『パラディーソ』ホセ・レサマ=リマ

 

 

 

鈍器本あるある:読むためにカバーを外すので、その本のイメージカラーが未読者とは正反対

 

1966年発表
全14章
邦訳:2段組・608ページ(本文575ページ)
旦敬介 訳, 国書刊行会

 

 

2022年10月27日(木)夜
Amazonからついに届いた!!! なんだかものすごくこの作品を「読みたい」気分がとまらないので、早速読み始める。
2段組600ページかぁ……今年中には読み終えたいな。『JR』とかよりは小さくて軽いので、ギリ電車内で読めると思う。

 

 


・第1章(pp.3-24)

あらすじ:10月のある夜、ホセ・セミー少年の身体中に発疹が出て苦しみ悶える。両親の留守中、坊っちゃんを任されている女中バルドビーナは必死に発疹を抑えようと様々なことを試みる。結局、発疹は嘘のように引き、少年は一命を取り留める。

この少年の住む駐屯地のセミー家、「隊長のお宅」事情について語られる。母親=リアルタ夫人やその母であり、お菓子作りには一家言あるアウグスタ夫人(〈おばあちゃん〉)のこと。
ある日ムラートの料理人フアン・イスキエルドは料理人としての自尊心の高さと酔っぱらい具合から、仕えているリアルタ夫人に包丁を振り上げてしまう。すぐに夫=大佐に伝えられ、フアンは解雇される。しかし代わりの腕の良い料理人がなかなか見つからない。

大佐の父?祖父?が不定期で開く、一族総出のパーティの挿話。そのパーティから駐屯地に帰ってくると家のすぐ近くでフアン・イスキエルドが泣きながら酔っ払っているのに出くわし、赦してやる。

 

まずは序章を一気に読み終えた!! とにかく難解だという噂から覚悟していたが、今のところ、それほど大変ではない。けっこう自分好みな気がする。これぞラテンアメリカ文学というか。誇張的な人物とエピソード群、まだるっこしくもグルーヴ感のある三人称の語り。

文体の特徴としては、とにかく直喩の修辞が多く、かつ長い。比喩をすべて除いたらページ数の30%くらい削れるんじゃないかってくらい。 「……はまるで〜〜のように見えた。」型の文が頻出する上に、喩えに持ち出してきた「〜〜」をさらに次の文で細かく描写したりもする。これで三人称の地の文なので、けっこう主張が強いというか、この小説のカメラ=語り手たるお前は誰やねん、という疑問が読んでいて沸いてくる。そういう反応込みでウケ狙いの文体にも思える。

口を開けば直喩が出てくるアウグスタ夫人は言った──   p.13下

こことか笑っちゃった。こんなに直接言ってしまうんだ。「口を開けば直喩が出てくる」のは語り手、お前もだろ!!!

アウグスタ夫人(〈おばあちゃん〉)は(おそらく)主人公のホセ・セミー少年の祖母にあたる人物で、すでにキャラが濃くて好き。石牟礼道子『椿の海の記』を読んでいても思ったけど、じぶんは「存在感の強い〈おばあちゃん〉が出てくる物語」に弱い。それはたぶん、実祖母の影響が強いだろう。(祖父2人と母方の祖母はたしか生まれる前に亡くなっていて、じぶんにとって〈おばあちゃん〉といえば母方の祖母だけである。小学校入学時に実家に引っ越して以来、おばあちゃんと一緒に生活してきたので、自分の人間観・世界観の形成に彼女は多大な影響を及ぼし続けているのだと思う。)

 

そこまでくると、〈おばあちゃん〉は事細かな司令の段階から、もはや動じることのない無関心の段階へと移行した。称賛も、誇張も、美味への感謝をこめた親しげな肩たたきも、甘美さの反復を求める執拗なおねだりも、もはや彼女にはどうでもよくなって、ふたたび娘とのおしゃべりに没頭するのだった。一方が居眠りしているみたいで、もう一方がその傍らで何かを語り聞かせていることもあった。部屋の隅で、一方が靴下を繕っていて、もう一方がしゃべっていることもあった。二人一緒に部屋を移動することもあり、一方が、その瞬間に急に思い出した何かを探しにいくかのように、もう一方の手をとって、おしゃべりしながら、笑いながら、ひそひそ話を続けながら連れていくのだった。  p.15下

ここすき。アウグスタ夫人とその娘・リアルタ夫人の描写だが、どちらなのかを特定せずに「一方が〜〜、もう一方が〜〜」と叙述するのが『悪童日記』みたいで良い。

そういえば、「隊長のお宅」=屋敷の描写において、音や匂いなどを空気の塊として空間に浸透するような表現がちらほら見受けられるんだけど、な〜んか最近同じようなのを読んだなあと思ったら、バルガス・ジョサ『街と犬たち』だった。あの小説でも、士官学校の生徒たちの〈声〉が教室中に響き合って質量を持ったように胎動する──みたいな描写があったような。
あっちは1963年発表で本作よりも3年ほど早いが、しかしこの1章とかは40年代に書かれていたらしいので、執筆時期は本作のほうが先か。いずれにせよ片方がもう片方の影響下にあるわけではないのだろうが、しかしこうした表現をラテンアメリカ文学の特色として挙げられるだろうか。それとも、これらに限らず世界の文学でありがちなレトリックなのか。・・・そんな気がする。

 

第1章終盤のpp.22-23の、大佐のお父さん(巻末の家系図では祖父となっててよくわからん)=カリコラーリが一族総出のパーティで語る「スペインとキューバの果物、どっちのほうがうまいか」論争が発端となった白昼夢的な彷徨のエピソードで、おそらく初めて、噂に聞いていた「難解」で「詩的」な内容の文章が登場した。まさにここで彼がレソルシオン農園を後にして一本の火炎樹のところに迷い込んでいったように、読み勧めていていつのまにか「ヤバい」文章に迷い込んでいた。

わたしは眠気が強まってくるのを感じた。それまで一度もなかったくらい、それは強烈にわたしに襲いかかってきた。混じりあった赤と緑の下では、一匹の子ヒツジが眠っていた。その眠りの完璧さは湖の精霊たちに運ばれてその谷間全体に行きわたっていた。眠りはわたしの足をもつれさせ、今にも転びそうだったので、わたしはあたりを見まわして横になる場所を探した。子ヒツジはじっと動かずに火炎樹の木を夢見ているようだった。わたしは体を伸ばして、そのおなかに頭を横たえた。それは眠りの波にぴたりと合ったリズムをひき起こすように波打っていた。通常は目覚めている日中の時間をわたしは眠り続けた。 p.23上

ここはまだ、途中でこれは半ば夢ですよ〜と教えてくれるので親切なほうだと思う。
「眠気」とかではなく「眠りの完璧さ」が谷間全体に行きわたる、と表現するの地味にすごい。「眠気が強まってくる」ではじめて、ここの状況自体が白昼夢のようなものだと示唆するのも、考えてみれば倒錯的。火炎樹と子ヒツジと「夢」というモチーフの鮮やかな連結と、そのあとすぐさま「わたしは体を伸ばして、そのおなかに頭を横たえた。」と静かに着地させる手つきには感動すら思える。

 

とりあえず1章までの感想としては、
・たしかに直喩が多すぎて特徴的な文体ではあるが、まだそれほど難解で読みにくいわけではない。
・文学的に「すごい」のかはまだ判断しかねるが、少なくとも自分好みではありそう。
といったところ。


10/28 金
午前11時過ぎ。第2章おわり!!

第2章(pp.24-46)

あらすじ:数年経ち10歳になったホセ・セミー少年は、学校帰りに塀にチョークで落書きしながら歩いていたところ、その塀のなかの長屋(貧民街)の男に捕まる。しかし、長屋の老婆アミータは、少年が大佐の息子であると知っているため、すぐに保護する。
長屋の各部屋に住む人々の挿話。
アミータのいちばん下の孫ビーボが行方不明になり、処刑されるのではないかとアミータは心配して大佐に直訴するが、大佐がビーボにメキシコ赴任を命令したのだとわかった。
1917年、大佐とその家族はキングストン(メキシコ)に出張した。お付きのデンマークキューバ人医師セルモ・コペック博士は黒人巡査の腋臭を移されて散々な目に合う。博士は大佐に感じ悪く接して解雇?される。
タスコの〈ラ・ベルタ〉というカフェでは仮面を着けた人々が集まっていて、そこで大佐はコヨーテの仮面を着けたビーボに一瞬再会する。
「シバルバの王子たち」(大佐の息子たちかと思ったが、少し前に大佐が会っていたメキシコ人外交官のこと?)は九歳まで対抗させられて、トカゲの皮でできた細長い袋に閉じ込められていた。彼らのかすかな片鱗だけの記憶が描かれる。
大佐(たち)はキューバへと海路で帰った。

 

最初にホセ・セミー少年の話から入るが、それ以降は他の周辺人物たちのエピソードが語られる点、そして終盤に幻想的で意味が捉えにくい段落が来る点は第1章も第2章もおんなじ。ずっとこんな感じなのかな。

やっぱり比喩がめちゃくちゃ使われているんだけど、それは「説明」描写でもあるので、実はけっこう説明過剰なわかり易い叙述なのではないか、とも思う。もちろん単なる説明ではなく、そこに文学性・詩情の魂を吹き込むのが比喩という技巧なので、その装飾的な文章表現こそが本作の核心、読みどころでもある。だから、説明的な親切さと、レトリカルで奇想的な文体の魅力を直喩が一挙に担っていて、バランスの取れた表現なのではないか、という気もする。

クリオーリョ的」(キューバ人的)なものと、と「スペイン的」なものの二項対立。そして、メキシコ赴任では、明朗快活なキューバ性と、閉塞的で妖しいメキシコ性という対比がされている。章終盤のトカゲ袋の幻視パートも、おそらくはこのメキシコ性とキューバ性の衝突を象徴的に描いているのだと思われる。

 

第3章(pp.46-76)

10/28 金 夜 pp.46-65 第三章の途中(長い幻想パートの終盤)まで!

やばい……50ページ過ぎて本領発揮してきた……なんもわからん…… 1章や2章での幻想パートなんて序の口だった。マジで意味不明な文章が1ページどころではなく10ページ以上も延々と続く。ブルトン『溶ける魚』やデボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』を彷彿とさせるが、いくつか頻用されるモチーフ・単語はあって何かのイメージの繋がりは発生しているっぽくて自動筆記で書いたのではないし、散文詩っぽい小説?としてはアカ花と似ているんだけどやっぱり方向性は異なる。アカ花は描写が止まっていることが多い、つまり、ある日の街路などの静止した対象の描写に費やされたり、「そして世界に喪失が訪れた」的な抽象的で壮大な〈宣言〉や〈啓示〉っぽい文も多い(そしてそこが何故か刺さる)んだけど、パラディーソの散文詩パートはあくまで登場人物?らしきモノがいて、動的な状況の物語らしきモノが描かれているっぽい(要するに何もわからない)。アカ花よりもまだ小説らしきもののぶん、それなのにまったく意味がわからないのがかえってキツいというか、心が折れる。マジで延々と続いて終わりが見えないのもキツさを助長してる。

わからなすぎて泣きそうなので、巻末の訳者解説に逃げて流し読みをした。キューバ文学におけるバロック性のところで遠回しにカルペンティエルdisられてて草。訳者が批判しているというよりはレサマが自身のスタイルとの比較で「俺のはカルペンティエルなんかのバロックとは根本的に違う!」と言っているかんじ。『この世の王国』しか読んだことないけど、たしかに自分がカルペンティエルあんま合わないカナ〜と雑に思っている印象がうまく言語化されていた。そして、目指している指針としては自分はレサマの文学観(過不足なく完璧で完成しているものよりも、破綻や矛盾や隙があって追い詰められて崩れかけているものこそが素晴らしい)はすごく合う気がする。「ネオ・バロック」というらしい? それだけに、いざ実際の本文にあたってみるとまるで歯が立たないのが悔しい。でも「歯が立たない」とか思っているうちはやっぱり駄目で、そもそも文学との向き合い方を変える必要があるのだろう。「ゆっくり読む」こと。消費しないこと。数稼ぎや実績解除のために読まないこと。そもそも「数」に還元できたり、「解除」「消費」できたりするようなものは本物の文学ではない。「インプット」や「アウトプット」のための道具でも、「コンテンツ」でもない。一生かけて分からなさと付き合っていき、徐々に味が染み出してくるようなものが文学で、そういう生き方だけが真の文学体験たりえるのだろう※。非常に身につまされる。これを「読む」ためには──難解な文学を読んで「強く」なるぞ! 読書家として「箔をつけ」たい! ラテンアメリカ文学好きとしての「プライドを保ち」たい!──といったさもしい功名心をいかに滅却して、文学と虚心坦懐に向き合わなければいけない。文字通りの意味で修行のようだ。ありがたいっすねぇ〜〜。

ニーチェ的にはここで「"真の" 文学体験」とか言ってる時点で「真理」という形而上学的な価値判断、すなわち弱者の奴隷道徳に侵されているからダメで〜〜すww ってことになるのかもしれないけれど。。(永井均『これがニーチェだ』の受け売り)

 

あと、解説を読んだ限り、レサマの文学(性)は、少なくとも理念としてはそんなに難しくも高尚でもなく、わりと凡庸とすらいえると思う。具体的な文章技法も、突き詰めれば「直喩」「擬人法」というごく初歩的なもの(の大胆な使用)だし。
だから、シュルレアリスムとかカフカとかベケットとかブランショとかムージルとかブロッホとかヌーヴォー・ロマンとかポストモダン文学とか、西洋の歴史的な最先端の文学を通過しているガチガチのブンガクエリートは、本作を「大したことないじゃんw」「何周遅れだよw」と一蹴してもおかしくない(まぁ60年前の作品なんですが)。ガルシア・マルケス的な魔術的リアリズムとも明らかに異なるし。
でもおそらく、『パラディーソ』はそういう理念への「要約」、理性の審級での価値判断を拒むというか、そうして理論化・抽象化してしまった瞬間に失われるものをこそ追求している小説なのだと思う。ヨーロッパ的な近代理性へのアンチテーゼ?(と言語化してしまった時点で「要約・理論化・抽象化」になっているわけだけれど)。

解説ではレサマの「遠さ」「ゆっくりさ」至上主義がベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」における〈芸術作品のオーラ〉概念の影響下にある(かもしれない)という推測が語られていたが、この辺りはちゃんと追っておきたいな。……いや、ガッツリ理論化されてるやん!という話にもなってくるので。

自分がレサマの文学観に惹かれるの、「破綻だらけで隙だらけで理性を超越しているものこそが文学」というのもあるけど、「幼年期の永続」と訳者が表現していたような、子供のイノセンスを過剰に神聖視して全ベットしているところもある。まさに今読んでいる石牟礼道子『椿の海の記』もそうで、子供の目線、幼き者の世界の受容の仕方に原始的な憧憬=郷愁があって、それは他ならぬ、自身の奥底に眠っている忘れてしまった本質への素朴なロマンチシズムということだろう。うーん……やっぱりめちゃくちゃ凡庸な気はするんだよな〜〜。「"凡庸"でなにが悪い!」という開き直りと捉えるべきか、それとも「お前の"理解"こそ単純化だろ!もっと深遠なことを体現している!」ってことなのだろうか。・・・とか"解釈"をこねくり回してポジショントーク/パフォーマンスをしている時点で根本的に間違ってる気がするんだよな〜〜〜アーーーーーーーーーーー

 

それから、キューバ性(アメリカ大陸性)とスペイン性(ヨーロッパ性)の対比における逡巡・懊悩という主題は、キューバのところを自国に置き換えれば他のラテンアメリカ諸国の文学でもありがちだと思う。カルロス・[フエンテス]のメキシコ性とスペイン性のあいだの葛藤とか。それだけ数百年にわたるヨーロッパ植民地時代の歴史が重い影を落としているということだろうし、一方では他のイスパノアメリカ諸国とも異なる、「キューバ」の固有性にも注目したい。レサマ本人は同じキューバ文学のカルペンティエルを持ち出して自身の独自性を主張していたわけで、キューバ性のなかでもさらにバラエティというか引き裂かれがあるのだろうけれど。

あと、1910〜1930年代というキューバ独立(実質的なアメリカ傀儡政権)期を主な時代背景にしている物語だけれど、今のところはスペイン(人)とキューバクリオーリョ)の対比しか出てこなくて、アメリカ合衆国キューバの関係に言及が無さそうなのが考えさせられる。やっぱ検閲的な問題なのか? しかし、他ならぬレサマの文学理念としての「アメリカ大陸性」推しというのは単なる検閲下のでっちあげには思えないし、そうして旧宗主国のスペインを有徴化・分節化してなんとか自身の肉体から引き剥がそうと躍起になっているのに対して、現在進行系でのアメリカ合衆国からの抑圧・統治には一切触れずに「アメリカ大陸」のひと括りで自己同一化する身振りには、単なる表面的な政治性を超えた、より根深い、数百年単位でのキューバという国あるいは島の辿ってきた歴史の問題が横たわっているように感じる。ようはコロンブス(ヨーロッパ人)による「発見」「占領」以前の「インディオ」(とも呼ばれていなかった"原住民")の時代まで遡る、土地と血の話ということ。ただし、本作で重要な「クリオーリョ」は新大陸生まれのスペイン系(ひいては"キューバ人")のことなので、ここに直接はインディオ=黒人の血は絡んでなくて、やはりムラート/メスティーソ(混血)の存在が鍵ということか。(ムラートは出てきたけどメスティーソって出てきたっけ? てかキューバにおいてはこの2つってどう違うんだ? 白人と黒人の混血がムラートで、白人と先住民の混血がメスティーソってことだけど、キューバ島の先住民って元は黒人系の血筋ではないのか。そんなこと言ったら人類みんなそうかもだけど。あかんなんもわからん)

幻想パートのところどころに、上述したレサマの文学観そのものを象徴するような文言や、まさに今やっている幻想パートの理解不能さ、意味を超えた詩的言語の自律性を暗示しているような文が挟まれるように思える。(というより、それ以外には意味のある解釈をしようがない、といったほうが正しい。)

そして、ところどころに地の文で「わたし」とか「私たち」、「われわれ」のような一人称が出てくるのが気になる。基本的には三人称小説で、語り手の存在は後景化しているわけだが、ちょくちょく顔を出してくる。19世紀近代小説のような語り手の立ち位置なのか? 語り手の民族性(クリオーリョ,スペイン人,ムラートetc.)とかを考えてみると面白いかもしれない。


10/31 月 pp.66-71 第3章の終盤

意味不明パートをようやく抜けて通常の物語に戻った。バイオリンを習っているアンドレシート(リアルタの長兄)がエレベーター事故死する移住者会の演芸会?の話と、フレリー12歳の誕生日パーティ(に駆り出されるオルガン奏者スクウォブス?)の話が交互に語られるが、これら2つの年代が同時期なのかズレているのかよくわからん。そもそも誰?って登場人物の名前がたくさん出てきて迷子になる。しかし文章自体は読みやすく面白く自分好み。


11/2 水 p.71-97
第3章(pp.46-76)がようやく終わった

この3年後に15歳のフレリーと21歳のカルリートスが駆け落ちしたらしいが、こいつらがどれくらいの重要人物なのかわからん。どっちもオラーヤ家ではないよね?
 フレリー=オラーヤ家の近隣住民?召使い?であるフロリータ夫人の娘
 カルリートス=釣り好きな機械工の助手で、25番街の葉巻工場の朗読役の息子 P.67

3章の最後は〈オイドールの娘〉(アウグスタの母、リアルタの祖母)の死に際のエピソード。「植物的な生が全面的に勝利」というのが、植物状態みたいなことなのか、マジで肉体が植物に蝕まれていく/植物化していくのか、わからん。後者だったら魔術的リアリズムと呼んでいいと思うけれど。
「収縮して身を閉じた」「植物組織は自らを収納してしまって」という表現は、ピニェーラ『圧力とダイヤモンド』の「収縮」を連想するが、こっちが元ネタなのかな。

 

第4章

ホセ・セミーの父親になるホセ・エウへニオ・セミーが12歳の頃のセミー家の3代にわたる話。ホセ・セミーの母となるリアルタの少女時代のオラーヤ家3代の物語が描かれた第3章とちょうど対になってるかんじかな。
エウへニオの叔2
父にあたる高慢なルイス・ルーダって1章の終盤に出てきたパーティ主催おじさんと同じひとだっけ。
エウへニオの母方の祖母ドニャ・ムンダばあさんの超長セリフがとても好き。お婆さんが語り手の小説が読みたい。
エウへニオの両親が死ぬまでの文章がめっちゃ好き。繊細な小鼻を持つ母エロイーサと屈強な首筋の父ルイス・バスコという対照的な2人(とセミー家)の運命……を、ドニャ・ムンダばあさんが語るところがいい意味でヤバい。
セミー家のお隣にオラーヤ家が引っ越してきた(たぶん3章の続き)。エウへニオ少年と(兄が死んで御曹司になった)アルベルト少年とのボーイ・ミーツ・ボーイのくだりが良い。p.86下
96-97辺りでなんかプチ難解パートがあったが、まぁなんとか乗り切った。


11/9水 p.97-120

第4章の終盤。ホセ・エウへニオ少年が登校して教室へ入る。(初登校?) アルベルトもいる。
英語の授業。教科書が人数分用意されておらず、席を移動して見せあっている。悪童フィーボは刑務所で作られた虹色のペンで級友の尻を突き刺している。教室のドア側の端の特別な机に座っているエンリケ・アレードの尻を突き刺して悲鳴が上がると同時に授業終わりのベルが鳴り響き、昼休み・昼食時間にはいる。フィーボは家で食事をとる。お坊ちゃんで風変わりなエンリケ・アレードは校庭で上級生に絡まれて嬉しがる。
大食堂の光景。校長ジョルディ・クエバリオットが直々に棒状のパンを切って一片ずつ生徒に投げつけていく。配給と同時に、注意散漫な生徒への叱責を兼ねたパンの投擲。エンリケ・アレードは自身の食事より、他の不注意な生徒の観察に熱中している。
大食堂での食事と、その近くに立ち並んだシャワー室での水浴との対比。緊張と緩和。エウへニオの「盲目」的な性的感覚について。


第5章 pp.108-138

幼児期というのは、われわれが倦怠を純粋状態で味わう時期のことだ。 p.108上

4章の続き(なぜ章分けした?)。午前授業の土曜日の午後、エウへニオとフィーボの会話。エウへニオとアルベルト・オラーヤの2人だけが、フィーボのペン突き刺し攻撃を受けなかったことについてエウへニオは尋ねる。エウへニオが狙われなかったのは、手のすぐ近くにインク瓶が置いてあり、攻撃の拍子にインクが自分にかかることを恐れたため。そしてアルベルト・オラーヤを狙わなかったのは、フィーボが彼を完全に格上として見なし、尊敬すらしているため。フィーボ→アルベルトの濃い感情がBL的に熱い。

あいつは俺よりも先に決断して、俺よりも先に到着する、俺よりも研ぎ澄まされた動物だとわかった。あいつを苛立たせたいという気持ちよりも、敬意を表してやりたいと感じるんだ。あいつが俺に秘密を打ち明けてくれるようになったらうれしいと思うんだ。突き刺したくないだけでなく、もし彼の身に何かいやなことが起こったなら、もし彼が野原で盗賊に襲われて木に縛られていたなら、俺が縄をほどいてやる役回りになれたら、結び目をひとつほどく手助けをできたらうれしいと思う、あいつが俺に何も言わなくても、お礼すら言わなくとも、そういう事実があったというだけで、俺にとっては幸運がつくというか、何日間かいい血が得られるような気がするんだ。俺があいつに害をなすんじゃなくて、別の人が彼に害をなして、そこに俺が助けに駆けつけて、椅子に縛りつけているロープを切ってやるというのがいい。俺よりもずっと大きい存在だと思うから、彼を縛るのも俺よりも上の存在であったらいい。彼を相手として戦っているものと戦いたい、というのも、彼自身に対しては俺には何もできないことがわかっているから。にもかからわず、俺はいつも、誰かがあいつを縛っているところを夢に見ているんだ。 p.109

このあとのエウへニオの返しがまるっきりこの話題をスルーしてるのも面白い。
当たり前だけど、地の文より台詞のほうが読みやすい。難解でないし、ドライブ感があるため。
エウへニオの語りは台詞なのにやや意味不明に片足ツッコんでてヤバい。すごい才能の少年。

 

p.111
フィーボは、最後に尻にペンを突き刺したエンリケ・アレードとのその後の関係を語る。フィーボはアレードの家を訪ねて、一緒に農園に泊まりに来ないかと彼の親父さんに誘われた。アレードやその両親が自分へ抱いている内心を勘ぐって怯える。

エウへニオ、アルベルト・オラーヤ、フィーボ、エンリケ・アレードの四角関係(?)が複雑で良さげ。

pp.112-117
英語の授業中、アルベルト・オラーヤが "Thinking songs of things" という一節の訳を先生に訊ね、その発音がsingar(性交する)を連想させたため、クラス全体が笑った。それを、ちょうど校庭を通りかかったジョルディ・クエバリオット校長が聞きつけ、オラーヤに対してシャワー室への禁錮罰を命じた。ここからシャワー室の幻想的パート。シャワーには「死のように覚醒させるアングラ・マイニュの鳥」が付いている。エンリケ・アレードがシャワー室=地下牢へ入ると、オラーヤが裸で眠り込んでいた。なんやかんやで、オラーヤは排水口から校庭へ脱出したっぽい。(アレードやエウへニオの助けのおかげ? リアリズムなのか非リアリズムなのか、それとも魔術的リアリズムなのか、何も分からない。)
教室内。アレードはフィーボと密約を結んだ。アレードはフィーボに巨大なコンパスを渡し、フィーボはそれを「黒い砂浜」(たぶん黒板)へと投げた。そこに校長が現れてコンパスを黒板から引き抜いた。そして彼は地下牢へ向かったがすでにオラーヤはいなかった。アルベルト・オラーヤは学校の角に到達し、タバコに火をつけた。

pp.117-120
午後4時、アルベルト・オラーヤは回転木馬の遊園地へ向かった。カートの一台に乗っている16歳くらいの少女の持っていた月下美人クジャクサボテン)の花が旋回の遠心力で飛んでいった。車両のエンジンの手入れをしている油まみれの年寄りがその花を拾ったが、彼はそれを少女に返さずに耳の上に差した。少女は何度も年寄りの胸を叩いて花を返してくれるよう懇願し泣きわめいたが、年寄りはすげなくあしらった。次第に人だかりができ始めた。アルベルト・オラーヤはジャクソンヴィルから持ってきた四色ボールペンを少女へ渡し、回転木馬の公園をあとにして、映画館へと入った。一番人影の少ない区域の席に座ると、先ほどの月下美人の老人が両腕を振り回しながら近付いてきて、オラーヤの性器の上に手を載せた。オラーヤは激昂して映画館から抜け出し、ふたたび街角に佇んだ。

 

11/10(木)
第5章続き
pp.121-128
アルベルトの彷徨はつづく。〈七ヶ月の王国〉というバーに入り、軽薄そうな四人の若者集団から離れて、彼より4,5歳年長の1人の若者の近くに座る。その若者から(?)話を聞く。バーの入り口に彫られていたラテン語のフレーズ「我は王にのみ扉を開かん」について。四人の若者集団がアルベルトに絡むだろうという予言=妄想。その幻想では人魚の尻尾のような片足の女が「あなた」を眠らせて股間に卵白を塗りつける。四人のうちの真面目男を愚弄するため、他の三人と人魚女はグルになっているという。

アルベルトは眠りから覚め、バーを出て再び回転木馬のところへ戻る。夜露に濡れた回転木馬の公園のベンチで、あの月下美人を持っていた少女(彼が四色ボールペンをあげた少女)と再会する。アルベルトは彼女を抱きしめる。彼女は結婚した従姉と一緒に田舎から出てきて、ひとつの部屋に同居・居候していると語る。馬車が通りかかり、いい雰囲気の2人をちいさなあずま屋(ラブホテル?)へと連れて行く。そこでは例の人魚=片足の娘が2人を出迎えた。小屋でふたりは一夜を過ごす。これがアルベルトにとって初めての「外泊」であり、母親=アウグスタ夫人は不良の息子が糖尿病で寝込んでいる夫に見捨てられないかと悩み、この外泊を夫には秘密にする。そのアルベルトのことでクエバリオット校長がオラーヤ家を訪ねるが、アウグスタ夫人は門前払いをする。校長は憤り、生徒名簿の中のアルベルト・オラーヤの名前を塗りつぶした。

バーでアルベルトが聞いた人魚の話の語り手が、年長の若者なのか判然としない。そのあとで人魚=語り手みたいな言及もあったし。そもそも聞き手がアルベルトなのかさえ不安になってきた。人物の台詞でここまで幻想的かつ難解なのは本書でも初めてかもしれない。

pp.128-138 第5章ラスト
エウへニオが昼食のあとで玄関の敷居のところに座り込んでいると、アルベルトに舞踏会へ誘われる。アルベルトの妹リアルタの様子を見に行くのだという。鎧戸ごしにエウへニオはリアルタと挨拶を交わす。(のちの夫妻はここでボーイ・ミーツ・ガールしたのか!) お互いにほぼ一目惚れ状態。

>ホセ・エウへニオはリアルタに関して、味わい深く感じた点がふたつあった。人に紹介されたとき、彼女は実に闊達に挨拶をすることができたが、それは地方の、いかにもスペイン的な環境の中で育ったホセ・エウへニオにとっては、クリオーリョ的なものの精髄のように、優美で、軽快で、非常に上品に感じられた。 p.129上

エウへニオ=スペイン的/リアルタ=クリオーリョ的 という対比。
オラーヤ家は親独立=親キューバ=反スペイン派で1902年の独立によってキューバへと戻ってきた。キューバ独立のため資金提供もあったとか。逆にセミー家は「親外派」=親スペイン派らしい。

それから、エウへニオにとって(あるいはこの物語にとって)「鎧戸」はかなり重要なモチーフであるようだ。そもそも隣にオラーヤ家が引っ越してきたのを知る場面からエウへニオは鎧戸の迷宮に幻惑されていたし、のちの妻となるリアルタとの初対面も鎧戸越しである。憧れの対象を鎧戸の向こうの世界に透かし見る構図。

舞踏会に、当時の(初代)キューバ大統領ドン・トマスもやってきて、リアルタと挨拶を交わす。ジャクソンヴィルで知り合いになっていたらしい(!)。オラーヤ家はやっぱり上流階級だ。それに対して一家の大黒柱が死んで落ちぶれたセミー家。正反対の両家が隣り合い、関わり合っていく。ここに限らず「夫婦」や「結婚」というもの自体が相反するものの合体というイメージで捉えられている。

大統領は長男アンドレシートの事故死について不躾に言及し、リアルタの顔を曇らせる。

彼の亡骸を運んでくるのを怠ってはならんぞ、我らの大地に返してやらなければいけないからな。 p.130下

やはり大統領も親キューバ的。(しかしやっぱり独立後のアメリカの支配がまったく言及されないのは何故なんだ。)
アンドレシートの亡骸はキューバにはなく、ジャクソンヴィルで冷凍されているらしい??

舞踏会から帰ってきて、エウへニオはドニャ・ムンダおばあさんと会話をする。隣のオラーヤ家について。リアルタお嬢ちゃんについて「お似合いかもよ」的なからかいも。

「僕らに、僕らの一家にあるのは高笑いなんだ、微笑んでいるところを僕が思い浮かべられるのは母さんだけだ、もう彼女のことを僕はほとんど思い出せないけれど、だって、僕はまだ幼すぎたから p.131下

エウへニオの語り。高笑いと微笑みの対比。リアルタの「微笑み」に惚れていたので、亡き母の面影をリアルタに投影している? 典型的なマザー・コンプレックス。それだけでなく、例のクリオーリョ/スペイン的という対比も関係するのか。エウへニオの母はイギリス人の血を引いているらしいが、それならその母親のドニャ・ムンダだってイギリスの血であり「微笑み」の側ではないのか。単に血筋だけで決まるのではなく、そのなかでも突然変異的に発現する性質ということか。

ムンダばあさんがオラーヤ家の家長(アンドレース?)に見た「後ろ歩き」という宮廷作法と、義息エル・バスコの仕草との関係。クリオーリョであるアンドレースの「奔放さ」に対して、バスク人(スペイン人)であるエル・バスコの「きまりの悪さ」。

エウへニオもムンダばあさんも、セミー家の人間はクリオーリョ的なものへの憧れがあるようだ。だからオラーヤ家に対して憧れと劣等感を抱く。そして、自身の家系を凋落させたエル・バスコ(お父さん)への複雑な想いがある。

一方オラーヤ家では、アルベルトの部屋を妹リアルタが訪れて、エウへニオについて質問していた。(やっぱりこっちも一目惚れやないかい!) アルベルトのエウへニオ評が面白い。(あと妹への当たりの強いお兄ちゃんムーブがおもしろい)

それ以上は訊ねてない、それ以上あいつの人生について知りたいとも思わない、お前こそどうしてあれこれあいつについて訊ねるんだ? スペイン人の子らしいあいつの涼しげな肌にどうやら興味があるらしいな。夜になると何もすることがなくて、勉強で一番好きなのは数学だそうだ。その点が、今のところ、俺とあいつの性格を結ぶところだ。小心というよりも決断がついてなくて、すぐに逃げ腰になる、そして俺に目を注ぐ、そのせいで俺にとってもあいつが存在するようになる。手短な似顔絵がお望みだったのなら、ご期待に応えられたと思うがどうだ」 p.133下

雲のような布団のせいで粘性をもった大気が、さまよう星々の動きを押し止めていた。 p.134上

ふつうは「布団のような雲のせいで」じゃないの? あえて直喩の修飾語を転倒させているっぽい。このくらいのおふざけ・撹乱は至るところにある。

オラーヤ家から突然、やかましい人声が聞こえ出す。兵隊や医師の車両も到着し、近隣住民は何事だろうと騒ぎ出す。

ドニャ・ムンダばあさんは「隣人同士、苦しみの瞬間を分かちあうべきだという往時の宮廷作法の要請を満たすことにこだわっ」て、孫たちを連れてオラーヤ家を(初めて)訪問する。どうやら、屋敷にいたスンヒル医師がオラーヤ家の娘に銃を向けて殺そうとしたらしい。スンヒル医師は伝令係を殺害して兵隊に追われていたとのこと。彼は取り押さえられた。

ここで初めて両家族は挨拶を交わす。ドニャ・ムンダとアウグスタ夫人の対面はアツい。オラーヤ家のメーラ婆さん(アウグスタ夫人の義母)は、新外派であるセミー家に冷たい態度を取る。その息子である家長アンドレース・オラーヤが母を睨みつけながら会話に加わる。エウへニオ少年に優しく話しかける。しかしアンドレースは長男アンドレシートの死以降、ほとんど回想しか喋れなくなっていた。タバコの栽培は「魔術的な恵み」なのだという。砂糖(サトウキビ)を引き合いに出して貶す。

聞き入っていたホセ・エウへニオは、自分を何かに結びつけるひとつの橋が初めて描き出されたことに気づいた。橋の上でふたつの家族を結びあわせる都市へと自分をつなぐような。 p.137下

 

「じきに私のほうからも伺いますよ」とドニャ・アウグスタは言うのだった。「お心遣いいただいて、本当にありがとうございました。私どもも皆さんも、全員をすっかり驚かせてしまって」。ホセ・エウへニオはこの「全員」が、橋の上で踊っているのを感じた。 p.138上

ふたつの家が邂逅し、結びつき始める象徴的な場面(へのエウへニオ少年の鋭敏な感性)。

ドニャ・ムンダの息子のひとり、エウへニオ少年の叔父ルイス・ルーダがベラクルスから投函した手紙がセミー家に届いていた。そういえばこの人、前章でムンダ(母さん)に叱られて家を出て行かされたんだった。すっかり忘れてた。


第6章 pp.139-195

11/11 金 -p.150

12/6 火 p.150-159

『パラディーソ』についての夢を見たので、およそ一ヶ月ぶりに再開。なお夢での本の内容は、様々な作家の文体模倣がアクロバティックに飛び交う『ロマン』や『V.』のような小説だった。ぜんぜん違う。

ホセ・エウヘニオ・セミーとリアルタ・オラーヤの結婚式の描写が続く。

彼女は、これから五十年間にわたって彼女がその中心であり、その根拠であり、その豊穣さの源泉であることになる長大にして迷宮的な編み紐を編みはじめるところにいるのだった。 p.152上

 

ホセ・エウヘニオ・セミーとリアルタは、数々の象徴のバリトン的重々しさに困惑しながら、あたかも途切れ目のない円環の永遠を通して一方の生が他方の生の上へと相互に飛びかかっていくというかのように指輪を交換したのち、集まった多数の親族や友人たちの顔の中に、今始まろうとしているたったひとつの心象(イメージ)の中に複数のものが合流していく物音を感じとった。 p.153

「結婚」とは2つの異なる歴史("家族")が衝突して融合する現象であるという、その良い悪いではないインパクトの大きさをこれでもかと描く。このすぐ後に、

そこでは裕福な家の学生たちが着るカシミアやギャバジンに混じって、いちばん貧乏な学生が一年じゅう着ている合い服の上着も見られた。彼らがその下に補強として着こんでいる自家製のチョッキは、年ごろの姉あたりが自らの無為を辛抱強い編み針で包み隠しながら善良な思いをこめて編みあげたもので、それぞれ独自の編み模様や頭文字の変奏が入っているので、以後、一家の紋章のように利用され、店で買った作者不明の、灰色で陰気なほど均一なものと区別されるにつけ、きわめてクリオーリョ的な家柄を彼らに付与するのだった。 p.153下

と、貧乏な「家」の、それでもどん底において力強く生み出されるアイデンティティ、誇り、気高さを描くところもすき。

 

結婚式が終わり、場面はふたりの新婚生活へ。アウグスタ夫人の弟であるデメトリオ(通称:ワサ・ビンバ)はたびたび失職してはオラーヤ家に訪ねてきていた。彼が鬱陶しいホセ・エウヘニオは家にある武器の練習と称して彼に銃剣を向ける。
そこにリアルタが飛び込んで、驚くべき長広舌を披露する。家のバンレイシの繁みを囚人と監

視人が勝手に伐採してしまう様子を、まるで戦争の描写のように語る。ここは登場人物のリアルな台詞というよりも、作者が乗り移ったかのような、小説の地の文的な文体になっている。こんなことを現実で喋るひとなんていない!

リアルタの語りに苛立ったホセ・エウヘニオはふとデメトリオの顔を狙って、装弾されていないと思って銃の引き金を引いた。弾は狙いを外れたが、エウヘニオは愕然として、デメトリオにひれ伏した。

銃声のこだまは、笑劇的な仮面をつけて、口をひしゃげて見せながら家じゅうの部屋を巡回していき、嘲弄された嘲弄者の冷えきって汗に濡れた額の上に一筋の水の流れを作り出した。 p.158上

数年後。ホセ・エウヘニオ30歳、息子ホセ・セミーが生まれて既に5歳となっていた。

彼らふたりはリガル大尉の息子ネストル・リガル(6歳)と3人で昼間に海でカヌーを漕いでいた。身体が弱く呼吸が苦しそうな息子を認められないエウヘニオは、スパルタ的にホセ・セミーを水に入れて泳ぎの練習をさせたが案の定溺れてしまった。気絶した状態でなんとか救助された息子に対して、ホセ・エウヘニオはショックで顔色を変えて取り乱した。父の憔悴を見るに見かねてホセ・セミーはわざと元気に振る舞った。

こうして振り返ると、デメトリオへの発砲と、息子ホセ・セミーの溺死未遂という2つのエピソードは、どちらも一族の長となり父親となったホセ・エウヘニオの暴力性・傲慢さが空回って立場が一転する様子を描いている。家長としての呪縛。

 

12/7 水 (pp.160-203)

pp.160-169
エウへニオの子供の水難エピソードをさらに2つ重ねる。
技師の責任者としてエル・モッロ城の工事を監督していたエウへニオ隊長は仕事場によく2人の子供を連れていた。息子セミーが気管支疾患持ちであることを部下にバレたくないとエウへニオは思っていたが、部下たちにはバレた上で気を使われていた。
仕事場にあるプールで、セミーの姉ビオランテが溺れる。姉の水没に驚いてセミーの喘息が悪化する。母リアルタは息子を心配する。父エウへニオは荒療治として氷水を張ったバスタブへとセミーを漬ける。当然にセミーは憔悴し、リアルタが温かい水をかける。セミーの夢。小人たちと母。

夜が明けてセミーは回復する。エウへニオは息子に本を見せる。そこには学士と研ぎ師の図版が描かれていた。両者をセミーは取り違え、後日父に「学士」とは何か訊ねられて「研ぎ師」のことを答えてしまった。しかしエウへニオはそれを隠喩だと勘違いして、我が息子の才能に驚いた。

貪欲な好奇心はそれぞれの図版の説明よりも先に進んでいったので、ホセ・セミーが先を急ぐ気持ちに押されていち早く研ぎ師の図版に人差し指を向けたちょうどそのとき、父親が「学士」と口にするのが聞こえることになった。それゆえ、身ぶりと声とのこの的外れな合致のせいで、彼は学士が研ぎ師であって、研ぎ師が学士なのだと思いこんでしまった。したがって、何日かあとになって、父親が彼にこう言ったとき──「もっと大きくなったらお前は学士になりたいかい?学士って何だったかな?」──、彼は我が意を得たりとばかりに確信をこめてこう答えた。「学士っていうのは火花を出す車輪で、車輪が速く回転するようになるにつれて、火花が増えて、しまいには夜を照らし出すまでになるんだ」。このとき、父親は図版とそれを説明する声との入れ替えがあったことを見抜けなかったので、息子の類まれな隠喩の才能に感じ入った。息子が予言的かつ象徴的に職業を理解しようとしていることに。 p.168-169

ワロタ。ここはどう考えても重要だなあ。これほど比喩に富んだ作品のなかで、主人公に初めて詩情が芽生えた(と父親が思った)きっかけが「図と声の倒錯による二重の勘違い」であるという事実。セミーと父のふたりともがお互いに気付いていないアンジャッシュ状態。文学の根源は親子のすれ違いにあるということか。声と図版の転倒という点も大事だろう。

p.169-
エウへニオ大佐の盗賊討伐指揮

リアルタのチフス罹患と回復 アウグスタ夫人が買ってくる美術品 アウグスタ夫人の思い出話と箴言「孤児のウンコはなおさら臭いっていうわけなのかい」

アウグスタがリアルタに語っていた「父の遺骨を掘り出したときの話」をセミーは盗み聞きして、その死の情景に衝撃を受ける。後日、教会に行った帰りに通りかかった墓所で目にしたサンタ・フローラのロウ人形をアウグスタ夫人が「本物の死んだ聖女さん」と形容したことで、セミーの「死」の観念は完成した。(セミー6歳のとき)「肌の黄色みがかった冷たさ」

沈黙は破られがちで、私たちに、あまり深刻にとらえすぎるなと教え諭しているみたいだった。 p.175

女中バルドビーナが夜にビオランテセミーの姉弟に語り聞かせる物語
息子セミーの呪われし病身を見かねて、父エウへニオは朝方に部屋の外から死人のふりをして陰気な聖歌を歌った。

家族ぐるみでのアメリカ・ペンサコーラ基地への海外出張。フォート・バカンスの駐屯地に居を据えた。ビオランテセミーは、隣人ギンズリー中尉夫妻のふたりの子供──16歳の姉グレイス、14歳の弟トマス──と海辺で遊んだ。グレイスはセミーに対して好意的で、トマスは反対に冷たかった。

ある朝、グレイスが砂浜に深い穴を掘ってセミーに入るように言う。穴の中でふたりは密着し、おねショタを行う。(セミーは無自覚)

後日、弟トマスが学校でもセミーに嫌がらせ行為をしてくる。帰り道で喧嘩をふっかけられるが、セミーは返り討ちにする。(このとき何歳?)

父エウへニオは、仕事の軍事訓練で司令官として素晴らしい成果を上げたことを誇らしく妻リアルタに伝えるが、翌日から彼は流感(インフルエンザ?)に罹って入院し、ほどなくして亡くなる。死の直前、彼は少年時代(第5章)にアルベルトが入った酒場にいたキューバ人オッピアーノ・リカリオと出会い、息子セミーを託す。リカリオはハーヴァードで古銭学とニネヴェ美術を学びパリに留学し、戦争で被弾して後遺症を負ったのだという。カフェ「七か月の王国」の看板にラテン語の格言を見繕ったのがこの男。

父エウへニオがあっさりと死んだ。死ぬときは皆あっさりと死ぬよね(文学あるある)。彼の両親も若くして死んだから、セミー家の家系的な問題なのか? 息子セミーの「死」への繊細な反応の積み重ねを、その前振りとして描いていたわけか。

そして再登場したラテン語格言カフェ男ことオッピアーノ・リカリオ! 初登場でも存在感すごかったけど、まさかここまで重要キャラだとは。父を失くした主人公セミーの文化的な師匠ポジションってことでしょ?

遠さの中に、現実の家族ではないのだが、引力をもったひとつの家族があって、それが道徳的に非の打ち所のない行動へと常に彼を導いていたのであり、彼はまるで、自ら誓ったらしい聖事にまつわる冷酷な掟の履行に関して、その家族による拒絶を、全面的承認でない生ぬるいそぶりを、非情な首振りを浴びせられるのを、夢の中で恐怖をもって見つめているかのようだったのである。 p.186上

近くにある家族、妻と子供たちの中に彼はいつも、このもうひとつの遠い家族、魔法の、超自然の家族に到達するための唯一の道を見ていたのだった。 p.186下

エウへニオの倫理の根底にある「遠い家族」概念。イデア論的。

この時代のキューバアメリカの傀儡国家だったはずなのにアメリカ要素が不自然なほどない、と思っていたが、アメリカ赴任をガッツリやって、そこでエウへニオを死なせている。その前のメキシコ出張のときは彼の(キューバ的な?)明朗快活さが強調されていたが、メキシコ/アメリカという国・土地の対比とかもあるんだろうか。


・第7章 pp.196-244

家長を亡くしたあとのオラーヤ家の建物(窓・扉)の詳しい描写。夫の死を悼んでリアルタは家のすべてのドアを閉じたが、そこに兄アルベルトがお金を無心しに訪ねてくる。母アウグスタは哀れな状態の息子を叱りつけ、金を渡して追い返す。(アルベルトしばらく見ないうちに落ちぶれていた……)

パティオで子供3人がしているヤキスにリアルタも加わる。敷石に亡き夫エウへニオの軍服姿を幻視する。

アウグスタ夫人の弟デメトリオ(歯科医)が訪ねてくる。キューバ第二の島ピーノス島(現フベントゥー島)にいた頃のデメトリオの話。

 

12/8 木 pp.204-227
ピーノス島で、デメトリオはハバナ出身がゆえの馴染めなさと「小太りで、禿げで、ちびで、どんな会話を始めるのにもためらいがちだったため」に女性に対してコミュ障を発揮していた。しかし集落の端のビリヤード場の係員の女ブランキータに良くしてもらい、そのままハバナで結婚した。セミーがアルベルト伯父さんに連れられて行ったデメトリオの歯科医の待合室には妻の予言通りに動物などが置かれていたが、数週間後に再訪したときにはそれらが無くなっていてセミーは愕然とした。

現在時制に戻る。一家にとっては例外的な、アルベルトの「小さな悪霊性」について。
レティシア(アルベルトとリアルタの妹。セミーにとっては伯母さん)とその夫サントゥルセ医師の訪問をもてなす準備をする。

デメトリオは、ピーノス島にいた頃にアルベルトから受け取った最後の手紙をセミーに読み聞かせる。

「もっとこっちにおいで、アルベルト伯父さんの手紙がよく聞こえるように。伯父さんのことをよく知って、歓びに満ちた人であることを見抜くようにならないといけないよ。これから君は生まれて初めて、自由自在にあやつられたことばを聞くことになるんだ、そこにはほのめかしや可愛らしい博学気取りの仕掛けが縦横に張りめぐらされている、けれども、〈島〉にいたときの私は、これを受け取ってどれほどうれしかったか、というのも、不在のうちに思い出させてくれたからだ、ずっと年上の私が、君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを。馬鹿にしたような、衒学的な外見の下に心の優しさが隠れていて、泣かされたさ」 p.211

「自由自在にあやつられたことば」「ほのめかしや可愛らしい博学気取りの仕掛けが縦横に張りめぐらされている」との通り、基本的には意味不明な文章(2ページ強)。海の魚類たちの(文学的・性的な)解説? さかなクンとかなら意味分かるのだろうか。

てかアルベルトとデメトリオはかつて一緒に勉強していた間柄なんだ。世代問わず学問でつながる関係いいな。

ところで前章の最後に出てきてセミーの師匠ポジになるかと思われたオッピアーノ・リカリオが見る影もない。むしろアルベルト伯父さんがそういう立ち位置になりそうじゃん。

というか、アルベルトはもう帰ったのだと思っていたが、どうやらデメトリオがセミーに手紙を読み聞かせるその場にいるらしい。

 

サントゥルセとレティシアが到着する。レティシアは人形のコレクションを持ち歩いていた。
サントゥルセは医師の他にサトウキビ農場の仕事もしているようで、砂糖の経営問題についてドヤ顔で話す。デメトリオとアルベルトは内心うんざりして、彼をチェスに誘う。アルベルトはサントゥルセに圧勝した。(ここの数ページにわたるチェスの描写はいかにもレサマ=リマの面目躍如といった趣。ナボコフ『ディフェンス』と比較しても面白そう。)
ここで使ったチェスの駒はアンドレース・オラーヤが買ったもので、それぞれの駒の中に入れた紙切れに書かれた箴言を読みながらアルベルトはチェスを指した。
セミーはアルベルト伯父さんが読み上げた紙切れを調べたが、いずれも文字など何ひとつ書かれていなかった。

そのときになってセミーは理解した。訪ねてくる回数こそ少ないものの、伯父が彼の相手をしてくれていることを。そして、血縁の家族と精神の家族とが、自分と伯父とで一致していることを直感的に感じとった。また、家族全員が、彼の世話をし、彼を歓ばせることに心を傾けているのも正当なことなのかもしれないと考えた。 p.220

やっぱりアルベルト伯父さんがセミーの精神的な指導者じゃないか。最後の文の「彼」はセミーとアルベルトどちらのこと?

経済状況は安定しているが精神状態が不安定なレティシア。彼女は姉リアルタにお金を貸していることを引き合いに出して、自身のスペイン人女中コンチャの前で姉にキツいことを言い、リアルタは泣き出して自室に退散してしまう。それを見ていた母アウグスタはレティシアを叱りつけ、謝りに行かせる。自室でリアルタは眠っており、その横で姉の手を握りながらレティシアも睡眠剤を飲んで眠りにつく。ふたりが起きた頃にはレティシアは性悪モードから慈愛モードに切り替わっていた。(ここのくだりは濃厚な姉妹百合)

ドニャ・アウグスタの取り仕切りで、客人をもてなす大晩餐会が始まる。彼女はサントゥルセを正賓席に座らせたが、そこは子供たちの小テーブルの近くでもあるために、それは敬いと蔑みの両義的な行為であった。
サントゥルセが医学知識マウントを取り始め、オラーヤ家の男たち(アルベルト, デメトリオ)が対抗する。
サラダのビーツをデメトリオが切り分けようとして失敗し、アウグスタ自慢のテーブルクロスに3つの赤い染みを作ってしまう。

ふつうに飯テロなので夕飯食いながら読んでてよかった。トウモロコシのスープにはタピオカも入ってるとか。キューバで100年前からタピオカが食されていたんだ……。
ビーツって何かと思って調べたらこういう野菜があるんだ。たしかに赤い。赤カブの一種?らしい。ボルシチに使われることで有名だとか。気になるのでAmazonで注文した。作中よろしくサラダでも作ってみようかな。

※12/31注:買ったはいいものの、調理スキルとモチベがないので帰省するときに実家に持ってきました。食べたら写真や感想などここに追記します。

 

鮮烈な色彩に彩られ、いかにも見栄えのいいこの一品、それはバロックにかなり近づいた段階の火炎様式にも似ていながら、パテをオーブンの火で焼くという点と、クルマエビによって寸描された寓意(アレゴリー)の点でゴシックに踏みとどまっているものだったが、この一品のあとで、ドニャ・アウグスタは正餐のテンポを少し緩めたいと思って、ビーツのサラダを配することにした。 p.227

クルマエビのスフレの描写。バロックとゴシックってそういう関係なの!?

 

12/9 金 pp.228-273

pp.228-244 第7章の終わりまで
アウグスタ夫人の用意した晩餐は七面鳥とデザートの冷製クリーム、果物の大皿で幕を閉じる。サントゥルセはアルベルトを誘ってサン・ミゲル街のカフェに入る。そこで彼はアウグスタ夫人が乳がんで先が長くないことを冷酷に告げる。マザコンなアルベルトはショックを受ける。

アルベルトは自分の人生における支柱がドニャ・アウグスタであることがわかっていた。彼女こそが、自分がまだ若くて庇護されているという歓びの感覚をあたえてくれているのだった、というのも、実のところ、男の老いというのは、母親が死んだ日に始まるものだからだ。 p.231上

訳者あとがきでも引用されていたマザコン・エモ・パート。

カフェの外で開いたままの本を持った黒髪長身の男(オッピアーノ・リカリオ)が数年ぶりにアルベルトを見つけて店内に入るが、サントゥルセと話していることに気付いてこっそり退散する。

カフェには牧童(チャッロ)の格好をした汚いメキシコ人ギター弾きが演奏しており、アルベルトは彼にグラスの水をかけ、詩での煽り合いから喧嘩に発展する。ふたりは警察に連行されるが、署長が故エウへニオ大佐の教え子だったため、大佐の義理の兄であるアルベルトに会えたころを喜び、エル・モッロ士官学校時代の思い出話(いかに大佐に良くしてもらったか)をする。

すんなり釈放してもらったアルベルトはタクシーに乗り込み、途中で流しのギター弾き1人を乗せる。ギターの旋律とともに朝方の町に見える植物の幻想的な描写が続く。

ギター弾きの十行詩に気を取られて運転手は踏切に突っ込み、アルベルトもろとも事故死する。

 

アルベルト伯父さん死んじゃった。1章ごとに家族の誰かが死んで終わってる気がしてきた。
これで今度こそオッピアーノ・リカリオがセミーの導き手になるのかな。まだ2人は出会ってないしな。


・第8章 pp.245-273

かつてエウへニオが通い、今はセミーが通っている学校に視点は移動する。
校庭の管理を担当している進学準備クラス(初等部の最終学年)のファラルーケが巨大な陰茎を露出して振り回しており、それを使用人が校長に報告し、数週間の日曜外出禁止が言い渡された。

セミーがクラスの地理の授業中、教師にばれないようにこっそりレレーガスが自身の勃起した陰茎を露出してクラス中の注目を集めた。授業後に教室の外で教師がレレーガスの両頬を叩き、教務部に報告したことでレレーガスは放校となった。

彼の行為は何かに挑戦することを意図したものではなかった。ただ、その行為をしないでおく意志的な努力を一切しなかっただけのことだった。 p.248下

これ共感する。

 

罰として日曜の外出を三回禁じられたファラルーケに話は戻る。最初の日曜日、彼ひとりとなった学校の校庭を退屈してさまよっていると、校長の女中のスペイン娘に手を引かれてペンキ塗りの手伝いを口実として家に連れ込まれた。(「校長と奥さんは出かけたわよ」) 女中がペンキを塗っている部屋の隣の寝室に眠っていた料理女("マメイの果実のような十九歳ほどの混血女")をファラルーケは睡姦する。次にファラルーケは彼を連れてきた女中の寝室へ行き、肛門性交をする。

その翌日(月曜)の夜、料理女は向かいの家の女中にファラルーケとの性行為を話す。向かいの家の奥さんが欲求不満らしい。その次の日曜日、料理女の弟の好色小ザル少年が校庭に侵入し、ファラルーケを向かいの家に誘う。欲求不満な夫人が待っており、ファラルーケに情熱的な口淫をする。射精後、ファラルーケはここでも隣の寝室を覗くと、あの好色小ザル少年(アドルフィート)がおり、彼らもセックスをした。

三回目の日曜日、アドルフィートは〈誰かさん〉が会いたがっているからと行ってファラルーケに時間と場所を伝え、鍵を渡した。夕方、ファラルーケがコンコルディア通りの指定された番地に着いて鍵を挿入すると、なかは木炭倉庫だった。そこの小部屋には仮面を着けた裸の中年男が待っており、性交をした。行為中に周りの木炭が次々と落ちてきて、2人はなんとか別室に逃げ、ファラルーケは靴とズボンだけを履いて上着を羽織って外へ逃げ出した。通りにはアドルフィートがおり、彼曰く、ファラルーケがいまセックスをした仮面の男は、向かいの家の旦那だったらしい……。

クリスマス休暇に入り、わがままな叔母レティシアはサンタ・クラーラへの旅に母アウグスタも同行するよう説得する。加えてセミーも一緒に行くことになった。駅でセミーは母リアルタとの一時的な別れをする。セミーは寝台車での夜を一睡もせずに楽しんだ。

レティシア夫妻は仕事付き合いでフロネーシス弁護士と関係があり、その息子リカルド・フロネーシスを家に招待していた。レティシア宅での最初の朝七時、リカルドが訪ねてきてセミーと挨拶を交わし、2人は友人となった。

レティシア&サントゥルセ夫妻とフロネーシス、セミー、レティシアの長男の5人は砂糖農園「三運命」を見学に出かけた。農園の所有者カスティーヨ・ディマスが彼らを出迎えた。製糖機械の視察中に、悪魔のゴドフレードが通りかかる。翌日、フロネーシスはセミーをカフェ「セミラミス」へ誘い、ゴドフレードの右目が盲目となったいきさつを語る。

ゴドフレードが15歳のとき。三運命農園の機械長パブロと妻フィレーバはセックスレスになっており、ゴドフレードは欲求不満なフィレーバを狙って家のまわりを徘徊するが拒絶される。その頃、農園には異常な肉欲行為("快楽なき性交")の研究に狂ったエウフラシオ神父がやってきて、神父は毎週土曜に弟の家へとフィレーバを連れ込むようになる。ゴドフレードは妻の不倫をパブロへと告げ口し、現場を目撃したパブロはショックを受けて酒に溺れ、家で自殺?を遂げる。神父とフィレーバの異常な行為をゴドフレードは窃視する。夫の死に狂乱するフィレーバに近隣が騒然となる夜明け、ゴドフレードは農園から逃げ出すが、街道を覆う蔓の一本に右目を突かれて失明する。

リカルド・フロネーシスとセミーは知り合ったこのとき共に「高校の最終学年」とのこと。


・第九章 pp.274-337

12/12 月 p.274~p.301(計27ページ)
ホセ・セミーの大学生時代。1930年9月30日、マチャード独裁政権に対する学生の抗議デモに、ウプサロン(=大学?)に通うセミーも参加する。宮殿に退避していたセミーはリカルド・フロネーシスに助けられる。フロネーシスはエウへニオ・フォシオンという25歳くらいの金髪男(学生ではない)と一緒にいた。フォシオンが挨拶を交わしたときの表情にセミーはいい印象を持たなかった。

セミーが帰宅すると、学生デモの報を聞きつけた母リアルタはひどく心配していた。母から息子への愛がこめられた熱い長広舌。

さっきも言ったように、この出来事、お前のお父さんの死という出来事は、答のないまま私を置きざりにしていったわけだけれども、私はいつでも夢見てきた、そしてその夢見るという行為こそがいつまでも私の生の根幹となるのだろう、それはまた、お前を記録へと深いところで突き動かす動因になるだろう、お前が変容として困難を試み、答を出そうとする動因に。誹謗中傷する人の中には、こうしたことばを私が言ったことはないと考える人も出てくるだろう、すべてお前が作りあげたことなのだ、と。でも、お前が記録によって答を出すことになったとき、お前にも私にもはっきりとわかっているだろう、たしかに私が言ったということが、そして生きているかぎり言い続けるだろうということが、そして、わたしが死んだあとではお前が言い続けることになるだろうということが」。
これらのことばが、セミーが生涯で聞いたもっとも美しいことば──福音書で読んだことばに次いで──であることが私にはわかっている。そしてまた、彼をこれほど決定的に前進の途につかせることばをけっして聞くことがないのも私にはわかっている。 pp.284-285

地の文の語り手(ときどき「私」として現れる)はどうやら主人公セミー自身っぽいなと100ページくらい前から薄々察してはいたけれど、これは、そういうことでいいんだよね? ちょいメタフィクションっぽい。ここでの母リアルタの台詞(テクスト)自体が語り手による創作である可能性(「誹謗中傷」)に触れたうえで「すべてお前が作りあげたことなのだ」と力強く言い切る。

(やや前に戻って、抗議デモのくだりでの印象深いクソ長い一文をメモっておく)

公園のほうに曲がりこんだ学生たちのグループは、いろいろな道を通ってふたたび本流に合流してサン・ラサロ大通りを下っていった。非常に幅の広い歩道があって朝早くから往来の多いこの通りでは、いくつもの塊になった通行人は、それぞれがやがてガリアーノ、ベラスコアイン、インファンタの通りに吸いこまれていくわけだったが、ある人はブティックに行くためだったり、たくさんある教会に行くためだったり、あるいはその両方を順番にすますためだったりして、ミサに出たあとで、病気の完治をお祈りしたあとで、恋の幸運を、子供たちの試験の成績をお願いしたあとで、彼らはショーウィンドーからショーウインドーへと滑っていき、ある服地の光沢具合を好きになったり、あるいは単に、このほうがなおさら胸苦しいことであるわけだが、十回も二十回もたったひとつのろくでもないものの前を行ったり来たりして、それはまったくの気まぐれであって、絶対に必要なものというわけでもなく、けっして自分のものにはできないものであって、まさにそれゆえになおさら輝きたっているわけだが、その星はやがて私たちの物欲の中で光を失っていき、私たちの無意識の中の目に見えない星として残って、ところがそれがあとになって、学生の中に、あるいは兵士の中に再浮上してきて、すると、それが一方では殺す根源になり、他方では殺される根源になるのだった。 pp.278-279


セミーは色々ありすぎた一日に疲れて喘息の発作を起こしてしまう。夕食を抜いてそのまま自室で燻蒸散の薬を飲んで眠ろうとする。そこで彼はふたつの「沈黙」に関する夢──トラを狩る夢と森で妻が迷子になる夢──を見る。未明の2時頃に目を覚ますと、スエトニウス『十二人のカエサル』第六章のネロを取り上げたくだりを読みかけていたことを思い出す。半ば眠った状態で読みすすめる。午前四時半ごろ、セミーは勉強部屋に戻り、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』を手に取る。

以前に下線をつけていた段落を探していき、すると突然、こういう箇所を読んだ──「どれほど少数の男にだけ、このような力が与えられていることであろう──天体と同じように規則正しく、常に姿をあらわし、昼と夜の両方を統御して、日常の道具を作り出し、種を蒔き収穫し、保存し消費し、落ちついて、対象への愛と順応をもって、いつも同じ円をたどって進むことができるような」。この一節の欄外に、彼をして次のように書かせたのは、思春期の若者の傲慢さであっただろうか──「僕か?」と。 p.288下

わろた


結局セミーは寝不足のまま午前10時過ぎに起きて、温かいお風呂に入り、家族での昼食のあとのシエスタでようやくぐっすりと眠ることができた。その後セミーが行きつけの書店へ向かうと、エウへニオ・フォシオンともうひとりの若者が話をしていた。知識の浅い若者をフォシオンと店長はからかっていたので、セミーはこっそり引き返した。フォシオンとネロの相似について考えた。夕食のあとで再び町をぶらついていると、映画館の前で老人がさしだしてくるタバコを断ったあとに向かったマレコン(海岸通り)でフロネーシスとフォシオンが座り込んで話し合っているのを目にする。そこでのフォシオンは書店での傲慢な様子とは別人だった。その晩、セミーは薬をつかわずによく眠ることができ、午前5時に気持ちよく起きた。ウプサロンへ登校すると、前日のデモの雰囲気はどこかへ行っていた。

フロネーシスのカリスマ性について。

われわれがフロネーシスと一緒にいるときには、彼の徘徊点は間断なく彼を待ち受けていて、彼の周囲を活気づけていた。それはカンディンスキーのあの台詞を思い出させた。「絵画の中では、ひとつの点は、一人の人物像よりも大きな働きをする」というものだ。しかし、フロネーシスは恒常的に、自らの像がその場にいる間、点のほうは、彼の周囲の城の居室のすべてを巡回することで、魔術的な呪文として存在を彼に貸しているのだった。それはちょうど、挿画派の巨匠たち、フーケとかランブール兄弟とかが実現していたのと似通った効果であり、そこでは、遠さと霜の薄層とが合わさって徘徊点を実現し、それが岩のごつごつした城と広大な白色の広がりにとってかわっていたのである。 p.295

「遠さ」という単語が出てくると条件反射で付箋を張ってしまうようになっている(この作品の本質を言い当てている文ではないのか?という期待とともに)。

ドン・キホーテ』を論じた授業のあと、フロネーシスが教授のドン・キホーテ論をこき下ろして自説を披露する。セミーも豊富な文学批評知識を投入して議論に応じる。フロネーシスはセミーが加わってきたことを余裕をもって喜んでいるようだった。
ここのドン・キホーテ論けっこう興味深い。

セミーは残りの授業を放棄して、フエルサ城の国立図書館へ向かった。城塞の石積み壁を目の当たりにして、父に連れられて行ったカバーニャ要塞の湿気のせいで喘息が発症したことを思い出し、ヒョウタン色をした男が馬の毛を自在にあやつるさまを幻視する。

300ページこえた!!! これでようやく折返しだ……

 

12/13 火 p.301-323
前章で放校になったレレーガスが漕艇競技者の寮に入寮し、そこのカリスマ的運動選手バエナ・アルボルノスと地下室で同性間の性行為をおこなったスキャンダルが、ウプサロンの学生のあいだで持ちきりだった。

セミーはこのような批評が行き交う中では自分のすべきことはないと理解し、衒学詞華おしゃべり学部へとひとっ飛びした。 p.306上

哲文学科のこと?笑

「衒学詞華おしゃべり学部」ではフロネーシスが性的逸脱について自論を熱弁していた。

人間における季節は順次に継起するものではない、つまり、人によっては、あの無垢の状態、幼児期の生が、生涯続く場合もある。 p.306

レサマの無垢な幼児性全コミット姿勢がわかりやすくあらわれている。
子供=詩人=未開人
本小説の「詩」的な面もこうしてテーマに回収されるのか。

ここにフォシオンが口を挟み、フロネーシスと持論を交わし合う。かなり煽り合っていてバッチバチのレスバ状態。しかし古代ギリシャや中世の人物・神話などを縦横無尽にどちらも引用しては詩的な言い回しをするので何を言っているのかほとんどわからない。ソクラテス、ディオティマ、カトリック、バッハ、シェイクスピア……

男は、というか、呼び名は何でもいいのだが、人はけっして擁護立証(その一語をフォシオンは強調した)できない、自分がなぜ同性愛であるのか、ということを。 p.308上

しかし、予想外の悲喜劇は、人間はその返答を取りこんで同化できるということだ。 p.308下

しかし、カトリックにおいては、善のほうが美よりも余計に謎であって、善のほうが詩(ポイエーシス, 訳注:創造性)よりも創造的とされる。 p.310上

一部の馬鹿者が詩的創造性とは詩においてのみ実体化しうるものだと考えるようになっているのと同じように、一部の馬鹿者は、フロイトに倣って、陰茎と、肛門と、口と、陰門だけが性の器官だと考えるようになっている。 p.310下

この時代でもさらっとdisられているフロイトさん……。多様なセクシュアリティ、エロティシズムの志向?
「詩的な小説」である本作への言及ともとれるか。

こんにち、われわれにとって性的逸脱と思われているものはすべて、過去の回想のなかで生じているのだ、というか、衒学趣味ということではけっしてなく僕としては、不死性の過大発達(イペルテリア)とあえて呼びたいものから生じているのだ。つまり、創造の追求であり、生命の継続の追求であり、血や精神の因果関係をすべて超えた向こう側にあるもの、人間によって作り出されたものの創出、人類という種にとってまったく未知であるものの創造のためなのだ。新しい種の出現が、不死性の過大発達の一切を正当化して擁護立証してくれるはずなのだ p.312上

なんかいきなりSFチックになった。フォシオンはつまり、性的逸脱の創造性=不死性=超越性を礼賛しているってこと?

インド人にも、確定されていない性別というものが存在した。つまり、性器においてのみ受肉されるのではない性別ということだ。 p.312

現代のリベラル思想とはまったく隔たった文脈でこういうトランスジェンダーっぽいものが言及されるとテンションあがる。雑に同一視してはいけないのだろうけれど。

「人間」「人」がおそらく自明に「男」だけの意味で使われているし、男性の同性愛者(ホモセクシュアル)が女性嫌悪ミソジニー)を伴っているという前提に立ってもいるようだ。

……ちょうど、セミーの言い方をまねて言えば」──このように名前を出して言うところから、フォシオンがフロネーシスをめぐってセミーに勝ちたいと思っていることが見てとれた──「…… p.314

セミーそういえばいたんだ
フォシオンは一貫して、知識教養はあるが性悪な俗物として描かれている。

逆説的だが、バッハの音楽はギリシャ人がロゴス・オプティコスと呼んだものの内にある。つまり、彼は音まで視覚的に見る。一方、シェイクスピアにおいては、あの言語的奔流、並ぶものなきあの創造的奔流は、洞窟から吹き出してくる噴煙であり、啓示を受けつつある巫女を呼吸困難で昏倒させる。二人ともバロック人だったが、バッハのバロック性は数字的であり、組み合わせ的であり、おとなしくピタゴラス的であるのに対して、シェイクスピアバロック性は、巻き貝の中にぎゅうぎゅうと入りこんでいくことで成り立っている。カリカリと音がして、隠喩から火花が散る。 p.315上

バッハとシェイクスピア。視覚的な音楽と言語(隠喩)。2種類のバロック性について。これは訳者解説にあった、カルペンティエールとレサマのバロック文学性の違いに対応している?(だとしても、これはフォシオンの台詞なのでそれを作品や作者の主張と直接結びつけることは何重にも危うい)

 ……」とフォシオンは段落を笑いながら終えた。
「……

台詞に「段落」とかあるんだ……

こいつら、レスバの1レス1レスが長すぎて、ずっと自分が喋ってるのに途中で「」を閉じて間髪入れずにまた新たな「」を続けるし、ひとつひとつの「」を段落だと思っている。

今、君が言ったこと、君によればそれは僕に嫌な思いをさせるためではないというんだが、そういうのこそが、ほとんど唯一、僕を嫌な気持ちにさせることだ。 p.318

これぞレスバ

しかし、男の子として気に入った相手のことを、調子のいいお伽噺みたいなものを打ち明けられたあとで、女の子として味わい享受するなんてことができるはずはないんじゃないか。 p.321

「おい、僕が一度も触れたこともない話題について、何か言ったことにするんじゃないよ」とフォシオンがほとんど怒鳴るようにしてさえぎった。 p.322

あるある

「今こそが言っておくべきときだと思うが、君もまた僕の親友なんだ」とフロネーシスは言った。自分の台詞がフォシオンにあたえた悪印象だけでなく、セミーの中に引き起こした不快感をもうち消すためだった。「君は僕の親友なんだ」とフロネーシスはもう一度くりかえした。「だけど、同時に、君は僕にとって一番不可知な存在でもあって、君が仮面を脱いでいけばいくほど、君の不可知性は、君が捨て去っていく仮面を全部拾い上げていくみたいなんだ」。 p.323

とつぜんの友情エモ路線。これにフォシオンはほだされてしまう。な〜んだ、結局は痴話喧嘩・イチャつきだったんかい。

一貫してフロネーシスはフォシオンより上手であって、狡猾だな〜

 

12/14 水 p.324-340

演説しているフロネーシスのもとに、二十歳の金髪女性ルシーアがやってきて、デートの約束をしていた彼を強引に連れていった。

ルシーアは、フロネーシスの友人の女子学生と同じ下宿に住んでおり、学生ではなく求職活動中の若者。

下宿屋では、仕事を探しているのに見つからないという人特有のロマンティックな磁力によって人気があった。しかし、それは、下宿屋の女の子たち全員が、彼女は自発的な失業による暇な時間を低級なエロスによって埋めているみたいだ、という確信から彼女と少しばかり距離を置くようになる時期がまだ来ていなかったからだ。 p.327

フォシオンは親友であるフロネーシスが他の女と親密になるのを快く思っておらず認めることができない。

フロネーシスの代わりにセミーがフォシオンの議論相手となる。(ここで絶望した。おいセミーお前まで!この意味わからん哲学問答まだ続くのかよ……と。)

アリストテレスやら聖アウグスティヌスやらトマス・アクィナスやら。自然に反する悪習(=同性愛)が獣的行為であり、獣は罪を犯せないとすれば、同性愛は罪ではない、というアクィナスの三段論法など。

いつの間にか教室にはふたりだけになっていた。銃声が聞こえた。ウプサロンでは学生たちの集会が守衛と警察に弾圧されていた。ふたりは別れて、フォシオンは抗争している群衆に加わっていったが、セミーはひとりで家に帰ろうとした。そのとき中央階段で、巨大なルビー色の男根の山車の行進を幻視(?)する。

第9章おわり!


・第10章 p.338〜p.405

12/15 木 p.340-370

フロネーシスとフォシオンが、一見、客観性を見せながら語ったことを思いかえしながら歩いていった。彼らのことばの背後に隠れている小説のことも考えていた。 p.338

「彼らのことばの背後に隠れている小説」とは!? いきなり小説が出てきてびっくりした。そのひと固有の実存的な思想、アイデンティティみたいな意味?

セミーが午前中の大学での出来事、フロネーシスとフォシオンのことを考えながら街を歩いていると、公園近くの緑のベンチでフロネーシスとルシーアがイチャイチャしているのを見つけた。午後、セミーがイゾルデの現代版が上映されている映画館に入ると、またもやフロネーシスとルシーアに遭遇した。情熱的に誘いかけているにもかかわらずフロネーシスに冷たくあしらわれるので、ルシーアは機嫌を損ねてひとり出ていってしまった。館内にはセミーだけでなくフォシオンまでもがいて、親友とその彼女のやりとりを凝視していた。セミーはフォシオンを見つけると外に出たが、逆にフォシオンは彼女のかわりにフロネーシスの隣に座った。フロネーシスはまったく動揺しなかった。

彼はフロネーシスの彼に対する気持ちのありようを解読できず、したいようにさせていたが、それでいてこの友情が沸点まで達したら、ただ一人煮沸消毒されてしまうのがフォシオン自身であることをわかっていた。フロネーシスは彼のことを皮肉と情愛と寛容をもって観察していたが、けっして彼のゲームには加わらず、すでにゲームに勝ったものとして観察しているだけだったが、問題は、フォシオンのほうも全然負けるつもりはないことだった。(中略)彼はフォシオンの迷宮の高貴さを理解していたが、それでもその出口のドアまで彼と一緒に行くのは拒んだ。その扉には、彼がけっして解読したいと思うこともないような書きこみや記号がいくつも書きつけられているからだった。 pp.343-344

フォシオンの一方通行というか非対称なフロネーシスへの感情がさすがに気の毒になってきた。BL二次創作がはかどるやつ。というかフロネーシスが別格の出来杉君として描かれすぎてて萎えてくる。

映画館を出たところでフォシオンはフロネーシスを「今夜、マレコンの曲がっているところで会おう」といつものように誘うが、ルシーアの部屋に行くつもりだったため、フロネーシスは適当に誤魔化した。ふたりがカフェに入ると、酒に酔ったセミーがいた。

「僕らはどうやら、ピタゴラス的な三角形を形成するように作られているようだ」とフロネーシスが言った。「偶然が僕とフォシオンを映画館の冥界の中で出会わせ、偶然が僕らをセミーと光の中で出会わせる」。 pp.344-345

三人は酒場を出た。フロネーシスは自分がすっぽかすのを前提で、セミーをマレコンでの夜の会合に誘った。(フォシオンをひとり待ちぼうけにさせないため)

家に着くとセミーは、フロネーシスとフォシオンについてまたじっくり思索にふけった。

しかし、彼はすでに笑いながら口にしていた──友が二人いるということを。一人はフォシオンで、ハデスへの下降における友。セミーがもう一人で、光へともどるときの友だった。友情の三角形があれば、青春を手に入れることができると彼にはわかっていた。それゆえに彼は至福を覚えていたのだ、熱情に満ちた友と、彼のことを詮索し、彼の行間を探り、彼のことを点検してくれる友の二人を持つことの聖なる力を感じていたのだ。その二人が、二人の歩哨兵のように、片方が眠っている間にもう一方が彼の眠りを見張り、ずっと待ち伏せしていて、不吉な予感を運んでくる鳥が彼の額から侵入するのを防ぐのだった。 pp.347-348

フロネーシスにとってフォシオンとセミーがいかなる存在か。しかしここの滔々とフロネーシスを描き出すくだりは地の文(≒セミー)であるため、どこまで信用できるかわからない。セミー自身のバイアスが多分にかかっていると思われる。

そのため、フォシオンの行動は、その行動の論拠の根元に沿っているのではなく、ある動体が任意の一点まで移動する間に通過していく点の連続の中にあるのだった。彼の行動を形作っているのは、彼の動きの中の一点に過ぎず、つまり、彼の根っこには確定されない多義的なものがあり、その行動はけっして確定した形、スコラ哲学者たちの言い方における、物質の変容推移における最終的な形態をとることがなく、かわりに、欲望された潜在的可能態をとるのであり、それは隠れ家から姿を見せたかと思うとすぐさま、ヤコブのはしごを昇っていって姿を消してしまい、まったくリズムも連続性もない変容の密やかな進行によって、自由自在(プロテイコ)なものが邪悪(プロテルボ)なものに変わってしまうのだった。p.348

これはセミーのフォシオン評だが、根本のテーマに基づいて厳密に組み上げられているのではなく、その場その場の表現の連続のなかに本質的な魅力があるという意味ではこの小説そのものを言い表しているとも解釈できはしないか。

その夜、マレコンでセミーとフォシオンは、来なかったフロネーシスについて語り合う。

このような印象が当たっているのか、的外れなでっちあげなのかはわからないが、彼の引力は意味と運命とを緊密に結びあわせているように見える。地球の中心へと向かう彼の引力は屈強なため、彼に対して人があてずっぽうで言うことはすべて彼にぴったり当たっていてその通りなのだと見えてきてしまう。その通りなのだと信じないでおくためには、それが本当ではないと証明しなければならなくなっている、なぜなら、任意のある一瞬において彼に対して指摘される好意的な見解は、すべて本当であるように見えてしまうからだ」。 pp.350-351

セミーもフォシオンもフロネーシスのことが好き過ぎる。とくにフォシオンのフロネーシスへのいわゆる「巨大感情」が……

フォシオンはセミーに、フロネーシスの両親の来歴を語る。

いま弁護士であるフロネーシスの父親は、昔はウィーンに赴任した教養あるキューバ人外交官の息子であった。当時ヨーロッパを席巻していたバレエの舞台芸術家ディアギレフ(実在する人物)がウィーンに立ち寄っていて、現地のアマチュアのウィーン娘を何人か編入して上演していた。その乙女たちのひとりがズンスター嬢で、彼女はフロネーシス父に惹かれているようだった。フロネーシス父はディアギレフと深い友情を築き、ディアギレフの仲介によって恋人となった。ディアギレフのバレエ団がウィーンを離れても、ズンスター嬢は家出してそれに付いていった。やがてフロネーシスが生まれた。しかし、ズンスター嬢は自身の息子にまったく関心をもっていなかった。彼女の真の目的はディアギレフのバレエ団にくっついていくためで、フロネーシス父は利用されたに過ぎなかった。そして、ディアギレフは「男色家」であり、ズンスター嬢ではなくフロネーシス父に強烈に惹かれていた。

悲惨な事実を知って絶望したフロネーシス父はズンスター嬢の父親(エンジニア=工学士)と落ち合った。ズンスター工学士いわく、ズンスター嬢の妹であるマリア・テレサ・ズンスターはとても善良で高貴な女性らしい。そうして、マリア・テレサ・ズンスターはフロネーシス父と結婚し、フロネーシスの血の繋がっていない母親になった。

フォシオンは、フロネーシスのなかにはズンスター嬢の悪魔的な血が入っていると語る。

セミーとフォシオンが夜通し語り合っているところに、フォシオンの友人たちが乗った車が迎えに来る。明日フォシオンはハバナを発つことになっていた。ふたりは再会を約束して別れる。

一方その頃、当のフロネーシスは恋人ルシーアの下宿へ赴いて彼女を誘い出し、友人が貸してくれたアパートメントの一室で性行為をしようとしていた。彼女の陰門が不気味なものに見えてしまうフロネーシスはなかなか勃たなかったが、Tシャツから円形を切り取ってそれに切り込みをいれた布地で性器を覆い隠すことでなんとか挿入することが出来た。

フォシオンは仲間たちの車で自宅まで送り届けてもらった。

セミーってのはハバナの都心出身のやつで、何ごともじっくり反芻して考える暇人なんだ、どんなにつまらないことでも。(中略)顔にも奇妙なところ、皮肉な悲しみみたいなものがあって、いつもこう言っているみたいなんだ──何ごともすべて偉大になりうる、にもかかわらず、すべてが惨めだ、いったいわれわれはどうすべきなのか、みたいな」。 pp.362-363

フォシオンのセミー評
フロネーシスやセミー以外の友だちと話しているフォシオンのほうが、肩に力が入ってなくてなんか好きだな。楽しそうだし

フォシオン宅の向かいの通りに、昨夜カフェで見かけた赤毛の若者が座り込んでいた。フォシオンは彼を書斎へ連れ込んだ。赤毛がナイフを持った手を高く掲げるとフォシオンはむしろそれを歓迎した。ちょうど今夜自殺しようとしていたので、殺してくれ、とフォシオンは言った。赤毛は殺すのを諦めてナイフを下ろした。

翌朝、赤毛を起こさないようにフォシオンは家を出て、迎えに来た仲間の車に乗り込んだ。目を覚まして宿主がいなくなっていることに気付いた赤毛は侮辱されたと感じ、靴箱の古靴に放尿し、置物を投げてめちゃくちゃにしてから出ていった。

フロネーシスはルシーアを下宿に送り届けたあと、マレコンへ行って海辺の岸壁のうえを歩いていた。

あの赤毛、こうやって再登場するのか〜〜 いきなりドラマチックになって笑った。いいよ、そういうのもっとちょうだい

 

12/16 金 p.370〜389
フロネーシスとセミーがまた教室で難しい議論をする。なんもわからん。

その後、セミーはサン・ラサロ街の飲み屋で酩酊するバス運転手の唄を聞く。

帰宅すると、レティシアとサントゥルセ医師の夫妻とその子供たちがサンタ・クラーラから到着していた。レティシアは再び、母親アウグスタをサンタ・クラーラへ連れていこうとするが、アウグスタはもうひとりの娘リアルタが線維腫で手術を控えているために嫌がっていた。その夜はセミーが場を取り持ってリビングから解散させた。

12/21 水 p.389-405 第十章おわり

午前の授業のあと、セミーはまたフロネーシスと会い、「向かいのかわいいカフェ」に行こうと誘われてそこでフォシオンについて語り合う。

「……君たちは、フォシオンと君とは、潜在的に関係可能な二人だ。フォシオンと僕とは、観察可能な異なった視点として認めあっている。フロネーシスとセミーは」と、彼は君と呼びかけるのを避けたかった。「関係が成立している二人だ。君たちが友達なのは、その友情のおおもとに、破壊するもの、常に潜在的に関係可能なものであって、しかしけっして関係が成立していないものがあるからだ。君と僕とが友達なのは」と今度はここで君と呼びかけるのが適切だと思った。「僕らは関係が成立しているからだ、僕らは互いに話が通じるし、僕らの会話は二人の明瞭さと晦渋さの両方によって支えられている。君の明瞭さは僕の晦渋さを消し去ろうとしないし、僕の混沌は君の自然な整頓を爆破しようとしない。それゆえに僕はいつも、このふたつの友情の種類を区別している──潜在的関係可能である友情、ないし、スフィンクス的な友情と、関係ができている友情、ないし、対話的な友情だ。……」 pp.389-390

「ほとんど全部、君の言うのは当たっているよ」とフロネーシスが答えた。「ただ、もっとも大事ではないいくつかの点では外れている、ただしこの場合ばかりは、それがもっとも決定的な点でもある。君の使った直喩、樹脂の染み出たフォシオンの薪で、僕が自分の顔を見る、というのがちょっとばかり不安な気にさせる。……」 pp.390-391


数十ページ前でフォシオンが勝手にフロネーシスの両親の来歴をセミーに語ったが、今度はフロネーシスがフォシオンの両親・生まれについて(セミーに)話す。このエピソードがめちゃくちゃ面白い。やっぱ哲学的・教養的な議論よりも人物のおはなしを語ってくれたほうがおもろいって……!

弟に寝取られて狂った医師の父と、それに付き合って看護師役をする母……というヤバい環境で育ったフォシオン。だんだんフォシオンというキャラクターに同情して好きになってきた。
てかフォシオン結婚してて息子いるんかい。そして同性愛者でもあると。

「……近くにいる人間同士がたいがいそうであるように、また兄弟がしばしばそうであるように、彼らは正反対のタイプで、ニコラスは、髪に花を飾っている女の子に対して何か話しかけようなどとは考えることもなく暮らしているのだが、ある日急に、自分でもわけのわからぬまま、その子に近づいて、言わなければならないことをすべて言ってしまうようなタイプであるのに対して、フリアーノは、髪に花を飾っている女の子を前にして毎日、大事なことを言おうと考えているのに、けっしてその決断が、たとえ雨宿りでどこかの家の戸口で偶然その子と鉢合わせしたとしても下せないタイプなのだった。そういうわけでニコラスは医学部を卒業して、若くして働きはじめ、髪に花を飾っていた女の子と結婚したのに対して、フリアーノは取りかかったことを何も最後までやり遂げられず、仕事も見つけられず、その花とその髪こそが真夜中に遠吠えする彼のメランコリーの結節点となったのだった」。 p.392上

いい文章だ……。フリアーノなみなさ〜ん!!

「……そういうふうにしてことは起こる、ほとんどいつも起こる、もちろんいろんなちがいはあって、だから各人がそれぞれ解決する、あるいは解決しないままになる。それを解決した人間と、解決しなかった人間というのはいつでもいるだろう、しかし、その領域についてうち明けるというのはすべて、不道徳なものだ、第三者に参加を求めることになるからだ、そして、そうしたらもうけっして解決できなくなってしまうだろう、なぜなら、二人の人間の上に同時に下りてきた明るさは、けっして暗いものを、エニグマを、うち負かすことができないからだ、完遂されなかったことへの挑戦には、時間のための時間が必要で、どの挑戦者にも、それぞれが独自に選んだ敵がいるのだから」。 p.399

セミーは母が入院しているクリニックに向かった。リアルタは線維腫の手術を無事に切り抜けて寝ていた。サントゥルセ医師がセミーに見せた、切り取られた線維腫についての解剖学的・地形学的な描写が何ページも続く。


・第十一章 pp.405-464

12/22 木 p.405〜410

セミーはフロネーシスを絶えず「眼前に見」ながら歩いていた。(実際に一緒にいるわけではない)

フロネーシスは青春期にあってすでに全面的に能力が展開しているという点で魅惑を発しているのだった。十五歳と二十五歳の間では、限定された一部の人間だけが、とくに目立つ重みと、秘密の酩酊をもたらすものだが、それは実際には、生から死への捧げ物であるかのように見えても、死に対して無様にひれ伏すのではなく、まるで新しい季節の黄金色の中で芽吹きはじめる種子の笑い声を事前に感じとっているかのように、生の根元そのものから死に対して賞賛の声をあげていることなのだ。 p.406上

それは、身体と樹木の間にとどまっているその高貴さの中において、遠いものを近いものと等価にしてしまう視線なのだった。 p.407上


12/23 金 p.410〜p.433
青年3人の互いの関係、印象についてのセミー(と語り手)の考察が続く。

同時代のもっとも偉大な創造者たちにおける待機と呼び出しの間の関係性の深遠さは、ある告知において実現される──それは、超自然となるまで成長しなければならないことこそが自然なのである、もう一度創造的になろうとしなければならないようなものは派生的なものである、と彼らに告げ知らせる。 p.411上

 

セミーはなおも、哲学科が学んでいる大学の廊下を進みながら、ずっとフロネーシスを〈眼前に〉見ていた。p.411下

授業が終わり教室からフロネーシスと取り巻きが出てきて、ま〜たセミーとの対話が始まった。

「一」から「七」までの数字の神秘性について順番にふたりが語る。その「ピタゴラス的な象徴性を満載した数字の魔術」に取り巻いていた他の学生たちは拍手喝采するが、その行為がふたりは気に入らない。脳死で褒め称えるんじゃなくて、自分たちに付いて来て、「コロス」としてもっと参加してほしかったと嘆く。そこからソポクレス『アンティゴネー』のアンティゴネーと、太古のドラゴン、聖ホルヘに関する難しい話につながる。なにもわからない。イエスの一節「乳飲み子をもつ女と身重の女は哀れである、なぜなら刃物の餌食となるからである」を引いて、その女たちと、「復活」の日に明らかになるドラゴンと聖ホルヘの差異についてなにか話しているっぽい。

サタンの傍らにいる母親たちは、救われた子供たちとともに、ふたたび楽園(パライソ)にしっかりと安住していて、サタンの決定的な勝利を祝うはずだ。 p.419下

ここで小説のタイトル(のスペイン語訳)がチラッと出てくる。

ふたりの議論が終わりかけると、フロネーシスはいきなり上着のポケットから封筒を出してセミーに渡した。「君にこの取るに足らぬ贈りものをしよう」。そこには「ホセ・セミーの肖像」と題された自作の詩が入っていた。セミーはとても驚いた。

クリスマスの休暇が始まる前の最後の授業の日だということに、彼と話をしたいという欲望はなおさら激しくなった。 p.422

まじかよ。まさに「クリスマスの休暇が始まる前の最後の勤務」を終えて退勤している金曜夜の電車のなかでここを読んでいるので、現実とのリンクにテンション上がった。

セミーは詩のお返しとして、母から貰ったペルー製の銀の小さなリャマ像をプレゼントしようとフロネーシスを探しに行ったが、彼は授業を初めて欠席しており会えなかった。とつぜんフロネーシスが姿を消したことに悩み、セミーはその夜一睡もできなかった。翌朝フロネーシスの家に向かうと、予想通りすでにサンタ・クラーラにクリスマス休暇のために旅立ったと知らされた。

その夜にマレコンのいつもの「曲がるところ」へ足を向けると、フォシオンがニューヨークから帰ってきていた。

フォシオンのニューヨークでのエピソード。滞在しているホテルでデイジーという金髪の若者に一目惚れしたフォシオンは、彼女の仕事場までストーキングして接触を試みる。ホテルのエレヴェーター係に、デイジーに接近するには彼女の弟ジョージとまず仲良くなったほうがいいと助言され、その通りにする。詩人ハート・クレイン談義などに花を咲かせてフォシオンとジョージは互いの部屋でセックスをする仲になる。あるとき2人がベッドで絶頂する間際に、姉デイジーが裸であらわれて、そのまま弟と近親相姦をする。

こうして近親相姦的な三人関係は、両性具有的な二人関係、クリトリス的二人関係へと分裂し、ジョージのための日と、デイジーのための日に分かれた。しかし、予想された頻度をもって、われわれは三人関係へと立ちもどりもした、太陽と地球と月がひとつになるように。ただし俺はほとんどいつも、沈黙の友なる月(ルナ・シレンティアエ・アミカエ)のほうへと傾斜していたがね」。 p.432

 

俺が小動物がいっぱい出てくるシエスタから目覚めて、ホテルの部屋から出ようとしたところでのことだ。 p.427上

かわいい

彼女の部屋のドアはその姿を斜めに切断した、つまり彼女の身体の半分が、残りの半分を拾いあげて水の籠に入れて運び去っていくみたいだったのだ、波打ちながら、変容しながら、反射の矢として pp.427-428

彼女はべつに、わざと目に入らないようにしていたわけじゃないと思う。彼女は相手を許容しない貴婦人というのではなく、それはただ単に、眠たい目をした雪の盲目だった。彼女は深海にいる小動物のように行動しているのだった、つまり、状況とか外部というのがあって初めて彼らは目を獲得することになり、それによって初めて行動から知覚へと移行できるのだ p.428下

親愛なるセミーよ、君は考えているだろう、俺の物語が探偵小説的な様相を呈してきたと、しかし、このお話にはそれだけじゃなく、すべてがあるんだ、無数の迷宮の中をたどってちゃんとついて行かないと、最後の、最良のパラダイス的大団円に行きつけない p.428下

やっぱり登場人物が何らかのエピソードを語りだすととたんに読みやすく面白くなる。小難しい衒学的な議論にはもううんざりだ!

クレインが亡命生活の中にこそ新たなる煉獄があると位置づけたのはとてもうまかったと思う、と俺は彼に言った、亡命生活というのはイノセンスの一形態であり、良くも悪くも明晰性の不在であり、時間の中での停止状態である…… p.430上


12/24 土 p.433〜454
フォシオンはサンタ・クラーラまでバスに乗ってフロネーシスに会いに行った。あらかじめ手紙を出して、町の中央広場にあるカフェ(以前フロネーシスがセミーに赤髪の少年の話をしたカフェ)で会う約束をしていた。しかし、やってきたのはフロネーシスの父親だった。「もうこれ以上、私の息子とつきあわないでほしいとあんたに言いに来た」。しかしフロパパの想像よりはるかにフォシオンはレスバが強く、完全に言い負かされてしまい「ぐぬぬ……」と退散する。

いいぞフォシオンもっとやれ!かっこいいぞフォシオン!おれたちのフォシオン!

 

あなたは、あなたの息子を、私から離れさせることはできないだろう、それは彼が今すぐにでもするかもしれないことだ、というのも、彼にとって私がまったく完全にどうでもいい存在である広大な領域があるからだ、しかし、道徳的な理由から、逆説的ながらそれは人が彼を動かすものと想定しているのとはまったく正反対のものだが、彼は私とつきあうのをやめないだろう。 p.436上

ここフォシ→フロのBL的に切なくてアツい。これでpixivのフォシフロ二次創作SSが盛り上がるな!

 

後日、セミーが街を歩いていると、角のカフェに座っているフォシオンが異様な存在感を発しているのに気付いた。フォシオンの向かいには、例のナイフで殺そうとした赤毛の若者が座っていた。

そのカフェに座っている一人の人物は、この通りの通常のリズムから、この地区の精霊たちの集団の重みをすべて、彼一人の存在とその発言の内容だけによってすっかり消し去っていて、その静かな直線上には、まるで鋏で切られてきたみたいに、いくつもの街区が、まるで地獄の祝宴に侵入するために突然仮面をかぶったみたいにして姿をあらわしていた──その祝宴は、察知できない程度に大地の軋みをたてながら地底からせり上がってきたようだった。それらの仮面は大きな島を占拠しているようだった、夜の精霊の根元的な湿り気の助言を受けながら。 p.437下

ここの後半の直喩の畳み掛け、すごく『パラディーソ』の文体的な特徴が極まっていて未読者への紹介に適切。

まず「まるで鋏で切られてきたみたいに」と「まるで地獄の祝宴に侵入するために突然仮面をかぶったみたいに」というふうに、ひとつの対象にふたつの直喩を一文のなかで重ねて、そこで比喩として登場した「地獄の祝宴」と「仮面」という言葉から次の2文でさらに追加の直喩を繋げてイメージを飛躍/飛散させていく。〈追い直喩〉とでもいうべき、『パラディーソ』で頻出する技法。ここまで読んできていて感覚がマヒしているので、もう正直この程度では「よし、普通の読みやすい文章だな!」とスルーしてしまいそうになる。

 

フォシフロは酔っ払いながら、アヌス=アヌビス神とフロネーシスについて演説していた。セミーを目に留めると、それに関するオリジナルの神託の詩を朗唱した。小便のために中座していた赤毛はこっそり去っていった。

「……自分の息子がギリシャ式のエロスに身を任せるのは自然なことだと彼女はとらえていた、怪物的な近親相姦に陥らなければ、それでいいそうだ。いつでもそうだが、同性愛が唯一いいのは、ハッハッハッハッ、もっと悪いことを防ぐからだ、俺の場合は、ハッハッハッ、自殺せずにすんだわけだ、ハッハッハッハッハッ、しかし俺も完全に頭がおかしくなったようだ、ハッハッハッ」。フォシオンは前開きをすっかり開くと、ペニスを取り出し、セミーはそれがスキャンダラスなほどの長さがあるのを見ることができたが、そのまま、ヘラクレスのように、ふくらむビールの泡を放尿しはじめた。 p.441

ここのスピード感最高すぎる

放尿したフォシオンを男たちの一団が車で連れ去っていき、こうしてセミーの前から、フロネーシスもフォシオンも姿を消した。

フロネーシスやフォシオンのような友人は、シベリアのステップ地帯を駆けていく青ギツネのように神秘的であり希少なものだ。しかし、そうした友に出会うのはそれよりもはるかにむずかしい、なぜなら、探索によっても、町の中での狩猟によっても見つからないものであり、彼らはまるで幻のようにやってきて、解読不能なかたちで立ち去っていくのだから。彼らは、つきあいの当初においては、永遠の仲間であるかのような印象を与えるのだが、われわれが目を覚ますと、ああなんということ、もう彼らはいなくなっている、彼らは止めることのできない流れのナカに水没してしまった、われわれには彼らを救出することができない、もう彼らはわれわれの呼びかけに答えないだろう、われわれのもっとも奥深いところでの好意がいつまでも彼らに向けられているにもかかわらず。 p.442

思春期の特別な友情の終わりエモ

そこから数ヶ月か数年が経って、セミーは学生でなく社会人になっている(らしい)。

彼は勉強部屋で、その日にオビスポ通りのショーウィンドーに並んでいた2つのフィギュア(バッコスの巫女と弓が欠落したキューピッド)を眺めていた。

親友を失ってフィギュア並べに耽溺する正真正銘の陰キャぼっちになってしまったのかセミー……

 

詩の実践、目的の知られていない言語的探求は、彼のうちに、ことばに対する奇妙な知覚を発展させていって、それによってそれぞれのことばは、まるで精霊たちの集会に加わった巫女のように席について、語群としての空間的な配置のうちにアニミズム的な奥行きを持つようになるのだった。彼のヴィジョンが彼にひとつの単語を届けると、それが目の前の現実とどのような関係にあるものであっても、その単語は彼にとって、自分のものとなったように感じられ、たとえその単語が、その出発点のヴィジョンからは解放されて彼にとって不可視なものであり続けていたとしても、それは円形の輪っかを獲得していき、そこでは見ることのできない抑揚と、触れることのできる造形性とが絶えず旋回していて、そのうちに、接触不能な造形性とほとんど可視の抑揚との間で彼は、両目を少し閉じると、ついにことばの外形に触れるにいたったように感じられるのだった。 p.443上

この小説の本質を的確に言い表しているとも解釈できそうな文章パートn

──形象は遠さの中に位置しているがゆえに永遠の胎児なのだ。 p.446下

「形象」と書いて「フィギュア」と読む。「遠さ」「イメージ」「子供」「永遠」という重要概念が一堂に会している。

セミー、ウプサロン法学部の事務局に就職したの?

コプト語の「タミエラ」(スペイン語での「袋(ブーチェ)」?)という単語の多様な意味について考えるセミー。

ウプサロン法学部の事務室で職員たちが行方不明の書類を探しているときに、我慢できずに「失くしてしまったものの四法則」を宣言してしまい、そこで聞こえてきたひとつの嘲笑について思い出す。

場面が変わり、フロネーシス家。両親といっさい口を聞かなくなった息子リカルド・フロネーシスに対して、親子関係の決定的な危機の可能性を予感しながらも恐る恐る接触する親たち。
インテリをこじらせすぎた青年の反抗期ってこんな感じなんだ……と面白い。息子も息子ならその父親も父親だから、気取りにまみれた空前の異様な親子喧嘩・家族会議の様相を呈している。

しかも、ここで本作の《家族》という大テーマに決着をつけようとしているかのようにも思える。ここまでの『パラディーソ』の構成は、前半はセミー家・オラーヤ家の家族の物語で、後半はセミー&フロネーシス&フォシオンというインテリ青年3人の友情の物語だったが、この二部構成をここでのフロネーシス親子のレスバによって一挙に回収しようとしているのか!?

「親に対する子供の側の真の反乱とは」と息子のほうは、この領域において父親をやりこめるのはむずかしいと知りつつも答えはじめた。「親になりたがらない、ということに尽きるだろう。しかし、ときには、種も風によって飛ばされる必要がある、というのも、血筋というのは、太陽光線から目をそらしつつ鉄の柵で守られた屋上から凧を飛ばすみたいにあやつることはできないのだから」。 p.455上

前半はとてもよくわかるが、後半がよくわからない。

12/25 日 p.455〜480

そして私が何よりも不快に思うのは、ウプサロンにおいて、もっとも悪辣な連中すらもが、君が同性愛ではないことを確信しているということだ、つまり、心の底では君があの男のことを嘲笑っているのだという。私が苛立たしく思うのは、君が、まさに道徳的な理由から彼とつきあっていることだ、というか、無理してつきあっていることをことさらに覆い隠していることだ。 p.455

リカルド・フロネーシスは、父親を「ディアギレフ(同性愛者の舞台演出家)から逃げている」と糾弾する。父は息子に「ディアギレフから逃げるのと、フォシオンに屈するのと、どちらも同じことだというのをよく考えてみてくれ」と反論する。

父子の口論が煮詰まってきたことを感じた母マリア・ズンスターは遂にふたりに割って入る。

だから私は思う、彼の反応を生み出すことになったいろいろな外的な出来事は、根本においては、母親を探しに行きたいという願望そのものなの。でも、彼がまだ見抜くことが出来ずにいるのは、私が、自分の中にあった少しばかりの母性を犠牲として捧げたということ、彼こそが私のただ一人の息子でいられるように、私は自分の子供を持とうとしなかったということ。でも私にはわかりすぎるほどわかっている、私は彼の養育にはかかわることができたけれども、彼の血にはかかわれないということが、だから彼が今、自分の母親を求めて無理にでも出ていかなければならないことが。 p.459

これに対する息子リカルドの応答

「僕は自分が生まれるところを見たわけじゃない、だから僕の母というのはいつでも、永遠にあなたのことだ、もしかしたら、もしあなたが子供を産んでいたら、あなたのことを僕は母とは考えないようになったかもしれない、しかし血という観点からすると、あなたの血は、あなたの妹の血と同じものだ、そして僕はいつもあなたのことを自分の母親として見てきたし、自分が死ぬことになるときまでずっとあなたのことをそう見続けることになる。僕は自分の母親を探しに出ていくことなのできない、なぜなら僕の母親は今ここに、すぐ隣にいるからだ。僕の母親ではないと言われた今こそ──そして今、想像力を必要以上に働かせるべきじゃないと思うのだが──、僕はあなたのことをこれまで以上になおさら自分の母親だと思っている、なぜなら、あまりにも明らかな自然さをもってあなたがおこなってきた犠牲は、その正反対であることを証しだてているからだ、つまり、あなたが僕の母親であるということ、今、僕は自分が新たに生まれたのを見たということ、そして今僕にはたしかにわかっている、あなた以外の何者も僕の母親ではありえないということが」。 pp.459-460

これで親子3人は和解して抱き合ってHappy end...
いきなり泣きゲーみたいになって草 もうゴールしてもいいよね……

母が喋って即解決するなら初めからせぇや、と思っちゃった。しかも生物学的な母親ではないという「血」(血統主義)を乗り越えてこれまで受けた愛と犠牲を肯定するかと思いきや、「あなたの血は、あなたの妹の血と同じものだ」と結局それに微妙に縋ってもいるし(マリアを慰めるための単なる気休めのレトリックかもしれないが)……。

父と息子の衒学的で抽象的な対話では収集がつかなくなったものを、「母」の「愛」で一気に解決してしまう展開そのものも非常に保守的でナイーブだ。(が、この小説が保守的なのは今に始まったことではない)

「家族」と「友情」の物語の合流・昇華としてこのフロネーシス家の家族会議を位置づけられないかと上で書いたが、母親の愛情ですべてが丸く収まってしまったので、その線は特に収穫がなかった。だいいち「家族」の物語とは主にセミーのそれなのだから、フロネーシスの家族でそれをやってしまうのはズレている(から期待するほうが誤り)とはいえる。


場面転換。セミーの祖母ドニャ・アウグスタが遂に老い先短くなり入院した。毎日セミーは祖母を見舞いに行く。祖母と孫息子の愛情あふれる会話。

「でもね、大好きな孫のセミー、おまえがそういうことを全部、おまえのお母さんや私の中に見てとるのは、おまえ自身の特性が、自然のための成長のリズムを捕らえるからなんだよ。けっして頻繁にはないゆっくりさなんだよ、自然のゆっくりさは、それに対しておまえは、観察のゆっくりさを対置する、それもまた自然の一部なんだ。観察を途方もない広さにまで運んでいくこのゆっくりさは、神の恩寵により、途轍もない記憶力をともなっている。たくさんの仕草、たくさんのことば、たくさんの音の中から、眠りと覚醒の間でそれらを全部おまえが観察したあとなら、そのどれが何世紀にもわたって記憶とともにいてくれるものなのか、おまえにはわかるはずだ。印象がわたしたちのもとを訪れるのは捕らえられないほど素早い、でもおまえの観察の才能は、劇場の観客みたいにしてそれを待つ、それがかならずやってくるはずの、かならずふたたび姿をあらわすはずのところで、それに手で触れさせてくれたりするりとすり抜けてみせたりするところで。そうした印象は、当初は幼虫のように軽い、けれども今度はおまえの記憶が、それに始原の泥のように、魚の影の像をとらえて定着させる石のように、消えずに残る実質を与える。おまえは自然の成長のリズムと言ったが、それを観察するには、それを追うには、それを敬うには、とても大きな謙虚さを持たなければならない。その点において、私もまた、おまえが私たちの家族の者であることが見てとれる。 p.462

「遠さ」と並ぶ本書の重要形容詞(の名詞型)、「ゆっくりさ」。宗教的・アニミズム的な思想のなかで、セミーは「観察のゆっくりさ」を持っているとアウグスタは言う。

数百ページ前にも一度あったように、ここも露骨に、この小説の語り手=セミーであることをアウグスタが本人に示唆するメタフィクション的な言説である。つまり、『パラディーソ』とは、ホセ・セミーが天性の「観察のゆっくりさ」を用いて、彼が経験した「たくさんの仕草、たくさんのことば、たくさんの音の中から」「そのどれが何世紀にもわたって記憶とともにいてくれるものなのか」を「劇場の観客みたいにしてそれを待つ」ことで選り分けて編集して紡いだ物語・文章である、ということか。

祖母が入院している病院にはフロネーシスに会えなくなって正気を失ったフォシオンも入院しているらしい。セミーは病院の敷地内の庭でフォシオンがポプラの木の周りを延々と回り続けているのを見かける。

しかし、日中と夜との間で振れ動くこの針の中で、セミーは突然、フォシオンにとっては、その絶えざる狂気の円形巡回によって水やりされているその木が、実はフロネーシスであることに気づいた。 p.463下

その翌日、アウグスタは昏睡状態に入り、そのまま覚醒することなく数日後に息を引き取った。家族・親族たちに見守られながらの大往生だった。彼女の死の瞬間に落ちた雷は、あのフォシオンが回っていたポプラの木に落ちて跡形もなく消し去っていた。

アウグスタの死と、フロネーシスの(木の)焼失が重ねられている。フロネーシス≒アウグスタ ってこと?

ともあれ、ついにアウグスタおばあちゃんが死んでしまった。いちばん好きな登場人物だったのでかなしい。

このセミーのくだりも、その前のフロネーシスのくだりもそうだけど、彼らインテリ青年は多分にマザコン(グランマも含む)の面が強い。「同性愛」について同性の親友たちと抽象的に議論することに耽る(色んな意味で)ホモソーシャルを内面化した若い男たちの根幹には、母親や祖母、乳母といった自分を愛して守り世話してくれる女性たちへのきわめて素朴な傾倒があり、こうしたところもまさにインテリ青年の典型・戯画として秀逸なのだろう。フロネーシスやフォシオンが同年代の異性に対して不能・拒絶を示すのもここらへんが関わっているのだろう。セミーの恋愛遍歴は……ああ、海外赴任中の浜辺でのおねショタ初体験があったか。あれくらいであんまり描かれていないような。

巻末解説によると、この十一章までで『パラディーソ』の本編はほぼ終わりらしい。確かに、第一章から印象的に登場し、主人公セミーの母方の家系を象徴していた祖母アウグスタ夫人が死ぬ、ということで、ある種の「終わり」感は強い。彼の友人フロネーシスやフォシオンに関しても、客観的に見て幸福か不幸かは対照的ではあるが、それぞれの物語に一応の結末が与えられたとは思う。フォシオン、本当に最後まで哀れな奴だったな……

ただ、主人公をセミーと見なしたときに、彼の人生はまだまだこれからだし、正直彼の物語にはあんまり動きがないので消化不良感はある。彼の家族や親族にいろんなゴタゴタが起こったり、彼の親友ふたりと抽象的な議論を延々としたり……で、彼自身が何をしたのか、というと、そんなに何もしていない。内省的な子供から内省的な大人へとすくすく育った、というくらい。『ハムレット』や『エヴァ』のような、彼自身からは何も決断せず行動もしない振り回され系の主人公とも違う。そんなに振り回されてもいない。強いて言えば、この小説の語り手・書き手がほんとうにセミーであるのだとすれば、彼の人生の「物語」とは、まさにこの小説を物語ることそのものであり、最初から最後までずっと活躍していると見なせるか。逆に言えば、彼はこの小説の書き手として面目躍如の働きをしているので、小説の「中」ではそれほど分かりやすく活躍させてはいけないし、波乱万丈な人生を送らせてもいけないのかもしれない。それでは、彼の使命たる、『パラディーソ』執筆というもっとも波乱万丈な物語の意義が薄れてしまうから。


・第十二章(p.465)

ここからラスト3章は、近代小説としては失格の、これまでの物語とはあまり関係ない内容が続くらしい。しかし、突然まったく違う話が始まるのなんて『重力の虹』とか、他のポストモダン小説でもふつうに読み慣れているとは思うのでそんなに心配はしていない……というか、本作にかぎっては、むしろ本編で意味不明な幻想パートや衒学的な議論パートを延々とされるほうがよほどキツいので、そういうのが無いほうに賭ければ逆に読みやすくて楽しみな気持ちすらある。(フラグ)

軍団(レギオン)隊長のアトリウス・フラミニウスの物語。年代設定からして分からない。いつの、どこでの、誰の話?

彼はカナダから熱帯にやってきたのだった p.465

「熱帯」というのがキューバのこと? 別の地域?

アトリウスの祖母マリア・ラ・ルーナ  既出じゃないよね!?

12/26 月
12/27 火 〜p.492
12/28 水 〜p.504

第十二章おわり
この章は、3, 4個の独立した寓話的なストーリーが数ページ単位で順番にぐるぐると語られるオムニバス形式だった。
・レギオン隊長アトリウス・フラミニウス
デンマークの水差しを割ってしまった少年
・強硬症(カタレプシー)の音楽批評家フアン・ロンゴをロウで固めて延命しようとする妻
・夜に肘掛け椅子と笑い声と部屋のドアの三重奏を聞く男
もっとあるかもしれないし、最終的には同一人物とか繋がるとかで収束していたのかもしれないが、なにもわからない。

12/29 木 〜p.513

・第十三章(p.501〜524)

雄牛の頭が歯車に設置されている乗り合いバス(なにそれ?)が不具合で修理のために一時停車する。そのバスの乗客をひとりずつ描く、またもオムニバス形式。

12/30 金 p.514〜559
ホセ・セミーいきなり久しぶりに出てきた! びっくりした〜 13章はちょっと本編と関係あるってのはホントだったんだ

セミーもそのバスに乗り込む。この章の最初に出てきた、ギリシャ貨幣を小袋に入れて持ち運ぶ骨董収集家から、素寒貧の家具職人マルティンシーヨが硬貨を盗み、使い物にならないとわかったので、正面のアダルベルト・クラーの右ポケットに小袋を放り込んだ。この一連の展開を観察していたセミーは、こっそり貨幣を骨董収集家のポケットに戻した。
翌日、セミーのポケットに昨日の骨董収集家からのメッセージカードが入っていた。彼はあのオッピアーノ・リカリオだったのだ! セミーは彼の言う通りエスパーダ街615番地を訪れた。エレヴェーター・ボーイの聞き間違えで、7階のウルバーノ・ビカリオの所に一度案内されてしまい、そこから下を見下ろすと、オッピアーノ・リカリオと共にマルティンシーヨ、アダルベルト・クラー、ビビーノという乗合バス3人衆の形象も見えた。1階のリカリオのもとへ辿り着いてセミーはその男と再会した。

リカリオはふたたびトライアングルを棒で叩いてから言った──「さあ、これでわれわれは始めることができる」。 p.524上

お〜〜 最後の最後で、例の重要そうな人物、父エウヘニオの死に立ち会ったオッピアーノ・リカリオが再登場していい感じに締めた!! このまま再登場しなかったらどうしようと思っていたので安心したよ。あんがい普通の小説っぽいじゃないか。円環的に終わらせようとするところも。ちなみに、オッピアーノの台詞で、この章の時系列は父エウヘニオの死から10年後であることも分かった。

さて、次の本当の最終章で、またセミーらとは関係ない話になるらしい。どうやって締めてくれるのか楽しみだ。。


・第十四章(p.524〜p.575)

オッピアーノ・リカリオの話か〜いww こいつ最後にガッツリ主役の座をもぎ取っていくやん絶対…… いや、自分としてはこのほうが好みそうだけど。
リカリオは40歳で公証事務所に勤めている。父は亡くなり、母ドニャ・エングラシアと妹との3人暮らし。

家での晩餐時、キューバ式ピカディーヨを食べて彼は言う。

彼は大声で言った──「これは、プラハで降伏したキジだ」。「卑近なものを飛び越えるための想像豊かな変形ね、牛肉のピカディーヨと言うかわりに」と母親は陽気に考えた──「キジの彩り豊かな上品さを持ってくると、比較する例外の特異性によって私たちを惹きつけることになり、バタンと閉じられたドアによって切りとられた現実の、醜くむくんだ顔は引き下がっていくことになる」。「これは牛の挽肉なのに」と妹は彼に言った。「どうしてキジだって言うの? しかも、古典的に要請されている味覚の中で、切り分けたキジの手羽を干しブドウと混ぜるなんて誰もしないことでしょう、ローヌ川のようになめらかなブルゴーニュのワインの代理に、カドミウム色をしたミカンの組織がならないのと同じじゃない?」 p.527上

食べている料理に対する彼の独特な形容・比喩表現についての母と妹の反応。この小説がここまでずっとやってきた特異な比喩表現に、初めて作中人物がちゃんとツッコんでいる! つまり、レサマ式の「卑近なものを飛び越えるための想像豊かな変形」である難解で詩的な言語表現は、彼の文学が「バタンと閉じられたドアによって切りとられた現実の、醜くむくんだ顔」に堕ちることのないように選び取られている、ということだろう。紋切り型、わかりやすさ、合理性を拒絶すること。

面白いのは、この妹の至極まっとうな疑問・指摘に対して、このあとリカリオお兄ちゃんが「なぜピカディーヨを「プラハで降伏したキジ」と形容したのか」という理由を丁寧に説明していることである。種明かしをしてしまっている。それなら最初から説明いてくれよ。

ここでは息子に理解を示していた母親ドニャ・エングラシアも、彼が「今月の貢献分を入れるのを忘れて怠っていることを思い出」さずに仕事に出かけてしまったあとでは、衒学に耽る40歳の息子の将来を心配して嘆く。彼は自分が言った言葉すべての意味を明らかに説明できるのだろうか。この先、もし自分(エングラシア)が死んだあとでもリカリオはちゃんと一人で生きていけるのだろうか、と。

「でもお母さん」と妹は、固着しはじめてしまった悲しみを押しのけるために答えた──「彼がお母さんのことを「わが身の外延の影」と呼ぶとき、私たちに言おうとしているのは、彼にとって自明なこと彼のもっとも落ちつく視覚像とは、お母さんが、自然として占めている空間、あるいは、彼の思考の中に自然化できる対象として占めている空間だということでしょう。彼が私たちに、ある人物のもっとも面白い部分とは、その魂ではなく、その形態、つまり、構成された物質の部分だ、と言うとき、それは、人が見て触れたものがどのようなかたちで身体に影響を及ぼして、外皮をより繊細にするかだということ。議論をずいぶんと丸めてしまっているかもしれないが、と彼は私に言ったのよ、自分がやっていることとは、ダルメシアンの口の濡れたサンゴ色を、とっても注意深く観察することなんだ、と。 p.530

※原注 虚構的芸術の技巧的な部分こそがより自然なのである、ちょうど、何かの代理として生まれた自然なものが、より人工的であるのと同じように。 p.531

ここで唐突に初の原注。相変わらず意味がわかるようなわからないような。
いずれにせよ、なんだか謎にクライマックス感は順当に高まってきているのを感じる。

 

そこから母と妹は、リカリオの少年時代に、先生に命じられて作文の練習として書いた不可解な散文が最初先生に理解されず、のちに先生が翻って賞賛した話を交わす。

リカリオのパリ:ソルボンヌでの青年時代の挿話。ロートシルト男爵とスラヴ女ラッキー・カマリスカヤの話。

そこには謎めいた文言が記されていた──「桜の三葉紋様の食器揃い、日本の皇室のもの、男爵の存命中に消失した」。 p.544下

いきなり天皇家の陶磁器が意味深アイテムとして登場してびっくり。

そして再び現在?の公証事務所の話に戻ってきた。ホロホロ鳥に救われた砂糖農園の雑貨店主フレテプシコレの話。

グノーのオペラ『ファウスト』を観るために待っているリカリオの左隣の席に、ある音楽愛好家が座り、彼は上演中に立ち上がりマルグリットを射殺し、即自殺する。1910年6月19日のこと。

リカリオがソルボンヌのゲー・リュサック通りのホテルに住んでいた頃、左隣の空虚な部屋が彼にとってのオブセッションとなっていた。そこでは悪の陰謀論者集団「夜の者たち」の集会所として使われていた。天才的な射撃の腕をもつスラヴ人男ロガコンは彼らに、マルトとメフィストフェレス暗殺を強要される。ホテルの女家主にも、18歳の姪を餌として暗殺へ導かれる。

いずれにせよ、姪っこは僕の汗を笑うだろうし、僕が恐れられているのであれば、それだけ余計に僕のことを不幸だと見るだろう、そして、その知覚できないほど小さな声には、リリパットの祝賀行事みたいな色つきのボールがいっぱいに詰まっているだろう。 p.557下

彼は私の姪に恋することすらできなかった、友達になることもできなかった、このふたつの力は彼を救うことができたのに。でもああいう人たちはいつでも間違っていなければならなくて、まさにそれゆえに、彼らのよろめきは私たちの心に刺さるのよ。 p.559下

 

12/31 土 p.560〜p.575
またセミーくん出てきた。てっきりもうお別れだと思っていたよ。意外とちゃんとまっとうに小説を終わらせるじゃないか……

セミーは突然、理解した、あの光の祝宴、メリーゴーラウンドの旋律、木々の上にのぼった家、モザイク画のある廊下、斜行する月明かりを伸ばしているチェス・プレイヤーたちのテラスが、彼をふたたびオッピアーノ・リカリオとの出会いへと導いてくれたのだったことを。 p.573上

「あの家自体が超自然の中では森のようだった。」pp.569-570 とあるように、奥に長い廊下とテラスのある「家」の建築構造をここにきて丹念に描写する。第1章ではセミーの住む駐屯地の家の構図の解説があったし、やはり家で始まり家で終わるのか。

オッピアーノ・リカリオの妹イナカ・エコ・リカリオ(通称エコエー)がセミーの手を引いて兄のもとへ連れていく。

彼女の肌は薄い小麦色で、知られざる重さに耐えている計りのような青い目、その重みとは、ちらりと姿が見えた魚だったのかもしれない、その銀色と、サンゴの枝の上に乗って休んでいる夜の明暗法の合間でちらりと見えた魚。 p.573下

おそらくラスト・追い直喩(比喩)

セミーがチャペルに着くと、オッピアーノ・リカリオはガラスの棺のなかで目を閉じていた。彼の妹が、セミー宛にオッピアーノが最後に書いたという詩片を渡す。

 

12/31 15:44 おわり!!!

 

上側の付箋

下側の付箋

 

なんか『重力の虹』みたいな終わり方だった。Now, everybady──

いやはや、最後まで幻視・妄想的な意味不明の描写たっぷりだった。しかし、ラストの3章(第12〜14章)の前で主要部分が終わるって言ったの誰だよ!! ぜんぜんそんなことはなく、主人公セミーと、二度意味深に登場していたオッピアーノ・リカリオが再登場してガッツリ対面するし、これがあるのと無いのとではずいぶん印象が違う。確かにいきなり短いエピソード集というかオムニバス形式になって「つながりがわかりにくい」ところはあるが、それを言い始めたら最初から最後まで意味不明な箇所がありすぎるので……。

 

一読し終えた直後の、素直な感想としては、前半のほうが面白かったかな……。

『パラディーソ』って、ざっくり分けると、

セミーの両親や祖父母たちの3代にわたる《家族》の物語を描いた前半(第1章〜第7章)
・青年期セミーがフロネーシスとフォシオンという同性の親友2人と出会い語り合う《友情》を描いた後半(第8章〜第11章)
・オムニバス形式からオッピアーノ・リカリオ再登場までのエピローグ(第12章〜第14章)

という三幕構成になっていて、セミーの両親ホセ・エウヘニオや伯父アルベルトらが主役となる「前半」部のほうが全体的に面白かった印象がある。ずっと詩的でまだるっこしい装飾過多な文体で難解なのは一貫しているんだけど、インテリ青年3人によるクソなが衒学ギロンが延々と続く「後半」部がいちばんキツかったし、興味も持ちにくかった。人文方面に博覧強記な人ならあのあたりも楽しめるのか、しかし固有名詞やその背景知識が理解できても、文章が入り組んでいて幻想的なことには変わりないので、やっぱりあれを100%理解できるひとは人類史上で誰もいないんじゃないかな……。訳者も、レサマ本人ですらも。

デイヴィッド・フォスター・ウォレスへの密着インタビューを題材にした映画 "The End of the Tour"(邦題:人生はローリング・ストーン)をオールタイム・ベスト映画に挙げる程度には、じぶんはインテリ男たちのダラダラとした会話や、お互いに嫉妬や羨望が行き交うジメジメした関係(ホモソーシャル?)を扱ったフィクションは好きなので、男の三角関係モノとして、セミー・フロネーシス・フォシオンの三人組はかなり自分好みではある。あるんだけど、それ以上に会話の内容が意味わからなすぎるし長すぎて……。哲学・宗教・神学的な議論以外の、彼らの親や来歴が語られる箇所とかはものすごく面白かった。

まちがいなくこの小説の主題のひとつは「同性愛」であって、実際に登場人物たちが性行為をする描写もあるのだけれど、主人公セミーや父ホセ・エウヘニオ、親友フロネーシスにはたぶん明確にはそういう描写がない(フォシオンにはある)し、彼ら3人が「同性愛」をテーマに議論していても、抽象的だったり衒学的すぎて要領を得ないので、そっち方面で真に迫ってくるものはあんまり無かった。

いちばん好きなキャラは両家のお婆さんがた、ドニャ・アウグスタとドニャ・ムンダで、途中でも書いたけど、やっぱり老婆が元気で存在感のある小説は好きだ。『百年の孤独』のウルスラ然り。後半があんまりノレなかったのは、彼女らの出番が減った(ドニャ・ムンダはそもそもちょっとの章しか出てこない)から、というのもあると思う。ドニャ・アウグスタはさすがに老衰で元気がなくなってきて、娘のレティシアに押されてしまうし……。

訳者の解説で、

その「目覚ましい部分」というのはもちろんたくさんあるのだが、第六章後半、第七章、第八章というあたりはこの本の核となる部分と言っていい。そこはぜひとも逃さないでほしい。 p.581

と書かれてあるのを最初に読んでいたので、ものすごくハードルを上げて楽しみにしていたのだけれど、そんなに目覚ましく、それまでの章よりもボルテージが上がって面白くなるとは思えなかったのもデカい。決してつまらないわけではないんだけど、いや、このくらいの面白さなら1章からありましたけど……という。

一度目を通したくらいで何か言えるほどこの本は簡単ではないし、そもそもちゃんと「読む」ことがほぼ不可能な小説ではあるので、何かを言っていいのか不安になるのではあるが。
『パラディーソ』日本語訳を初見で読んだこの2ヶ月間は、これまでの文学読書体験のなかでも格別のものであったことは確か。(毎日、通勤電車のなかで片手で支えながら読みました) ただ、それはわたしの個人的な経験の次元での話であって、客観的に、この作品が世界の歴代の文学のなかでどれくらい「すごい」のか、「ヤバい」のかは、読み終わったいまでも正直よくわからない。間違いなく、レサマの直喩を過労死するほどに酷使したネオ・ゴシックな文体は唯一無二ではあると思うが、それは、この世界に流通するあらゆる本がそれぞれにもっている「唯一無二さ」のなかで埋もれずにやっていけるほどのものなのか、というのがわからない。これまでに読了に2ヶ月以上かけたいわゆる「鈍器本」の系譜として、ピンチョン『重力の虹』やギャディス『JR』よりもさらに読むのが大変で、しかも「なにもわからない」度は高いのは確実なんだけど、しかし、国書刊行会の売り文句通り、「20世紀の奇書にして伝説的巨篇」と呼べるものなのか、これをそう呼んでいいのかには疑問が残る。いや、巷で「奇書」と呼ばれているどんなものよりもずっとヤバいことは確かだし、伝説的巨篇なのも間違ってはいないか……。ただ、「名作」や「傑作」と呼んでいいのかはわからない。『同時代ゲーム』の筒井康隆評のように「失敗作であることさえ度外視すれば傑作」というのとも違う。はじめから、傑作とか成功とか失敗作とか、そういう評価の枠組みを度外視して書いているような……。

そして、さんざん書いている「意味不明」な、幻想パートも、シュルレアリスムらのそれと比べてどれほど隔たっているのか、むしろその枠組のなかにある程度は収まってしまうものなのか、というのもちょっとわからない。同じキューバ作家にカルペンティエルもいるように、キューバ文学およびラテンアメリカ文学と(ヨーロッパ・フランスの)シュルレアリスムの関係・距離感に関してまだぜんぜん無知なので、そこらへんは今後も掘り下げていきたいなぁ。
あと、最初の方では「クリオーリョ性」「キューバ性」とか、旧宗主国スペインや、実質的な傀儡政権の統治国であるアメリカといった、土地・国・政治などのテーマに関しても色々と気になってどのように掘り下げていくのか期待していたけど、後半はあんまりそういう面が強くなかった気がするし、消化不良感はある。とはいえ、じぶんがわかってないだけでちゃんと語っていたのかもしれない。なにせムズすぎる!!!

 

とりあえず、年内に読み終えることができて本当に良かった、これで年を越せる!って気持ちでいっぱいなんだけど、読みはじめて最初の頃に、そういう「早く読み終えたい」といった焦燥感や功名心を捨てて『パラディーソ』の世界に浸るべきだ!的なことを自分に対して説教していた覚えがあり、けっきょくわたしは俗物でした、というオチ。

来年も俗物なりに俗物らしく、目に入る人の読了ツイートや感想記事、案件、バズ、プロデビュー報告などに嫉妬して内心で毒を吐いて絶望しまくりながら、本を読んだり読まなかったりするぞ〜〜〜!!!