『ハーモニー』伊藤計劃(2008)

 
 

人生初・伊藤計劃でした。

『ハーモニー』はず~~っと読みたいと思って数年間積んでいて、この度ようやく人生の節目を迎えるにあたって、向き合うことができました。

 

以下、読んでいる最中の感想メモなのですが、先に言っておくと、わたしは本書をあまり楽しめませんでした。かなり否定的なことを書きまくっているため、本作や本著者のファン、そしてSF好きは読まないほうがいいと思います。

 

そもそもわたしはSFというジャンルがかなり苦手です。日本SFの最高傑作のひとつに数えられるであろう本作も、その例に漏れず、でした。SFとして出来が良いゆえに、余計にわたしには合わないのかもしれません。

 

読み終えてひとつ思うのは、「高校生か大学1, 2年生くらいの頃に読んでいたら……」ということです。

 

今のわたしは、みんなが大絶賛して高評価しているものであればあるほど、ハードルが上がり、貶してやろうという底意地の悪い気持ちを無意識に抱え込んでしまう、どうしようもなく幼稚なクズになり果ててしまったので、まだかろうじてそうではなかったあの頃の自分なら、素直に楽しめていたのかな……という気持ちでいっぱいです。

 

 

 

2025/7/27~30

感想メモ

1章

とても若い、青春っぽい青臭い主題だなぁ 回想している学生編は。
そして特別な者同士の二者関係として持ち上げられているきらいがあり苦手だ、ミァハもトァンも。

トァンの父ちゃんがメディケアの提唱者とか、そういう設定が…… SFをちゃんとやるために必要なのだろうけど、きわめてご都合主義的で狭く薄っぺらい世界だと思ってしまう。セカイ系だからそれでいいのか?

p.26 『特性のない男』で草
「生府」などのディストピアもじり造語はR.アレナス『襲撃』を連想する。

 

 

p.50まで
リソースとしてこの世界に生まれさせられたことに反抗するさまを、反生殖主義にも通底すると読むことくらいしか、今のところこの小説の好みな点がない。

キアンという第三者の存在は事前に知らなくて、(三角関係を)期待したが、なんか自殺したらしいし、ふたりほど特別ではない腰巾着だったらしくて哀しい。早くもミァハとトァンのカップリングのアンチなので。
ファム・ファタルのガールミーツガールもの

 

1章終わり p.102まで
トァンの、自分(とミァハ)以外はどうでもいい、自分らだけが特別で孤独だ──とでもいうような思考と語りが鼻持ちならない。28歳だというけれど、実質的に思春期の精神性だ。厨二病ともいう。じぶんも思春期に読んでいたら楽しめたのかなぁ。「螺旋監察官」などのカッコいい用語や、プログラムのコーディング調の文体?なんかも……。
そうした彼女の傲慢さ、特権性が、ラストのキアンの自死(同時多発自死)によって相対化され批判されるのかな。今後の展開に期待。

疑問文の語尾に「?」を付けずに「……」で代用しているのが特徴的だ。疑問を持ってはいけないから使える文字リストから剥奪されている的なディストピア設定?

生命主義社会では、生まれた人間の健康に気遣うだけでなく、なるべくたくさんの子供を生むように、という出生(奨励)主義が伴うことは避け難いように思うが、今のところあんまりそういう話は出てきてない。出生主義を押し出すと、一般的なディストピアに近づき過ぎてしまうから控えているのだろうか。

 

2章

いや、何千人もが一斉に謎の自死を遂げているから、キアンはトァンやミァハの特別側に寄らず、むしろ没個性的な大衆側に放られたようだ。
大量一斉不審死事件を5日間というリミットのうちに捜査するサスペンス・ミステリが本筋か。

死んだファム・ファタルの謎を追って旅する女女の物語といえば『マイ・ブロークン・マリコ』(漫画/映画)とかを思い出す。あれは遺体(謎)を探し求めてるというより、骨壷を持って一緒に逃げる話だけど。

キアンは「ごめんね、ミァハ」と唯一遺言を発して死んだので、他の何千人もの自死者とは違う特別な存在なのかもしれないが、結局のところそれはトァンが事件の捜査をするための手掛かりとして、あるいはトァンがミァハの謎に迫るために配置されているに過ぎない。キアンの存在そのものが、かなり舞台装置に近い。

「プライベート」は卑猥・猥褻・エッチな言葉であり概念である。なるほど

かつてのミァハも現在のトァンも、生命主義社会に適応した〈大人〉でいることを拒否して〈子供〉であり続けようとしている。

だから本作がとても青臭く幼稚にすら思えることは必然であり、また、ヘテロではなく同性ペアの関係(百合)を主題としていることも納得はできる。
異性間でセックスをしたり結婚したり子供を生んだりしたら、自身は否応なしに〈大人〉になってしまうのだから。

それを拒否するために〈子供〉であり続けようとして、ミァハは自死に成功して、トァンは螺旋監視官の職に就き海外の戦地で過ごしている。

ミァハが実親に育てられず、チェチェンの戦地から日本の家に養子として引き取られたことも、生殖を中心とした家族の気配をなるべく抹消せんとする設定に思えてきた。

 

トァンが父に向き合う父娘関係のハナシになってくるのか?
砂漠地帯で取り引きした民にしろ、男性の登場人物に注目したくなる。

ミァハの腰巾着、それはとんでもない誤解だった。あのときあの場所にいた少女は、たぶんミァハよりも、勿論わたしなんかよりもずっとずっと強くて、気高くて、誰に助けを求めることもできない孤独な場所に立っていたのだ。たったひとりで。
零下堂キアンは、あのとき間違いなく「大人」だった。 p.151

トァンが自らの傲慢な考えをやや自覚して再考を促されたのはよい。が、よく考えれば、ここでキアンが「大人」だったことになれば、「子供」だったミァハとトァンは余計にふたりだけ特別になっていやしないか?

父の同僚ケイタ教授もう85歳なんか。父は?
ナチスは「良いこと」もしたのか』みたいな話題になってる。が、その健康管理政策が本作のディストピア生命主義社会のプロトタイプだと位置付けられて、批判的な意味合いを帯びるのがおもしろい。

 

バグダッドを世界の中心に設定するのは、執筆された2000年代初頭の時代性を感じる。

ミァハの遺体が検体として父に渡されたようだけど、鹿目まどかのように、この生命社会のネットワーク基盤として、概念として利用され生き続けてたらヤダな…… 可哀想とかではなく、結局まだ死んでないのかよ、それでトァンとの感動の再会やら別れやらをやるつもりかよ、と思っちゃうので。

 

p.168 伊達に多くの紛争地帯などでネゴシエーションしてきたわけじゃないから舐めるなよ、と言わんばかりのトァンの態度がちょくちょく描かれる。私SUGEE系っぽくてムカつく!(←幼稚)

 

意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来バラバラな断片の集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている、おめでたい生き物なのさ。 p.170

ひとつの自我を持った「個人」を最小単位とせず、さらに細分化して分解・解体する。無我論というか、物質主義なら当然行き着くところ。
個人が社会のリソースとして位置付けられる全体主義だけでなく、個人を内部から解体する視座も同じ生命科学によって提示される。

マクロとマクロの両極がディストピアとして立ち現れ、その中間領域で寄る辺ない「個人」の魂と実存(=小説・物語)は彷徨する。
まぁ、王道のSFであり、王道のロマーン(小説)か。
いろんな意味で、SF初心者、文学初心者にはいいかもしれない

 

p.173 逆に、精神こそ肉体を生き延びさせるために取っ替え引っ替えされるべき潜在的なデッドメディアなのでは、というトァンの論はよく分からない。ケイタ教授が返したように、種の保存と進化の観点で見れば、遺伝子の乗り物的な意味で確かにそうかも知らんけど、それはトァンたちの「自分の肉体を自由に使いたい」姿勢とは相反するのでは?

あ〜やっぱりミァハ生きてた? 死者からの言伝……

p.182 「このカラダは自分ひとりのもの」 ほらぁ〜ミァハはさっきトァンが言ってたのと反対のことを語っている。

p.183 〈/body〉というコードの定型タグが、自死したキアンの死体(body)の意にもあからさまに重ね合わされている。 

 

3章

せっかく現実とはやや異なる世界を提示しているディストピアSFなのに、それを語る主人公の感性があまりにもわれわれ読者側に近くて、こんな生命主義社会はおかしい!と違和感を幼い頃から抱いているのが勿体無いと思う。異化の本領が発揮できない。信頼できない語り手の逆。共感できない語り手のほうがこの設定ではおもしろいはずなのに、あまりにも共感できてしまう。

でも、この小説がやりたいことは、これでいいんだよね。トァンは言わば、このSF小説とわれわれ読者を繋ぐ橋の役割を果たしている。SF慣れしていない読者をSFの世界になめらかに招き入れるためのガイド役。こんな(異)世界おかしいと思わない?と、この小説のなかで彼女(とミァハ)だけは主張し続ける。私たちが共感しやすい丸い主張を。こんなプライバシーのない窮屈な世界嫌だな〜いまの世界で良かった!と。

私からすれば、それは異なる世界への想像力に欠け、現実に留まって肯定しようとするきわめて保守的で馬鹿らしい、マッチポンプにも似た構造に思えるけれど、こと「SF入門」としては易しい見事な内容である。

 

「陰謀説」だというけれど、そうした陰謀論的な物語になることは、自分たちだけはこの世界のおかしさに気付いている……という青臭いスタンスの延長にある必然だろう。
ミァハ?は完全に全世界規模のテロリストだ。自死という最小のテロ=抗議行為から、全世界の人間を巻き込んだ革命へ。テロや革命もまた「青春」の花形だ。
デスゲームものになるん? こわ……

 

自らの意志や身体の内面がそのまま〈世界〉と直接に繋がっている、というセカイ系の思想をSF的に実装した設定といえる。イラク戦争といいデスゲームといい、全体的に00年代の香りが濃厚。

 

現在時からの経過時間による報酬系の活性化を示したグラフにおいて、指数曲線が合理的で、双曲線が不合理、というのはよくわからない。指数関数って、遠い未来になるほどに爆発的に報酬系が増大していくってこと? それはもはや行動を全て後回しにした、達観し切った人間ではなかろうか。

 

生命主義にアンチを張って自死を試みた子供はたくさんいたが、なかでもミァハの絶望が最も深かった。唯一無二ではないが、相対的に特別ではあった。
だから父は実の娘トァンではなくミァハを被験対象に選んだ。そのことに悔しがる?トァン。父親を巡る寝取られ・三角関係?

 

p.263 完全な調和(ハーモニー)が取れた意志のプログラムとは、意志も意識も無くなった状態である。……そうですか。

なんかずっとダラダラ、思弁的で哲学的っぽいことを述べ立てているけど、もちろん本当の哲学や自然科学に比べたら見せかけの薄っぺらい内容であり、深く真面目に考えればすぐに矛盾や底が見えてしまう嘘(フィクション)である。なんだかなぁ。こういうのに素直に騙される読者がSFに向いているのだろうなぁ

p.264 外面上は意識の有無は見分けが付かないと言っておきながら、ミァハたちへの実験ではあたかも有無が把握できているかのように語っている。哲学的ゾンビとかのレベルですら話を作っていない。きわめて素朴で幼稚。

p.270 意志とか意識とか魂?とかが、脳の報酬系を少し弄ることで簡単に消え失せてしまう唯物的なものだと、その魂の神話を見かけ上は解体しているようでいて、実はその逆をやっている。「無い」状態を素朴に想定することで、「有る」状態をも前提として神話化してしまっている。実際の意志はそんな単純なものではない。簡単にオンオフできるような意志/意識などありはしない。生命進化史のどこかの時点で人類が獲得した意識などありはしない。
ミァハが生まれた、先天的に意識がない民族、という設定は、そうした意識の神話化を完成させているともいえる。

 

p.271 「指数的」ってなんなんだマジで。用語の定義を説明してほしい。ふわっとした雰囲気の語用ではなくて。

fMRIによれば確かに意識活動が脳内に生じていないはずの彼らは」って、やっぱり客観的に有無が観測できるものとして意識を設定してるじゃん。外見上は判断できないって、ほんとに素朴な意味でかよ。fMRIでなら分かるんかい。それで測定できる「意識活動」ってのがなんなのか、そしてミァハたち民族はなぜそれがなくとも合理的な判断をして生活できているのか教えてほしいですね。

そして性虐待の過去設定!! あーあ、いつものやつですね…… ファム・ファタルは娼婦であり聖女である、という正統的なミソジニーの発露。魅力的な女性を、「ヒロイン」を、とことん客体化して、見栄えの良い、われわれ読者にとって興味が惹かれる、テンションの上がる、キャラクター商品として造形する凡庸な芸術。

意識を持たない民族として生まれて、レイプされまくった少女。後天的に「意識」のようなものを獲得した少女。天才で特別で世界に叛逆しようと自死を選んだ少女。おめでたいですね。そういう存在をおいしく消費する文化は。そういう存在との"尊い関係"をおいしく消費する文化は。

 

とりあえず、自分が思う「意識」とは全く別のものを「意識」と呼んでアレコレえすえふをやっているんだろう、この小説は。そう考えないとアホらしすぎてこれ以上読んでいられない。

銃撃戦や闘争劇などのアクションシーンを描くの下手すぎないか……? こんなにも茶番の場面はなかなかない。
しかも娘を庇って死ぬことで親の愛を示した(のかもしれないと評される)のも笑うしかない。すべてが薄っぺらい。

トァンとミァハ以外の舞台装置である登場人物たちが次々と都合よく死んでいく。
/body 2人目

 

あと、序盤から薄々気になってはいたけど、イラクバグダッドにしろ、砂漠の民ケル・トゥアレグにしろ、チェチェン民族にしろ、それらの物語上での扱いに、かなりオリエンタリズムというか、第三世界への差別意識が感じられて危ういなぁと思う。

 

4章

キアンの弁当も、わたしの弁当も、お母さんが生活パターンデザイナーの送ってくれる選択肢によって、隅々まで栄養コントロールされている。 p.285

「お母さんが」は要らないのでは? それか「お母さんが生活パターンデザイナーから受け取る選択肢」に変える。じゃないとなんか変だよこの文。
こういう風に、てにおは・係り受けというか、文法が微妙におかしい文がたまーにあるんだよな、この小説。べつに平均的には決して拙い文章ではないのだけど。
それとも、こういう細かい違和も、SF的な意図が潜んだ精緻な仕掛けなのだろうか?

 

p.291 ようやくフーコーに言及した。ずっと下敷きにはしていたけど。生権力。

『監獄の誕生』読んだことないけど、生権力とかって近代のもたらしたものだよね? たしか。とすれば、小説も、そして自由な個人の間に結ばれる関係を尊ぶ百合も、生権力と同じく近代の産物だから、否定しようとしているものと肯定・礼賛しようとしているものが同じ根を持っているという、なかなかに皮肉な構図になってるのか。
前近代にも百合は存在し得るのか? 中世や古代のフェミニズムとか……

 

螺旋監査官の上司(主席)も次世代ヒトなんとかの一員だったのか〜
p.304 その秘密組織の2派から共に注目される、ミァハとヌァザ(父)にとって大切な人の共通部分に、世界でゆいいつ当てはまるのがトァン。ミァハよりもこいつがいちばん特別な存在か。さすが主人公!

p.305 世界を破滅させようとしているミァハの真意を理解できるのも、わたしひとりだけ! 子供の妄想。

これはそもそもの始まりから個人的な事件だったし、その展開もどんどん個人的な狭路にはまっていった。正直に言おう、こうして世界中で暴動や集団自殺が続いている今も、わたしは別に世界のことなんか気に掛けちゃいなかった。 p.306

そうなんだよな〜〜 この物語そのものが、トァンという主人公とミァハとのエモい関係のために用意された「個人的な狭路」でしかないので、とてもつまらない。
世界の命運は自分にかかっているけど、自分は世界のことなんかどうでもよくて、アイツのことだけが大事、という幼稚なロマンチシズム。

「ええ、とってもプライベートな事情があるの」
「プライベートかぁ。淫靡でいいねぇ」 p.314

そうか、プライベートなものは猥褻であるという社会をそもそも設定したのも、すべてはトァンとミァハの関係をエモく(エロく)演出するためか。序盤の回想でミァハがトァンの胸を揉んでいたのも、そういうことか〜

マジで、自分が大嫌いな「閉塞的な二者関係のロマンスを過剰に尊く演出するハナシ」の最たるもの、ってかんじだ。
わたしは固定カップリングのアンチだから。そいつらの関係を持ち上げるために周りの人々や世界が舞台装置として扱われるようなカップリングのアンチだから。

小市民シリーズ』が嫌いなのとだいたい似たような理由だ。

 

  

ウーヴェという同僚の男もトァンと似たようなスタンスで気が合いそうなのは良いね

社会の暗黙の常識=「空気」が云々という表現には、あぁそういえば確かに00年代前半には「空気読めない」だのなんだのというフレーズが流行ってたなぁと懐かしくなる。10年代からSNSの時代が到来して、逆にもう言わなくなって久しいよなぁ

 

「お前、本当に自分のことしか考えてない女なんだな」 p.320

これが美徳となるように、他の大衆はみんなのことを考える生命主義の世界を設定している。そりゃ、そういう人たちに比べたらトァンは自分のことしか考えてないも同然だが、しかし正確には「自分とミァハのことしか考えてない」なんだよなぁ。ミァハもどうでもよくて、本当に自分のことしか考えてないんならトァンのこと好きになれたかもしれないのに。

 

まるで修験者ね、とわたしは息をあえがせながら思った。神様に会うための修行をしているみたい。ミァハが神様なんて、とても思えないし思いたくないけど。 p.322

いや実際、ロマン主義小説は語り手たる個人の、神への「告白」の形式を取るのだから、いろんな意味でミァハは "神様" だろう。そういうことを考えて読んでたら、この文に行き当たったので少し驚いた。

 

喜怒哀楽、脳で起こるすべての現象が、その時々で人類が置かれた環境において、生存上有利になる特性だったから付加されてきた「だけだ」ということになれば、多くの倫理はその絶対的な根拠を失う。絶対的であることを止めた倫理──相対的な倫理──は脆い。 p.327

である(科学的事実)と、べき(倫理規範)を混同する初歩の自然主義的誤謬を恥ずかしげもなく開陳している。倫理とはなんたるかがまったくわかっていない。なんなんだ。高校生の頃とかだったらこういうのにコロっと騙されちゃっていたかな。

閉塞的な二者関係のロマンス(百合)要素だけが合わないかと思いきや、肝心のSF要素が本当に酷い。前半の、生命主義ディストピア設定あたりはそれほど酷いとは思わなかったが、後半になって意識とは何か、倫理とは何か、といったより哲学的な領域に踏み込んだ途端にボロが出まくっている印象を受ける。

単に、自分が生命や健康やプライバシーにはあまり興味がなくて、意識や倫理にはそれなりに興味があるから、中途半端な哲学っぽいSF描写に引っかかってしまうだけかもしれない。

ミァハは片手で周囲を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。 p.333

これぞセカイ系
じぶんの身の回り、「周囲」がすなわちひとっ飛びで「世界」になる。

常に、既に。それがWacthMeの目指すところ p.334

ちょうど引用しようと思ったところが誤字ってる。「WatchMe」ね
つねにすでに、always-already だ。

つねにすでに - Wikipedia ja.m.wikipedia.org  
 

だからわたしはね、そんなものをカラダに入れられる前に、本が読むものでなく自分自身になっちゃう前に、女の子のまま死のうと思ったの。
このおっぱいも、おしりも、おなかも全部、本なんかじゃないって証明するために。 p.334

なぜ「女の子」という語がここでミァハに選ばれているのか。「生身の人間のまま死のうと思ったの」とかじゃダメなのか。
記述問題でありそう。配点10

生命社会のSF設定のなかで、男女の解剖学的性差、セックスに関しての記述はほとんどされてこなかった。しかし、本作では全体として、暗にあるいは明らかに、「女の子」を未熟な、まだ生命管理システムに犯されていないプリミティブで生身の身体の象徴として位置付けている。男性の身体性にはほぼ言及されないが、ゆえに「男性=人工(近代)/女性=自然(前近代)」という極めて古典的でナイーブな性差別的ステレオタイプに立脚しているといえる。男児や少年、若い男はこの小説に登場しない。それは「子供=女の子」という図式を採用しているからだ。

最初の「百合SF」特集が男性中心主義的だと批判されていたのも、ひじょうに納得がいく。国内の百合SFのメルクマール的な作品であろう本書が、こんなにも女性差別的な表象に溢れているのだから。

これだけ生命医療が管理されたディストピアでは、生殖活動もまた管理され奨励・強制されていないと不自然だと上で書いた。「生殖」周りの描写が徹底的に排除/隠蔽されていることは、この公共的な生命社会においてもなお残っている最後の「プライベート」=卑猥な領域だからだろうか。このあたりと、ここでのミァハの「女の子」発言は通底しているだろう。ただ、まだあんまり整理はできていない。

背も大きくなったし、おっぱいもわたしよりずっとしっかりしてた。かわいい女の子のまま。御冷ミァハは美少女のままだった。 p.337

……はい

「わたしにのし掛かってきた将校はね、わたしに繰り返し入れながら、年代物のトカレフの先をわたしに触らせてた。これが銃だ、これが鋼だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつのペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口に銃口を突っこんで、何度も何度も突き入れてきた」 p.339

ペニス=銃、鋼
男性の身体は「自然」とは反対の、人工的な機械である、と。

「わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。首を吊ってた」 p.340

いや「男の子」出てきとるやん! こうして間接的に言及される程度ではあるけど。

その風景は、いままでの風景とまったく代わり映えしないものであることも判っている。人間の意識がこれまでも大したことをしてこなかった以上、それが無くなったところで何が変わるというわけでもあるまい p.348

いや、あれこれ悩んで自殺する人がいなくなるんだったら、それは十分に意識の有無で人間が変わってるじゃないか。

いったいこの小説は「意識」をどういうものだと設定しているのか、自分にはさっぱり理解できない。完全に矛盾しているように思えるが、わたしがこの高尚なエスエフ議論を理解できていないだけの可能性だって全然ある。

 

先天的な意識がなく、またこの世界から早く消えたがっていたミァハを殺すことは、トァンが彼女を救済するのと同じであり、ある意味では本来のミァハへと生まれさせる(生まれ変わらせる)行為である。殺すことは究極の愛の発露。ふたりの関係の昇華。

そして、そのふたりの関係の昇華が、同時に全世界の全人類の意識の消失=死=調和になる。ここに於いて、この究極的に幼稚なセカイ系のロマンスは完成する。

 

トァンの一人称で語っていたと思われていた叙述、語り手=主体が、実は全人類の調和した擬似意識によるものであると最後に明かされる。「わたし」と「世界」のハーモニー。はいはい、よかったね。

 

おわり

おわり!
お疲れ様でした〜
解説でのインタビュー引用で、ロジックからしかエモーションを描けない、と著者が語っていたのには得心する。だって、キアンや父を殺されたトァンの悲しみとか、まったく上手に描けていなかったから……。ゆえにラストのミァハへの復讐のくだりも、どこかハリボテの、それこそあのひゅーひゅー風が通り抜ける舞台設定通りの空虚さがあった。すべてはミァハとの関係を精算して昇華するための補助装置なのだから。

あと、「ここで描かれているユートピアは、実は倒立したディストピアだ」的な、したり顔の解説がこういう類の作品ではよ~くなされるけど、見かけるたびに苦笑してしまう。ユートピアディストピアはそもそも原義からして本質的に同じ意味の言葉だから。すべてのユートピアディストピアだし、すべてのディストピアユートピアでもある。だから「このユートピアは"実は"ディストピアでもある!」などという指摘は、情報量ゼロの、きわめて空虚な文言だ。

ユートピア - Wikipedia ja.wikipedia.org  

ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代人が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には格差がない代わりに人間の個性を否定した非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである。従って、本来の意味からすると、社会主義共産主義の文脈で用いられるべき言葉である。

 

 

伊藤計劃を初めて読み終えたことで、全身が「以前/以後」になってきた。

もう「計劃以前」には戻れない。

虐殺器官』読もうかなぁ……かなりモチベは削がれた……

 

 

 

追記

この記事と同内容のものをnoteにも投稿していたのですが、そちらのコメント欄にて、本書の有用なレビューを教えていただいたので、それを読んでの感想・反応をnoteのほうで追記いたしました。興味があればお読みください。