『めくるめく世界』レイナルド・アレナス


2019/11/23読了

 

最初の1章が人称を変えて3連続で続くところ、ここがハナっから最高だった。アレナスを読んでるって感じ。

 

p.50~100あたりまで。メキシコの港に幽閉され、出航してから少しダレてきた?
如何せん牢獄に入れられすぎじゃないですかね…作者自身の体験も入ってるんだろうけど。

 

マドリードの街・人々の描写が酷すぎてむしろ笑える。

 

14章、国王に謁見するために少年に連れられカオスで寓話的な人々・場所を巡るのが良い。最後に括弧が閉じて「これクソ長セリフだったんかーいww」ってなるのまで含めて。
寓話的なのは嫌いだが、アレナスのこれは許容できるむしろ歓迎できるのはなぜだろう。アレナスの文章というメタ知識があるから?

 

いつのまにか、もはや章ごと段落ごとではなく一文ごとに人称が違和感なく混ざり変わっている。かえって人称にこだわっていないんじゃないかとすら思い始めた。これからひとつの文の中で変わることがあるのか、見落とさないように期待。(読後→見落としてなければ無かった。自信ない)

 

p.200を越えた
24章
この小説をいちばんつまらなく読む方法は「神話的」という形容とともにページを繰ること
以上のことを、この訳の分からないが筆がノっていることだけは分かるがんじがらめの牢獄譚を読んで思った。さすがにここまで凄い幽閉を見せられると、またかよとかマンネリとか言えない。
というか、メタフィクションにしろ不条理小説にしろ信頼できない語り手にしろ、既存の枠組みのなかで解釈することを拒み続けているように感じる。いや、拒んですらいないような。ハナから眼中にない、あるいは枠という概念すら知らずに遊んでいる、爆発している。
ただひとつふさわしいのは、副題である「冒険小説」のみか

 

2つの27章、マジで面白い。イギリス滞在からアメリカへ出発までをひとつは会話中心で、他方は一人称の手記風に。
特に最後。こんなにダイナミックかつスピーディーな大西洋横断みたことねえよ!
ハミルトン夫人へのネルソン提督武勇伝でっち上げ語り聞かせも面白い。ホラ吹き弁舌で身を立てる。
これだけのドタバタ冒険譚において、文学と物語に価値をおくことは一貫している。
あとはメキシコのスペインからの独立を願うナショナリズムか。しかしこれがどうやって身についたのか分からない。当たり前すぎて描かれない?

 

終盤の34章は長いしいよいよ世界が混ざり合って訳わかんない(詩人との対話は良かった)が、その後の「手」の散文の素晴らしさといったら…。急にエモへ振り切る芸がピンチョン並にうまい。

 

巻末のセルバンド師の年譜でびっくり。マジでこんだけ牢屋入れられてその度脱獄したのか…わりと史実に忠実に(忠実とは言っていない)書いていたんだなあと感嘆。そしてアレナスがこれを書いたのは若干20代の頃なのに、そのあと自らの作をなぞるように、この修道士の生をなぞるように抑圧と亡命の運命に投げ込まれたというのがなんとも。しかしそれは作品自体の感想とは独立である。

 

帯の推薦文が高橋源一郎なのは納得できる。いかにも好きそう。というか、彼の小説におけるやりたい放題さを5段階くらい上げたのがアレナス、と言ってはアレナスを矮小化し過ぎだろうか。

 

訳者あとがきにしろ、読メの感想にしろ、「1,2,3人称が交錯する」点をみんな殊更取り上げ過ぎじゃない?と思った。というのも、読んでるうちに人称とかどうでもよくなってしまっていたからだ。3つの人称の駆使は、技巧というよりも戯れであり、駆使してやろうなんてハナから考えていなかったのではないかと、爆発し続ける筆致から思う。
戯れであり必然。それはアレナスの作品のほかの、あらゆる要素にも言えるのではないか。
スラップスティックに人や生き物が次々に死ぬのも、嘘という枠組みを越えた荒唐無稽なエピソード群も、我々にはこのように読んでしまうけれど、そのテキストの奥にはもっとイノセントであるがゆえにそうでしかありえないような固有のダイナミズムが潜んでいるような気がしてならない。アレナスを読んでいるあいだ僕は、その奔流のほんの一滴を、ごくごく飲んでいる。ほんとうにおいしい。もっと飲みたい。