「マジック・フォー・ビギナーズ」ケリー・リンク

 

 

 

数年前に、今はなき地元の駅前大型書店で購入してからずっと積んでいたのを、知人の度重なる激推しもあり、ようやく表題作を読んだ。

 


・「マジック・フォー・ビギナーズ」

まだ10ページ読んだだけだが、上手すぎる。ずっと面白くて、それが逆に胃もたれするというか、気持ち悪くなってきた。現代アメリカ文学らしいユーモアとトーンがこれ以上ないほど洗練された形でずっと披露されている。ソーンダーズをもっと洗練させた感じ。洗練されすぎててむせそう。もういいよ……となる。

なんか、1周回ってテンション上がらないんだよな。これを読む前より読んだ後のほうが、自分にとって世界がつまらないものになっていそう。「こんな面白いフィクションを経験してしまったら、現実世界なんて退屈きわまりない!」とかそういうことじゃあなくて、こうした小説が存在することも許容してしまう「世界」に対する失望感。自分でも何言ってるのかわからない。

 

基本的にすべての文が「狙って」いて、その狙いを外していない。一文一文がうまい。だから息抜きがない。

素人でも書けそうな、特になんでもないフラットで凡庸な文が適度にあることって大事だなぁと思う。「キメ」の文はここぞというところで来るから決まるのであって、ずっとキメの文が続くのはしんどい。柴田元幸さんの訳の巧さも確実に影響しているだろう。

 

具体的に挙げておく。

これまで一週間半のあいだ、ジェレミーは母親が何を心配しているのか知るのを避けてきた。頑張れば、物事を知らずに済ませるのは難しくない。楽隊の練習もあるし。平日は寝坊して朝食の会話を排除したし、夜は望遠鏡を持って屋根にのぼって星を見て火星を見る。母親は高所恐怖症なのだ。彼女はLA育ちである。 p.327

ずっと上手いのだけれど、特に「楽隊の練習もあるし」と最後の「彼女はLA育ちである」というような短文を挿入してこれでもかと追撃してくるのが「あ〜〜もうやめてぇ〜〜〜」となる。

 

タリスが玄関のドアを開けてくれる。ジェレミーを見てニヤッと笑うが、いままで彼女も泣いていたことがジェレミーにはわかる。着ているTシャツには〈あたしサイコーにゴスだからウンコの代わりにちっちゃな吸血鬼出すの〉と書いてある。 p.330

これで終わらずにこの次の段落でさらに畳み掛けてくる。(省略)

 

しかし、僕はコルタサルの小説なんかにも、「一文一文が洗練されていて面白い」と言っているのであって、ケリー・リンクと何が違うの?と問われたら両者の違いをうまく答えられるだろうか。「アメリカ文学か否か」はやはり大きいか。・・・結局のところ、アメリカ文学特有の想像力やシニカルな技巧が苦手なだけでは??

 

「じゃあれがフォックスね?」とエイミーが言う。誰も彼女に黙れとは言わない。言ったって仕方がないのだ。エイミーは心が広く、口はもっと広い。雨が降れば、エイミーは舗道から芋虫を救い出す。秘密を持つことに飽きたら、誰もがエイミーに打ちあける。 p.334

「心が広く、口はもっと広い」まではわかるが、心の広さの例示として「舗道から芋虫を救い出す」て!

 

タリスはキッチンにいて、ヴェルヴィータ・ピクルスサンドを作っている。
「で、どう思った?」とジェレミーは言う。趣味みたいなものだ、タリスに喋らせようとするのは。趣味より無意味だけど。「フォックス、ほんとに死んだのかな?」 p.337

このあと「無意味」をさらに繋げてくる。

 

目録の引出しに縛りつけられた、血まみれの力ない身で美しい頭部をだらんと垂らしているフォックスをプリンス・ウィングは置き去りにし、ハクション、とくしゃみをして(剣の戦いアレルギーなのだ)書架のなかへ立ち去った。 p.344

くしゃみまではまだわかるが、「剣の戦いアレルギー」て!

 

大喜利力というのだろうか。発想の精度がヤバい。個人的には、文学の筆力において大喜利力はとても重要なパラメータだと思うが、しかし、「文学力」なるもの(なんだそれ!)があると仮定したときに、ある地点までは大喜利力と文学力はともに手を取り合って美しく並走していくものの、最終的には2つの線が離れていく様子を想像する。つまり、大喜利力だけではたどり着けない文学の境地があるのだ。

現代アメリカ文学の最重要作家といわれるレジェンドの面々──ドン・デリーロトマス・ピンチョン、あるいはもう少し若い世代でジョナサン・フランゼンなど(あるいは短編作家ならイーユン・リーや(カナダだけど)アリス・マンローや(アイルランドだけど)ウィリアム・トレヴァーなど)──こうしたメンツにケリー・リンクが並び立てられることがなく、むしろSFやファンタジーといったジャンル文学の枠組みで積極的に評価される作家、というのは本作を読んでいるだけでもすごく納得できる。

むろん、ジャンル文芸よりも純な文学のほうが偉いわけではない。ケリー・リンクがもっとも上手い作家のひとりであることは確かだ。しかし、文学の頂点を取るのに欠けているのは何だろう?社会批評性とか?他の作品を読まないことには断言はできないが、ケリー・リンクの筆致は、あまりにもエモく、あまりにもキャッチーで、あまりにも面白すぎる。

 

『図書館』には定期的なスケジュールもないし、クレジットも出ないし、時には科白すらない。ある回などは、カード目録の一番上の引出しのなかで何もかもが起き、すべてはモールス信号で伝えられ、それに字幕がついている。それだけ。我こそは『図書館』の生みの親、と名乗り出た人物は一人もいない。俳優を誰かがインタビューしたこともないし、誰かがセットにひょっこり迷い込んだことも、偶然撮影スタッフに出会ったり脚本を発見したりしたこともないが、あるドキュメンタリー・タッチの回では俳優たちが撮影スタッフを撮影した。 pp.349-350

 

ジェレミーの母親は孤児である。母さんは野生に返った無声映画スターたちに育てられたんだよ、と父親は言っているし、たしかにハロルド・ロイドの映画のヒロインみたいな見かけではある。くしゃくしゃっと乱れた感じが魅力的で、たったいま線路に縛りつけられたか、たったいま線路からほどいてもらったかみたいに見える。 p.354

2文目ですでにノックアウトされているのに、3文目での死体蹴りがえげつない。どうやったら「たったいま線路に縛りつけられたか、たったいま線路からほどいてもらったかみたい」って比喩が出てくるんだよ


ケリー・リンクが短編をメインとする作家なのはすごく合点がいく。この超絶に上手い文章をずっと続けて長編を書くことは──ケリー・リンクなら絶対にできるだろう。だからこそ長編には向いていない。書けてしまうから。

 

「エリザベスが僕に恋してるの?」と彼は言う。主義として、カールの言うことはいっさい信じないと決めている。でも本に書いてあるのなら本当かもしれない。 p.360

現実と夢/虚構の倒錯、というのが技巧の水準でも、そして主題の水準でも酷使されている。
他にも、逆のこと(倒錯的なこと)を言って修辞を付けている箇所は多い。

 

はじめの20ページくらいは文章の質に引いてきたが、次第に慣れて、素直にヤバさを堪能できるようになってきた。やっぱすげえわ。

 

「母さん、そんなのみんな嫌いでしょ」とジェレミーは言う。
「まあ好みじゃないわね。今夜みんな、いつ来るの?」
「八時ごろ。母さんも仮装するの?」
「そんな必要ないわよ。あたしは図書館員なのよ、忘れた?」 p.378

 

「そうかあ」ジェレミーは言う。「ひょっとして何か悲しい秘密があるのかなって思ってたよ。昔はどもりだったとか」。でも秘密は秘密を持てない。秘密であるだけだ。 p.388

 

大喜利的に無節操にばら撒いたキテレツな設定要素を、のちにことごとく拾ってはストーリー上で再利用していくのまで上手すぎる。これはもはや伏線ではない。ケリー・リンクほどの技量の持ち主になると、どれだけ後先考えずにアイデアを放り込みまくっても、あとから完璧な形で「回収」できるのだ。いや、実際にはものすごく練られているのだろうけれど、読者にそうは思わせないほどのハチャメチャっぷりと豪腕。


電話機/電話ボックスが重要モチーフだし、2人の女の子を二股する少年が主人公だし、実質、『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』では?

ミツバチのささやき』が真面目にオマージュ元なのはわかった。

 

うおああ〜〜〜おわった〜〜〜。やっぱり父親のホラー小説の体裁で幕切れか〜〜〜。こわい〜〜〜〜暗示的〜〜〜

そしてあんまり好みじゃなかった〜〜〜ホラー調にしても予想してたのと違った。いや自分の予想から外れるのなんて当たり前なんだけど、初見ではうーーん……ってかんじ。

 

てか、最初っからジェレミーたちはテレビ番組『図書館』の登場人物であると言及されているのか。フォックスたちが登場する『図書館』よりは1つメタな位相の別のテレビ番組(話のなかで『図書館』が作中作として出てくる)の登場人物かと思ってた。

読者のいる現実
 →ジェレミーたちのいるテレビ番組
  →フォックスたちのいるテレビ番組『図書館』

という3層構造だと勘違いしていた。フツーに2層構造で、本作に出てくるテレビ番組は『図書館』だけで、その上で『図書館』を基準にしたベタ存在とメタ存在が入り混じって溶け合う、というプロットなのね。よりフクザツな感じで勘違いしていたので、余計なことを色々と考えてしまっていた。

 

とりあえず、自分は当然ながらタリスより断然エリザベス派です!!!と書いておこう。

 

本・図書館とテレビ番組、(ホラー)小説、夢、虚構、友情、恋、親子愛、少年時代、ノスタルジー・・・etc.

特にオタクを自認する人間は刺さる可能性が高いと思うが、このようによりどりみどりなモチーフがどれも万人向けできわめて完成度が高い。よくばりセット。
こういう小説を中高生の頃に読んでしまったら(難解ではないので十分に読めるだろう)、その後の読書人生が狂ってしまうのではないか? ぜひ全国の中学校&高等学校に置いてほしい。

 

さて、最後まで読み終わったわけだが、これを読む前よりも、世界はつまらなく映っているだろうか? うーん・・・そうでもなさそう?

 

 

 

【22/1/2 追記】

akosmismus.hatenadiary.com

尊敬する読書家の、以前から読みたいと思っていた本作の書評を読んだ。はじめは、登場人物のメタファーを読み解いていったり、語源によってその解釈の信頼を補足したりと、わたしが苦手な「考察」──YouTubeのボカロ曲のコメント欄で繰り広げられているような──と果たして何が違うの?と訝しみながら読んでいったが、最後までたどり着くと、ひたすらに「やば〜〜」と感嘆の息しか告げなくなってしまった。こういう記事を1つでも書けたらもう人生は あがり でいいんじゃないかと凡庸なるわたしは思うわけだが、こういう記事を書けるひとは、もっと先へと進んでいくのだろう。

作中の『図書館』の扱いについて勘違いしていた部分も、これを読むことによってかなり整理された気がする。語り手についても、かなり独特で狙ってるな〜〜というフワフワとした印象しか抱いていなかったものに、ばちっと〈正解〉を叩きつけられた思いがした。

現実とフィクションの積極的な混同というのはいかにもオタク好みのテーマだし、自分がより大きな世界=フィクションのなかの登場人物のように振る舞う、という感覚はかなり共感できる。

そして、本小説がテレビ番組の実況の体裁をとるために現在時制を採用している、という点が特に刺さった。「読書実況」と称して本ブログを書いている身としては。本作の2つの作中作要素である「小説」と「テレビ番組」がこのように結びついていたのだと感動した。

この書評を読んで、「マジック・フォー・ビギナーズ」は紛れもない傑作であり、かつ自分にとっても重大な意味を持ち得る作品であると確信したが、しかし、初読時の、楽しめただけではない印象もまた大切にしたい。

 

あるいは、YouTubeのコメント欄の「考察」にも、積極的に批評としての価値付けの余地を認めていかなければもう時代に置いていかれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

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