『同時代ゲーム』(1)大江健三郎

 

 


自分が激推ししている無料同人ノベルゲーム『みすずの国』をやってくれた友人に、「これが好きなら『同時代ゲーム』を読んだほうがいい」と言われたのですぐに図書館へ向かった。

講談社の『大江健三郎全小説8』(2019年)に収録されていた。『M/Tと森のフシギの物語』が併録。執筆/発表は本作のほうが早いはずだが、なぜか後に回されている。

(途中から、購入した新潮文庫版に切り替えた)

 

第一部(〜p.109)まで読んだのでメモを投稿する。

 

 

・第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって

たしかに文章がわりと読みづらい。一文が長いし、わざと持って回ったような面倒くさい言い回しをしている。

「カラー・スライド」って何? 妹の恥毛そのものではないってこと?

インディオの妻と暮らす亡命ドイツ人アルフレート・ミュンツアーが出会ったという、マリナルコの土地を買い上げて一族で引っ越そうと企む「日本人の団体客の添乗員」って、「僕」の村=国家=小宇宙の人?まったく関係ない人?

「僕」自身なのであれば、「『僕』と出会ったことをミュンツアーが『僕』に話したことで『僕』は妹へと村=国家=小宇宙の歴史を綴った手紙を出そうと思い立った」ということで、時系列・因果関係が円環的におかしなことになっているが、そういうアレなのか??ようわからん。でも

僕は村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く者にすぎず、ジェット・ツアーの添乗員を借りの仕事に、われわれの土地の外で生きている、僕と故郷を同じくする人間の、新天地スカウトの役割自体、僕が割り込んでいい筋合いのものではありえない。 pp.210-211

ここを読むに、どうやら添乗員は「僕と同じ故郷の違う人間」らしい。

 

1-1おわり

メキシコで歴史研究の大学教員を務める「僕」が故郷の共同体(村=国家=小宇宙)と、現地のインディオたちの歴史を重ねて見ているっぽいのだけれど、これがちょっと欺瞞的な気がする。四国の架空の共同体の歴史をこれから物語ろうとする上で、国外の実在する共同体への言及から始めることで話のスケールと価値を大きく見せようとしている感があってうーん……
そういうのに頼らなければダメなほど物語の強度に自信がないのかと思ってしまうし、何より実在するインディオの共同体・歴史を都合よく利用していて暴力的だ。

 

1-1の最後で、マリナルコへの新しい根拠地建設のための「祭り」を1人で始めようとした僕は、海を隔てた遠い故郷から「制止の声」を聞いて反省する。これと同じく、上で苦言を呈した主人公の問題点についてもあとで批判的に展開されるのだろうか。しかし、本作は全編が書簡体形式の小説であって、書き出しの時点ですでに「全て」は終わっているため、手紙の書き手=語り手が「反省」する機会はあり得るのか?

 

あと、これは散々に言われているだろうけれど、ジェンダー的に色々と問題のある設定が続いている。名を分けた双子のうち、男である僕は共同体の歴史を紡ぐ「書き手」としての使命を背負わされ、いっぽう女性である妹は「壊す人」の巫女になっているらしい。この手紙に返事はなく、女性から声が奪われている、典型的なよろしくない状況である。他にも色々と保守的な父権性を構造的に組み込んでおり、かつ細かな描写においてもそれが反映されている。本作をわかりやすくリライトした『M/Tと森のフシギの物語』は女性に焦点が当たっているらしいが、そうした後出しの試みの存在自体が、本作の欠点をより証拠立てるように思われる。

 

1-2よんだ

語りのなかでふと別の回想/挿話へと飛び移っていく感じはピンチョンっぽい
学生時代の話はグッと読みやすくなった。都会のマンション/アパートの自室に自作の爆弾を大量に収蔵する青年、というのは新井英樹ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い出す。

 


新潮文庫版で読むことにした

5章から8章まで読んで「第一の手紙」おわり(110/600p)

回りくどい言い回しの文体は、冗長性を目指した冗長さというか、冗長さが自己目的的で、それによって何か別の魅力が付与されているとは思えず不信感を抱きながら読んでいたが、50ページくらいから慣れてきて段々気にならなくなった。正直今でもこの文体に特に魅力は感じないが、嫌悪感を覚えることもなくなった。

メキシコ原住民と、村=国家=小宇宙の第三の種族とを、ともに「迫害されてきた原住民」として繋げている。ここらへんの要素の出し方がかなり露骨でなんだかなぁと思う。

 

基本的に、手紙を書いている現在時制でのメキシコでの話(ゼミの女学生と寝たり、闘牛場の狂乱を眺めたり)から、「われわれの土地の神話と歴史」の記憶や夢へと連想を繋げていって回想し、また戻る・・・という形式で進んでいる。記憶について、そして「手紙」という形式から、いくつかの時間のあいだの差異についての話であるだろうと思わされる。

 

旅先で喚起される記憶を物語る手法は『アウステルリッツ』にも似ている。

 

最後の1-8章「第一の手紙のうち、投函前に削除された部分。」は、蝉時雨が降り注ぐ夏の盛りの午後に、双子の妹を強姦するために神社の林へと登っていく……というロケーション/シチュエーションがめっちゃエロゲっぽくて良かった。妹へ見せずに削除しているのも含めてものすごく気持ち悪い

 

村=国家=小宇宙の子供たちが行う「壊す人の遊び」がなかなか興味深い。が、こういう子供の寓話的な遊びというと、サエール『孤児』やドノソ『別荘』なんかも思い出し、要するに文学でそれっぽい深みを出そうとする1つの手法としてありがちだな〜とも思う。

また、人によって、場所によって聞こえ方が変わる地鳴りのような騒音によって、創建者たちの最初の住処と村=国家=小宇宙の階級構造が決定された、というのもなかなか凄い。しかしこれは、権力者が自分たちの既得権益を、(超)自然的な現象によって正当化するためのプロパガンダ=神話であるようにも推量せざるをえない。

 

いまのところまぁまぁ面白い。この回りくどい文体にも慣れてきたし。メキシコ編は海外文学っぽくて馴染みやすくはあったが、はやく日本に帰ってきてほしい。日本編や村=国家=小宇宙編のほうがより面白そうなので。第2部では帰国するっぽい