『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ

 

 

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 『笑いと忘却の書』を読もうと思ったきっかけはこのツイート

中期三作のうち唯一未読の本作は、偶然にも少し前に神戸三宮の古本屋で購入して積まれていた。『冗談』冒頭を読みかけの状態なのでやや気後れもするが読み始めた。

 

 


・第一部 失われた手紙

ザ・クンデラって感じ。めちゃくちゃ読みやすいんだよな〜。
政治的・思想的な話も多いのにスラスラ読める。1, 2ページごとに細かく章分けされているのもデカい。アレナスの長篇みたいな感じ

 

クンデラの小説の2大柱は、政治・哲学・文化論のような社会的/公的な要素と、セックスにまみれた男女間のラブロマンスという個人的/私的な要素だ。これらのバランス・混ぜ合わせ方が信じられないほど天才的。


政治の話ばかりでは小説として面白くならないからメロドラマを入れるとか、逆に浅薄な恋愛痴話ばかりでは文学的な重厚さが出ないから政治や思想の議論を盛り込むというように、どちらか一方が道具的に駆り出されているのではない。
両者が互いへと積極的に接近し、飲みこみ飲みこまれ合って「クンデラの小説」としか言いようがない芸術を形作る。

 

第1部を雑にまとめると、かつて革命闘争に燃えながら恋愛関係にあった二人──卑屈さから醜い女に愛情を求めてしまった黒歴史を消したがっている男ミレックと、元彼を裏切って体制側に着いたと思われているが実は彼のことしか頭にない醜いヤンデレ女ズデナの話。


冒頭にある、共産党指導者ゴットワルトの頭に載っている毛皮のトック帽──彼の側近だったが反逆者として写真からも歴史からも抹消されたクレメンティスが彼にあげたもの──というモチーフが、メインの話のさなかにくり返し喚起され、そのたびに深みを増していく。
こうした手法もクンデラの十八番だよなぁ

 

『不滅』で前景化する前の、作者自身が文中に積極的に顔を出して登場人物たちの「設定」や「真相」などについて語る手法も思い切り行使されている。普通に考えて、キャラクターの記号的な解釈を作者自身が作中でペラペラ喋ってしまうのは小説の自律性を損なうだけのはずなんだが、クンデラはそういう次元にない。この辺りをもっと分析して言語化できるようになりたい。

ジェンダー的にはかなり批判を免れない気がする。異性愛中心主義で、女性を典型的に客体化しているように思えるので。

 

 

・第二部 お母さん

ちょっとこれ……40ページほどの小編として完成度が高すぎる。
夫婦の父方の母と、二人の旧友の女性が同時に家に泊まることになる一夜。このまま演劇にできそうなほど「舞台」としてよく出来ている。

クンデラお馴染みの不倫するのに多くの女性にモテ続ける男(夫)カレル
結婚初期に気を抜いていたせいで、夫を糾弾する「上品な」女性という役割に押し込められてしまった妻マルケー
愛人カレルの策略によってマルケータの良き友人にもなった自称ラブハンターの女性エヴァ
昔夫婦と同居していた頃は嫌われていたが今では子供のように情けをかけられているカレルの"お母さん"
お母さんの古い友人で、カレルの幼少期に鮮烈な裸体のイメージを刻み込んだ美女ノラ夫人

 

第一部でクンデラジェンダー論に言及したが、ちょっとそう単純なものではないと思い知らされた。
エヴァは男性が女性を愛するようにしか女性を愛せない、つまり男性的なジェンダーロールを主体的に引き受けている人物で、友情と性欲しか抱かないため恋愛=結婚規範を解体できる位置にいる。
またエヴァマルケータの同性関係は、結婚して夫からの客体化を受けている女性が主体的な性を獲得する可能性の提示としても読める。

 

不倫、3P、おねショタ、レズビアンプレイ……性関係の密度が濃すぎる。
このパートの凄いのは、そうした愛欲関係だけではなく、彼らの「お母さん」が蚊帳の外に置かれずにシーンの展開に大きく関わってくる──ばかりか、お母さん視点の章も多分に挿入され、そこでオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡という戦争体験をも巻き込んで話が進む点である。
お母さんが再びカレル達の部屋に来訪して以降の物語のうねりは信じられないほど完璧に思える。


カレルがノラ夫人を重ねたエヴァを犯すときの「突進」という単語は、第一部で風景を眺めたことがないミレックが目標に向って「突進」するうえで空間を障害物だとみなしている、という文脈でも使用されており、本作のキーワードかもしれない。

 

 

・第三部 天使たち

ここに来てようやくタイトルにある「笑い」が前面に押し出されてきた。
笑いには、天使の笑いと悪魔の笑いの2種類がある。世界の秩序や人生の価値(="重さ", 『不滅』, ニーチェ永劫回帰)を称揚する天使たちに対して、世界の無秩序や人生の無価値さ(=『存在の耐えられない軽さ』)を喧伝する悪魔たち。
どちらに傾倒しすぎてもダメで、両者の釣り合いが取れていることで生きていくことができる。
ただこのパートでは、クンデラ(という登場人物)が迫害を受けた共産主義者を天使に見立てて批判的に描いている向きが強い。


イヨネスコ『犀』も、アニー・ルクレール『女の発言』も読みたくなった。後者は邦訳ないっぽい?

隊列と輪、行進とダンスという露骨な二項対立(の露骨性を自覚的に描く)

天使の笑いを体現する者たちが輪になってワンステップ, ツーステップ……そして地面から浮き上がって空に舞い上がるくだりは馬鹿馬鹿しくて(笑い!)面白いが、2人のアメリカ娘学生とその先生とで再演したのには流石にやり過ぎではと感じた。

笑い、滑稽さ、恥辱……みたいなものが残酷さや痛切さを喚起するのは、フラバル『あまりにも騒がしい孤独』でスキー中に糞を踏んでしまった女性の挿話を思い出した。あれメインの本をプレスして捨てる男の話よりも印象に残ってる

ようやく「私」ことミラン・クンデラなる人物が表に出てきた。
占星術、『不滅』のある章でも出てきた気がする。
クンデラ占星術コーナーの仕事を与えてくれた雑誌編集者Rが何度もトイレに行く描写もフラバル的な意味でとても理解できる。

 

 

・第四部 失われた手紙

あまりにも完璧なヒロイン導入

クンデラの女性キャラあるある
・田舎町のカフェでウェイトレスとして働きがち


第一部と同じ題であるが登場人物は異なる。
ミレックは自分の過去を消すために自ら手紙の持ち主である元カノのもとへ足を運び、タミナは自分の過去を忘れずにいるために亡命前の故郷プラハへと手紙を取りに行ってくれる人を必死で探した。もちろん両者とも手紙を手にすることはできない。

タミナを所有したがるユゴーは男性性に囚われたキモい男らしさがよく描かれていた。
口臭が不快な彼に一度体を明け渡したことで嘔吐したタミナの口も刺激臭にまみれるオチは、駝鳥の前で金の指輪を含んだ口を堅く閉じている夢ともキレイに連関しており──キレイ過ぎて辟易もするが──すごいと思った。

本も読まないのにある日とつぜん小説を書きたいと言い出すビビの馬鹿っぽさ、彼女に作家たることを指南しようとするヘボ作家バナカなど、やけに戯画的なキャラがたくさん出てきたが、それは過去しか見ていないタミナの冷ややかな眼を通しているがゆえだとも読める。

 

 

・第五部 リートスト

それが生の本質に迫るにも関わらず他の言語には存在しないチェコ語特有の単語「リートスト」だが、「惨めさ」や「屈辱感」のような概念だと読んだ。

リートストの例として語られる、典型的スノッブの男子大学生と田舎の肉屋の夫人クリスティナの逢瀬
プラハで開かれる大詩人たち(ゲーテレールモントフ、ペトラルカ、ヴォルテールなど実在の作家の名前を拝借している)の会合はなかなかバカバカしいというか、ドストエフスキー的な弁舌バトルの饗宴だった。

このパートはこれまでと異なり、細かな章ごとに単なるナンバリングではなく章題が添えられている。

 

・第六部 天使たち

第四部の主人公タミナ(西ヨーロッパの小都市のカフェでウェイトレスをしていた女性)の子供たちだけの島への旅と、「私」の父との記憶と音楽をめぐる回想が中心となる。

子供の島でのタミナの話はよく出来たホラーのようで薄ら寒く恐ろしかった。子供の無垢な恐ろしさはシャーリー・ジャクスンや『蝿の王』を思い出した。

 

 

・第七部 境界

「境界」というモチーフは第六部でタミナが囚われる観念を字面だけ引き継いでいるが、これまでの部をまたいで共通する単語と同様に、その内実は大きく異なっている。

 

やがてアメリカに渡ることになるヤンとその愛人エドヴィッジの言葉のない性行為、楽観的で大病を患っていた親友パセールの葬式、ヤンが趣くバルバラの乱交パーティ会場の描写など。
通底するテーマは、性や厳粛な場での笑い・滑稽さ。行為前の脱衣や人の葬式やユダヤホロコーストなど、厳粛で、そこで笑ってしまったら不謹慎、全てが台無しになるところに見出される笑いこそが「境界の向こう側」であり、官能が排された、ダフニスとクロエにとっての裸体ではないのか、という論。
『ダフニスとクロエの物語』は該当部分だけでも読んでみたい。

 

クンデラはかなり異常な性的嗜好を登場させることを好むよなぁ。舞台演出家が女性歌手にのみ全裸で練習をさせ、更に直腸に鉛筆をツッコんで姿勢を正確に把握するとかエゲツねえ……
そして、その異常性癖から、性の根源、人間存在の本質的な滑稽さみたいなものを取り出して論を展開することが多い。

 

それから、物事が意味を為せる最大の反復回数が「境界」であり、それを越えると何をしても笑いになってしまう、というくだり、お笑い芸人のネタで絶対に当てはまるやつありそうだが思いつかない……
天丼というか、それ単体では下らないのに、何度も何度も繰り返されるうちに、ある臨界点を越えると爆発的な笑いへと変質するような現象

 

最後の部まで、これまでとは異なる新しい登場人物のみの話が繰り広げられた。あまり締めの段という雰囲気はせず唐突に終わった。これは『不滅』で語られる、小説は結末に向かって単線的に進むものではない("終わりよければ全てよし" ではない)という考えの体現にも思える。


唯一、ヤンが(小説で語られる話のあとに)アメリカという新大陸へ渡って成功を収めることが明言されている点には、若干の意外性とともに幕切れの雰囲気を感じる。(黒い烏の生息域の変遷という裏ヨーロッパ史然り)チェコスロバキア、ロシア、フランスといったヨーロッパのみが言及されていた本書において「アメリカ」という固有名はなかなか斬新な響きをもっていたし、まさか出てくるとは思っていなかった。

 

 

 

 ー読了ー

第二部「お母さん」がいちばん面白かった。そこで登場した人物がそれっきりだったのが残念。後半の3部ほどはちょっと微妙というか読んでいてダレてしまった。文章は上手いとはいえ、ずっと通用するものでもないのだなぁという発見

部ごとに律儀に独立した人物たちとテーマで話を作ったことの功罪なのかな。もちろん作中で語られる「変奏曲」の形式を採っているのはわかるが、同じ変奏曲形式でも『存軽』『不滅』は章をまたいである程度共通のキャラクターの物語で構成されていただけに、本作のような独立した連作短篇形式だと長篇としてのリーダビリティ、魅力が落ちてしまう。
本作の醍醐味は、部をまたいでの「笑い」「忘却」「天使」「境界」といったテーマの重層的な変奏を解きほぐし分析し、どのように厳密に構成されているかを味わうことだとは思うのだが、今の自分はそこまでするモチベがない。


とはいえ、そこらへんの小説よりはよほど面白かった。1週間足らずで読んでしまったのも自分としては破格の速さで、それだけクンデラが面白く、自分好みであったということの証左だ。
作品の著者を名乗る「私」が登場してくる中期3部作の形式はとても魅力的だが、それ意外の、普通の小説の語りも気になるのでやはり『冗談』を読みたい。また、本当の短篇はどんな読み味だろうかということも気になるので、短篇集『微笑みを誘う愛の物語』あたりも読んでみたい。

 

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めちゃくちゃ付箋を貼ってしまったので、かえって引用のために入力するのが面倒くさくなった。これを見ればどれだけ私が本書を楽しんだかわかってもらえると思います。

 

 

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

 

 文庫版も出てるんだ。