『痴愚神礼賛』エラスムス(1511)
沓掛良彦 訳, 中公文庫, 2014年刊行
2023/3/26~4/1(7日間)
『ブラス・クーバスの死後の回想』本文にて言及されていた風刺文学の大古典ということで初めて知り興味を持ったのでAmazonで買った。1年ほど積んでいたのをこの度なんとなく読み始めた。
3/26(日) ~p.31
そもそも本当のところ、自分で自分を褒めるような人物を、大馬鹿者で傲慢無礼だと言い立てるような、あの賢人とかいう連中を、私は別に大したものと思ってはおりません。そりゃ、彼らに言わせれば馬鹿かもしれませんが、それこそがこの私に似つかわしいことと認めてもらいましょう。 p.22
えーと……「痴愚の女神」というのがそもそもギリシャ・ローマ神話などには存在しない、筆者エラスムスの創作であり、その痴愚女神に、痴愚女神(自分自身)を讃える頌歌(しょうか)を唄う……というのを、修辞学の練習演説文として戯れに書いた、という体裁の書物ってことか。
『ドン・キホーテ』でも思ったけど、この時代の文学って20世紀の前衛文学よりもよっぽど発想がぶっ飛んでるよなぁ。。逆に、最近のほうが、文学や小説というジャンルが固まってきて、そういう変な体裁を取らずとも文芸作品が受け入れられる時代になっている、ということでもあるのだろうけれど。
もともと、神様や偉大な人を讃える「頌歌」という歌-詩のジャンルがあって、その頌歌のなかで、神さまが自分で自分を讃えるものを書こうという着想が見事。自分で自分をたたえるのが一番似合うような存在として、「痴愚の神」を設定したということかな。女神だというのも良い。
さて本題に戻りましょう、紳士のみなさま。私の名前は御存知ですね。みなさまには、どんな敬称をおつけしたらよろしいかしら? 大馬鹿者の、とでも申し上げるほかありませんね。痴愚女神が、自分に帰依してくださる方々を呼ぶのに、これよりも名誉ある呼び名がありえましょうか。 p.27
訳者あとがきで2004年出版の大出訳がクソdisられてるの面白い。これがあまりに酷い訳だったから、筆者はエラスムス研究者でもないのに居ても立ってもいられずにこの訳業を始めたらしい。
ここに書かれている不備の指摘が本当なら、マジでどれだけ酷いことか。たま~に訳者・専門家同士でのバトルが公にされることがあるから海外文学は面白い。
3/27月 p.32~53
やべぇ女性差別ネタを滔々と語るが、あくまで痴愚女神にあえて言わせているだけであり、エラスムス本人の思想は真反対らしい。このように、作中でこき下ろす対象を実際には愛している、という反語的な姿勢に貫かれているなのだが・・・ズルくね? やっぱこの体裁のアイデアの勝利なとこはある。女性差別ネタに関しては、それを女神が語っているのも効いてきていてますますズルい。
3/28火 p.54〜96
そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目にあわねばならないのか、どの神が怒りにまかせて、人間たちをこのような悲惨な状況のうちに生まれるよう仕向けたのか、今お話しするわけにはまいりません。(中略)まったくのところ、生きてゆくことへの嫌悪感に堪えかねて、みずから命を絶った人はどんな人でしょう? 叡智に最も近いところにいる人たちではないでしょうか? p.78
(前略)……生きていなければならない理由が乏しければ乏しいほど、生に執着するのです。
3/29水 〜p.124
3/30木 p.124〜164
現代ネット社会でもしばしば見る、こじつけアナグラム考察は中世のストア派の頃からあった歴史あるものなんだな・・・。
みんなはそれを聞いて驚き、ホラティウスの「このだらだら話はどこまで続くのかね」という詩句をつぶやき合っている人も何人かいましたよ。 p.162
150ページ弱読んで今のところ、
・作者(エラスムス)が讃えたいものを、痴愚女神の口で貶させることで反語的に讃える
・作者(エラスムス)が貶したいものを、痴愚女神の口で讃えさせることで反語的に貶す
・作者(エラスムス)が讃えたいものを、痴愚女神の口で讃えさせることで直接的に讃える
・作者(エラスムス)が貶したいものを、痴愚女神の口で貶させることで直接的に貶す
の4パターンのいずれかを、言及対象を渡り歩きながら延々とやっているだけで、流石にしょーじき退屈っすわ・・・ 痛快は痛快なんだけど、同じトーンの痛快さがずーっと続くので摩耗してくる。
展開に起伏・緩急がないがゆえのキツさとは別に、「痴愚女神とかいうオリジナル神を創作して好き放題やってる割に、ただ作者のsageたいものをsageて、ageたいものをageてるだけじゃん」という次元のつまらなさがある。それこそが「好き放題」ってことだといえばそうなのだけれど、要は「文学」ではないんよな。作者と遊離した虚構の世界・価値観・人物が強度をもって立ち現れるのではなく、作者の傀儡が作者の思想を(直球か反語で)ペラペラと喋るのみ。
直球と反語を自由自在(恣意的)に使い分けられるのが「痴愚神」の真骨頂ではあるけれど、上に整理したように、例えば痴愚神が貶していたとして、それが直球なのか反語なのか、すなわち作品(=作者)としての真意は礼賛なのか批判なのか、というのが、けっきょく作者エラスムス本人の情報を知らないと読者には分からないようになっているがために、『痴愚神礼賛』という作品の自律性が心もとなく、それにともなって、せっかく創作した痴愚女神までもが、(本意は)どうとでも解釈できる、いくら意気揚々と論をぶったところで大して価値がないやつになってしまっている。
痴愚女神が反語しか喋らないならまだしも、「良い痴愚(狂気)」と「悪い痴愚(狂気)」のような杜撰な分類まで持ち出したりして、ふつうにエラスムスが嫌いな奴をそのまま直球でdisっているくだりも多いため、痴愚神というコンセプトが破綻している気もする。(コンセプトが破綻しているのも矛盾しているのも失敗しているのもぜ~んぶひっくるめてしょうもない「痴愚」だ!!!的な予防線を後だしでいくらでも忍ばせられるのもズルくてしょうもないし、このしょうもなさは「悪い」それだと言ってやりたい。)
上でわたしはしれっと作品と作者を等号で結んでしまったが、むろん常にこうしたナイーブな鑑賞態度を内面化しているわけではない。
ただ、本書には詳細な脚注が付いており、それをあるていど参照しながら読んでいると、「ここでエラスムスはあえて痴愚女神に○○をこき下ろさせていることに注意。作者はむしろ○○には肯定的だった」的なことが記されているのを幾度も目の当たりにするため、それまで痴愚女神のスピーチに素朴に「ええやん」と好意的に読んでいた自分が「間違い」(少なくとも愚か)であるという烙印を押され、気勢をそがれてしまう。
結果として、次第にこちらとしても「これは(裏と表)どっちなんだろう」という作者の「真意」を推し量りながら読むようになるのだ。だから、本書を文学作品として楽しめない元凶は作品本文というよりは訳・注釈あるいは自分の読み方にあるのかもしれない。(訳・注釈はとても丁寧で読み易く、ありがたいことに留意。それが逆に読書体験を損なっている可能性があるという皮肉ながら海外文学あるあるな事態。)
『痴愚神礼賛』は個人的には「文学」ではない、と書いたが、本作のおよそ100年後に発表された『ドン・キホーテ』が、いかに凄いのか、あれがいかに(じぶんのしっている)「文学」であるか、ということに今さら気付き始めている。あれが近代小説の始祖といわれるワケがようやく少しずつ身に染みてわかってきたかもしれない。
あるいは、現時点の自分の文学観が、いかに近代以降のものに縛られているかが垣間見えている瞬間でもある。
いやぁ、やっぱり古典を読むのは近現代小説を読むのとはまた違った意義がありますね! たとえつまらなくとも、「つまらなかった」ということ自体が大きな収穫たり得る。これは古典に限らず、そもそも自分にとっての(海外)文学全般にいえることだけど。(『罪と罰』を大学の講義で読んで面白さがさっぱりわからなかったことが、わたしが海外文学を読み始めるきっかけだったので。「面白かったからもっと読みたくなった」ではないことが極めて重要。「面白くなかったからもっと読みたくなった」だから。)
てか、『ドン・キホーテ』の名を出す前にまずラブレーがいるのか。直接的な影響を受けたというし。読んでみないことには始まらないが。。
3/31金 p.164~189
4/1土 p.190~225
おわり!!!
あれまあ、私としたことが、だいぶ前からわれを忘れて、埒外ヘト踏ミ出シテイルようですね。 p.224
ほんとだよ!
だいたい↑に書いたことに尽きるが、やはりエラスムスの人文主義神学者としての思想がほとんどそのまま痴愚女神の口から語られているため「思ってたのとちがう」というのが端的な読後感。
エラスムスの人文主義というのは、当時の腐敗した神学者や教会関係者、ストア派などの保守的なさまを徹底的に批判して、もっとちゃんと神を想って敬虔に生きろ!と声高に主張するものであり、また力強い反戦思想・平和思想なんかもあるため、ぜんぜん痴愚ではなく、むしろめちゃくちゃまっとうな、道徳の教科書のような作品になっていた。
『パンタグリュエル物語』や『ドン・キホーテ』、『トリストラム・シャンディ』そして『ブラス・クーバス』の源流となった大古典文学ということで、もっとめちゃくちゃで滑稽でわけわからんものを期待していたのだけれど・・・。 常識や倫理の側に堂々と与するものであり、いくら痴愚女神の語りの体裁を採っていたとしても、だからこそ、余計に幻滅してしまう内容だった。
訳者による「解説」
・人文主義の帝王エラスムス。16世紀はエラスムスの世紀と呼ばれるほどだった。そんなにか
・それなのに、最近(19世紀以降)はすっかり知名度が落ちて中世研究者からもろくに研究されてないのは、ひとえに、全著作をラテン語で書いたかららしい。16世紀当時はヨーロッパの知識人の共通言語であったラテン語が、近代になると廃れてしまい、逆に当時のヨーロッパのごく片田舎で話されていた一地方語である英語で書いたシェイクスピアや、母語フランス語で書いたラブレーやモンテーニュのほうが現代にまで読み継がれているという皮肉。
これはなかなか考えさせられる話やなぁ。いかに「文学」というものが言語に縛られて左右されている水物であるか。現在の主要言語以外のマイナー言語にも「古典」や「名作」がどれだけ存在して忘れ去られていることか。目に入るものしか見えないように、話せて読める言語のうちでしか「文学」として流通して広く長く読まれることがない。
やっぱり、英語やフランス語などの近現代の文学世界における覇権言語の重力場から出来るだけ逃れるように、もっと深く豊かな文学世界を生きていきたいな。(それをいったらラテンアメリカ文学のスペイン語(とポルトガル語)だって十分にメジャー・覇権言語ではあるのだけど。ポルトガル語をメジャー言語とするかマイナー言語とするかは観点によって揺れるだろうが。『「その他」の国の翻訳文学』にポルトガル語も入ってるが、単純な世界の話者人口でいったらブラジル人が多いから日本語よりも上位だしなぁ。)
また、エラスムスが母語ではないラテン語で執筆することを選んだ、というのも(近現代における言語越境・亡命作家などにも近い文脈で)興味がある。
・エラスムスがギリシャ語からそのタイトルを付けた親友トマス・モアの代表作『ユートピア』(1516)は、この『痴愚神礼賛』の合わせ鏡的な作品らしい。読むか……
・『対話集』(1518初版)は「エラスムスの作品の中では、これが文学者エラスムスの気質と文体を最も見事に発揮しており、また作品としての成熟度から言っても、間違いなく『痴愚神礼賛』を凌ぐものがある」らしい。じゃあ『痴愚神礼賛』だけ読んで文学者としてのエラスムスに不満を抱くのは不適切ってことか。。 こんなにハッキリ「『痴愚神礼賛』を凌ぐ」と言われてしまうと、手を出さざるをえないよな・・・
でも続けて「流麗で魅力的なラテン語で書かれた五九篇の対話は、まさに「人間百態」と言ってもいいものだが、その多くは硬直化し腐敗堕落していた当時の宗教界・カトリック社会に関する痛烈な風刺を本質としており、それだけに早くからこれに異端の臭いをかぎ取ったカトリック側から、幾度か禁書とされることとなった」p.326 とあり、やっぱり痴愚神礼賛と同じやん!と思ってしまう。
・へ~ 『痴愚神礼賛』などのエラスムスの著作が、ルターの宗教改革の起爆剤となったんだ。でも
行動の人として獅子吼(ししく)しつつ、鉄のこぶしを振るって一途に宗教改革へと驀進するルターに対し、その主張や信条には深く共感しながらも、あくまでカトリック体制内部での自発的な改革を望むエラスムスは、カトリック社会を打ち壊すその暴力的行動には賛同できなかったのである。エラスムスがひたすら願ったのは、かつての純潔無垢な福音書の精神に立ち返り、硬直化し桎梏(しっこく)と化したカトリック体制から本来のキリスト教を救い出し、その再建を図ることであって、カトリック教会を打ち倒すことではなかった。
それゆえ再三にわたってルター側から支持表明を懇望されても、非行動的な「観照の人」はついにそれに応じることはなかった。そのため、宗教改革運動が激化するにつれて、新教徒たちからは風見鶏、日和見主義者、曖昧主義の王様と揶揄され、『自由意志論』の上梓を機に、ルターから激しい攻撃を浴びるに至った。 pp.328-329
へぇ~~~ 面白!!! 当時の保守的なカトリック体制を内部から非難しまくっていたエラスムス自身が、その結果として最終的には改革に乗り切れない保守主義者として批判されてしまうという皮肉な事態……運命ですねぇ~~。まぁ、そもそもエラスムスがやっていることってキリスト教・聖書の原理主義であって、たまたま当時のカトリック体制が原理主義からはかけ離れていたから痛烈に批判していただけで、本来的には「過去に、原典に立ち返れ」な人だから、そりゃあぜんぶぶっ壊そうぜ!な革新派に賛同できるはずがないよなあ。
しかもそのあとの、改革派のみならずカトリックの守旧派からも弾劾され板挟みになって孤立していく顛末がなんとも可哀そう……親友トマス・モアもまた信条を貫いて王への反逆罪で死刑にされ、その翌年に後を追うようにして亡くなる……
「二人で一つの魂を持っていた」親友モアの非業の死は、すでに病床にあったエラスムスを打ちのめした。 p.332
エラスムスは友人モア(More)の名のラテン語形モルス(Morus)が、愚者を意味するギリシア語モーロス(Moros)に似ていることに気づき、そこからモーリア(Moria:痴愚)を、知恵の女神ミネルヴァの向こうを張って「痴愚女神」(Moria)という女神に仕立て上げ、そのしこ礼賛という形での頌詞(encomium)を書き、生来冗談好きであったモアを楽しませようと考えたのであった。愚かさとは最も無縁の賢者でありながら、皮肉にも「愚者」という名を持った友人モアに楽しんでもらおうと、「モア礼賛」、「モア頌」との意味をも込めて書かれたのが、この『痴愚神礼賛』なる作品なのである。 pp.334-335
エラ×モア尊い…… 実質ラブレターってことでしょ? T.T. ……
さて作者エラスムスの仮面をつけた姿であり、その代弁者の作品にほかならぬのがこの痴愚女神なのだが、彼女は架空の聴衆を前にして登場するなり、以下やたらにギリシア語を交えて滔々と弁舌をふるい、万人に恩恵を施していると自画自賛しつつ、次第に舌鋒を鋭くして、痛烈な諷刺へと転じてゆく。ホイジンガはこれを、「『痴愚神礼賛』は完璧であり、創造の衝動が霊感を受けた瞬間の作品である。聴衆に向かって語る演説者の姿は最後まで入神の技法をもって描かれている」と絶賛してやまないが、これはいささか過褒というものだろう。しばしば指摘されているように、キリスト教の本質にふれた最後の部分にいたると、キリスト教における痴愚の役割を説くことに熱心なあまり、この作品の妙味であった諷刺も消えて、痴愚女神に代わっていつの間にか作者エラスムスが顔をむき出しにしてしまい、大真面目に長広舌をふるっているのが見られる。
この一貫性の欠如は形式上の破綻であって、文学作品としての弱点となっていることは否めない。エラスムスはドラマ作家としては完璧ではなく、批評家精神が優っているということであろう。気がつけばいつの間にか痴愚女神を押しのけて素顔のエラスムスが顔を出し、「キリスト教は、全体として、痴愚とはなにほどか血脈を通じているところがあり、知恵とは相通じるところが極めて乏しいように思われます」などと聖書談義を繰り広げているのは興ざめではあるが、最初から最後までおもしろい文学作品というものは稀であるから、これも多少は我慢していただくほかはない。このあたりで巻を措くか、それとも最後までエラスムスの長広舌につきあうか、それは読者次第であろう。 pp.341-342
な~んだ。やっぱりわたしが上で書いたような文句・問題点を訳者や歴代の研究者も指摘/共有しているんだ。あ~よかった。最後の部分だけでなく、だいぶ序盤の頃からすでに「興ざめ」感はあったけど。
「最初から最後までおもしろい文学作品というものは稀である」←完全に同意。ほぼ皆無といってもいい。
