「ひかりごけ」武田泰淳

武田泰淳ひかりごけ」(1954)

 

新潮社『日本文学全集 33 武田泰淳』で読んだ。引用部のページ数もそこから。

 


羅臼ってなんか聞き覚えあるな、と思ってグーグルマップを開いたら、数年前に家族旅行でガッツリ行ったことある場所だった。あそこか〜〜〜道の駅で買い物をした覚えがある。
行ったことある場所の話だと俄然臨場感が出てきて良いよね

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羅臼町」に行ったマーク♥が付いていた。

 

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情景描写や人物描写の筆致が良い。好き

庭石を五つ六つつたって行くと、垣根がわりに積んだ薪の列の向うが、いきなり海でした。青黒く垂れ下ろうとする夜の幕を、夕焼の鮮烈な光が、横ざまに切り裂いている。国後島はなかば雲の黒にかくれて溶けているが、わずかに光を受けた部分は、明確に凹凸を浮き出している。塵芥棄て場の向うに引きあげられた漁船が四五隻、急角度に傾いて、そこにも鴉は黒くジッとしている。海峡はさすがに波だって、夕風は寒い。ただただ巨大な単純な黒と化そうとする、海峡の姿は、いかにも堅固、いかにも強力、そのため浜にさらされた船は、灰色の紙製のようにもろく、危なっかしく見えました。私の眼前にあるものは、「国境」であるよりもまず北方の海であり、九月の夜の海であり、黒々と変色することによって、音なきざわめきを猛々しく蔵した、多量の海水であり、海風でありました。 p.105下段

 

校長は背丈の高い、痩せた人、年は三十代でしょうが、やさしく恥ずかしそうな微笑をたえずたたえて、自然や人事に逆らうたちではなさそうでした。黄ばんだ皮膚に不精ひげをはやし、ひょろ長い古ズボンの脚に、粗末なズック靴を穿いている。国境の漁村の田舎校長という、自己の運命と役割を、冷静に見抜いて、ジタバタする代りに、悪気のない苦笑で、いくらか喜劇的に、その役割をうけとめている。何の警戒心も反感も起させない、おだやかではあるが陰気でない人物です。乱暴なバスの運転手や、緊張し切った村の助役さんとちがい、荒々しい自然のエネルギーが、彼の肉体だけよけて通ったようです。 p.106下段

 

相手が指し示した場所に目をやっても、苔は光りませんが、自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光かがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部に吸いこもうとしているようです。 p.108

 

 


なぜそこまで「人肉食」をタブー視するのかイマイチ理解ができないため、本筋のトーンに乗り切れない。
人肉食を扱った文学作品というと、サエール『孤児』や、ドノソ『別荘』などわりと思いつくが、これらのどれであっても、「人肉食をする=野蛮な存在」という扱われ方をしていた。
しかし、正直なところ、僕には何がそんなに「嘔き気を催す」のか分からない。直感的には殺人のほうが普通に悪いし怖い。
僕だって、別に人肉を食べたいわけではないし、極限状態で目の前に食べられる死体があったとしても、おそらく食べることはできないと思う。でもそれは、決して人肉食が文明人にとって殺人以上に犯してはならないタブーであるから──などという倫理道徳的な理由からではなくて、単に怖いから、人肉食なんて慣れていないから、というような消極的で凡庸な理由だと思う。
言ってしまえば、人肉を食べたくないのは、ゴキブリとかミミズなどの虫を食べたくないのと本質的には変わらない。あるいは糞便を食べたくないのと変わらない。これまでの食習慣で、文化として慣れていないから食べるのに躊躇する。
そして、飢餓状態において仮に食べてしまったとしても、それは虫や糞便を食べてしまったときと同じような嫌悪感を覚えるだろう。……いやもちろん、知人や身近な人間の肉を食べてしまったと想像すれば、それはなかなかにショッキングな出来事ではあろうが、それは人肉食自体への嫌悪ではなく、「親しい人間を食べた」ことへの嫌悪であろう。まったく見知らぬ他人の肉であれば、また違った印象になると思う。

僕がこんなにも人肉食をタブー視することに反発したくなるのは、おそらく人間中心主義への反発と関係している。なんで人間だけそんな特別視するんだ。誰だって生物を殺して食べて生きているじゃないか。
例えば、愛玩動物(ペット)を殺してその肉を食べることに拒否感を覚える人はたくさんいると思う。僕もペットは飼わないが拒否感を覚える。これと、人肉食への拒否感とは何が違うのか?僕は本質的に同じだと思う。自分に近い存在、親しい存在を食べることには拒否感を覚える、というだけの話だ。つまり、「人間」を食べることに拒否感を覚えているというわけではない。
僕は「自分は人間である」という種族意識?が薄いので、自分と同じ生物種というだけでそこまで「近い存在」には思えない。見知らぬ人間より、身近な愛玩動物とかのほうが食べるのに拒否感を覚える。そもそも自分は平和主義かつめちゃくちゃ意気地無しなので食べられない(バートルビーのように飢え死するのが理想)と思うが、それでも「人肉食なんてあり得ない」とは思えない。もしかしたら特定の状況でしてしまうことは全然あり得ると思う。人肉食と聞いただけでタブー視して、未開の蛮族だと思ってしまう人間のほうが僕には(想像力が貧困で)「未開人」だなぁと思う。

人間中心主義への反発、これはヴィーガンへの関心にも影響しているだろう。

あと創作物でよくある「これからはあいつもひとりの人間として扱おう」とか「傷つけ傷つけ合って互いを理解していく。それが人間だ」みたいな文脈での「人間」の使われ方も嫌いだ。

 

 

・・・・・・・・・

 

 


あ、いや、この作品自体が、上で滔々と語っていたような、「人肉食だけをタブー視する風潮へのアンチテーゼ」として書かれているっぽい。つまり、完全に自分側だ。まぁそれであっても、最初から人肉食をたいしてヤバいことだとは思っていない人間にとっては本作の衝撃は薄れてしまうが……

私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案いたしました。それは、「読む戯曲」という形式が、あまりリアリズムのきゅうくつさに縛られることなく、つまりあまり生まなましくないやり方で、読者それぞれの生活感情と、無数の路を通って、それとなく結びつくことができるからです。この上演不可能な「戯曲」の読者が、読者であると同時に、めいめい自己流の演出者になってくれるといいのですが。 

"上演不可能な「戯曲」"、好き!!!
舞台・演劇に慣れ親しんでいないのもあるし、リアリズムから解き放たれてこそ文学は面白い、的な雑なアレがあるので。
第1回ブンゲイファイトクラブ準決勝の金子玲介「小説教室」みたいな。

※こういう戯曲のことを「レーゼドラマ」って言うんだ!!知らんかった!!!

ja.wikipedia.org

 


読み手の演出法によらず、脚本がわりと「インテリ向きの喜劇」っぽくない??
コミカルかつシニカルなやり取り。すごく戯曲っぽい。

(舞台、ふたたび明るくなるまでに、三日間を経過す)

ここ最高

 

吹雪下の雪国での遭難、という極限状態の裏で、太平洋戦争末期というもう一つの極限状態が平常化して背景になっているのが興味深い。つまり本作は二重の極限状態で生きる人間たちを描いているんだけど、彼らにとって戦争とはもはや日常であり、飢餓で死ぬのは悲しいこと("犬死")だが、戦死するのは名誉なことである。今の我々からすれば戦死だって犬死じゃん、と思うのだけど、実際に戦時下で必死に生きていた軍人たちにとっては、餓死と戦死の差は文字通り命を賭してでも大切なものなんだなぁ。(ここで、名誉の戦死を望む彼らを「馬鹿だなぁ」と言ってしまった瞬間に、さっき自分が上で書いた、"人肉食をした人をすぐに「未開人」だと思う人間こそ愚かな「未開人」だ"、という文言がブーメランとして自分に刺さってしまう。他者への想像力を大事にしよう)

 


雪国での極限状態、「未開人」と我々──というテーマから、どうしても『ハルカの国 明治越冬編』を連想する。あれは人肉食ではないが、また別の「野蛮」な行いについての物語だから。そして、北国の人間の生の言葉によって語られる点も似ている。

note.com

自分が書いた『ハルカの国』含む《天狗の国シリーズ》おすすめ文章

 

 

 


ここでそうやってタイトル再回収するのか・・・・・・
前半の紀行文パートとの関係付けがうまい!


極限状態での人肉食を扱った物語(戯曲)として、あまりにも出来すぎている。各登場人物の配置、関係、あらゆる台詞がよく出来ている。仮に「ペキン事件」で唯一人生き残った船長が、本当に複数人の仲間の肉を食べていたのだとしても、船長はこんなに理知的に冷徹に人肉食について語れる人間ではなく、もっと焦燥した状態で行為に及んだと自分なら推測する。船長も西川も、あまりにも「キャラクター」として立ちすぎている。この戯曲はあまりにもフィクションの領域に足を踏み入れすぎている。
しかし、そんなことはとうに分かった上でこの戯曲は書かれている。船長の人物紹介に「読者が想像しうるかぎりの悪相の男」と書いてあることが象徴的だ。これはフィクショナルなギャグであり、そしてギャグのなかでも非常に切実な類のものだ。いくら人肉食をしてしまう人間だからって、彼の人相がそんなにはじめから悪いわけではない。それではギリシア悲劇のように、運命に導かれて人肉食に及んだかのようではないか。そんなはずはない。──でも、「ペキン事件」をきいた我々は、船長がはじめからものすごい極悪人であってくれたらいいなと願う。人肉食をする人間なんてはじめから狂っているのだと、そう考えればなんとか安心して、この事件を受け入れることができる。
つまり、この戯曲は、はじめから「リアル」を、事件の真相を克明に描くことを志向してなどおらず、むしろ、この事件を受容する我々の想像力そのものを克明に描くことを目的としているのだ。だから、「ひかりごけ」は戯曲ではなく、あくまで短編小説の体裁で、戯曲の前に紀行文パートが存在する。ある凄惨な事件を聞いて、本当はどうだったのかと想像する。そうした、人間がリアルを消化するためにどのようにフィクション化するのか、という物語を描くことこそが、この短編小説の目的だからだ。


《絶対に真相を知ることのできない出来事》への想像力を扱った文学作品としては、他にミルハウザー「夜の姉妹団」や、ボラーニョ『はるかな星』などが挙げられるか。

 

死ぬのを待ってるわけじゃねえべさ。ただ待ってるだけだわさ。待ってると、おめえが死ぬだよ。 p.133上段


人肉食を経た人間の背後に差す緑金色の光輪「ひかりごけ」、これも、実際にそうしたものが彼の後ろに出来ているのではなく、ト書きによって──つまり演出によって──照明が当てられている、というメタな情報がすごく重要だと感じる。戯曲としてやる意味がここにある。「ひかりごけ」は、他人が彼に照明を(そして視線を)向けたときにのみ背後に現れる《影》──幻影=虚構──である。このあたりの含意がすごい。

 

 


第二幕、法廷編か!!

導入部→凶行部→法廷部 という構成はまんまカミュ『異邦人』だ。

 

うわ〜〜〜〜〜・・・・・・
第一幕とは船長の俳優を変えるだけに留まらず、あの中学校校長の顔に酷似している、という指示書き・・・・・・
そうか〜〜あの執拗な人物描写はこのためだったんか〜〜〜。小説×戯曲ってこんなことができるんだな。おもしれ〜〜〜〜

また弁護人は、江戸時代の農民が、飢饉にさいして、互いに自分の子を他人の子と交換して、その肉を食べた例を挙げられたが、これは二百年以前の事実である。目撃者も証人も生存していない古記録にすぎない。したがって、本事件の判定の参考に資するに足りない。 p.136下段


わろた。皮肉が効いてるなぁ。この事件だって被告しか生存していない、参考に資するに足りない記録を元に議論しているというのに・・・・・。そして、これを数十年後の現代において今の私が読むことで、本当に「目撃者も証人も生存していない」、それどころか「虚構に過ぎない」事実をどう受容すべきか、という重層的な問題が立ち上がってくる。


おーーーすごい。
「私は我慢しています」というフレーズが、まるでバートルビーの「I would prefer not to(せずにすめばありがたいのですが)」並にキャッチーで格好いい、印象的な名台詞と化している。

 

 

おわり。
なるほど〜〜〜〜〜 すげ〜〜〜〜〜おもしれ〜〜〜〜
船長が裁判所で検事たちに対して「人肉を食ったことも、人に自分の肉を食われたこともない人間に裁かれたくはないのです」と発言するのは、人肉食という《一線》が人間を本質的に区分する境界であるとみなすようで、「誰だって人肉食をする可能性はあるし、人肉食をした人間が本質的に極悪人の犯罪者なわけではない」というテーマから反しているようでどうなんだ?と思っていた。が、ラストで、船長ではなく周りの人々の首の後に「ひかりごけ」が灯る演出で、あっなるほど〜と思い直した。
しかし、それはそれで、テーマを表現する演出としてやや露骨すぎない??という不満はあった。
さらに考えると、では、「光の輪のついた者には見えない」はずの光輪を、この戯曲の観客たる我々はなぜ見えているのか?という問題にぶち当たる。・・・それでは、いくら船長と検事たちに本質的な違いがない、と主張しても、その主張のためにとった演出そのものによって、その主張自体が矛盾してしまう。(この戯曲の登場人物と観客のあいだには本質的な差がある、すなわち、人間には本質的な差がある、というテーマの逆の結論を表現することになってしまう)
この「矛盾」を矛盾ではなく理解する方法はただひとつ、この戯曲はあくまでフィクションである、という事実を意識的に認めることだけだ。つまり、ラストシーンで船長に群がっていく人々の後ろの光の輪が私たちに見えるのは、これが戯曲であり、虚構の産物だからだ、ということにするのである。言ってしまえば当たり前なのだが、これは、私が先ほど述べた「この戯曲は、はじめから「リアル」を、事件の真相を克明に描くことを志向してなどおらず、むしろ、この事件を受容する我々の想像力そのものを克明に描くことを目的としている」という解釈にうまく合致するために非常に都合がいい。
そして、この作品が戯曲だけの形式ではなく、「前説」として、この戯曲よりも1つメタな立ち位置の紀行文を置いたのも、最後の光輪の演出をテーマと無矛盾に成立させるための選択である。

・・・と、このように、二転三転して、最終的には納得できる解釈を見つけられたので、本作はわたしにとって文句なしに大傑作です。

知識がないためロクに言及は出来なかったが、背景にある太平洋戦争下の軍国主義天皇陛下といった右翼的な要素に関しても、色々と掘り下げる余地はあるだろうと思った。

あと、「人肉食を経た人間とそうでない人間の境界(はあるのか?)」というテーマが、最初の紀行文パートの、羅臼からぼんやりと見える国後島の影というモチーフですでに準備されていたことにいまさら気付いた。よく出来てるなぁ〜〜〜

私の眼前にあるものは、「国境」であるよりもまず北方の海であり、九月の夜の海であり、黒々と変色することによって、音なきざわめきを猛々しく蔵した、多量の海水であり、海風でありました。 p.105下段

こうして紀行文パートを振り返ってみると、小説部分は小説らしく濃ゆい情景描写をガッツリ入れた文体で、戯曲はうってかわってキャラ立ちと会話劇のシニカルな面白さを前面に押し出した脚本と、見事にそれぞれの形式で書き分けていることがわかる。本作は構造的に、これらの2つのパートで雰囲気も文体も方向性も何もかもをガラッと変える必要がある。(そうでないと上述の「矛盾」が解消されない。)その要請に対して完璧に応えている・・・・・・職人芸や・・・・・・


自分にとって本作は、「描いている内容やテーマ自体はそれほど特筆すべきものでないが、それを描くにあたって選んだ形式上の挑戦(紀行文+戯曲)の英断さとその細部にいたるまでの完成度がめちゃくちゃ高い名作」といった立ち位置か。

「人肉食を経た人間とそうでない人間の境界は本当はないんじゃないの?」というテーマは正直言って「おっそうだな」というくらいありふれた、そこそこに凡庸な題材だと思う(しかもテーマを作中で露骨に言い過ぎだ)けど、それでも実際に読んでみるとこれが超面白いし素晴らしい。これぞ文学作品!単なる思想の説明文だったらしょうもなくなってしまうような題材にどこまで価値を生み出せるか。本作はそれにきわめて高いレベルで成功している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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余談ですが、本書↑は知床のホテルのロビーに併設されていたプチ図書館みたいな本棚から偶然出会ったものです。(そこで初めてミルハウザーを知った)

つまり、「夜の姉妹団」と「ひかりごけ」、ともに知床に所縁があり、《絶対に真相を知ることのできない出来事》のまわりをのたうち回る人々を描いた作品として、この両作がじぶんの私的な読書体験のなかで数年の間をおいて結びついたのです!

こうして、前に読んだ本と思わぬところで人生が繋がる瞬間ってかけがえのないものですよね