『ドン・キホーテ 前篇』(1)セルバンテス

 

 

 

岩波文庫の『ドン・キホーテ 前篇』第1巻を読んだ。序文と第1部〜第3部が収録されている。

 

 

 

 

京都文フリへ行く阪急電車のなかで読み始めた。
まだ序文の途中だが、訳注によると「序文の書き方について書いた序文」とのことで、当時の他の作家たちへの皮肉・風刺で構成されている。嫉妬と虚栄心という主題は、SNS全盛期たる現代でも通用するどころかますます切迫している。数百年前に書かれた小説とは思えない、と紋切り型を言うべきか、人間なんて根本の愚かさはずっと変わっていないことの表れだとシニカルに受け止めるべきか。


「序文」読み終えた。実在する騎士道物語の主人公たちから、今からカタランとする騎士道物語の主人公ドン・キホーテへのソネット(14行詩)を羅列するくだりとか、かなり前衛的なことをやっている・・・。

 

・第一部

第1章〜第4章まで読んだ(〜p.100)
ドン・キホーテの出発から安宿での騎士叙任式、雇い主に鞭打たれる少年の救助(してない)、そして商人たちに返り討ちにされるまで。

おもろい。文章が古風で読みづらいかと心配したが、そうでもなく、普通に読みやすい。
ドン・キホーテがめっちゃ良いキャラ。やっぱり狂ったキャラクターが主人公の小説が最強なんだよな、と思わせられる。

馬鹿げた振る舞いを淡々と語るユーモア小説。旅先で出会う人々が彼を狂人だと察してそれぞれに対応しようとするのもおもろい。てか50歳の老人というのがまたエグい。現代と中世では年齢の価値観も異なるだろうけど、それにしたってヨボヨボの爺さんが息巻いて栄光の騎士だと自称しているところに遭遇したらドン引きするわ。

騎士道物語を読みすぎて、自分も騎士だと思い込み、彼らが辿った道筋を追走したくなり、装備を整える。聖地巡礼やコスプレを熱心に行うオタクに近い。「自ジャンル」が騎士道物語のおっさん。どうしても、こうしたオタク的な観点で読んでしまう。現実とフィクションの関係をどう捉えるのか。

自分の置かれた状況に似ている、これまで読んだ物語の1シーンをすぐさま思い出して、その虚構に自ら入り込む。(局所座標系を張り合わせて多様体をつくるみたいな)
入り込んだことさえ意識しない。厨二病レベル100みたいな筋金入りのオタク。一度も我に返らなければ、狂気も平気になる。

 

おお、この稀代なるわが伝記の作者たる運命をになう賢明な魔法使いよ、そなたが誰であろうと、拙者はそなたにお頼み申す。 p.57

ドン・キホーテは自分が後世に物語化されることを意識している。騎士道物語というフィクションを現実と思い込み、それを模倣=現実化することで、自らがフィクションとなることを疑いもしないという逆説。現実↔虚構 の転倒あるいは相互作用

 

第6章おもろい。ドン・キホーテの蔵書を友人の司祭が焼却処分するか否か選り分ける。司祭もめっちゃ本に詳しくて草

高評価が下されている本は読みたくなる。『ティランテ・エル・ブランコ』って『ティラン・ロ・ブラン』か! 岩波文庫で最近出たやつ!
最後にはセルバンテスのデビュー作『ラ・ガラテーア』まで出てきてやりたい放題

 

第7章

サンチョ・パンサ出てきた! 同じ村の住人かよ・・・しかも妻子持ちの貧乏なおっさん!!
口約束に乗せられてドン・キホーテに付いていくなんて、サンチョのほうがヤバくないか?? 「ちょっとばかり脳みその足りない」どころじゃないだろ

 

第8章

いちばん有名な「風車に突撃」のシーンだ! 意外と最初のほうなんだな

1回突撃して跳ね返されただけで諦めた。思ってたよりあっさり終わった。

サンチョもめちゃくちゃマイペースというか、変わったやつだなぁ。主人の現実認識がおかしいことは指摘するものの、何やかんやでなぁなぁに受け入れているようだ。ある意味で世渡り上手とも言える。

ビスカヤ人との決闘。ドン・キホーテ、50歳のお爺ちゃんなのに結構腕っぷしは強いんだよな・・・

道を歩いていたら突然槍で襲われるなんて、通り魔でしかないけど。その狂った頭でもなんとか死なずにやっていける程度には「騎士」としての力がある。

 

第一部おわり!!(〜p.160)
ええ・・・そんな「続きはCMのあとで!」みたいな次の部への移り方ある!?
なぜここで部を区切ったし

 


・第二部

第9章〜第11章(〜p.200)

ここで、セルバンテスが自身を『ドン・キホーテ』の「第二の作者」に規定し、もとはアラビア語で書かれた原典をスペイン語に翻訳して編集したもの(p.12の注)だという設定を生かしてきた。つまり、ビスカヤ人との決闘のめっちゃ良いところで話が終わり、続きが欠落していることを認められず、「わたし」=セルバンテスがトレードのアルカナ商店街で、運命的にも、続きが書かれたアラビア語のノートを発見し、モーロ人に翻訳してもらったいきさつが語られている。

現代の小説からすれば、作者が話の続きを探す様子まで小説のなかに織り込まれるなんて、かなりメタフィクショナルで前衛的な仕掛けに思えるが、重要なのは、自身を「第二の作者」と規定して、「第一の作者」として架空の作者を設定する手法は、むしろ当時の騎士道物語においては頻繁に用いられていた、という点だ。つまり、「騎士道物語のパロディ」であることは『ドン・キホーテ』独自の趣向であるが、それ以外の諸々は、何も前衛性や実験性を志向してはおらず、パロディとして忠実に当時のスタンダードに従った結果である。それが、四百年後の我々からすれば、かなりヘンテコでアクロバティックに思えるというだけ。

そもそも「前衛」とか「実験」といったものは、その補集合たるスタンダードが確立されていなければもとよりそれを目指すことはできないわけで、今の我々の思う「小説」の在り方と、当時の「小説」(とも呼ばれていなかった)の共通認識がかけ離れているために起こる認識の齟齬であろう。

また、こうしてドン・キホーテの遍歴を記したアラビア語原典を見つけたというエピソードによって、ドン・キホーテが実在の人物であるという「嘘」を読者に巧みに信じさせようとしている。仮に機知に富んだ読者がこの記述をそのまま信じたとしたら、彼こそ、フィクションを現実だと思い込むドン・キホーテである。つまり、本書は明らかに、読者をドン・キホーテ側に引きずり込もうとする身ぶり=パフォーマンスが通底している。そして、なにも本作に限らず、あらゆる小説の読者はドン・キホーテ的態度を持たなければ読者たり得ない。すなわち、『ドン・キホーテ』は「良い読者(=フィクションの良き消費者=オタク)」像についてのフィクションでもある。


第10章の表題が内容と合致しないのも面白い。昔の小説にありがちな、内容の要約を章題とすることによってネタバレをかましていくやつを逆手に取っている感。「第二の作者」の手に渡るまでの編纂過程、『ドン・キホーテ』が辿ってきた歴史の奥行きをも感じさせるギミックで上手い。

 

第11章。羊飼いの皆さんご飯おすそ分けして歓待してくれて優しい。ドン・キホーテがこんなにヤバくても旅ができるのは、何やかんやで旅先の出会いに恵まれてるからだよな。そこはフィクション的な都合の良さともいえるが、たしかに狂人に相対したら誰でも優しくするのが最適解かもしれない。

「黄金時代」を懐古する。典型的な「昔は良かった」論だけど、あなたその頃から生きてるの? 騎士道物語で描かれた年代だから、あたかも自分も経験したかのように思い込んでるということかな。

どうでもいいけど、ふと調べてみたら、セルバンテスシェイクスピアの没年が同じ(1616年)だと初めて知った・・・(日付も同じ4月23日だけど暦が違うから正確には違う日らしい)

ドン・キホーテ(前篇)』が発表された1605年には、『リア王』も書かれている。『オセロー』は前年の1604年。『マクベス』は1606年。

へ〜〜〜 なんとなくシェイクスピアは1700年代かと思ってた。めちゃくちゃ同時期だとは・・・。これはシェイクスピアも一緒に読むチャンスでは?

 

第12章。絶世の美女マルセーラに惚れて焦がれ死に?した学士グリソストモの話

「さあ、先を続けてもらいたい。とても面白い話だし、それに友のペドロよ、そなたの話しぶりがまたなかなか興趣(グラシア)に富んでいるのでな。」 p.208

ドン・キホーテが褒める通り、村人ペドロ、マジで話が上手すぎる。大げさな比喩が心地よくグルーヴとなってスラスラと淀みなく読めてしまう語り口

マルセーラの後見人の司祭さん、「親が子の意に反して身を固めさせるのはよくない」って当時としてはかなりリベラルな持論を持ってるなぁ。

 


第二部おわり!(〜p.256)

第13章での、旅人とドン・キホーテの議論は、フィクションの「お決まり」にツッコミを入れる側と擁護する側の一種のディベートとして面白い。

さらに言えば、遍歴の騎士のすべてに、おのれの加護を祈るべき思い姫がいたとは信じられませんね。だって、皆がみな必ずしも恋をしているわけではないでしょうから。 p.223

(今思うに、これは次の章でのマルセーラの主張にも繋がるな)
スーパー戦隊でのリーダーが必ずレッドであることにツッコミを入れているような感じ。(最近は違うらしいけど)

ドン・キホーテの反論がけっこう苦し紛れでごまかしごまかしやってるのも笑える。
にしても、わりとみんな騎士道物語をちゃんと読んでるんだな・・・当時それだけ人気を博していたってことか。

 

第14章、グリソストモの《絶望の歌》はなかなか読みづらいし割と長いしで大変だったが、なんとなく意味は伝わってきた。要するに、自分を振った女への逆恨みと格好つけが入り混じった歌ってことよね。ところどころでカッコいい箇所はあった。

しかし、その後に登場したマルセーラの語りが痛快すぎてびびった。ルッキズムとかアロマンティックとかウーマンリブ的な観点でもかなり良い。なんでこんなにリベラルなんだ

わたしは自由な性格に生まれついていますから、人に従属することを望みません。わたしは誰をも愛しませんが、そのかわり人を憎むこともありません。 p252

さらに言えば、今のわたしにそなわっているこの美しさは、別にわたしが選んだものではないんです。つまり、わたしが望んだわけでもお願いしたわけでもないのに、神様が無償でこのような美しさをお与えくださったのだ、ということをご理解ください。 p.248

マルセーラの信念が素晴らしいのは、自分が美しいことをまったく謙遜もごまかしもしないところだ。なぜなら、自分の美しさは神に与えられたものであって、自分が選んで勝ち取ったものではないと認識しているから。自慢できるのは自らの意志で選び取ったものだけ、という極めて高潔な自律心を持っている。

ルッキズム的に恵まれている者であっても、その構造によって抑圧されていることを主張し、それを越えていこうと高らかに宣言する。
そうやって、自分の思想を理路整然とわかりやすく長広舌でスピーチできるのもすごい。

 

・第三部

第15章〜第17章(〜p.313)

第16章の、旅籠の屋根裏部屋での女中の夜這い→大勢でのもみくちゃの殴り合いのシーンがめっちゃ好き。互いに相手を誤認したまま抱き合うのは『ヴァインランド』を思い出したし、その後の真っ暗な中での敵味方入り乱れてのカオスなドタバタ劇はそれこそピンチョンっぽい。マンガだったらモクモク煙から星が飛び出てくるあれ

宿代を払わずに去ろうとしたドン・キホーテに宿の主人が「うちは城じゃなくて旅宿です」と言ったのをわりとすんなり聞き入れたのは意外。

どうやら、拙者は今まで思い違いをしていたようじゃ」 p.305

普通に支払わずに逃げたのは笑った。

ところで「騎士」というのが当時実際にどのような存在だったのかイマイチわからん。騎士道物語のフィクション中にのみ存在するファンタジーな役職ではなくて、実在したんだよね?

 

ドン・キホーテがここで主張するように「騎士は旅先でいっさい宿代などを払わない」というのが、実在の騎士の習慣なのか、それとも彼の愛読する騎士道物語の中の決まりなのかがわからない。フィクションのキャラクター・ヒーローがいちいち費用を支払っていたら格好がつかないので省略されているのかな。「アニメの美少女キャラクターはトイレに行かない」みたいに。


第18章〜第19章

羊の群れの衝突を合戦だとおもって、その場の妄想で各陣営の騎士をことこまかに説明するくだりすごい。風車突撃とかよりよっぽど派手だしドン・キホーテらしさが出ている。

ドン・キホーテ、50過ぎのおじさんなのに単純にフィジカルというか耐久が強いの草
歯をほとんど折られ、肋骨も折られているのにちょっと嘆くくらいで、また平然と通り魔に勤しむ・・・いやこれメンタルの問題か?


第20章

ドン・キホーテの仰々しい名乗り口上、サンシャイン池崎を思い出す。(彼の参照元の源流に「騎士」があるということだろう)

くり返すが、拙者こそかの円卓の騎士たち、フランスの十二英傑、そして令名高き九勇士をよみがえらせるべき人間であり、さらに、プラティール、タブランテ、オリバンテ、ティランテ、フェーボ、ペリアニスらをはじめとする、過ぎし時代にその名を馳せた一群の遍歴の騎士たちがなしとげた赫々たる事績の輝きを曇らせるがごとき、偉大にして稀有なる武勲をこの鉄の世に打ち立て、そうすることによって、かの騎士たちを忘却の淵に追いやるべき人間なのじゃ。 p.356

この辺の口上を、このあと不気味な音の正体が分かって拍子抜けしたあとで、サンチョ・パンサが真似して主人をいじるのも面白い。サンチョがまたなかなかに強かというか、ドン・キホーテを煽ったり、皮肉ったりする発言が増えてきている。しかし、性根が腐っておらず、主人に懐いてきたからこその変容であるともわかるので微笑ましい。まぁドン・キホーテに「お前もうちょい私を敬って口を慎んでくれ」と注意されるけどw (それに表面上はあっさり従うふりをしているが、内心はどうなのかわからない。相変わらず主にばれないように煽ってるし)

 

怪しい音が鳴り響く森で一夜を過ごすにあたって、暇つぶしにサンチョがドン・キホーテに物語るくだりが面白い。

いいですかい、旦那様、この漁師が渡していく山羊の数をちゃんと数えておいてくださいましよ。たった一頭でも数え間違えると、その場でこの話がおしまいになっちまって、あとを続けることができなくなるからね。 p.368

これで実際にドン・キホーテが山羊の数を答えられず、その場でサンチョの話は終わる。
「普通」の人にとっては話の本質に関わらないからと省略するようなところまで、一頭ずつ数えなければ気が済まないさまはASDっぽさもある。しかし、答えられなかった瞬間に、サンチョの頭から「これから喋ろうと思っていたことがそっくり消えちまった」というのは面白い。こんな独創的なアイデアを「暇つぶし」の一挿話に充ててしまうってのがまた風格を感じる。

サンチョ、馬にまたがるドン・キホーテにピタッとくっつきながら便意を催してそのまま致すのやべえな

ドン・キホーテもまたサンチョを見やったが、従士のほうは両方の頬を大きくふくらませ、口のなかを笑いで一杯にしていた。つまり、すぐにも吹き出したいといった様子だったので、サンチョのそんな顔を見ると、恥じ入り、しょげかえっていた主人も、思わず笑い出さずにはいられなかったのである。こうして主人のほうが先に笑い出したものだから、サンチョは文字どおり堰を切ったように、それまで押さえこんでいたものを思い切り発散した。笑う勢いで腹が裂けたりしないようにと、両手で脇腹をおさえていなければならないほどであった。 pp.378-379

ここすき。2人のあいだの雰囲気がよく表現されていて平和
このあとすぐに、いつまでも笑ってるサンチョにムカついたドン・キホーテが従士を槍で殴るところまでおもろい

 

にしても、不気味な音の元凶の「毛織物を縮絨するための六つの大きな木槌」って、無人で動く仕組みなのか? いっさい人の描写がないのがかえって不気味に感じるが、当時からそういうハイテクなものがあったのか
 →次章によると、水車小屋らしい。つまり、水車を動力とした機械(縮絨機)だ。

ところで、ドン・キホーテがこの縮絨機・木槌を、何か別の悪魔やら化け物やらと認識せず、素直にありのままの姿を認めたのは意外だった。不気味な音の正体は木槌なんかじゃない!と言い張りそうなものなのに。だが、それが逆に、彼が意図的に物事を騎士道物語風に誤認しているのではないことの証拠にもなっている。

 

第21章おわり。第3部(および第1巻)完!おなかすいた!

相変わらずの通り魔・強盗。

『ティラン・ロ・ブラン』ってそんなテンプレなお話なのか・・・

サンチョの性格がなかなか掴めない。リアリストの側面もあるが、主人が自分にいつか島をくれると素朴に信じているような「脳味噌の足りない」一面もある。そもそも現実主義者なら妻子を捨ててドン・キホーテについてこない。教養無さげだけど、諺を頻繁に引用してきたりもする。

 

第1巻の感想としては、ふつうに読みやすくて面白かった。

「風車に突撃」が意外と序盤で驚いたが、あれが本作の代名詞として選ばれるのはよくわかる。『ドン・キホーテ』を読んだことのない人に『ドン・キホーテ』をいちばんわかりやすく象徴しているのがあのシーン。しかし、実際に読んでみると、あれ自体はあっさり終わるし、意外と印象に残らない。ドン・キホーテの狂気妄想が炸裂する印象深い章は他にもっとある。でも、未読者向けには、たしかにいちばんキャッチーなシーンではある。

 

 

・続き


 

 

 

 

 

同じ1605年発表作。

 

互いを誤認したままベッドで…