『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(1)ジュノ・ディアス

 

 

 

4年くらい前に買って積んでいたのを、ふと読み始めた。

第2章まで読んだ。

 



・第1章

1章おわり。約70/400ページ

文章はかなりポップで読みやすい。アメリカ的な青春小説の文体に、スペイン語の言い回しによるラテンアメリカの風と、オタク用語の奔流が混ざり合っている。
いまのとこ、これぞオタクの妄想という趣の話。(オタクについての妄想であり、オタクのための妄想でもある)

どれだけ冴えない男子でも、姉や祖母は優しいし、一緒にTRPGができるオタク友達もいる感じが、ラノベやエロゲの正統な主人公のようだ。

ただし、現代日本非モテ男性オタクと異なるのは、ドミニカ人であることから、更に強烈な「男らしさの呪縛」が存在するらしいことだ。(エリック・ロメール緑の光線』で描かれていたフランスの「暇さえあれば恋愛すべきだ」という社会的風土を思い出す)

 

また、プエルトリコ、ハイチなど、カリブ海の国々がそれぞれにどう文化的・歴史的なイメージを持たれているのかが端々からなんとなく伝わってきて興味深い。日本からすれば、ドミニカもプエルトリコもハイチもぜんぶ「カリブ諸国」でひとまとめ、それらの "細かな" 違いなんて見いだされないから。


プロローグがカリブ諸国に伝わる悪魔的存在「フク」と、ドミニカの独裁者トルヒーヨの話から始まるように、人種的な抑圧や呪いも大きなテーマとなっており、正直、馴染み深い非モテ男性オタクの話よりも、こうしたラテンアメリカならではの話のほうが面白い。

 

塾の後ろの席でヘンリー・ミラーを読んでいた女の子といい感じになるが、彼女は従軍中の彼氏からDVを受けていた──なんと典型的な展開!『おやすみプンプン』などなど。
三人称の語りだが、語り手はどうやらオスカーの知人のようだ。まだまったく素性を明らかにしていない。

 



・第2章

2章おわり。約100/400ページ

冒頭の太字二人称(「君」)パートのあと始まった一人称の語り手は最初オスカーかと思ってたが、女性であることがわかり、まさか姉だったことに驚いた。オタク男子の非モテ話の次に、パンク娘の親子3代に渡る女系の因縁の物語を持ってくる構成がニクい。
パンク娘の一人称なので当然読みやすい。(パンク娘の一人称で疾走感が無かったら何もかもおしまいだ)

1章ではドミニカ男たるもの〜という父権的呪縛が語られたが、本章ではドミニカ人の女性・娘への抑圧に焦点が当たる。簡潔に言えば、ものすごく男尊女卑。その思想を母親(シングルマザー)が完全に内面化していて、自分の娘へのほとんど虐待といっていい「育児」に結晶する。マジかよ……これだと先進国読者はドミニカをものすごく発展途上で文化的にも「未熟な国」だと受け取ってしまう気がするのだけれど、わざと自国の酷さを披露しているのか? まぁ「自分の故郷/幼少期はこんなに大変だった」語りは普遍的なものではあるけど……

 

リーダビリティが高い理由にもう1つ思い当たった。

この小説は英語で書かれ、アメリカで出版されている。すなわち、主にアメリカ人(のマジョリティ)を対象読者としている。アメリカ人の(数的)マジョリティとは、白人や黒人、ヒスパニックやアジア系……など色々いると思うが、少なくともドミニカ系はそこに含まれていない(と前提している)。だから、「あんたたちにはわからないだろうけど、ドミニカでは〜〜」のように、読者の無知を前提とした説明的言い回しがところどころにある。

私はこの小説を日本語訳で読んでいるが、この小説はアメリカ人にとっても「海外文学」であるのだ。それも、はじめから海外文学として読まれることを前提として書かれた、とても親切な類の海外文学。だから、アメリカ人が原書で読むのと、日本人が日本語訳で読むのとで、読書体験がかなり近いのではないだろうか。

一般的な「海外文学」=翻訳小説は、その執筆言語のもとで、出版される国・言語圏の読者をひとまずは念頭に置いて書かれたものを「翻訳」した小説(や詩など)だから、元々の対象読者ではない我々にとってはギャップがあり、少し読みにくいこともある。本書ではそのギャップがない。というより、原書の時点で「ギャップ」が発生することをわかった上で、そのギャップを埋めるような形で書かれているので、結果的に「読みやすい海外文学」となっている。

これは本書に限らず、移民系作家の作品とか、いわゆる「越境文学」?には少なからず共通する特徴だろう。現代アメリカでいえばイーユン・リーとか、ジュンパ・ラヒリとか。(挙がる作家がどれも新潮クレスト・ブックスやんけ)

 

姉弟モノとしても面白い。弟にとっての姉の見え方と、姉にとっての弟の見え方の差異。思春期のオスカーは、姉が家に連れてきた女友達の肉体にドギマギして妄想の対象にしちゃうくらい意識しているのだけれど、一方でグレた姉にとってnerdの弟の影はめちゃくちゃ薄い。でもまったく「いない」わけじゃなくて、母との関係が悪化しているときに、何回か弟を頼って助けてもらっている。このへんの姉弟関係は、話の主題からは外れておりあまり語られていないからこそ、にじみ出てくるものがあるように思う。

 

あとは単純に、視点の違いによって補完されていくのが楽しい。1章でオスカーが姉とともになぜ突然サント・ドミンゴのお祖母ちゃん家に滞在することになったのだろうと思っていたが、そういういきさつだったのか〜とか。というか弟が自分の非モテオタク道をこじらせすぎてて、家庭内がこんなに荒れていたなんて全然知らなかったよ! ほんと自分のことしか頭にないんだな・・・。こういうところもある種リアルさを感じられておもろい。

 

母が夕食の席で静かに言った。二人とも聞いてほしいの。お医者さんがもっと検査する必要があるって。
オスカーが泣き出しそうな顔をして、がっくりとうなだれた。そして私は? 私は母を見てこう言った。お塩取ってくださる? p.84

このあと母親と2日間リビングで戦いを繰り広げた後に、ふたりソファに並んで座ってTVの連続メロドラマを観るシーンすき。
家出先で母親に捕まりそうになったときに走って逃げ出すシーンもめっちゃ好き。そのあとも含めて。緩急つけるのがうまい

母親と娘の関係はほんとに壮絶なのだけれど、お祖母ちゃんアブエラが優しすぎて泣ける。オスカーに対してもそうだったけど、やっぱり孫は可愛がってだけいられるのだろう。でも子供は可愛がるだけでは済まされない面がある。

 

お祖母ちゃんアブエラが居間のテーブルで私を待っていた。お祖母ちゃんは若いころ亡くした夫を悼んでまだ黒ずくめの格好をしていたが、それでも私が知っているうちでいちばんかっこいい女性だった。お祖母ちゃんにも私にも稲妻のようにギザギザしたところがあって、空港で初めてお祖母ちゃんに会ったとき、認めたくはなかったけれども、私たち二人はうまくいくとわかった。お祖母ちゃんの立ち姿といったら、まるで自分の持ち物の中でいちばん貴重なのは自分自身だというようで、私を見ると、あなたイハ、あなたが行ってしまってからずっとあなたのことを待ってたのよと私に言った。 p.97

「稲妻のようにギザギザしたところ」ってなんやねん。好き。お祖母ちゃんカッコいい。好き

最後はなかなか……これどういうことだ?? 続きが気になる〜〜

 

 

 

※ ルビのために初めて HTML編集 なにこれ を使った。こうやってルビ付けるんすね〜〜

 

 

 

 

 

緑の光線

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