『オデュッセイア』ホメロス

 

 

2023/4/17~5/24(計21日)

 


23/4/17月 第1歌

山本直樹『ありがとう』の序盤みたいな設定。父が長らく家を空けているうちに、女を狙って男どもが我が物顔で家を占領し、子供は困り果てている。オデュッセイアが元ネタだったのか。

 

4/18火

中務訳が言うほど読みやすくなかったので、岩波文庫の松平訳の第1歌序盤を少し読んでみた。うーん……文章に限っていえば、これら2つの訳は、現代性も、古めかしさ(格調高さ)もさほど違いがない気がする。ただし、中務訳は注が巻末ではなくすぐ下にあるため参照し易いのは大きな利点である。また、松平訳はふつうの小説のような、改行の少ない散文形式なのに対して、中務訳は叙事詩の韻文形式に近いため、1行ずつ目を進めていきやすいように思う。すなわち、文章というよりも、UI(版組や訳注など)のユーザーフレンドリーさにおいて、新訳に軍配が上がるかな、と言ったところ。

 

 

4/19水 第2歌

求婚者たち厚かまし過ぎる。英雄譚だけど、最終的に倒すべき相手がめちゃくちゃどうしようもない小物たちだというのは意外だ。倒すより帰ることが主眼なのだろうが。

ゼウスやアテネら神々の、人間たちとの距離の近さに驚く。オリュンポス山にいても、常に人間たちのやってることを聞いていて、何かあったら即介入する。神がゲームプレイヤーで、人間たちがゲームキャラクター(NPC?)の、シュミレーションゲームを見ているような気分。あるいは、小説の三人称の語り手(擬似作者)と登場人物の関係に似ている。神話の叙事詩の変容体としての三人称小説……という仮説はどうだろう。議論され尽くしてそう。

 


4/24月 第3歌

訳注に「構文を忘れた」が多い。叙事詩という唄うこと前提の文章だからこその特徴でいい。これと対比する形で、歌唱データがすでに打ち込まれている、「無時間的」な歌としてのボカロ曲、というテーマで何か書けないか。Orangestarの「」に括りがちな詞の特徴と関連付けるとか。

 

4/25火 第4歌
息子視点から父オデュッセウス視点に切り替わった。

 

4/26水 第5歌

 

4/27木 第6歌、第7歌

 

4/28金 第8歌

 

5/1月 第9歌

 

5/2火 第10歌

 

5/3水 早朝 第11歌

 

5/8月 第12歌
前半終了
やっとオデュッセウスのこれまでの漂流遍歴語りが終わった。計5章くらいほぼずっと語ってたぞ。
これでようやく物語が現在時制に戻り、ここからおうちに帰るまで、未知の開けた旅路が広がっている。
さて後半だ!

 

 

5/9火 第13歌
えっ、もうイタケに着いちゃったの!? あと半分なにするんだ…
と、思ったらアテナがオデュッセウス襤褸を纏わせて老人の姿に変装させ、身バレしないようにさせた。
オデュッセウスは自身の召使いである豚飼いに招かれて、嘘の遍歴譚を語り始めた。フィクションの紡ぎ手としてのオデュッセウスか。

 

5/10水 第14歌

 

5/11木 第15歌

 

5/15月 第16歌
遂にオデュッセウスと息子テレマコスが邂逅・再会して抱き合った。あとはチンピラどもをぶっ殺すだけや
てか求婚者たち、十数人どころか数百人もいるの!? オデュッセウスの屋敷どんだけデカいねん

 


5/16火 第17歌

オデュッセウスが身をやつしていても愛犬だけはすぐにご主人様だと気付いてかけよろうとするが、身体がもうボロボロで動けないの泣ける。そのあと無事に20年ぶりに再会を果たした直後に、思い残すことがなくなったかのように死ぬ……いちばん感動した。
チンピラどもをぶっ倒すスカッとジャパン展開が刻々と近づいている。何百人もいるのはスカッと倒すのに都合が悪いからなのか、特に性悪なリーダー格のアンティノオスとかいう奴をメインで立てていくのはエンタメとして正しい。
にしても、ほんと、俺TUEEE系の元祖というか、ここ数年なろうで流行ってる追放モノ・復讐モノの源流はこれだよなぁと思う。

 

5/17水 第18歌
妻ペネロペイアと変装してるオデュッセウスが再会したが、まだ気付いてない。

 

5/18木 第19歌
妻には気付かれないが、乳母?には脚を洗うときに気付かれる。足の傷跡が目印。気付くときのたらい桶の水と瞳の涙の描写がここだけ近代小説っぽい。

 

5/19金 第20歌、第21歌
牛飼と山羊飼には自ら正体をバラす。
求婚者どもの前で弓で並んだ斧の孔を射抜く。
いよいよクライマックスか。

 

5/23水

第22歌
求婚者たちを無慈悲にぶっ殺しまくるオデュッセウス

 

第23歌
ようやく妻ペネロペイアに正体を明かして再会する。すぐに抱き付かずに疑ってかかる焦らしプレイ

 

第24歌
また冥界での話が。
オデュッセウスの「帰郷」の締めくくりは、妻じゃなくて父ラエルテスだったか・・・。そして息子テレマコス、自分、父の男系三代がそろい踏みしての戦いで〆。どこまでも父権性の話だったなぁ。
というか、あれだけ無慈悲に求婚者たちを虐殺しておいて、殺し終わったら「有望な若者たちをこんなに殺しちゃったらイタケ中の民から復讐されね?」と冷静に反動を予期するのウケる。そして実際にそうなるし。(ただしけっきょく最後までアテナに助けられてあっさり勝利&和解)

 

 

おわり!!!

やっぱ女神パッラス・アテナが主人公のお話だったな。アテナがゲームプレイヤー、オデュッセウスたちはプレイヤーに直接・間接的に操作されて動く、プレイアブルキャラクターとNPCの中間みたいな存在。そういう、女神が実質主人公の物語を人間である詩人が語っている、というメタな枠組みまで考慮しても面白いし、その詩人だって、最初にあるように、詩の神からの叡智を授けられ、半ば憑依されたようにして吟じているのだから、さて何重の神-人間のミルフィーユだろう。

紀元前のはなしということで、紀元前の生粋のミソジニーが随所に見られてなかなか凄かった。「女性の客体化・モノ化」どころのはなしではない、そもそもはじめから女なんて非-人間のモノに過ぎない、というレベルなので一周回ってテンション上がる。憎しみがすごい。妻の求婚者たちと寝た碑女(はしため)たちを全員絞首刑にする……とかも可哀想だけど、当の妻ペネロペイアに対しても、夫オデュッセウスは愛ゆえにずっと信じているのかと思いきや、「女なんてどうせ……」みたいなところがある。(息子テレマコスも母に対してそんな節がある) 人間(の男)だけじゃなく神々からしてそういう価値観・世界観。ただ、この生粋のミソジニーを踏まえた上で、この物語の仕掛け人でありオデュッセウスの庇護者・救済者であり実質主人公であるのが女神アテナである、というのを考えるとなかなか興味深い。人間の女性と女神は全く異なるということか? それとも、アテナさえも、「都合よく自分を助けてくれる」存在としてミソジニーの枠組みのなかで理解できるのか? 

神と人間の関係・距離感がいちばん興味深かった。キリスト教以前の作品だが、神への信仰がキリスト教っぽい道徳律(驕るな、常に信心深く謙虚でいろ。祈祷と奉納を怠るな)として機能していて、むしろこっちが元ネタなのか?とすら思うほど。というか人類の普遍的な道徳律・信仰形態なのだろうけど。

そもそも、『オデュッセイア』がギリシャ神話のメジャーどころのひとつ、であるというのも知らなかった。ギリシャ神話を元ネタにした二次創作的なものかと思ってた。でも、そもそも神話には一次創作も二次創作もないんだね。

あと、オデュッセウスはいちおう神ではなくて「死すべき者」人間なのだろうけれど、人間のなかではいちばん神に近いすごい存在として描かれるし、あと祖先の系譜を辿っていくと神の子孫とも呼べる…的な言及があった気もするし、そもそもすべての人間は父なるゼウスの子だしで、この意味でも人間と神の境界線があいまい。たほうで、アテナやゼウスといった神の介入シーンでは、その境界線を明確にするようなトーンも数多くある。両義的。

また、オデュッセウスが自分の正体を隠して別人になりきって「嘘」の来歴・冒険譚を語るシーンが幾度もあるのが意外だった。漂流者・英雄としてのオデュッセウスではなく、創作者・虚構の紡ぎ手としてのオデュッセウス。人類史上でももっとも代表的な「物語」が、このような、物語内物語に満ち満ちたものであるということ、そしてそれらの半分近くはそもそも「嘘」のものであるということ、これらの事実には深く感じ入らざるをえない。

訳者解説の、叙事詩としてのリズムの型のくだり面白い。そんなにガチガチに決められていたんだなぁ。だからこそ即興詩として成立する、という理論もおもしろい。

 

九歌から十二歌で語られるオデュッセウスの海洋冒険はいずれも昔話や船乗りの驚異譚から採られたもので、そのまま現実世界で語られたなら全くの虚誕となろうが、詩人の工夫は、これがパイアケス人相手に語られることにしたところにある。パイアケス人の国スケリアは島か大陸か明確にされないが、いずれにせよ再訪することの叶わぬ桃源郷である。(中略) オデュッセウスの冒険譚は昔話の住人(パイアケス人)に向けて語られるという工夫のお蔭で、英雄叙事詩にそぐわぬおとぎ話という印象を薄めている。 p.735

へぇ~~~おもしろい

ファンタジックなおとぎ話が、おとぎ話の住人によって語られることで逆説的にある種のリアリティを獲得しているってことよな。そもパイアケス人の国がそんな桃源郷だったという理解もできていなかった。

物語の「語り手」の属性・位相によって、語られる物語の属性・位相も変わる……という定式は当たり前だが、ここでは物語の「聞き手」=「語られ手」の属性・位相によって語られる物語の位置付けが変わり得るという主張をしていて、すごく興味深い。そうだよな、語られ手の存在・問題って物語文学にとってクリティカルに重要なんだよな……

てか、じぶんにとっては英雄叙事詩だっておとぎ話くらいファンタジックで寓話的な物語だよ、という無粋なツッコミをしたくはなる。。