『ぼくは愛を証明しようと思う。』藤沢数希

 

 

わたしが読んだ本(文芸作品)について、わたしが抱いた感想を乱雑に書き留めてきた本ブログですが、本と読書に対する、より幅広い向き合い方を模索するために、「読んでいない本の感想を書く」とか「存在しない本の皆が口を揃えて言っているであろう感想を書く」、「読んだ本の感想を書かない」「明日に向かって走る」などの活動を今後はおこなっていく所存です。

 

今回はその第一弾として

わたしが読んでいない本についての他人の感想文をまるごと載せる

をやります。

(なんだか有名書評ブログのタイトルみたいだ……)

 

 

 

取り上げる小説(わたしは読んでいません)はこちらです。(持っているのは単行本のほう)

この本は、ネットで知り合った方とオフ会をしたときに「自発的には読まないだろうから」と渡されたものです。

「恋愛工学」のウワサだけはなんとなく聞き及んでいたので、うわぁ……wwとなりましたが、せっかく貰ったのだし読んでみるか、と軽い気持ちで開いたところ、冒頭のプロローグの時点でキモすぎて挫折しました。ごめんなさい。ラノベはおろか、伊藤計劃とかでさえ文章の軽さ、卑近さ、クサさを感じてしまって読めない自分にとって、それらよりも「数段上」どころか、もはや別次元のナニカを垣間見て退散しました。

 

そうして本棚の肥やしになっていた『ぼくは愛を証明しようと思う。』ですが、このあいだ、自宅に友人(この本をくれた方とはもちろん別人です)が泊まりに来たときに、その場のノリで彼がこの本を読み始め、そして本ブログに載せる用の(そう、最初からそのつもりだったのです!)とても良く出来た感想文を書いて送ってくれました。

 

それを以下にまるごと載せます。

おそらく、いや確実に、本ブログ史上もっともしっかり書かれているまともな読書感想文・レビューです。

 

 

 

 ーーーーー引用はじめーーーーー 

 

 

予想するに、これから本書を読もうとする人は、

 

①本書が提示する価値観にコミットしたうえで、本書に示される "メソッド" が実用に供するならば試してみてもいいと考えているプラグマティックな読者

②本書が提示する価値観も "メソッド" もおおかた荒唐無稽なものであろうとアタリをつけてそれを嘲笑いに行くアイロニカルな読者

 

の両極に分かれているのではないだろうか。そこまで極端なものでもないのか?

私自身は、読前、そのいずれにも傾かずに、

 

③先入観を排して、冷静に、なにかしら意外なものがないかと探索するフラットな読者

 

としてふるまおうとしていたのだが、その試みはうまくいっただろうか?

 

 

 

 

本書が提示する価値観

 

やばかった。「やばい」というのがいい意味か悪い意味かは察してほしい(ひとに察させるのはせこいやり口だ)。

 

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「無料のな」

 

プロローグから最大火力を出してくる。『つかみだからちょっとセンセーショナルな表現にしよう』とかなんとか関係ないレベルでやばい。発言単体で見て終わっているので。

ただ、最大火力ということは、プロローグ以降これに勝る火力の表現は頻出するわけではないので、②アイロニカルな読者 にとっては案外物足りないかもしれない。

 

本書が提示する…「本書」とかやめよう。「この本」でいいや。

この本の価値観は、「女性とは、気遣い、尽くす相手ではなく、トロフィーである」というところに集約される。やばない?

さすがにと言うべきか、この本の主張は「女性はトロフィーである」だけで終わるわけではなくて、「男性が女性に尽くしてしまうと、女性が付き合おうとしている男性の価値が毀損されて結果的に女性が不幸になる。むしろ、女性をトロフィーとして扱い男性を勝利者として価値づけることで、結果的にはその男性と付き合う女性が幸せになる」という逆説(っぽいもの)を主張して、一段階込み入った正当性を担保しようとする。うーん、この逆説がはたして検討に値するものなのか、はたまた詭弁なのか、私にはにわかにはわからない。わからないが、主張の底が見えた瞬間に興味が失われる感覚はあった。「はあ、そういうお考えでしたか」という感じ。

 

この本の主人公の渡辺くんは、「女性からモテること」「モテている人とみられること」つまり外部からの評価を上げることに生活の関心がかなり集中していて、自分の内側から発する興味関心や欲求みたいなものがほとんど見えてこない。彼自身の「こういうものが好き」「こういうことがしたい」が、描かれているようで描かれていないというか、もともと希薄だったものが永沢さんのせいで消え去ってしまったというか……。

渡辺くんがセックスを目標にして女性とのおつきあいを繰り返すのは、性的快楽を彼自身求めているからではなく、ただ「モテている人とみられるため」だけの理由だ。いやまあ、実際に渡辺くんがセックスを目標としてはっきり意識したのは永沢さんの誘導によるところが大きいのだが、しかし渡辺くんがセックスという目標に出会えていなかったとして、それ以外に渡辺くんが女性に「モテる」ためのモチベーションを持つ可能性は非常に低かっただろう。手段のために目標は必要だ、永沢さんは方向付けがうまい。

それとも、私はむしろ、『この本はたまたま「モテ」をテーマにしているがために、主人公は「モテたい」と思っている側面ばかりを強調されたが、小説という枠組みを外したとき、彼にだって「こういうものが好き」「こういうことがしたい」という内発的な動機付けは確かに存在しているかもしれない』という可能性を考慮すべきだろうか? あまりに好意的すぎ、かつ、小説の読みとしてまるで実がない読みだと思うが……。

 

まあ、渡辺くんが内発的な興味や欲求を持っていたかどうかなんてことは、せいぜいそれだけのことにすぎない。

「内面が充実していない人間は薄っぺらい」とか言ってしまうのは愚かなことだ、そういう言い方は「人間には考察すべき深みを持った内面が存在する / 存在すべき」といった価値観を無批判に再生産しているから。だから私も、渡辺くんを「内発的な動機の薄さ」ゆえに責めることはしないほうがいい。

ただ、渡辺くんの、ひいてはこの本の精神特性を、「内発的な動機の薄さ」ではなく「外からの評価への過度な注意」として読み取るならば、この本はやはり問題だ。要は、渡辺くんは人からの評価のことばっかり考えていて、そういう人はちょっとヘンだ。いや、ヘンというより心配だ。そんなに毎日々々モテることばっかり考えてるって、いったいどういう人間なんだ?

 

渡辺くんが心配なら作者のことも心配だ。小説の内容や小説の主人公の精神から小説家の精神を推しはかろうというのは下種の勘繰りというもので、あまり褒められたものではない……また、見も知らない人に対して訳知り顔で“心配する”などというのはまったく失礼な行為であって、これもやはり褒められたものではない……しかしこの作者、どうしても心配にならずにはいられない。

 

作者の心配を始めるならば、「モテたい」ばっかり考えているという特徴に加えて、「都会コンプレックス」とでもいうべき特徴も目立って見えてくる。

どうもこの本には、都市生活者の優越感・劣等感と田舎出身者の優越感・劣等感が絡まりあったありきたりなコンプレックスがしっかりと根を張っている。このコンプレックスをちょっと大げさに表現するなら「都会サイコー」「都会で生きてるオレかっこいい」「でも都会の生活には大事なものが欠けている」「都会には大事なものが欠けていると気づけるオレえらい」「オレの出身は田舎」という一連の言葉になるだろう。

 

私がこの本で一番笑ったポイントなのだが、ある箇所に、『たいていの東京の女はイルカは魚だと思っている』というわけわからん信念が出てくる。とりあえず作者は東京の女性に怒られてほしいのだが、それはともかくとして、この“東京人はある種のことに対しては無知”という信念を強調して、あまつさえモテるために利用できるとさえ信じているその気持ち、ひねくれてて可愛い作者だなあと思ってしまう(ギャグのつもりでやってたんならごめんなさい)。

 

ところで、過剰に他者からの評価を気にすることと「都会コンプレックス」との間にはつながりは見出しうるだろうか。おそらく、まったくの無関係ではないだろうと思う。『ドリアン・グレイ症候群』という言葉もあるくらいだし……(この言葉がアカデミックな文脈でどの程度使われるものなのか、私は知らない)。

もしも、都会での生活が、渡辺くんを、作者を、あれほど“心配な感じ”に仕上げてしまったのだとするなら、ふたりとも可哀想……。

 

もちろん、渡辺くんではなく、作者ではなく、私が異常なだけなのかもしれない。そういえば、序盤、渡辺くんが彼女に振られて以降の生活を語るシーン。彼は少なくとも5割以上の出勤日は定時に退勤できていそうな印象で、退勤してからの時間をいつも自分のために費やしているという話なのだが、これは私にはとてもうらやましくて……。人に会わずに趣味に費やせる時間が毎日持てたらどれだけ幸せか! しかし渡辺くんは毎日性風俗に通って、そうすることしかできない自分に惨めさを感じていた。

人と会ってる時間よりひとりで趣味やってる時間のほうが楽しいに決まってるだろ! 趣味をやれ! 私は叫びたかったが、こうして言葉にしてみれば、渡辺くんよりも私のほうが大概極端だということもわかるというものだ。きっとそういうことなんだ。

 

じゃあ、やばくはない?

 

 

この本が提示する“論理”とか“メソッド”とか

 

この本は恋愛の手管を“論理的に”体系化するというのがウリのひとつだ。だからこの本には、実際に心理学や生物学で議論されてきた理論的枠組みに基づいていて、かつ有効性があると考えられるような“メソッド”が披露されていることが期待される。

 

実際のところ、この本で語られる、『恋愛工学』独自のテクニカルタームは、既存の心理学・生物学の理論的枠組みにどれだけ合致していたのか、という点については、私にはよくわからない。私が心理学・生物学を学んだ経験は大学の教養課程までがせいぜいで、ホンモノの心理学・生物学がどういった理論的枠組みを持っているのか、よく知らない。一般向けのゆるふわ心理学本・ゆるふわ生物学本だけ読んだ知識でこの本を構成しているのかもしれないし、歴史的系譜に沿って心理学論文・生物学論文を読んで得た知見でこの本を構成しているのかもしれない。

ただ、『恋愛工学』の問題関心というか、理論の基盤となるパースペクティブは、私の知っている心理学のそれ・生物学のそれとは似ていないなあ、という印象だった。

 

実際どうなんだろう、自信がないが、私が思っていた『心理学』という学問では「“こころ”を定義づけると仮定しうる物理的・社会的な現象を取り上げて、改めてそれらが“こころ”を定義づけていると仮定し、仮定の妥当性を検証する」という営みに最大の関心が置かれている。巷でしばしば期待されているような「アプリオリに存在する“こころ”に対して、人の“こころ”の中を言い当てたり人の“こころ”を操ったりする」という営みは、ホンモノの心理学者はさほど興味を持っていないんじゃないか。テレビに出てくる心理学者が「ひとの“こころ”を操るには云々」とか言ってるのは、単に研究費稼ぎのためにみんなが期待していることを言っているだけではないのか。

対して『恋愛工学』は、“こころ”の定義に対してそう深い問い直しが行われるわけでもなく、小手先の人心操作に終始している。渡辺くんは、女性が口で言うこととやることとの間に差があることにたいそう驚いているようだが、それはべつに女性に限ったことでもなければ「女はいいかげんな生き物である」という主張をただちにサポートするものでもない。「行為に対して動機が後付けであることが人間には意外と多い」という事実は、行為に動機が存在しないという結論ではなく、むしろ動機というものの再定義を促す。

といってもまあ、この本の議論は『理学』ではなく『工学』を銘打っているくらいだから、“こころ”の定義に関してそう深い洞察がなくても問題はないのかもしれない。

 

これまた自信がないが、私が思っていた『生物学』という学問は、動物の身体的性別に関する『である論』について語るものであり、人間の社会的性別に関する『べき論』についてはなんの知見も提供しえないものだ。人間の身体的性別・社会的性別は、実際のところ、「適度な競争原理を伴った生殖行動がつつがなく行われ続ける」という目的に対して最適に進化してきただろうし、そのように進化してきたことを生物学はよく語るだろう。ただ、性に関して生物学が語ることというのはマジでそれ以上でもそれ以下でもない。『生物は子孫を残すべきである』『男は男らしく生きるべきである』『かくかくしかじかのような在り方こそ男らしさである』といった言説は、生物学のなかからは決して出てこないはずだ。

対して『恋愛工学』では、「モテる」という動機づけを行ううえで、渡辺くん自身の強い欲求も哲学的洞察も期待できないため、しょうがなく、『生物学』的な「モテとは〇〇である」を「モテるべきだ」にすり替えようとしているような気がする。断言はできないが……。

といってもまあ、ひょっとすると作者もけっこう冷静で、「モテるべき」などという価値判断は論理からは出てこないことはきちんと承知のうえで、あくまで「モテとは〇〇である」「もしモテたいならどうするか」だけを語っているつもりなのかもしれない。その2つだけを語る意識があるなら、生物学を援用することにまるで問題はないだろう。

 

理論的枠組みの妥当性とか、問題関心の深度とかはさておき。

この本は『恋愛工学』なる体系が持っている独自の問題系とか理論とかテクニカルタームを詳細に説明してくれるわけだが、実はそこはすごく面白かった。

これはたぶん私だけの趣味ではないが、私には「独自の用語がたくさん出てきて適度にネットワークを作っている体系」ならばなんでも面白い、というところがあって、『恋愛工学』はまさにその「用語がたくさん出てくる体系」だった。

不思議なもので、人間は、現実の理学とはまるで合致していない体系であろうと、実用の可能性が全くない体系であろうと、密すぎず疎すぎない適度なネットワークであればどんな体系でも楽しんで吸収できるときがある。

だから私は、「電磁場を用いてミノフスキー粒子を立法格子状に並べることで反重力効果が得られる」という架空の物理法則をいつからか覚えているし、「一度開いた魔術回路は特定のイメージを想起することで励起し、自分の生命力を魔力に変えることができる」という不可能な方法論をいつからか覚えている。

私にとって、「会話の内容にはそこまで関係なく、会話の相手に連続してイエスと言わせれば次の質問・勧誘でイエスと言わせられる確率が高まる」というこの本の“メソッド”は、私が今後の人生で実際に使うかにはまるで関係なく(たぶん一生使わない)「ああ、イエスセットっていうテクニックだ、知ってる」と記憶することになる。そして、この本が提示する体系は、最近の私にとって、密すぎず疎すぎないすごくちょうどいい情報量だった。少なくとも向こう一ヶ月くらいはこの体系を覚えていると思う。

 

 

この本のフィクション作品としての面白さとか

 

「隠し階段、踊り場」のコンセプトは、「あくまで文学として」この本に触れることを要請するものであると理解している。この節は、この感想文のなかでは比較的その要請に合致している箇所であると信じる。

 

この本の終盤で、どんでん返し、あるいはそれに近い何かがあるということをネットで見聞きしているひともいるかと思う。この本を実際最後まで読んでみたが、終盤に大きな展開・転回があるというのはまったく噓ではない(実は、「女はトロフィー」という例の主張にも、もう一段階の問い直しが加えられることになる)。「最後まで読まずにこの本の感想をしゃべるべきではない」と私なら言う。

といっても、きっとすごいどんでん返しがあるだろうと期待して読んだ場合でも驚かされるほど意外性のある展開でもなかった。そもそも驚かされるような類の転回でもない。だから私は「最後まで読んだらきっと驚かされる」とか言ったり「ぜひ読むべき」とか言ったりすることはない、そのくらいの温度感。読むの苦痛だったら普通に読むのやめればいいと思う。

 

前述した「都会コンプレックス」についてだが、このコンプレックスを描くという意味においてはなかなか楽しんで読んだ作品ではあった。

なにより、都会においても田舎においても、東京・静岡における現実の地名がたくさん登場して、電車やバスでの平面的つながりを持って広がっていくというのが小気味いい。都会にいるときに主人公が引っ越しを経験するのもいいし、主人公が田舎に行くとき定番の観光地を外したつもりだけどそこまで外せてないというのもめっちゃいい。いつか、「ぼくは愛を証明しようと思う」の聖地巡礼なんかしてもいいかな、と思った。

作者のなかで「都会コンプレックス」が相対化されているのかどうかは気になるところだが、作品として「都会コンプレックス」をうまく描けている時点で、相対化されているかどうかはあまり関係がなくなっている。この本は「都会コンプレックス」を描いたという点で卓越しているといってたぶん問題ないと思う。

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「無料のな」

この激ヤバな冒頭も、物語の最初と最後で「見下ろす夜景」と「見上げる星空」との間に対照を作っているのだと信じるならば、より有難くも思えてくるってものだ。



 

 ーーーーー引用おわりーーーーー 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか。とても興味深いレビューでしたね。
ついわたしもこの本を読んでみたくなりました。
みなさんもぜひ読んでみて、わたしに感想を教えて下さい。

 

 

 

 

 

今回の感想を書いてくれた友人がやっているブログはこちらです。



 

 

 

ひとつの映画に対する、わたしの感想と、彼の感想を両方のっけた記事です。今回はわたしが小説を読んでいないため、ついに彼の感想だけになりました。

 

 

 

 

 

 

 

『ドン・キホーテ 前篇』(2)セルバンテス

 

 

これの続き 

 

第2巻を読んだ。

 

 

1巻でまだ第3部終わってなかった!普通に続いてた

 

第22章。遂に国家権力に歯向かってて草
王様にかしずくのが騎士だとか言ってるのに・・・
ガレー船へ引きたれられる最中の囚人たちの罪状は一人ひとり個性的で面白い。特に最初の囚人がヤバい

あっしの恋人というのは、まっ白な肌着の一杯つまった洗濯籠でね、そいつにぞっこん惚れこんで、かたく抱きしめあったってわけでさ。あれで、お上の手で仲を裂かれなかったとしたら、あっしは今でもあれを抱いたままで、自分から手放すことは決してしなかったでしょうよ。 p.12

下着フェチの変態泥棒ってことでいいの?? それともまさかの洗濯籠フェチ???

だとしたらレベルが高すぎる

 

さっそく第2巻でもボコボコにされて身ぐるみ剥がされたけど、もともと今持ってた装備や品々だって道行く人から奪ったものだしな・・・

 

 


第23章

サンチョの驢馬が盗まれる挿話が第2版(同年出版)で追加され、矛盾点(驢馬が盗まれていない)は第3版で修正されているとかなんとか。で、それに後編のメタフィクションで言及するらしい。矛盾しているところについて後から言い訳できるのもメタフィクション続編の利点っちゃあ利点か。でも、あえて矛盾を作って修正して……といった、版を重ねる過程(物語が形作られる過程)を強調するためにやった可能性もあるのかな。

 


第24章(〜p.87)

第1巻で出てきた、高潔な美女に恋して死んだ男のように、美女にフラれて詩を詠んで狂った男がまた登場した。ここ寝取られ要素。
そして、サンチョの羊たちを川渡しする話と同様に、この男の話も最後まで語られない。物語が途中で終わること、読者の介入によって語りが中断されることを強調している?

したがって、彼が当初は自分の恋の情熱を抑制するために土地を離れたいというふりをしていたとするなら、今ではそうした恋を本物にしないために、つまり結婚の約束の履行を回避するために、本気で家を出ようとしていたのです。 p.79

語りがめっちゃわかりやすい。文学的な上手さじゃなくて、プレゼン・スピーチとして見習いたい上手さ。

 

ドン・キホーテは騎士道物語という言葉を耳にするがいなや、こう言った──
「あなたが身の上話の冒頭で、恋人のルシンダ殿が騎士道物語の愛読者だと一言おっしゃっていたら、ルシンダ殿の才知がいかに優れたものであるかを拙者が察知するのに、それ以外の賛辞を並べる必要はさらさらなかったでござろう。実際のところ、あのように興趣あふれる読み物がお好きでないとしたら、あなたが紹介なさったほど立派な御婦人であられるはずもないでしょうて。ですから、拙者に対しては、その御婦人の美しさ、徳性、聡明さを納得させるために、このうえ言葉を費やすには及びませんぞ。ただその趣味をおうかがいしただけで、その方がこの世で一番の美女にして才媛であると認定できますのでな。それにしても拙者は、あなたがその方に、『アマディス・デ・ガウラ』といっしょに、実によく書かれた『ドン・ルヘル・デ・グレシア』を届けてくださればよかったと思いますよ。(中略)それにしても、あなたの話の腰を折るようなことはしないと約束しておきながら、つい口を出してしまったことをお赦しくだされ。どうも拙者の習性で、騎士道だとか遍歴の騎士といった言葉を耳にすると、ちょうど太陽の光が大地を熱し、月光が大地に潤いを与えずにはおかないように、どうしても黙ってはいられなくなるのでござる。そういうわけですから、どうかお赦しのうえ、先を続けてくだされ、それが今のわれわれにとってはなにより重要なことゆえ。」 p.82

ここ草 相手の話に割り込む、典型的なオタク早口が発動してる。いわゆる「◯◯(自分の好きなコンテンツ)が好きな人は信頼できる」ってやつだ。しかもシームレスに同じジャンルの別の作品の布教をする。誰かさんを見ているようだ・・・


僕もつい相手の話を遮って好きなことを語ってしまったら「どうも拙者の習性で、◯◯だとか◯◯といった言葉を耳にすると、ちょうど太陽の光が大地を熱し、月光が大地に潤いを与えずにはおかないように、どうしても黙ってはいられなくなるのでござる」と言い訳しようかな。

 

 


第25章

そして、無知で根性のひねくれた連中が、二人のこうした関係を邪推して、彼女がエリサバットの情婦だなどと考えたり、言いふらしたりするようになったというわけじゃ。 p.92

ここ悪い「関係性のオタク」への言及

 

とはいえ、彼らが実際にあった姿をそのまま描いたり記述したりしているわけではなく、後の世の人びとが美徳の亀鑑として仰ぐことができるように、かくあれかしと理想化しているのじゃ。 pp.96-97

騎士道物語で描かれている騎士たちの人生・武勲が「理想化」されたものであり、事実から脚色されていること、及びその脚色の意図までをもちゃんと認識している。……それなのになぜ、騎士道物語それ自体を虚構ではなく現実だと思い込めるのか? 脚色はされているが、彼らが実際に存在していたことは疑っておらず、しかも、騎士道物語の読者として、「理想化」されたものをそのままリアルに受け止めるべきだと信じているんだろうか。本当に「良い読者」だ、ドン・キホーテは。

 

「そう、そこが肝腎な点じゃ」と、ドン・キホーテが答えた。「そこにこそわしの営みの微妙なところがあるのよ。つまり、遍歴の騎士が理由あって狂気におちいったところで、ありがたみもなければ面白くもない。重要なのは原因もなく狂態を演ずることであり、わしの思い姫に、理由もなくこれだけのことをするなら、理由があったらどんなことになるだろうと思わせるところにあるのじゃ。 p.99

そもそも傍から見たらずっと狂気そのものであるドン・キホーテが、今から「狂気を演じ」ようとしている時点でおかしいのに、彼はこうして、自身がこれからやろうとしている営みについて客観的に分析できている。それがいっそうヤバくておもしろい

 

ドン・キホーテが山に篭もって「狂態を演じて」いるあいだに、故郷の村のドゥルシネーアに宛てた恋文をサンチョ・パンサが届けに行く。あの村まで戻るのか……

 

 


第26章

この詩を読んだ人たちは、ドゥルシネーアという名に必ず「トボーソ村の」が添えられているのを認めて、少なからず笑った。ドゥルシネーアと言うとき、そこに「トボーソ村の」とつけなければ詩の意味が通じなくなるとドン・キホーテが思ってのことに違いないと想像したからであるが、これは後になって騎士自身が告白したところによれば、事実そのとおりであった。 p.132

これはすでにこの『ドン・キホーテ(前篇)』が出版されて広く読まれる未来のことまでをすでに内包している、と捉えてよい? 「後になって騎士自身が告白したところによれば」と、ドン・キホーテの未来のことまでちゃっかり書いてるし。

 

おお! 故郷でドン・キホーテの蔵書を燃やしまくった司祭&床屋コンビが再登場!!
まだドン・キホーテを故郷に連れ返して治療することを諦めてないんだ。友達想いだな・・・
まさかのおじさんの女装コスプレは草

 

第27章(〜p.180)

おお! 寝取られたカルデニオも再登場して、あの話の続きを語ってくれるのか。
司祭&床屋がカルデニオに出会うという、主要キャラ不在でサブキャラ同士で作中物語が続く。でも横道に逸れてるとはあんまり感じない。そもそもドン・キホーテの遍歴の旅自体がいきあたりばったりだし……

これに対して司祭が、あなたの話を聞いていてうんざりするどころか、その脱線や細部がとても興味深い。それこそ話の本筋と同じほど傾聴に値するものだから、省略しないで話してもらいたいと応じた。 p.171

ここはまんま司祭=読者だ。ほんとそれ。むしろ脱線のほうがおもしろい。


カルデニオの詩歌から、幼馴染の恋人ルシンダは完全に寝取り男フェルナンドに絆されて心まで鞍替えしたものだと思っていたけど、そうでもないじゃん。誓いのキスの直前で失神するくらいには思い悩んでいるのに、そんな彼女を「裏切り」だと断定して嘆くカルデニオにはあまり同情する気も起きなくなってくる。

カルデニオはずっとルシンダを「わたしのもの」だとモノ扱いしていて、父権的で有害な男性性を明らかに表現している。

そもそもこの作品じたいが、「騎士」という、父権的な男性像=英雄への憧れに取り憑かれた男の物語であり、めちゃくちゃリベラルというか、ジェンダー的に読んでもすごく興味深い。
そして、自分勝手とはいえ、いちおうは相応の出来事があった上で狂態を演じているカルデニオに対して、そもそも一度もちゃんと会ったこともない近所の女性を勝手に「想い姫」認定して、彼女のつれなさを嘆き悲しんで狂態を演ずるドン・キホーテの異様さが際立つ。実際につき合いのある生身の女性を所有しようとする男性の有害さのうえに、虚構のなかでその有害さを再生産しようとする男の有害さをも描く。これはそのまんま、騎士道物語=あらゆるフィクションが描いてきた英雄譚が大衆に読まれることで、現実社会の父権的な構造を維持し、より強固にし、再生産してきた事実に対応する。

でもカルデニオの自暴自棄というか躁鬱な感じはちょっと共感しちゃう

 

これで第三部おわり。

 

 

・第28章〜第31章(〜p.289)

例の寝取り男フェルナンドの被害者その2、素封家の娘ドロテーア登場。被害者の会結成してるやん
この作品に出てくるひとは、誰も彼も老若男女、身の上を話すのがうまくておもしろい。

なるほど、両親のわたくしに対する愛情の深さを考えますと、わたくしが大喜びで迎え入れられるのはまず間違いのないところですが、両親の目の前に以前とは異なるわたくしの姿をさらさねばならないと思うと、それだけでもう耐えがたい恥かしさを覚えます。ですから、両親がわたくしに期待してしかるべき純潔を失ったわたくしの顔を見ているのだと思いながら彼らの顔を見るくらいなら、それこそ永遠に彼らの前から姿を消したほうがましだと思うのです。 pp.215-216

奥深い「恥」の感情

 

ドロテーアも一行の仲間になった。単なる一期一会のキャラだと思っていたカルデニオやドロテーアの身の上話がこうしてつながって、ドン・キホーテ(を強制送還する)一行に次々と加わるの普通にアツい展開。ドラクエじゃん

 

するとドロテーアが、その助けを求める乙女の役なら床屋さんより自分のほうが上手に演ずることができるにちがいないし、おまけに自分は、その役を自然にみせるような衣装も持ちあわせている、だから、この目的を遂行するのに不可欠なその役回りをまかせてもらいたい、自分はこれまで騎士道物語をたくさん読んできたので、悲嘆にくれる乙女が遍歴の騎士に力添えを頼む際の言葉づかいを熟知しているから、と言った。 p.221

騎士道物語ファン多くない? ドン・キホーテを囲んで普通に読書会したほうがいいのでは。
でも、こうして他の(狂気に陥っていない)騎士道物語読者を出すことで、ドン・キホーテの狂気さが際立つ(普通に騎士道物語を楽しんで読んでいるだけではああはならない)。

 

そんなサンチョにもひとつだけ気がかりなことがあり、それは、あの王国が黒人の住む地にあるからには、主人や自分の臣下となる連中も必然的にすべて黒人になるという点であった。 p.232

時代的なナチュラル人種差別だ。16世紀はアメリカ大陸がコロンブスによって発見されて100年以上経った植民地時代か。奴隷解放宣言はまだ100年以上先。

 

自分たちの芝居がぼろを出しそうな危険にさらされているのを見てとった司祭は、間髪を入れずに髭に駆け寄り、それを拾いあげると、まだ横になって呻き声をあげ続けていたニコラス親方のところへ行った。そして床屋の頭を自分の胸もとに引き寄せると、何やら呪文を唱えながら、一気に髭をとりつけてしまった。 p.237

「間髪を入れずに髭に駆け寄り」、"髭" が代名詞ではなく髭そのもののパターンでこの文めっちゃおもろいな

 

司祭と床屋はすでにサンチョから、彼の主人がその栄光を高めるほどの成功を収めた漕刑囚解放の武勇伝を聞いていた。それゆえ司祭は、ことさらこの一件をもちだして、ドン・キホーテがいかなる反応を示し、なんと言うか、それを確かめてみようとしたのである。しかし、当の騎士は司祭の一語一語に顔色を変えたものの、自分があの善良な連中の解放者であるとは、さすがに言い出そうとしなかった。 p.243

へぇ〜〜 ここで言い出さずに気まずく感じるだけの分別はあるんだ〜〜
ドン・キホーテの狂人具合を少しずつ探っていく感じおもしろい

 

ドロテーアは聡明で、たいそうしゃれっ気のある娘だったし、しかもドン・キホーテがいささか頭のおかしい男であって、サンチョ・パンサ以外の人がみんなして彼のことをからかい、もてあそんでいるのをとっくに承知していたので、自分だけ遅れをとりたくないという気持から、騎士が激怒したのを見てとると、こう言った── pp.246-247

仲良しグループでそいつをいじっていないと疎外感を覚えるレベルのいじ(め)られキャラになってるじゃん・・・しかもついさっき出会った少女にまでいじられてる。
現実ではアウトだが、ドン・キホーテに関してはこうされるのも仕方ないほどに狂ってるからな・・・

 

「わたしもたぶんそんなところだろうと思いましてな」と、司祭が言った、「早速あんな助け船を出したんですが、あれでなんとか事なきを得ましたよ。それにしても、あの気の毒な郷士がどんな作り事や絵空事でも、その話の筋や言葉づかいが荒唐無稽な騎士道物語と似ているというだけで、やすやすと信じてしまうというのは、なんとも奇妙な、驚嘆すべきことではないでしょうか?」
「まったくですよ」と、カルデニオがひきとった。「実に稀な、前例のない事例ですから、よしんばこのような人物を虚構の中で考え出そう、でっちあげようとしたところで、これほど首尾よく作り出せるような、機知に富んだ才士が存在するものかどうか、ちょっとわかりませんね。」
「ところが、彼にはさらに奇妙なところがあるんですよ」と、司祭が言った。「なるほど、この純真な郷士は話が彼の狂気にかかわることに及ぶやいなや愚にもつかないことをまくしたてますが、いったん話題がほかのことになると、実に理路整然たる話しぶりで、彼があらゆることに対して明敏な、そして穏健な判断力の持主であることを見せつけるのです。ですから、その狂気を触発する騎士道にふれない限り、彼のことをすぐれて理性的な教養人と思わない人はいないでしょうよ。」 pp.263-264

司祭の言葉、ほんとそれな〜
カルデニオの意見は作者による自分褒めギャグとしても面白い。

 

第31章、前に木に縛られて鞭打たれているところを助けた少年アンドレスと再会して罵られる

さすがのドン・キホーテも、アンドレスの話にはすっかり恥じいってしまった。そして同行の者たちは、騎士の面目をこれ以上つぶさないようにというので、笑いをこらえるのに懸命であった。 p.289

恥の感情まだ残ってたんだ・・・・・・

自分が恥をかいたときにグループで自分以外の人たちが結託して笑いをこらえているのを想像すると冷や汗がでるけど。

 



・第32章〜第34章(〜p.387) 第2巻おわり!!!

一行が例の宿屋に泊まり、騎士道物語好きな亭主が持っていた原稿『愚かな物好きの話』がガッツリ2章まるごと使って語られる。

これまでのカルデニオやドロテーアなどの身の上話は、あくまで「彼は次のように語り始めた──」みたいに、枠物語としての体裁があり、本筋から地続きで繋がっているが、この『愚かな物好きの話』は、そうした留保が一切なく、章の冒頭からいきなり始まる、という点で異質な章。(前章の最後が「小説はこんな具合に始まっています──」ではあるけど。)

 

『愚かな物好きの話』、独立した小説としてかなり面白い。

カルデニオのエピソードで「寝取られ」をやったうえで、今度は「寝取らせ」かよ・・・・・・pixivか何かの性癖博覧会ですか?

しかも、単なる寝取らせではなく、同性の親友間での協定であり、そこに実際の不倫要素が加わってめっちゃ良い三角関係の痴話になっている。アンジャッシュのコントを数段レベル上げしたかんじ。三角関係だけでなく、侍女の愛人との関係も絡んでくるのもお見事。

 

「俺の最愛の妻を寝取ってくれ。親友のお前しかお願いできる奴はいないんだ」と懇願するアンセルモに、いかにお前が愚かなことをしようとしているのか説得を試みるロターリオ、なんだかすごく身に覚えがあるな・・・ 身近な人が愚かな道にハマりかけているところを感情的なクソ長い文章で説き伏せようとして失敗したことが、ごく最近あったような・・・よく思い出せないが・・・・・


ってこれ、『愚かな物好きの話』終わらないで途中のまま3巻にいくんかーいww
めっちゃ続きが気になる引きじゃねーか!!!!!

 

いや〜おもしろいな〜 ふつーに読みやすくてエンタメとしておもしろい。

20世紀以降のモダニズムポストモダン小説の文学性云々のような面倒くささ、とっつきにくさは一切ないのが良い。

まず文章がすごく読みやすいんだよな〜〜 持って回った言い回しとか修辞とかが多用されているんだけど、それらが読む際の邪魔になるどころか、むしろ潤滑油として機能している。理想的な文章で、ふつーに参考になる。訳者の牛島信明さんの功績でもあるだろう。

 

 

 

 

・前巻


 

『黄金の少年、エメラルドの少女』(4.)イーユン・リー

 

 

 

ほぼ1年ぶりに、読み残していた短篇5つに手を付けて1冊読み切った。

 

 

・女店主

やはり壮齢の女性の人生を物語ることにかけてイーユン・リーの右に出る現代作家はいないと思わせられる。

金夫人は男運の悪い悲惨な境遇の女性たちを引き取って施してやる聖母のようにも見えるが、一方で、彼女たちを所有してその人生を自分の思い通りに作り変えたいと思っている、女郎蜘蛛のような人物でもある。彼女自身は夫にも息子にも恵まれているがゆえに、かえって可哀想な女たちへの転倒したルサンチマンがあるのだろうか。しかし、「誰も変わってくれない。いつになったら変わってくれるのか、まだ間に合うのか」という不穏なモノローグを発してもいる。

簡単に解釈の像を結ばせてくれない。そこらへんの文学とは格が違う。

上海から訪ねてきた記者を含めてすべての登場人物が女性であり、舞台も田舎町の寂れた個人商店という場所に絞られており、作品全体が女の園のような、静かで微妙な雰囲気を与えている。


妙齢の女性を主人公にして、若い女や少女との関係を語るだけでなく、さらに歳上のお婆さんまで出して相対化するのがさすが。60歳の女性が80歳の女性に寄せる複雑な感情なんてイーユン・リーくらいにしか書けない。

感動的な記事になるでしょう、と記者は言った。女同士の絆についての貴重な記事になって、本誌の女性読者全員のもとへ届けられるんです。記者の言うことは、彼女の都会的な服みたいだった。上等だけど、滑稽な。 p.180

 

彼女はぼんやりした目で双子を見ていた。誰も変わってくれない。いつになったら変わってくれるのか、まだ間に合うのか、金夫人は考えてしまった。 p.196

 

 

 

・火宅


おもろい。『三匹のおっさん』ならぬ「6人のおばさん」の不倫専門探偵モノ。こういうポップなのも書けるのさすがだなぁ。
もちろん背後にはそれぞれの女性の人生や家庭環境や男女観のちがいがある。みな中国社会の父権性に抑圧され、また自身も抑圧を再生産している。同性の悩みには共感して助ける気になれるが、異性の悩みには乗り気になれない。
これ短篇一本きりじゃなくて長篇とかシリーズものとして読みたいな。夫人グループ探偵モノ、そこそこ珍しいのでは。

 

 


・花園路三号


すげえーいい話・・・小説がうますぎるだろ・・・・・・ これぞ正統派、これぞ文学、イーユン・リーの面目躍如といった趣。

「はなぞのみち」なのか「かえんじ」なのか分からない(翻訳だから正解はないが)

妻に先立たれた男と、不倫で2回も夫に逃げられた女の、45年に渡る一方通行ラブストーリー。

 

老いた男とアパートと楽器、という組み合わせはスチュアート・ダイベック「冬のショパン」(『シカゴ育ち』収録)を思い出すが、こっちはほぼ老人だけで話を作ってるのがすごい。

美蘭は月給の半分を出してダンスを習い、それから黄昏クラブにお姫様みたいななりで登場した。夏にはロングスカートの裾がパートナーのサンダル履きの脚をこすり、冬には白いスエードの手袋に包まれた手を取ろうと男たちが先を争った。金魚ちゃん。まもなく男たちはそんなあだ名をつけた。常氏が彼女を見ないのは許せないことだった。彼女が想像したくないような形で欲望を感じたとしても、おかしくないのに。 p.228

この最後の一文のような、地味に鋭い文をところどころで忍ばせて投げ込んでくるのがすごい。

 

昔は服に残った日だまりの匂いが樟脳の匂いと混ざると、不思議と部屋に生身の身体がもう一つあるような感じがして、その後何日も眠気に襲われたものだ。 p.229

亡き妻の面影を痛烈に感じて「眠気に襲われ」るんだ・・・

 

若草を食むのが好きな年寄りロバ。陰でそう言われていたにちがいない。それなら胃に気をつけないと、などと言う者もいたかもしれない。でも、男を殺すのは心だということを彼らは忘れていた。消化不良で死ぬ男はいないのだ。 p.231

 

年のいった女の目で彼の妻を眺めるのは不思議な感じがした。美蘭は昔、その美しさに息苦しい思いをしたものだが、いまは妻の若い顔に物悲しさがあるのがわかった。病気に負けるのは、こういう女だ。「いい奥さんだったわ。ご愁傷さまでした」 p.236

別の箇所では、この妻自身が昔、小さかった美蘭の顔を「年のわりに一途で悲しげな子」と言っていた(p.239)と書かれている。女同士、若さと老いという年月に分たれたまなざしの交換。そこに介入できない男。

 

「おかしいのはね、ここに越してきたとき十歳だったから、その前に住んでいた家があるはずなのに、ほとんど覚えていないの。一つしか家を知らずに死ねるなんて、運がよくない?」彼女は冗談のつもりだったのに、彼が青ざめて震えているのを見てびっくりした。いつも彼女は、自分が死ぬことを楽しみな行事のように話すのが好きだった。死は男と同じで、求められていると知ると都合よく背を向けてくれる。そんな迷信を密かに信じていたのだ。 p.237

 

彼にとって意味のある存在になるには、生まれてくるのが十年遅かった、と日記で嘆いたのを思い出す。 p.238

 

十二歳なら十年の違いが大きな溝になるけど、ありがたいことに人は一生十二歳のままでいなくてもいい。 p.239

 

「生者が生きていても、昔ながらの隣人に知らん顔をするだけね」美蘭は言った。傷ついた女みたいだったかなと気になった。つまり言いたいのは、と彼女は弁解した。二人ともダンスがうまいのに、一緒に踊ったことがないなんて信じられないようなことじゃない? あなたがダンスのパートナー以上の人を求めているなら別だけど。彼女は笑いながら、そう言い添えた。私自身はダンス以外のことに興味ないのよ。ダンス一筋なの。 p.241

 

妻が彼のために望んでいたのは、これなのかもしれない。ほとんど何もわからない、死や孤独の解毒剤のような女。 p.244

 

薄暗がりで、彼はふたたび弦をつまびいた。遅かれ早かれ、どちらかが立ち上がって照明をつけなければならないのだが、さしあたり楽しくてそれどころじゃない自分でいたかった。 p.245

「さしあたり楽しくてそれどころじゃない自分でいたかった」という言い回しが素晴らしい。
「楽しくてそれどころじゃなかった」ではない、自分を一歩俯瞰して見ているような表現が、こうして三人称で語られる。

最後のオチ、なるほどそう来るのか〜と感心したが、振り返ってみれば冒頭2ページで「見たことのない異国風の楽器」を伏線として登場させて、それ以降は努めて言及しないようにしていたのだな。しかも、この冒頭では「太っちょおじさん」という別のキャッチーなエピソードを先に語ることで、楽器エピの存在感を薄めているのも上手い。太っちょおじさんのほうも、オチのやや手前で(ややネガティブなトーンで)再言及しており、これら全てがオチへの前フリとして完璧に効いている。

 

 


・流れゆく時

しかし、どうすれば盈(イン)に理解してもらえるだろう。自分の周囲にある存在は揺るぎなく筋がとおっているように見えても、五十年前の春の午後に一生の姉妹でいようなどと夢見なかったら、何もかも違っていたかもしれないということを。 p.259

なるほどなぁ〜〜。これは他のどの短篇にも増してプロットのアイデア一本勝負感が強い。もう少し肉付けしても良かった気がするけど、この筋書きを思いついてしまったらこうした短篇小説に仕上げるしかないのかもしれない。ありそうでない設定というか、この世に現出した瞬間に「なるほどね」とあたかも有りふれているもののように受け止められる、そんなお話。

やったぜ三人組義姉妹モノだ!!と最初テンションが上がっていたが、そう平面的なお話ではなかった。

若い少女だけの夢のような空間は流れゆく時には打ち勝てず、「男性」の介在によって彼女たち自身で関係を崩壊させてゆく。とてもトリッキーな形の「百合の間に男が挟まる」ものだと言えるか。

しかし、結婚によって疎遠になるとかいったありがちな話ではなくて、「子供」という彼女たち自身の中から文字どおり生まれ出た存在によって、さらに義姉妹の契りへの執着がゆえにとった行為によって、それ自身を跡形もなくしてしまう、という見事な流れ。

 

それから、同い年幼なじみの義姉妹三人組の関係だけでなく、主人公とその孫娘という年代差のある関係もまたこの作品の柱だろう。これら二つの縦糸と横糸によって「流れゆく時」は織られる。

 

ポルトガルに引っ越して現代的・西洋的なモードにかぶれた娘が、祖母の語りに対してあっけらかんとリアクションをとる様がとても良い。ふたりのあいだには年齢という時間的なギャップと、中国-ヨーロッパという空間的な断層の両方がある。

「三人ともすごく若くて何も知らないって感じ。いかにも中国っぽいんだよ」 p.252

年のわりに盈には知恵がついているとはいえ、これを理解するには若すぎる。憎しみは愛と同じように、理性から生まれるのではなく、ちょっとした無意識の力が働いて生まれるものだということを。 p.258

 

それから、時間の大胆な飛ばし方がすごい。四五十年あっさりとジャンプさせて先ほどまでの可憐な少女は孫娘を持つ「おばあちゃん」になっているし、二人の初めての子供を生まれた時から一気に十六歳まで飛ばすところもびっくりした。
大胆にあいだの歴史をカットすることでかえってこの短い小説のなかで彼女たちの人生の厚みを滲ませる手法とでも言おうか。

 

婚礼の日の朝、義姉妹の二人が化粧を手伝ってくれている間、思いがけず愛林は、昔写真屋が顔の向きを直そうと、長い指で軽くあごに触れたのを思い出した。大小ある照明の明るい光が、彼が上げた両腕に遮られたときの一瞬の寒気を、目を閉じれば感じられそうだった。 p.248

ここの明暗と温度感がノスタルジーのなかで湧き上がる描写すごくすき

 

・記念

この子は家内とは違う、と男は思った。彼は、仕事先から配給された一ヶ月分のコンドームが切れたときのことを覚えている。工作単位で職員に頼んでくれと妻にせがんだのだが、彼女はそれを男の人に頼むぐらいなら死んだほうがましだと泣きながら言っていた。いまとなっては自分も死んだほうがいい、と彼は思った。 p.267

おそらくこの短篇集でいちばん短い話。妻に先立たれた老いた男と若い女(とやや老いた女)という人物設定はいつも通りだが、若い女側をメインにして締めくくるのは筆者としては珍しめかも。
若者に付き纏うストーカー男性要素は「彼みたいな男」とも連関している。

結婚はいまだに世俗的なことをありがたがる人たちのもの、と彼女は答え、自分の両親にもそう言った。彼女は若者の世話をしに行って、歴史や哲学や人間の宿命に関する長い独白に耳を傾けた。同じことを繰り返し言っていることに気づいても、それをあげつらうことはしなかったし、寝室に彼女がいることをどう思っているのか訊きもしなかった。もしかすると家具にうまく溶けこんでいたのかもしれないが、それでも誰かの人生がいい家具一つで奇跡的に救われることだってあるかもしれない。 p.265

いい家具!!

 

 

 

・訳者あとがき

イーユン・リーは約24歳で北京大学を卒業して、アメリカの大学の修士課程に入っている。
訳者あとがきに載っているイーユン・リーのインタビューで「自分の著作が読者にどんな影響を与えるといいと思いますか」との問いへの答えがとても良い。

本がパーティーの出席者みたいなものだとしたら、私の本は見目麗しいわけでも、にぎやかなわけでも、風変わりなわけでもありません。また、読者に相手にされないほど軽薄なわけでも、真実に対して弱腰なわけでもないといいですね。読者は、私の本と対話をすることができると思うんです──公平に、そして正直に、登場人物たちに同意したりしなかったりすることができるんです。 p.302

 

リーによれば、一人称で語るときには誰に向かって語っているのかわかっていなければならない。つまり、聞き手のことを知らなければ語れない。だから一人称で語るのは難しいのだが、「優しさ」の場合は、リーの頭の中で語り手の末言がトレヴァーの作品の語り手ハリーに向かって語りかけているのだそうだ。 p.304

へ〜〜 これはおもしろいな。自分の書いた物語が、自分の愛する作家の物語と語り合う、という旨をこのインタビュー引用の序盤で語っているが、具体的に一人称小説ではこういうことなのか。国籍も時代も地理もまったく違う作家同士の作品がこのように「語り合う」イメージはいち読者・文学好きとしてワクワクしてくる。

教師でもあるリーは、創作を学ぶ学生たちにも、たくさんの小説を読んで自分の作品が語りかける作家を一人見つけるようにアドバイスしているそうだ。リーの場合はそれがトレヴァーなのだ。 p.303

自分にとってこうした作家はいるだろうか。魂の伴侶となるような。

えっ、「流れゆく時」は実際に父の同僚のエピソードを元ネタにしているのか・・・小説よりも奇なってんな〜

松田青子さんの解説(というか紹介文)も短いけど良かった。
「黄金の少年、エメラルドの少女」を読み返したが、やっぱり「優しさ」だけじゃなくこれもとんでもない傑作だ・・・ ただ最後の3文はやはり要らないと個人的には思う。書きすぎている。

『黄金の少年、エメラルドの少女』、この短篇集が文庫で簡単に手に入って読むことが出来るというのは本当に素晴らしいことだと思う。河出書房新社、ありがとうな。訳者の篠森ゆりこさん、ありがとうございます。

U2を聴きながら書いた表題作を含む第一短編集『千年の祈り』を読むのは確定として、長篇がいまは3冊か4冊くらいでてると思うけど、どれがいちばん評判良いのか情報がほしい。息子の自殺をきっかけで書いた3作目はそれだけで重そうで気が引ける……

トレヴァーもいい加減よみたいですね。(といって何年が経ったろう)

 

 

 

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「冬のショパン

 

 

 

 

『縛られた男』(3.)イルゼ・アイヒンガー

 

 

 

 

続きです。後半の6編を一気に読みました。

 


・鏡物語

さあ行きなさい!今がそのときよ!皆呼ばれて行ってしまった。行きなさい、あの人たちが戻ってくる前に、あの人たちのささやき声がまた大きくなる前に、階段を降りて守衛の脇をすり抜けて、夜になってゆく朝を駆け抜けて。 p.116


ある女性(おそらく)の人生を、死(葬式)から出生(幼少期)まで逆回しで語る。しかも「あなた」の二人称。


逆回し小説って、木原善彦『実験する小説たち』で紹介されてた気がするけど、これのことか!!!と思いながら読んでいたが、あとで確認したところ、全然違う作家の長編だった。(マーティン・エイミス『時の矢』)

っていうか、こっち↑に「世界初の〈逆語り小説〉」という触れ込みが付いてるけど、1991年に対して「鏡物語」は1952年だから、アイヒンガーのほうが40年も早いじゃん。マイナー過ぎて気付かれていない……

関田涙さんの『時の矢』の記事でも逆行系小説がまとめられているが、「鏡物語」は無かった。

 

で、「鏡物語」は、二人称×逆再生という、わかりやすくトリッキーな要素を2つ掛け合わせた短篇であり、それだけ聞くと地雷臭が半端ない。実際、自分は逆回しというアイデア自体にとくだん感心はしない。(Twitterでたまにバズってそうだし)

しかし、アイヒンガーの魅力の本質はそんな表層的なところにはない。文章だ。前回の「夜の天使」で衝撃をうけたように、やはり良い文章を書く。逆語りの実験小説というよりも、「"鏡"物語」という題の通り幻想文学だと捉えたほうがいい。

葬列が壁伝いに戻ってゆく。薄汚い小さな礼拝堂の中のろうそくはもう一度灯され、代理司祭はあなたに、生きよ、と弔いの祈りをささげる。彼は若者に力強く握手をして、舞い上がってお幸せにと言ってしまう。これは、この代理司祭が出す最初の葬式で、彼は首まで真っ赤になっている。そして彼が言いなおす間もなく、若者は立ち去っていった。あとは何をすれば良いのだろう。葬式の参列者にご多幸を祈った人がいるのなら、あとは死者を家に帰すほかないでしょう。 p.112

「葬式の参列者にご多幸を祈った人がいるのなら、あとは死者を家に帰すほかないでしょう」 まだこの序盤では逆語りだと気付いていなかったのだが、それでも良い一文だと思ったし、知った後に読み返してもその魅力はまったく失われない。

 

ここからあなたたちは幾度となく海岸を下るように上って、どこかへ逃避行でもするかのように家に帰り、家に帰るかのように出かけて行く。 p.121

アイヒンガーお得意の詩的な言い回しが逆語りという形式自体と見事に調和している。

 

ある日、あなたは彼を初めて見る。そして彼もあなたを見る。初めて、それは、もう二度とないということ。でも恐がらないで。あなたたちは別れなど告げなくていい。もうとっくに済ませているのだから。もう済ませているなんて、何て都合がいいんでしょう! p.124

いいですね。「逆語りゆえの面白さ」と「そもそもアイヒンガーの文章に固有の面白さ」の両方がいっぺんに味わえる。分離不可能

 

それは秋の日になるでしょう。全ての実りがまた花になる期待に満ちた。もう来ている秋、明るい霞と破片のように足の間に散った影を連れて。それで足をずたずたに切ってしまうかもしれない。りんごを買いに市場へやられたらその影に躓いて転んでしまうかも。希望のあまり幸せのあまりそれに躓いて転ぶの。 p.124

アイヒンガー特有のセンスがありすぎる比喩表現も健在。「転ぶの。」という結び方(翻訳)もすき。

 

まだあなたは小さすぎる。まだ長い休み時間には校庭を並んで歩いて、ひそひそ話をして赤くなったり、口に手をあててくすくすと笑ったりしなければならない。でもあと一年待ったら縄跳びをしたり、塀のうえから下がっている枝をつかみに行ったりできるわ。外国語も習ったけどそんなに簡単には記憶に留まってはくれない。母国語のほうがずっと難しい。もっと大変なのは読み書きを習うこと。でも一番大変なのは全てを忘れること。最初の試験で全部憶えていなければならなかったことを最後には何も憶えていてはいけないのよ。合格できるかしら。ちゃんと黙っていられるかしら。口が開けないほど怖がったら全て上手く行くわ。 p.125

「口が開けないほど怖がったら全て上手く行くわ」ですって!


主人公の女性("あなた")の人生は、かなり典型的で分かりやすいものである。これは逆語りという形式からの要請だろう。「普通の」小説のように波乱万丈な人生を歩ませていては、それを逆向きに語ると非常にわかりにくくなってしまう。だからほぼ必然的に、このようなシンプルな内容となっているのだと思われる。ここは仕方ないがゆえに、この形式の限界を感じた。

 


・月物語

「どうして・・」と女が三度目に聞こうとした。
「私が醜いからです。ある人にとっては一度も、十分にきれいじゃなかったからです。」
 p.141

 

ミス・地球(ミス・ユニバース)に嫌々選ばれた女性が月でもうひとりの女性に出逢う、おとぎ話か寓話のような短篇

百合というかシスターフッドっぽい。あとルッキズム(批判)要素も強い。

家父長制の社会=システムのなかで「美」が構築され、「美人」もまた屈服させられている。そうした現実社会を地球に対応させ、そこから逃れるための理想郷として「月」を置くが、その実態も理想郷とは程遠い「追放」先であった。地球と月、ふたりの「美女」が邂逅し、そして別れる。被-支配の重荷と孤独の重荷。「屈服させられることのない美しさ」

 

各大陸一の美人コンテストとなるとそうはいかない。そこには各国で一番きれいな女性だけが集まることになっていたからだ。ただ一人が欠けていた。その女性はそこへ飛行している途中で墜落してしまったのだ。たぶんこの女性もかなりきれいだったのかもしれないが、死者は除外される。というのも死んでしまうとおおかたは、現に生きている人たちよりきれいだったということになるからだ。 p.132

ここすき

 

オフィーリアは岩にかがみ込んだ。彼女はクリスマス劇のときに子供たちがその清らかな手足にまとうような白いチュニックを着ていた。遠すぎるので審査員たちにははっきり見えなかったが、明るい月の光か絶え間なく流れる水が、少女の輪郭を形作っているようだった。少女は岸の石から石へつたうように、注意深くひとあしひとあし足を運んでいた。一歩あるくと周囲にしずくが飛び散った。彼女のまわりでは水藻や輝く睡蓮が揺れ、後ろになびいていた。まるで染みついた若さや悲しみのように。 pp.136-137

「彼女のまわりでは水藻や輝く睡蓮が揺れ、後ろになびいていた」がてっきりまたハイセンスな比喩表現だと思ってたらほんとに水藻や水藻を纏ってたの草 (しかもそれが重要アイテムになる)

アイヒンガーの小説は比喩なのか実在物なのかわからない時間帯がある。本来は区別すべきではないのかもしれない(前回もそんなこと書いた)

 

・窓芝居

向かいのビルのお爺さんの様子がおかしいので通報するが……な話
オチが予想できてしまった……
最後でどんでん返しするのは「開封された司令」と同じだが、こういう系は好きじゃない
こういう、他の作家でも書けそうな作品がこの短篇集に入っていることによって、読者に変にドキドキさせたり深読みさせる効果があるのかもしれないが、それもそんなに面白くはないし。

 


・湖の幽霊たち

幽霊話3連発
最初の「ボートを岸に着けようとして、エンジンを止められなくなった男」がおもしろい。
テンポのいいコメディ。「そうはならんやろ→なっとるやろがい」系小説。コルタサル「南部高速道路」にも似てる。

 



・私が住んでいる場所

私は昨日から一階下に住んでいる。大きな声で言うつもりはないけれど、でも確かに下になった。大きな声で言いたくないのは引っ越したわけではないからだ。 p.167

カフカ……というかコルタサル「占拠された屋敷」みたいな話
下宿人の学生も一緒に潜っていくのが良い

そして学生は毎日口笛を吹きながら地下の階段を駆けのぼり、晩になると帰ってくる。夜には彼の規則正しい息づかいが聞こえる。いつかは彼が女の子を連れてきて、その娘が地下に住んでいるなんて変だと思ってくれるのを期待しているのだが、彼は女の子を連れてこない。 p.171

 


・絞首台の上の演説

お前たちのいるところは暗いな。この中庭はなんて暗いんだ。俺のところへ上って来いよ。ここに来れば自分が着ているスカートがどんなに色鮮やかか、ブラウスの白がどんなにまばゆく輝いているか良く見えるぜ。まるで炎みたいだ。でもそんなに多くの潔癖には天国だって耐えられないぜ!こっちへ来いよ。そうすればお前たちの頬は真っ赤になる。ここなら太陽が汗で窒息させられてお前たちのところにまんべんなく来るのを待っていなくていいんだ。上の方が太陽を早く拝めるぞ。ここじゃ太陽が誠実に笑っている。燃えた太陽もまだ涼しげだ。太陽は風を窒息させる前に風と遊ぶんだ。ここじゃ太陽と風は兄弟だ。それから教えてやるが、ここではまだ太陽が吹いて、空気が輝いている。そして最後の日が来ればそれは最初の一刻が来るってことだ! p.180

絞首台の上でマウントを取る死刑囚の演説。ゴール・D・ロジャー
かなり迫力はある。難解で詩的な感じはマヤコフスキー『ズボンをはいた雲』をも思い出させる。

 

急がなければ。太陽が梁を伝って這い降りてきて、お前たちの間に入り込んで色あせてゆく。深く、ますます深く落ちて行く。上がって、落ちて、身を守ろうとしている。高く上がって、自らの上昇でますます深くお前たちの上に落ちて行く。自らの落下だけが自分を埃から引き上げてくれる。自らの影を超えて再び天にたどり着くには、自分がまず落下しなければならないことに昼になってはじめて気づくんだ。 pp.184-185

影をモチーフにすることが多いように思う。

 

 

 

 

 

これで短編集『縛られた男』の12作をすべて読み終えた。

ベスト3は「夜の天使」「鏡物語」「ポスター」かな。

カフカコルタサルのような不穏不条理系の「縛られた男」「私が住んでいる場所」よりも、これらの幻想的で文章が詩的かつ難解なもののほうが好み。

 

 

 


 

 

『マクベス』W. シェイクスピア

 

ドン・キホーテ 前篇』(1605)の発表年とほとんど同時期にシェイクスピア四大悲劇が書かれていたと知ってモチベが上がったので、ちょうどこないだ買っていた『マクベス』(1606)村岡和子訳を読んだ。

シェイクスピアは、数年前に読んだ『ハムレット』(1601)以来、2作目。まだまだ初心者



第一幕〜第二幕

マクベス夫人の肝の座りようが凄い。夫から「いずれ王になるって予言(約束)されたわ」と聞いてすぐに全力でそれ(王殺し)を後押しする。土壇場でビビってる夫のケツを叩く。

てかずいぶんあっさり王殺しが行われた。魔女の予言→王殺しのスピード感よ。テンポが良い。

3人の魔女は『少女革命ウテナ』の「かしかかしら、ご存知かしら」でおなじみ影絵少女2人を思い起こさせる。参照元の1つか

マクベスとマクダフとマルカム、似た名前が3人いてごっちゃになる

 


第三幕

あ、そうか。マクベス夫人には「俺いずれ王になるかも」としか言ってなくて、「バンクォーの子孫が王の血を引き継ぐ」という魔女の予言の後半部を話していないのか。だからダンカン王暗殺が済んでマクベスが即位した時点で目標達成して安心しきり、逆に燃え尽き症候群になっている。そして、次はバンクォー暗殺を企むマクベスとまた気持ちの齟齬が生じている。


やっぱり言葉の力があるというか、言い回しが面白い。
第三幕第二場、ダンカン王を殺したが、将軍バンクォーがまだ生きていることに恐れるマクベスの台詞(pp.87-88)

万物の関節がはずれ、天も地も滅びてしまえばいい。
食事のあいだもびくびくし、眠っていても
夜ごと悪夢にうなされ、苛まれるくらいなら。いっそ死人と添い寝がしたい。
俺たちの安らぎを得るために安らぎの中へ送り込んでやった相手とな。
こうして心の拷問台にかけられ、
狂気の不安におののくのは嫌だ。ダンカンはいま墓の中。
人生という熱病の発作もおさまり、すやすらと眠っている。
反逆も峠を越した。鋼の剣も毒薬も、
内憂も外患も、もう何ひとつ
彼に手出しはできないのだ!

「万物の関節がはずれ〜」とか「人生という熱病の発作」とか好き

 

第一幕第一場の魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい。(Fair is foul, and foul is fair.)」の「foul」のように、単語単位でキーモチーフにしてイメージと物語を繋げていく手法もなかなかすごい。

ただし、こうした大げさな言い回しや単語による連関などが、シェイクスピアに特有のものなのか、あるいは戯曲自体の特徴なのかは微妙なところだ。私はほとんど戯曲を他に読んだことがないので判断できない。16, 17世紀当時の他の作家の戯曲も読んでみたい。誰も知らない。

(キーワードを散りばめるのは戯曲に限らず散文でもよくあるし…)


バンクォーあっさり殺された。3人目の暗殺者が突然合流するの怪しいけどスパイか何か?
そしてマクベスにしか見えない亡霊となって出てきた。いっさい喋らないのがこわい。
そういや『ハムレット』でも亡霊が出てきたような。(亡霊が出てくるのと、劇中劇があるのと、「あとは沈黙」しか覚えてない)

 


第四幕

第一場、魔女の洞窟へマクベスが訪ねて、あの予言について詳しく教えてもらう。魔女が次々に呼び出す「幻影」が個性的で面白い。ボスラッシュみたいな感じ。

第二場、マクダフにおいて行かれたマクダフ夫人と息子の会話。この息子、子供の癖にやけに聡明でマセてるな・・・ 『ヤンヤン 夏の想い出』みたいな。

息子 お母さま、こいつ、僕を殺しちゃった。
 逃げて、お願い!            (死ぬ)

ここめっちゃ好き

「僕を殺しちゃった」でn-buna「ウミユリ海底譚」のCメロが流れ出すのはボカロリスナーの性

僕を殺しちゃった 期待の言葉とか 聞こえないように笑ってんの

 

第三場、イングランド宮殿に逃げ込んだマルカムとマクダフの会話。
マクベスを倒したら次の正統な王位継承者はマルカムだが、いきなり「自分は到底王の器ではない。まだマクベスのほうがマシだ」と自虐を並び立て始めたものだから驚いた。モブだと思ってたら突然めっちゃキャラ立たせてくるやん・・・と。
しかしそれは、マクダフの本心を見極めるためのマルカム渾身の演技だったのでややガッカリ。

マルカム (前略)それどころか
あらゆる罪悪がずらりと揃っていて
その一つ一つと縦横無尽に
駆使するのだ。そうとも、この私が権力を握れば
調和という甘い乳を地獄の底にざぁと捨て、
宇宙の平和をかき乱し、地上の統一も
すべてばらばらにしてしまう。      p.139

 

第五幕

第五場、マクベス夫人が死んだと聴いたマクベスの台詞

明日も、また明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生はたかが歩く影、哀れな役者だ、
出場のあいだは舞台で大見得を切っても
袖へ入ればそれきりだ。
白痴のしゃべる物語、たけり狂ううめき声ばかり、
筋の通った意味などない。 pp.168-169

こういう、いかにも名台詞っぽい名台詞で外さないのがすごいよな〜。そもそも現代の我々の「名台詞」のイデアを形作っている一因がシェイクスピア作品である気もする。

 

おわり!!!

魔女の2つの予言(バーナムの森、女から生まれなかった者)が見事に当たってあっさりと死んで終わった。
そもそも王に反逆するつもりはなかった一介の将軍が、魔女に唆されて大罪を犯して夫人ともども破滅する悲劇だった。
オイディプス王』とかもそうだけど、運命の予言に絡め取られて破滅する系の悲劇多いなぁ(そうでない悲劇はあるのか?ハムレットどんなだったか忘れた)


1つ引っかかったのは、マクベスがダンカン殺しの犯人だといつどうやってバレたのかが曖昧な点だ。即位パーティでバンクォーの亡霊に取り乱したところから? すぐに逃げ出したマルカムやマクダフには最初からバレてたのかな。
両義性・二枚舌・曖昧さが本作のテーマの1つらしいので、そのへんも計算されているのか。
「3人目のバンクォー暗殺者」は結局特に何もなかったけど、「3」が魔女の好む忌み数であるとp.16の注釈にあるから、その線で解釈はできるか。

 

本作を読むきっかけの1つ、同人誌『よそおい』収録の、しましまによるエッセイ「嘘でしか言えない」からの多重引用になるが、柄谷行人マクベス論』は、クライマックスでマクベスがマクダフに放った台詞「貴様とは闘わない」(p.178)に注目しているらしい。ここでの「貴様」とはマクダフではなく魔女への台詞だということ。言われて読み返してみれば、たしかに、魔女への恨み節からの流れでこの台詞を発しているため納得できるが、通読時には貴様=マクダフだと思ってた。

「(魔女の)貴様とは闘わない」と解釈することで、最後の最後にマクベスが魔女の予言・呪縛から解き放たれたのだから、これは「悲劇」ではない、というのが柄谷行人の解釈だそうで。なるほど。予言どうこうとは関係なく、目の前で自分を殺そうとしているヤツがいるから戦って負けて死んだだけ。そうとも言えるかも。

まぁ野暮なツッコミをすると、でも目の前に自分を殺そうとするヤツがいる理由は魔女の予言に絡め取られたからなので、客観的にはやっぱり可哀想だとは思う。大事なのは主観的にマクベスが魔女の呪縛・運命論から距離を置けた点にあるってことだろうけど。あれよね、ハッピーエンドとかバッドエンドとかメリーバッドエンド(なんそれ)とかの基準を、作中人物の主観に置くのか、それとも読者の主観に置くのかの違い……だとかいう典型的な議論に似てる。

本書の解説によれば、そもそも魔女の実在自体が疑われていて、すべてはマクベスの妄想であって、彼は最初から王殺しを深層心理で企んでいた…みたいな解釈もあるらしいけど、わたしはそういうオタクコンテンツにありそうな認知トリック的なものは嫌いなので、その説には乗らない。

柄谷行人マクベス論』(『意味という病』収録)も積んでるので読みたい。

 

 

 

 

 

マクベス論」

 

 

 

 

ほぼ同期

 

『同時代ゲーム』(1)大江健三郎

 

 


自分が激推ししている無料同人ノベルゲーム『みすずの国』をやってくれた友人に、「これが好きなら『同時代ゲーム』を読んだほうがいい」と言われたのですぐに図書館へ向かった。

講談社の『大江健三郎全小説8』(2019年)に収録されていた。『M/Tと森のフシギの物語』が併録。執筆/発表は本作のほうが早いはずだが、なぜか後に回されている。

(途中から、購入した新潮文庫版に切り替えた)

 

第一部(〜p.109)まで読んだのでメモを投稿する。

 

 

・第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって

たしかに文章がわりと読みづらい。一文が長いし、わざと持って回ったような面倒くさい言い回しをしている。

「カラー・スライド」って何? 妹の恥毛そのものではないってこと?

インディオの妻と暮らす亡命ドイツ人アルフレート・ミュンツアーが出会ったという、マリナルコの土地を買い上げて一族で引っ越そうと企む「日本人の団体客の添乗員」って、「僕」の村=国家=小宇宙の人?まったく関係ない人?

「僕」自身なのであれば、「『僕』と出会ったことをミュンツアーが『僕』に話したことで『僕』は妹へと村=国家=小宇宙の歴史を綴った手紙を出そうと思い立った」ということで、時系列・因果関係が円環的におかしなことになっているが、そういうアレなのか??ようわからん。でも

僕は村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く者にすぎず、ジェット・ツアーの添乗員を借りの仕事に、われわれの土地の外で生きている、僕と故郷を同じくする人間の、新天地スカウトの役割自体、僕が割り込んでいい筋合いのものではありえない。 pp.210-211

ここを読むに、どうやら添乗員は「僕と同じ故郷の違う人間」らしい。

 

1-1おわり

メキシコで歴史研究の大学教員を務める「僕」が故郷の共同体(村=国家=小宇宙)と、現地のインディオたちの歴史を重ねて見ているっぽいのだけれど、これがちょっと欺瞞的な気がする。四国の架空の共同体の歴史をこれから物語ろうとする上で、国外の実在する共同体への言及から始めることで話のスケールと価値を大きく見せようとしている感があってうーん……
そういうのに頼らなければダメなほど物語の強度に自信がないのかと思ってしまうし、何より実在するインディオの共同体・歴史を都合よく利用していて暴力的だ。

 

1-1の最後で、マリナルコへの新しい根拠地建設のための「祭り」を1人で始めようとした僕は、海を隔てた遠い故郷から「制止の声」を聞いて反省する。これと同じく、上で苦言を呈した主人公の問題点についてもあとで批判的に展開されるのだろうか。しかし、本作は全編が書簡体形式の小説であって、書き出しの時点ですでに「全て」は終わっているため、手紙の書き手=語り手が「反省」する機会はあり得るのか?

 

あと、これは散々に言われているだろうけれど、ジェンダー的に色々と問題のある設定が続いている。名を分けた双子のうち、男である僕は共同体の歴史を紡ぐ「書き手」としての使命を背負わされ、いっぽう女性である妹は「壊す人」の巫女になっているらしい。この手紙に返事はなく、女性から声が奪われている、典型的なよろしくない状況である。他にも色々と保守的な父権性を構造的に組み込んでおり、かつ細かな描写においてもそれが反映されている。本作をわかりやすくリライトした『M/Tと森のフシギの物語』は女性に焦点が当たっているらしいが、そうした後出しの試みの存在自体が、本作の欠点をより証拠立てるように思われる。

 

1-2よんだ

語りのなかでふと別の回想/挿話へと飛び移っていく感じはピンチョンっぽい
学生時代の話はグッと読みやすくなった。都会のマンション/アパートの自室に自作の爆弾を大量に収蔵する青年、というのは新井英樹ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い出す。

 


新潮文庫版で読むことにした

5章から8章まで読んで「第一の手紙」おわり(110/600p)

回りくどい言い回しの文体は、冗長性を目指した冗長さというか、冗長さが自己目的的で、それによって何か別の魅力が付与されているとは思えず不信感を抱きながら読んでいたが、50ページくらいから慣れてきて段々気にならなくなった。正直今でもこの文体に特に魅力は感じないが、嫌悪感を覚えることもなくなった。

メキシコ原住民と、村=国家=小宇宙の第三の種族とを、ともに「迫害されてきた原住民」として繋げている。ここらへんの要素の出し方がかなり露骨でなんだかなぁと思う。

 

基本的に、手紙を書いている現在時制でのメキシコでの話(ゼミの女学生と寝たり、闘牛場の狂乱を眺めたり)から、「われわれの土地の神話と歴史」の記憶や夢へと連想を繋げていって回想し、また戻る・・・という形式で進んでいる。記憶について、そして「手紙」という形式から、いくつかの時間のあいだの差異についての話であるだろうと思わされる。

 

旅先で喚起される記憶を物語る手法は『アウステルリッツ』にも似ている。

 

最後の1-8章「第一の手紙のうち、投函前に削除された部分。」は、蝉時雨が降り注ぐ夏の盛りの午後に、双子の妹を強姦するために神社の林へと登っていく……というロケーション/シチュエーションがめっちゃエロゲっぽくて良かった。妹へ見せずに削除しているのも含めてものすごく気持ち悪い

 

村=国家=小宇宙の子供たちが行う「壊す人の遊び」がなかなか興味深い。が、こういう子供の寓話的な遊びというと、サエール『孤児』やドノソ『別荘』なんかも思い出し、要するに文学でそれっぽい深みを出そうとする1つの手法としてありがちだな〜とも思う。

また、人によって、場所によって聞こえ方が変わる地鳴りのような騒音によって、創建者たちの最初の住処と村=国家=小宇宙の階級構造が決定された、というのもなかなか凄い。しかしこれは、権力者が自分たちの既得権益を、(超)自然的な現象によって正当化するためのプロパガンダ=神話であるようにも推量せざるをえない。

 

いまのところまぁまぁ面白い。この回りくどい文体にも慣れてきたし。メキシコ編は海外文学っぽくて馴染みやすくはあったが、はやく日本に帰ってきてほしい。日本編や村=国家=小宇宙編のほうがより面白そうなので。第2部では帰国するっぽい



 

 

 

 

 

 

 

 

『ドン・キホーテ 前篇』(1)セルバンテス

 

 

 

岩波文庫の『ドン・キホーテ 前篇』第1巻を読んだ。序文と第1部〜第3部が収録されている。

 

 

 

 

京都文フリへ行く阪急電車のなかで読み始めた。
まだ序文の途中だが、訳注によると「序文の書き方について書いた序文」とのことで、当時の他の作家たちへの皮肉・風刺で構成されている。嫉妬と虚栄心という主題は、SNS全盛期たる現代でも通用するどころかますます切迫している。数百年前に書かれた小説とは思えない、と紋切り型を言うべきか、人間なんて根本の愚かさはずっと変わっていないことの表れだとシニカルに受け止めるべきか。


「序文」読み終えた。実在する騎士道物語の主人公たちから、今からカタランとする騎士道物語の主人公ドン・キホーテへのソネット(14行詩)を羅列するくだりとか、かなり前衛的なことをやっている・・・。

 

・第一部

第1章〜第4章まで読んだ(〜p.100)
ドン・キホーテの出発から安宿での騎士叙任式、雇い主に鞭打たれる少年の救助(してない)、そして商人たちに返り討ちにされるまで。

おもろい。文章が古風で読みづらいかと心配したが、そうでもなく、普通に読みやすい。
ドン・キホーテがめっちゃ良いキャラ。やっぱり狂ったキャラクターが主人公の小説が最強なんだよな、と思わせられる。

馬鹿げた振る舞いを淡々と語るユーモア小説。旅先で出会う人々が彼を狂人だと察してそれぞれに対応しようとするのもおもろい。てか50歳の老人というのがまたエグい。現代と中世では年齢の価値観も異なるだろうけど、それにしたってヨボヨボの爺さんが息巻いて栄光の騎士だと自称しているところに遭遇したらドン引きするわ。

騎士道物語を読みすぎて、自分も騎士だと思い込み、彼らが辿った道筋を追走したくなり、装備を整える。聖地巡礼やコスプレを熱心に行うオタクに近い。「自ジャンル」が騎士道物語のおっさん。どうしても、こうしたオタク的な観点で読んでしまう。現実とフィクションの関係をどう捉えるのか。

自分の置かれた状況に似ている、これまで読んだ物語の1シーンをすぐさま思い出して、その虚構に自ら入り込む。(局所座標系を張り合わせて多様体をつくるみたいな)
入り込んだことさえ意識しない。厨二病レベル100みたいな筋金入りのオタク。一度も我に返らなければ、狂気も平気になる。

 

おお、この稀代なるわが伝記の作者たる運命をになう賢明な魔法使いよ、そなたが誰であろうと、拙者はそなたにお頼み申す。 p.57

ドン・キホーテは自分が後世に物語化されることを意識している。騎士道物語というフィクションを現実と思い込み、それを模倣=現実化することで、自らがフィクションとなることを疑いもしないという逆説。現実↔虚構 の転倒あるいは相互作用

 

第6章おもろい。ドン・キホーテの蔵書を友人の司祭が焼却処分するか否か選り分ける。司祭もめっちゃ本に詳しくて草

高評価が下されている本は読みたくなる。『ティランテ・エル・ブランコ』って『ティラン・ロ・ブラン』か! 岩波文庫で最近出たやつ!
最後にはセルバンテスのデビュー作『ラ・ガラテーア』まで出てきてやりたい放題

 

第7章

サンチョ・パンサ出てきた! 同じ村の住人かよ・・・しかも妻子持ちの貧乏なおっさん!!
口約束に乗せられてドン・キホーテに付いていくなんて、サンチョのほうがヤバくないか?? 「ちょっとばかり脳みその足りない」どころじゃないだろ

 

第8章

いちばん有名な「風車に突撃」のシーンだ! 意外と最初のほうなんだな

1回突撃して跳ね返されただけで諦めた。思ってたよりあっさり終わった。

サンチョもめちゃくちゃマイペースというか、変わったやつだなぁ。主人の現実認識がおかしいことは指摘するものの、何やかんやでなぁなぁに受け入れているようだ。ある意味で世渡り上手とも言える。

ビスカヤ人との決闘。ドン・キホーテ、50歳のお爺ちゃんなのに結構腕っぷしは強いんだよな・・・

道を歩いていたら突然槍で襲われるなんて、通り魔でしかないけど。その狂った頭でもなんとか死なずにやっていける程度には「騎士」としての力がある。

 

第一部おわり!!(〜p.160)
ええ・・・そんな「続きはCMのあとで!」みたいな次の部への移り方ある!?
なぜここで部を区切ったし

 


・第二部

第9章〜第11章(〜p.200)

ここで、セルバンテスが自身を『ドン・キホーテ』の「第二の作者」に規定し、もとはアラビア語で書かれた原典をスペイン語に翻訳して編集したもの(p.12の注)だという設定を生かしてきた。つまり、ビスカヤ人との決闘のめっちゃ良いところで話が終わり、続きが欠落していることを認められず、「わたし」=セルバンテスがトレードのアルカナ商店街で、運命的にも、続きが書かれたアラビア語のノートを発見し、モーロ人に翻訳してもらったいきさつが語られている。

現代の小説からすれば、作者が話の続きを探す様子まで小説のなかに織り込まれるなんて、かなりメタフィクショナルで前衛的な仕掛けに思えるが、重要なのは、自身を「第二の作者」と規定して、「第一の作者」として架空の作者を設定する手法は、むしろ当時の騎士道物語においては頻繁に用いられていた、という点だ。つまり、「騎士道物語のパロディ」であることは『ドン・キホーテ』独自の趣向であるが、それ以外の諸々は、何も前衛性や実験性を志向してはおらず、パロディとして忠実に当時のスタンダードに従った結果である。それが、四百年後の我々からすれば、かなりヘンテコでアクロバティックに思えるというだけ。

そもそも「前衛」とか「実験」といったものは、その補集合たるスタンダードが確立されていなければもとよりそれを目指すことはできないわけで、今の我々の思う「小説」の在り方と、当時の「小説」(とも呼ばれていなかった)の共通認識がかけ離れているために起こる認識の齟齬であろう。

また、こうしてドン・キホーテの遍歴を記したアラビア語原典を見つけたというエピソードによって、ドン・キホーテが実在の人物であるという「嘘」を読者に巧みに信じさせようとしている。仮に機知に富んだ読者がこの記述をそのまま信じたとしたら、彼こそ、フィクションを現実だと思い込むドン・キホーテである。つまり、本書は明らかに、読者をドン・キホーテ側に引きずり込もうとする身ぶり=パフォーマンスが通底している。そして、なにも本作に限らず、あらゆる小説の読者はドン・キホーテ的態度を持たなければ読者たり得ない。すなわち、『ドン・キホーテ』は「良い読者(=フィクションの良き消費者=オタク)」像についてのフィクションでもある。


第10章の表題が内容と合致しないのも面白い。昔の小説にありがちな、内容の要約を章題とすることによってネタバレをかましていくやつを逆手に取っている感。「第二の作者」の手に渡るまでの編纂過程、『ドン・キホーテ』が辿ってきた歴史の奥行きをも感じさせるギミックで上手い。

 

第11章。羊飼いの皆さんご飯おすそ分けして歓待してくれて優しい。ドン・キホーテがこんなにヤバくても旅ができるのは、何やかんやで旅先の出会いに恵まれてるからだよな。そこはフィクション的な都合の良さともいえるが、たしかに狂人に相対したら誰でも優しくするのが最適解かもしれない。

「黄金時代」を懐古する。典型的な「昔は良かった」論だけど、あなたその頃から生きてるの? 騎士道物語で描かれた年代だから、あたかも自分も経験したかのように思い込んでるということかな。

どうでもいいけど、ふと調べてみたら、セルバンテスシェイクスピアの没年が同じ(1616年)だと初めて知った・・・(日付も同じ4月23日だけど暦が違うから正確には違う日らしい)

ドン・キホーテ(前篇)』が発表された1605年には、『リア王』も書かれている。『オセロー』は前年の1604年。『マクベス』は1606年。

へ〜〜〜 なんとなくシェイクスピアは1700年代かと思ってた。めちゃくちゃ同時期だとは・・・。これはシェイクスピアも一緒に読むチャンスでは?

 

第12章。絶世の美女マルセーラに惚れて焦がれ死に?した学士グリソストモの話

「さあ、先を続けてもらいたい。とても面白い話だし、それに友のペドロよ、そなたの話しぶりがまたなかなか興趣(グラシア)に富んでいるのでな。」 p.208

ドン・キホーテが褒める通り、村人ペドロ、マジで話が上手すぎる。大げさな比喩が心地よくグルーヴとなってスラスラと淀みなく読めてしまう語り口

マルセーラの後見人の司祭さん、「親が子の意に反して身を固めさせるのはよくない」って当時としてはかなりリベラルな持論を持ってるなぁ。

 


第二部おわり!(〜p.256)

第13章での、旅人とドン・キホーテの議論は、フィクションの「お決まり」にツッコミを入れる側と擁護する側の一種のディベートとして面白い。

さらに言えば、遍歴の騎士のすべてに、おのれの加護を祈るべき思い姫がいたとは信じられませんね。だって、皆がみな必ずしも恋をしているわけではないでしょうから。 p.223

(今思うに、これは次の章でのマルセーラの主張にも繋がるな)
スーパー戦隊でのリーダーが必ずレッドであることにツッコミを入れているような感じ。(最近は違うらしいけど)

ドン・キホーテの反論がけっこう苦し紛れでごまかしごまかしやってるのも笑える。
にしても、わりとみんな騎士道物語をちゃんと読んでるんだな・・・当時それだけ人気を博していたってことか。

 

第14章、グリソストモの《絶望の歌》はなかなか読みづらいし割と長いしで大変だったが、なんとなく意味は伝わってきた。要するに、自分を振った女への逆恨みと格好つけが入り混じった歌ってことよね。ところどころでカッコいい箇所はあった。

しかし、その後に登場したマルセーラの語りが痛快すぎてびびった。ルッキズムとかアロマンティックとかウーマンリブ的な観点でもかなり良い。なんでこんなにリベラルなんだ

わたしは自由な性格に生まれついていますから、人に従属することを望みません。わたしは誰をも愛しませんが、そのかわり人を憎むこともありません。 p252

さらに言えば、今のわたしにそなわっているこの美しさは、別にわたしが選んだものではないんです。つまり、わたしが望んだわけでもお願いしたわけでもないのに、神様が無償でこのような美しさをお与えくださったのだ、ということをご理解ください。 p.248

マルセーラの信念が素晴らしいのは、自分が美しいことをまったく謙遜もごまかしもしないところだ。なぜなら、自分の美しさは神に与えられたものであって、自分が選んで勝ち取ったものではないと認識しているから。自慢できるのは自らの意志で選び取ったものだけ、という極めて高潔な自律心を持っている。

ルッキズム的に恵まれている者であっても、その構造によって抑圧されていることを主張し、それを越えていこうと高らかに宣言する。
そうやって、自分の思想を理路整然とわかりやすく長広舌でスピーチできるのもすごい。

 

・第三部

第15章〜第17章(〜p.313)

第16章の、旅籠の屋根裏部屋での女中の夜這い→大勢でのもみくちゃの殴り合いのシーンがめっちゃ好き。互いに相手を誤認したまま抱き合うのは『ヴァインランド』を思い出したし、その後の真っ暗な中での敵味方入り乱れてのカオスなドタバタ劇はそれこそピンチョンっぽい。マンガだったらモクモク煙から星が飛び出てくるあれ

宿代を払わずに去ろうとしたドン・キホーテに宿の主人が「うちは城じゃなくて旅宿です」と言ったのをわりとすんなり聞き入れたのは意外。

どうやら、拙者は今まで思い違いをしていたようじゃ」 p.305

普通に支払わずに逃げたのは笑った。

ところで「騎士」というのが当時実際にどのような存在だったのかイマイチわからん。騎士道物語のフィクション中にのみ存在するファンタジーな役職ではなくて、実在したんだよね?

 

ドン・キホーテがここで主張するように「騎士は旅先でいっさい宿代などを払わない」というのが、実在の騎士の習慣なのか、それとも彼の愛読する騎士道物語の中の決まりなのかがわからない。フィクションのキャラクター・ヒーローがいちいち費用を支払っていたら格好がつかないので省略されているのかな。「アニメの美少女キャラクターはトイレに行かない」みたいに。


第18章〜第19章

羊の群れの衝突を合戦だとおもって、その場の妄想で各陣営の騎士をことこまかに説明するくだりすごい。風車突撃とかよりよっぽど派手だしドン・キホーテらしさが出ている。

ドン・キホーテ、50過ぎのおじさんなのに単純にフィジカルというか耐久が強いの草
歯をほとんど折られ、肋骨も折られているのにちょっと嘆くくらいで、また平然と通り魔に勤しむ・・・いやこれメンタルの問題か?


第20章

ドン・キホーテの仰々しい名乗り口上、サンシャイン池崎を思い出す。(彼の参照元の源流に「騎士」があるということだろう)

くり返すが、拙者こそかの円卓の騎士たち、フランスの十二英傑、そして令名高き九勇士をよみがえらせるべき人間であり、さらに、プラティール、タブランテ、オリバンテ、ティランテ、フェーボ、ペリアニスらをはじめとする、過ぎし時代にその名を馳せた一群の遍歴の騎士たちがなしとげた赫々たる事績の輝きを曇らせるがごとき、偉大にして稀有なる武勲をこの鉄の世に打ち立て、そうすることによって、かの騎士たちを忘却の淵に追いやるべき人間なのじゃ。 p.356

この辺の口上を、このあと不気味な音の正体が分かって拍子抜けしたあとで、サンチョ・パンサが真似して主人をいじるのも面白い。サンチョがまたなかなかに強かというか、ドン・キホーテを煽ったり、皮肉ったりする発言が増えてきている。しかし、性根が腐っておらず、主人に懐いてきたからこその変容であるともわかるので微笑ましい。まぁドン・キホーテに「お前もうちょい私を敬って口を慎んでくれ」と注意されるけどw (それに表面上はあっさり従うふりをしているが、内心はどうなのかわからない。相変わらず主にばれないように煽ってるし)

 

怪しい音が鳴り響く森で一夜を過ごすにあたって、暇つぶしにサンチョがドン・キホーテに物語るくだりが面白い。

いいですかい、旦那様、この漁師が渡していく山羊の数をちゃんと数えておいてくださいましよ。たった一頭でも数え間違えると、その場でこの話がおしまいになっちまって、あとを続けることができなくなるからね。 p.368

これで実際にドン・キホーテが山羊の数を答えられず、その場でサンチョの話は終わる。
「普通」の人にとっては話の本質に関わらないからと省略するようなところまで、一頭ずつ数えなければ気が済まないさまはASDっぽさもある。しかし、答えられなかった瞬間に、サンチョの頭から「これから喋ろうと思っていたことがそっくり消えちまった」というのは面白い。こんな独創的なアイデアを「暇つぶし」の一挿話に充ててしまうってのがまた風格を感じる。

サンチョ、馬にまたがるドン・キホーテにピタッとくっつきながら便意を催してそのまま致すのやべえな

ドン・キホーテもまたサンチョを見やったが、従士のほうは両方の頬を大きくふくらませ、口のなかを笑いで一杯にしていた。つまり、すぐにも吹き出したいといった様子だったので、サンチョのそんな顔を見ると、恥じ入り、しょげかえっていた主人も、思わず笑い出さずにはいられなかったのである。こうして主人のほうが先に笑い出したものだから、サンチョは文字どおり堰を切ったように、それまで押さえこんでいたものを思い切り発散した。笑う勢いで腹が裂けたりしないようにと、両手で脇腹をおさえていなければならないほどであった。 pp.378-379

ここすき。2人のあいだの雰囲気がよく表現されていて平和
このあとすぐに、いつまでも笑ってるサンチョにムカついたドン・キホーテが従士を槍で殴るところまでおもろい

 

にしても、不気味な音の元凶の「毛織物を縮絨するための六つの大きな木槌」って、無人で動く仕組みなのか? いっさい人の描写がないのがかえって不気味に感じるが、当時からそういうハイテクなものがあったのか
 →次章によると、水車小屋らしい。つまり、水車を動力とした機械(縮絨機)だ。

ところで、ドン・キホーテがこの縮絨機・木槌を、何か別の悪魔やら化け物やらと認識せず、素直にありのままの姿を認めたのは意外だった。不気味な音の正体は木槌なんかじゃない!と言い張りそうなものなのに。だが、それが逆に、彼が意図的に物事を騎士道物語風に誤認しているのではないことの証拠にもなっている。

 

第21章おわり。第3部(および第1巻)完!おなかすいた!

相変わらずの通り魔・強盗。

『ティラン・ロ・ブラン』ってそんなテンプレなお話なのか・・・

サンチョの性格がなかなか掴めない。リアリストの側面もあるが、主人が自分にいつか島をくれると素朴に信じているような「脳味噌の足りない」一面もある。そもそも現実主義者なら妻子を捨ててドン・キホーテについてこない。教養無さげだけど、諺を頻繁に引用してきたりもする。

 

第1巻の感想としては、ふつうに読みやすくて面白かった。

「風車に突撃」が意外と序盤で驚いたが、あれが本作の代名詞として選ばれるのはよくわかる。『ドン・キホーテ』を読んだことのない人に『ドン・キホーテ』をいちばんわかりやすく象徴しているのがあのシーン。しかし、実際に読んでみると、あれ自体はあっさり終わるし、意外と印象に残らない。ドン・キホーテの狂気妄想が炸裂する印象深い章は他にもっとある。でも、未読者向けには、たしかにいちばんキャッチーなシーンではある。

 

 

・続き


 

 

 

 

 

同じ1605年発表作。

 

互いを誤認したままベッドで…