『真っ白いスカンクたちの館』レイナルド・アレナス

 

レイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(1980年)

 

 

2023/12/4〜12/28(計18日)

 

第一部 プロローグとエピローグ

12/4(月)  〜p.36

文章ヤバい。執拗な繰り返し。意識の流れというか、イメージの本流。ほぼ散文詩。『夜明け前のセレスティーノ』はこれほどではなかった覚えが。明らかにレサマがゲームチェンジャーだろう。主人公フォルトゥナートの一人称かと思ったら別の人物の語りやらが錯綜して(『めくるめく世界』的)、ストーリーはほとんど無い。
字組みも実験的。

でもかなりアレナスの実体験をそのまま入れ込んでもいる。中庭で自転車の輪を棒で回す死神。神に祈るお婆ちゃん、アメリカに行ってしまったお母さん。

これ最後まで読めるかなぁ

 

第二部 不平不満のある者たちが話す

12/5(火) p.36〜

ドルフィーナ好き。「背の高い、痩せた、横柄な少女」。主人公フォルトゥナート(=アレナス)の叔母にあたり、男に貰われず独身のまま歳を重ねたことに自暴自棄になり、風呂場に引きこもって裸で踊る。

 

・最初の苦悩

なぜなら、彼の中では、生じているのはできごとではなく、感じだったからだ。 p.52

まさにこの小説!

自伝に書いてあった幼年期の事柄がほとんどそのまんま描かれている。

 

12/6(水) p.56〜76

フォルトゥナートの幼年期から、いつの間にか祖父の若い頃の話に移っていた。親子3代の年代記、マジでアレナス版のパラディーソじゃん。自伝的小説。

祖父ポーロは中国人たちの共同体で暮らしていたが金を盗み逃げ出して土地を買い、祖母ハシンタと結婚する。男児が欲しかったが4人連続で娘が生まれる。食料品店を営む。娘たちは行き遅れたり夫に捨てられて子供を連れて出戻りしたりしていた。

  • ポーロとハシンタの子供4人
    長女アドルフィーナ 風呂場に閉じこもる
    次女オネリカ フォルトゥナートの母?
    三女セリア 自死してしまうエステルの母
    四女ディグナ モイセスと結婚してティコとアニシアをもうけるが夫に捨てられ出戻りする

 

長女アドルフィーナが風呂で焼身自殺しようとする? フォルトゥナートの現在時制に追いついた?

上に空白を空けているパートと、普通の版組の文章で人称が振り分けられてるのかと思ったが、統一的なルールとかはなさそう。とにかく錯綜している。語り。『めくるめく世界』では真骨頂をどれだけセーブしていたのかが分かる。

 

12/7(木) p.76〜92

夫に捨てられて娘エステルを自殺で亡くし、中庭の大切なアーモンドの木すら家族に切り倒されたセリアの悲痛な叫び。

ドルフィーナもそうだけど、虐げられた女性たちの迫真の語りが素晴らしいな。そこだけは読み易い。性癖なんだろう(自分の)

祖父ポーロのすさまじい家父長制の女性差別描写はラテンアメリカ文学だな〜って感じ。女性たちの語りとのコントラストがエグい。家父長制を内面化した男は自らをも破滅させていくというのが克明に描かれているとも読めるか。

 

13歳の頃のセリアの達観した不安感の描写がすごい。真昼。光。幸福の先に何があるというのだろう。世間並の「幸福」が得られなかったことからくる悔し紛れの言い訳として読むのは嫌だなと思ったけれど、13歳でおそらくまだ結婚しても娘エステルを産んでもいないのでその線は回避された。

こうした、かなり凄い語りのパートが随所に見られ、文章・構成の難解さと拮抗している。

…いや違った! セリアじゃなくてその娘エステルの語りだった。6月に自死する。なるほど13歳でこの先も抑圧された女性の規範的な生を送らなければならないことに絶望して死んだ感じか。もっと詩的に綴られていたけど。

 

今度は祖母ハシンタが育ってきた土地ペロナレスを夫に売られることを嘆いて神様に縋り付くくだり。やっぱり上空けパートが三人称で、通常パートが一人称かな。

 

12/8(金)  p.92〜126

四女ディグナがモイセスと結婚して家を出て暮らし出すが、やがて2人の子供と共に捨てられて実家に返される。

一家が引っ越してきたオルギンの町の描写。棺のような四角形の町。『夜になるまえに』と同じ。

フォルトゥナートは家の隣に建つグアバ菓子工場で働き始めるが、やがて工場は閉鎖する。幼少期に一度だけ父親に会ったエピソードもそのまんま。母オネリカはアメリカで働いて手紙を送ってくる。


12/11(月) p.122〜153

そしてフォルトゥナートは家を出る。少年期、子供時代のおわり。幻想の世界との別れ。「おやすみ」……。

 

・第二の苦悩

「馬」

時系列がよう分からん。前章の続き、家出したあと?
何回目かの、死者たちの生。地獄について、今について、男女2人の対話。戯曲みたいな。

四女ディグナが母ハシンタと神さまを幻視する。

彼女の息子ティコの語りは初。おばあちゃん=ハシンタを引き出しに閉じ込めて、脇の下から神さまを出させようとしている? 意味わからん

ハシンタとポーロ夫妻の愚痴罵倒語りは相変わらず。けだものたちの家。

光をネガティブなものとして位置付けがち?

 

12/12(火) p.153〜

死者たちの生 でのぼくとあたしは、フォルトゥナートとエステル?  違った。ディグナの子供、ティコとアニシアだった。

再びオネリカ(フォルトゥナートの母)がアメリカから送ってくる手紙のことを、今度はアドルフィーナ(オネリカの姉)視点で語る。

 

ストーリーらしきストーリーがいまだない。フォルトゥナートの家族のうわごと、嘆き、罵倒、幻想などをずっとぐるぐるしている。語られる内容や時系列もだいたい同じ。ここも繰り返し。

また、いうほどフォルトゥナートに主人公感はなく、家族それぞれの語りや焦点化で進むため、一家の話、という趣が強い。強いて言えばアドルフィーナがいちばんインパクトも出番もあるような気がする。


12/13(水) p.185〜216

・第三の苦悩

章の冒頭の文章が毎回いちばん抽象的で詩的で難解だと思う。ここは一応フォルトゥナートに焦点化しているのかな。

ん? フォルトゥナート死んだ? エステルと一緒に死者たちの生。時系列がなんもわからん。

裁縫の仕事を受けるアドルフィーナが、注文の多い女性客にブチギレてハサミをふり回す。だからハサミを彼女から奪ったとか言ってたのか。

「ぼくのママ」 オネリカの幼少期の語り。初?


12/14(金) p.217〜236

オネリカが妊娠してフォルトゥナートを産んで第3章が終わる。父親はミハエルっていう男でいいんだよな。

出産するまで家族の誰にも妊娠を気付かれないのわろた。

 

・第四の苦悩

今回の冒頭難解パートは、フォルトゥナートの夢。母とアドルフィーナと一緒に、幼少期に暮らした田舎の家を訪問する夢。

もう幸福な幼少期は終わってしまったんだという哀しみが本作には通底している。

 

12/15(金) p.237〜258

フォルトゥナート結局生きてるのか死んでるのか。家を出ていったのか出ていってないのか。家出した=(家族にとって)死んだ、ということ?

一人称と三人称の同一化。区別がない世界観

フォルトゥナートとエステル、死んだ者同士の生。

祭り(フェリア)での、ディグナとモイセスの出会い。唐突に1ページに1フレーズをデカく書く、そして何事もなかったように続く演出はセレスティーノでも見た。もうこの程度では驚かない。

家族への憎しみで全編が彩られている。何度も同じことが語られ、出口はない、絶望的な家族、けだものたちの生。

 

フォルトゥナートは娼婦ロリンに恋をして、彼女を主人公にした小説をいくつか書く。なんか分かりやすいキャラクターが出てきた!

てか、フォルトゥナートは同性愛者じゃなくて異性愛者なのか? だとしたらそれこそが本作最大の虚構ということになる。検閲のため?

またティコとアニシアの対話篇

 

12/18(月) p.258〜291

老婆と太陽、フォルトゥナートと月

フォルトゥナートは家出をしたのかしてないのか、死んだのか死んでないのか。これらふたつが共に曖昧にされることは、すなわちけだものたちの家=生(世界そのもの)であり、そこからの脱出の不/可能性を浮かび上がらせる。

1957年、バティスタ政権の弾圧と、革命反乱軍の対立が深まる。オルギンの町からも活気が消える。これまでは家族という共同体の絶望的なさまを描いてきたのが、次第に町、社会、国そのものの閉塞感と暴力性へと繋がっていかざるを得ない歴史。

 

フォルトゥナートがアドルフィーナなどいろんな家族の人になっている? 死者の乗り移り、生まれ変わり的な?

そもそもこの5部作の主人公は毎巻の終わりで死に、次巻で復活するのだけれど、それ以前にこの小説の中だけでもだいぶ死んでは生き返っている。

フォルトゥナートが撲殺されて町の角の木に吊るされている? 別人? それを語るアドルフィーナも「アドルフィーナは昨日死んだ女」と言ってるし、ようわからん

鳩がどうこうとずっと言ってたのはディグナか。

ディグナが風呂の屋根の上に乗って自分のトランクから、自分を捨てた夫モイセスの白いブリーフを取り出して嗅ぐようになる。

婆ちゃん、ハシンタが体制の人間に連行された?
→違うわ、ディグナが狂って精神病棟・収容所に入れられたっぽい。


12/19(火) p.292〜311

セシアも死んだの? もうマジで誰が生きてて誰が死んでるのかさっぱり分からん…… ミステリの対極にある。人の生死がどうでもいい、渾然一体と化している。

 

・第五の苦悩

自伝にあった、「父に捨てられた息子が成長して戦争で父を殺す歌を幼少期に覚えさせられた」エピソードがここで出てきた。

12/20(水) p.312〜345

セシアが風呂場の屋根のトランクの中を漁り、娘エステルの遺品、ブラジャーなどを持って狂い踊る。

ディグナに続いてセシアも連行される。

 

フォルトゥナートは男友達ふたりと娼館に行ってロリン(チナ)に抜いてもらうが、なかなかイけない。プレイ中の錯綜する心境が、ハシンタなどさまざまな人物の語りとの混じり合いで表現される。そしていよいよ本当にフォルトゥナートが家出したっぽい描写がされる。「解釈」?と称して、それを残された各人の視点で語る。

 

12/21(木) p.346〜381

フォルトゥナートは離れて暮らすもうひとりの叔母エメリタの元に住んでいた? そこの従妹に求められる。しかし我慢できず結局そこからも逃げ出す。

ドルフィーナはこれが最後のチャンスと、思い切りめかし込んで、外出規制が敷かれる深夜の街中にくり出すが、当然希望は叶わない。

フォルトゥナートは反逆者たちがいるという村ベラスコに着く。しかし武器がないので兵士として使えないと言われる。自伝で読んだ。

 

12/22(金)  p.381〜413

・第三部 上演

12/25(月) p.419〜425

終盤で戯曲形式になるいつものやつ!!!

最終部のエピグラフ?で満を持してタイトル回収

ひとつの「家」についての作品だから、たしかに登場人物的にも舞台空間的にも演劇に合っているのか。

獣と悪魔は別の存在なのか。
いわゆるレーゼドラマというやつ?

 

12/27(水) p.426〜468

「獣」「獣たちのコーラス」は、フォルトゥナートたち任意の人物に成り代わることのできる存在? 古代ギリシャなどの古典的な演劇におけるコーラス(コロス)の役割をよく知らないので分からない。

終盤で演劇形式になるのは、これまでフォルトゥナートが何度も死と生の境界を行ったり来たりして、またアドルフィーナら他の家族に「主人公」のポジションを譲り与え、ある意味では「変身」して成り代わっていた(個人の境界を飛び越えていた)ことを踏まえると、そうした本"小説"の諸特徴を批評的にまとめ上げているようにも思える。演劇とは、役者がキャラクターを「演じる」ことで世界を、物語を創り上げる営みであり、舞台上で実現される生/死は、役者たちのリアルな生死とは必然的な距離を保っている。それゆえの自由さ。

 

ドルフィーナが引きつれる「王子たちのコーラス」はソロモンの『雅歌』を詠む。

ベラスコからオルギンに戻ってきたフォルトゥナートは家からナイフを持ち出して、町角に立っている警備兵を刺してライフルを奪おうとする。

邪悪な子供ふたり、ティコとアニシアが、舞台装置?の縄を使ってフォルトゥナートを首吊りにする。

いまフォルトゥナートは、とても朝早く首を吊ることに夢中になり始めたので、あたしたちは、彼を降ろすために、毎日起きなくちゃならなかった
                             彼ら

p.459

 

戯曲形式が終わり、改行のない三人称地の文パートになる。これがクライマックスだ。
ナイフで警備兵を刺そうとしたフォルトゥナートだが、ふつうに捕まって拷問される。

 

12/28(木) p.468~474

拷問の痛みを他人事としてやり過ごすために、彼は他の家族の人たちに「変身」していた?

……自分はありとあらゆる恐怖の受け手、だからこそそれに最もうまく耐えられる人間だったから、自分はあらゆる人であるためにずうっと前に、自分であることをやめたのだとわかったのは。 p.468

痛みからの現実逃避であり、それは同時に「自分」からの逃避、解放でもある。
この小説の主人公がフォルトゥナートであり、彼だけではなく複数の家族の群像劇でもあったことを最後に回収しているのか。

彼は裏切り者、運び屋、証言することを任された者、より優れた人間だった。行動することができるよう、分裂する。代弁者である彼の仕事は、彼が最大の苦悩に達したとき、彼の姿がかすんだとき、猛烈な火に吹き飛ばされて消えたとき、終わっていった。そして息せききって、もう落ち着いて、嬉しそうに走りながら、彼は暴力や変身の中でだけ自分の動かしがたい真正さを、自分が存在する正当な理由を見つけられそうなことがわかった……。変身は成し遂げられた、彼はそれを実現し、それに耐えることができた。 p.468

「すべてのでっちあげの死が終わる。」

 

 

おわり!!!

これまで読んだアレナスの著作のなかではあんまり刺さらなかったというか、興奮できる箇所が少なくて読み通すのに骨が折れた。もちろんところどころで素晴らしいと心から思える部分はあるし、特に登場人物ではアドルフィーナがとても良かったのだけれど、全体としては、ほとんど同じようなことをずっと繰り返す動きの少ない作品だし、内容も「不平不満」の叫び・嘆きが大半を占めていて陰鬱であり、読んでいてなかなか気分が上がらない。ベルンハルトの罵倒ループとは違う。

暗いトーンなのは、もちろん、アレナスの幼少期を描いた『夜明け前のセレスティーノ』の続編として、幸福で神話的で幻想的な幼少期が失われてしまったあとの青年期を描いているからであり、仕方ない。失われた過去に囚われてどんどんどん底へと堕ちていく陰惨な家族の話。『真っ白いスカンクたちの館』とはいうが、スカンク要素などはほぼ無くて、いうなれば「けだものたちの家」という題が相応しい。セレスティーノを読み返したい。あれはどれだけ「幸福」だったのか。あの時点でかなり陰惨な事柄を含んではいたが、子供の眼にはそう映っていなかっただけなのか。

レサマ・リマ『パラディーソ』出版の数年後の作品であり、アレナスがレサマと知り合って交友を持つようになってから書いた小説なので、かなりその影響下は強い。アレナス版の『パラディーソ』であり、キューバ文学においていかにあの作品が偉大で決定的だったのか、これを読むことでじわじわと了解できた。そして、その前衛性と凄みの点では『パラディーソ』を越えることは到底出来ておらず、下位互換とも言えてしまう。私自身が昨年末に『パラディーソ』を読んだことによる影響がもっとも大きいのは間違いない。レサマを読んでしまっては、アレナスに以前のようには感動できなくなったか。

自伝『夜になるまえに』と続けて読んだこともあり、だいぶ本作は自伝的な側面が強い。ほぼ同じエピソードがたくさんある。小説的自伝と自伝的小説。実質どっちを読んでも同じなのかもしれない。だとしたら小説を、自伝を、両方ともを書く意味はどれほどある??

相変わらず従来の「小説」の枠を飛び出た、前衛的な要素が詰まってはいるのだが、そこらへんはアレナス初心者ではないので、正直もう慣れた。はいはいいつものやつね、という感じで大して感動できなかった。

 

本書を読んでのもっともポジティブな感想・影響は、詩をちゃんと読んでみたくなったこと。ほとんど散文詩のような小説であり、その魅力は小説ではなく詩の形式のほうがより純粋に、色濃く発揮されているような気はしている。アレナスも自分のことを詩人として認識されたがっていたようだし。レサマも小説家よりは詩人が本分だし。


ポリフォニーとモノフォニーの境界をも撹乱しナンセンスにしている小説と言えるかもしれないが、しかし、あんなに切実で切迫したアドルフィーナらの声が最終的にはフォルトゥナートの声であったのだと「回収」されてしまうのは、残念に思われる。
女性の本気の叫びすらも、あとから男性(男子)のものだと明かされてしまう。『星の時』の逆か。

ジェンダーでいえば、セクシュアリティについても気になる。フォルトゥナートは同性愛者ではないのか。友人アビに欲情するシーンが一瞬だけあったような。

 

 

 

 

 

 

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