『黄金の少年、エメラルドの少女』(4.)イーユン・リー

 

 

 

ほぼ1年ぶりに、読み残していた短篇5つに手を付けて1冊読み切った。

 

 

・女店主

やはり壮齢の女性の人生を物語ることにかけてイーユン・リーの右に出る現代作家はいないと思わせられる。

金夫人は男運の悪い悲惨な境遇の女性たちを引き取って施してやる聖母のようにも見えるが、一方で、彼女たちを所有してその人生を自分の思い通りに作り変えたいと思っている、女郎蜘蛛のような人物でもある。彼女自身は夫にも息子にも恵まれているがゆえに、かえって可哀想な女たちへの転倒したルサンチマンがあるのだろうか。しかし、「誰も変わってくれない。いつになったら変わってくれるのか、まだ間に合うのか」という不穏なモノローグを発してもいる。

簡単に解釈の像を結ばせてくれない。そこらへんの文学とは格が違う。

上海から訪ねてきた記者を含めてすべての登場人物が女性であり、舞台も田舎町の寂れた個人商店という場所に絞られており、作品全体が女の園のような、静かで微妙な雰囲気を与えている。


妙齢の女性を主人公にして、若い女や少女との関係を語るだけでなく、さらに歳上のお婆さんまで出して相対化するのがさすが。60歳の女性が80歳の女性に寄せる複雑な感情なんてイーユン・リーくらいにしか書けない。

感動的な記事になるでしょう、と記者は言った。女同士の絆についての貴重な記事になって、本誌の女性読者全員のもとへ届けられるんです。記者の言うことは、彼女の都会的な服みたいだった。上等だけど、滑稽な。 p.180

 

彼女はぼんやりした目で双子を見ていた。誰も変わってくれない。いつになったら変わってくれるのか、まだ間に合うのか、金夫人は考えてしまった。 p.196

 

 

 

・火宅


おもろい。『三匹のおっさん』ならぬ「6人のおばさん」の不倫専門探偵モノ。こういうポップなのも書けるのさすがだなぁ。
もちろん背後にはそれぞれの女性の人生や家庭環境や男女観のちがいがある。みな中国社会の父権性に抑圧され、また自身も抑圧を再生産している。同性の悩みには共感して助ける気になれるが、異性の悩みには乗り気になれない。
これ短篇一本きりじゃなくて長篇とかシリーズものとして読みたいな。夫人グループ探偵モノ、そこそこ珍しいのでは。

 

 


・花園路三号


すげえーいい話・・・小説がうますぎるだろ・・・・・・ これぞ正統派、これぞ文学、イーユン・リーの面目躍如といった趣。

「はなぞのみち」なのか「かえんじ」なのか分からない(翻訳だから正解はないが)

妻に先立たれた男と、不倫で2回も夫に逃げられた女の、45年に渡る一方通行ラブストーリー。

 

老いた男とアパートと楽器、という組み合わせはスチュアート・ダイベック「冬のショパン」(『シカゴ育ち』収録)を思い出すが、こっちはほぼ老人だけで話を作ってるのがすごい。

美蘭は月給の半分を出してダンスを習い、それから黄昏クラブにお姫様みたいななりで登場した。夏にはロングスカートの裾がパートナーのサンダル履きの脚をこすり、冬には白いスエードの手袋に包まれた手を取ろうと男たちが先を争った。金魚ちゃん。まもなく男たちはそんなあだ名をつけた。常氏が彼女を見ないのは許せないことだった。彼女が想像したくないような形で欲望を感じたとしても、おかしくないのに。 p.228

この最後の一文のような、地味に鋭い文をところどころで忍ばせて投げ込んでくるのがすごい。

 

昔は服に残った日だまりの匂いが樟脳の匂いと混ざると、不思議と部屋に生身の身体がもう一つあるような感じがして、その後何日も眠気に襲われたものだ。 p.229

亡き妻の面影を痛烈に感じて「眠気に襲われ」るんだ・・・

 

若草を食むのが好きな年寄りロバ。陰でそう言われていたにちがいない。それなら胃に気をつけないと、などと言う者もいたかもしれない。でも、男を殺すのは心だということを彼らは忘れていた。消化不良で死ぬ男はいないのだ。 p.231

 

年のいった女の目で彼の妻を眺めるのは不思議な感じがした。美蘭は昔、その美しさに息苦しい思いをしたものだが、いまは妻の若い顔に物悲しさがあるのがわかった。病気に負けるのは、こういう女だ。「いい奥さんだったわ。ご愁傷さまでした」 p.236

別の箇所では、この妻自身が昔、小さかった美蘭の顔を「年のわりに一途で悲しげな子」と言っていた(p.239)と書かれている。女同士、若さと老いという年月に分たれたまなざしの交換。そこに介入できない男。

 

「おかしいのはね、ここに越してきたとき十歳だったから、その前に住んでいた家があるはずなのに、ほとんど覚えていないの。一つしか家を知らずに死ねるなんて、運がよくない?」彼女は冗談のつもりだったのに、彼が青ざめて震えているのを見てびっくりした。いつも彼女は、自分が死ぬことを楽しみな行事のように話すのが好きだった。死は男と同じで、求められていると知ると都合よく背を向けてくれる。そんな迷信を密かに信じていたのだ。 p.237

 

彼にとって意味のある存在になるには、生まれてくるのが十年遅かった、と日記で嘆いたのを思い出す。 p.238

 

十二歳なら十年の違いが大きな溝になるけど、ありがたいことに人は一生十二歳のままでいなくてもいい。 p.239

 

「生者が生きていても、昔ながらの隣人に知らん顔をするだけね」美蘭は言った。傷ついた女みたいだったかなと気になった。つまり言いたいのは、と彼女は弁解した。二人ともダンスがうまいのに、一緒に踊ったことがないなんて信じられないようなことじゃない? あなたがダンスのパートナー以上の人を求めているなら別だけど。彼女は笑いながら、そう言い添えた。私自身はダンス以外のことに興味ないのよ。ダンス一筋なの。 p.241

 

妻が彼のために望んでいたのは、これなのかもしれない。ほとんど何もわからない、死や孤独の解毒剤のような女。 p.244

 

薄暗がりで、彼はふたたび弦をつまびいた。遅かれ早かれ、どちらかが立ち上がって照明をつけなければならないのだが、さしあたり楽しくてそれどころじゃない自分でいたかった。 p.245

「さしあたり楽しくてそれどころじゃない自分でいたかった」という言い回しが素晴らしい。
「楽しくてそれどころじゃなかった」ではない、自分を一歩俯瞰して見ているような表現が、こうして三人称で語られる。

最後のオチ、なるほどそう来るのか〜と感心したが、振り返ってみれば冒頭2ページで「見たことのない異国風の楽器」を伏線として登場させて、それ以降は努めて言及しないようにしていたのだな。しかも、この冒頭では「太っちょおじさん」という別のキャッチーなエピソードを先に語ることで、楽器エピの存在感を薄めているのも上手い。太っちょおじさんのほうも、オチのやや手前で(ややネガティブなトーンで)再言及しており、これら全てがオチへの前フリとして完璧に効いている。

 

 


・流れゆく時

しかし、どうすれば盈(イン)に理解してもらえるだろう。自分の周囲にある存在は揺るぎなく筋がとおっているように見えても、五十年前の春の午後に一生の姉妹でいようなどと夢見なかったら、何もかも違っていたかもしれないということを。 p.259

なるほどなぁ〜〜。これは他のどの短篇にも増してプロットのアイデア一本勝負感が強い。もう少し肉付けしても良かった気がするけど、この筋書きを思いついてしまったらこうした短篇小説に仕上げるしかないのかもしれない。ありそうでない設定というか、この世に現出した瞬間に「なるほどね」とあたかも有りふれているもののように受け止められる、そんなお話。

やったぜ三人組義姉妹モノだ!!と最初テンションが上がっていたが、そう平面的なお話ではなかった。

若い少女だけの夢のような空間は流れゆく時には打ち勝てず、「男性」の介在によって彼女たち自身で関係を崩壊させてゆく。とてもトリッキーな形の「百合の間に男が挟まる」ものだと言えるか。

しかし、結婚によって疎遠になるとかいったありがちな話ではなくて、「子供」という彼女たち自身の中から文字どおり生まれ出た存在によって、さらに義姉妹の契りへの執着がゆえにとった行為によって、それ自身を跡形もなくしてしまう、という見事な流れ。

 

それから、同い年幼なじみの義姉妹三人組の関係だけでなく、主人公とその孫娘という年代差のある関係もまたこの作品の柱だろう。これら二つの縦糸と横糸によって「流れゆく時」は織られる。

 

ポルトガルに引っ越して現代的・西洋的なモードにかぶれた娘が、祖母の語りに対してあっけらかんとリアクションをとる様がとても良い。ふたりのあいだには年齢という時間的なギャップと、中国-ヨーロッパという空間的な断層の両方がある。

「三人ともすごく若くて何も知らないって感じ。いかにも中国っぽいんだよ」 p.252

年のわりに盈には知恵がついているとはいえ、これを理解するには若すぎる。憎しみは愛と同じように、理性から生まれるのではなく、ちょっとした無意識の力が働いて生まれるものだということを。 p.258

 

それから、時間の大胆な飛ばし方がすごい。四五十年あっさりとジャンプさせて先ほどまでの可憐な少女は孫娘を持つ「おばあちゃん」になっているし、二人の初めての子供を生まれた時から一気に十六歳まで飛ばすところもびっくりした。
大胆にあいだの歴史をカットすることでかえってこの短い小説のなかで彼女たちの人生の厚みを滲ませる手法とでも言おうか。

 

婚礼の日の朝、義姉妹の二人が化粧を手伝ってくれている間、思いがけず愛林は、昔写真屋が顔の向きを直そうと、長い指で軽くあごに触れたのを思い出した。大小ある照明の明るい光が、彼が上げた両腕に遮られたときの一瞬の寒気を、目を閉じれば感じられそうだった。 p.248

ここの明暗と温度感がノスタルジーのなかで湧き上がる描写すごくすき

 

・記念

この子は家内とは違う、と男は思った。彼は、仕事先から配給された一ヶ月分のコンドームが切れたときのことを覚えている。工作単位で職員に頼んでくれと妻にせがんだのだが、彼女はそれを男の人に頼むぐらいなら死んだほうがましだと泣きながら言っていた。いまとなっては自分も死んだほうがいい、と彼は思った。 p.267

おそらくこの短篇集でいちばん短い話。妻に先立たれた老いた男と若い女(とやや老いた女)という人物設定はいつも通りだが、若い女側をメインにして締めくくるのは筆者としては珍しめかも。
若者に付き纏うストーカー男性要素は「彼みたいな男」とも連関している。

結婚はいまだに世俗的なことをありがたがる人たちのもの、と彼女は答え、自分の両親にもそう言った。彼女は若者の世話をしに行って、歴史や哲学や人間の宿命に関する長い独白に耳を傾けた。同じことを繰り返し言っていることに気づいても、それをあげつらうことはしなかったし、寝室に彼女がいることをどう思っているのか訊きもしなかった。もしかすると家具にうまく溶けこんでいたのかもしれないが、それでも誰かの人生がいい家具一つで奇跡的に救われることだってあるかもしれない。 p.265

いい家具!!

 

 

 

・訳者あとがき

イーユン・リーは約24歳で北京大学を卒業して、アメリカの大学の修士課程に入っている。
訳者あとがきに載っているイーユン・リーのインタビューで「自分の著作が読者にどんな影響を与えるといいと思いますか」との問いへの答えがとても良い。

本がパーティーの出席者みたいなものだとしたら、私の本は見目麗しいわけでも、にぎやかなわけでも、風変わりなわけでもありません。また、読者に相手にされないほど軽薄なわけでも、真実に対して弱腰なわけでもないといいですね。読者は、私の本と対話をすることができると思うんです──公平に、そして正直に、登場人物たちに同意したりしなかったりすることができるんです。 p.302

 

リーによれば、一人称で語るときには誰に向かって語っているのかわかっていなければならない。つまり、聞き手のことを知らなければ語れない。だから一人称で語るのは難しいのだが、「優しさ」の場合は、リーの頭の中で語り手の末言がトレヴァーの作品の語り手ハリーに向かって語りかけているのだそうだ。 p.304

へ〜〜 これはおもしろいな。自分の書いた物語が、自分の愛する作家の物語と語り合う、という旨をこのインタビュー引用の序盤で語っているが、具体的に一人称小説ではこういうことなのか。国籍も時代も地理もまったく違う作家同士の作品がこのように「語り合う」イメージはいち読者・文学好きとしてワクワクしてくる。

教師でもあるリーは、創作を学ぶ学生たちにも、たくさんの小説を読んで自分の作品が語りかける作家を一人見つけるようにアドバイスしているそうだ。リーの場合はそれがトレヴァーなのだ。 p.303

自分にとってこうした作家はいるだろうか。魂の伴侶となるような。

えっ、「流れゆく時」は実際に父の同僚のエピソードを元ネタにしているのか・・・小説よりも奇なってんな〜

松田青子さんの解説(というか紹介文)も短いけど良かった。
「黄金の少年、エメラルドの少女」を読み返したが、やっぱり「優しさ」だけじゃなくこれもとんでもない傑作だ・・・ ただ最後の3文はやはり要らないと個人的には思う。書きすぎている。

『黄金の少年、エメラルドの少女』、この短篇集が文庫で簡単に手に入って読むことが出来るというのは本当に素晴らしいことだと思う。河出書房新社、ありがとうな。訳者の篠森ゆりこさん、ありがとうございます。

U2を聴きながら書いた表題作を含む第一短編集『千年の祈り』を読むのは確定として、長篇がいまは3冊か4冊くらいでてると思うけど、どれがいちばん評判良いのか情報がほしい。息子の自殺をきっかけで書いた3作目はそれだけで重そうで気が引ける……

トレヴァーもいい加減よみたいですね。(といって何年が経ったろう)

 

 

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

 

「冬のショパン