『孤児』フアン・ホセ・サエール


 

モルッカ諸島 インドネシア 赤道付近 オーストラリアの北
西へ向かって航海している?どこから出発したのか

 

老人が数十年前の体験談を語る……という形式には、「絶対主人公は大人になる前に死ぬぞ……それで語りの位相が次元の狭間へと転落するぞ…」と身構えてしまう。先日読んだ『わたしの物語』のせいだ。

 

p.30まで。
いつになったら面白くなるのかなー早くギアかかってほしいなーと思いながらページをめくったら主人公以外みんな殺されていた。デフ・ギー!デフ・ギー!デフ・ギー!
面白くなるまで100ページかかるモレルの発明に比べたら全然早いほう

 

94人!?インディオ94人て多ない?

 

木陰での議論は何時間も続いた。集まった者たちは、時に眠気に襲われて話の糸を見失うことがあるらしく、しばらく演説をやめてうとうとした後、また話の続きを始めることもあったが、何度長い沈黙があっても、全体的に議論の熱気が衰えることはまったくないようだった。それどころか、そうしたうたた寝の度ごとに、論客たちはますます活気づき、黙ってじっと聞いている者たちの関心も一層高まるのか、ようやく議論を切り上げた一座の数名が、散り散りになっていた仲間たちに号令をかけて集合させたのは、すでに日が暮れかけていた頃、そこまでいかなくとも、日が傾き始めて陽光がすでに薄い黄緑色の線に変わっていた頃だった。 p.33

 

議論の最中にうたた寝をし始めて、それで長い沈黙が差し挟まっても熱気が衰えないってどういうことだよ。
このような、よく考えればどんな状況なのか意味のわからない描写を事も無げに淡々とするの好き。

 

その後、子供たちは立ち上がり、水辺を進んだ後、草叢と木立の間を通って集落のほうへ姿を消したが、その後も数分間、私が、じっと座ったまま後に残された空間を見つめていたのは、喧噪の後に、何か手で触れられそうなものを感じたからであり、その存在を感じることのできた者の心には、幸福感のみならず、ある種の哀れみ、この世の空気に紛れて万人を包み込む得体の知れない脅威を前にした時のような哀れみの感情が生まれてくるような気がしたからだ。 p.45
なんでここに付箋貼ったんだろう。どんな哀れみの感情なのかよくわからなかったからかな。



p.90まで
p.30でのインディオたちとの邂逅以来、またいつになったら面白くなるのかなー状態が続いている。
未開の部族の驚くべき実態が明らかに!的なものは確かに興味深いけれど、意外と地味だし単調だし自然描写が多いしで苦痛
1年経って「私」と同じような存在の部外者が連れ去られてきたときには「おっ!?」とテンションが上がったが、結局なんだかよくわからないまま去っていっちゃうし(普通に見送ってあげるんだ)。会話しろよと思ったけど彼も別の(近隣)部族であって「私」のような遠い大陸の人間ではないのね。
地味に特徴的なのが、これだけインディオの生活をつぶさに観察しておいて、特定の人物にまったくフォーカスが当たらないということ。名前が一切登場しない。そもそも存在しないのか?それにしても「私」のほうから勝手に誰か1人に着目して固有名を与えるとかしてもよさそうなのに、一切しない。これはインディオたちの異質さというより、観察している「私」の異質さか。
重要そうに語られるのは、彼らを内側からひっそりと支配する"神"のような悪魔的存在、内的衝動、集合的無意識みたいなもの。しかしこれもそんなに斬新でなく面白くないような……生物として根源的なレベルで何かに支配されているのは人間である以上我々も同じだし、そういう論法でインディオも我々も同じだ!という結論に着地してもそれ自体凡庸というか何当たり前のこと言ってるの?としか……
1年が過ぎてやっと物語に動きが加わるのだろうか。正直言って退屈で仕方ないからはやく脱出してほしい。

 

だが、こうして老境に差し掛かった今、私にわかるのは、自分が人間であり、人間以外の何物でもない、と盲目的に信じ込んでいる者は、自分の正体について、常に耐えがたい疑念を抱いている者よりも、実は、獣に近いということだ。  pp.97-98

 

ちょうど半分くらいで集落から出た。しかし脱出したのではなく、ボートに乗せられて送り返された!?

 

インディオに保護され、彼らの異様な生態・文化を淡々と観察する前半とは打って変わって、後半は一気に「私」に動きが出てにわかにドラマチックに、普通の小説っぽくなった。
胡散臭い劇団に出会ってインディオたちとの日々を劇にして自らが自らの役を演じて大ヒットするなんて「いかにも」な展開だ。しかしそれにしてはあまりに描写が少なく、一瞬でそのくだりも終わった。何がしたいんだ。

 

7/14読了
最後までまったくドライブしない、エンタメ性の欠片もない小説だった。普通、どんなに読みにくい小説でもラスト5ページとかに差し掛かったら勢いで読めてしまうものだけど、全くそんなことはなかった。
あのインディオたちの見方によれば、あの場所が場所に見えるのは我々がそう見ているおかげなのだが、あの場所はただじっとしているだけで、我々の歓心を買うための努力などは一切していなかった。 p.175
この文が本書自体を言い表しているようだ。「あの小説はただじっとしているだけで、我々の歓心を買うための努力などは一切していなかった」

 

集まってきた時と同じように黙ったまま、インディオたちは離散し、それぞれ小屋に戻って満足げに眠りについたが、私は一人砂浜に残っていた。あの後に続いた一連の出来事を私は、歳月とも、人生とも呼ぶ。幾つもの海、幾つもの町、鼓動、その騒音が流れとなって、目に見えるがらくたを押し流す太古の川のように、私をこの白い部屋まで押し流してきた。消えかかった蝋燭の光の下で、私は今も、星同士の、そして正確に言えば、星との偶然の出会いについてたどたどしい話をしているだけなのかもしれない。 p.180
この最後がとても好き。「終わり!」感があんまりなく、読者を突き放すのでもあざ笑うのでもなく、大団円でもなく、まだ続くこともできるし終わることもできる淡々とした結末がまさにこの物語にふさわしい終わり方だった。

 

一言でいえば「記憶」についての小説だった。

 

しかしなんだろう、「異様」としか形容しがたい小説で、原住民との邂逅モノとしてはかなり正統的というかシンプルな筋書な気もするし、記憶や世界や死などについての哲学的思索もバツグンに斬新だったり深かったりするわけでもないし、本当に、どうとらえたらいいかよくわからない。
いつもの凡庸なメタ解釈をするなら、「私」がインディオたちと共に過ごしていたときはただただ異様な習慣を前に観察しているのみで、後から思い返して実は彼らはこうだったんじゃないかとか色々後付けで考察をする、この本書の構成が本書の読み方にそのまま投影できる。『孤児』を読んでいる最中はただ文字を追うのみで、本を閉じてから、今まさにしているように、この作品はああだったんじゃないかと独断で解釈を巡らす。いや凡庸すぎてつまらんなこの考えは。



インディオたちの生活や習慣をもっとセンセーショナルに描くことだってできただろうに、おそらく意図的にそれを避けている。本作は「面白さ」「衝撃さ」「見栄えの良さ」みたいなものから一貫して距離を取っている。そのせいでこちらとしては180ページで限界だったんだけど。
劇にするくだりもそうだし、インディオの子供たちの(いかにも「"プリミティブな時間の流れ"を象徴するものである」とか宣う評論家がいそうな)謎の遊びを思い返すくだりとか、すごく解釈を誘う要素がところどころ現われるんだけど、決定的には踏み込まず、主人公の語りはまたふらふらと別の話題へ移ってしまう。この、分かり易さとの距離の取り方が絶妙だった。


孤児―フィクションのエル・ドラード
フアン・ホセ サエール
2013-05T