「象の消滅」「カンガルー通信」村上春樹

象の消滅(『象の消滅』収録の同名の短篇)
読了日:5/8

読書会の課題本で読んだ。『風の歌を聴け』以来、数カ月ぶりの村上春樹
ストーリーはシンプル、文章は相変わらず読み易く、これぞ村上春樹の短篇って感じ。
ちょっとした非現実っぽい出来事が起きて、主人公はそれに少し接近するが、結局うやむやのまま抽象的に終わる。

 

ふつうならこれ以上特に書くこともないが、課題本なので掘り下げる。
(好きでもない作品にこうしてじっくり向き合う機会をくれるから読書会はいい)

 

<二部構成>
まず気になったのは「語り手の男が新聞記事を見て、象について振り返る」前半と「会社のパーティー若い女性に出会い、象の事件について語る」後半という2部構成に本作がなっている点。
一つは、後半の女性に出会うパートいらなくね?という方向性。まぁ理知的で若い女性に偶然出会っていい感じの雰囲気になる展開は春樹にはありがちなので、本作もその一例であるというだけのことかもしれないが……。
前半のまま、男がひとりで事件と向き合い、解決されないままぼんやりと終わる展開ではダメなのか?
→ダメ。後半で「実は消滅前に象を最後に見ていたのはこの男」だという衝撃の事実(これも都合が良い)が明らかになるが、これは女性との会話のなかで引き出されたもの。つまり、この事実を物語のなかで自然な形で出すための舞台装置として、女性ひいては後半パートは必要。
では逆に、前半がいらなくね?という方向性はどうだろう。象事件についての前置きナシに「僕が彼女に会ったのは九月も終わりに近づいた頃だった。…」と始まる。女性との会話のなかで事件について振り返っていく、という流れ。
書いていて思ったが、この展開もちとキツい気がする。まず、タイトル「象の消滅」に対して比重が女性との出会いのほうに傾いてしまう恐れがある。また、ひとつの会話のなかで事件やその前日譚(象の来歴、男がもともと興味を持って動向をスクラップしていた)をいっきに打ち明けるのは不自然というか、自然にそれをやる流れを書くのは大変そう。やはり本作のとおりに、あらかじめ事件の前知識は説明して、「この男なにか知ってるな?」という疑念だけ抱かせたままに逢瀬フェーズに移行して、その疑念を解消する流れがもっともスムーズであると思われる。
結論:本作を二部構成にしたのはきわめて理にかなっている。

 

<本作の肝>
この短編では「象と飼育員が跡形もなく"消滅"する」という不可解な事件が中心的に語られるが、もちろんこの事件の「真相」
が存在すると仮定して謎解きをするような小説ではない。(と、少なくとも私は考える)
本作は、この非現実的な事件に対するこの男の距離感のとり方、換言すれば受容の仕方に"スマートさ"を見出して味わえるか否かがポイントではないか。
一読してそれほど感じ入りはしなかったが、本作は遅効性の毒か、あるいはリビングのインテリアのように、読んだ者の精神の奥底にしずかにその存在を滑り込ませ、日常の何気ない瞬間にふと思い出してしまうような威力をもつような気がする。(これは本作をできるかぎり好意的に捉えた場合の形容であり、じっさい私はまだ読み終えて時間が経っていないのだから、「遅効性」があるかどうかはわからない。)

 

便宜的で統一的な世界 ↔ 象の消滅(という不可解な出来事)

 

最後に露骨に(親切に)語られるように、このような二項対立が本作の根幹、あるいは"テーマ"であるという見立てをすることは容易だろう。


「世界は本当に便宜的に成立しているの?」
(中略)
「ただそう言ってみただけです」と僕は言った。「そう言ったほうがいろんなことがわかりやすいし、仕事もしやすい。ゲームみたいなもんです。本質的な便宜性とか、便宜的な本質とか、いろんな言い方ができるし、そういう風に考えていれば波風も立たないし、複雑な問題も起きませんからね」 

pp.416-417

僕はあいかわらず便宜的な世界の中で便宜的な記憶の残像に基づいて、冷蔵庫やオーブン・トースターやコーヒー・メーカーを売ってまわっている。僕が便宜的になろうとするほど、製品は飛ぶように売れ(中略)僕は数多くの人々に受け入れられていく。おそらく人々は世界というキッチンの中にある種の統一性を求めているのだろう。デザインの統一、色の統一、機能の統一。

pp.425-426

 

 

世界は本当は便宜的には成立していない。いくら成立していることにしようと取り繕っても、その枠を超える複雑な問題──象の消滅──が必ず起こる。しかし立った波風はすぐに収まり、世界は何事もなかったように平穏を保つ。それが便宜的な世界の本質である。
主人公は便宜的な世界の欺瞞に気付き(=最後の晩に大小のバランスがおかしい象と飼育員を見た)ながらも、それを積極的に暴こうとはせずに「わからない」「それ以上先のことはほとんど何も考えていない」と静観する。以来世界を見る内的なバランスが崩れていることを自覚しつつも、それすら受容してもとのままの生活を続けようとする。

 

本作を「便宜的に」まとめると以上のようになるだろうか。
こうしてみると、本作がこのように「便宜的に理解しやすい」内容になっていること自体が作者の仕掛けた罠であり、本作を便宜的に読むことによって、本作の謳う「便宜的な世界」が真の意味で完成するのではないか?


<その他>

 

もし「象の消滅」が無かったら(話題に出さなければ)男は女性と一線を超えていたでは?
つまり、象の消滅は都合のいい逢瀬を座礁させる障害物としてのメタファー?

 

象の話が「あまりにも完結しすぎた話題」であるということが、じっさいに話し終えてしまってから読者にも納得感をもって伝わるのが面白い。





・カンガルー通信
読了日:5/16

最初、「僕」の一人称しゃべくり小説か手紙…かと思えばまさかのデパートの苦情対応文書…かと思えばやっぱり個人的な手紙…かと思えばまさかのボイスメッセージ…という風に、つねにテクストの位相にスリルがあってよい。
しかも、明らかにボイスメッセージとしてはおかしい部分(罫線の多用など)があって、ボイスメッセージを書き起こししたものか、あるいは読む前の原稿なのではないかと疑いたくなる。

冷静に考えれば仕事上での顧客(しかも苦情を送ってきた人)をボイスメッセージで口説いている狂人なのだが、この小説内においてはさほどおかしくないように感じられる。そんな雰囲気作りがとても上手い。
思索的な文やふつうでない文の展開を次から次へと繰り出しているのに、全体としては端正な文章に仕上がっているのがすごい。文章がうまいというか小説がうまいというか…。

何のメッセージ性も主張もなく、ただ情景(視覚以外のものも含め)だけが存在する感じがえらいと思う。

やっぱ「カンガルー通信」て題から思いついて書いたのかな。そうだったら最高だな。

これを読んで、村上春樹は文学的に評価されるべきなのかはしらんが売れるべくして売れたんだなと思った。
まず文章が読み易く、それでいて「おかしさ」に満ちている。読むものを拒んだり吹き飛ばしたりするようなおかしさではなく、愛着がわく、あるいはそのおかしさを好きでありたいと思わせる類のおかしさ。



「象の消滅」 短篇選集 1980-1991
村上 春樹
新潮社
2005-03-31