『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー

 

 


2023/2/3〜2/16(計10日)

 


【上巻】 2/3金〜2/9木(計6日)

 

・第一章
2/3金 p.7〜p.63
33歳の白痴ベンジー(本名ベンジャミン?)による語り。
名高い実験的な語りってのはこれかぁ〜 たしかにこの文体のフォロワー無数にいそう。

石牟礼道子苦海浄土』を読み終わったばかりなので、どうしても、喋れもせず自分で食事もできないベンジー水俣病患者の描像を重ねてしまう…… ただ、『苦海浄土』はあくまで他人である「わたくし」による水俣病患者の語りの「きき書」(再構成)であるのが本質なのに対して、こちらはベンジーの一人称主観での語りなので、その点は決定的に異なる。

反復やズレを含んだ小気味の良い会話のやり取りはTHE・アメリカ文学ってかんじ。これが源流なのか。ドン・デリーロとかを思い出す。平易な文のみで構成された会話メインの実験的文体、というとギャディス『JR』も思い浮かぶ。あと米文学じゃないけど『ゴドーを待ちながら』の2人の会話。

とりあえずベンジーの「姉貴分」らしき7歳のキャディは高飛車系ツンデレヒロインってことでおk?

 


2/4土 p.64~p.100
キャディ×ベンジー良すぎる…… 昨日はちょっと勘違いしていたけど、幾つかの並行する時系列の1つでは、ベンジーが13歳、キャディが14歳だということなので、キャディのほうが一歳年上なのね。実の姉なのかはまだわからんけど、キャディまじで好き。一人称の語り手(主人公)を甘やかしてくれる1つ上の生意気少女、エロゲヒロインじゃん……と思いながら読んでいる。読んでいたら、チャーリーとかいう男にキャディが(広義の)寝取られ展開発生して草 ボクもベンジーと一緒に泣きたいよ

 


2/6月 p.100〜p.166
第一章おわり!
ベンジーの元々の名前はモウリーで、母親が「ベンジャミン」に変えた?

 

 

・第二章 (p.151〜)

語り手がクエンティンに交代して、文体も一気に変わる。ベンジーの「自我」が欠落していてある種プリミティブに世界を眼差す一人称から打って変わって、ハーヴァードに通う(?)インテリ長男の一人称語りは語彙・思考のレベルが高く、普通の意味で「難解」な文章。こっちはこっちでかなり前衛的な部分(たぶんこれが「意識の流れ」)もあるし、読みやすくなったわけではない。むしろベンジーのほうが語彙・表現は平易で(何が起こっているのか判然としないが)スラスラと読める節はあった。

今何時なのか知ることがないように努める。「妹と近親相姦をした」と父親に告げる回想。

 

2/7火 p.166〜p.234
姉萌えNTR)の第1章、妹萌えNTR)の第2章


2/8水 p.234〜292

第1章と第2章で、2人の男子視点で、同じ身近な少女への巨大感情を錯綜した文体形式で語り、近親相姦が1つの重要モチーフとなっているところなど、エロゲ『CARNIVAL』みたいだ。これで第3章がキャディ視点だったら完全にそう。瀬戸口蓮也の読解ってドストエフスキーがよく引き合いに出されるけど、フォークナーの影響もあるのか。

インテリ青年が都会を彷徨しながら、歳下の無垢な女の子と交流して最後に自殺する話って、めちゃくちゃサリンジャーやん。ライ麦畑にうってつけの日
また露骨に無垢な少女が出てきた

マジでエロゲみたいな感じやな……
兄から妹への巨大感情!!! うおおおお

ウルフ『灯台へ』の意識の流れは、食卓を囲む人々の思考を、一文で主語がいつの間にかすり替わっている文体で一体化させて描くものだった。一方で本作の意識の流れは、あくまで語り手ひとりなのは固定で、その人物の記憶(や妄想)がフラッシュバックするように時空を繋いでいく手法。意識の流れにもいろいろあるんだな

 


2/9木 p.292〜345

上巻おわり! ちょうど1週間(日曜日は読んでないので実質6日間)で約340ページを読み終えた。

最後のほうの、クエンティンがお父さんとの対話を回想するくだりで一気にいろいろとわかりやすくなった。結局キャディと近親相姦はしてないんかい。ハッタリかよw(自身へのハッタリでもある)

いよいよ肝心な話になってきたぞ p.341

文中でもこうやって露骨に書かれててわろた

 

絶望だとか自責の念だとか死別による無念だとかをはじめて激烈に感じたぐらいでは 誰もそんなことはしやしないのだよ むしろ絶望や自責の念や死別による無念というものさえ 暗黒のサイコロ振りにとってはたいして重要ではないのだとわかったときに はじめて人はそういうことをするのさ p.342

わかる〜〜〜 これぞ「青春(の喪失)」の本質ってかんじでわかり味が深い。
おやすみプンプン』ラストシーンのプンプンの涙とかも、まさにこれだよな。

するとお父さんが 「もうない」というのはあらゆる言葉の中で一番悲しい言葉なのだよ 世の中にはほかになにもないのだ 時間の流れに呑み込まれるまでは絶望ですらないし「もうない」となるまでは時間ですらないのだよ pp.343-344

 

で、結局クエンティンはこれで自殺したのだろうか。お父さんとの対話のかんじだと、クエンティンは「自殺する」と言い張って結局できない人間である、っぽいが。
大学寮の部屋でガソリンをぶちまけてるけど、焼死? でも隣に友人の部屋があって、自分の部屋だけを器用に燃やすことは出来ないだろうから、気体性の中毒自殺?

 

えーと、上巻(第1章ベンジー視点と第2章クエンティン視点)を読み終えた限りでは、そうだな……「ちょっとおもしろい」くらいで、まだ全然、圧倒される感じではないかなぁ。

もちろん、これがアメリカ文学史上の金字塔であり、これ以降、アメリカ国内に留まらず世界中でフォロワー作家が現れた、絶大な影響力を誇る作品なのは何となく理解できる。ここでしか読めないような凄い文章はあちこちにあるし、何よりこの文体形式と構成が画期的だったのは言うまでもない。

ただ、じぶんの好みでいうと、まだそれほどではない。ネタバレが怖くて付録の年表とかを見てないので、正直ぜんぜん何が起こっているのか、誰が誰でどういう人間関係なのか等、理解できていない割合はとても大きいと思う。それでも、根本的にテーマとして描きたいこと、表現しようとしていることは何となく分かった(つもり)。上巻まででは、コンプソン家のきょうだい──クエンティン、キャディ、ジェイソン、ベンジー(元モウリー)──の複雑な「絆」、今風にいえば「巨大感情」のはなしであって、1章ではベンジーとキャディ双方向のピュアな姉弟愛が、2章ではクエンティン→キャディの妹愛が、面倒くさくてエモい文体(意識の流れ)で表現されている。また、2章のクエンティン視点では、「父」なるもの、家父長的なもの(マッチョなエリート学生のジェラルドらも含む)への反発という、これまたありきたりな主題も入ってくる。

このように、言ってしまえば陳腐でありがちな題材を、(当時としては)画期的な手法で複雑に、エモく演出して描いている小説であると受け止めた。「エロゲっぽい」と感じたのはその点である。だから、キャディという露骨な萌えヒロインを用意しての巨大感情の描写など、すごく馴染み深くしっくり来る面はもちろんあるのだけれど、それは正直いって、エロゲとかマンガとか、他の媒体の他作品でもこれまでさんざん味わってきたものなので、「20世紀世界文学における大傑作」としての圧倒されるほどの凄みは今のところそんなに感じられてはいない。下巻に期待。昨夜Amazonで注文して、さっき帰宅したら届いていた。よっしゃあ〜

 

意外だったのは、第2章でハーヴァード大学生のクエンティンがマサチューセッツ州ボストンの街をぶらつく、都会的な舞台設定であること。というのも、有名な「ヨクナパトーファ・サーガ」の噂では、アメリカ南部の田舎の共同体の、きわめてローカルな物語群だと聞いていたので、都会的なイメージがなかったから。ちょうど2週間ほど前に観たトリアー監督の映画『ドッグヴィル』みたいなのを想像してた。アメリカの閉塞的な村のはなし。フォークナーの影響が色濃いという『百年の孤独』はマコンドという1つの村でほぼ物語が完結していたのに。

「田舎の話だと思っていたら都会の話だった」系のアメリカ名作文学でいえば、『ライ麦畑でつかまえて』とほとんど同じだ。あれも、タイトルからてっきりライ麦畑が広がる田園風景の田舎を舞台にした話かと思って蓋を開けてみたらニューヨークを少年が彷徨する話だった……。

 

 

 

 

【下巻】 2/10金〜2/16木

下巻のほうが薄いじゃん! こちらも二部構成。1928年4月6日と8日ってことは、第1章のベンジー視点の現在時制の日(4月7日)の前日と翌日ってことか。お〜 なんか良さげな構成だ。

 

2/10金 p.7〜103

・第三章

語り手「俺」は誰だ? とりあえずキャディではなくて残念
これジェイソンか。それで、クエンティンってのは兄ではなくて、キャディの娘のことよな。
つまり、第3章は姉の娘──姪がヒロインなのか。お母さんに似て、めちゃくちゃいわゆるマセガキ/メスガキだし……果たしてわからせるのか…?

召使い黒人のディルシー、一人称が「おら」だから混乱するけどお婆さんなんだよね。
ジェイソンも結婚してる。

今のところ意識の流れがほぼ使われてなくて、大人になったジェイソンも語り手だった他の兄弟たちに比べてまともだし、普通の一人称小説の文体というか、読み易い。
ヒステリックな母親の典型的な造形はオースティン『高慢と偏見』を思い出す。

家出して結婚→出産したあとに夫に捨てられて、自分では育てられないからと娘を実家に"やる"奔放な女性というのもきわめて紋切り型だ。キャディ自身は母親キャロラインと絶縁していてコンプトン家を出禁になっているので、我が子にひと目会うために色々と画策する。

 

2/13月 p.104〜p.171

第3章おわり。

え、娘(姪)のほうのクエンティンの父親ってハーバートとかいう男じゃなくて、ジェイソンやキャディの兄クエンティンなの? マジで近親相姦してたってこと?
第1章でベンジー視点で描かれた、門から脱走して登下校中の女子を襲った事件の顛末が語られた。その女学生の父親に殴り止められてレイプ未遂で終わり、そのあとベンジーは去勢手術をさせられたらしい。

ジェイソン、関わるあらゆる人に対してナナメに構えて皮肉を飛ばしまくるからやんなっちゃうな。会話がいかにもアメリカ文学ってかんじ。
さて、最後の章だ〜〜〜

 


2/15水 p.173〜p.214

・第四章

ここに来て三人称視点の語り

序盤は一文ずつが非常に長い。老婆(ディルシー)が寂れた屋敷をひとり動き回る感じはウルフ『灯台へ』第2部を連想した。

 

2/16木 p.214〜p.307

第4章と「付録」おわり! 読み終わった!!!

第4章がいちばんつまらなかった。三人称の文体が合わない。直喩をそこそこ使っていて、わりと独特で普通に巧みではあろうと思うんだけど、なーんか苦手。情景描写も露骨にメタファーっぽい感じが好きじゃない。

「付録──コンプソン一族」は、実質これが真の最終章というかエピローグ。人物一覧の体裁でコンプソン一族の群像劇の掌編集っぽいことをやっている。ラスター14歳だったんか……さすがにもうちょい上だと思っていた。

田舎の屋敷を主な舞台とした一族の血と呪いにまみれた悲劇、系の文学だと、エミリー・ブロンテ嵐が丘』のほうがまだ面白かったなぁ。

第4章は三人称視点だが、強いていえばコンプソン家で長いこと現役で料理人・家事係をやっているディルシーお婆ちゃんに焦点が当たることが多い。お婆ちゃんキャラということでディルシーのことは好きではないのか、と考えるが、そもそも3章の途中くらいまではディルシーのことをお爺さんだと思いこんでいたくらい(口調の問題)なので、特別にお婆ちゃんキャラだから好きというわけではない。

第3章の主人公ジェイソンは、上のきょうだいの2人のために将来の可能性を閉ざされて、現在は一家と黒人たちを自分ひとりで養っていかなければならないという哀れな境遇ではあり、同情する気持ちもあるのだが、それ以上に性格・言動が苦手なので好ましくない。

 

訳者解説
フォークナーの草稿の引用

そこで妹を持ったことがなく、またやがて娘を生後すぐに失う運命にあったぼくは、美しい悲劇の少女を自分のために作りはじめた。 p.323

きも〜〜 そりゃあエロゲっぽいわけだわ。そして、じぶんがこの作品を好きになれない理由もまた何となく分かった気がする。

初めは第1章だけで完結するつもりだったんだな。確かにそれ以降は蛇足という見方も出来る。
付録は出版15年後に加筆したものだったのか。

 


・まとめ

初フォークナーということで、『響きと怒り』、とてもハードルを上げまくって期待して気合を入れて読んだのだが……そんなに面白くなかったなあ……残念……。フォークナーに影響されたラテンアメリカ文学の多くは好きなのに、本家はそれほど刺さらないのはなぜだ。

もちろん、上巻後に書いた通り、第1章・第2章は実験的で難解な叙述技法で語られているために、到底理解できたとはいえない。だから、「ある程度理解したうえで、つまらなかった」とは口が裂けても言えない。しかし、逆に、難しすぎて何にも理解できなかったから、良さもちっとも汲み取れなかった、というわけでもないと思う。わからないなりに、まぁこういうのがやりたいんやろなぁという意図・方向性は察することができたと自分では思っていて、その上で、うーん、そんなに言うほど革新的かなぁ……という感想だ。無論、"フォークナー以後"の20世紀文学をある程度読んできているからこそ、いざその原典に当たったときに凡庸に感じられてしまっている面は無いとはいえない。とはいえ、やっぱり原典はすげえええとひれ伏す可能性もあったわけで、そうなっていないのは、自分とフォークナーの相性の悪さに起因すると思われる。

自分は幻想文学が好きだ。自分のなかの幻想文学の本質とは、「本当に起こったこと」という小説内の〈事実〉が、叙述/文章によって徹底的に幻惑されて虚仮にされて破壊されて無化されていくことだ。つまり、「何が実際に起こったのか」よりも「どのような言葉で語られているのか」のほうが優勢であり、言葉の前では「事実」なんてものはナンセンスになってしまうような小説が好きだ。

フォークナーの『響きと怒り』およびヨクナパトーファ・サーガは、こうした「幻想文学」とは、ある意味で正反対だと思う。たしかに文章表現や構成は非常に凝っていて難解で幻惑的だが、その幻惑性は、「コンプソン家の実際の歴史」の事実性・強度を崩壊させるどころか、かえってその強固さを増す方向に明らかに作用している。巻末にきょうだいの年表やら屋敷の敷地の間取りやらクエンティン青年の彷徨マップやらが添付されているのは、本作の反-幻想文学性の証左といえるだろう。今風に軽薄にいえば、「考察」要素がある物語なのだ。第1章や第2章の意識の流れによる断片的な語りから情報を拾ってはパズルのように整合させて、自分の手でコンプソン家の者たちの人生を、歴史を、「事実」を浮かび上がらせていく──「考察」好きが喜びそうな佇まいである。

私はぶっとんだ前衛的な文学表現・技法は基本的に歓迎だ。しかし、その実験性/前衛性が、結局は、地に足のついた確固たる「架空の田舎町の架空の歴史」の構築に奉仕してしまうのは、とても肩透かしというか、もったいなく思う。『響きと怒り』で試みられている文章技法は、たしかに難解で前衛的で革新的だが、意味不明ではないし、ふざけてもいない。それが私には物足りない。こうした文脈でフォークナーと対置するとしたら、私の愛するラテンアメリカ作家たち──レイナルド・アレナスやセサル・アイラ、マシャード・ジ・アシス達になるのだと思う。アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』や『めくるめく世界』、アイラ『わたしの物語』などが顕著だが、終始ぶっとんでいてふざけまくっていて、「小説内現実」? なにそれ美味しいの? とばかりに何もかもを入れ替えて幻惑して撹乱しては変な方向へと邁進してゆく。あるいは最近読み終えたドノソ『夜のみだらな鳥』もまた、作中の「事実」の強度を徹底的に破壊して、登場人物たちの素性だけでなく、自我や個別性さえも融解させて、誰が誰だか分からなくなって、「本当は」誰が孕ませたのか、「本当は」妊娠していないのか、「本当は」生まれていないのか、すべての事実性と価値体系を根本からぶっ壊してできた極彩色のプールに溺れていく小説だった。(しかしドノソは明確にフォークナーから影響を受けているらしい。このへんは両作家をもっと研究しなければならない。)

訳者解説では、「言語表現の刷新それ自体を目的とした実験のための実験ではなく、その背後には語り手たちをふくむ、家族の深い人間関係、さらにはアメリカ南部の時間と空間がしっかり見据えられていて、最終的に物語は、くっきりとしたアクションの輪郭を描き出しながらその時空間へ回帰する」点が称揚されていたが、これが逆に自分には合わないんだなあ……

そもそも、プロットとしても、最終的にジェイソンが姪にこっそり(姪の養育費から盗んで)貯めていたお金を奪われるという"だけ"の話で、「だから何?」と興味が持てなかった。もっと殺人とかサスペンスフルな事件が起こることを期待していたからかもしれない。また、「家族」を大テーマとして描き出したと言われても、正直そんなに「家族」という概念・存在が真に迫ってくる作品とは思えなかった。レサマ=リマ『パラディーソ』はこの点、ものすごく迫真的で良かったのだけど。アメリカ南部の田舎町という舞台設定や、白人と黒人の人種問題も、これは自分が疎すぎるから、という面が大きいのだろうけれど、深みを感じられなかった。とりあえず黒人を出しとけば人種的な深みが出るとか、男性/女性のジェンダー的な議論の余地が出るとか、そういう薄っぺらい狙い以上のものは一読では汲み取れなかった。まぁどうせわたしが雑魚いアホだからなんでしょうね。

でも、「そこで妹を持ったことがなく、またやがて娘を生後すぐに失う運命にあったぼくは、美しい悲劇の少女を自分のために作りはじめた」という本人の発言が、私の感じる本書の薄っぺらさにかなり寄与しているとは思う。

アメリカ南部の黒人/女性の物語としてはトニ・モリスンに期待だな。フォークナーを1作でも読むという実績を解除したので、これで中上健次もトニモリもクエストが「解放」されて読めるようになった。それが本作を読んでいちばん良かった点だと思う。

とはいえ、なんかめちゃくちゃdisってしまったが、フォークナーへのモチベが失われたわけではなく、『響きと怒り』だけが合わないのか、フォークナー自体が駄目なのかを探求するためにも、『アブサロム』を読みたいですねえ。昨年古書店岩波文庫上下巻を買って積んでいるんだ。ちょっとパラ読みしたかぎり、アブアブのほうが自分好みそうなんだよな。まず老婆の語り聞かせってのがいい。期待してる。