『推し、燃ゆ』宇佐見りん

 
読む前から薄々わかってはいたが、案の定じぶんがいちばん苦手なタイプの小説だった。
所謂「現代の若者の感性を生々しく描く」系で、表現したいことが(全体を通しても、場面場面でも)わかり易く、それをお行儀よくこなせている優等生純文学。時代の要請で半ば必然的に現れて、それが書かれなくてもいずれ似たテーマを扱った系統の作品は出てくるだろうな……と思ってしまうような類の小説。(こうした感慨はあらゆる意味で間違っている気もするが)

コンビニ人間』や『ねぇ、静かに、ねぇ』も同じで、この系統がいちばん自分には合わない。こういう系統に出会いたくないから国内小説をあんまり読みたくなく、海外文学に逃げているといっても過言ではない。フエンテス『テラ・ノストラ』あたりで浄化したい。

 

 

なぜ嫌かって、自分に近すぎるからだと思う。わたしは文学に「現実逃避できる性能」や「自分の理解を越えた何か」を何より求めている。だから、ラテンアメリカや東欧の小説のような、現代日本に生きる自分とは何もかも異なる世界と文章を宿すような小説、何がしたくてそれが書かれたのか/そもそも何が書かれているのか全く理解できない小説が大好きだ。(その極北がデボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』)


逆に、日常感覚に近い小説では現実逃避ができない。現実を突きつけられてしまう。
だから、「はいはい、そういうことがしたいんでしょ。わざわざ小説で読まなくてもわかってるよ」と言いたくなる、本書のような類は苦手だ。

 

あと、肉感的・肉体的な形容や描写を臆面もなく強調している(そもそもテーマがそれなので仕方ないのだが)感じは、最近読んだ『ボディ・アーティスト』にも似ていて、やはり苦手。

 

こうした作品が多くの読者を獲得し、時代に/社会に広く/深く受容されることに異存はない。「よく書けている」のだと思う。
でも、自分にとっては、よく書けていればいるほど苦手になる。のっとふぉーみー

 

本作はインターネット・SNS時代の若者の現実認識・価値観を文体にまで落とし込んでいただけに、小説というよりはインターネットのエッセイブログっぽいなと思った。この主人公のように、自身の肉体を持て余す若い女性のブログはnoteやはてなでさんざん読んだ覚えがある。

 

「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」という冒頭から、この炎上事件が決定的に主人公に作用してプロットの骨格を定めるのかと思っていたが、意外と炎上事件は尾を引かないし、主人公もそんなにショックは受けずに推し活を続けることに驚いた。

 

あと、主人公はSNSと〈解釈〉ブログをやっていて、その界隈ではわりと知名度がありフォロワー・読者もそこそこいるらしいのに、主人公のツイート・投稿の描写があんまりされなくて残念だった。学校・家族・バイトという現実面での描写が丁寧だった分、ネットでどのように振る舞い、どのように交流しているのかをもっと見せてほしかった。
それとも炎上以来マジであんまり更新してなかった? 敢えて現実での彼女だけを強調する意図があったのかも知れないけど…

 

終盤の展開も締めにいく文章も、いかにも出来合いの物って感じだった。お骨綿棒とか笑っちゃう。血と骨。体の重さ。這いつくばり。ちゃんとテーマ回収できて良かったですねー

 

主人公の姉の造形はわりと好きかも。真人間なところと歪なところのバランスが良い。

 

推す対象が3次元アイドルであって2次元アニメキャラとかではないところに、まだまだ我々は時代の過渡期にいるんだなぁと感じる。あと数年もしたら推し燃ゆ2次元ver.ゼッタイに出てくる(もう既にある?文学賞を獲るレベルではまだかな)
本書に出てくる上野真幸くんのような、""架空のアイドルを推す""若者の小説だったら面白そう。レム『完全な真空』みたいな。
誰か、「『推し、燃ゆ』を読んで上野真幸くんに沼った若者」の小説書いてくれ。小説っていうか現実のブログでもいいぞ。
いかに真幸くんがかわいくて推せるかを熱く語ってくれ。

 

 

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

かか

かか

 

『かか』のほうが好きそうなんだけど読むかわからん

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 

静かに、ねぇ、静かに (講談社文庫)

静かに、ねぇ、静かに (講談社文庫)

 

 

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

 

 

 

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

 

 

完全な真空 (河出文庫)

完全な真空 (河出文庫)