「黒い豚の毛、白い豚の毛」閻連科

 

 

書店で閻連科の新刊『心経』をパラ読みして「世界五大宗教の信徒たちが一堂に会して綱引きをする」的なあらすじにめっちゃ面白そう!!!となり、しかし長篇に手を出すのにビビってまずは短篇集から……ということで、図書館で自薦短篇集『黒い豚の毛、白い豚の毛』を借りてきた。

 

 

 

その表題作を読んだ。

 

 


・黒い豚の毛、白い豚の毛

 

最後まで読むと、なんだか(日本の)高校の現代文の教科書に載せてもいいくらいキレイにまとまった短編だった。
人殺しの罪をかぶり牢屋に入ることが、村の皆に自慢できる超光栄なこととして扱われていることの倒錯的なおかしみが根底にある。家父長制・階級制という保守機構のなかで反発しようにも適応しようにも失敗し、生の尊厳をすり潰されていく貧民の話。
最後のオチは、言われてみればそりゃそうだ、と納得するしかない展開で、惨めな人生に一筋の光が差したかに見えた主人公に、救いがたい現実を突きつける。
まぁこれを国語の教科書に載せたら、それはそれで中国という国の印象操作だイデオロギーだと問題がありそうだが。

 

初・閻連科だけど、これだけ読むと、評判で聞いていた、発禁処分を受けまくりソローキン並にヤバい作家、という印象はまったく受けず、むしろ基礎をきちんとこなす正統的に上手い作家だと感じる。訳者あとがきでもそのようなことが書かれている。だからこそ閻連科入門にぴったりだと。


嗅覚と視覚と聴覚の描写のコラージュ具合が巧み。
冒頭から匂いを色で表しているし、季節や一日の移り変わりを音で表現しがち。

夜は底なしに深く、屋根の李の家の店からときどき伝わってくる豚の鳴き声のほかに、村には月光が移っていく音さえもなかった。荷物の仲の新しい靴や古い服、半分腐りかけの石けんの匂いや靴底に粘り着いた穀物の甘い匂いが、部屋の中に淡くふんわり漂っていた。(中略)おやきやネギやごま油の匂いが川のように流れて、テーブルの上から床へサラサラと流れ落ちていた。 p.29


「〇〇は〜〜のよう」という直喩で例えられる「〜〜」の部分が、日本に住むわたしにはいまいち馴染みのないものであることがしばしばで、とても面白い。

直喩以外にも、ふとした仕草がじぶんには奇異に思える(が、作中では平然と行われているし、平然と描かれている)ことがあり、それが本作を読んでいてもっとも興味深かった。
家の庭で父親の前に座るときに靴を片方脱いで敷くとか、そもそも「もし自分が約束を破ったら俺はあんたの孫(曾孫)じゃ」という言い回しで、孫=奴隷のように扱われているのが凄い。メインテーマの家父長制の抑圧にもばっちり繋がっているし。

 

長距離トラックの運転手が、急ぎに急いでアクセルを踏んだまま緩めないのも、その東の部屋に泊まりに行くためなのだ。 p.9

この言い回しおもしろくない?「急ぎに急いでアクセルを踏んだまま緩めない」

 

父親と母親はそう言われて言葉を失い、座っている尻の下から靴を引っ張り出すや投げつけるものだから、飯場じゅうに埃が舞い上がり、みんな自分の茶碗を胸元に隠すのだった。 p.10

尻の下から靴を引っ張り出して投げつけるのもおもろいし、埃が飯にはいらないよう「自分の茶碗を胸元に隠す」のはもっとおもろい。

 

息子の根宝はまた父親をじっと見た。夜で、父親の顔に、どれだけ分厚く、一体何斤の重さの驚きが浮かんでいるかははっきりと見えず、ただ漆黒の塊が、木の切り株のようにそこに立ち、そこに固まっているのが見えるだけだった。はっきり見えないので、もう見るのはやめ、靴を片方脱ぐと、それを敷いて父親の目の前に座り、両腕で膝を抱え、両手は豆の皮でも剥いているかのように、ポリポリ音をさせて動かし、父さんの質問にはすぐに答えなかった。 p.12

驚きの程度を重さで、しかも「何斤」単位で表現するのが新鮮
靴片方脱ぐのは上記の通り