『わたしの物語』セサル・アイラ

おっ、アイラの小説にしては"ふつう"に事が運ぶな?と思っていたら数ページほどでテクストが意味不明というガーターに落ちた。
この人の文章はシュルレアリスムでも幻想文学でも不条理小説でもなく、怪文書
いやこれ『文学会議』収録の2作品よりぶっ飛んでるな!?

 

Aであり、かつAではない。という破綻した論理をそのまま小説に拡張した感じ。書いてる自分でも意味がわからない

 

「気が狂っている」などのメタ情報がある箇所はまだ良い。

 

小説がもし、「まったく想像もしていなかった地点まで読者を連れていく選手権」だとしたら、アイラのそれは世界で一番なんじゃないか

 

もしかして、僕はクソガキが出てくる話が好みなのかもしれない。
悪童日記、夜明け前のセレスティーノ、わたしを離さないで、クローディアの秘密……

 

意味がわからない小説を、「意味がわからん…意味がわからん…」と恍惚的に呟きながら読んでいる瞬間がいちばんたのしい。

その空間、その幸福感には色がありました。ピンクです。夕焼けのピンクです。大きくて、透明で、遠いピンク。のこのこ現れるなどという愚行をするところが、まるでわたしの人生そのものみたいなピンクでした。 pp.129-130
ちょっとこんなに凄い擬人法かつ直喩法みたことない。「色」に「のこのこ現れるなどという愚行をするところ」なんて形容をあてるか??


ていうか、この「セサル・アイラちゃん」は女の子だと自称しているけれど明らかに親や周りからは男の子だよね!?
別に性的倒錯とかLGBTとかそういう話ではなく、この物語の中で幾度も繰り返されるように、「女である」のと「男である」そのどちらでもあり、どちらでもないというだけの話。要は読者を翻弄し、自分自身を翻弄しているだけの話。
 

 

『文学会議』と『試練』を読んだときもめちゃくちゃ衝撃は受けたものだったが、大絶賛とまではいかないのは両者ともに最後のほうで似たような急転直下のオチの付け方をしてきて、それがパターン化されているようで不満だったからだ。
しかし本作は今のところそういう感じがせず、一人称の不安定な語りでのらりくらりと進んでいるからいっとう好きだ……

 

 

ってこれもやっぱし同じじゃねえか!!!ちくしょう!!!
このパターンの締め方さえ無ければ、最も好きな作家にアイラの名を挙げるのになぁ……
しかも今回はキッチリ冒頭の展開を回収するかたちで、その回収の仕方が馬鹿にされているかと思うほど類型的で"すわりがいい"。
本作を読んで思った。これはわざとだな。この人はむしろ自作が「傑作」になるのを避けるためにこのようなお決まりのパターンで終わらせているのだとしか思えない。大真面目にそう思う。
人を喰ったような、むしろ人を「喰う」文学をこそ目指して書いているとしか思えない。
くっそ〜〜〜〜やられた〜〜〜〜〜〜
いや、本当にこれがお決まりのパターンかは全作読んでみないとわかんないけど。
ただ、膨大な数の作品のほとんどが、短篇でも長篇でもない、本作くらいの中編であることも、「傑作」を意図的に避けていることのひとつの証左っぽいんだよな……
有名作家からこれだけ評価されていながら、文学賞を一度も獲ったことがない、というのもまさにそう。

 

訳者あとがきの原題解釈、聞きたくなかったな……それはいくらなんでも収まりが良すぎるだろう。もったいない。
でもアイラならそこまで考えれて「わざと」やりそうな気もする。アイツならやりかねない。。



途中で書いたことを訂正するなら、アイラの小説は「読者をまったく想像もつかない地点まで連れ去ったあとにしれっと元の地点まで猛烈なスピードで連れ戻す選手権」世界1位だ。出場者が彼しかいないからね。
 
 

文学会議 (新潮クレスト・ブックス)
セサル アイラ
新潮社
2015-10-30