『踊る自由』大崎清夏

 

おとといの夜、雨が降りしきる新宿をわたしは歩いていた。わたしの隣にはお腹をすかせた人が歩いていて、わたしはその人に連れられるままに、ブックファーストへ向かった。地下の入口へ下る階段に、まるで映画の撮影をしているかのように、ダイナミックに寝そべった男女が顔を密着させていた。雨などまったく気にしていないか、むしろ雨だからこそその行為を決行しているかのどちらかであるようにわたしには思われた。わたしはぎょっとして階段に踏み出すのをためらったが、お腹をすかせた人は力強く階段を下っていった。その背中がわたしにはたいそう頼もしく見えた。

 

店内に入り、海外文学の棚の前にふたりで立った。そこは、以前わたしが別の人と待ち合わせたのと同じ場所だった。そのときと同じ赤いボストンバッグを床に置いて──これは迷惑な振る舞いである──わたしはもうひとりの人と本棚を眺め、そこに刺さっている本について言葉を交わしあった。まずラテンアメリカ文学の棚から──もうひとりの人がわたしに合わせてくれたのだと思われる──次第に左側の、ドイツ文学やフランス文学のほうへと移動していった。

 

一面の棚についてひととおり言葉をかわしあった後、右側の壁面の岩波文庫コーナーへ行き、似たようなことを繰り返して──「トリストラム・シャンディが無い!」「絶版ですよ」──「響きと怒りは他の文庫からも出ていたのでしたっけ」「文芸文庫にあります」「ああ、講談社文芸文庫」──そろそろ閉店時刻だからとレジへ向かう際に、先ほどの、海外文学の棚と向い合せになった棚に足が止まった。背後にあって気付いていなかったところに、ピンチョン全小説だとかなっちゃん全集だとかが並んでおり、その右側には詩歌のコーナーがあった。

 

海外文学の棚の前で言を弄していたときから、表紙や装丁の良し悪しが話題になっており、わたしは詩歌の棚に平積みされていた本に惹きつけられた。(いや、正確には表紙に惹かれたのではなく、その見慣れぬ出版社名──左右社──に引っかかったのだったかもしれない。)それはチョコレート色の地に金色の図形があしらわれた詩集だった。

 

 

踊る自由

 

踊るのが好きなわたしはタイトルにも惹かれないわけにはいかなかった。悔しいが。

 

 

以前から言っているように、最近のわたしは、小説の枠組みに入るか怪しいような、散文詩に近いぶっとんだ小説を好むと言いながらも詩をほとんど読んだことがないことに焦燥感を抱いている。わたしよりずっと詩にも詳しいもうひとりの人もそのことを知っているので、この本を手にとってパラパラめくり、「良さげ」と呟くわたしを好ましく見ていたのだろうと思う。

 

手にとってひらいて、最初の二篇「触って」「両性の合意」を読むというより見て、わたしは「これ良いかも」と呟いたのだった。もちろん、現代詩を1冊も通読したことのないわたしがここで発した「良いかも」とは、同時代の作品と比較したり、歴史的な文脈と照らし合わせたりしたのでも、またわたしの詩の好みに合いそうだということでもなく(どうして読んだこともないのに「詩の好み」を形成できるだろう)、もっと主観的かつ行為遂行的な理由──夜の、雨の、新宿の、他人に見られながら、わたしの目で見つけてわたしの手でとってひらいた、こうした出会い方をした一冊の詩集を買うことでしかわたしは詩を好きになれないのではないか、このタイミングを逃したらもうわたしは──によってわたしは「これ良いかも」と口に出したのだった。おそらく。そうでないよりは。

 

ということで、岩波文庫響きと怒り(上)』(日和って下巻は買わなかった)とともに、大崎清夏『踊る自由』をレジへ持っていき、有料の袋ごとリュックサックへいれて、コンビニおにぎりを食べて少しだけお腹が満たされた人と別れ、夜行バスに乗り込んだ。バスに揺られているあいだじゅう、足元にはリュックサックが──つまり、購入した詩集が──あった。早朝に帰宅し、デスクトップPCを起動してエロゲを少しやり(そういう気分だった)、就寝し、起床し、登校し、下校し、エロゲし、就寝し、起床して、買ってきた詩集を読み始めた。その翌日の午前中、さきほど、読み終えた。

 

詩集の内容の感想に入るまでにこれだけ前置きを書き連ねたことからわかるように、わたしは作者の名前もまったく知らないこの本に対して、詩の経験が乏しいわたしを豊穣な詩の世界へ導いてくれるような「運命の一冊」として期待していた節がある。(理想的な書店の使い方!こういうことがないからネット書店は、電子書籍はダメなんだ!)

 

白馬の王子様を待ち焦がれる可憐な淑女のそれとまったく同様に、わたしの期待は成就しなかった。ここですかさずわたしは幾つかのエクスキューズを挿入しなければならない。ひとつ、「期待はずれ」といっても字義通りのものではなく、ただわたしの期待が不当に高く非現実的過ぎただけで、決してつまらないものではなかった。ひとつ、そもそもわたしは詩集を読んだことがほとんど無いのだから、その良し悪しの判断や、もう少し穏当に言っても好き嫌いの判断をする能力がまだ十分に醸成されておらず、めくるめく感動を経験できないのはきわめて自然なことである。(数年前、海外文学を読み始めて最初の頃は読む本読む本ちっとも面白いと思えなかったことを思い出せ!)ここで訳知り顔の先達たちはひょっとすると次のように言うかもしれない。「詩を読むのに経験などいらない。誰しもが、あなた自身の感性に基づいて詩を楽しめばよい」などと。「訳知り顔の先達たち」の台詞としてこのようなハリボテしか生成できない点にわたしの詩の教養の無さを感じ取ってほしいのだが、自衛と同義の自虐は置いておいて、すべての建前や自分語りを乗り越えて、わたしはそろそろ詩の内容に踏み込まなければならない。

 

 

『踊る自由』は凝った装丁の詩集だ。普通の本にあるような表紙カバーが存在せず、本編の紙束と一体となっている。カバーの折返しのそではあるが、そこからカバーをめくろうとしても取り外せずに驚いた。

100ページ強のなかに「ふたりで」「ひとりで」「松浦佐用媛、舞い舞う」という3つの連作詩(であってるの?)が収録されている。それぞれの連作詩は10作の短い詩から成り立っている。10×3=30作 ≒ 100ページ

 

ひとつひとつの作品の感想を述べはしない。(述べられるほど特に思うことがない。読んでいる最中はあったのかもしれないが今はもう忘れてしまった。読中に書き残さないのも、直ちに再読をしないのも、ひとえにわたしの怠慢である。)

 

全体的に、わたしがなんとなく「現代詩ってこういうものなんだろうな」と想像していた現代詩っぽさ、ポエジー、意味のわからない部分とわかる部分の塩梅、抒情、エモさ、そうしたものは感じられた。そうしたものとしてしか感じられなかったのはわたしの怠慢か、控えめにいってもわたしの責任である。

 

ところどころ「良いな」「すごい!」と思う部分はあったと思う。ただ、それは一文や数行やせいぜい一段落しか続かずに、その詩を最後まで読むと、最初に感じた良さが霧散してしまうような印象を受けることがしばしばあった。

 

例えば、連作「ひとりで」より「プラネタリウムを辞める」の冒頭

 

Iさんがプラネタリウムを辞めた。雨の
   降っている日だった。毎朝いちばん早く起きた
 人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街でその日はわるい
ということになっていたけれど、雨はわるくないことを誰も
     わるくないことをIさんは知っていた。誰も
  わるくなく雨もわるくなくてもプラネタリウムの仕事を
辞めなくてはならなくなることもあるのだった。地球

(「地球」の後も次の行に文は続く。ぶつ切りを避けると全文引用することになってしまうので許してほしい)

 

この冒頭はなかなか好きだ。

「毎朝いちばん早く起きた人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街」という設定はチャームに溢れているし、「雨はわるくないことを誰もわるくないことをIさんは知っていた。」のようなそれ自体すこし意味が取りづらい攻めた言い回しの面白さが、文の途中の改行による読み手の意識のコントロールによってさらに高められていると感じた。

 

このあとの行で蠍座や傘、水滴といったモチーフが重ねられていき、冒頭の「Iさんがプラネタリウムを辞めた」に宿る詩的な世界はより鮮明になっていく。それが、わたしはあまり好ましく受け取ることが出来なかった。作品世界の解像度があがっていくことが、わたしのなかで、作品の魅力を高めることにつながらず、むしろ損なう方向に奉仕してしまっていた。つまり、簡単に言えば「最初のインパクトは良かったけど説明しすぎで落胆した」ということだ。

 

 

次の詩「図書館の完成を待つ」には更にその傾向があった。

 

胸の高鳴るような犯罪がもっと満ち溢れるべきだ
この街には。だから駅前に新しい図書館が建つのは
十分悦ばしいことだ、とHさんは思った。

 

この冒頭はやはり素晴らしい、と思った。

「胸の高鳴るような犯罪」が「もっと満ち溢れるべきだ」という一行目の清々しい痛快さが、犯罪とは結びつきにくい「図書館」という単語によって飛躍する。Hさんって一体どんな人物なんだ、と興味が湧く。

 

この詩の最後には、この冒頭3行がリフレインとして置かれている。冒頭の文とまったく同じなのに最後には違う意味合いとなって立ち現れる──当然リフレインにはそうした狙いがあるだろう。

しかし、わたしには、冒頭の3行のほうが、末尾の同じ3行よりもずっと魅力的に映った。冒頭3行のあとで、Hさんについて、この街の開発状況についての描写がある。それらの描写はこの作品世界を、わたしの頭のなかのイメージを広げ、より鮮明にして、物語を形作る。そして再び同じ3行が現れてこの詩は終わるわけだが、リフレインを読んでも「な〜んだ、そんなことか」と、まるでマジックの種明かしをされてしまったように、原初の興奮と鮮烈なイメージが色褪せてしまったかのように感じられた。「Hさんって一体どんな人物なんだ」と思いはしたが、その実、Hさんの正体について、わたしの頭の中のHさんのイメージについてそれ以上情報が加わることを望んでいなかったのかもしれないと、事後的に確認された。

 

 

これらは、要するに、文学作品のサイズの問題だ。小説でも似たようなことは頻繁にある。序盤はワクワクしていたけれど、読み進めると肩透かしを食らった。序盤で脳裏に焼き付いた作品世界のイメージと「違った」から落胆するのではなく、そもそも、それ以上イメージの解像度が上がることを望んでいない、曖昧なままで、多義的なままで、理解不能なままでいい、そうした意識があるように思われる。重厚なストーリーテリングによって作品世界を練り上げる長編小説にはできないことが短編小説にはある。短く、描写や説明が満足になされない、そもそも「説明」する対象の輪郭や存在が危ういままに作品世界を閉じて完成させてしまえる崇高さ、自由さ。そうした感慨をわたしは詩にも求めているのかもしれない。

 

 

「ふたりで」収録の「照明論」も、さいしょの一段落がいちばん面白かった。

 

「ふたりで」の最後を飾る「東京」でも

いま、天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、私は砂漠にひとりでいる。

というフレーズが途中に出てきてから、最後に

天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、
朝が来る。

という段落で詩が(そして連作「ふたりで」自体が)終わる。

 最後にリフレインが来ると「あぁ、このフレーズ気に入ってるんだな……」と少し微笑ましくも気恥ずかしいむず痒い心持ちになってしまう。

 

 

結局、最後まで面白く読めた、あるいは最後まで読むことで面白いと思えた作品は、この詩集そのものの冒頭の「触って」「両性の合意」「遺棄現場」あたりかなぁと思う。「線画の泉」の不穏さもなかなか良い。

ちなみに、これら連作「ふたりで」を構成する詩篇たちは題名通りどれも「私」と「あなた」についての描写が続くわけだが、これらがどうしても女性同士の関係でしか想像できなかったのは百合オタクの悪いところだと思う。百合オタクにはなりたくないと思いながらも結局このような実地体験で自身のスティグマが嫌でも露呈してしまう。STY(そういうとこやぞ)

 

最後の連作「松浦佐用媛、舞い舞う」は10篇どれも「ま」から始まる単語が冠され、8行×23列のフォーマットの非常にコンセプチュアルな作品となっている。

ただ、これらはピンとこなかった。先ほどのように「最初良かったけど落胆した」とかですらなく、本当に何も引っかからないまま、「お、おぅ……」という感じで読み終えてしまった。まだこの詩を堪能できる感受性が身についていないようなので、レベルを上げて戻ってきたい。

 

 

 

否定的な感想をいろいろ書いてしまったことに日和って既防線をはっておくと、そもそも最後まで読めた時点でかなり好きだった、少なくとも途中で投げ出すほど苦手でも嫌いでもなかったことは確かだ。

「わかってしまうと面白くない」と言いつつ、本当に何も理解できなければ好きになりようがないという非常にずるいシステムをじぶんは抱えているのだなぁと強く感じた。

 

また、これも初心者ならではの感覚だろうが、自宅で詩を読んでいると、「詩を読んでいる自分」という状況を客観視して、その状況、その行為の世俗との隔絶感に唖然としてしまう。もっと詩を読むことが日常的な行為となれば、詩を世俗の対極にナイーブに対置するこうした振る舞いはしなくなるのだろう。

 

ともあれ、「人生初、書店で予備知識ゼロのままフィーリングで詩集を買う」実績を解除できたこと、その一冊目が本詩集であったことをとても嬉しく思う。

これはまぎれもなく、わたしの「運命の一冊」である。

 

 

 

踊る自由