『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー

 

 

 


2023/10/20~26
計6日間


10/20(金)
10/22(日)

太陽の男たち(1963)

バスラ(イラク)からクウェイトへの密入国を試みる三人の男たち。彼らをタンクの中に隠して走る車の運転手の男。
前半の三人それぞれのバックグラウンドを描写するパートは瞬間的に回想を往還する意識の流れのような文章でやや困惑した。
茫漠とした荒野や砂漠を舞台にした話に気持ちがのらない、というのはある。ルルフォ『燃える平原』やブッツァーティタタール人の砂漠』とか。申し訳ないが……
去勢された男。

 

うおー……なんとも衝撃的な話だ…… めっちゃ極限状況。「視界がにじんだのは涙のせいか汗のせいか」というシチュエーションはままあるが、そういう小説のなかで最も迫力が極まっているひとつだろう。

灼熱の暑さ・眩しさとか、密閉空間に閉じ込められるとか、単純に状況が想像越しでもイヤ過ぎてキツイ…… ホラーやスプラッタと同じ苦手さ。読書体験としても身に迫ってくる。それはつまり小説としての描写の強度が高い、という美点なのだけど、それはそれとして拒否反応が出る。これこそ海外文学の醍醐味ではあるが……。

最後の「想念」とは何なのだろう。わからない。でも運転手の男は三人のためによくやったと思うよ。裏切るかと思ってた。崇高で尊敬する。がゆえに徒労感・絶望感がすごい。

 


10/23(月)

悲しいオレンジの実る土地

前作とは文体がぜんぜん異なり、好み。こういう文章も書くんだ。訳者が違うから?
「ぼく」の一人称語りで「きみ」と二人称でも呼んでくる。
故郷パレスチナを追われ難民となり、もう子どもではいられなくなってしまった者たちの物語。子供が大人になる過程を描いた王道の話。

 


10/24(火)

路傍の菓子パン

これも大人の「ぼく」が、可哀想な難民の少年との交流について語る短編で、文体が前のと似ている。同じ訳者。
可哀想な境遇に同情して気にかける主人公の暴力性、薄情さを描いた? 可哀想だと思ったら実は嘘をつかれていて騙されたと思ったけどやっぱり可哀想だったし、はじめから自分のことを見抜かれており向こうが一枚上手だった……そう……。

 

盗まれたシャツ

短い話。理不尽と不正義を目の当たりにした一家の長がシャベルで人を殺す。

 

彼岸へ

お、主人公が可哀想な難民や貧困層ではなく富裕層の権力者なのは初めてだ!と思ったら、被抑圧者の亡霊?的なものが出てきて怨嗟と絶望にまかせた怒涛の叫びをし続けて終わった…… 権力者側は徹底して糾弾の対象にしかならない。
恨みがこもった迫真の語りは目取真俊っぽさがあった。

 


10/25(水)

戦闘の時

常に戦闘状態にある難民の家庭内の長男の話。複数の家族が同じ家に寝泊まりする、難民の常態。

 

ハイファに戻って (1969)

文章があんまりスルスル頭に入ってこない。疲れているのかな……
「太陽の男たち」と同様に、過去回想と現在描写が入れ替わり立ち替わり語られて、それこそ迷子のようになる。

 

10/26(木)
「ハイファに戻って」読み終えた。これは・・・めっちゃキツイ、言葉を失うような話だなぁ……

人間は究極的にはそれ自体が問題を体現している存在だ。あなたはそう言った。それは正しい。しかし、それはどんな問題なのですか。それが私の問いです。 p.251

 

「あなたは私達がこのまま誤りを続けると信じていますか? ある日、私達が誤りを終りにしたら、あなた方には何が残されるのですか」
 そこで彼は、自分たち二人は立ち上がって去るべきだと感じた。すべてが終ったのだ。もはや言うべきことはなかった。その時、彼はハーリドにたいして一種言い難い強い希求を覚えた。説明し難いが無性に彼のところへ飛んで行き、彼を抱き、接吻し、彼の肩にもたれて泣き、父と息子の役割を代わってもらえたらと思った。
「これが祖国というものだ」彼はそうつぶやいて微笑した。それから妻の方を向いた。
「おまえには祖国とは何だかわかるかい、ねえソフィア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起ってはいけないところのことなのだよ」 p.257

はじめここ、ハーリドではなく目の前のハルドゥンを抱きしめたいと思ったのかと勘違いしてた。

 

ハルドゥン(ドウフ)の立場も当然だという気がするけどなぁ……『さよ朝』のメドメルとレイリアのように、幼児のときに離れ離れになった親との感動の再会が、子供側にとってただ幸福なものであるはずがない。親であるとすぐ受け入れてくれるはずがない。『西鶴一代女』もこの系譜の話があった。

たしかにサイードにとっては、20年ぶりに成長した姿で邂逅した息子が「敵」(「向う側の人間」)になっていてショックを受けて、「われわれの内なる恥辱」だと思うのも仕方がないが……

イード・Sの二人の息子、ハルドゥン(ドウフ)とハーリドは、それぞれユダヤ人とアラブ人のアイデンティティを追求し、「祖国」のために戦う武装集団へと向かっていた。

イードは息子ハーリドを「ただ未来を見つめている」存在として自分たち「祖国とは過去のみだとみなした」者と対置して礼賛しているが、これはどうなんだろう。過去ではなく未来を。そうした歴史の忘却は、特にパレスチナ問題に関してはもっとも危険な傾向のように思えるのだけれど。


追記

岡真理さんの緊急講演で本作品の一節が言及されていた。やはり、いくら「かわいそう」でも/だからこそ、イスラエル側に加担するハルドゥンは糾弾すべきであり、彼に対して父サイードが発した言葉は本質的に重要である。そしてパレスチナ解放のために立ち上がろうとしていた別の息子ハーリドの未来志向はやはり肯定すべきものである。すぐ上に書いたことばは幾重にも誤っていた。

私の妻は、われわれが卑怯であったことが、あなたが現在かく在ることへの権利を与えることになるかと尋ねているのです。 p.256

私はあなたがいつかこれらのことを理解してくれることと思いますが、その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼らの犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いち自分の罪とを正当化すると考えることなのです p.257

「あなたは私達がこのまま誤りを続けると信じていますか? ある日、私達が誤りを終りにしたら、あなた方には何が残されているのですか」 p.257

(追記終わり)

 

途中で入る隣人の挿話もかなり印象深い。殺された兄の写真を壁に掛けたまま家を追われ、二十年ぶりに戻ってきたら新しい居住者によってすべてはもとのまま保存されており、写真の兄もその新しい家族の一員のようになっていた。一度は写真を壁から引きはがして持って帰ろうとするも、思い直して現住人に返してしまう男の話。なんとも……


フェミニズム批評としてはどう読めるんだろう。妻ソフィアの表象とか、かなり典型的なセクシズムだと思うが。他の作品についても。すべて男性が主人公であり、女性は周縁化されている。

訳者あとがきで引用されていた無名の青年の文章。パレスチナ問題について分かり易くまとめられており、小説を読むよりも考えさせられるかも……