高校生には高校生だから、大学生には大学生だから、大人には大人だからできないことがあるに決まっている。 p.139

これはちょっと名言か。これぞ青春小説というような。

 

病床の小鳩くんが3年前のことを思い出しながらペンでノートに書きつける、という体裁で回想パートが位置付けられているが、その(小説内の)文章と、小鳩くんがノートに書いている文章は実際には異なるだろう。メモ書きのようなものが自然か。もし仮にテキストが一致していたら小鳩くん変すぎる。名探偵じゃなくて小説家になれるよ! 
実際には異なるとしても、その差異に意識を当てさせないように、こういう建て付けを採用しているのだろうか。それとも、この差異があとあとより効いてくるのか。

 

3年前と違い今回はコンビニの監視カメラに轢き逃げ車は映り込んでいなかった。他に道はないはずなのに。変則的な密室消失ミステリってこと?

 

 

1/8(水)

第5章

やっぱり9キロの長大な密室か
もちろん厳密な意味での密室ではなく、あらかじめ犯人が計画的に逃走方法まで練った上で轢き逃げを起こしたのであれば、色んなトリックがあるのだろう。ただし、暗黙の了解として、これは故意に引き起こされた轢き逃げではないはずだ、という前提がある。また、コンビニの監視カメラ云々も犯人が認識しているとは考えにくい。つまり、ただ必死に犯人が逃げていただけで、密室消失トリックを仕掛けるつもりはなく、結果的に不可解に思える状況が成立した蓋然性が高い。小鳩くんたちもまずはそう考えているだろう。

謎を作る意図がなく、たまたま謎ができた「事件」は、まるで『春期』のおいしいココアの作り方のようで、わりかし好み。これぞ日常の謎って感じ。非日常的な交通事故が絡んでるけど。

~閑話突入~

以上のような謎のあり方は、ウミガメのスープ(=シチュエーションパズル)っぽいとも感じる。小説として読むのではなく、自由に質問していって解きたいなぁ。

そういう感慨を得るということは、自分はミステリが苦手というけれど、謎解き自体は好きで、しかしながらキャラが登場して謎を解いて……という物語の形式になっているのが嫌いなのかもしれない。

自分以外の奴が謎を解いてしまうから悔しいのだろうか。このシリーズに限れば、メインキャラふたりが嫌いだという明確な理由があるが……。要するに「名探偵キャラ」が嫌いなのかも。自分が名探偵になりたいのか? ウケる〜

 

ミステリでも、小説内で謎が解き明かされる前に自分で推理して解こうとする愉しみがあるじゃん、と反論されそうだが、どうしても物語に都合のいい形や順番でしか手掛かりが提示されないし、自分の推理が当たったかどうかの判定は、結局作中での解決を待たねばならない。名探偵の推理まで読み進めなければならない。それが、あちらに主導権を握られているということだから、気に食わないのかもしれない。つくづくプライドの高い偏屈なやっちゃなぁ……

 

ミステリに限らず、ふつうの文学やSFでもそうなんだけど、わたしは物語作品に対して読者たる自分を優位に置きたがる節があるのかも。だから、こちらを作中に引き摺り込まんとするタイプのメタフィクション(第四の壁系とか)に反発しがちだし、物理とか自分の少し詳しい分野の知識をいっぱい入れている類のSFにはもっともアレルギー反応を起こす。こちらが勝手に、作品からマウントを取られていると感じて、嫌でも心理的にマウントを取り返してしまうから。ほんとは読書中にそんなことしたくないのに。だからミステリやSFはストレスフルなことが多く、苦手意識があるのではないか。

 

ウミガメのスープが大好きなのは、謎解きコンテンツの中でも、飛び抜けてこちらの自由度が高いジャンルだからなのかもしれない。

リアル脱出ゲームとかはやったことないけど、どうなんだろうな。あれはわりと作り手の意図や敷いた物語のレールに沿って進めていく印象が強いので、ウミガメよりは楽しめなさそう。

「作者の掌の上」感が嫌い、だとまとめられるだろうか。ミステリにしても、第四の壁メタフィクションにしても、SFにしても同じ。

ウミガメは、いろんな登山経路からひとつの頂上=正答に辿り着く自由度があるし、解いた上で感想戦としてその問題そのものを批評することもできる(している)。それは、ミステリの批評と似て非なるものだと思う。端的にいえば「物語」の有無。ミステリでは、真相への手がかりやヒントを提示する仕方・順番にも美学があり、それらも込みで出来を評価するのが作法のはずだ。


自分は「物語」と「謎解き」のそれぞれにこだわりがあって好きだけれど、両者が合わさってしまうと、苦手になる。自分のなかでは物語と謎解きの相性が悪い、といえるのかな。「物語」の形式で差し出される謎解きが苦手がち。ウミガメでも、ほぼ短編ミステリのような、バックストーリーがしっかり用意されたタイプの物語チックな問題もあるが、それでも、そのバックストーリーを掘り下げていく主導権はプレイヤー=質問者にあるから楽しめるんだと思う。

逆にいえば、ミステリ好きは、単に謎解きが好きというよりも、「謎解きをしている人」が好きなのではないか。人間がある謎に対してどう立ち振る舞い、どう向き合っていくかを追求しているのが「ミステリ」という文学の一ジャンルであり、文学である限り、本懐は「謎」そのものではなく、あくまで謎をとりまく「人間」を描くことに主眼があるのではないか。(ミステリ評論で「人間という謎」みたいなフレーズが頻出であろうことも容易に予想がつく)

わたしは文学は好きだけれど、「謎」が出てきたら、人間(登場人物)そっちのけで自分がそれに対峙したいと思ってしまうので、ミステリを読んでいてももどかしさが募るだけ。

 

といっても、別にじぶんはそんなに謎解きジャンキーである自覚はない。小鳩くんのように、特段に推理力があるわけでもない。

ウミガメが好きなのは、謎を解きたいからというよりも、質問をいくらでも自由にできるからだと思う。質問することは大好きな自負がある。高校や大学の授業でも先生に質問しまくってたし。

質問し放題だし、質問のテクニックが問われるパズルであることもウミガメの好きな点だ。「良い質問」をいっぱいしたい。問題を解くために質問をしているのではなく、質問をするために問題を解いているというほうが正しい。

翻せば、質問が自由にできないからミステリが苦手なんだと思う。ミステリに限らないけど、本や物語を読んでいるとき、わたしは色んなことを考える。たくさんの疑問が湧く。これってこういうことなんだろうか、じゃああれはどうなんだろうか……などと。批判的読解(クリティカルリーディング)というやつが人一倍得意な自負がある。だから、それらを質問の形で発散させてくれずに、ただ物語のなかでキャラが謎を解くのを指を咥えて眺めているしかないミステリが嫌いなんだと思う。批判的読解のし甲斐がない、といえるかもしれない。いくら批判的に読んで疑問を見つけて思い浮べても、それをその場で思うように発散させてくれないし、最後まで十分な応答が得られないことも多い。圧倒的に不均衡なんだよな。アンフェアというか。

したがって、わたしは「読者への挑戦」みたいな、こちら側にすべてのヒントを提示し終えて解決してみろと突き付けてくるタイプのミステリも好きではないし、むしろ(思いきりマウントを取られているので)大嫌いだと言ってもいいくらいだ。推理力があるわけではないので、多くの場合、解けないし。

わたしは、作り手が用意したヒントだけでなく、自分が訊きたいことをすべていくらでも訊きたいんだ。質問させてくれ。作者の掌の上でもがくのは嫌なんだよ。主導権は自分が持っておきたい。
(AIを使えば、読者がいつでも質問し放題なミステリ小説っぽいプロダクト作れそうだし、もうありそう。)

 

 

閑話休題
病室パートで看護師や医師、清掃員など何名かの人物が出てくるけど、これらの人々が事件の犯人だったり、真相と関わっていたりしたら拍子抜けてしまうからやめてくれよ。それじゃあ安楽椅子探偵どころか、安楽椅子に座っていたからこそ事件の懐に辿り着けた単にラッキーな奴、になってしまうから。

p.169 (アンダーパスだ!)とテンション上がる小鳩くんかわいい

p.171 小佐内さんは自分が「小さい」から舐められがちだということに深いコンプレックスを抱いているんだろうか。

p.176 ペットボトルの中身をシェアするための紙コップを持参していることを小鳩くんに「用意周到だね」と言われて小佐内さんは本当に照れているのか? その微笑みは別の感情ではないのか?

 

日坂くんに同行者がいた可能性に気付き、物語の焦点は密室トリックから人間関係へと移行する。やっぱりミステリは人間の謎を扱いがちなんだなあ。(別に、落胆したわけじゃないけど)

 

なぜぼくは推論によってしか事実に辿り着けなかったのか、そこに大きな謎がある。 p.189

ここはメタミステリっぽくていいね。「推論」の中身ではなくて、それを俯瞰して反省的に評価する。小鳩くんの落ち度=ウィークポイントとは、周りの人間にあまりに興味がなかったこと、クラスメイトをほとんど何も知らなかったことである、という風に話が転がっていく運びも自然だ。

身近な人が巻き込まれた事件を単に自分の推理力を発揮する絶好の機会だと、形式的なパズルだと認識している時点で小鳩くんはダメなのだということになるんだろう。「人間」に興味がない時点で名探偵として(=ミステリの中心人物として)失格だ、と。これは先述のミステリ論とも合致している。

でも、こういう形で「名探偵」キャラを糾弾するミステリってありふれているだろうから、あんまし新鮮味はない・・・。青春ミステリとしても、全能感のなかにいる若者の鼻を挫いて苦い思いをさせるのなんて、他でもない米澤穂信自身が何度も描いてきたことだろう。またそれか、とこの時点で思ってしまうということは、ここから後半戦でさらに先へと飛んでくれることを期待せざるを得ない。

 

謎解きとしては、たぶん日坂くんは彼女と一緒に歩いていたんだろうな、それで藤寺くんは日坂くんのバド部の後輩で、なにか話が拗れているんだろうな、という予想は前からついていたので、あっそんなことでいいんだと若干拍子抜けではある(後出し孔明)。"藤寺くんは日坂くんの部活の後輩である" と小鳩くんが気付いていないことにわたしは気付いていなかった。てっきり当然そういうものだと思い込んでいた。
ただし、三角関係要素がある可能性が浮上してきたことにはちょっと心躍っている。そいつらで典型的な中学生のヘテロ恋愛のあれこれを描くことで、相対的に小鳩小佐内ペアの異質さを演出するのだとしたら、巧いけどムカつく。

 


第6章
第7章
3年前の事件のとき、小佐内さんは川の上流側に歩いてたんだな。以前ちゃんと書いてあったのに、いつの間にか他の人と同じく下流側へ歩いていたんだと思い込んでいた。

 

第8章
エレベーターの箱のこと「カーゴ」って言うんだ。物知りな中学生だねぇ〜

小鳩くんようやく病床探偵から車椅子探偵になれるのか?

高校の前の掲示板にポスターを貼っていたら偶然通りかかった生徒に声かけられて手掛かりを得られるとか、出来過ぎだろう。現実ならそんなのまず見向きもされなくないか? まだ、そのチラシを校門前で配るほうが良い策な気がする。

 


1/9(木)

第9章
特にあれから手がかりは得られなかったようだ。

大人こわい けどまぁ止めるのは当然よな

あ、病室での食事時に必ずコップ一杯の水を貰っているのは、小佐内さんから貰った花にこっそり水やりするためなのか? それと小鳩くんのノートは小佐内さんも読んでるのね。

あと今更ながら見舞いにこまめに来ているであろう両親の描写がほぼないのは、小説として不必要だからか、語り手小鳩くんの精神の表現なのか、より深い意味があるのか。配膳する看護師や清掃員の描写は逐一あるというのに。
3年前の回想パートでも、夜間や休日にしょっちゅう外出しているのに、両親の描写は薄い。

 


第10章

え〜 ふたりが解けなかった謎をモブがあっさり解いてしまう展開か? 

p.346 あーそっか。容疑者はアルバイトってことは、あの(レジ担当してた)コンビニの従業員ってことか。監視カメラの映像を差し替えられる人間。だから麻生野さんはすぐに解けて必死で帰ったんだ。

思えば確かに、片側通行止めしてたはずなのにカメラ映像ではひっきりなしに車が通っていた時点でおかしいか。別日の映像と差し替えられている。逆になぜ自分も小鳩くんたちも気付かなかったんだってくらい単純な矛盾だったな。

 

お願いを無視して勝手に嗅ぎ回っていたことで日坂くんにビンタされたことは、妥当としか言いようがない。中学時代の苦い記憶だとこれまで何度も語っていたから、どんな出来事だろうと思っていたが、まとめれば「被害者の気持ちそっちのけで探偵気取りをしていて怒られた」という、めちゃくちゃシンプルなことだった。

そう思っていたのが3年前当時のことなのか、それとも今でもまだ反省していないのか。流石に成長してるよな?

てか、こうして今度は自分が似たような事件の被害者となって、ようやくあの時の日坂くんの(勝手に嗅ぎ回られたくない)心境が理解できたよ、的な話なのか? そんなアホみたいなものだとは信じたくない。

看護師や清掃員ら身の回りの人たちを気遣って感謝を伝える描写をやけに挟んでいたのは、小鳩くんの「人間的成長」を示すためだったのか? それは割とありそうでクラクラしてくる。

 

しかも、これはおそらくこの後で言及されるのだろうが、単に被害者を傷つけてしまったことを「苦い思い出」だと認識しているのではなくて、結局自分は何も事件を解決できなかったことも含めて悔いているようなのが、何も反省していなくて、タチが悪い。そういうとこやぞ案件。

監視カメラの件が解けないから同行者の調査に逃げたとか、そんなことどうでもいいんだよ。仮に小鳩くんが事件を見事に解決していたとしてもなお、非難されている点はまったく変わらないのに、それに──未だに気付いていない?

探偵は、うまく解決できなければ責められるのではなくて、探偵行為を勝手にやっている時点で責められて然るべきだ。「探偵」そのものを終わらせようとしているのか、この作品は。まぁ、あくまで職業探偵ではなく、子どもの探偵気取りを諫めているだけなので、「青春ミステリ」に幕を下ろそうとしているといったほうが適切かな。

というか、小鳩くん視点では、自分では反省したと思っているけどまったく要点がずれていて反省できていない。つまり、「青春ミステリ」を畳もうとするも、全然うまく畳めないこと──そうした醜態そのものが「青春」であること──を描いているわけか。

関係者が幸せになることが第一で、そのためなら敢えて事件を解き明かさないことも厭わない夢水清志郎の名探偵っぷり( "大人" っぷり)に思いを馳せずにはいられない。

 

・部外者が勝手に嗅ぎ回るという当時の小鳩くんポジションを、今回は小佐内さんが担当している(まったく部外者ではないが)ので、小鳩くんは小佐内さんに憤っているのだろうか。もうやめてくれ、と。そういう形でふたりの関係の変化を描いてシリーズを締めくくるつもりか?

・小鳩くんが同行者の謎に気を取られた(本人曰く「逃げた」)ことを悔いているのは、浮気などのゴシップ的な人間関係に「真相」を見いだしがちなミステリのホワイダニットへの批判めいたメタ言及にも読める。

・ラウンジであった男性はけっきょく誰だったんだ。これも、わたしが気付けてないだけで、すでに手がかりは出揃っているのだろう。

 

p.348 この前にもいろいろとやらかしていたのに全く懲りてなかったのか…… しかも、このあとでも「わずかなためらいをおぼえるようになった」程度て!! 爆笑ツッコミどころとして書いてるとしか思えない。

あと、「麻生野さんへの優位を失うことで、小佐内さんが物理的な危機に晒された」ってどういうこと? ボコボコにされるリスクがあったとでもいうのか。もともと小佐内さんは彼女の弱みを握っていたらしいけど、推理力で劣ったからって「優位」が覆るものだろうか。小佐内さんの主観的な精神の問題?

 

いま、ぼくは確信している。ぼくは三年前、日坂くんに何をしたのか。
同時に二人と交際していることをあばいた……のでは、ない。
かつてのぼくはそう思っていた。けれど、違う。きっと、そうじゃなかったんだ。でも、じゃあ、ぼくは何をしたんだろう? p.349

この小説の最大の謎はこれか。3年前じぶんがしでかしたことの本質とは。それに3年越しに向き合って解き明かす。「自分」という謎。やはり最後は人間そのものの謎へ行き着くのか。「自分」という、もっとも卑近ながら、もっとも謎めいた存在。その歴史について。

 


にしても筆者はマジでどういうつもりなんだ。ものすごくしょうもない/嫌な奴を描くのが本当に巧いと思うけれど、だからこそ、わたしはこの小説(シリーズ)を楽しめていない。作者の思い通りにイラつかせられていると感じる。「正当」な受け取り方をしたらつまらなくなる小説ってなんなんだよ。

このシリーズのファンはどういう気持ちで楽しんでいるのか知りたい。小鳩くんたちをしょうもないとは思っていないのか、そうだよね〜若者ってこういう感じにしょうもないよね〜わかる〜沁みる〜的なかんじなのか、しょうもない小鳩くんに可愛げを感じているのか。。

 


第11章
なるほど、そういうことか! コップの水は睡眠薬で、だから小鳩くんは必ず寝てしまって小佐内さんと会えなかったのか〜 病人が夜に速やかに寝入ることになんの疑問も持っていなかった。それが謎であるということにすら気付いていなかった。

 

終章までひっぱっての感動的な再会だけれど、結局そうやって、このふたりの関係をエモく特別に演出するために他の全てがあるのね、と冷めるなぁ このふたりのやり取り、仕掛け合いに終始してしまうのか。

 

p.356 盗聴してたのかヤバすぎww

p.358 あーもしかして3年前と犯人同じで、自分を牢屋に入れた小鳩くんへの復讐だったのか。あのラウンジの男はそいつの仲間?

一気に凶悪な、物騒な様相を呈してきた。相変わらず治安が悪すぎる。どこが日常の謎やねん
水に睡眠薬が入れられていたらしいが、マジで病院関係者が犯人の類なのか……?? あの看護師さんが日坂くんの同行者の可能性あるよな。3年前に高校生ってことは。

事故が起きた堤防道路の見取り図が重要だと見せかけて、病院の見取り図のほうが大事だったってことか

そうだったのか〜!という納得感と驚きと、そして怖ぇ〜〜!!という恐怖感がある。『さよなら妖精』の頃から、人の悪意を描いてきたんだろうから一貫してはいるが。。

 

サスペンスアクションパート始まって草
でもこのシリーズ毎巻終盤はこんな感じだったな。

 

なるほどね〜 学生の二股浮気痴話とか、そういうことではなかったが、不和家庭のきょうだいの話だったのか。それはそれでまたベタな…… 大晦日の夜の屋上とか、愁嘆場みたいなのまで用意されてるし。

3年前はともかく、今回の事件は加害者もまたある種の可哀想な「子ども」であったのだなぁ。若者の人生の苦味を描く青春ミステリとはこういうことか。

 

そういえばノートを犯人に読まれる可能性は考慮していなかったのだろうか? 隠したりとかしてないよな。読まれてたら……いや、読まれているとしてもそんなに状況は変わらないのか。看護師を疑っていること自体はまったく書かれていないわけだし。(3年前の回想だけをしている)

 


終章
終わった~!

え、こいつら大学生になってもつるむの? 最悪だ~解散解散 ファンの人良かったね。

後日談とかも特になく、最後はあっさり目。1年の終わり= "春夏秋冬" の終わり、と掛けているわけね。しばらく経ってから気付いた。

夏期限定トロピカルパフェがさらっと過去の出来事として懐かしく(のみ)思い返されて流されていって哀しいよわたしは。

 

 

 

 

感想まとめ
「好きになれない恥ずべき自分をそれでも受け入れていくしかない……」などと、なんだか穏当に、良い話風に独白してまとめていたけれど、騙されないからな俺は!!

小鳩くんが過去にしでかしたことを本人(日坂くん)に謝ることができたのも、小鳩くんが見事に事件の真犯人を突き止めて解決したからだ。つまり、探偵行為をしたことにまつわる後悔と自己嫌悪の清算として、またまた探偵行為をして大団円になっている。それじゃあ何も根本的には変わってないし、清算も反省も出来ていないじゃねぇか。そりゃあミステリなんだから仕方ないのかもしれないけど、とんだマッチポンプというか、虫の良い話だと思う。

 

マジで身近な病院関係者が犯人でびびったね。しかも、肝心の、あの日、日坂くんと一緒にいた同行者が現在は病院勤務していて、自分が轢いた人間を看護することになったのは「偶然」って……呆れてものも言えない。良く出来た話だ! 小説サイコー! ミステリさいこ~!
もともとつけ狙っていたとかでもなく、マジで偶然に堤防道路を運転してるときに憎らしい懐かしい顔が歩道に見えたので瞬間的に殺そうと思って突っ込んだ、というのも……現実味がない。そんな性能の良い殺意のギアを積んでる人間いるか?

 

病床探偵としてほぼ寝たきりの状態で見事に事件を解決した小鳩くんだけど、冷静に考えたら、そもそもこれが安楽椅子探偵モノですよとはひと言も言われていないわけで、わたしが勝手に僅かばかりの知ってるミステリ用語をえっちら担いできて託していただけだった。よって……冤罪!

 

3年前の監視カメラの件だけど、片側通行止めになってるのに車がひっきりなしに通っているのがおかしいんじゃなくて、救急車やパトカーが映ってないのがおかしい、ということだった。言われてみればたしかに? なんとなく、救急車やパトカーは別ルートから来てると思い込んでいた。

片側通行止めしてたのはどっち方向の道なんだろう。下流方向だったら、(監視カメラで)上流方向に車が走ってるのはおかしくないのか。でも、下流方向だったとしても、車が通ってたらおかしいと気付いてもよさそうだけどなぁ。どのくらい通行止めしてたんだっけ。

あと、わざわざ監視カメラの映像を差し替えるくらい用心深い犯人が、救急車やパトカーが映っていないことの違和感に気付かない(or自分で気付いてはいても、警察などは気付かない可能性に賭けて差し替えを強行する)のはかなり不自然だと思う。

 

病室の水のなかの睡眠薬に関しては、犯人が言い訳をしたように、睡眠薬を入れていたことが明らかになったあとでも、まぁ医療看護目的でそういうことも(患者に知らせずとも)あるか、と、正直それほど不審には思わなかった。ので、やや置いてけぼりにされた。もちろん、それ以外の不審な点(名前を知らない=名札をしていない、ナースステーションの前を通らせない、顔を日焼けしている、病室外に滞在させたくなさそう、車椅子に乗るとき一瞬身の危険があった等)との合わせ技での推理→確信だったのだろうけれど。。

変な形で顔に日焼けしているのは通勤手段を車から徒歩or自転車に最近変えたせいだ!とかも、えぇ……この推理どうなん?と白けていた。

ロの字型の回廊になっているのにトイレやエレベーターに最短経路で行っていない点は、いちおう自分の頭の中で "[ " の形に車椅子を押されて廊下を進んでいたイメージはしていたので、はえ~~とは思った。でもナースステーションが病室を出てすぐ右側にあることや、ロの右側の辺の廊下の存在はあまり意識していなかった(あると思っていなかった)ので、「解けてもよかったのに悔しい!」というほどではない。

 

 

扱っている事件(3年前と現在のほぼ同じ場所で起きた似たような轢き逃げ事件)そのものは、そこそこ面白かった。川の堤防というものすごく空間的に開けた場所で、全長9キロにも及ぶ長大な擬似 "密室" という建て付けもかなり魅力的で好み。

はじめは複数名から秘匿されていた〈同行者〉の存在が明らかになり、謎が密室トリックのハウダニットから、被害者側の人間関係のホワイダニット(なぜ隠すのか)へと遷移するところも、小鳩くんは逃避だとして悔いてはいたけれど、ミステリの一読者としては、飽きさせない面白い構成だった。

調査パートでは、後輩の藤寺くんを休日にファミレスに呼び出して、背中越しの小佐内さんとケータイで連絡をとる三者会談シーンや、そのあと中高の制服屋さんに行く場面なんかは、何故かはわからないが結構ワクワクして楽しめていた。

 

ただ、終盤で一気に真相が明らかになってからは、えーまじかよと驚きはしたものの、好きではなかった。密室の謎もまじでしょうもないものだし(それがいくら作中でいとも単純なしょうもないトリックとして造形されていたとしてもつまらないものはつまらない)、現在時制の犯人の正体や動機のあれこれに関しての落胆は上述の通り。

3年前の事件の(2次)被害者が、今回の事件の(1次)加害者となる、それも、小鳩くん自身がトラウマになるほど悔いている過去の「報い」として──つまり、小鳩くんにとって3年前の自分は(2次)加害者であり、現在は(1次)被害者である──というかたちでの時を越えた事件の繫がり、絡み合い、反転の図式はまぁ良く出来ているのかもしれないけれど、現場がまったく同じだったことはマジで偶然でしかなく、2つの事件のリンクに強引さがあることは否めない。

 

日坂くんの(両親が一時的に不和で離婚した)家族の話が犯人の動機のバックストーリーとして語られるが、いっぽうの主人公側、小鳩くんと小佐内さんの家族・両親の存在が不気味なほどにオミットされている話でもあるので、どういう対比なのかと結構うすら寒い。

てか、自分を担当している看護師に命を狙われている(殺されかけた)と気付いたらまずはなんとしてでも親に助けを求めるのでは。それか他の病院関係者に。

ラウンジで会談した日坂くんの親父は、息子が退院したことすら知らない親だったけれども、小鳩くんのご両親は、作中でほぼ語られすらしない親だぞ。果たしてどちらのほうが "不自然" なのやら。

 

 

あ、そういえば、文章が読み易く上手いのは良かったです。なぜなら、文章が読み易いのは良いことだからです。
ラノベかってくらい……いや、ラノベよりもスラスラ読めたかもしれない。

 

アニメを観て以降(といっても途中までしか観れてないけど)、さすがにどうしても小説を読んでいる時の小鳩くんや小佐内さんの脳内ビジュアルイメージがアニメのキャラデザで固定されてしまって、以前はどういう風貌を念頭に置いて読んでいたのかあまり思い出せなくなってしまってかなしい。小市民アニメのキャラデザ、好きくない。小鳩くんが美青年すぎるし小佐内さんが美少女すぎるから。

 


春は自転車、夏・秋・冬は車が、事件のメインアイテムになっていたのだなぁ。(教習所の車もカウントすれば春も車でコンプリート)

アニメのほうを観ていて、自転車や車を扱うのは、舞台となる街の交通が主題だからではないか、と思ったっけなぁ。今回ももろに堤防「道路」の話だ。病院内の廊下(=道路)も重要だし。

途中で降りようにも降りられない曲がりくねった長い長い一本道、という舞台設定が、そのまま人生のメタファーとかにも駆り出されるのかとヒヤヒヤしながら読んでいたが、明確にはそんなことはなかった。だから、あとはこれを読んだわれわれが駆り出し放題というわけだ。しめしめ。


島健吾はマジで僅かしか出てこなかった。裏で重要な働きをしていたっぽいのが健吾らしいけれど、本シリーズ中では(相対的に)健吾が好きな身としては、もっと出てきてほしかったかも? いやべつにそうでもないか。

 

小鳩くんと小佐内さんのことは、もう思い出したくもないです。

 

 

 

 

 


解説(松浦正人)

病床探偵じゃなくて「寝台探偵」(ベッド・ディテクティブ)っていうんだ。
入院生活という非日常的な日常のなかから盲点をできるだけ排除して「謎」を見出すさまを描いているのがすばらしいと。なるほど。
瞬間的に人間をおそう殺意に関してのミステリ史上での含蓄。たしかに「そんな人間がいるわけない」と一笑に付すのは人間存在を舐めているか。とはいえ、謎の成立のために人間の精神の可能性が手段として探求され拡張されていくさまは、やっぱりわたしはあまり好ましく思えない。解説者はこれぞミステリだと言わんばかりにまとめているが、それがミステリなのだとしたら、のとふぉみです。
あと「解説子」って一人称を初めて見た……んだけど、検索してもヒットしない。こわっ この人の造語?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『案内係』フェリスベルト・エルナンデス

 

主に20世紀前半に活動したウルグアイ作家フェリスベルト・エルナンデスの日本オリジナル短篇選集『案内係』を読みました。

 

24/11/10〜12/20
計19日間

 

 

11/10(日)

人に薦められて数ヶ月前に書店で買い、読んでいた別の短編集をやっと捌いたので、ようやく読み始めた。

 

第Ⅰ部

わが短篇に関する偽の解説

これを選集の冒頭にもってくる編者の気持ちはよーく分かる。
こんなタイトルだけど結論が「どうやって作ってるのか自分でも正直よーわからん」なのはネタなのか本音なのか。
語られてる内容は、短篇執筆と「意識」の微妙な関係についてであり、意識がまったく介在しないわけでも、完全に意識の統御下にあるわけでもない、両義的で曖昧な関係で書かれる小説こそが良い……という、まぁわりと素朴に理解・共感しやすいものだった。
むろん「偽の解説」とわざわざ銘打っており、これを著者フェリスベルトの本当の執筆理念だと見なすことはできないが、真相がどうであれ、短い文章としてなかなかに好み。

 

 

誰もランプをもっていなかった

あ〜これは好きだ。好みの作風、文体。聞いていた通り、とても地味でダウナーで内省的・個人的な雰囲気だ。文章が修飾過多でなく読み易いのもいい。めちゃくちゃ風変わりというわけではなく、あぁこういうタイプね〜〜わかるよ〜好き〜♡とすぐに魅力を感じられるが、具体的に類似するものを挙げられるわけではない。

前作から引き続き、こちらも「短篇」に関する、短篇小説家を主人公とした、おそらく自伝的でメタい作品。「ぼく」の一人称の語り。

朗読を聴いている聴衆の予想外の「受け」に語り手が戸惑う箇所が二度ほどあるが、たしかに、この文章はウケ狙いで書いてないだろうなと思わせるものだ。コルタサルマルケスボルヘス、ドノソといったイスパノアメリカ文学の有名作家たち(ブームの世代など)に比べて、圧倒的に派手さがない。インパクトやキャッチーな引きがない。この点ではなるほど同じウルグアイのオネッティに近い。

ちらと巻末の訳者解説を読んでしまったのだが、そこで密に支援されていたというシュペルヴィエルの影響も確かにそう言われれば色濃く見出せる気がする。

静かに黙々と自分の世界=短編小説を作り上げているかんじ。読者を驚かせてやろうとか、衝撃を与えようとか、売れようとか、そういう姿勢が読み取れない、とにかく地味ぃ〜で自己完結的な、マイナー趣味の読者にのみ偏愛されるタイプの作家。たかが掌編二作読んだだけで作家の何が分かるんや、って感じだけど。

意外性と納得度がともにある比喩表現もいい。
オチは……なんなんだ。ボーイミーツガールというか、作家の男が風変わりな女性に邂逅してちょっといい感じの雰囲気になりかける話だが、最後のは彼女側から誘ってきたということ?
なんにせよ、終わるときも、衝撃的なオチとか鮮やかな伏線回収とかよくある不穏宙吊りオチでもなく、ただなんとなく終わっただけ感がいい。

 

 

案内係

「川で溺死する娘」というイメージ、オブセッションは前篇と共通している。
川/河とはラプラタ河のことだろうか。「大都市」モンテビデオとそこに横たわるラプラタ河についての小説か。無料食堂の席で川に向き合っているか背を向けているかまで描写されているのだから。
スープの中に頭を突っ込んで死ぬ男。そんな『インフィニット・ジェスト』の電子レンジ自殺みたいな。なるほど、「皿」と「川」が、同じく水(液体)の入っているモチーフとして対比されているのか。更にそこに自らの内の「沼」の比喩が呼び出される。とにかく水分・水気と死がオブセッションとして密接している。
ラプラタ川=モンテビデオという都市のなかで溺死する若者・現代人……みたいなこと? つまらない解釈だ。
とにかく内省的。みずからのうちに孤独を深めていく語り手。

モンテビデオの人口は138万人。さいたま市京都市と同じくらい。思ったよりしっかり大都市だ。
あとモンテビデオって意外とラプラタ川の河口の開けた下流側に位置するんだな。対岸のブエノスアイレスが結構奥まった上流沿いにあるので、そのすぐ向かい側を想像してた。

えぇ…… 目から光が出るようになる、という地味すぎる幻想要素。夜の活動に便利、くらいしか使い道がなさそう。(実際に目が光源になったら何も見えなくなるだろうが。)
じっさい主人公の男も、自室の壁にグラス・ビン類を掛けておいて、夜にそれらを照らして楽しむ、という何とも慎ましいことしかしていない。なんだこれ
その状態で鏡で自分の顔を見るの、そりゃ怖いよなぁ

夜、無料食堂の隣の暗い部屋に、秘書を脅して忍び込んで、ショーケースを眺める?ために通うようになった。意味深に書いていた隣の部屋は伏線だった。
そこで「絶世の美女」に出会い、寝そべっている身体を踏まれるプレイ/逢瀬を繰り返す。また男がこちらを挑発してくる謎めいた女に出会うやつかよ!! そういう意味でも夢想的だなぁ

女は夢遊病者だったのか何なのかよく分からないが、その食堂の主の娘だったらしく、男は女を骸骨にしか見えなくなってしまい、逢瀬は終わる。眼光も弱まりつつある。案外ふつうのオチ?

うーむ……なんというか、典型的な怪奇幻想短篇といえばその範疇に収まってしまう気もする。あーはいはいよくあるやつね、と。前篇のほうが好きかな

 

 

24/11/18(月)

フリア以外

これは……なんだこれ。すげぇ異様な怪奇幻想?短編。
学生時代の同級生の男と大人になってから再会した「ぼく」は、毎週末に彼の別荘へ泊まらせてもらうことに。そこで彼は、暗いトンネル内で、両側に並べた4人の少女の顔や品物を触る儀式のような趣味をとりおこなっていた。「箱の中身はなんだろな」やや似ている。
やがて彼は少女のひとり、フリアを特別視し始める……。
と、このようにプロットも夢のような、何をやっているのかよく分からないまま淡々と進んでいく内容だが、文章もかなり変で、異様な直喩もいっぱいある。

男が少女(若い娘)にもつ執着が一貫して描かれてはいる。

「ぼくは自分の……病気の方が、人生より大事なんだ。ときどき、治ってしまうんじゃないかと考えるとひどく絶望するんだよ」 p.49

「わかったかい?」
ぼくはこう答えるのが精一杯だった。
「わかるように頑張ってみる」 p.50

ほんとうにこれ。

彼の頭は空の片隅にある一切れの静かな雲みたいで、ぼくはそれが通ってきただろう別の空の広がる別の場所に思いを馳せた。 p.51

なんとなく分かるけどすごい表現だ。

ここじゃ話しづらいな。光が強くてトンネルのことが考えられない。画像がまだ定着していないのに写真家のカメラに割り込んでくる光みたいだ。 p.52

当時の写真機事情に明るくないのでわかりづらいが、これはそこまで特殊な喩えではないか。

そのまま降りていくと、上から食堂の薄暗がりが見えた。その真ん中に巨大な白いテーブルクロスが、まるで上に乗った品物によって蜂の巣にされて死んだ幽霊さながらに漂っていた。 p.52

どういうこと?

するとぼくは、彼は暗闇の中に指を植えているのだと考えた。じきに彼が指を拾い集め、全部の指が少女の顔の前で再会することになるのだろう。 p.58

すごい比喩表現だが、これは言わんとすることはわかる。

 

 

11/20(水)

初めての演奏会

コンサート当日の朝になってようやく、今までの練習の成果を差し引いても自分の望む状態にはほど遠いばかりか、あと一年練習しても届きっこないことに気づいた。 p.74

ピアニストのコンサート当日の心理を追いかけて克明に描写した短編。
ちょっと変な比喩は相変わらず。
演奏時の集中と高揚に基づく心理描写も面白い。

音の塊に手をつっこみ、変形する熱した物質をあつかっているかのように形を整えていった。 p.79

心配していた演奏本番だが、黒猫が舞台に上がるハプニング?が起こり、なんとか乗り切る。しかし黒猫は「ぼく」の幻覚だった?

 

 

緑のハート

自分の部屋のことを考えると、まるで五つの指の腹みたいなつるつる頭の五つ子のことが思い出された。 p.83

緑のハート型の石付きピンを手のひらで転がすうちに、主人公の過去の回想に遡っていく文章がめっちゃ良い……

11/21(木)
ウルグアイの人にとってアルゼンチンのブエノスアイレスってどういう都市なんだろう。対岸にある憧れの街?

回想時には、時系列を圧縮したような文がある。
ニャンドゥ?

レア (鳥類) - Wikipedia ja.m.wikipedia.org  

ダチョウみたいな鳥なんだ。なるほど

ノスタルジックでとても好きな短編だった。

家具の店〈カナリア

なんだこのポップな設定のSF?幻想?不条理?モノの掌編は。電車内で突然、男に注射を打たれると、家具の店〈カナリア〉の宣伝広告が頭の中に流れるようになる。ワクチン陰謀論みたいな

 

 

11/22(金)

ワニ

これはまたキャッチーな設定の……正統派にもヘンテコにも思える短編だ。
はじめは涙活の話かと思ったが、泣き落としでストッキングを売りつけるセールスマンの話だった。獲物を捕食するときに泣くワニになぞらえて、そう呼ばれることになる。
やっぱり「ヒロイン」のような少女との出会いには固執しているようで、本作は特にストッキングフェチものかと思うくらいそういう描写が色々とあった。なんなんだ
オチはかなり優等生的

数時間前に何気なく動かしたおもちゃでまたこっそり遊ぼうとするみたいに、独りになりたかった。 p.102

この何ともいえない直喩よ

「ここでみんなの前で泣き出したら、どうなるかな?」乱暴なアイディアだと思った。でもしばらく前から、突飛なことをしでかして世界に探りをいれてみたくてうずうずしていたのだ。 p.105

狂気のタックスヘイブンっぽい

その目は内側から色を塗ってあるみたいだった。 p.110

 

 

11/25(月)

ルクレツィア

目を閉じるとぼくは、ルクレツィアの目に出くわした。あの青色が、瞼とこすれたせいですり減ったようだった。 p.129

くたびれ果てたぼくの足が下からぼくを呼んでいるのに合わせて、ぼくは一人の友人が足に同情してくれている様を思い浮かべ、ほっこりした。 p.122

修道女のあとを追いかける「ぼく」は、遠い未来からやってきた? 意味がわからない。SFなのか
ルクレツィアへ書状を渡すために来た。
語り手はスペイン出身で、舞台はイタリア?

みんなろうそくの近くで食事をとっていて、まるで光を食べているかのようだった。 p.128

ろうそくの光が必死に揺れ、ろうそくから離れたがっていた。 p.129

まだ眠りに落ちる前、彼女の目がまるでばねでもついているかのように見え、一人の女教師がこう言うのが聞こえた。「目は、二つで一つの体の部位としては唯一、同時に回転するものです」 p.130

自分が二十世紀から来たなんて告げる考えは微塵もなかった。それにもし向こうがぼくのかつての未来の人生について飲み込めたところで、ぼくが自分の世紀について説明できようか? ぼくは何度も、その当時自分が利用したものすべて、それに関する自分の乏しい知識について思いを馳せた。今このルネサンスで、ぼくはアスピリンすら作るすべを知らない。 pp.135-136

二十世紀からルネサンス期(十五世紀前後)にタイムスリップしている? スペインからイタリアへの旅、というのは空間移動だけでなくこの時間移動も込みなのかな。二十世紀スペインからルネサンス期イタリアへの「使者」。

11/27(水)朝
10歳くらいの少女との出会い、別れ(病死)、供養。

ろくに眠れなかった。目が覚めるとまた泣いた。突然、泣き続けるためにもっといろんなことを思い出そうとしている自分に気づいた。そこで泣き止んだ。 p.140

最後の方は「ぼく」のエゴイスティックで自己陶酔的な面が強調されて終わった。オリエンタリズム的な? 時間遡行も含めて。ルクレツィアや少女、修道女などの女性を都合よく客体化する男のどうしようもなさも絡んでいる? 少女の父なのか叔父なのかともに分からない兄弟の存在とか。

けっきょく旅の目的はルクレツィアの話を聞いて見聞録に纏めること、つまりこの小説そのものがその目的であり成果ってこと? よう分からん。SF・ファンタジー設定もあるのに前景化してこない。

同じラプラタ幻想文学のなかでも、コルタサルのほうが「あっ」と驚く仕掛けに満ちているし、オネッティのほうが文章が前衛的・技巧的というか、文学エリート感がある。フェリスベルト・エルナンデスは今のところ、それらのいずれでもなく、ひたすら地味な幻想小説。「夢のような」というのが、極彩色めいた派手な夢ではなくて、本当に夢のように忘れてしまうくらい些細でまとまりがないものの形容として使われるにふさわしい。

 

水に沈む家

未亡人恋慕モノ? 極貧生活から、歳上の未亡人の屋敷に引き取られた「ぼく」。めっちゃエロゲみたいな設定。人里離れた館モノ
「うわの空だが気前のいい女」p.145

プロットがかなり「ルクレツィア」に似ている。女性の屋敷に泊まらせてもらいお世話になる「ぼく」。

あなたはお客様ですから、この家ではゆっくりお寛ぎください。ただ、わたしの乗るボートを漕いで、わたしの話に付き合ってくださいますよう。こちらからは、お口座に毎月の給金を振り込ませていただきます。お役に立てれば何よりです。あなたのお書きになった短編は、発表のつど拝読させていただいております。 p.148

これなんてエロゲ??
まだ会ったこともないのにモーニングコールを頼んでしてもらってて草

11/28(木)
ついに「ぼく」へ明かされた、スイスで夫を亡くした頃のマルガリータ夫人の回想。立ち寄ったイタリアのホテルで噴水の水に話しかけられているように感じ、パラノイアのように水に感情移入していく。それが今の水に沈む家を作るけっかけ?

12/1(日)
屋敷の一階がすべて浸水してるんだ。

12/2(月)

夫人は目の前の出来事に困惑していたが、突然彼女の体は、まるで原因不明の地震のように笑いに揺れ、顔にまで笑みが浮かんだ。なぜ笑いだしたのか理由を探し当てているような様子だったが、ついにこう独りごちた。「この雨ったら、うっかり勘違いをやらかした女の子みたい。土の上に降らなきゃいけないのに、水の上に降ってるんだもの」。それから、海が雨を受け止めるときの甘美な心地を思い、心が和んだ。だが巨体を揺らして船室に戻ると、水がもう一つの水を呑み込む光景を思い起こし、あの女の子は死へと向かっているのだという思いが浮かんだ。 p.171

おわり! ……これはバッドエンドというかノーマルエンドだなぁ。夜に夫人の寝室のベッドでふたりになるところまでは進んだものの、それ以上はいかずに、夫人に暇を告げられた。
夫人の水への執着、信仰が面白いといえば面白いが、そうした「狂気」が結局は夫を亡くした反動として理解できてしまうので、惜しいとも思う。
幻想的な舞台設定ではあるが、散水器やモーターといったいちおう現実的な装置で成り立っているようであるので、どちらかといえばSFに近いか。

 

 

第Ⅱ部

12/5(木)

クレメンテ・コリングの頃

思い出を子どものように擬人化する
ノスタルジックかつ、かなり凝っている懐古の語りの文章。路面電車に乗っている現在時から、通り過ぎる風景が喚起する昔の思い出を回想している?

──ぼくはすでに彼女を汚すことを考えていた。──たぶん彼女に到達するには、知性を思いきり振り絞って、高く飛び立たねばならないだろう、ちょうどミツバチが女王バチを追い求めるときの飛び方のように。 p.184

でも悲しみの中に何か灰色がかったものを置いていったらしく、ぼくの悲しみは台無しになった。 p.185

12/9(月) p.186-196
すげぇなんとも言えない、掴みどころのない茫漠とした話だ。ざっくり言うと「いろんな思い出を語っている」に過ぎないのだから。
語り手は少年の頃から歳上の妙齢の女性に憧れているのか。老婆までいける。ショタおば?

12/10(火) p.196-205
遠縁の叔母ペトローナが他人の癖を笑う。特に芸術鑑賞中のポーズについて。分かるっちゃあ分かるけど、すごい取り留めのない話だ……。
小説というより架空のエッセイのようだ。
ようやくクレメンテ・コリングが出てきた。話の全体像がさっぱり掴めない。少しずつ読み過ぎてて忘れてしまう。

12/11(水) p.206-217

一大饗宴と、見るという劣情を思った。 p.215

彼はすべてのパートを、まるで貸家の案内でもするかのように弾いた。 p.217

コルタサル「追い求める男」っぽさは少しあるか。音楽と回想。

12/12(木) p.218-227
コリングに対する当時の印象と今それを思い出すことに関する随想的な表現がすごい。

12/13(金) p.227-234

12/18(水) p.234-255
コリングという他者と記憶についての作品か
尊敬、疑念、幻滅
50歳で亡くなった。意外と若い?
読み終わったけど…… 最後のほうとかマジで思弁的・抽象的すぎてついていけなかった。ようするに、コリングという人間に潜む「謎」というのは、別にそんな深遠なものではなく、ささやかなものであるが、だからこそ彼が死んで長い時が経ってもこうしてたまに思い出して語る対象になる──みたいなこと?? なんなんだこれ。ほぼ小説であることを放棄している。構成もプロットもなにもない。序盤のほうが好きだった。後半は難しいというか、なんともいえない。この作家にしか書けない文章・作品ではあると思うが、「すごい」とかでもない。

 

 

第Ⅲ部

ギャングの哲学

献辞
虚栄心について。ゲシュタルト崩壊しそう

それとは別に君には、この本を読む際、できるだけ読書を中断するようにお願いしたい。おそらく、ほぼ確実に、君がその中断のあいだに考えることこそが、この本の最良の部分だろう。 p.262

わろた

 

タクシー

ぼくは借り物の隠喩に乗り込み、〈事務所〉へ向かう。隠喩はブルジョワの快適な乗り物で、いろんな場所に行ってくれる。 p.263

「隠喩」は車らしい。何を言っているのかよく分からない。眠いからか?
一文一文が行き当たりばったりで、あまり脈絡がないように思える。登場人物も自分しかいないといってよく、物語ではない。とてつもなく内省的でひたすら何かの話題について内省的に語っている。

 

 

12/19(木)

フアン・メンデス または考えの雑貨屋 またはわずかな日々の記

ノートに文章を書きつける語り手の文章 書くことについて書く
「皮相な人々」と「深遠な人々」という二項対立の止揚
内なる「キャラクター」に助言をもらいながら書く
前作以上に(敢えて)行き当たりばったりで小説の体を成していない!! 行き当たりばったりな筆致そのものを主題として書かれた散文。

12/20(金)

今日わがキャラクターは、私が静かなのを見て私を正気だと思い、私がこんな書き物までしてとこまで行くつもりなのか訊くのには今こそもってこいだと考えた。曰く、もしこれを読んだ誰かに一体何が言いたいんだと訊かれても、私はかしこまった答えは何も言えないじゃないか。 そしてまさしく、私の様子がかしこまっていると思ったキャラクターは、何か読者への助言となるような、読んだ結果何らかの教訓や人類を導く新たなスローガンを見出すことのできるような作品を私に書いてほしがっている。そうすれば私は一つの善い評価の内に収まり、優越感にひたりながらときどきをめて考え込み・・・・・・というわけだ。
そこで私は意を決し、彼には理解できないことを説明してやった。曰く、私はどこへ行くかなどまったく興味なしに書いているのであり――たとえそのこと自体がどこかに行くことになるとしてさしずめ次の目的地は、悦びを引き出し必要を満たすこと以外にない。私の中にあるこの必要というのも別に、何かを教えることになどまったく関心はない。もし私の書くものが結果として、楽しませ感情を揺さぶるものに関心を示しているのであれば、それも結構だが私は少しずつ埋まってゆくこの素晴らしいノートを埋め、やがて埋まった日にはフルスピードで読んでみるという以外、何もしようとは思っていない。 p.277

私は風について考察を始め、二つの計画を思い描いていた。一つは、この風の印象についての考えを心理学の論文にすること。もう一つは、この風について短篇小説の形で書くこと。 p279

まあ、短篇なら開かれて謎めいたものに、論文なら限定されたものになるだろう。そしてもちろんここで、真実を見つけることと美しいものを作り上げるのと、どちらにより誇りを感じるか考えだすことになるだろう。私は、二着のスーツを身につけるようにして、両者を備えたいと思う。ある日は心理学の教授、別の日は文士。 p.280

まさに、ここで並置されている「短篇」と「論文」のあいだのような、小説らしくない思弁的・随想的な文章になっている。まぁ論文といえるほどの客観性は欠片もないが。

 

おわり!!

 

 

感想まとめ

前半の短篇「誰もランプをつけていなかった」「フリア以外」「緑のハート」が好きだった。

目から光が出るようになる「案内係」、ワクチン注射で脳内にCMが流れ出す「家具の店〈カナリア〉」、二十世紀からルネサンス期へとタイムスリップしているらしい「ルクレツィア」など、幻想小説というかSFっぽい設定の話もあったが、いわゆるSF的な面白さはまったく志向しておらず、ひたすら内省的で地味なのが特徴。後半の「クレメンテ・コリングのころ」「ギャングの哲学」「フアン・メンデス」などは、内省的すぎて小説というよりは思弁的な随筆に近く、小説らしい物語の快楽はまったくない。文章も特異といえばそうなんだけど、こちら側のコンディションもあってか、あんまり乗れずに終わってしまって悔しい。

ボルヘスコルタサルを代表とするラプラタ幻想文学の系譜に位置付けられはするが、両者には似ておらず、強いてあげるなら同じウルグアイのカルロス=オネッティだろう。しかしオネッティよりも更に地味で内省的で、斬新さや派手な魅力とは縁遠い、「偏愛」するにふさわしいというか、愛するとするならば「偏愛」するしかない作家だという印象。文学的な「すごさ」はあんまし無い、と思う。

べつにフェリスベルトに限らないのだが、政治性が薄く、そういう志向を忌避して幻想や内省に耽溺しているような「文学」がここ数年で苦手になってきたと感じる。アレナスとか、ラテアメ作家でもゴリゴリに政治闘争に身を投じた人も結構いるんだけど、単に幻想文学に遊んだり、自分という殻に閉じこもって思索を深めるだけなのはちょっと……となってしまう。その点、コルタサルが晩年に政治の世界へ傾倒したのは、文学研究者からの評価は低いとはいえ、むしろかなり好印象なのかもしれない。

 

 

訳者あとがき

えっ!? クレメンテ・コリングって実在の有名人なの!?!? 知らんかった……
ジュール・シュペルヴィエルに「クレメンテ・コリングのころ」が絶賛されて有名になったのか。ウルグアイ生まれだからちょくちょくラテンアメリカ作家の伝記に顔を出す。幻想短篇という点ではまぁ影響は感じる。
ボルヘスとフェリスベルトは互いに全く興味を示さず評価しなかったの笑う まぁそうだろうなぁ 自分は……どちらかといえば断然フェリスベルト派かな
この作家をコルタサルやフアン・ホセ・サエールが愛読していたのはわかるが、ガルシア=マルケスまで好評価だったとはやや意外。
四度離婚するなど、わりと浮き名を流している。作中での女性の扱い・オブセッションを鑑みれば納得。パリで知り合った三人目の妻はソ連のスパイだった、という興味深すぎるネタなんなんだ。パドゥーラ[『犬を愛した男』]読みたくなっちゃったじゃないか。そんな[フィクションのエルドラード]間での連関あるんだ
政治にほとんど関心なさそうなのも作品からの印象通り。
「イスパノアメリカ文学における近代性の創設者」by フエンテス ←そんなに!? まぁフエンテス先生はいつもこんな調子だから……
本書は計3部構成のアンソロジーだが、後期→中期→初期と、次第に時代を遡るように配されていたということは、じぶんは後期の作品がもっとも好みだったということになる。技術的にも円熟してきた頃の作品ということで、妥当か。第3部は初期だから読みにくく尖ってたんだなー
オートフィクションの先駆者?
なるほど連想をつないでいく脈絡が無さげな語りはプルースト譲りか~ 
若い頃から独学で哲学・思想に傾倒していた。なるほどね だからあぁいうのが書けるのか
シュルレアリスムにも通じていたが、その前衛運動の集団性とは無縁に独りで書き続ける。
アルゼンチンのもう一人の「奇人」マセドニオ・フェルナンデス気になる
文学からも哲学からも音楽からも「らしくない」「中途半端」と言われる、という不安定なアイデンティティ
ロートレアモンモンテビデオ生まれなのか。『マルドロールの歌』はラテアメ文学の系譜を辿ってるとよく行き着くな~(レサマ=リマ『パラディーソ』)

ウルグアイ文学が「奇人」を掲げるのは、1940年以降のアルゼンチン幻想文学への対抗心と差別化のための「戦略」ではないか、という論おもしろい。そりゃあ川を挟んで向こう側にクソデカい文学大国があったら、「小国」としてはマイナーなりに独自路線を突き進んで打ち出していくしかないよなぁ 

 

 

 

 



『ダブリナーズ』ジェイムズ・ジョイス(1914)

 

 

2024/9/3〜11/8(計15日間)

 

海外文学のラスボス(の1人)、ジェイムズ・ジョイスの小説はだいぶ前に『若い芸術家の肖像』(集英社文庫)の冒頭を読みかけてすぐに放り出したのみで、読み通したのは今回が初めてです。

 

短編集の最後を飾る「死せるものたち」をいちばん初めに読んで、あとは冒頭から順に読みました。以下の感想もその順番です。

 

 

9/3(火)
9/4(水)

死せるものたち

The Dead

晦日の社交パーティ
登場人物が多すぎる! これ家系図・相関図を描かないと分かんないや
20ページ過ぎても誰が主人公なのか分からない。群像劇?

人物の外見や仕草の描写が精緻なのは19世紀小説(バルザックディケンズ?)の流れを汲んでいるのか。にしても異様さを感じる。登場人物全員を露悪的に見ているというか、変な執着があるような。

社交界を風刺する短編としては最近読んでたリスペクトルを連想する。

 

 

「西部イギリス人」というアイルランド人への蔑称。イギリスかぶれの非国民ってことか。
アイルランド語の存在を恥ずかしながらよく知らなかった。いちおう公用語なんだ。都市ゴールウェイ、ゲールタハトという西側地域(イギリスから遠い地域)では比較的話者が多いと。

 

9/5(木)
ゲイブリエルの圧巻のスピーチ 保守的な、アイルランドの伝統のもてなしと、主催者である叔母たち3名を誉めそやす内容。

正月の親戚の集まりの賑やかさとほの哀しさがよく表現されている。

 

 

読み終わった!
これは……傑作! すげ~~~小説がうめぇ~~~~
80ページほどの短編だが、ラスト20ページの展開がすごい。それまでは誰が主人公で何の話なのかもよく分からないほどなのに、最後に一気に「小説」になる。

三角関係モノだとは聞いていたので、冒頭から、誰と誰と誰の話なんだと気にして予想しながら読んでいたが、ゲイブリエルの妻グレッタに、ラスト9ページで唐突に生えてくる両想いだった幼馴染(享年17)……そういうことか…………

まぎれもない三角関係モノであり、ヘテロ幼馴染モノであり、「幼馴染」という歴史的な概念についての小説であり、人(他者)の歴史について、他者の過去と未来、生と死についての話である。

そして、精神的なNTR(寝取られ)モノであるというか、BSS(僕が先に好きだったのに)ならぬBAS(僕があとに好きだったのか)………… これはこれでより一層、失恋エモとしての旨みは強いかもしれない。
ようするに、じぶんの性癖の ""核"" を見事に打ち抜いていった作品だった。

 

死者を含む三角関係モノとしてまず自分のなかで思い出すのは重松清『十字架』。ただ、「死せるものたち」が生者↔死者の両想い(死別)であるのに対して、『十字架』は死者→生者の片想いであり、生者→死者の向きの好意は無い(がゆえに遺された生者は死者の死後に好きでもない人間の存在を引きずって生きなければならなくなる)というのが、やっぱりめちゃくちゃ凄いことを描いていると思う。まさかジョイスを読んで重松清の評価が上がるとは……

 

「生者→死者」つまり「好きだった人が死んでしまった」という要素は、それだけで悲劇的なドラマチック性を持っており、物語にとって都合がいい。だからこそ、それを排して、「死者→生者」の片想いをなすりつけるような独りよがりで暴力的な死(自殺)のうえに、「物語」をつくった重松清の才覚が光る。

 

閑話休題
『十字架』は置いといて、この「死せるものたち」もまた、わたしのような失恋エモ厨、感傷マゾヒスト、自分のものにできたと思っていた「女」がするりと「男」の腕のなかを抜けて歴史を持った《他者》として立ち現れる物語がド性癖の人間にとっては、最最最高の小説だった。

 

グレッタとマイケル・フュアリーの幼馴染関係は言うまでもなく、妻グレッタから夫ゲイブリエルへの「愛」もすごいと思う。かつて心底愛していた(愛し合っていた)男のことを、こんなにもハッキリと、情熱的に、夫の前で言ってしまえるということに、夫への無限の信頼と愛情とを感じる。

だから、これは三角関係モノではあっても、決して「NTR」ではないのだ。死者を通じて、究極の夫婦愛を描いた短編でもあるのだ。現在のグレッタのフュアリーへの愛/執着は、浮気でもなければ不倫でも夫への裏切りでもない。死んだ両想いの幼馴染という彼女の人生の核にある秘密を夫に教えてしまえる、そのことに、いかにグレッタが夫を愛していて感謝しているかが表れている。

 

むろん、「たぶん、すべてを打ち明けたのではない」p.374 とゲイブリエルが考えるように、グレッタの「秘密」は彼の前にすべて明らかにされたわけではないだろう。しかし、マイケル・フュアリーの存在を伝えた時点でグレッタは夫を「承認」しているとはいえるだろうし、この文で重要なのは、本当にグレッタがすべてを打ち明けていないかどうかではなくて、「すべてを打ち明けたのではない」とゲイブリエルが考えていることのほうだろう。彼の慎み深さはすごい。

そう、グレッタ側のゲイブリエルへの愛だけでなく、ゲイブリエル側のグレッタへの優しさと慎みもかなりのものだと思う。

 

寛大の涙がゲイブリエルの目にあふれた。己自身はどんな女に対してもこういう感情を抱いたことはなかったが、こういう感情こそ愛にちがいないと思った。p.375

とあるが、このゲイブリエルの「寛大の涙」こそが「愛」なのだとわたしは思う。たしかに、グレッタ→フュアリーのような情熱的な愛とは質が異なるが、ゲイブリエル→グレッタの、妻のかつての想い人の存在を知って「寛大の涙」を流すゲイブリエルの寛さ(ひろさ)も「愛」でなくてなんだろうか。NTR漫画で、寝取り男に "堕ち" た彼女の変わり果てた姿に、それでもだからこそ「好き」だと思う寝取られ男の境地に似ている(NTRではないんじゃなかったのかよ!)。

 

妻の「幼馴染」という《歴史》を目の当たりにして、ゲイブリエルは精神的NTRを通り越して達観してるんだよな。書かれている通り、生と死の境界を超越している。「死せるものたちがかつて築き上げて住った堅固な世界そのものが、溶解して縮んで」p.375 いる。

自分のおめでたい姿が目に浮ぶ。叔母たちの使い走り、神経質な人の好い感傷家を演じ、俗物どもに演説をぶち、己の道化じみた情欲を理想化し、鏡でちらりと見て取れたなんとも憐れむべき独り善がりの間抜け者。p.370

むろん、前半でさんざん描かれたように、ゲイブリエルは基本的に「俗物」で滑稽で憐れな人物ではあるのだけれど、ゲイブリエルをそうした間抜けな寝取られ男(コキュ)で終わらせないのがすごいところ。

二人の叔母も大笑いになった。ゲイブリエルの心配性はいつも笑いの種なのだ。
──ゴロッシュなんです! とコンロイ夫人。つい最近はそれ。道がぬかるむときは、あたし、ゴロッシュを履かなければならないんです。今夜だって履かせたがって、でもいやって言いました。次は潜水服を買ってくれるでしょうね。p.305

彼女が自分のものであることが嬉しくて、優雅さと妻らしい身のこなしが誇らしかった。 p.362

彼女の不可解な気分を征服したくなった。 p.366

マイケル・フュアリーのことを打ち明けられるまで、ゲイブリエルはグレッタのことを所有物であるかのように認識していた。男の父権的で女性蔑視的な「愛」。叔母たちに笑い話にされる、妻への過剰な気配り(「心配性」)もその裏返しである。

彼女は身をふりほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの柵上へ腕を十字に投げ出して顔をうずめた。ゲイブリエルは一瞬、呆然と立ちつくし、それからあとを追う。姿見の前を通るとき、自分の全身が見えた。 p.368

──今でもくっきり目に浮ぶ、と、ちょっと間をおいて彼女は言った。すてきな目をしてたわ、大きな黒い目! とっても表情があった──表情が! p.369

そんなゲイブリエルの父権的な権威が、妻の「幼馴染」という秘密によって徹底的にコケにされ解体される。この意味で本作は非常にフェミニズム的であるが、単にそうして家父長制に入り浸った「男」の失墜を痛快に描いて終わるのではなくて、失墜した「男」側の自嘲、達観、赦しと解放までをも射程に入れているところが更にすばらしい。(無論これらも「フェミニズム」の範疇である。)

ゲイブリエルは片肘をつき、妻のもつれた髪と開き加減の口を憤りもなくしばし見つめ、深い寝息を聞いていた。そうか、そんなロマンスの過去があったのだ。一人の男がこの女のために死んだ。夫たる自分がこの女の人生でなんとも哀れな役割を演じてきたものだと考えても、今、ほとんど苦痛を感じない。 p.373

そしてその頃、初々しい少女の美しさの当時、彼女はどんなふうだったのだろうと思い浮べるうちに、不思議な友情にも似た憐れみが心の内にわいてきた。 p.374

その赦しや解放とは、とうに亡きマイケル・フュアリーの影のとなりに、彼だけではない「死せるものたち」を視ることで為されるものである。

涙がなおも厚く目にたまり、その一隅の暗闇の中に、雨の滴り落ちる立木の下に立つ一人の若者の姿が見えるような気がした。ほかにも人影が近くにいる。彼の魂は、死せるものたちのおびただしい群れの住まうあの地域へ近づいていた。彼らの気ままなゆらめく存在を意識はしていたが、認知することはできなかった。 p.375

叔母もまた、じきに影となり、パトリック・モーカンやあの馬の影といっしょになるのだ。 p.374

自分の身の回りのものもいずれ死ぬ、ということに想いを馳せること。これは普遍的な気分であるが、こうした構成で提示されるとものすごい喰らってしまう。

ラスト20, 10ページまでに数十ページ「伏線」というか「溜め」を仕込んで最後に昇華させる構成ではあるものの、それは文字通り、各人の人生の「構成」そのものの暗喩となっているし、(読んでないけどおそらく)この『ダブリナーズ』という短編集の末尾にこの短編が置かれている理由も、そういうことなのだろう。それまで精緻に描いてきたダブリンのまちの人々の生をすべて包み込んで終わらせるような、強烈な「死」とその超越の物語。

 

小説的な技法としては、p.360の、雪道を帰る妻の後ろ姿に感傷的になり(=性的に興奮して)ふたりの出会いからを回想して勝手にひとりエモくなるゲイブリエルのくだりは、映画的なフラッシュバック演出だなぁと思った。

二人だけの秘密の生の一瞬一瞬が、星のごとくきらめいて記憶に弾ける。 p.360

この時代って「映画」はまだそこまで一般的じゃなかったんだっけ じゃあ逆輸入?

あとは、晩餐会で演劇が話題にのぼるけれど、まさに舞台演劇っぽい空間設計や人物の立ち位置・移動のつくりになっていると感じる箇所が幾つかあった。「オーグリムの乙女」を階段の踊り場で聴く妻を見るところとか、ホテルで明かりを持った老人の後ろをついて階段を登るときに立ち止まるシーンとか、あとはホテル室内の窓から差す光に沿った動きの描写など。

外の街灯の不気味に青ざめた明りが、一条の光となって一つの窓から扉まで伸びている。 p.364

妻は鏡からゆっくりと離れて、光芒づたいに歩み寄ってきた。p.365

 

 

9/6(金)

姉妹

The Sisters

若い「僕」の一人称小説
近所の、「気がおかしくなった」と思われている元神父の老翁によくしてもらっていたが、亡くなった。世間の大人からは疎まれてるけど、子供の自分だけには良き師、良き友人でいてくれる大人との関係というのは児童文学でもありがち。

なんだ、最後の「死せるものたち」だけじゃなく、最初から「死」始まりなのね。葬式から始まる小説は定番。

亡くなったフリン師ときょうだいである2人の老女がタイトルの「姉妹」なのだろうが、なぜこれが題になっているのかはよく分からない。
階段の踊り場や部屋の光、そして老人が着ている服についての細やかな描写などは相変わらず。

 

 

9/9(月)

出会い

An Encounter

ザ・少年時代! 初夏の冒険! スタンドバイミー! ノスタルジーがすごい。好きだなぁ 手持ち無沙汰な放浪の情景描写がいい。

学校をサボって友達と旅に出た先で、話しかけてくる変なおじさんに出会う。このおじさんの語りの描写がまた良い。前作と同様に、子供にとっての大人、がひとつの主題となっている。子供のもつある種の「大人」への幻想を終わらせ、同時に牧歌的な子供時代から目を醒めさせるきっかけともなる哀しい大人。なんか重松清『きみの友達』っぽさを感じた。児童文学!

インディアンとか、新教徒(メソジスト)とか、そうした「他者」に関する記述が散りばめられている。子どもの排外主義。「緑色の目」を探すってどういうことだろう。最後のおじさんは深緑色の目をしてるらしいけど。

ピジョンハウスって火力発電所のことか。最初に写真が掲載されていた。

こういう、ひとつの都市・町をスケッチ的に郷愁を込めて描く短編集って本作が嚆矢なのかな。スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』なんかを思い出す。

 

 

 

 

9/10(火)

アラビー

Araby

うおおお少年の異性愛の目覚め! 淡い初恋という一大事! これも子供を描いた小説として好きだなぁ。主人公の「僕」は何歳なんだろう。高学年〜中学生くらい?
アラビーとは、気になっている友達の姉の名前ではなくてバザーの名前なのね。

お姉さんの描写が良すぎる。逆光に立つ姿が浮かび上がるシーンは「死せるものたち」で音楽を聴く妻が階段の踊り場の暗がりに浮かび上がる場面を連想する。

初恋に振り回されてる子供のおはなしはなんぼあってもいい。かわいい。
序盤だけ「僕ら」という複数形を何度か使う。「マンガンの姉」への恋の話に本格的に入ると、友達連中は後景化する。

初恋の高揚を「東洋の魔法」と呼ぶ素朴なオリエンタリズム。終盤のバザー店舗の壺も「東洋の番兵」に喩えており、なにかそういう裏テーマがあるのか。てか「アラビー」ってアラビアと関係ある? そもそもバザーがペルシア語なのでそっちの文化圏か。じゃあ「東洋の魔法」で何も問題ないな。

今のところ読んだ4編すべて終わり方がダウナーというか、挫折や気まずさ、人生の苦味……みたいな着地をしている。
やっぱり文章も小説も順当にうまい。スタンダードな上手さの頂点、といったところ。ちゃんとした小説などその気になればいくらでも書けるからこそ、前衛的な作品に挑戦していったのか。ピカソみたいな。

 

 

エヴリン

Eveline

三人称。19歳の女が、船乗りの男とブエノスアイレスへ駆け落ち結婚する直前に、家のなかでこれまでの人生を振り返る。
抑圧的な父親。どれだけ「ここ」から解放されたくても、離れられない。退屈で残酷な故郷への憎悪と執着。
もはやこの終わりは予定調和だろう。

 

 

カーレースが終って

After the Race

二十代後半の「若者」たちの、カーレース後の浮かれた夜の一幕。フランス、ハンガリー、イギリス、アメリカなど色んな国の男達が出てくる。アイルランド人がそうしたビジネスパートナーや知人たちにいいように溶け込もうとしてカードギャンブルでこっ酷く負けるのは、そういう国際政治勢力図の隠喩なのか。

 

 

 

9/12(木)

二人の伊達男

Two Gallants

三人称叙述。
レネハンとコーリー。ふたりの三十過ぎの「若い男」が女と逢引きして金を稼ごうと道をぶらつく。といっても、片方レネハンのほうは、そろそろこうした「青春 youth」から卒業して身を固めたいとも漠然と考えている。

うろつき回ることにも、あくせく生きるのにも、一時しのぎや策略にも、もううんざりした。十一月には三十一歳になる。いい職にはつけないものか? 家庭をもつことも無理だろうか? pp.91-92

青春期の終わり。若者から大人へ。現代日本でいえば、恋愛工学に飽きてきた男の話みたいな。結局こういう人々って男同士の絆(ホモソーシャル)に囚われているので、「成功」オチもそういうものへの執着だと解釈できるか。

主人公の設定ゆえにミソジニーがきつい。
「流し目みたいなあの女の口」p.91 というが、どんなだよ。顔のパーツを顔の別のパーツで喩える。なんとなくわかるけど。
ジョイス一流の、シニカルかつ精緻な人物描写がおもしろい。p.82のコーリーの描写など。

 

 

10/7(月)

下宿屋

The Boarding House

自分にとって、娘の失った名誉の埋め合わせになりうるものは、たった一つの償いしかない。つまり、結婚。 p.104

19歳の娘の純潔を、下宿させている35歳の男に奪われた母親が、責任を取って結婚してもらおうとする。

現代日本とは貞操観念も結婚観もまったく異なるので、償いが結婚だとか、結婚したらもうお終いだと独身男が嘆くのとか、そうなんだ〜と面白い。
文章がとてもうまい。模範的。人間の心理に分け入った描写をするすると読ませる。

マダムと娘の駆け引きのところが良い。
ラストに娘が一転してなぜかポジティブになるところ(彼が結婚してくれると直感したから?)はなかなか咀嚼が難しい。

 

 

小さな雲

A Little Cloud

10/10(木)

上京してビッグになった旧友が地元へ久しぶりに帰ってくる。彼を自慢に思い、自分も何者かになれるのではと妄想する32歳の詩人ワナビー既婚男チャンドラー。痛い
イギリスへ素朴に憧れるダブリン市民

旧友とバーで再会するが、生きる世界があまりにも違うことに嫉妬し、退屈な女に引っかかって結婚生活に縛られている自分を省みて、友もこちら側に引きずりこもうとする。
そして帰宅後、乳児を抱き抱えながら妻の写真を見ていらだち、バイロンの詩を読もうとするが子に泣き喚かれ、思わず怒鳴りつけてしまう父……

これは……凡庸な男性のホモソーシャルとマッチョイズム、ミソジニーなどなどが混じり合った愚かしさを見事に抉り出している短編だなぁ。「死せるものたち」といい、こういう「ふつう」の男性のなかに潜むどうしようもない幼稚さと有害さについて書くのが得意なんだなぁジョイスって。『ユリシーズ』もたのしみ😊

 

 

 

10/11(金)

写し

Counterparts

嫌いな男上司に反抗して仕事をクビになるダメ男。金を質屋で工面して仲間と飲んだくれる。
11/15(火)
仲間に奢りまくって素寒貧になり、おまけに腕相撲で負けた腹いせに息子へ暴力を振るう…… マジで最初から最後までクズな男の最悪な1日の話だった。

 

 

 

10/16(水)

土くれ

Clay

原題と「くれ」で韻を踏んでる?
老女マライアが、かつて乳母として育てた男性の家庭のハロウィンパーティへ赴く。ほっこりとしたぬくもりが感じられるやさしい短編。

 

 

 

10/17(木)

痛ましい事故

A Painful Case

ひゃっほーぅ! 不倫小説だ〜〜!!!
ダブリン郊外で世俗から離れた慎ましい暮らしをする銀行勤めの独身中年男性ダフィー氏は、ある日コンサート会場で娘を連れた知性的な既婚女性シニコウ夫人と出会い、惹かれあって何度も逢瀬を交わすようになる。しかし夫人から身体的な接触を迫られたダフィー氏はそれを拒絶し、別れることにする。4年後、酒浸りになったシニコウ夫人が夜中に列車に轢かれて亡くなったことを新聞で知り、自分の品位をも落とされたと憤るが、その後に彼女を拒絶してしまったことを後悔し、真の孤独を噛み締める……

プライドの高い孤独に酔った男の自意識文学としてかなりスタンダードに完成されている。「死せるものたち」の前身っぽさも感じる。

「人生の饗宴から放逐されたのだ」p.191 という言い回しは使い勝手が良さそう。

彼は己の肉体からちょっと距離をおき、己の行為を疑わしげな横目で見るという生き方をしてきた。妙な自伝癖があるために、ときおり頭の中で、己自身のことを三人称の主語と過去形の述語を用いて文章に記す。 p.178

序盤にこの記述があるせいで、どうしても、この三人称過去形の短編小説をそういうものとして読まざるを得なくなるギミック。

あらゆる絆は、と、彼は言った。悲しみへつながる絆です。 p.183

ここもいつかエピグラフに使いたい。

 

 

 

10/25(金)

委員会室の蔦の日

Ivy Day in the Committee Room

選挙運動人として雇われている男たちが寒い雨の日に暗い部屋で酒を飲みながら語らう。登場人物が多くて誰が誰だか混乱した。
部下に裏切られて殺されたアイルランド国王パーネル?の追悼の死で締めくくられる。史実? 背景が理解できないのでよく分からずに終わった。
暗い室内の情景描写はさすが。

 

この人か〜

 

 

 

11/7(木)

母親

A Mother

ピアノを弾ける娘が出演する4日連続の音楽会の企画運営を手伝う母親、カーニー夫人。しかし音楽会が1日少なくなるなど、聞いていた話と違うことに憤った夫人は、契約通りの報酬金を払ってもらえない限り娘を出演させないと宣言する。しかしそのせいで音楽会自体の進行が滞り、他の出演者や観客に迷惑をかけ、夫人は周りから非難される。

……え、これどっち? カーニー夫人が、いわゆるモンスターペアレントであって、こういう迷惑な母親・女性いるよね〜ってことなのか、それとも彼女をぞんざいに扱う周囲の男たち・世間をこそ風刺的に批判しているのか……。カーニー夫人の娘・キャスリーンも、最初の出番のときには母を振り切って舞台に自ら歩み出たが、最後には母が外套で包んで退散させられるのにされるがままとなっており、どういう心境なのかよく分からない。

文章がやっぱり上手い。脇役の人生をさらっと一段落で描写するのとか。

夫人は中央郵便局を信頼するのと同じように、大きくて安全で動じないものとして、夫を信頼していた。夫の才能の乏しいことは承知しているけれども、男性としての抽象価値を尊重しているのだ。 p.236

バスのダッガン氏は細身の青年、まばらな黒い口髭をはやしている。市内のある会社の玄関番の息子だ。子供の頃は、そこの響きのいい玄関ホールで低音を伸ばして歌っていた。 p.237

ヒーリー嬢が目の前に立ち、しゃべったり笑ったりしているからだ。彼女が愛想よくする理由は察しがつく年輩にはなっているものの、この機会を利してやろうとする気の若さはある。彼女の肉体の温みと芳香と色艶が五感を刺激した。見下ろす視線のもとでゆっくりと起伏する胸がこの今は自分のためにゆっくりと起伏している、笑いも芳香も媚びた眼差しも自分への貢物だ、と、彼は心地よく意識した。 p.241

ここやばい  男性の愚かさ、気持ち悪さを描くのがうまい

 

 

 

11/8(金)

恩寵

The Grace

夫婦生活25年の中年男性カーナン氏がある夜、酔っぱらってバーの階段から転げ落ちて頭や舌を怪我する。彼の長年の友人のパワー氏らは、カーナン夫人に頼まれて、彼を更生させるために画策する──カトリックイエズス会での静修をみんなでやろうと誘う。

題名通りとても宗教的な話で、やはりいまいち掴めなかった。

しかし、と、神父は聴衆に語った。自分にはこの一節が、俗世の生活を送る運命にありながら、それでも俗人のようにはその人生を送るまいと願う人びとのための指針として。とくにふさわしいものと思われる。これは商売人と職業人のための一節なのである。 p.291

ラストの神父の説教・講和では、商人などがその世俗的な生活のなかで信仰を保つための一説が語られる。これは、ここまでダブリン市民の世俗生活を活写してきた本作全体の意義を肯定している風にも読める。

 

 

 

【まとめ】

おわり!!!

アイルランドの歴史とキリスト教に関する知識がないとよく分からないところはあったが、ジョイスの「正統的」に上手い文章技術・小説技法はよくよく堪能できた。

若くしてこれだけの上手さがあってこれだけの文学空間を作り上げてしまったら、あとはここからそれをどう崩していくか、に一生を捧げるのもきわめて妥当であると納得する。

「死せるものたち」はダントツとして、他に「出会い」「アラビー」「小さな雲」「痛ましい事故」が特に好きだった。