『世界泥棒』(1)桜井晴也

 

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web上の個人ブログで読める『愛について僕たちが知らないすべてのこと』と今のところほぼ同じ感じ。文体とか雰囲気とか

 

なんだろう、ジュブナイル100%というか、「エモい」の権化というか、現代日本の若者(学生)の世界感覚とかをかなり敏感に体現している小説なんじゃないか。エンタメ性の欠片もなく、紛れもない純文学なんだけど、ある意味で、ラノベとかよりさらに若者/オタク向けというか……
ジュブナイルを突き詰めすぎて逆に純文学になった例かも。("逆に"ってなんだ?ジュブナイルが純文の真反対にあるわけではないだろう)
これを歳のいった文学マニアの方々が評価するイメージが湧かない・・・というのは偏見だろうな。じっさい文藝賞とってるってことは審査員に認められてるわけだし。高橋源一郎とか山田詠美とかが帯に推薦文書いてた。

 

ただ、ものすごく特殊な小説ではあるんだけど、この人の小説の方向性ってすごく親近感が湧くというか、もし自分が特に何も考えずにテキトーに小説を書き始めたら、こんな感じになりそうだな〜とか思っちゃう。おこがましくも。これの超絶劣化版ならわりと自然に書けそうな、そんな親近感。だからこれを読んでると自分も小説を書きたくなる。
「読んでると小説を書きたくなる小説」って、「大好きな小説」とも「自分にとって衝撃的な小説」とも違う。なんだろう・・・ある意味、これら2つよりもずっと、その基準・実態を分析するのが難しそう(気分依存性が高そう)

 

幽霊とか野人?とかが平然と出てくるしリアリズムではないんだけど、SFでもファンタジーでもなく(マジックリアリズムでも当然なく)・・・まだ村上春樹のほうがリアリズム寄り。カフカ・・・は作品による。
でも今のところなんとなーく雰囲気はカミュ『異邦人』っぽい。異邦人のほうが全然リアリスティックだけど、ひりついた静けさで人が殺せそうな感じが。
会話文がカッコにくくられず地の文と溶け込んでるまどろっこしい文体はコーマック・マッカーシー的(マッカーシー読んだことないけど)。
あとひらがなを多用するのって、これの特徴というよりは日本の現代純文にありがちな傾向なのか。町屋良平とか。
まぁひらがなを使うと1周回って(?)文学的にみえる感覚はわかってしまう。

 

幾匹かの羽虫たちがカーテンの内側を飛びかい、その影は世界にまちがえて生みおとされた塵のように思えた。 p.15
 
比喩・メタファーは(おそらく意図的に)凡庸なものも多いが、たまにこうした「おっ」となるやつもある。

 

(前略)決闘の要因となったそれぞれの男の子の言いぶん・主張は決闘の前後でどちらかの言いぶん・主張を絶対化するどんな証拠・証言が確認されたとしても決闘の勝者の言いぶん・主張がただしいとみとめられること、ただしそのただしさがみとめられる範囲はその決闘を主催した百瀬くん、そして決闘をじかにその目で目撃したにんげんにかぎられること、それ以外のにんげんに決闘でみとめられたどちらかの男の子のただしさを強制することはどんな場合にも許されないこと、(後略) p.17
「ただしさをみとめる」という非常にふわふわした動機のもと決闘が行われるらしい。「ただしさ」などのナイーブな概念が、そのナイーブさをそのまま重大さに置き換えていくような世界感覚(ふわっとした用語)が、この小説には通底している気がする。
「男の子」とかも。この作品のジェンダー論ってかなり異質でおもしろそう。
 

 

あと、「決闘」をなにかの寓話やメタファーだとみなすひとはこの小説に向いてないってことだけはわかる。・・・というのは強い言葉だが、あくまで僕は、ここで描かれる決闘は決闘そのものであってそれ以上でもそれ以下でもなく、私たちの住む世界の何かといたずらに対応させたりはしたくない、という思いが強い。
メタファー寓話読みが一般的に嫌いなのもあるが、この小説は特にそうは読みたくないと思わせられる何かがある。ここらへんの基準をうまく分析できたら面白そう。



男の子たちの腕はこんなに長いんだろうかとあらためて思わされるほそながさだった。 p.20
ここって真山くんが見た決闘の様子を真山くんから聞いた「わたし」(女子)が語っている、という体裁のはずなのに、明らかに女性目線の描写で違和感がある。なんか読み間違えてる?それとも意図的な矛盾?
 

 

教室のなかはすでに沈黙につつまれていた。鴉が電線から飛びさって空のなかで鳴く声、中学校のすぐ近くの田畑のなかで鳴きはじめた蛙の声、それ以外は、ただだれかが息を吸ったり吐いたりする音、髪と髪、制服と制服がこすれあう音、そればかりが隠れて性交をしている男の子と女の子の肉体の呼びあいのように響いて聞こえた。そしてそれは、わたしたちにとってのいくつかの喪失なのかもしれなかった。 p.21
こうして段落の最後をそれっぽくエモい文で締めてくるのが本作の常套手段。「喪失」とかも典型的にナイーブなジュブナイル・エモ・ワードだよな。このあたりが文学的に優れているのかは正直わからん。「はいはいまたこのパターンね」とも思うけど、やっぱり良いなぁと感じてしまうことも多々ある。これはまだ自分を""若者""だと名乗っていい証拠なのでは?やったぜ



それを知ることができれば、真山くんはいつか自分がだれかを殺したいと思ったとき、あるいはだれかが自分を殺したいと思っているように見えたとき、そのときいったいどういうことを思えばいいか、そのとき、そう思った自分は内面的にも外面的にも醜いだろうか、ということを考えるときにおおきな価値をもたらすかもしれないと思った。 p.22

 

「そのときいったいどういうことを思えばいいか」ってとこがツボ。自分の感情・考えることが多かれ少なかれ自分でコントロールできる前提にたっているんだなぁ、と。これも言ってしまえば若者に特有の全能感とかに結びつくのかな。


いったいいつあがるかもわからない花火をおなじ場所からじっと見つづけているような、なにかたいせつな用事があってもういかなくちゃいけないのに、その場にとどまって花火を見ることをだれかかなしいひとに強制されているような、そんな気持ちがした。 p.28

 

決闘が長引いて弾丸が撃ちだされ続けるのを眺める様子を花火に例えるのは素直な比喩で好きだけれど、問題は「かなしいひと」。これが本作の特徴のひとつだと思う。「かなしい」などの、感覚的・感情的な形容を定期的に印象的に使う。
他にも例えば

 

なにかをつよく求めることなしになにかをえられたらいいのに。そう思うことがおおかった。いやしい子供たちだった。 p.5

 

そんな調和に満たされたときわたしがどうなってしまうのか、ただのひとにすぎないわたしにはちっともわからなかったし、それをわかる、あるいはわかったふりをしてしまうことはいやらしいことのように思えた。 p.14

 

(前略)わたしは、もしもわたしが顔をあげてそれをたしかめたところで、真山くんはわたしが顔をあげたから顔をあげたんだろうな、ということしか思えなさそうで、それはわたしにとってたぶんとてもかわいそうなことだった。 p.20

 

など。「いやしい」「いやらしい」「かわいそう」
ただ、なかでも「かなしいひと」の使い方はいちばんよくわからない。「花火を見ることをだれかに強制されているような」なら明解なんだけど、強制することが「かなしい」のだろうか?このひと(強制者)にとってかなしいのか、それとも被強制者にとってかなしいのか。うーん、これが無ければ素直に好きな比喩なだけに、すごく印象にのこる。

 

 

(前略)ああいう目で相手の顔面だけを狙いつづける、そういうことが現実的に考えられるような場面があるっていう現実のありかたみたいなものが、俺、こわいよ。 p.31
入れ子的なひねくれた言い回しが好み。
「そういうことが現実的に考えられること」を直接的にこわがらずに、それを「そういう場面/があるっていう現実/のありかた/みたいなもの」と、更に4段階くらいの入れ子に包んでそれを婉曲的にこわがる感覚が思春期っぽい。


 

決闘の発端が(われわれや真山くんからすれば)超どうでもいい理由ってことに真山くんがつっかかって百瀬くんと議論するところ(pp.24-26)、あまりにも典型的な相対主義あるいは個人主義の称揚って感じで逆にどう捉えたらいいか ものすごく悩む。
些細な理由で決闘が成立し人が死ぬ、という非リアリズム・不条理な世界設定に対して、真山くんの価値観はわれわれに近い。
百瀬くんの語る決闘のルール(勝者の主張は観戦者にとっては絶対)はもはやこの小説世界の構造そのものに組み込まれていて実質的に破ることは不可能だと思ってたのに、真山くんが平然とそれを破った場合について言及するものだから余計混乱した。
百瀬くんが弾に当たらないとか、決闘では必ずどちらかが死ぬ、とかも原理的に破られないルールの側だと思ってたけど、この様子だともしかしたら後の方で破られる可能性も・・・。でもこの小説がそんなふつうのストーリーチックなことやるかなあ。

世界泥棒
桜井 晴也
2013-11-11