『ドン・カズムッホ』マシャード・ジ・アシス(1899)

 

 

2023/6/28〜7/5
計:6日間

 


6/28水 p.73(17章)まで

やっぱアシスの文章くそ好きだわ〜〜
一人称でガッツリ読者に語り掛けてくる姿勢はリスペクトル『星の時』なんかにも受け継がれているのかな。
細かい言い回しがほんと良い。

 

7章「ドナ・グロリア」 お母さんについて

まだ子どもだったし、わたしは生まれないまま人生を始めてしまったのだ。 p.34

 

9章「オペラ」やばすぎ。最高

人生を、地球を、人類をオペラとして喩えるどころか神話的に説明するイタリア人元オペラ歌手のおっさんの挿話。こういう、一気にスケールがデカくなるプチ挿話は『ブラス・クーバスの死後の回想』にもあった。

 


6/29木
p.157 38章まで
ベッタベタなヘテロ幼馴染モノ… カピトゥ最高!!!

 

6/30金
p.243 61章まで

神学校へ入学した
ジョゼ・ジアス、俗物だけど良いキャラだな〜 主人公に対して敵でも味方でもある絶妙なポジション

 

7/3月
p.324 89章まで

62章「イヤーゴウの微かな兆し」

そして・・・・・・・何だというのだ? それ以外に何を交換するのかはおわかりだろう。自分で答えがみつけられなければ、もうこの章の残りも、本の残りも読む必要はない。わたしがいくら語源の各文字に至るまで述べたてても、それ以上はみつけないだろうから。だがみつけたとすれば、わたしが身震いしたあと、すぐに門を飛び出していきたいという衝動に駆られたことがおわかりだろう。  p.246

 


64章「あるアイデアとためらい」

この章を終える前に、 わたしは窓辺に行き、夢はなぜ瞬くあいだ、あるいは寝返りを打つあいだにも消えてしまうほどはかなく、 続こうとしないのかと夜に訊ねた。 夜はすぐには答えてくれなかった。夜は心地よく美しく、丘は青白く月光を浴び、空間は死んだように静まり返っていた。 わたしがしつこく訊ねると、夢はもう自分の管轄ではないと答えた。 夢がまだルキアノスがくれた島に住んでいたころならば、 夜はそこに豪邸を構え、そこからさまざまな様相を夢にとらせて送り出していたから、説明することもできただろう。だが、時代がすべてを変えてしまった。 昔の夢は引退し、近代の夢が人間の脳に住んでいる。こちらの夢は昔の夢を真似ようとするが、それは無理というものだろう。 夢の島は、愛の島や、すべての海のすべての島と同じように、いまはヨーロッパと合衆国の野望と競争心の対象となっている。 p.252


67章「罪」

涙を拭いたが、 ジョゼ・ジアスの言葉のすべてのなかでたった一語だけがわたしの心に残った。きわめて悪いという言葉だった。あとで、彼が言いたかったのはたんに悪いであったことがわかったが、最上級を使うと、口を開いている時間が長くなるたジョゼ・ジアスはその時間への愛情ゆえに、わたしの悲しみを増やしたことになる。もしこの本に同じような例をみつけたら、読者よ、第二版では修正するから教えてほしい。きわめて簡潔な考えにきわめて長い足をつけること以上に、みっともないことはない。繰り返しになるが、わたしは涙を拭い、歩きながら、いまはとにかく早く家に帰り、胸に抱いた悪しき考えを母に謝りたくてしかたなかった。 p.264

 


71章のエスコバールの顔の描写すばらしい。彼との友情と、カピトゥとの恋愛がどう絡むのか。もしや三角関係には……

エスコバールの目は、すでに述べたように、明るい色できわめて甘美だった。このような定義を与えたのはジョゼ・ジアスで、 エスコバールが帰ったあとのことだったが、もう四十年の時がたっているとはいえそのまま残そう。これに関して、食客の誇張はなかった。きれいに剃られた顔は、白くすべすべだった。額こそ少し狭く、髪の分け目が左眉のすぐ上にまで迫っていたが、他の部位とぶつかったり、その魅力を損なったりしないだけの必要な高さはつねに保っていた。なんとも人を惹きつける顔立ちで、冗談がよく飛びだす薄い唇、華奢で曲がった鼻。ときどき右肩を揺する癖があったが、あるとき神学校で仲間の一人がそれを指摘すると、癖はなくなった。 人間が細かい欠点をみごとに直せるのを見た、最初の例だった。


75章「絶望」

食客から逃げ、母の寝室へ行かないことで母からも逃げたが、わたし自身からは逃げられなかった。自分の部屋に駆けこんだが、わたしは自分のあとについて入ることになった。 わたしは自分に話しかけ、自分につきまとい、自分をベッドの上に投げ出し、自分とともに転げ回り、泣いて、こみ上げる嗚咽をシーツの裾で押さえた。  p.288

 

いや〜ほんと、アシスの文章・文体と、読者(語られ手)への距離の取り方がものすごく好みだ。世界中にこれ以上に自分に合う文学は存在しないと思えるほどに。

だから、物語とか、思想とかは二の次。そういうところではなくて、ひたすらにこの語りが心地よい。

 

7/4火 112章まで
お~ マジで結婚した

エスコバールとカピトゥが不倫してる可能性もあると思います!

反出生主義っぽかった『ブラス・クーバス』と対照的に、ものすごく出生主義だ


7/5水

おい、まさかそっちが不倫するのか…?

122章。これまで女性に対してしか使ってこなかった「被造物」という語を、ここにきて親友と自分自身にまとめて使うのすごい深い。

 

うわ~…… やっぱそうだったんかい

幼馴染の妻と、神学生時代からの親友が不倫していた……のを、親友の死後に察する男の話。

文学におけるもっとも、あるいはゆいいつ重要な主題は不倫である、というみかんさんの言が迫真性を帯びてくる。

二番目に価値のある主題は自殺である。

日本では、「ブラジルの夏目漱石」とか紹介されることの多いマシャードだけど、単にその国の近代小説の最も偉大なオリジネーターであるというだけでなく、三角関係と自殺を主題にしている点も共通しているんだな。

 

文章がすごいよう さらっと書いてるけど相当だぞこれ

 

読み終わった!!!

たしかにこれはものすごく完成度たけぇよ…… 前半は、『ブラス・クーバス』と実質同じで、回想録の語り手が死者ではなく生者であるぶん一応地に足がついている程度の違いしかないかと思っていたが、後半というか終盤で一気に物語が収束し、文体はほとんど変わらないままに、静かにすごいことを成し遂げている。

けっきょく、カピトゥとエスコバールは本当に不倫をしていて、エゼキエルはふたりの子供であったのか、それともすべては語り手ベンチーニョ(ドン・カズムッホ)の文字通り偏執的な嫉妬の誇大妄想なのか、という真相がぎりぎり宙吊りにされているってことでいいんだよね? ベンチーニョは完全にエゼキエルにエスコバールを写し見ているけれど、それがイコールで真実であるとは限らず、むしろ本作の語り手の信頼できなさを急激に上昇させていく効果を持っていると読んだ。はじめから信頼できなさを全面に押し出している『ブラス・クーバス』とはこの点も対照的である。どちらも不倫を扱っているのに、おもしろい。

 

ほんとうにすごい小説だと思うけれど、いまのわたしにはそのすごさを十全に語ることなど到底できない。物語の完成度や人生・人間に対する洞察の深さなどもさることながら、やっぱり文章がずっとすごいんだよな。とんでもねえ。

 


「訳者解説」読んだ

1900年に出版され、1960年にアメリカの女性研究者ヘレン・コードウェルに指摘されるまで、カピトゥの不倫が疑われることはほぼ無かったとかいう衝撃の事実。世界中の読者よ、60年間もなにしてたんだ……。(むろん、今日の最新研究に基づいて、武田さんが翻訳したものを自分は読んでいるのだから、その翻訳によって、上記のような「宙吊り」解釈にすぐ辿り着けた、というのは忘れてはならない。)

「記憶」を主題として本作を読み解いている。やっぱとんでもない傑作だよな~~という思いを新たにする。ベンチーニョはカピトゥの不義を告発するためにこの回想録を書いているわけではない。それはそう。

シェイクスピア『オセロー』読むか・・・。

マシャードは文学教養のあるポルトガル出身の妻と仲睦まじかったそうだけど、子供はいたのかが気になる。

やっぱり、マシャードは2作品とも、出生主義/反出生主義 というテーマはめちゃくちゃ重要だと思うんだよなぁ。本作でいえば、最終的に自分の子ではないと思い込むようになったエゼキエルの存在じたいが不確かで複雑な意味合いを帯びていくのだし、子供を欲しがっていた~育児中のベタな出生主義が事後的に攪乱されていることは明らかだ。究極的には「自分」にしか興味のない語り手が、自分自身の複製・分身として「創造」したはずの息子が、じつは他人(親友)の子であるという疑念・不安は、そのまま自分という存在の不安へと跳ね返ってくるだろう。

 

 

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