『鏡の中は日曜日』殊能将之(2001)

鏡の中は日曜日

 

初・殊能将之  『ハサミ男』より先にこっちを読んでしまった

わたしはミステリ読みではないので、この作家の名前を初めて見たのはギャディス『JR』が邦訳されたときの売り文句──ミステリ作家・殊能将之も熱讃した、世界文学史上の超弩級最高傑作×爆笑必至の金融ブラックコメディがついに奇跡的邦訳!!──であり、なんか海外文学もめっちゃ読んでるゴツい国内ミステリ作家がいるらしい、としか認知していなかった。メフィスト賞作家だというのは後で知った。


 

※ 注意! すべてのネタバレをします ※

 


2024/2/14〜22(計8日間)

 

鏡の中は日曜日

 

第一章 鏡の中は日曜日

2/14(水) ~p.47
「子供かえり」した痴呆症の成人男性「ぼく」の一人称語り。フォークナー『響きと怒り』第一章みたいな。ベンジーよりはだいぶ明瞭な認識と表現だが。なのでほぼ一文ごとに改行する、平易な文章。

 暑さや冷たさに特に敏感? 山々からの低く鳴るうなりのような音は?
その世話をする「ユキ」は妻? 「ぼく」が恐る「お父さん」とはユキの父親なのか。
太字でたびたび挿入されるのは、「ぼく」の記憶の中の人々の声?
鏡の中の自分と話す。
14年前の殺人事件が子供かえりのきっかけ?


2/15(木) p.48〜150
第一章おわり
「ぼく」はアルツハイマー病だった。「父さん」はやはりユキの父であり「ぼく」と血は繋がっていないらしい。
14年前のこの家で起きた野村さんの殺人事件を調査するために訪問を繰り返していた名探偵:石動戯作(いするぎ ぎさく)を、「ぼく」は花瓶で殴殺してしまう。ユキを守ろうとして。
本格ミステリになりうる謎めいた殺人事件の対極を、まず序章に置く構成。犯人は語り手、動機も犯行内容もすべて詳らかになっており、本人も死に際に罪を認めている。まったく推理の余地がない殺人事件。
本編での名探偵が殺されるところで一章が終わる。彼の生前の話しが本編としてこれから語られる、風変わりな構成。

 

第二章 夢の中は眠っている

事件が起こった梵貝荘(ぼんばいそう)の火曜会を描く1987年の「過去」篇と、石動戯作が殺されるひと月前、梵唄荘事件の再調査を依頼される2001年を描く「現在」篇が交互に並ぶ構成。どちらも三人称。
はからずも、十数年前に起きた殺人事件の謎を現在時制と過去時制の2つを並行させて追う物語構成は、今やってるエロゲ『アカルイミライ』と同じだ……

一章のぼくは名探偵の水城優臣っぽいな。
鮎野の推理小説シリーズはすべて現実にあった事件を元にしているってマジ? メタフィクション的な感じか。

p.150まで。
どうやら「過去」パートは鮎野の小説『梵貝荘事件』のものらしい? なぜなら、「過去」では彼らの大学名がK✳︎✳︎大学とぼかされていたが、「現実」ではふつうに京大卒と明言しているから。つまり、「過去」と「現在」に登場する同名の人物でも、前者は鮎野の手によって脚色されており、人物像やその他の事実関係が食い違うことが予想される。入り組んできたぞ〜〜


1/16(金) p.151〜198
過去篇=鮎野の小説と、現在篇での細かな描写の違いが重要になってきたらダルいな…

昨日読んだ内容もおぼろげなので、アルツハイマー症の「ぼく」は読者のメタファーかもしれない

あ、ふつうに梵貝荘の家主の瑞門さんだったか。老翁。石動を花瓶で殴れるほどの体格と体力はあるのか?
ユキも妻ではないのだろう。父さんは長男かな。

鮎野先生が石動の事務所を訪ねてきた。


2/18(日) p.199~269
小説に書かれた梵貝荘事件の真相は別にある? それを名探偵の水城も作家の鮎野もうすうす気付いているからこそ、探偵を引退したり、連載を完結させずに再調査への圧力をかけたりしている?

 名探偵が推理を披露し、犯人がみごと逮捕された時点で、小説は終わる。だが、現実には、その後も人生はつづくのだ。犯人の人生も、事件関係者の人生も、そして名探偵の人生も……。 p.226

「事件」(本格ミステリ)のあとも続くそれぞれの人生、というアンチミステリ的テーマ

 

 探偵としての石動は、犯人の人間像にはまったく興味がなかった。事件捜査を通じて石動が見いだしたいのは、人間性を捨象したときにあらわれる、ある種の構造だった。
 石動は、坂口安吾『不連続殺人事件』の一節を思い出した。
「彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の迷路へさまようことがないように、組み立てられているらしい。……だから奴には文学は書けない」
 語り手が探偵役の巨勢博士を評した言葉。そのとおり、と石動は認めた。犯人は文学的だが、探偵はいつも非文学的だ。だが、非文学的だからこそ見えるものがある。水城優臣チェスタトンの名言を逆転させたとおり、「探偵は創造的な批評家だが、犯人はたんなる芸術家にすぎない」のだ……。 p.227

マラルメの詩とツェランの詩の比較  韻文詩の形式美と、散文詩のイマージュ
それらが、本格ミステリとそうでないミステリ及び(純)文学の違いへのアナロジーになっている? 坂口安吾『不連続殺人事件』読みたい 

館モノ×スリーピング・マーダー×メタフィクション という、およそ本格ミステリらしからぬ建て付けで、何をやろうとしている??

今んとこ、田嶋らの過去編(小説内小説)よりも石動を主人公とした現在篇のほうがおもしろい。


2/19(月) p.270〜406
梵貝荘事件のハウダニット、回廊の間取りを使った物理トリックは、本のはじめに付いている間取り図の正確な読み方がわからず、玄関や勝手口あたりの階段がどうなってるのかイマイチ理解できていなかったため、話半分になってしまった。

マラルメの詩のようにフランス語の脚韻を踏むために犯した殺人、というホワイダニットは結構おもしろいと思うが、まぁ要するに見立て殺人の一種だと思えばそんなに奇抜でも革新的でもないか。

これで鮎野の『梵貝荘事件』パートは終わった。他のパートをあいだに挟んだりしてかさ増ししているだけで、実はめっちゃあっさりしてるんだよな、事件も推理も。
最後の、田嶋と智子のクッソ雑なカップル成立ハッピーエンド草

 


第三章 口は真実を語る

えっ!? 石動生きてるの!?!?
1章の「子供返り」した人物はやっぱり瑞門ではなかったらしい。そりゃあ体格的に老人があんなことできんわなぁ
ってことは当初の予想通りあいつは名探偵の水城なのか。若年性アスペルガー
あの舞台は、鎌倉の梵貝荘だと見せかけて、金沢の日本家屋だった!
えっ!?!? 水城は女性だった???? さらにひっくり返されたぞ

 

おわり!!
なるほど~~ 終盤のどんでん返しの畳み掛けには驚いたが、うーむ…………これ、面白いか? まぁ巧いとは思えど、それ以上の魅力や凄みを今の自分では本作から引き出せない…………。

水城優臣は実在せず、水城優姫という名探偵から鮎野が「女」を取って性別だけ改変したキャラクターだった。それ以外の『梵貝荘事件』中の人物は現実と一致していたために、水城優臣もそのまんま実在するとミスリードされていた、ということ。(これが、鎌倉の梵貝荘と金沢の水城邸のミスリードと重ね合わされている。)

そもそも、鮎野が作家として名探偵水城優臣シリーズを執筆し始めたのは、実際の梵貝荘での殺人事件後に水城優姫が瑞門の次男:誠伸とくっついたことで優姫が「名探偵」ではなく「女」になってしまったと鮎野が勝手にショックを受けたからだった。つまり、水城優姫が名探偵を「引退」してから、名探偵:水城優臣が生まれていた。無意識に、ひとつひとつの殺人事件が起こるごとにそれを元にした小説を書いていたのだと思いこんでしまう読者の心理をうまく突いている。

性別反転トリック自体はしょうもないが、いろんなどんでん返しとの合わせ技で使っているのでまぁ上手いし、女性名探偵というのはフェミニズム的にやや面白い。鮎野はあからさまにミソジニーを内面化しており、「女」であることと「名探偵」であることは両立しないと信じている性差別主義者である。「男」は有徴化されずに「名探偵」と両立するのが "自然" だという男性中心主義。名探偵(や犯人)そのものではなく、それらを見出してラベリングして創造する "推理作家" の暴力性、キモさ、しょうもなさに焦点が当てられて終わる構成。

ただ、梵貝荘での事件があった一泊二日で、水城優姫が瑞門誠伸に惚れて恋愛関係が始まっていた、という陳腐なロマンスが核心にあったことにどうも肩透かしというかしょうもなさを覚える。『密閉教室』とかもそうだったけど、けっきょく「本格ミステリ」と言われるものって、ホワイダニットやどんでん返し・トリックの辻褄合わせのために、こうした恋愛痴話をしれっと持ち出してきてなんとか誤魔化そうとするものが多いのだろうか。まさにラストシーンでのヴァン・ダインの二十則についての石動と水城優姫の会話のように、「実際には、恋愛を盛り込んだ本格ミステリは数多くあります」p.403 ということへの目配せのつもりなのか。

いや、自分は本格ミステリの「教条主義者」ではまったくないので、恋愛要素自体はむしろ大好物なんだけど、なにが引っかかるんだろう。しょうもない恋愛痴話や痴情のもつれのような昼ドラは大好きだ。しかし、本作などは、あくまでミステリとしての意外なトリックの面白さやどんでん返しを成立させるために、そういう恋愛痴話を道具として用いているように思え、そこが自分は気に入らないのかな。恋愛のための恋愛ならば、しょうもなければしょうもないほどに好きだ。『WHITE ALBUM2』とか……。恋愛をミステリの手段にするな! 目的にせよ!!

……そうなると、エロゲとかラブコメとかになるんだろう。何度も持ち出して悪いが、やっぱり個人的に最高のどんでん返しは『パルフェ』だなぁという気持ちを新たにする。どんでん返しのための恋愛ではなく、恋愛のためのどんでん返し。人間関係の、人の感情のためのそれ。

あと、女性名探偵要素がフェミニズム的にやや興味深いといったが、しかし非常にヘテロノーマティブな前提のもとで駆動している物語ではある。なぜ名探偵:水城は現場からもっとも近い部屋を寝室としていた古田川智子を犯人だと疑わなかったのか。それは水城も女性なので古田川と同じ部屋に寝ていたからである! うおおおおお!! ・・・石動パートで丁寧にひとりひとりの関係者に会って梵貝荘での部屋割りを確認していたこと、そして書庫が2つあったことはそのための伏線かつブラフだったということか! …………やっぱり性別反転トリックは今の時代はかなり成立しにくいと思う…………2000年代初頭だったからセーフだったということね。

で、けっきょくマラルメパウル・ツェランからの執拗な引用や言及はどういう意味があったのだろうか。そこらへんの詩論と、最終的に明らかになったミステリとしての全貌をうまく絡めて解釈できれば傑作たりえるのだろうけれど、残念ながら自分には力及ばず。単なる衒学趣味以上のものだとは思えない……。

「名探偵」であること、その価値を否定し、若くしてアスペルガー症で子供返りしてしまった愛する夫の介護生活に生きる意味を見出す水城優姫の姿は、アンチミステリっぽく安易に読むことはできる。

「鮎井は手記のなかで『ぼくが崇拝していたのは彼女の知性と才能であって、彼女の性や美貌ではない』と書いていたね。要するに、ここにしか興味がないってことだ」
 優姫は自分のこめかみを人差し指で叩いてみせた。
「でも、人間はここだけじゃないよ……」
 手のひらが胸と腹と下腹部を順番に押さえ、
「ここも、ここも、ここも人間なんだ。彼はまだ生きてる。手を握ると、まだ温かい。それでいいじゃない」 p.401

こことか、すげぇ良いシーンみたいな雰囲気で書いているけれど、どうも薄っぺらいな、としか受け取れない。この程度で「人間」を、「人生」を描いているといえるのか? 恋愛や夫婦関係といった規範的な「愛情」の表面をなぞることが「人間を描く」ということなのか? それはそれで非常に既存の支配的な記号・クリシェに依存して再生産しているに過ぎないと思う。

瑞門はマラルメを究極の形式美を追求した孤高の詩人・芸術家だと見做していたけれど、ファッション誌『最新流行』の刊行など、世俗的なものごとへの興味関心も強かった市井の人間としてのマラルメ像が提示され始めている、というような話があった。おそらくそのあたりが水城優臣の造形にも対応しているのだろうけれど、肝心の、そうして結論として提示された「人間を描く」ということの答えとなる描写が、このようなものだというのが…………

最終章では、金沢や兼六園の情景の描写がやけに多かったのも、非ミステリ的=文学的なものだというつもりなのかな。それとも、第二章で石動が言っていたように「非文学的だからこそ見えるものがある」と示すために、あえて薄っぺらいミステリの形式を採っているのだと自己弁護するかんじなのかな。 どちらにせよ大したものだとは思えない。

てか、結局、梵貝荘で野波を殺した犯人は使用人の倉多で、水城が推理した通り、瑞門円への思慕ゆえに狂って、フランス語の脚韻をキめるための犯行だったということで合っていたのか。そこが文学的な面白さのピークだったかもしんないな。『密閉教室』では担任教師の人文推理パートがいちばん印象に残っているのと同じように。けっきょく自分はそういうのが好きなんだろうな。ロジックやトリック、どんでん返しの面白さよりも、人物の切実だったりエキセントリックな言動の迫力や文章の凄み、面白さを重視してしまう。その点、本作の文章ではほぼまったく感心するところが無かった。引用した『不連続殺人事件』の文章がいちばん良かった、というのがそれを端的に表している。(ただ、そういうところも、「いや、非文学的な、ツェランではなくマラルメの形式美オマージュだから……」などと言い訳していそうなのがムカつく。(勝手に深読みして勝手にムカついているの図))

 

樒/榁

2/20(火) p.406~461
樒(しきみ)

2/21(水) p.462~512

榁(むろ)

2/22(木) p.512〜564

読み終えた! 鏡の中は日曜日よりおもろくて草

『樒/榁』は『鏡の中は日曜日』の続編というかおまけ短編的な後日談であり、それでいて、「樒」が鮎野の書いた水城を主人公とした小説、「榁」が石動戯作を主人公とした話ということで、『鏡の中~』第二章の構造をそのまま引き継いでもいる。

「樒」は、夜に天狗塚の上に天狗らしき人影が現れたという謎と、旅館での密室変死事件の謎を置いて、後者の真相じたいはそんなに面白くないのだが、オチで前者がまったく別の出来事として回収され、しかも(『鏡の中~』を読んでいたら知っている)名探偵・水城のジェンダーの真相を踏まえて一層味わい深くなる、という構成がそこそこ良かった。

「榁」では、そんな前作の真犯人?のモブがなんと石動戯作だった、という後付け感と遊び心溢れる設定からスタートして、(『鏡の中〜』のミスリードとは違い、今度は)ちゃんと同じ館で十数年越しに起こる、今度は人が死んでもいない密室事件をサクッとホワイダニット中心に解決する。

やっぱ石動戯作のキャラが好きだな。軽薄でしょうもない感じが。名探偵でありながら3枚目みたいなコメディリリーフのキャラ。大オチが喜劇的というか、それこそ女の怨みは怖い…という落語的なのもいい。作中では明かされていないけど、旅館の女将である綾子さんは、16年前に露天風呂覗きの首謀者が石動であることを何らかの形で知っていたから、めちゃくちゃ辛辣に接し続けたということでいいんだよね? 夫(ジロちゃん)にもそれで尻に敷いてるのかな。

樒の前半の、崇徳院の蘊蓄パートの必要性が分からなかったが、おおオチで落語として親父ギャグ的に回収されたのを見て良い意味でずっこけた。

『樒/榁』は総じて、『かがみの中は日曜日』自体のパロディになっているというか、良い具合に反復して絡ませて茶化しているのがうまいと思った。もちろん、露天風呂覗きという性犯罪を「ネタ」として軽薄に用いている点は明確に差別的であるし、そういう要素のある石動戯作という男性名探偵キャラを「軽薄でしょうもない感じが好き」と(感じるのみならず)言ってしまう私自身が性加害的ではある。

 

 

 

 

 

 

 

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