「スペシャリストの帽子」「ザ・ホルトラク」ケリー・リンク

 

 

 

『マジック・フォー・ビギナーズ』の表題作しかまだ読んでいないが、中古で注文した第一短編集『スペシャリストの帽子』が届いたので、こちらの表題作も読んでしまった。

 

 


スペシャリストの帽子

煙突の中からだと、すべてはとても心地よく平和に夢のように見えて、少しのあいだ、彼女はもう〈死人〉にならなくてよくなったらいいのにと思った。しかし、たしかに〈死人〉になるほうが安全だ。 p.100

 

相変わらず文章に細かなフックを詰め込む技術がすごいのだけれど、「マジック・フォー・ビギナーズ」に比べればまだ過剰さは控えめで、平坦/冗長な「息抜き」部分もあるのでウンザリすることはない。

 

夏、子供たちが主人公、血縁者の死の影、ホラー風味など、「マジック・フォー・ビギナーズ」と共通する要素がたくさんあった。あちらはホラー小説やTV番組が作中作(メタフィクション)要素としてあったが、こちらは詩(あるいは捕鯨のための言葉)である。あと、本当に『ミツバチのささやき』みたいなのが好きなんだな・・・と思った。こっちは、人里離れた古い洋館に幼い姉妹が暮らす──という設定からして更に寄せにいっている。"一線を越える" のもそう。

 

暖炉に顔を突っ込むと、川のように湿った空気が上に流れてくるのがわかる。煙道は古めかしく、すすけて湿り気のある臭いがして、川の石ころのようだ。 p.92

「川のように湿った空気」という一文目で、煙道≒川 という(わりかし理解のしやすい)比喩を持ち込んでいるのに、さらに「川の石ころのようだ」と次の文で被せに行っている。新しい比喩やアイデアを投入せずに、最初の想像力を少しだけ掘り下げる。こういう点が、ある種冗長で、「過剰さは控えめ」だと感じる。これくらいが丁度いい。

 

ラッシュは十九世紀から二十世紀への変わり目にここで暮らした人物で、十三歳のときに家出して海に逃げ、三十八歳のときに戻ってきた。結婚して一人の子をもうけ、下手くそでだれにも知られていない詩を三冊分書き、さらに下手くそでさらにだれにも知られていない小説『窓越しに私を見つめている者』を書いてから一九〇七年にふたたび姿を消し、今度は永久に戻ってこなかった。サマンサとクレアの父親によれば、詩のいくつかは実際とても面白く読めるし、小説は少なくともあまり長くないらしい。 p.89

くそおもしろ文章。とくにオチが完璧
『窓越しに私を見つめている者』というタイトルも大喜利として良いとこ突いてんな〜〜と感心したが、これは終盤で回収されてしまうのでやや残念。伏線じゃなくて単なる大喜利のままにしてほしかった。

 

コースラクさんは双子を見分けられる。たとえ二人の父親にできないときでも。クレアの瞳は猫の毛のような灰色で、サマンサの瞳は雨降りのときの海のような灰色なのだそうだ。 p.91

こういう直喩のセンスってどうやったら身につくんかな〜〜〜 しかもこれも後に何度も言及し直されるし。何気ない描写でも絶対にあとで活かす技術と執念が特徴的
瞳の色のほかにも、姉クレアの靴(ひも)の描写も、はじめは何気なく描かれ、数行/数ページ後で印象的にリフレインされていく。

 

サマンサは考え事ができる時間があったときに(今では四六時中考え事ができる時間なのだが)、今の自分が十歳と十一歳のあいだに漠然とはまりこみ、クレアとベビーシッターと一緒に身動きが取れなくなっているのに気づき、かすかな痛みを感じた。彼女はこのことをよく考えてみる。数字の10は丸くて愛嬌があって、ビーチボールみたいだけれど、全体として楽な年ではなかった。11はどんな年になるのだろう。もっと鋭くて、たぶん針みたいだ。 pp.107-108

くそうま文章(段落)

 

不穏な感じの奇想短編を得意とするアメリカ作家といえばシャーリイ・ジャクスンも連想する。(ここで共通項に「女流」も挙げていたらわたしの椅子の後ろに立つあなたによって喉元を掻っ切られ、今頃わたしはこうして記事を投稿できてはいなかった)

 

 

 

 

 

 

ところで、前回の「マジック・フォー・ビギナーズ」記事への反応を漁っていたら、以下のツイートを見つけた。

 

 

 

ので、『マジック・フォー・ビギナーズ』収録の「ザ・ホルトラク」を読んだ(情報提供感謝!)

 


ザ・ホルトラク

「コンビニは女性を必要としてるんだ、特にチャーリーみたいな女性を。彼女がお前に恋したとしても、俺は全然気にしないぜ」 p.67

 

 

お〜〜 これまで読んできた3編のうちでは、いちばん終わり方が好きだなあ。通り過ぎるのをただ呆然と眺めずに追いかけるのが良いね。何をやっているのかさっぱりわからないけれど。

 

やっぱり執筆年代があとの『マジック・フォー・ビギナーズ』収録作のほうが、『スペシャリストの帽子』の短編よりも、さらにフックと要素の密度が高いと思う。コンビニ×ゾンビ×三角関係×パジャマ×CIA×犬×カナダ×トルコ...… 50ページの短編小説にしては要素が過剰すぎる。カオスなんだけど、それらをやたらめったらに思いつくまま詰め込んでいるように見えて、見事な手付きで捌いては繋げては……で、読んでいくうちに〈何か〉が見えてくるような、まとまった「小説」に仕立て上げている。

 

それに、上手い文章の密度でいったら「マジック・フォー・ビギナーズ」とさほど変わらないが、メインの登場人物が3人に絞られていたのと、整然と商品が並んだ深夜のコンビニ(道路を挟んでゾンビの国への深淵がある)というシチュエーション設定によってか、いい具合の過疎っぽさ・スカスカ感・空白があったように思われる。

 

終盤、バトゥが6時間近い睡眠から戻ってきてエリックと長めの問答をするくだり(「よし、じゃ話す。俺のパジャマはCIAの実験パジャマなんだ」)は、バトゥがあまりに説明しすぎてて、意味不明ではあるんだけど、深そうな、主題っぽい台詞を立て続けに吐くさまとかが、ちょっと残念だった。それだけに、結びが好みで嬉しかった。


TV番組、下手くそな詩ときて、今回の作中作要素は・・・パジャマ(の柄)!!! こういうセンスには本当に脱帽する。

 

「あんた、あたしの日記を着てるじゃないの」と女性は言った。声がどんどん高まり、絶叫になっていった。「それってあたしの字じゃない! それってあたしが十四のときにつけてた日記よ! ちゃんと鍵かけて、マットレスの下に隠して、誰にも見せなかったのに。誰も読まなかったのよ!」 p.68

想像したらめっちゃこわい。さすがに未来の(これから書く)日記ではないんだな……それはさすがに盛り過ぎか

 

それから、やっぱり〈死〉関連の要素も欠かしていない。ゾンビという直接的すぎる要素もあるが、不穏さを醸し出しているのは犬の安楽死のほうだろう。しかし、犬を殺すのは可哀想だし、仕事で殺さなくてはいけないチャーリーも可哀想、というトーンが一貫しており、そこだけ常識的すぎて、他のカオスで意味不明な部分と比べて浮いていた。そんなに安直な同情を醸し出さなくても良かったんじゃないか。まぁ犬の幽霊の描写はわけわかんなかったから、そこで辻褄を合わせてバランスをとっていたとも言えるかな。

 

あと、「カナダ」と「トルコ」という外国の名を2つも出して、そこでズラすのは上手いなぁ〜〜と思った。異国といえばすぐ傍にあるゾンビの国(聞こ見ゆる深淵)もあって、カナダ人とゾンビを並列させてズラしてるのに、そこにトルコ(語)が微妙な距離感をもって入ってくる構図がすごい。

 

チャーリーはギリシャ悲劇の登場人物みたいに見えた。エレクトラとか、カッサンドラとか。たったいま誰かが彼女を愛する都市に火を放ったみたいに見えた。 p.53

キレッキレの比喩で必ず実力を見せつけてくる作家。しかも例によって、この「火が放たれた都市」というモチーフはこれっきりではなく、後半でリフレインされる。もうあんたのやり口はわかってるんだよこっちは!!!

 

エリックは店内から出なかった。二人が何と言っているか聞こえるわけでもないのに、時おり顔を窓にあててみた。聞こえたとしても理解できないだろうな、と思った。二人の口が作る形は、トルコ語の単語みたいな形になっていた。小売の話をしているといいな、とエリックは思った。 p.57

「小売の話をしているといいな、とエリックは思った」なんて文が奇をてらわずに存在できる小説を書けるようになりたい人生だった・・・

 

菓子コーナーを「噛み応え」と「溶け具合」に従って再編することにバトゥは多大な時間を費やしていた。前の週には、すべての菓子の頭文字を左から右に読んでいってそれから下に降りていくと『アラバマ物語』の最初の一文になってそれからトルコ語の一行になるように並び替えた。月がどうこうという詩だった。 p.66

バトゥのトルコ語属性への言及も兼ねているのだろうけど、個人的には2文目以降は余計かなぁと思う。1文目が良すぎる。

 

はじめはほとんど本物の人間みたいに見えてだまされそうになるという点で、ゾンビはカナダ人に似ていた。 p.74

ここいちばん好き

 

「考えてもみろよ」とバトゥは言った。「あんなにたくさんの、幽霊犬がさ」。バトゥは尻をつけたまま通路を滑っていった。エリックもあとを追った。 p.82

ここ不意打ち食らった

 

 

というわけで、

"「ザ・ホルトラク」みたいな緩いやつの方が文体とのバランスが良くて読みやすいとは思う。" 

という貴重なご意見を頂いて読んだわけだが、たしかに少しは読みやすかったかな、と思う。しかし、文体の洗練度がまだそこまでではない前短編集の作品を先に読んでしまったために、本作と「マジック・フォー・ビギナーズ」の単純な比較が出来なくなってしまったのは申し訳ない。

 

 

ところで、本ブログは一日せいぜい数PVで安定している日陰ブログ(もともとそういう目的でnoteから移ってきた)だが、前回の「マジック・フォー・ビギナーズ」の記事は、当ブログ比ではかなり多くの人が閲覧し、上述ツイート以外にも、インターネット上で少しばかり言及して頂けた。みんなケリー・リンク好きなんだな〜〜と思った次第である。

考えてみれば、BFCの作品の幾つかは、かなりケリー・リンクの影響下にあると気づいた。

note.com

(大滝瓶太さんも推してるし、瓶太さん以外にもケリー・リンクの未邦訳作品の翻訳を個人的にやっている元相互フォロワーを知っている)

ケリリンの、フックを大量に仕込む文体はたしかに短編および掌編で威力を発揮するだろうし、何より「真似したくなる」タイプの文章だ。前回、ジョージ・ソーンダーズに似ていると書いたが、ソーンダーズが「いまアメリカの小説家志望の若者にもっとも模倣されている文体」であることを踏まえると、線で繋がっているかんじがする。

 

 

 

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