『ドン・キホーテ 前篇』(2)セルバンテス

 

 

これの続き 

 

第2巻を読んだ。

 

 

1巻でまだ第3部終わってなかった!普通に続いてた

 

第22章。遂に国家権力に歯向かってて草
王様にかしずくのが騎士だとか言ってるのに・・・
ガレー船へ引きたれられる最中の囚人たちの罪状は一人ひとり個性的で面白い。特に最初の囚人がヤバい

あっしの恋人というのは、まっ白な肌着の一杯つまった洗濯籠でね、そいつにぞっこん惚れこんで、かたく抱きしめあったってわけでさ。あれで、お上の手で仲を裂かれなかったとしたら、あっしは今でもあれを抱いたままで、自分から手放すことは決してしなかったでしょうよ。 p.12

下着フェチの変態泥棒ってことでいいの?? それともまさかの洗濯籠フェチ???

だとしたらレベルが高すぎる

 

さっそく第2巻でもボコボコにされて身ぐるみ剥がされたけど、もともと今持ってた装備や品々だって道行く人から奪ったものだしな・・・

 

 


第23章

サンチョの驢馬が盗まれる挿話が第2版(同年出版)で追加され、矛盾点(驢馬が盗まれていない)は第3版で修正されているとかなんとか。で、それに後編のメタフィクションで言及するらしい。矛盾しているところについて後から言い訳できるのもメタフィクション続編の利点っちゃあ利点か。でも、あえて矛盾を作って修正して……といった、版を重ねる過程(物語が形作られる過程)を強調するためにやった可能性もあるのかな。

 


第24章(〜p.87)

第1巻で出てきた、高潔な美女に恋して死んだ男のように、美女にフラれて詩を詠んで狂った男がまた登場した。ここ寝取られ要素。
そして、サンチョの羊たちを川渡しする話と同様に、この男の話も最後まで語られない。物語が途中で終わること、読者の介入によって語りが中断されることを強調している?

したがって、彼が当初は自分の恋の情熱を抑制するために土地を離れたいというふりをしていたとするなら、今ではそうした恋を本物にしないために、つまり結婚の約束の履行を回避するために、本気で家を出ようとしていたのです。 p.79

語りがめっちゃわかりやすい。文学的な上手さじゃなくて、プレゼン・スピーチとして見習いたい上手さ。

 

ドン・キホーテは騎士道物語という言葉を耳にするがいなや、こう言った──
「あなたが身の上話の冒頭で、恋人のルシンダ殿が騎士道物語の愛読者だと一言おっしゃっていたら、ルシンダ殿の才知がいかに優れたものであるかを拙者が察知するのに、それ以外の賛辞を並べる必要はさらさらなかったでござろう。実際のところ、あのように興趣あふれる読み物がお好きでないとしたら、あなたが紹介なさったほど立派な御婦人であられるはずもないでしょうて。ですから、拙者に対しては、その御婦人の美しさ、徳性、聡明さを納得させるために、このうえ言葉を費やすには及びませんぞ。ただその趣味をおうかがいしただけで、その方がこの世で一番の美女にして才媛であると認定できますのでな。それにしても拙者は、あなたがその方に、『アマディス・デ・ガウラ』といっしょに、実によく書かれた『ドン・ルヘル・デ・グレシア』を届けてくださればよかったと思いますよ。(中略)それにしても、あなたの話の腰を折るようなことはしないと約束しておきながら、つい口を出してしまったことをお赦しくだされ。どうも拙者の習性で、騎士道だとか遍歴の騎士といった言葉を耳にすると、ちょうど太陽の光が大地を熱し、月光が大地に潤いを与えずにはおかないように、どうしても黙ってはいられなくなるのでござる。そういうわけですから、どうかお赦しのうえ、先を続けてくだされ、それが今のわれわれにとってはなにより重要なことゆえ。」 p.82

ここ草 相手の話に割り込む、典型的なオタク早口が発動してる。いわゆる「◯◯(自分の好きなコンテンツ)が好きな人は信頼できる」ってやつだ。しかもシームレスに同じジャンルの別の作品の布教をする。誰かさんを見ているようだ・・・


僕もつい相手の話を遮って好きなことを語ってしまったら「どうも拙者の習性で、◯◯だとか◯◯といった言葉を耳にすると、ちょうど太陽の光が大地を熱し、月光が大地に潤いを与えずにはおかないように、どうしても黙ってはいられなくなるのでござる」と言い訳しようかな。

 

 


第25章

そして、無知で根性のひねくれた連中が、二人のこうした関係を邪推して、彼女がエリサバットの情婦だなどと考えたり、言いふらしたりするようになったというわけじゃ。 p.92

ここ悪い「関係性のオタク」への言及

 

とはいえ、彼らが実際にあった姿をそのまま描いたり記述したりしているわけではなく、後の世の人びとが美徳の亀鑑として仰ぐことができるように、かくあれかしと理想化しているのじゃ。 pp.96-97

騎士道物語で描かれている騎士たちの人生・武勲が「理想化」されたものであり、事実から脚色されていること、及びその脚色の意図までをもちゃんと認識している。……それなのになぜ、騎士道物語それ自体を虚構ではなく現実だと思い込めるのか? 脚色はされているが、彼らが実際に存在していたことは疑っておらず、しかも、騎士道物語の読者として、「理想化」されたものをそのままリアルに受け止めるべきだと信じているんだろうか。本当に「良い読者」だ、ドン・キホーテは。

 

「そう、そこが肝腎な点じゃ」と、ドン・キホーテが答えた。「そこにこそわしの営みの微妙なところがあるのよ。つまり、遍歴の騎士が理由あって狂気におちいったところで、ありがたみもなければ面白くもない。重要なのは原因もなく狂態を演ずることであり、わしの思い姫に、理由もなくこれだけのことをするなら、理由があったらどんなことになるだろうと思わせるところにあるのじゃ。 p.99

そもそも傍から見たらずっと狂気そのものであるドン・キホーテが、今から「狂気を演じ」ようとしている時点でおかしいのに、彼はこうして、自身がこれからやろうとしている営みについて客観的に分析できている。それがいっそうヤバくておもしろい

 

ドン・キホーテが山に篭もって「狂態を演じて」いるあいだに、故郷の村のドゥルシネーアに宛てた恋文をサンチョ・パンサが届けに行く。あの村まで戻るのか……

 

 


第26章

この詩を読んだ人たちは、ドゥルシネーアという名に必ず「トボーソ村の」が添えられているのを認めて、少なからず笑った。ドゥルシネーアと言うとき、そこに「トボーソ村の」とつけなければ詩の意味が通じなくなるとドン・キホーテが思ってのことに違いないと想像したからであるが、これは後になって騎士自身が告白したところによれば、事実そのとおりであった。 p.132

これはすでにこの『ドン・キホーテ(前篇)』が出版されて広く読まれる未来のことまでをすでに内包している、と捉えてよい? 「後になって騎士自身が告白したところによれば」と、ドン・キホーテの未来のことまでちゃっかり書いてるし。

 

おお! 故郷でドン・キホーテの蔵書を燃やしまくった司祭&床屋コンビが再登場!!
まだドン・キホーテを故郷に連れ返して治療することを諦めてないんだ。友達想いだな・・・
まさかのおじさんの女装コスプレは草

 

第27章(〜p.180)

おお! 寝取られたカルデニオも再登場して、あの話の続きを語ってくれるのか。
司祭&床屋がカルデニオに出会うという、主要キャラ不在でサブキャラ同士で作中物語が続く。でも横道に逸れてるとはあんまり感じない。そもそもドン・キホーテの遍歴の旅自体がいきあたりばったりだし……

これに対して司祭が、あなたの話を聞いていてうんざりするどころか、その脱線や細部がとても興味深い。それこそ話の本筋と同じほど傾聴に値するものだから、省略しないで話してもらいたいと応じた。 p.171

ここはまんま司祭=読者だ。ほんとそれ。むしろ脱線のほうがおもしろい。


カルデニオの詩歌から、幼馴染の恋人ルシンダは完全に寝取り男フェルナンドに絆されて心まで鞍替えしたものだと思っていたけど、そうでもないじゃん。誓いのキスの直前で失神するくらいには思い悩んでいるのに、そんな彼女を「裏切り」だと断定して嘆くカルデニオにはあまり同情する気も起きなくなってくる。

カルデニオはずっとルシンダを「わたしのもの」だとモノ扱いしていて、父権的で有害な男性性を明らかに表現している。

そもそもこの作品じたいが、「騎士」という、父権的な男性像=英雄への憧れに取り憑かれた男の物語であり、めちゃくちゃリベラルというか、ジェンダー的に読んでもすごく興味深い。
そして、自分勝手とはいえ、いちおうは相応の出来事があった上で狂態を演じているカルデニオに対して、そもそも一度もちゃんと会ったこともない近所の女性を勝手に「想い姫」認定して、彼女のつれなさを嘆き悲しんで狂態を演ずるドン・キホーテの異様さが際立つ。実際につき合いのある生身の女性を所有しようとする男性の有害さのうえに、虚構のなかでその有害さを再生産しようとする男の有害さをも描く。これはそのまんま、騎士道物語=あらゆるフィクションが描いてきた英雄譚が大衆に読まれることで、現実社会の父権的な構造を維持し、より強固にし、再生産してきた事実に対応する。

でもカルデニオの自暴自棄というか躁鬱な感じはちょっと共感しちゃう

 

これで第三部おわり。

 

 

・第28章〜第31章(〜p.289)

例の寝取り男フェルナンドの被害者その2、素封家の娘ドロテーア登場。被害者の会結成してるやん
この作品に出てくるひとは、誰も彼も老若男女、身の上を話すのがうまくておもしろい。

なるほど、両親のわたくしに対する愛情の深さを考えますと、わたくしが大喜びで迎え入れられるのはまず間違いのないところですが、両親の目の前に以前とは異なるわたくしの姿をさらさねばならないと思うと、それだけでもう耐えがたい恥かしさを覚えます。ですから、両親がわたくしに期待してしかるべき純潔を失ったわたくしの顔を見ているのだと思いながら彼らの顔を見るくらいなら、それこそ永遠に彼らの前から姿を消したほうがましだと思うのです。 pp.215-216

奥深い「恥」の感情

 

ドロテーアも一行の仲間になった。単なる一期一会のキャラだと思っていたカルデニオやドロテーアの身の上話がこうしてつながって、ドン・キホーテ(を強制送還する)一行に次々と加わるの普通にアツい展開。ドラクエじゃん

 

するとドロテーアが、その助けを求める乙女の役なら床屋さんより自分のほうが上手に演ずることができるにちがいないし、おまけに自分は、その役を自然にみせるような衣装も持ちあわせている、だから、この目的を遂行するのに不可欠なその役回りをまかせてもらいたい、自分はこれまで騎士道物語をたくさん読んできたので、悲嘆にくれる乙女が遍歴の騎士に力添えを頼む際の言葉づかいを熟知しているから、と言った。 p.221

騎士道物語ファン多くない? ドン・キホーテを囲んで普通に読書会したほうがいいのでは。
でも、こうして他の(狂気に陥っていない)騎士道物語読者を出すことで、ドン・キホーテの狂気さが際立つ(普通に騎士道物語を楽しんで読んでいるだけではああはならない)。

 

そんなサンチョにもひとつだけ気がかりなことがあり、それは、あの王国が黒人の住む地にあるからには、主人や自分の臣下となる連中も必然的にすべて黒人になるという点であった。 p.232

時代的なナチュラル人種差別だ。16世紀はアメリカ大陸がコロンブスによって発見されて100年以上経った植民地時代か。奴隷解放宣言はまだ100年以上先。

 

自分たちの芝居がぼろを出しそうな危険にさらされているのを見てとった司祭は、間髪を入れずに髭に駆け寄り、それを拾いあげると、まだ横になって呻き声をあげ続けていたニコラス親方のところへ行った。そして床屋の頭を自分の胸もとに引き寄せると、何やら呪文を唱えながら、一気に髭をとりつけてしまった。 p.237

「間髪を入れずに髭に駆け寄り」、"髭" が代名詞ではなく髭そのもののパターンでこの文めっちゃおもろいな

 

司祭と床屋はすでにサンチョから、彼の主人がその栄光を高めるほどの成功を収めた漕刑囚解放の武勇伝を聞いていた。それゆえ司祭は、ことさらこの一件をもちだして、ドン・キホーテがいかなる反応を示し、なんと言うか、それを確かめてみようとしたのである。しかし、当の騎士は司祭の一語一語に顔色を変えたものの、自分があの善良な連中の解放者であるとは、さすがに言い出そうとしなかった。 p.243

へぇ〜〜 ここで言い出さずに気まずく感じるだけの分別はあるんだ〜〜
ドン・キホーテの狂人具合を少しずつ探っていく感じおもしろい

 

ドロテーアは聡明で、たいそうしゃれっ気のある娘だったし、しかもドン・キホーテがいささか頭のおかしい男であって、サンチョ・パンサ以外の人がみんなして彼のことをからかい、もてあそんでいるのをとっくに承知していたので、自分だけ遅れをとりたくないという気持から、騎士が激怒したのを見てとると、こう言った── pp.246-247

仲良しグループでそいつをいじっていないと疎外感を覚えるレベルのいじ(め)られキャラになってるじゃん・・・しかもついさっき出会った少女にまでいじられてる。
現実ではアウトだが、ドン・キホーテに関してはこうされるのも仕方ないほどに狂ってるからな・・・

 

「わたしもたぶんそんなところだろうと思いましてな」と、司祭が言った、「早速あんな助け船を出したんですが、あれでなんとか事なきを得ましたよ。それにしても、あの気の毒な郷士がどんな作り事や絵空事でも、その話の筋や言葉づかいが荒唐無稽な騎士道物語と似ているというだけで、やすやすと信じてしまうというのは、なんとも奇妙な、驚嘆すべきことではないでしょうか?」
「まったくですよ」と、カルデニオがひきとった。「実に稀な、前例のない事例ですから、よしんばこのような人物を虚構の中で考え出そう、でっちあげようとしたところで、これほど首尾よく作り出せるような、機知に富んだ才士が存在するものかどうか、ちょっとわかりませんね。」
「ところが、彼にはさらに奇妙なところがあるんですよ」と、司祭が言った。「なるほど、この純真な郷士は話が彼の狂気にかかわることに及ぶやいなや愚にもつかないことをまくしたてますが、いったん話題がほかのことになると、実に理路整然たる話しぶりで、彼があらゆることに対して明敏な、そして穏健な判断力の持主であることを見せつけるのです。ですから、その狂気を触発する騎士道にふれない限り、彼のことをすぐれて理性的な教養人と思わない人はいないでしょうよ。」 pp.263-264

司祭の言葉、ほんとそれな〜
カルデニオの意見は作者による自分褒めギャグとしても面白い。

 

第31章、前に木に縛られて鞭打たれているところを助けた少年アンドレスと再会して罵られる

さすがのドン・キホーテも、アンドレスの話にはすっかり恥じいってしまった。そして同行の者たちは、騎士の面目をこれ以上つぶさないようにというので、笑いをこらえるのに懸命であった。 p.289

恥の感情まだ残ってたんだ・・・・・・

自分が恥をかいたときにグループで自分以外の人たちが結託して笑いをこらえているのを想像すると冷や汗がでるけど。

 



・第32章〜第34章(〜p.387) 第2巻おわり!!!

一行が例の宿屋に泊まり、騎士道物語好きな亭主が持っていた原稿『愚かな物好きの話』がガッツリ2章まるごと使って語られる。

これまでのカルデニオやドロテーアなどの身の上話は、あくまで「彼は次のように語り始めた──」みたいに、枠物語としての体裁があり、本筋から地続きで繋がっているが、この『愚かな物好きの話』は、そうした留保が一切なく、章の冒頭からいきなり始まる、という点で異質な章。(前章の最後が「小説はこんな具合に始まっています──」ではあるけど。)

 

『愚かな物好きの話』、独立した小説としてかなり面白い。

カルデニオのエピソードで「寝取られ」をやったうえで、今度は「寝取らせ」かよ・・・・・・pixivか何かの性癖博覧会ですか?

しかも、単なる寝取らせではなく、同性の親友間での協定であり、そこに実際の不倫要素が加わってめっちゃ良い三角関係の痴話になっている。アンジャッシュのコントを数段レベル上げしたかんじ。三角関係だけでなく、侍女の愛人との関係も絡んでくるのもお見事。

 

「俺の最愛の妻を寝取ってくれ。親友のお前しかお願いできる奴はいないんだ」と懇願するアンセルモに、いかにお前が愚かなことをしようとしているのか説得を試みるロターリオ、なんだかすごく身に覚えがあるな・・・ 身近な人が愚かな道にハマりかけているところを感情的なクソ長い文章で説き伏せようとして失敗したことが、ごく最近あったような・・・よく思い出せないが・・・・・


ってこれ、『愚かな物好きの話』終わらないで途中のまま3巻にいくんかーいww
めっちゃ続きが気になる引きじゃねーか!!!!!

 

いや〜おもしろいな〜 ふつーに読みやすくてエンタメとしておもしろい。

20世紀以降のモダニズムポストモダン小説の文学性云々のような面倒くささ、とっつきにくさは一切ないのが良い。

まず文章がすごく読みやすいんだよな〜〜 持って回った言い回しとか修辞とかが多用されているんだけど、それらが読む際の邪魔になるどころか、むしろ潤滑油として機能している。理想的な文章で、ふつーに参考になる。訳者の牛島信明さんの功績でもあるだろう。

 

 

 

 

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