『ズボンをはいた雲』マヤコフスキー

 

「自分では到底理解できないようなぶっ飛んだ小説に出会いたくて海外文学を読んでいる」と公言するにも関わらず、詩を一切読まないのはヤバいんじゃないか?という焦りがしばらく前からあった。しかし日本の現代詩にはあまり食指が動かず、薦められた小笠原鳥類や中尾太一の詩集も秒で挫折してしまった。

(ちなみに現代短歌には数年前の一時期どハマりしていたが今は全く興味がない)

そこで、国内小説より海外小説を好んでいるように、海外詩から詩に入門すればいいのでは?という知見を得て、オススメの海外詩人を幾つか教えてもらった。そのうちの1つが、ロシアの詩人マヤコフスキーである。名前すら全然聞いたことなかった。

 

図書館へ行き、この著者によるペーパーバックの薄い詩集が何冊か並ぶなか、『ズボンをはいた雲』を手にとった。(「長靴をはいた猫」みたいだ)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 

めっちゃ睨んでくるやん……

 


記憶にあるかぎり、マジのガチで海外詩なんて一切読んだことない(書庫でパウル・ツェランヴァレリーの詩集を一瞬開いただけで「読んだ」カウントしていいならあるけど。義務教育課程で知らない間に読まされた可能性はあるが覚えてない)ので、人生初の海外詩読書だ!!!うおおおおおお楽しみ〜〜〜


詩の読み方なんて何も知らない※が、とりあえず率直に感じたことを書き留めていく。

※「私は小説の読み方なら知っている」と言うつもりはない。まぁこういう一般人の趣味レベルの文学なんて「好きなように読めばいいんだよ」とNPC的に言いまくってるだけで""それっぽさ""を醸し出せるだろう。研究者レベルでは話は別

 

 

pp.17-18

ぼくの精神には一筋の白髪もないし、
年寄りにありがちな優しさもない!
声の力で世界を完膚なきまでに破壊して、
ぼくは進む、美男子で
二十二歳。

これsoudaiさんの記事で読んだことある!!!ってなった。
あーあのときの詩人かマヤコフスキーって

kageboushi99m2.hatenablog.com

 

 

 

ザ・思春期/青年期の男子って感じの若さと自負と情熱がほとばしる詩
要するに何を言いたいのか/言ってるのか、かなり把握しやすい。初心者にうってつけかも

冒頭から「君ら」「あんた方」と、読み手(≠読者)に向けて痛烈に語りかけ…いや宣言をしてくる。未成年の主張みたい

詩って小説よりも一層、語り手/語られ手 が希薄でふわふわしてるイメージがあったから、こんなに誰が詩を書いていて誰に聞かせているのかが前景化しているのは新鮮だな

 

 

p.25

きこえる。
ベッドから降りる病人のように、
しずかに
神経がひとつ跳び下りた。 
そして今、
初めはかずかに
うごめいていたが、
やにわに駆けだした、
猛り立って、はっきりと。

神経の擬人化!

 

 

p.29

恋するぼくはもういちど博打を打ちに行こう、
眉の曲線を炎で照らしながら。
かまうもんか!
焼け落ちた家にだって
時には宿なしの浮浪者が住むだろう!

瞳が恋の炎に燃えているのを直接描写せず、「眉の曲線を炎で照らしながら」と婉曲的に表現するのいいな

 

 

pp.30-31

おおい!
みなさん!
賽銭泥棒が、
頭脳犯罪が、
人間虐殺が
大好きな人たちよ、
これより恐ろしいものを
見たことがありますかね、
ぼくが
泰然自若たるときの
ぼくの顔
より恐ろしいものを?

いきりキッズみたいで草

 


失恋に狂う自分を、火事で焼け落ちる建物に喩える。
人間要塞カポネ・"ギャング"・ベッジか?

 

えーと……詩を要約するのは無粋でナンセンスであることは承知でまとめると、
「俺は美男子で若さに満ちあふれているけど失恋して激情がほとばしる!うおおお」って感じ?(ひどい)

 

 

pp.36-37

かつてぼくは思っていた。
本はこうして作られると。
詩人がひとりやって来て、
苦もなく口を開く、
と、たちまちお人好しの意気揚々たる歌が始まる。
とんでもない!
事実はこうだ。
歌が始まる前に、あいつら、
足を肉刺だらけにして永いこと歩き回り、
心臓のへどろのなかでは、愚かな赤腹が弱々しくもがく。
脚韻を軋ませながら、あいつらが
恋と鶯で何やらスープらしきものを煮え立たせる一方、
舌なしの町は身をよじる、
叫ぶべき語るべき言葉を持たぬ町は。

 

pp.39-40

こけおどしの眉をゆがめて
町に化粧してやる大小のクルップたち。
口の中では、
死んだ言葉の屍が分解し、
脂ぎって生きながらえたのはただの二人、
「悪党」と、
もうひとり、なんとかいった、
確か「ボルシチ」だ。

詩人たちは
しゃくりあげ、むせび泣きながら、
髪ふりみだして町から逃げ出した。
「こんな二つの言葉では歌いきれませぬ。
乙女も、
恋も、
露に濡れた花々も」

 

えーと……耽美で高尚っぽい詩を理性的に作るのはクソで、もっと(この詩のように)激情に身を任せて「「魂」」でうたえや!!!お仕着せの響きの良い言葉じゃなくて、「悪党」とか「ボルシチ」といった「脂ぎって生きながらえた」単語こそが至高。おすまし顔の知識人はクソ!!!……ってこと?


その(いかにも原始的で若い)主張の是非はともかく、自己正当化のシステムを内部に組み込んでいるのはちょっとダサいなと思ったけど、まぁ主張・言説ってどれもそんなもんか。

 

 

p.41

ひとまたぎ二メートルの
頑丈なぼくらだから、
服従ではなく、八つ裂きにするんだ、
あいつらを、
ひとつびとつのダブルベッドに
何かのおまけみたいにしがみついてるあいつらを!

一人称「ぼく」で冒頭からずっと不遜な言を並べていたが、2に入るといつの間にか「ぼくら」も使われだしている。
主語がデカい。肥大する自意識
それもまた「若さ」に吸収されるのか……こういう解釈はヤだな

 

 

p.46

のっぽで、
助平な笑い話みたいなやつだと、
今日の種族にあざ笑われる
このぼくには
だれにも見えない「時」が、
山を越えてくる、その姿が見える。

まんま厨二病だよな……
置かれるコンテクストによって「文学」にも「痛い戯言」にも「コピペ」にもなる

すば日々の間宮卓司感

 


ここまで「自分全肯定・(仮想)敵全否定」を貫くのは若さどうこう言えなくなってくるというか、凄い気もする
「あなたは正しい。わたしは間違っている」が座右の銘の自分としては真逆で憧れ……はしないけど尊敬する

 

 

pp.48-50

ああ、どうしてだろう!
なぜだろう、
明るい楽しさのなかへ
汚れた大きな拳を振り上げるのは!

ぽっかり現れて、
頭を絶望の幕で包むのは
癪狂院から離れられぬ心だ。

すると、
戦艦沈没のとき、
呼吸困難で痙攣が起こり、
開いたハッチから跳び出すように、
自分の
叫びが出るまでに裂けた片目を通り抜けて、
狂ったブルリュックが這って来る。
涙の出つくした瞼をほとんど血に染めて、
這い出ると、
立ち上がり、
歩き始めた
と思うと、脂ぎった男には思いがけぬ優しさで
だしぬけに言った。
「いいなあ!」

落ちサビ? 勝利確定主題歌が流れ出す1分前みたいな
と思ったがブルリュックってなんだ。ようわからん

 

 

後半のマリアさまのくだりはよく分からなくてキツかった
詩は読むのに体力使うな〜 いったん集中が切れると1ページ1行も読み進められん
小説読んでるときも、「ちゃんと読めてない」と自分で感じる文は何度も何度も戻って読み返さなくては気がすまない(無視して読み進めると、大切な何かを置き去りにしているようなゾワゾワした焦燥感を覚えて我慢できない)のだが、詩だとこの性質がより顕著に顕れて読書をさらに困難なものにする……
『アカシアは花咲く』なんかは全文理解できなくて逆に大好きだが、それは例外だろう

 


人間を街に喩えるのと、街を人間に喩えるの(擬人化)とが両方あってそれらが円環的に一体化している気がする

 

 

いや何言ってるのかほんとわからん。何かが起こってるっぽい(解像度最低)

 

 

p.66

マリヤ! あいつらの
脂肪太りの耳に優しい言葉を押し込むなんて無理な話だろう。
小鳥は
唄で物乞いする、
飢えても声高く
歌ってる、
でも、おれは人間だ、マリヤ、
肺を患う夜がプレスニャ通りの汚れた手に吐き出した、
単純な男なんだ。

なんか「おれ」くん自信喪失してる?
青春の称揚と挫折……

 

 

p.68

きみ!
こわがるな、
腹に汗をかいた女どもが、おれの猪首に
濡れた山みたいに座っていても。
これはおれが生涯にわたって引きずってるんだ。
何百万もの巨大な純愛と、何兆もの汚れたちっぽけな愛をね。
こわがるな、
またもや
裏切りの荒模様のなかで、
数千の美人におれが言い寄っても。
マヤコフスキーを愛する女たち!)
だってこれは一つの王家の歴代の女王たちが
狂った男の心につぎつぎと即位しているのだから。

すげえ自信だな
名前出しちゃってるよ

p.69

マリヤ、近う寄れ!

恥知らずの裸でもいい、
不安に震えながらでもいい、
とにかくきみの唇の枯れることなき魅力をおくれ。
心を持つおれはかつて一度も五月まで生き長らえず、
過ぎし日々には
ただ百度の四月があるばかり。

かっこいい

 

 

pp.71-72

きみのからだを、
おれは守り、愛するだろう。
戦争でかたわになった
役立たずで
だれのものでもない
兵隊が
たった一本の足を守るように。

マリヤ、
いやなのか?
いやなのか!

はあ!

それならば、再び、
暗く、うなだれて、
おれが心臓を手に取り、
涙をふりかけてから、
汽車に轢かれた足を
巣に
運ぶ
犬ころのように
心臓を運ぶだけだ。

こんなコンパクトなフラれ方ある? ふられた後の描写哀しい
自分も今度失恋したら「はあ!」って言おう

 


失恋の腹いせに神様と天使に八つ当たりしてる


おー……最後はなんというか……かなり余韻のある終わり方
『JR』のラストみたいな

 

 

1と4がわかり易く恋愛(失恋)してて好きだな

初めは若さ全開だったが、最後のほうは寿命が尽きたあとのことを書いてて、人の一生、趨勢の悲哀が滲み出ている

 

分かったつもりになれるところは面白く、さっぱり分からないところはキツいのだが、普段「分からない小説が好き。分かってしまう小説はつまらない」と言ってるのとガッツリ矛盾してて焦る。小説と詩では、主にこちら側の習熟度なら受容態度やらが異なっているのがわかる

詩の読み方、楽しみ方がまだ確立していないので、慣れと研鑽の必要を感じる

ただ、これのような長篇詩のほうがまだ、小説に近くて読みやすい気がする

 


あ、T.S.エリオットの『荒地』は大学時代に読んでたわ。初海外詩じゃなかった
あれ何もわからんかったなぁ。聖書の引用とか知らんし

 

訳者のメモ

pp.83-84

こうして「テトラプティヒ」の意味が判明すれば、この作品が四つの章にわかれていること、それらひとつびとつの部分の主張や叫びが、作者の言う現代芸術のカテヒジス(教養問答)をかたちづくっていることなどが、おのずから知れる。「きみらの愛を(1章)、きみらの芸術を(2章)、きみらの機構を(3章)、きみらの宗教を(4章)倒せ」というカテヒジスは、要するに、きみらの愛や芸術や社会機構は、なっちょらん! それらを創り、司っているのが、唯一の神ならば、俺はナイフをふりかざして神をアラスカまで追い詰めてやる! という若いマヤコフスキーの大声の啖呵であって、極東の昭和時代の曖昧で中途半端な無神論者だった訳者は、たちまち魅入られてしまった。

なるほど〜
なんとなくはわかっていたが、3章は社会機構への啖呵だから理解しにくかったのか。

この後の、列車の客室で同乗した女性に「ズボンをはいた雲」という単語を口走ってしまい、自分が詩を書く前にパクられないよう、忘れさせるために必死で関係ない話題を喋りまくったというエピソードがおもろい。なんなら詩本編よりもおもろい

 

他のも読もうかな……でもこれで十分にマヤコフスキーは掴めたようにも思う。

とりあえずエミリー・ディキンソンは早めに読みたい。数年前にちょっとだけ読んで以来放置しているペソアにも久しぶりに挑戦してみようかな

 

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 
荒地 (岩波文庫)

荒地 (岩波文庫)

 
JR

JR