『丁子と肉桂のガブリエラ』ジョルジェ・アマード

 

 

 

 

2023/7/7〜28
13日間


7/7金 p.30まで
ブラジル文学・ポルトガル語圏文学強化期間の一環として、(数ヶ月前に買っておいたものを)読み始めた。
三人称。章題からして饒舌。さっそく土地の守り神?聖ジョルジェの視点からも叙述する。

1925年、イリェウスがカカオ栽培によって急速に発展・文明化していた時代の恋物語
ひとつの町の発展史といえば当然『百年の孤独』が思い出されるわけだがこっちのほうが古い。あと石牟礼道子『椿の海の記』とも重ねて読んじゃう。

一文がけっこう長い。並列や羅列を多用する。
すでに人物が大量に出てきて収集がつかなくなっている。
ほぼ読んだことないけど、バルザックみたいな感じなのかな。今のところ20世紀というよりは19世紀の小説っぽい。

けっこう読みにくい…… 一日で20ページくらいしか進まなかった。文章の問題よりもまず、版組の問題だと思う。これぜったい二段組にしたほうが読み易いって!! 1ページあたりの文字数が多いのと、上から下までギッシリなので、すらすら読みにくいのかもしれない。。
毎日読んでも一ヵ月以上はかかるなこれ。

 


7/11火 p63まで

誤字脱字が多すぎる! ろくに校正してないなこりゃ

物語はノってきた。博士(ドウトール)、有力者ムンディーニョ・ファルカンetc.
いろんな登場人物の家系の年代記やらが饒舌に語られる。物語の奔流、これぞラテンアメリカ文学

まだガブリエラが出てこねぇ!!


7/12水 p.100まで
"ドス・レイス姉妹とキリスト生誕群像(プレゼーピオ)"  の節めっちゃおもしろい!

双子の姉妹は、あわせて128年間処女をがっちり守ってきた快活な年寄りだった。 p.71

まさかのお婆さん姉妹だった

プレゼーピオはまさにバフチン的なカーニバルの様相。

ご想像のとおり、プレゼーピオは、遠いとおいパレスチナの貧しい厩でキリストが誕生する場面を再現している。だが、東洋の荒地は今や、多様な世界の中心に息づくささやかな一場面にすぎなくなっていた。周りに広がる世界には、ありとあらゆる人物と場面、歴史上のありとあらゆる時代が、民主主義的に混在していたのである。この世界は年を追うごとに大きくなっていった。そこには有名人物、政治家、映画監督、軍人、文学者と芸術家、家畜と猛獣、やせこけた聖人が、映画スターの輝くようなセミヌードと並んでいた。 pp.74-75

 


7/13木 p.153まで
第1部おわり! 最後にようやくガブリエラが登場した。第1部はガブリエラ到着前のイリェウスの町の様子を活写して、これから始まる恋愛劇の下ごしらえのための導入部であった。きっちり舞台設定・人物設定をおこなってから物語を始める、バルザック的な小説構造。
ガブリエラの人物造形もすごく好みそう。

 

 

第2章 グローリアの孤独

妻に浮気された大佐が、妻とその不倫相手の若手歯科医に復讐してピストルで殺害する事件が起こる。
既婚男性が妻以外と遊ぶのはいいけど、既婚女性が夫以外と関係を持つのは殺されても仕方のない罪、という差別的な倫理観が構成員に完全に内面化されている共同体の話。
裁判・弁論が最高の娯楽である町ってすげぇな。
目撃され殺されたとき、被害者は黒いストッキングだけを身に纏っていた、という情報に胸を高まらせる男性陣が滑稽で良い。

「あの女、素っ裸だったって……」
「全裸ってことか?」
「一糸まとわぬ?」。隊長の声に煩悩が宿る。
「すっぽんぽんよ……身につけていたのは黒いストッキングだけ」
「ストッキングだと?」。憤慨するニョー=ガーロ。
「黒いストッキングか、おー!」と言って隊長は舌打ちした。
「自堕落な女め……」とマウリーシオ・カレーイスが有罪宣告をする。
「きっときれいだったんだろうなあ」。突っ立ったアラブ人ナシブの脳裏に突然、素っ裸のシニャジーニャが映し出された。黒いストッキングを穿いている。ナシブはため息をついた。 p.142

 

シコはテーブルの前で立ち止まっていた。シコだって人の子だ。噂話には興味があるし、「黒いストッキング」のことも知りたい。
「それが最高級品なんだってさ、舶来ものの。イリェウスでは売ってないんだと……」とアリ・サントスが追加情報を披瀝する。
「きっとバイーアから取り寄せさせたんだろうな。親父の店を通して……」
「すごいなあ。この世にあるんだ、そんなものが……」。マヌエル・ダス・オンサス大佐があっけにとられてぽかんとしている。
「ジェズイーノが入っていったときには絡まってたらしいぜ、おふたりさん。人の気配にも気が付かなかったんだと」
「でもジェズイーノが入ってきたとき女中は叫んだって……」
「あの最中はなんにも聞こえないんだよな……」と隊長。
「ご立派です。大佐は正義を全うなさった……」 pp.143-144

殺された不倫歯科医の診察室には日本製の椅子があり、その先進性の象徴のように描写されている。不貞を働いた妻を夫は殺すべし、という前時代的すぎるイリェウスの風土と対比されるかたちで……。

 

フェリズミーノにしてみれば、贅沢好きで女王様気分の浪費家を愛人に丸投げするほど、洗練され、それでいてぞっとするほど恐ろしい復讐方法はなかったのである。だが、イリェウスにはユーモアのセンスが欠けていた。だれも医師の行為を理解できず、反世間的で臆病で不道徳な男だと考えた。 p.151


まだガブリエラとアラブ人ナシブが出会ってない! とっとと料理女として雇え!!

 


7/18火 p.215 第2章おわりまで
ナシブがガブリエラを雇った! さぁどうなる
雇った次の日の夜には手ぇ出しとるやないかーい
今のところガブリエラがどういう人物なのか掴めないというか、典型的なファム・ファタールか……

めちゃくちゃ俗っぽい小説。直木賞狙えそうな
まぁ『百年の孤独』だってめっちゃエンタメだったしな・・・

 

シリアは恐ろしい土地で、女はバラバラにされ、男は去勢されるという話はナシブの法螺で、すべて口からでまかせだった。悲しんでもくれなければ、優しい言葉をかけてくれない粗暴な年老いた夫を騙したくらいで、若くて美しい妻が死ななければならないなんて、ナシブに考えられるだろうか? 今や故郷となったこのイリェウスこそ、実は、文明果つる地だった。 p.165

 

「正気になりなって。ありゃ一緒に暮らせる女じゃないがよ」
「それ、どういうことだ?」
「どういうって……そういう女だってことよ、おれに言わせりゃ。あいつと寝るこたできるかもしんねえ。ナニすんのもな。でも、自分のものなんかにゃできねえって。物みたいに持ち主になるこたできねえ。もっとも、だれにもできねえ相談だけんどな」 p.178

 

ナシブは頭を振った。ナシブは、隊長もトニコも、アマンシオ・レアルも博士も、どちらの陣営とも友人だった。どちらとも一緒に飲み、遊び、語らい、娼家に行く。そもそもナシブの懐に入るお金の出所はこの友人たちなのだ。それなのに、友人たちが今や分裂し、二つの陣営に分かれている。全員の意見が一致しているのは、貫通を冒した妻を殺してもかまわない、というただその一点だった。 p.212

バールの店主ナシブという主人公の置かれた象徴的な中立ポジション

 

 

7/19水 p.269まで

第二部 丁子と肉桂のガブリエラ

第3章 マルヴィーナの秘密

自立した女学生マルヴィーナさんいいな
ガブリエラはマジで男(主人公ナシブ)にとって都合が良すぎる存在でこわい。自分の信念・芯がちゃんとあった上で結果的にこちらがいちばん都合良く消費できてしまうのが……。男女関係なんてどうせ消費行為でしょ?お互いに都合良く消費し合いましょうよ、みたいなことなのか。しかしナシブとの結婚にはまんざらでもなさそう(自己評価が低いので実現するとは思っていないが)なのがなぁ…

 


7/20木 p.290まで
町の男どもがガブリエラを自分のものにしようと躍起になっているのに耐えられず病んでいくナシブ。ガブリエラ本人はどこ吹く風なのか?

町をこれまで支配してきたラミーロ・バストス老大佐に対して明示的に対立する新参者の輸出業者ムンディーニョ・ファルカン。保守と革新の分かり易い対立であるが、ムンディーニョ側もけっきょく自身の家柄の権威によってうまく立ち回れているに過ぎないのが皮肉であり、本人もそれを嫌々ながら感じざるを得ないのがなんとも哀れ。

 


7/21金 p.329まで
マルヴィーナいい! 保守的な環境に抗う先進的な若い女性が死を選ぶ悲劇的なプロットごと蹴っ飛ばしてくれて本当によかった……

ガブリエラはナシブの腕のなかでこの男たちと、いや、他にもおじ以外の男たちと、夜ごと寝ていたのである。今日はこれ、明日はあれというように。でもいちばんたくさん寝ていたのは若いベビーニョとトニコだった。二人ともとてもステキだった。もっとも想像するだけでじゅうぶんだが。 p.301

マルヴィーナはアルイージオおじさんが、肩を血で真っ赤に染めて家の外壁にぐったりもたれている姿をまたもや目にした。メルクよりもはるかに若い、ほっそりとした快活な美男子。馬や牛などの動物が好きで、自分で子犬を育て、居間で歌も歌えば、マルヴィーナをおんぶしたり、一緒に遊んでくれたりする。生きるのが好きな人だった。それは六月のことだった。 p.322

こういうプチ回想挿話の語りがシンプルに良い。

 

 


7/24月 p.376まで
ジョズエ先生が失恋から、Twitterによくいるインセル・ミソジニスト男になっている。

 

第5部 月明かりのガブリエラ
ナシブもまた保守的な女性像・上流階級の貞淑な妻像にガブリエラを押し込めており、破局必至……

 


7/25火 p.426まで
イリェウスにとってはライバルでもある内陸部の隣町イタブーナの行政首長アリストテレースさん有能かつ聖人な政治家過ぎる……と思っていたらあーあ。生きててほしい
一気におはなしが動き出した。ガブリエラが動くとおもしろいな

イリェウス全体が港口の作業のなかで暮らしていた。潜水夫の他にも、浚渫船に据え付けられた機械が人々の感嘆と驚きを引き起こした。機械は砂を取り除き、港口の底を掘削し、水路を広げる。その地震のような音は、まるで、町の暮らしそのものを永遠にひっくり返してしまいそうだった。 p.384

町の港の砂を削る。あまりにも象徴的かつ具体的。
「浚渫」って「しゅんせつ」って読むんだ……

 

 


7/26水 p.470まで
うおおおお ガブリエラ!!!
抑圧からの解放、というベタ過ぎるプロットだが、それがいい

一行は他の通りで踊るために歌いながら出発しようとしていた。ガブリエラは靴を脱ぐと、まっしぐらに走り出した。ミケリーナの手から旗を奪う。全身はくるくる回り、尻は激しく揺れ、自由になった足はステップを踏み始めた。その後ろを行列がついてゆく。義姉が「あらまあ!」と叫んだ。

ジェルーザが目を遣ると泣き出しそうなナシブの顔。恥ずかしさと悲しさで真っ白になっている。と、ジェルーザも飛び出した。ひとりの羊飼い娘から提灯をひったくるとステップを踏み始める。男の子がひとり、またひとりとそれに加わった。イラセーマがドーラの提灯を奪い、ムンディーニョ・ファルカンがニーロのホイッスルを奪った。ミスター夫妻も踊る。六人の子持ちで善良にして陽気なジョアン・フルジェンシオの妻も行列に加わった。他の奥様連も隊長もジョズエも、みな後に続く。ダンスパーティー全体が外に出て踊り狂っているようだった。行列の最後尾にはナシブの姉とその夫の博士の姿。戦闘ではガブリエラが旗を手にしていた。 pp.455-456

(裸足で)踊ることがとにかく好きなガブリエラ最高。ダンス/ステップのジャンルに細かい好き嫌いがあるようなのは意外。それぞれどんな踊りなのか調べたいな

ガブリエラはナシブ、トニコ、アリ、隊長と踊った。優雅なターンを見せる。しかし男の腕の中で回るこうしたダンスが好きではなかった。ガブリエラにとってダンスというのはまったく別物。腰をふるココ、サンバの輪舞、速いマシシェ、アコーディオンに乗せて踊るポルカのことだ。アルゼンチンタンゴもワルツもフォクストロットも好きではない。広がった足指がぎゅっとひとつに締め付けられるこの靴ではなおさら。 p.453


ここにきて博士の祖先?のオフェニージアがイリェウスにとって大きな存在になってきた。文化開花。共同体のアイデンティティのイコンとしてのヒロイン(英雄)

ジョアン、われらのご先祖さまオフェニージアのことだけどさ、博士が例の小冊子で描いている肉体的な特徴が変化したことに気づかなかったかい? よく覚えてるよ。以前は干物みたいに痩せこけてお肉なんかついてなかった。ところじゃ今度の本はまるまる太ってる。四十ページを読んでごらんよ。だれに似てるかわかるか? ガブリエラだよ……」 p.458

 

 

 

あー やっぱ不倫・姦通ほど面白い文学の主題はないよなぁ!?パート2になっている。(『ドン・カズムッホ』以来1か月ぶり)

あと70ページか。ここからさらにもうひと展開あるってことよな。終わり方次第では超面白くなりそう。

殺さなかったのは、ナシブが人を殺せるように生まれついていないためだった。みんなに語って見せるシリアの例の恐ろしい話など、ただの出任せにすぎなかった。怒ればナシブだって殴ることはできる。事実、まるで借金や延滞金を一気に返済するように、ガブリエラを容赦なく殴りつけた。でも、殺すことはできなかった。 p.465

ナシブのシリア出身設定は重要だと思うんだけどあんまり前景化してこないんだよなぁ。。 イリェウス生まれではなく「よそ者」である(他のみんなと同様に)のはひとつだけど、それだけじゃなく、なぜアラブ/シリアなのか。。

「でも、もしガブリエラがただの愛人だったらどうだ?」と本屋は言葉を継いだ。「それでもきみはイリェウスを出るか?」 苦しみの話をしてるんじゃないぞ。結婚したからって苦しいわけじゃない。愛しているからこそ苦しいんだ。でも殺したり、町を出たりするのは結婚しているからだ」 pp.467-468

 

7/27木 p.506まで

「なんで説明しなくちゃいけないんだ? したくないよ、そんなこと。説明するとは限定することだ。ガブリエラを限定したり、あの娘の魂を解剖したりなんかできない」 p.473

なんてばかげた、説明のつかない現象だろう。男のひとたちって、自分がいっしょに寝ているおんなのひとが、ほかの男のひとと寝ると、なんであんなに苦しむのかしら? p.475

ひとりの男をこれほど愛し、最愛の人のためにこれほど深い愛のため息をつき、これほど死にそうに気が遠くなることのできる女は、世界広しといえどもガブリエラを措いて他にはいなかった。 p.477

他のひと、物事のことなどどうでもよく、その人だけを愛することが、その愛の深さを示す……のが近代のロマン主義だとすれば、ガブリエラの愛のありようは、前近代的なそれだろう。他の人へ浮気をすることが、そのひとへの裏切りになるのではなく、多くのひとを愛し、それでもなおひとりの人を深く愛することができるありかた。それは自他の境界が未分化で、ガブリエラの本質を「説明できない」のと同根である。

前近代から急速に近代化するイリェウスという町の発展史を描いているこの小説のヒロインとして、ガブリエラのこうした前近代的なありようはどう位置付けることができるか。
ただ、ラミーロ・バストス大佐のような古き悪きマチズモにガブリエラが親和的なわけでもない。不倫を働いた妻は殺されて然るべきだという「貞淑な妻」概念にもっとも反発しているのがガブリエラなのだから。
セルタン(奥地)からガブリエラがやってきた、という出自は重要だろう。奥地とは、ラミーロ大佐たちが懐古する、まだ密林だった開拓期のイリェウスともまったく異なる風土だということか。
やはり『大いなる奥地』それから『世界終末戦争』を読むべき……

 

「近代とはなにか」という問いを考えるうえで、「なぜ不倫は罪なのか」という問いは重要かもしれない。
(とはいえ、近代以前…それこそ古代ギリシャの時代から、姦通は罪、という価値観はあったような気がするが…… 不倫についての勉強が必要だ。)

ガブリエラのような嗜好や香りや熱気のある女はいなかった。死ぬほどの快楽を感じ、与えることもできる女は。 p.479

ようするに、ガブリエラには、人に与えたら与えたぶんだけ自分の持ち分は減る、という資本のトレードオフの価値観がない。所有権という概念がない。

ガブリエラがフェミニズム的に良いか悪いか微妙で判断しづらいのも、おそらくフェミニズムという思想が近代以後の概念であるからだろう。そもそも近代的な個人主義の前提を共有していないので、近代の枠組みでガブリエラを理解/説明しようとするとエラーが起こり、掴みどころがない。

 

日はとっぷりと暮れ、宵闇が畑のあいだに入りこんでゆく。宵闇とともに狼男、ラバの姿をした神父の愛人の亡霊、昔待ち伏せで殺された人々の魂が現れる。カカオの木のあいだを彷徨うのだ。フクロウが夜行性の眼を開け始めた。 p.487

しれっと書いてるけど、これまじ? 物語にはほぼ関係ないけどひっそりと魔術的リアリズムというか、より直球のファンタジック土着的死生観が描かれている。

 

連日市民集会で沸き立っていたが、そのなかでも最も大きな集会で、ある驚くべきことが起こった。エゼキエルがこれまでになくカシャサをあおって霊感冴えわたる演説を打ったあと、ナシブが演壇に立ったのである。エゼキエルの演説を聴いているうちに心中溢れ出すものがあったらしい。ついに思いを抑えきれなくなり、発言を求めた。空前絶後の大成功だった。ポルトガル語で話し始めたが、頭のなかにうまい言葉がどうしても見つからず、ついにアラビア語で話しだしたのがその主たる原因だった。驚くべき速さで言葉が奔流のように次々と溢れ出してくる。拍手喝采はいつまでも終わることがなかった。
「全選挙戦を通じても、これほど真摯で、これほど霊感に満ちた演説はなかった」とジョアン・フルジェンシオは振り返っている。 p.494

こういうのラテアメ文学ってかんじで大好き


ラミーロ大佐の葬儀
こういう形で決着か。しんみりするなぁ

 


7/28金 p.541

読み終えた!!!

最後のほうはあまりにも収まるところに収まった、平和でご都合主義的な展開。だが、港口の工事が終わって初めて外国船を招いたときのスウェーデン水夫が発した「おれはイリェウスのカシャサが好きだ!」という台詞に、まるで自分もイリェウス人かのように嬉しくなってしまったくらいには、この小説の舞台イリェウスという町に愛着が生まれていた。これだけで、この作品を好きだと言うには十分すぎる。1ヶ月ほど、この町に滞在させてもらった気分だ。めちゃくちゃ保守的でマチズモがすごい気風とはいえ、小説越しに読むと、ほんとうに不思議と好きになってしまうんだよなぁ。

めちゃくちゃどうでもいいけど、ナシブ自身は料理できないのだろうか? 料理人を探して駆けずり回ってそんなに悩むくらいなら、自分が料理スキル身につければいいのに、と思うのは商売センスがないか。ナシブは店の責任者として、運営や会計や、そして通常時は店内のホールを回って友人たちと語らって常連の輪をつくるという重要な仕事をしていはする。


訳者解説にて、やはりバルザックの名が挙げられていた。
ドナ・レイス姉妹のプレゼービオがいちばんお気に入りの挿話だというのも同意。

ナシブのバールを観客席として、聖セバスティアン広場を舞台の上のように眺めるところは民衆劇の要素がある、という指摘が興味深い。

章題に上がった4人に、不倫して夫に殺された黒ストッキングのシニャジーニャを加えた5人の女性の造形の見事さについての解説、なるほど…。


ガブリエラがセルタンから稼ぎを求めてイリェウスにやってきたことから、イリェウスにとってのセルタン地方って、石牟礼道子作品での水俣にとっての天草地方のような感じなのかなぁと思った。

セルタン(奥地)について調べていて、1年前に出版された三砂ちづる『セルタンとリトラル』(弦書房)という本に興味を惹かれたので注文した。弦書房ってどっかで見覚えあるな……と思って、届いた本の後ろのほうを眺めていたら、渡辺京二による石牟礼道子論『もうひとつのこの世』などを出版しているところだった!(九州/福岡の出版社) それだけでなく、この著者の三砂さんも渡辺京二と親交があり、共著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』という本まで出している! そういえば、たしかに渡辺京二『私の世界文学案内』にて、まさにローザ『大いなる奥地』を紹介していたことを思い出した。
すべてが繋がっていく…… ブラジル、ジョルジェ・アマード、水俣石牟礼道子渡辺京二…… やっぱり上で石牟礼作品を連想したのもあながち間違ってなかったのか!?