『縛られた男』(1)イルゼ・アイヒンガー

 

20世紀のユダヤオーストリア作家であるイルゼ・アイヒンガーの短編集で唯一邦訳されている『縛られた男』を借りてきた。

 

 

 

じぶんが愛読している読書ブログのひとつである『もれなくついてくる何か』にて紹介されていたのが直接のきっかけだ。

blog.livedoor.jp

『もれつい』では同作者の第一長篇『より大きな希望』を「殿堂本候補」として絶賛しており、ここ数年1冊も「殿堂本」に認定していないこの人がここまで言うなら……!と強く興味を持った。すぐさま図書館で調べると、この短編集『縛られた男』のみ収蔵されていたので、こちらを読むことにした。

 

 

序文を含め最初の5篇を読んだ。

 

 

・この時代に物語るということ

この短編集への序文・まえがき的な立ち位置の短いエッセイ

「死に相対するためのもの」としての物語論を展開する。

フォルムというものは安心という感情からは決して生まれるものではない。フォルムはいつでも終末に向かい合ったときに生まれるものだ。 p.18

まさしく終末から始めて終末に向かって語り始めるのだ。そうすれば世界は再び我々に向かって開かれる。そうして絞首台の上から物語り始めて、人生そのものを物語るのだ。 p.19

これから読もうとする小説の姿勢・位置づけをあらかじめ読者に説教するようなことはあまり好みではないが、しかしナチス・ドイツ下での戦争体験から紡ぎ出される言葉には、さすがにそこらへんの「とりあえず死を匂わせておけばいい感じにエモくなるでしょ小説」とは格が違うと思わせられた。

(筆者のプロフィールを知っているからこそ、それに引っ張られてこのように思えるだけではないのか、という向きもあるだろうが、それを抜きにしても文のうまさと凄みは感じざるを得ない)

このなかの物語のひとつにひとりの少女が出てくる。この少女は、死に際にその一生を鏡で映したようにもう一度体験する。そこで少女は恋人と最後に会ったときに出会い、最初に会ったときに別れ、物語の最後の方ではお下げ髪がまた伸びて、試験のたびに知っていたことを一つ一つ忘れ、最期の瞬間にはついにこの世に生まれ出るのである。 p.19

 

 

 

・縛られた男

目が覚めたら身体を(絶妙な具合に)縛られていた男がサーカスにスカウトされて活躍する話

唐突に始めた興行が超スピードで大ヒットする展開にはサエール『孤児』の中盤を連想した。

 

「さあ、縄男の登場です!」夏が近づいていた。夏は窪地にある魚の住む池にだんだん深くかがみ込み、暗い鏡の中の自分の姿にうっとりと見とれ、川面をなで、平野を元の姿へと戻していった。 p.33

多分ちゃんと縛る暇がなかったんだと思います。だってどう見ても、動かないように縛ったにしては緩すぎますが、かといって動くにはちょっときつすぎるんですよ。でもあなた動いているじゃないですか。と観客は言った。ええ、でも他にどうしろっていうんです。男は答えた。 p.34

前の晩の歓声はもうかなたに薄らぎ、夢うつつのなかで、首と頭だけが自由にうごくのだ。首吊りとちょうど逆の状態だ。全身がんじがらめだったが、首の周りだけ縛られていない。 p.37

 

言ってしまえば「カフカ的」な、不条理性と諧謔性にあふれた短篇でそこまで面白みはないのだが、一点、サーカス団長の妻との関係の描写が面白かった。

「縛め(いましめ)」が、単に男ひとりの行動を制限するものというだけでなく、女性との不倫疑惑へのアリバイ・貞操帯のように機能していて、なるほどなぁと思った。

そのうち団長の妻には縛めが心配なのか縛られた男が心配なのかわからなくなってきた。(中略)縛めが解けたら男は去って行くだろう。あの歓声も一緒に去って行くだろう。誰にも疑われずに川岸の石の上に男と並んで座ることも出来なくなるだろう。あの縛めがなければ男はこんなに近づいてはこないだろう。あの明るい夕暮れの語らいは縛めがあってこそのものだったのだ。話題はいつも縛めのことだけだった。彼女が縛めの利点を話すと、男はその負担の話をした。そして縛られているゆえの喜びに話が及ぶと、彼女は縛りを解いてくれと男に迫った。それはいつまでも終わらぬ夏のような堂々巡りだった。 pp.39-40

冒頭、縛られた男が目を覚ますくだりには執拗な「光」の描写があり、また上記のように「夏」も重要なモチーフとなっている。季節が夏から秋へと変遷し、肌寒くなることが縛られた男にはクリティカルに作用する。

 

人間を敗北させる自由な身ゆえの致命的な優越性を自分は失っていることを、男は軽い興奮のうちに感じていた。 p.43

このへんはなかなか難しい

 

オチはまぁ……という感じ

 

 

 

 

開封された指令

重要っぽい指令を届けるように命じられた男が道中で開封しちゃう話

 

男は落ち着いてしっかり運転を続けた。しかし道が突然めまいを起こしたように自滅的に急勾配になっているところを上手く切り抜けたと思ったとたん、車はぬかるみにもろにはまり込んでしまった。 p.56

「突然/めまいを起こしたように/自滅的に/急勾配になっている」道、という表現の修飾過剰さがおもしろい。

 

最初の一発が発砲されたとき、男は自分の意志に反して早く発砲してしまったと思った。しかし、弾が前に座っている若者に当たったのなら、運転手の幽霊はすごい反射神経をもっているのだろう。なにしろ車はさらにスピードをあげて走りつづけていたのだから。 p.58

「彼は撃たれたはずなのに運転をやめない」=「彼の幽霊はすごい反射神経をもっているのだろう」という発想がおもろい!

 

最初の三十分が沈黙のうちに過ぎていった。時間と道のりは互いを食い殺す狼のようだった。 p.59

かっこいい

 

彼らは広場を回った。車の中でまっすぐ座ろうとがんばっている間、男は世界中でここほど目的地らしくないところもないと思った。ここのあらゆるものが出発点に思われた。 p.60

良い

 

出血は鍵のかかった扉からの脱出のようだと男は思った。あらゆる検問所を突破するようなものだと。向いの壁に反射した明かりで雪明かりのように照らされている部屋は、一つの状況としての顔をあらわにした。あらゆる状況の最も純粋なものは孤独、そして流血は行動ではなかったか。 p.62

テンションあがる

 

「指令は実は暗号で、文面通りではありませんでした」というオチには肩透かしを食らった。

 

 

そういえば、上記3篇とも「川」「岸辺」の存在が無視できない。

序文で

しかし岸というのは川にとっては以前から境界を意味してきたのではなかっただろうか。川はその憩うことない河床にいつでもその流れを預けてきたのではなかったか。そしてかつて語られていた物語もみな境界によって、しかも恐ろしい境界によって摂理されてきたのではなかっただろうか。 p.18

と象徴的に書いている通りのことを実作でも表現しているのだろうか。(あんまり興味はない)

 

 

 

 

・ポスター

「お前は死なない!」
ポスターを貼っていた男は言って、自分の声に驚いた。 p.67

つかみが満点

 

真昼の静けさは、重い手のように駅の上にのしかかり、光は自らの氾濫に呑みこまれたかのようだった。ひさしの上の空は暴力的なまでに青く、守るようであり、また同時に崩れ落ちてきそうでもあった。そして電線はとっくに歌をやめてしまっていた。遠くは近くを絡めとり、近くは遠くを絡めとった。 pp.67-68

「お前は死なない!」
男はふてくされたようにもう一度言って梯子の上からつばを吐いた。白い敷石の上に血が落ちた。頭上の空がぎょっとして目をみはったようだった。それはまるで誰かが空に、お前は決して夜にならないと宣告したかのようだった。それはまるで、空自身がポスターになって、海水浴場の宣伝のように大きくてかてかと駅の上に貼られているかのようだった。 p.68

この辺まではほぼ完璧だと思う。直喩が非常に多いが、高確率で決まっている。

 

ただ、その後、リゾート海水浴場のポスターの中の若い男の視点に移ってしまい、やや残念だった。「絵のなかの人物の語り」はありふれているし、前向きな広告(プロパガンダ)にひそむ不気味さ・グロテスクさ──というテーマもわりかし陳腐だ。

 

波しぶきの中の若者だけがただひとり、黄色い浜辺の果てにあるはずの陸のような反逆心を抱いていた。 p.69

「陸のような反逆心」……?

 

死ぬというのはもしかしてボールを飛ばすような、そして腕を広げるようなものなのかもしれない。死ぬというのは、潜水したり問いかけたりすることなのかもしれない。 p.72

 

明るい色の服を着た女の子が三人ばたばたと階段を降りてきた。そして梯子の周りに寄ってきて、男をじっと見詰めた。ちょっといい気になった男は今日三度目ではあるが「暑いな」と話し掛けずにはいられなかった。三人はようやく喜びや悲しみの原因がわかったかのように、もっともそうにうなづいた。 p.73

最後の直喩がえぐい

 

遠くで次の電車がゴーゴーと近づいてくるのが聞こえた。音が聞こえたのではなく、それによってますます静けさが増したようだった。明るさが極限まで行きつくと、黒い鳥の群れに姿を変えて羽音をたてながらやってくるようだった。 p.74

直喩のオンパレード

現実の代替物たる「ポスター」と、描写の代替表現としての「直喩」を結びつけてうんぬんかんぬんできそう

 

梯子のそばにいた女は手が空いているのに気づいて、近くを手探りした。彼女は天国を掴み取るかのようにして誰かの服の裾を引っ張った。 p.75

 

 

「僕は死ぬ!」若者は叫んだ。「僕は死ぬぞ!誰か僕と踊らないか?」 p.78

 

 

終盤で大きく物語を動かしてラスト数行/1ページでいい感じに余韻を残す着地をする、この人の常套手段。

ポスターが剥がれたのはいいけど、結局女の子がどうなったのか直接描かずに意味深な感じにしていてう〜ん……

 

決してつまらなくはないのだが、同じプロットをコルタサルあたりが書いたらもっと面白く(=自分好みに)なるという気がする。『愛しのグレンダ』収録の「猫の視線」を連想した。

 

「川」と「岸辺」にこだわりのある作者だが、本作でも「線路」と「駅のホーム」がキレイにそれらに対応している。

 

 

 

・家庭教師

部分的に引用して「ここがおもしろい!」と言いたくなるところは無いが、全編を通じてイヨネスコの不条理演劇のように子供と家庭教師の会話がすれ違っていてちょっとおもしろかった。

最終的には不条理ホラーのようになる小品。

 

 

 

 

 

 

 

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続きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「猫の視線」

 

 

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