『万延元年のフットボール』(2.)大江健三郎(1967)
続きです。
25/6/14(土)
8章
谷川俊太郎「鳥羽」(1965)からの引用なんだ、「本当のことを云おうか」って。
雪はなおも降りしきっている。この一秒間のすべての雪片のえがく線条が、谷間の空間に雪の降りしきるあいだそのままずっと維持されるのであって、他に雪の動きはありえないという不思議な固定観念が生れる。一秒間の実質が無限にひきのばされる。雪の層に音が吸収されつくしているように、時の方向性もまた降りしきる雪に吸いこまれて失われた。偏在する「時」。素裸で駆けている鷹四は、曾祖父の弟であり、僕の弟だ。百年間のすべての瞬間がこの一瞬間にびっしり重なっている。 p.241
降雪の描写は印象的になりがち。文学あるある。
偏在する「時」、なんかは露骨にラテンアメリカ文学っぽいけど、本作が『百年の孤独』と同じ年に発表されたという事実にとても興奮する。
雪の中で転げまわるのは『ハルカの国 明治越冬編』を連想するが、鷹は何してたんだ。マッチョなトレーニングではなく、弱い部分を曝け出していたのか。
p.246 鷹四は百年前の一揆をプロパガンダ的に若者たちに「教育」して記憶を継承しようとしている。ここで語られているのは事実と思わないほうがいいんだよね? 城下町まで行く途中の他の村の青年たちも下部組織として取り込んでいったのか。
そういえば谷間には若い女性はいないのだろうか。今のところ、青年グループを「ケア」する女性は外部から来た菜採と桃子のふたりしかいない。
あ~ 倉屋敷に立て籠もって若者組が処刑されたのは、一揆からしばらく期間を置いてのことだったのね。その間、若者連中は王様気取りで村で好き放題してたと。そりゃあ百姓たちから裏切られるわ。
p.255 ヤマドリの「ニセの目」、画像検索してもよく分からなかった。
「本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事を考えてみていた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」 p.258
うおお。めちゃ引用されているだろう核心のところだ。当時、谷川俊太郎は34歳か~~ このとき「若い詩人」だった谷川も、「若い作家」だった大江も、もう亡くなってしまったよ。
しかし「本当の事」ってマジで何? 字面はめっちゃかっこいいんだけど、どうやら定義上、中身を説明できはしないようでモヤモヤする。ヴィトゲンシュタインの「沈黙」とかを引いてきちゃう輩を勝手に想像してムカついてしまうよ。
「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」
「作家か? 確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐ろしいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんな切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかで語られていることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」 p.259-260
露骨に、先回りして予防線を張っているというか、「書く」己を批判する視座を作中に持ち込んでいる。大江のメタ-自伝的な作風の最初期の顕れか。
「……あの人は、頭を朱色に塗りたてて素裸で(……)首を縊ろうとしておそらくは、本当の事をいおうか! と叫んでから、そのまま首を縊ってしまったんだ。たとえそういう言葉を叫ばなかったにしても、一瞬後、もうとりかえしのつかないかれ自身の死体が、頭を朱色に塗った素裸の死体として他人どもの眼の前に残ることを勇敢に認めて跳ぶ、という行為自体に、本当の事をいおうか! というぬきさしならぬ声が響いていると感じるんだよ。蜜、そうじゃないか? 生き残る者たちへの最後の自己表現を、朱色の頭をした自分の素裸の死体でおこなうという決断は、まったく勇気のいることだろうじゃないか。かれは行為において、本当の事をいって死んだ。かれがどのような本当の事をいったのかはわからないが、とにかく絶対にかれが、本当の事をいったということだけは確実だ。……」 p.260-261
「勇敢に認めて跳ぶ」というフレーズからは『見るまえに跳べ』という表題を連想するなぁ。(未読)
しかしこの理論だと、自死者の遺書なんかは「最後の自己表現」なのだから、ぜんぶ「本当の事」になるのだろうか。もっと知人のようにヤバいパフォーマンス的な死に方じゃないと駄目?
にしても、このように、生き残った者たちが自死者のその行為をヒロイックに崇めることには危うさを感じてしまう。気持ちはすごく分かるつもりなんだけど。まあ鷹はヒロイックな憧れだけで生きているような奴として造形されているからなぁ……
「おれは、自分がもし、そうした本当の事をいう時がくれば、それを蜜に聞いてもらいたいと思っているんだ。それは蜜に話すことではじめて、本当の事としての威力を発揮する、そういう本当の事なんだよ」と鷹四は、危険をおかすことに昂奮を味わっている子供のような無邪気さでいった。 p.261
「愛」じゃん…… 迷惑でもある巨大な感情。ほぼ自殺予告(と、それを看取ってくれという依頼)では?
鷹四が死んで終わりそうだなぁ・・・ それか蜜か。少なくともどっちかが死んで終わる確率が70%くらいあると予想。
「じゃ、きみの本当の事というのは、妹のことか?」と僕は息のつまるような疑惑にとりつかれていった。 p.262
鷹の「本当の事」が蜜の予想通りに妹のことだったとしたら、具体的にはなんだろう。彼女のことが好きだったとか、近親相姦したとか、あるいは血が繋がっていないだとか、そういう所謂タブー的なことがまず思い浮かぶ。『同時代ゲーム』で近親相姦を扱ってたし。それとも、もっと形而上のふわっとした事柄だろうか。死や自己や人生や歴史について?
9章
あけおめ すでに妻を鷹に寝取られていても何の驚きもない。青年たち諸共寝取っていても。
いつの間にかクローズドサークル村になっている。村の男たちの殴り合い怖ぇ~~・・・ 雪籠りの鬱憤を暴力で発散しなきゃやってらんないのか。
ル・クレジオ『巨人たち』が1976年かぁ。スーパーマーケット小説としてはこちらのほうが先。
スーパーの特別イベント(ひとり一商品タダで貰える)にかこつけて、騒動を発生させる鷹四。彼と青年グループはどんどん調子に乗っており、菜採も鷹側に回って、蜜がますます孤立を深める。
行動する人である鷹に対して、蜜はウジウジと内面で悩んで沈んでいるのみの、行動しない主人公。『ハムレット』?
p.295 倉屋敷の裏手から森を抜けて高知へ出ることができるってことは、根所家は谷間の村の南側に位置しているのか。
今や万延元年から百年以上たっているんだからねp.295-296 とあるが、やっぱり1965年くらいなのか? それとも年越しで1961年になったばかり?
「他人のことだからといって狂気というふうに単純化してはいけないわ、蜜。あなたも自分の友達が自殺した時には、そのように大雑把に単純化はしなかったでしょう?」 p.296
これは耳が痛い! クリティカル
p.297 隠遁者ギーがやっと出てきた〜
昨夜もし若者が行き倒れて凍死してしまっていたとしたら、かれは万延元年に追放された若者と絶対に同一の死を死んだことだったろう。森の高みに共存しているすべての「時」が瀕死の若者の頭になだれこんでそこを領有する。 p.299
閉鎖環境下で若者たちが次第に異様な高揚を示して暴走していくハナシと見れば、『芽むしり仔撃ち』の系譜に連なる? しかし、本作はその熱狂が百年前と「同じ」ものである、という円環的な時間の視座において描かれている点で大江作品に新しさを持ち込んだといえるだろうか。
10章
もう谷間全体でスーパーマーケットを占拠して商品を「略奪」しているのね
僕は戦後生れの少年の理由のない朝鮮人敵視に嫌悪感を誘われた。 p.315
娘は、おいしい言葉で喉をなでられて心臓型の顔を桃色に染めグルグル啼きたてんばかりだ。この娘はどんな農村にもひとりずついるたぐいの、周辺の部落の若者たちのすべての欲望の放射能を十二、三歳から一身に集めてきた娘にちがいない。 p.321
初めて村の娘が出てきた
これは想像力の暴動だ。 p.324
11章
鷹は、いったい人間には、まだ善いところが残っているのか? と私たちに聞いて、そうだ残っているんだ、と自分で答えたのよ p.333
象を飼うことがなぜ人間の善性の象徴だと鷹は考えていたんだ
曾祖父の弟が高知に脱出して生き延びたのは本当だったのか。マジでジョン万次郎の舟に乗り込んで。
p.335-336 なかなか象徴的な、アメリカの歪んだ家族関係に関する新聞記事。妻の連れ子と父が再婚したことで、父が子になり、子が母となる奇妙な円環構造が出来てしまった話。100年間のスパンで輪廻する時間と、それからやはり「妹」との近親相姦的なタブーが根底にあるのかな。
p.337 新憲法と、二種類の民権(自ら勝ち取る権利とお上から与えられる権利)について 一気に主題が明確になってきたぞ
少なくとも1894年頃までは生きていたんだ、曾祖父の弟。すっかり丸くなって……
「鷹が、菜採ちゃんとやるから、おれは向うで寝るのが厭だ」
……それまで星男は異様に恥じているのを、僕はかれが鷹四の「暴動」から脱落してしまったことによるのだと観察していたが、じつはその観察者たる僕自身の恥を恥じていたのだ。寝とられた男の恥の実体を眼にすることによって、若者はあたかも自分自身のことのように恥かしくてたまらなかったのだ。 p.341
あーあ コキュ確定~
朝鮮人の経営するスーパーマーケットから商品を奪ってくる「恥」と、弟に妻を寝取られる「恥」。これら恥の感覚がどう主題に深く響いているのか。それを恥だと感じてしまうこと自体が恥? のうのうと生きていることへの恥? 「期待」の感覚とは対になりそうだ。
つまり、敗戦して他国に「占領」され新憲法を与えられる/経済的に依存せざるを得ないことと、妻を寝取られる(のを甘受せざるを得ない)ことがおなじ恥辱として結びついている? ザ・戦後文学といったところか。
菜採を犯している鷹の語りを星男から聴く蜜。一人称叙述から浮遊して三人称的に星男に焦点化している。
考えてみればおれはいつも暴力的な人間としての自分を正当化したいという欲求と、そのような自己を処罰したいという欲求に、引き裂かれて生きてきたんだよ。 p.346
・・・妹は自死じゃなくて鷹四が殺したんかなぁやっぱり。
自罰=自死願望によって危ない「揺さぶられる」体験を求めてしまう気持ちは分かるような気がする。誰にでもあるよね
しかし大男の給仕がおれの前に来た時、おれはジンジャー・エールを一杯、頼んだだけだった。おれは自己処罰の欲求を感じると一緒に、目もくらむほど恐しかった。おれはつねづね死を恐れている。しかもそういう暴力的な死がもっとも恐ろしいんだ。それはS兄さんが撲り殺された日以来の、克服しようのないおれの属性なんだよ…… p.348-349
「そのためにもまた、もう遅い」と僕はいった。「いま僕が、やめろ、やめろ、そういうことはやめろ、やってはだめだ、といったところで、それは絶対に遅すぎるじゃないか!」 p.351
手遅れなことばかり。一度寝取られてしまっては/産んでしまっては/殺してしまっては/生れてしまっては。
p.354 二十年前のS兄さんが贖罪羊となるとき、村の青年たちは朝鮮人の男をひとり殺しただけでなく、若い娘をレイプしていた? 「本当の事」ってそういう従軍慰安婦問題のようなあれか。
なんだか『響きと怒り』っぽくなってきたな…… 「ブンガク」の核心にはいつも近親相姦や強姦がある。「男」が隠したい暴力性とミソジニーと植民地主義。それを「本当の事」とかいってさぞ大層な高尚なものに仕立て上げることで成り立つ文学。嫌んなっちゃうね。
「村」の若い娘がここまでなかなか登場しなかったのは、村の最大のタブーおよび鷹の「本当の事」に関係するからだったのか。隠しておかなければならなかった。
そうして振り返ると、『同時代ゲーム』では初っ端から妹(の恥毛)へのキモすぎる執着を隠そうともしていないし、むかし村で近親相姦したことも1章で語るし、そもそも小説全体が妹への手紙という形式だし、本作よりも誠実というか、谷間の物語をわざわざ語り直している意義があるように思えてきた。『万延元年』が最後に隠された真相が明らかになる(王道)ミステリだとすれば、『同時代ゲーム』ははじめから真相を詳らかに提示する倒叙ミステリあるいはアンチミステリ? そしてさらに "女性の物語" であることを前面に押し出してリライトした『M/Tと森のフシギの物語』に繋がる、と。
または、鷹にあたるポジションを主人公に据えたのが同時代ゲームだと言えるか。
しかしそれでも十分に僕は、自分がいかなる根拠もなく漠然と期待していた、疲弊して苛だたしい不幸な妻のかわりに、朝鮮娘の「御霊」の幾重にも重ねられた白い絹の袴さながら、ゆったりと緊張を緩和してまことに女性的な妻を見出す。鷹四によって妻が、われわれの夫婦生活の根本に巣くう癌であった性的な行為の不可能さの感覚から、ひとり回復したことを僕は認めた。結婚して以来はじめて、僕は、妻を真に独立している存在として理解する。 p.356
鼻血にまみれて失神している母を後にのこして、そのまま父親は出発して行き、祖母がわれわれ子供らに、家の敷居の上に女が立つと家長に凶々しいことが起ると教えた。母はその土俗的な意味づけをいつまでも認めようとせず、暴力を発揮して出発した父親を憎悪するのみで、息子の行為を弁護しようとする祖母のことは軽蔑していた。しかしその旅行の終りに父親が死亡した時、僕は母に対して神秘的な畏怖の念を抱かざるをえなかったのである。実は祖母よりもなお深く母は「敷居の上に立つ女」の禁忌を信じていたのであり、あの夜明け方には、わざわざ敷居の上に立ったのではなかったか? 父親もそれを知っていたからこそ兇暴な行動をおこし、そして祖母も人夫たちも、それを押しとどめようとしなかったのではないか? p.357
うわ~ S兄さんが精神病棟に入れたという母の存在も、こうなると非常に重要になってくるなぁ
女性を蹂躙する家父長制と、植民地主義≒戦争を駆り立てる国家制度(天皇制)とが見事に結びついて表現されている・・・ 両者それぞれにおける敗北=恥の在り方として、妻寝取られと敗戦占領被支配とがあり、しかし「恥」とはさらに掘っていくと性暴力や国家暴力に行き着く。そうした男権社会のおぞましい暴力の記憶を「恥」として被害者ぶりながら覆い隠そうとすること自体のおぞましさと愚かしさについての小説のように読めてきた。加害欲を隠蔽する"マゾヒスト"の欺瞞についての小説……だと解釈すれば、めちゃくちゃ自分が感情移入できる。
蜜と鷹は一見正反対だが実際は同根であり、自閉して虚無がって鬱がっている蜜にも、鷹と同種の加害性がある。鷹は鷹で「本当の事」とかいって妹への暴力?の記憶を抑圧しているが、その点以外は暴力衝動≒自死衝動に開き直っているためマシか? 全然マシではないな。ただ、物語冒頭から描かれてきた、蜜の希死念慮や知人の自死といった、死に惹かれる「男」たちの有様は、有害な男らしさ≒家父長制に絡めとられていった先の妥当な帰結であり、すなわち、そんなものに拘っていては自分を破滅させるだけだよ、というきわめて現代男性学的な主題を有していると読むことができるか。
じゃあどうやってそこから抜け出せばいいのか、というと難しく、むしろ、生れてきた限りは抜け出せない絶望と諦観をまざまざと表現しているのかもしれない。
妻が弟と不倫したと知って、ふて寝して妻の「美しくエロティックな裸体」を妄想しようとする蜜。NTRマゾオナニーまったなし!!
でもよく考えると、妻と弟の不倫を「寝取られ」だと決めつけて表現してしまうこと自体、女性の主体性を認めていないミソジニー的な行為だな。NTR好きとして気を付けよう。性欲も不倫欲も含めて、女性の主体性を受け入れて前提とすること。
僕は愕然として、自分がかつて妻を真に所有したことがないと感じる…… p.358
これまで蜜は妻を「所有」するものだと、「真に自立」してはいない存在だと暗に思ってきたのかよ
「おれは単に欲望からやったのじゃない。自分にとって重い意味のあることを、その意味をあきらかにしながらやったんだ」 p.359
今世紀最高の不倫の言い訳すぎる わたしもいつか不倫したときはこの台詞いいたい
それに対して平然を装っている兄も面白すぎる。不倫兄弟コント
「結婚生活でも、きみ単独でなおもいろんなことをやってみるつもりか、欲望もなく?」と僕は鷹四を揶揄した。
「それはおれの自由だ!」と鷹四は屈辱感を単なる怒りの響きのうちに閉じこめるべく努力しながら叫びかえした。 p.360
『響きと怒り』?
かれらは自分たちよりもなお惨めな朝鮮人という賤民がいたという再発見に酔って、自分たちを強者のように感じはじめたのさ。 p.361
日本人の……というより、人間大衆の本質だぁ
しかしながら、そんな朝鮮人のスーパー経営者を「天皇」と呼んでいることだけ、分からなくなってきた。むしろ朝鮮人を差別して迫害してきた谷間の人々≒日本国民の象徴だから、反対陣営では? そこを敢えて結び合わせるアイロニーをどう理解したらいいのか。。
そうか、鷹からしてみれば、義姉と姦通して結婚することは、かつて妹を犯して死なせたトラウマを昇華するための格好の通過儀礼になるのか。
p.363 寺の住職はマルクス主義者の戯画化かなぁ
ようやく菜採が来たと思ったら鷹マジかよ。さらに急転直下。
この章から一気に「本番」といった様相を呈してきて面白くなった。ようやく自分の好みの小説として読める。
この小説が何をやりたいのかがここまで読んでやっと見えてきた、ともいえる。
12章
鷹が村娘を殺した……ではない?? 自分は殺人を犯したのだと主張する鷹に対して蜜は「被告の意思に逆らった弁護人側の訊問」p.373 を始める。なんで蜜はそんないきなり名探偵か逆転裁判のように立ち回り始めるんだ。
蜜と鷹は、互いが裏表のように饒舌と自閉を入れ替えている。鷹が無口なときは蜜が豹変したかのように昂奮して喋りまくり、また鷹が自信を取り戻すと蜜は内向的なさまに戻る。
これが00年代のエロゲかラノベだったら、蜜と鷹が実は同一人物の多重人格だったオチありそう
当然に真実味は稀薄であるにもかかわらず、苦痛の実感に支えられた鷹四の言葉は、僕の内奥に論理をこえる衝撃的な説得力を発揮した。僕は鷹四における「犯罪者」の実在と、おなじく確実な「犯罪」の実在を認めた。 p.380
ロジックよりも "実感" が勝つ。ミステリではなく文学
おれにとっては妹が唯一の女性的なるものだった、それを守りぬかねばならない。 p.390
妹でしか欲情できない身体になってしまった。そりゃあ兄の妻に昂奮できないはずだ
おれは自分と妹をめぐって一種の貴種流離譚を作りあげて、曾祖父さんとその弟以来の自分の家系にひどく拡大した誇りを抱いていた。 p.390
鷹のヒロイックな幻想はここからか。
妹との性関係が曝れてしまったら、ただちにおれは恥のために死ぬだろうと信じた。 p.393
遂に鷹が蜜に「本当の事」を話す。だいたい予想していた範疇。やっぱり『響きと怒り』じゃねぇか!! 妹萌え近親相姦タブー妄執小説。こっちはマジでやってしまっているけど。
p.396 死んだらおれの眼をやるよと蜜に話す鷹。迷惑すぎる。オビトとカカシじゃん。『NARUTO』の元ネタって万延元年だったんだ……
「白痴の妹」を騙して強姦して妊娠させ嘘をつかせて堕胎させて自死させた「恥辱」の過去。これは、妹萌えだけでなく、「白痴」ヒロインエロゲの系譜にも想いを馳せてしまうなぁ。
そして、村人たちが20年前に朝鮮人を差別して陵辱したこととも重なり、自分よりも圧倒的に弱い立場の者への卑屈でおぞましい嗜虐性・暴力性を人間は有してしまっていることが何度も深く刻まれる。
この小説に出てくるふたりの自死者である妹と知人もある程度重ね合わされているのだとすれば、鷹が妹を強姦して死に追い込んだように、蜜と知人のあいだにも、友情関係だけではなく、同性愛などがあったのだろうか。知人も既婚だったと思うけど、頭部を損傷して精神的に不調をきたした以外で、蜜の罪はないのだろうか。魂の双子のようだと書いていたが……。
「僕の感情からいってもきみの眼をもらいたくはないが、しかし、もっと実際的に僕はこういうことをいってるんだ。鷹は明日の朝リンチされて死ぬことはないし、将来、裁判で死刑判決を受けることもない。きみはただ、そうした荒々しく惨い死を遂げて、近親相姦とその結果ひきおこされた無辜(むこ)の者の死の罪悪感を償うにたる自己処罰を果たし、しかも谷間の人間には、『御霊』のひとりとして暴力的な人間たる記憶をかちえることを切望しているのみだ。その幻想が現実化すれば、確かにきみは、引き裂かれていた自分を、再び肉体において統一して死ぬことができるだろう。そして、きみの崇拝する曾祖父さんの弟の百年後の生まれ変りと見なされることだってありうるだろう。しかし、鷹、繰りかえしきみは危機に甘ったれてみせるが、最後のどんづまりにはいつも抜け道を用意しておく人間だ。妹の自殺のおかげで罰されもせず恥ずかしめもうけず、なにくわぬ顔で生き延びた日から、それが君の習性になったんだ。今度だってきみはなんとか卑劣な手段を弄して生き延びるにちがいない。そのようにして醜く生き延びた後、いや自分はリンチされるか死刑になるかの危機を積極的に選んで、わざわざ窮地にはいりこんだのだが、お節介な他人どものおかげでやむなく生き延びてしまったのだと、死んだ妹の幻影に向って弁明するのが、きみのやりかただ。アメリカでの暴力的な体験にしても、それを乗り越えることで、苦しい思い出から暫く解放されて生き延びる口実を得ることをあらかじめ企画しての、にせの自己放棄だったにすぎない。現にきみはけちな性病にかかっただけで、その後のアメリカ生活で二度と危険をおかさなくていい自己弁明の足場を得たのだった。いま、僕に聞かせた汚らしい告白にしても、もし僕が、いやそれだって、いったん口に出してしまうと他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうかの、絶対的に本当の事などではないと鷹に保障してやれば、きみはただちに救助されるといったたぐいのものじゃないか? たとえ無意識のうちにであっても、きみは僕がそのような過去の体験ぐるみ現在の鷹を許容して、引き裂かれている状態から一挙にきみを解放してくれることを期待して饒舌にしゃべりたてたのではないか? p.397-398
うおおおお 鷹を徹底的に論駁して非難する蜜の言葉がすごい。スカッとジャパン的な気持ち良さ
オーバーキルが過ぎる でもマジで正論なんだよな…… そして、こうして滔々と喋れるのは、蜜のなかにも鷹と同じような精神があるということだろう。
殺された自分の眼をやるなどと、自分のまぢかな死を信じているふりをした、ごまかしをいうな。僕は実際、死者の眼だって必要としている人間だ、そういう不具者を嘲弄するな! p.399
これはぐうの音も出ないクリティカルな文言だ
きみのように劇的な幻想にしたがって生きることを好む者も、もし狂気にでもおちいるのでなければ、危険な緊張をいつまでも持続させることはできないという、客観的な判断をのべているだけだ。 p.399
実際かれはいかなる『御霊』にもなりえない、羊のような人間として死んだんだ。 p.400
「羊のような人間」! 蜜を「ネズミのような人間」と形容してきたり、「贖罪羊」という喩えをさんざん使ってきたうえで、羊の意味を読み替えて上書きする比喩。そういう手があるのか〜
鷹、きみもまた明日の朝、リンチで殺されるかわりに、指の怪我の治療を受けるべく谷間へ降りて行って逮捕され、執行猶予か三年ほどの刑期の後、まったくおとなしい日常生活者として、社会復帰するだろう。それより他のいかなる幻想も、結局は無意味だ。きみ自身十分に強くはそれを信じていない。もうその種のヒロイックな幻想に血を熱くする年齢ではないよ、鷹。きみはもう子供じゃない」 p.400-401
陵辱監禁エロゲ『夏ノ鎖』とかとだいたい同じことをやっている気がしてきた。陵辱者の自己憐憫に満ちたヒロイックな幻想をことごとく解体するシナリオ。
あー…… 死んじゃったか…… 兄にあれだけこっぴどく論破されたら、それこそ恥ずかしくてもう生きていることは出来ないかぁ。死に逃げるな、と言いたいところだけど、実際死んでしまえばこの世界からは逃げ仰られるのは確かだ。でも虚しいね。「子供」のまま、大人になることを拒否して死んだってことでしょ。『響きと怒り』第2章のクエンティン兄さんだ、実質。
これどうするんだ。鷹の「本当の事」は暴き出されてこき下ろされて退場したわけだが、蜜にはまだ一波乱ある気がしている。
13章
鷹の葬儀埋葬はあっさりと終わりカットされ、星男と桃子は谷間から脱出して結婚するようだ。すでにエピローグ的な雰囲気が満ち満ちている。蜜は、私大の英文科講師か、アフリカ調査隊の通訳のいずれかの職で迷っている。
まさか菜採、鷹の子どもを妊娠してないよね?
スーパーの略奪もあっさりと解決されて日常に戻った。「天皇」の経営の才覚はすごい
うなだれて急ぎ足に歩くかれの後姿には、子供らしくない大きい疲労の印象がある。それは屈服してしまった者たちの一族という感覚だ。いまスーパー・マーケットの天皇とその配下たちを迎えようとする谷間のすべての民衆がかれとおなじ表情を示しているのにちがいない。窪地は屈服した。 p.414
再びの敗戦、といったところか。ただし、今回はマジで勝手に始めて勝手に自壊・自死して屈服しただけ。二十年前の戦争や、百年前の一揆ほどにも戦いになっていない情けなさ。
「暴動」の日、かれらはその「恥」そのものを正面から引き受けることによって破壊力を獲得し、お互いに結びつきあったのだ。しかし、いま屈服した谷間の民衆が悩んでいる「恥」は憎悪のバネに転化しうるたぐいのものではない。陰湿で厭らしい無力な「恥」だ。スーパー・マーケットの天皇とその配下たちは、谷間の民衆の「恥」の飛び石を踏みつけて示威行進をおこなっている。 p.415
「恥」が主題。
白升基(ペク・スン・ギ) ようやく天皇の本名が発覚
倉屋敷を白が率いる若者たちが解体し、床下の地下倉を発見。
え、曾祖父の弟はやっぱり高知に逃げずに、この地下倉で一生を終えたの? マジ?? 蜜がそう思いたいだけじゃなくて? もう何が真実かわからん。しかも、一生を地下倉で過ごしたことが一揆の首謀者としての責任を全うすることになるという蜜の思考も同意しがたい。蜜にとってはそれだけこの谷間が閉塞的な地獄である、というのなら分かるが。
曾祖父の弟がずっと地下倉にいたのであれ、鷹の自死の運命はあんまり変わらなかったように思えるけれど、蜜はそれさえ知っていれば弟が救われたのではないかと悔やむ。そんな蜜を、今度は妻が厳しく糾弾する。これじゃあ次は蜜が死んじゃうよ~~
p.428 やっぱり鷹の子を身籠ってるじゃん!! 鷹の死の直前、菜採はもう鷹にも無関心になってなかった? 彼が死に、妊娠が発覚してから再び鷹へ入れあげるようになったのか。死者は強い。
p.430 「自裁」って自殺のことか。知らなかった。
明治4年(1871年)の大窪騒動を率いて、誰一人として血を流さず平和的に成功させたリーダーこそが、地下倉に10年間籠っていた曾祖父の弟なのではないか、と蜜はこれまた啓示を受けて妄想を逞しくする。それじゃあ再び「ヒロイックな幻想」が蘇ってしまわないか? 鷹も自死していなければ、10年間地下倉に籠って知恵を蓄えて、今度はより平和的に村の改革を成し遂げたはずだってこと? しかし結局鷹は死んでしまったので、百年前の曾祖父の弟の生まれ変りではなかった、と。それとも、ここから10年後に鷹は「復活」してふたたび村のカリスマ的な指導者となるのか。
かれひとりで喚き苦しむ亡者であり、同時に痛めつける鬼でもある、荒ぶる弟を鎮魂するための絵なのだから、亡者の苦渋も、鬼の苛酷も、正確に描かれねばならない。しかし鬼と亡者とは、苦悶の表出と残虐の実践にこもごもはげみながらも、それぞれの心を穏やかな「優しさ」の紐帯によってむすばれていなければならないのだ。 p.434
寺の地獄絵が最後の最後での「救済」アイテムになるのかー
なんか一気に良い話風になってきたぞ。尊い兄弟愛! 究極的な赦し!
──鷹はこの絵から恐怖心をかきたてられたのじゃなくて、むしろ逆にここに描かれた地獄の「優しさ」を拒みたかったのじゃないでしょうか? 今になってみるとそう思えるんですよ、と僕はいった。鷹は、自分がもっと苛酷な地獄に生きなければならないという自己処罰の欲求にかられていたので、こういう穏やかで心の和む「優しさ」のニセの地獄は拒否しようとしたのでしょう。 p.345
──鷹ちゃんと一緒にやっていたあの薄着の青年ねえ、かれは合併後の初の選挙で、町会議員に当選するといわれてるよ。鷹ちゃんの「暴動」はすっかり失敗だったようにみえるけれども、すくなくともこれまで固定していた谷間の人間構成は揺さぶったからねえ。端的にいって鷹ちゃんのグループだった若い連中が、町会議員をひとり出すまでに、頭の固い大人のボスどもに対して力を持ってきたんですよ。やはり「暴動」が起ったことは、谷間全体の将来のためには有効だったよ、蜜ちゃん! p.436
えぇ…… 曾祖父の弟と呼応するように、鷹もまた、死後にどんどん善人化・偉人化・神格化されて、希望的なエンディングに向って物語が動いている。いやぁいくらそうだとしても、ちょっとわたしは乗れませんよ。
どうせこれで最後には、菜採のなかにいる鷹との子どもを、希望的な将来の形象としていいかんじにエモく描いて終わるんだろ?? そんなんでは騙されねぇぞ
11~12章でこの小説のことを肯定的に分かった気になったけれど、この最終章でまた突き放されるかもしれない・・・
私は、養護施設の赤んぼうのことも、これから生まれてくる赤んぼうのことも、蜜から独立して自分だけで責任をとりながら、考えなおしてみるわ。
──そうだ、僕の判断はまったく頼りにならないからな、と僕はいじけた心でいうと声には出さずこう続けた。僕も倉屋敷の地下倉に閉じこもって考えてみるつもりだ。新しい証拠事実が出て来た以上、僕は曾祖父さんの弟についても鷹四についても、自分の固定観念を崩して再審しなければならない。そのようにしてかれらを正当に理解することが、死んでしまったかれらにとっていかなる意味をも持たないにしても、それは僕自身にとって必要だ。 p.438
章題「再審」ってそういうことか。
なんか蜜まで反省した良い話風にまとまりそうになってるけど、「いじけた心」根は相変わらずだし、そうやって菜採に2人の子供の養育責任を押し付けるのは違うだろ!! 菜採側の自立したい気持ちは分かるけど、それと、夫から養育責任を放棄させるのはまた別だろう。しかも妊婦に食事の世話をさせて…… 女に自分のケアをさせる男の典型。
なんかなぁ~~ 鷹のことはやっぱり好きになれないけど、かといって蜜を心から肯定できるか、といったら違うんだよな。共感できるがゆえに、それこそ「自己批判」的に蜜の愚かさを見てしまう。
再審、しかしここに地下倉があり、そこに閉じこもって曾祖父の弟が一揆指導者としてのidentityを終生持続しつづけたとすれば、もうそれだけで僕のこれまで信じてきた従来の判決はくつがえっているのだ。曾祖父の弟の生涯を模倣することをめざして生きた鷹四の最後の自殺についてもまた、発見された曾祖父の弟のidentityの光は、鷹四がそれによってかれの「本当の事」の全体を、生き残る僕に誇示した壮絶な最後の冒険だったという新しい色彩に染める。僕は自分が鷹四に課していた判決もまた、まさに脆く崩壊するのを眺めるのみだ。鷹四がそれを旗印として振りかざすたびに僕が嘲弄した、曾祖父の弟のイメージがじつは幻影ではなかったのだから、いまや鷹四が格段に有利である。 p.439
納得できん!! そもそも他人に向って偉そうに「判決」を課していた蜜もアレなんだけど、にしても、たかが曾祖父の弟の人生像が思っていたのと違った(と考えられる)くらいで、こないだまで徹底的に糾弾した弟をに対して手のひら返して、肯定的に偉人か聖人のように扱うのは理解できない。百年前の他人の人生についての解釈が変わったくらいで、目の前の弟への見方が180度反転するていどの関わりなら、はじめからやめちまえ!!と思うのはわたしだけでしょうか。
この小説では、百年前と現在の運命的な反復というオブセッションがそれほど強固に根付いて前提と化している、ということを理解して受け入れないと駄目っぽいなぁ。まーじでここに来て、蜜も鷹も菜採も曾祖父の弟も、ぜんいんひとり残らず共感も理解もできない/したくない人物になってしまった!!
1章の冒頭をリフレインするように、地下倉に身を閉じ込めて沈思黙考する蜜。1章では犬と一緒だったが、最終章では「猫の眼」を暗闇に見るという対比?
あのような眼をして、自分の内部の地獄に耐えている人間への想像力を僕は持とうとしなかったのみならず、鷹四がそのような人間として新生への方途を探る努力にも終始批判的だった。死を前にした弟の心貧しい要請についてすら僕は援助を拒んだ。そこで鷹四は独力でかれの地獄を乗りこえたのだ。 p.440
死者への評価をあとから覆して持ち上げて、自己反省するのきしょすぎる~~ でも、こうした真摯な「再審」=反省の態度こそが大江流の戦後民主主義の表現ということか。
この連環は僕の生涯の残りのすべての時間にわたり増殖しつづけて、やがてはひとつながりの百種もの眼が、僕の経験の世界の夜をかざる星となるだろう。それらの星の光にさらされて恥かしい苦しみをあじわいながら、僕はただ一個の眼をもってネズミのように小心に、曖昧で薄暗い外部世界をうかがいながら生き延びる……
──おれたちの再審はすなわちおまえの審判だ! p.440
ネズミ復活! 友人や菜採や鷹や曾祖父の弟たちの眼が連環を成してゆくイメージも、各個人の尊厳を貶めているようで気色悪い。
しかし幻影が欅の大梁の真下に到着した時、僕は、
──おれは首を縊るにあたって、生き残り続ける者らに向って叫ぶべき「本当の事」をなお見きわめていない! と愕然として理解し、幻影をたちまち見失った。 p.441
自死者を過剰に持ち上げることと同様に、自死をこのように「本当の事」を見きわめて自らの地獄を乗りこえた者にしか至れない崇高な行為に仕立て上げることもまた、到底首肯できない。自殺観がまったく異なる。11章時点での、「本当の事」なんていって格好つけても結局は惨めに生き残って平穏に暮らしてしまう生の在り方のほうが、自分には余程、切迫したリアリティをもって感じられる。そして死は「本当の事」とか地獄の乗りこえとかとはまったく関係なく訪れ、飛び込むことができるたぐいのものであるはずだ。
「濡れた犬」の比喩や、「床の上に頭を出し」て、夜明けの「燃えたつ赤の空」を見るところ、そしてそんな蜜を妻が穴の傍に立って待っていたことなど、細かいところまで1章の再遠をしている。
つきつめていえば、曾祖父は、ただかれ自身の鎮魂のためにあの地獄絵を描かせたのであろう。 p.444
ん? 数十ページ前の解釈をまた翻した。弟への「優しさ」ではなかったのだと。
このように、何度も歴史を再解釈してなり直してゆくことこそを肯定しようとしているのか。
「蜜、穴ぼこの底で考える習慣を持っていることは以前から知っているわ。東京でもいちどそうしたことがあったわね」
「あの朝きみはずっと眠っていたとばかり思っていたがなあ」と僕は口惜しい思いにますますぐったりしていった。
「牛乳配達人が来て、あなたを地上の社会に復帰させる兆しがあらわれるまでは、台所の窓から見張っていたのよ、なにか恐いことがおこるのじゃないかと惧れていたわ」 p.444-445
あんとき見てたんか~いw ちょっと恥ずかしいよねそれは。"孤独" ぶって浸っていたのをぜんぶ見守られていたのだと知るのは。
「蜜、私たちは、もういちど一緒にやりなおせないかしら? 私たち二人で赤んぼうたちを育てながらなりなおすことはできないかしら、養護施設の子も、これから生れる子も? 私は永い間考えて、自分ひとりの意志でそれを選んで、それが絶対に不可能かどうか、蜜に訊ねにきたの。そしてあなたがそこに入って考えている以上、そこから自分の意志で外に出て来てくれるまで、待たねばならないと思ったから、そのままここに立っていたのよ。……けれども私には蜜をそこから呼びだす権利はないと感じてずっと待っていたのよ」 p.445
おお……! とても前向きで感動的なクライマックスの台詞だ。
それぞれが独立した個人として主体的な意志を持って生き方を選び取ったうえで、他人と協力して生きていく。自分の「権利」の範囲に自覚的に、他者との距離感を考えながら。 これぞ戦後民主主義の権化!ってとこか。
とりあえず妻に育児を一方的に押し付けるエンドじゃないようで良かった。そして、冒頭からずっとこの夫婦は、養護施設に我が子を押し付けたことへの自罰感情に悩んでいたのだから、そこから再び引き取るオチは、冷静に考えればとても王道な帰結だ。
あなたは鷹に対抗するために、自分のなかの鷹的なものを故意に排除して生きてきたのでしょう? 蜜、もう鷹は死んだのだから、あなたも自分自身に対して公平にならなければならないわ。あなたの曾祖父さんの弟と鷹をむすぶものが、鷹のつくりあげた幻影ではなかったと蜜が了解した以上は、蜜自身も自分のなかに、かれらと共有するものを確かめてみるべきでしょう? p.446
蜜のほうも過剰に「鷹」を意識して逆張り的に生きてきたのだからそれを改めなければいけない、というのは分かるんだけど、だからといって、曾祖父の弟や鷹と共有するものを積極的に見出しにいくのは、それはそれで死んだ鷹にいまだに縛られているのでは?と思う。もうそういう家系の呪い的なものから解放されようよ…… でも、この小説はあくまで「曾祖父さんの弟と鷹をむすぶものが、鷹のつくりあげた幻影ではなかった」のだという点を崩そうとはしないので、その時点でじぶんはもう解釈違いなんだよな。
おわり!!!
英語教師ではなく通訳としてアフリカへ。え、けっきょく子供は菜採が実家で面倒見るのかよ! まぁ60年代だから、今よりずっと性役割の家庭内分業が当たり前だった時代だからしゃーないか……??
最後は鷹が「御霊」として谷間の人々から大事にされているから良かったね&もう心配はないし、蜜は蜜でアフリカで楽しく「新生活」をやってます、というか~なり希望的な幕切れ。ハッピーエンドといってもいいくらい。
附記で旧制静岡高等学校戦没者遺稿集『地のさざめごと』が挙げられていてビビった。静大の前身か。
まとめ
全13章のうち、
1~10章までは、谷間到着以降あんまり物語に動きがなく、特に主人公の蜜は自らの精神の殻に引きこもってウジウジと内省しているばかりで、正直そこまで面白くはなかった。
11・12章でようやく物語が派手に動いて、この作品がやりたいことが分かったような気がして面白く読めた。
13章は全体的に解釈違い。ラストの前向きさはまぁ良いとしても、曾祖父の弟や鷹四に対しての再解釈はかなり受け入れ難かった。
それは根本的には、『万延元年のフットボール』というタイトル通り、100年前と現在(1960年代)の谷間の村の人物(祖先)や出来事を恣意的に重ね合わせて、あたかも100年かけて時間が円環的に巡っているかのような世界観を引き受けなければならないのに、それがわたしには困難だった、ということなのだろう。
円環的な時間感覚は別にいいんだけど、自らを曾祖父の世代の生まれ変りとするような、ファミリーヒストリー/血縁関係の自明さを素朴に受け入れるのが、保守的に感じてしまって難しいのだと思う。
己を曾祖父の弟の生まれ変りだと信じている鷹を、物語が最終的には否定してほしかった(11-12章では否定してくれた)のだが、13章でそうはならず、むしろ逆にめちゃくちゃナイーブに曾祖父の弟=鷹をともに称揚し始めたので忌避感を覚えた。鷹の「ヒロイックな幻想」を一度コテンパンに否定しておいて、やっぱり鷹は正しかったし立派だったかも……と翻すのは違くない?? 戸惑ってしまって当たり前じゃない??
最終的にすげぇ希望的なエンディングを用意していたので、そこから振り返ると、かなりよくある単純な話にも思えてくる。大江のヒューマニズムと戦後民主主義は、こういうかたちで小説に表現されるのだなぁ、と得心した。
蜜と菜採というほぼ破局しかけた夫婦関係が "修復" して、子供ふたりを引き受けるという結末は、じゃっかんストレートな家族主義の礼賛っぽさを感じて苦手ではある。星男と桃子が結婚するのもそうで、異性愛=生殖=家族主義が前提となってはいる。蜜と友人の関係に同性愛的なものを読み込もうとしたが、あまりにも描写が薄くて無理だった。
蜜の自死した友人はなんだったんだ……? 冒頭でインパクトを残して以降は、物語の実質的な中心を鷹四に持っていかれて、ほとんど言及されることも無かった。もっと、彼の生前のエピソードとか、蜜との関係とかの掘り下げを「期待」していた。
文章があんま面白くないとか前半の感想では書いたが…… 最後まで読んでみて、どうだろう。少なくとも、めっちゃ好みではない。もちろん「上手い」のだとは思うけれど、そーんなにゴツゴツと修飾過多にしなくていいやんと思っちゃうし、そもそも綿密な情景描写をするスタイルはあんまり合わない。
『万延元年のフットボール』というタイトルは、日本の小説史上でもトップクラスにセンスのある天才的なネーミングだと思うけれど、いざ読んでみると、いうほどフットボール要素は多くなかったのは残念。もっと、隣村の青年団チームと試合とかしてほしかった。あるいは、スーパー・マーケットの天皇をキャプテンにした朝鮮人チームと、スーパーの経営権を駆けた試合をする展開とか。鷹率いる谷間チームの窮地に蜜が颯爽と現れて、"ゴッドアイ" で相手のボールを完全に見切って大逆転勝利を収める……(イナズマイレブン?)
・後年の附記「著者から読者へ」
第1章で犬が同じ位置にいて笑った蜜に、大江は子供っぽさを見る。「青春のしめくくりの小説」を書こうとしていたのだと振り返る。
はじめ川をさかのぼった奥のドンづまりに、村を設定したため、翌月に次の回を書きはじめると小説の展開が不可能に感じられて、タガイチガイになった山が展望を閉しているが、その向うに入りこむ道はある、という地形学的な趣向をあらたに考えつくまで、これは文学的な仕事の場から「夜逃げ」するほかにない! と思いつめたりしたことも記憶に生きています── p.456
谷間の村の地形の設定で、小説執筆の「ドンづまり」から文字通り道が開けたのおもしろい!
・加藤典洋による解説
『日常生活の冒険』のダイマ。おもしろそう
人間像の提示をしていた初期から転換して、世界像の提示をし始めた『万延元年』。レヴィ=ストロースのいう拡大模型化と縮小模型化。
この努力の賜としてここに現れているものを、文体の側面からいえば、大江以後、1970年代以降に登場した若い小説家、それも独自の文体的達成を見せている力ある小説家たちの文体は、中上健次から村上春樹までの幅で、大部分この『万延元年のフットボール』の中に含まれる。 p.466
お~ 前半を読んでいるときに、中上健次を(朝鮮人部落モチーフで)引いたり、文体から春樹を連想したりしたのは、あながち間違っていなかったのか~~
そして蜜は、その妻のみごもった鷹四の子供を、自分の脳に障害を持った子供と一緒に、引き受け、育てようと決心するところで、この小説は終わるのだが、ここに示されているのは、人が、江藤のいう「自分を超えたなにものか」ならぬ、自分の引き受けるべきなにものか、つまり「父」ならぬ「子」によってこそ「支えられ」、個人として生きていくという、もう一つの生のみちすじだからである。 p.468
やっぱりさぁ~こういう側面には納得できないんだよな。「子」を育ててこそ一人前の大人である、みたいな価値観。それは自分の「成熟」のために子という他者の人生を暴力的に巻き込んでいるに過ぎない。
このあとの文章での、ふたりの子供を「壊す人」と「繋ぐ人」として象徴的に意義深いものとして位置付けるのも、生身の生まれてくる子供たちひとりひとりを尊重していないと感じてしまう。子供は小説をブンガク的に大層なものにするための道具じゃねぇよ、と。
・作家案内
p.477 幼少期に村の老婆の一揆の語りを聞いて、自らも真似して語っていたってマジかよ。ここでもやはり、マルケスの『百年の孤独』と響き合うじゃないか……
