『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』ヴェネディクト・エロフェーエフ

ヴェネディクト・エロフェーエフ『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』(1970)

 

2022/7/24-29(4日間)

 


7/24 日

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』で盛んに言及されていて興味を持った。〈文学の冒険〉シリーズのひとつなので名前だけは知っていた。
20世紀のロシア作家に少なくともV.エロフェーエフがふたりいると知った。もうひとりは『モスクワのかわいいひと』などの作者(存命)。


〜p.78

めっちゃおもしろい。すき。

アル中の駄目男の圧倒的なひとり語り小説。自分と会話しだしたり、天使を幻視して会話したり(天使の台詞だけフォントが異なり、その理由付けまで言及される)、読者(あんた達)に話しかけてきたりする。しかし実験小説・ポストモダン文学というよりは、それらすべてが「酔っているから」と、"酒" に収斂していくさまがすごい。酒飲まないから向いてないんじゃないかと心配していたが、今のところ全然そんなことはなく、酒に疎い自分でも虜になる魅力があるというのか、あるいはもともと自分好みの小説というのか。

「弱い」男の自分語り小説ではあるが、鼻につく感じはあまりしない。親しみの持てる弱さ、駄目さ。ところどころ、世間の奴らをこけにして自分を逆説的に肯定したり、被害者ぶって自己憐憫するくだりもあるが、またふらふらと「弱さ」に戻っていってしまうのか、愛すべきダメさが通底している。


7/27 水
p.78~134
ひとり語りばかりかと思ったら、ペトゥシキ行の列車内であった他の酔いどれ男連中との変な議論が始まった。
マジでわけわかんなくて最高だな……
お酒をいっさい飲まない自分でもここまで面白いんだから、酒好きのひとが読んだらどうなっちゃうのだろうか。


7/28 木
p.134-195
孫息子と祖父どちらもヤバすぎるし、それを周囲がスルーしてるのも最高
突然出てきた女の人も最高
ずっとわけわかんないことを言っている。なんなんだこれは。最高。

 

7/29 金
p.195-237 読了

 

国書の「文学の冒険」シリーズで存在だけは知っていたが、奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』で印象的に言及されていたので読んだ。〈アル中オトコのめくるめくひとり語り小説〉とでもいおうか、ずっと意味わかんないふざけたトーンで進む最高のブンガク。ロシア文学にも自分好みド真ん中のやつがあるんだ!という驚き。最後のオチまでアイラ『わたしの物語』だった。訳者あとがきでは様々な文化教養事項からの引用や聖書/キリスト教的な「読み」が解説されていたが、個人的にはまじでくだらねぇ人を喰っている文学の系譜として受容したい。

 

 

 

 

『真っ白いスカンクたちの館』レイナルド・アレナス

 

レイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(1980年)

 

 

2023/12/4〜12/28(計18日)

 

第一部 プロローグとエピローグ

12/4(月)  〜p.36

文章ヤバい。執拗な繰り返し。意識の流れというか、イメージの本流。ほぼ散文詩。『夜明け前のセレスティーノ』はこれほどではなかった覚えが。明らかにレサマがゲームチェンジャーだろう。主人公フォルトゥナートの一人称かと思ったら別の人物の語りやらが錯綜して(『めくるめく世界』的)、ストーリーはほとんど無い。
字組みも実験的。

でもかなりアレナスの実体験をそのまま入れ込んでもいる。中庭で自転車の輪を棒で回す死神。神に祈るお婆ちゃん、アメリカに行ってしまったお母さん。

これ最後まで読めるかなぁ

 

第二部 不平不満のある者たちが話す

12/5(火) p.36〜

ドルフィーナ好き。「背の高い、痩せた、横柄な少女」。主人公フォルトゥナート(=アレナス)の叔母にあたり、男に貰われず独身のまま歳を重ねたことに自暴自棄になり、風呂場に引きこもって裸で踊る。

 

・最初の苦悩

なぜなら、彼の中では、生じているのはできごとではなく、感じだったからだ。 p.52

まさにこの小説!

自伝に書いてあった幼年期の事柄がほとんどそのまんま描かれている。

 

12/6(水) p.56〜76

フォルトゥナートの幼年期から、いつの間にか祖父の若い頃の話に移っていた。親子3代の年代記、マジでアレナス版のパラディーソじゃん。自伝的小説。

祖父ポーロは中国人たちの共同体で暮らしていたが金を盗み逃げ出して土地を買い、祖母ハシンタと結婚する。男児が欲しかったが4人連続で娘が生まれる。食料品店を営む。娘たちは行き遅れたり夫に捨てられて子供を連れて出戻りしたりしていた。

  • ポーロとハシンタの子供4人
    長女アドルフィーナ 風呂場に閉じこもる
    次女オネリカ フォルトゥナートの母?
    三女セリア 自死してしまうエステルの母
    四女ディグナ モイセスと結婚してティコとアニシアをもうけるが夫に捨てられ出戻りする

 

長女アドルフィーナが風呂で焼身自殺しようとする? フォルトゥナートの現在時制に追いついた?

上に空白を空けているパートと、普通の版組の文章で人称が振り分けられてるのかと思ったが、統一的なルールとかはなさそう。とにかく錯綜している。語り。『めくるめく世界』では真骨頂をどれだけセーブしていたのかが分かる。

 

12/7(木) p.76〜92

夫に捨てられて娘エステルを自殺で亡くし、中庭の大切なアーモンドの木すら家族に切り倒されたセリアの悲痛な叫び。

ドルフィーナもそうだけど、虐げられた女性たちの迫真の語りが素晴らしいな。そこだけは読み易い。性癖なんだろう(自分の)

祖父ポーロのすさまじい家父長制の女性差別描写はラテンアメリカ文学だな〜って感じ。女性たちの語りとのコントラストがエグい。家父長制を内面化した男は自らをも破滅させていくというのが克明に描かれているとも読めるか。

 

13歳の頃のセリアの達観した不安感の描写がすごい。真昼。光。幸福の先に何があるというのだろう。世間並の「幸福」が得られなかったことからくる悔し紛れの言い訳として読むのは嫌だなと思ったけれど、13歳でおそらくまだ結婚しても娘エステルを産んでもいないのでその線は回避された。

こうした、かなり凄い語りのパートが随所に見られ、文章・構成の難解さと拮抗している。

…いや違った! セリアじゃなくてその娘エステルの語りだった。6月に自死する。なるほど13歳でこの先も抑圧された女性の規範的な生を送らなければならないことに絶望して死んだ感じか。もっと詩的に綴られていたけど。

 

今度は祖母ハシンタが育ってきた土地ペロナレスを夫に売られることを嘆いて神様に縋り付くくだり。やっぱり上空けパートが三人称で、通常パートが一人称かな。

 

12/8(金)  p.92〜126

四女ディグナがモイセスと結婚して家を出て暮らし出すが、やがて2人の子供と共に捨てられて実家に返される。

一家が引っ越してきたオルギンの町の描写。棺のような四角形の町。『夜になるまえに』と同じ。

フォルトゥナートは家の隣に建つグアバ菓子工場で働き始めるが、やがて工場は閉鎖する。幼少期に一度だけ父親に会ったエピソードもそのまんま。母オネリカはアメリカで働いて手紙を送ってくる。


12/11(月) p.122〜153

そしてフォルトゥナートは家を出る。少年期、子供時代のおわり。幻想の世界との別れ。「おやすみ」……。

 

・第二の苦悩

「馬」

時系列がよう分からん。前章の続き、家出したあと?
何回目かの、死者たちの生。地獄について、今について、男女2人の対話。戯曲みたいな。

四女ディグナが母ハシンタと神さまを幻視する。

彼女の息子ティコの語りは初。おばあちゃん=ハシンタを引き出しに閉じ込めて、脇の下から神さまを出させようとしている? 意味わからん

ハシンタとポーロ夫妻の愚痴罵倒語りは相変わらず。けだものたちの家。

光をネガティブなものとして位置付けがち?

 

12/12(火) p.153〜

死者たちの生 でのぼくとあたしは、フォルトゥナートとエステル?  違った。ディグナの子供、ティコとアニシアだった。

再びオネリカ(フォルトゥナートの母)がアメリカから送ってくる手紙のことを、今度はアドルフィーナ(オネリカの姉)視点で語る。

 

ストーリーらしきストーリーがいまだない。フォルトゥナートの家族のうわごと、嘆き、罵倒、幻想などをずっとぐるぐるしている。語られる内容や時系列もだいたい同じ。ここも繰り返し。

また、いうほどフォルトゥナートに主人公感はなく、家族それぞれの語りや焦点化で進むため、一家の話、という趣が強い。強いて言えばアドルフィーナがいちばんインパクトも出番もあるような気がする。


12/13(水) p.185〜216

・第三の苦悩

章の冒頭の文章が毎回いちばん抽象的で詩的で難解だと思う。ここは一応フォルトゥナートに焦点化しているのかな。

ん? フォルトゥナート死んだ? エステルと一緒に死者たちの生。時系列がなんもわからん。

裁縫の仕事を受けるアドルフィーナが、注文の多い女性客にブチギレてハサミをふり回す。だからハサミを彼女から奪ったとか言ってたのか。

「ぼくのママ」 オネリカの幼少期の語り。初?


12/14(金) p.217〜236

オネリカが妊娠してフォルトゥナートを産んで第3章が終わる。父親はミハエルっていう男でいいんだよな。

出産するまで家族の誰にも妊娠を気付かれないのわろた。

 

・第四の苦悩

今回の冒頭難解パートは、フォルトゥナートの夢。母とアドルフィーナと一緒に、幼少期に暮らした田舎の家を訪問する夢。

もう幸福な幼少期は終わってしまったんだという哀しみが本作には通底している。

 

12/15(金) p.237〜258

フォルトゥナート結局生きてるのか死んでるのか。家を出ていったのか出ていってないのか。家出した=(家族にとって)死んだ、ということ?

一人称と三人称の同一化。区別がない世界観

フォルトゥナートとエステル、死んだ者同士の生。

祭り(フェリア)での、ディグナとモイセスの出会い。唐突に1ページに1フレーズをデカく書く、そして何事もなかったように続く演出はセレスティーノでも見た。もうこの程度では驚かない。

家族への憎しみで全編が彩られている。何度も同じことが語られ、出口はない、絶望的な家族、けだものたちの生。

 

フォルトゥナートは娼婦ロリンに恋をして、彼女を主人公にした小説をいくつか書く。なんか分かりやすいキャラクターが出てきた!

てか、フォルトゥナートは同性愛者じゃなくて異性愛者なのか? だとしたらそれこそが本作最大の虚構ということになる。検閲のため?

またティコとアニシアの対話篇

 

12/18(月) p.258〜291

老婆と太陽、フォルトゥナートと月

フォルトゥナートは家出をしたのかしてないのか、死んだのか死んでないのか。これらふたつが共に曖昧にされることは、すなわちけだものたちの家=生(世界そのもの)であり、そこからの脱出の不/可能性を浮かび上がらせる。

1957年、バティスタ政権の弾圧と、革命反乱軍の対立が深まる。オルギンの町からも活気が消える。これまでは家族という共同体の絶望的なさまを描いてきたのが、次第に町、社会、国そのものの閉塞感と暴力性へと繋がっていかざるを得ない歴史。

 

フォルトゥナートがアドルフィーナなどいろんな家族の人になっている? 死者の乗り移り、生まれ変わり的な?

そもそもこの5部作の主人公は毎巻の終わりで死に、次巻で復活するのだけれど、それ以前にこの小説の中だけでもだいぶ死んでは生き返っている。

フォルトゥナートが撲殺されて町の角の木に吊るされている? 別人? それを語るアドルフィーナも「アドルフィーナは昨日死んだ女」と言ってるし、ようわからん

鳩がどうこうとずっと言ってたのはディグナか。

ディグナが風呂の屋根の上に乗って自分のトランクから、自分を捨てた夫モイセスの白いブリーフを取り出して嗅ぐようになる。

婆ちゃん、ハシンタが体制の人間に連行された?
→違うわ、ディグナが狂って精神病棟・収容所に入れられたっぽい。


12/19(火) p.292〜311

セシアも死んだの? もうマジで誰が生きてて誰が死んでるのかさっぱり分からん…… ミステリの対極にある。人の生死がどうでもいい、渾然一体と化している。

 

・第五の苦悩

自伝にあった、「父に捨てられた息子が成長して戦争で父を殺す歌を幼少期に覚えさせられた」エピソードがここで出てきた。

12/20(水) p.312〜345

セシアが風呂場の屋根のトランクの中を漁り、娘エステルの遺品、ブラジャーなどを持って狂い踊る。

ディグナに続いてセシアも連行される。

 

フォルトゥナートは男友達ふたりと娼館に行ってロリン(チナ)に抜いてもらうが、なかなかイけない。プレイ中の錯綜する心境が、ハシンタなどさまざまな人物の語りとの混じり合いで表現される。そしていよいよ本当にフォルトゥナートが家出したっぽい描写がされる。「解釈」?と称して、それを残された各人の視点で語る。

 

12/21(木) p.346〜381

フォルトゥナートは離れて暮らすもうひとりの叔母エメリタの元に住んでいた? そこの従妹に求められる。しかし我慢できず結局そこからも逃げ出す。

ドルフィーナはこれが最後のチャンスと、思い切りめかし込んで、外出規制が敷かれる深夜の街中にくり出すが、当然希望は叶わない。

フォルトゥナートは反逆者たちがいるという村ベラスコに着く。しかし武器がないので兵士として使えないと言われる。自伝で読んだ。

 

12/22(金)  p.381〜413

・第三部 上演

12/25(月) p.419〜425

終盤で戯曲形式になるいつものやつ!!!

最終部のエピグラフ?で満を持してタイトル回収

ひとつの「家」についての作品だから、たしかに登場人物的にも舞台空間的にも演劇に合っているのか。

獣と悪魔は別の存在なのか。
いわゆるレーゼドラマというやつ?

 

12/27(水) p.426〜468

「獣」「獣たちのコーラス」は、フォルトゥナートたち任意の人物に成り代わることのできる存在? 古代ギリシャなどの古典的な演劇におけるコーラス(コロス)の役割をよく知らないので分からない。

終盤で演劇形式になるのは、これまでフォルトゥナートが何度も死と生の境界を行ったり来たりして、またアドルフィーナら他の家族に「主人公」のポジションを譲り与え、ある意味では「変身」して成り代わっていた(個人の境界を飛び越えていた)ことを踏まえると、そうした本"小説"の諸特徴を批評的にまとめ上げているようにも思える。演劇とは、役者がキャラクターを「演じる」ことで世界を、物語を創り上げる営みであり、舞台上で実現される生/死は、役者たちのリアルな生死とは必然的な距離を保っている。それゆえの自由さ。

 

ドルフィーナが引きつれる「王子たちのコーラス」はソロモンの『雅歌』を詠む。

ベラスコからオルギンに戻ってきたフォルトゥナートは家からナイフを持ち出して、町角に立っている警備兵を刺してライフルを奪おうとする。

邪悪な子供ふたり、ティコとアニシアが、舞台装置?の縄を使ってフォルトゥナートを首吊りにする。

いまフォルトゥナートは、とても朝早く首を吊ることに夢中になり始めたので、あたしたちは、彼を降ろすために、毎日起きなくちゃならなかった
                             彼ら

p.459

 

戯曲形式が終わり、改行のない三人称地の文パートになる。これがクライマックスだ。
ナイフで警備兵を刺そうとしたフォルトゥナートだが、ふつうに捕まって拷問される。

 

12/28(木) p.468~474

拷問の痛みを他人事としてやり過ごすために、彼は他の家族の人たちに「変身」していた?

……自分はありとあらゆる恐怖の受け手、だからこそそれに最もうまく耐えられる人間だったから、自分はあらゆる人であるためにずうっと前に、自分であることをやめたのだとわかったのは。 p.468

痛みからの現実逃避であり、それは同時に「自分」からの逃避、解放でもある。
この小説の主人公がフォルトゥナートであり、彼だけではなく複数の家族の群像劇でもあったことを最後に回収しているのか。

彼は裏切り者、運び屋、証言することを任された者、より優れた人間だった。行動することができるよう、分裂する。代弁者である彼の仕事は、彼が最大の苦悩に達したとき、彼の姿がかすんだとき、猛烈な火に吹き飛ばされて消えたとき、終わっていった。そして息せききって、もう落ち着いて、嬉しそうに走りながら、彼は暴力や変身の中でだけ自分の動かしがたい真正さを、自分が存在する正当な理由を見つけられそうなことがわかった……。変身は成し遂げられた、彼はそれを実現し、それに耐えることができた。 p.468

「すべてのでっちあげの死が終わる。」

 

 

おわり!!!

これまで読んだアレナスの著作のなかではあんまり刺さらなかったというか、興奮できる箇所が少なくて読み通すのに骨が折れた。もちろんところどころで素晴らしいと心から思える部分はあるし、特に登場人物ではアドルフィーナがとても良かったのだけれど、全体としては、ほとんど同じようなことをずっと繰り返す動きの少ない作品だし、内容も「不平不満」の叫び・嘆きが大半を占めていて陰鬱であり、読んでいてなかなか気分が上がらない。ベルンハルトの罵倒ループとは違う。

暗いトーンなのは、もちろん、アレナスの幼少期を描いた『夜明け前のセレスティーノ』の続編として、幸福で神話的で幻想的な幼少期が失われてしまったあとの青年期を描いているからであり、仕方ない。失われた過去に囚われてどんどんどん底へと堕ちていく陰惨な家族の話。『真っ白いスカンクたちの館』とはいうが、スカンク要素などはほぼ無くて、いうなれば「けだものたちの家」という題が相応しい。セレスティーノを読み返したい。あれはどれだけ「幸福」だったのか。あの時点でかなり陰惨な事柄を含んではいたが、子供の眼にはそう映っていなかっただけなのか。

レサマ・リマ『パラディーソ』出版の数年後の作品であり、アレナスがレサマと知り合って交友を持つようになってから書いた小説なので、かなりその影響下は強い。アレナス版の『パラディーソ』であり、キューバ文学においていかにあの作品が偉大で決定的だったのか、これを読むことでじわじわと了解できた。そして、その前衛性と凄みの点では『パラディーソ』を越えることは到底出来ておらず、下位互換とも言えてしまう。私自身が昨年末に『パラディーソ』を読んだことによる影響がもっとも大きいのは間違いない。レサマを読んでしまっては、アレナスに以前のようには感動できなくなったか。

自伝『夜になるまえに』と続けて読んだこともあり、だいぶ本作は自伝的な側面が強い。ほぼ同じエピソードがたくさんある。小説的自伝と自伝的小説。実質どっちを読んでも同じなのかもしれない。だとしたら小説を、自伝を、両方ともを書く意味はどれほどある??

相変わらず従来の「小説」の枠を飛び出た、前衛的な要素が詰まってはいるのだが、そこらへんはアレナス初心者ではないので、正直もう慣れた。はいはいいつものやつね、という感じで大して感動できなかった。

 

本書を読んでのもっともポジティブな感想・影響は、詩をちゃんと読んでみたくなったこと。ほとんど散文詩のような小説であり、その魅力は小説ではなく詩の形式のほうがより純粋に、色濃く発揮されているような気はしている。アレナスも自分のことを詩人として認識されたがっていたようだし。レサマも小説家よりは詩人が本分だし。


ポリフォニーとモノフォニーの境界をも撹乱しナンセンスにしている小説と言えるかもしれないが、しかし、あんなに切実で切迫したアドルフィーナらの声が最終的にはフォルトゥナートの声であったのだと「回収」されてしまうのは、残念に思われる。
女性の本気の叫びすらも、あとから男性(男子)のものだと明かされてしまう。『星の時』の逆か。

ジェンダーでいえば、セクシュアリティについても気になる。フォルトゥナートは同性愛者ではないのか。友人アビに欲情するシーンが一瞬だけあったような。

 

 

 

 

 

 

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『夜になるまえに』レイナルド・アレナス

 

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レイナルド・アレナス『夜になるまえに』

2023/11/20~12/1(9日間)

 


2020/12/11

最初っからやばすぎる。文章から感じる圧倒的なエネルギー。書くために生まれてきた人間、書くことに憑かれた人間なんだなぁ。作品でなく作家を信奉するのが僕は嫌いで、だからアレナス好きを公言していてもこの自伝を今まで手に取っていなかったが(本当は2年ほど前にも冒頭をかじったことがある)、今回、なんとなく(本当になんとなく)再び開いてみた。

で、自伝って「俺ってこんなに波乱万丈で辛く苦しい逆境のなかを必死に生き抜いてきましたよ自慢大会」みたいなイメージがあってそもそも好きじゃなく、そしてアレナスの人生はまさに「波乱万丈」だ。だから僕も2年前に読みかけたときはそういう鼻につく自慢気な感じ(そもそも自伝なんて書くやつは全員鼻持ちならない)がダメで本を閉じたのだけれど、今回は、そういうところを飛び越えて、ひらすらに文章のエネルギー・魅力に圧倒されて読み進めている。

マジでこんなにドラマチックな人生が現実にあるのかよ。初めて知った味は土の味、虫がうじゃうじゃで腹が膨らんだとか、幼少期から現代日本人としては信じられない描写が並びたてられる。「嘘松!」という言葉はあまりにも文化の隔絶にたいして無理解だから言えないけれど。(でもツイッタラーだから一瞬思っちゃうんだ。ごめんね)

 

そのころのぼくのセックスの相手は動物だった。まず、牝鶏、子山羊、豚。もう少し大きくなると、牝馬牝馬をものにするのはたいてい共同作業だった。男の子はみんな牝馬の高さになるまで岩に登ってその快感を味わったものだが、それは熱い、そして、ぼくたちにとっては果てのない空洞だった。 p.30

最後の一文の意味がわからない。どういうこと?そのままだと性器が牝馬に届かないから岩を踏み台にしたってこと?「共同作業」ってところから、岩=男の子が組体操的に足場を組んだもの、みたいにもとれる。(とれない?)

果てのない空洞、すごみがある。それも、向き合うときは一対一のはずなのに、「ぼくたちにとっては」という複数形を持ってくるところにすごみを感じる。

 


2022年4月26日 早朝 最初から読み直し始めた。

 


2023年11月20日(月) p.9~

邦訳の新刊記念に、今度こそ読むぞ!!

アレナスの文章はやっぱりめっちゃ読みやすい。故郷のような安心感。もちろん、小説ではなく自伝であるがゆえの飾らなさも読み易さを助長しているだろう。
幽霊が当たり前にいる幼少期の世界観たまらない。石牟礼道子『椿の海の記』と共鳴するものがある。


11/21(火) 〜p.79

存在感のある祖母の描写、という点でも椿の海の記だ。信心深く破天荒で悩ましいおばあちゃん、めちゃくちゃ良い。

 

11/22(水)p.80〜143

キューバ革命からフィデル・カストロ共産主義政権下での青春時代。

国立図書館にスカウトされてから作家・文学関係者との交友を持つようになると、知っている名前も多くなり始めてめちゃくちゃ面白い。特にビルヒリオ・ピニェーラとレサマ=リマについての章は素晴らしくて泣きそうになった。『パラディーソ』読んでてよかった。レサマの妻も最高。

カルペンティエルはやはりアレナスらにとっては俗っぽい二流の作家なのだな。

申し分のない才能の持ち主たちは新たな独裁に取り込まれたとたん、価値あるものは二度と書けなくなってしまったのだ。『光の世紀』を書いたあとのアレホ・カルペンティエルの作品はどうなったか。どれも最後まで読めないようなひどい駄作。 p.139

いや、『光の世紀』(1962)までは評価してるのか。体制に取り込まれる以前/以後という物差しでアレナスが幾分主観的に図っている節もあるのだろうけれど、『方法異説』や『春の祭典』は駄作であると。まぁ確かに日本の読者からもそれらの評判はあまり聞かない。


11/24(金) p.144〜192

・エロティシズム

性的冒険と創作活動が分かち難く結び付いている。本当にこんな世界/社会があったのか、というほどに遊びまくっている。

アメリカとキューバホモセクシュアルの社会的位置付けの違い、捩れが興味深い。

海への憧れ、執着、エロス。とんでもなく詩的で感動的。〈海〉は『凪のあすから』ではヘテロセクシュアルなモチーフだったけど、ここではホモセクシュアルな官能性の象徴。

幼少期に木に突っ込んだエピソードがあったように、自然へのエロスが通底しており、だからこそアレナスの描く世界はこんなにも荒々しくエロティックで抒情的であるのだ。

政治と性の話が8割を占める。アレナスが生きてきたキューバを語る上では必然なのだろう。


11/27(月) p.193〜232

『めくるめく世界』並の入牢→脱獄→逃走劇
波瀾万丈すぎる。しかも小説書いた後にこれをやってるんだから恐ろしい

母がほうきで掃いている描写良かった。

 

11/28(火) p.233〜278

地獄の刑務所生活。監獄「モーロ」城って『パラディーソ』でも出てきたとこだっけか

本当にこんなことが現実にあったのか、と唖然とするしかない様子。アウシュヴィッツとも異なる凄惨さ

そして反革命分子としての自己批判、「告白」…… アレナスにこんな経歴があったなんて知らなかった。

母親への愛情と、母のようにはなりたくない、母のためにも元から逃げたい、という複雑な感情はそのまま『襲撃』のラストに繋がる。

逃亡中や収監中も『イーリアス』を抱えて大事に読んでいるのすごく象徴的だ。


11/29(水) p.279〜316


11/30(木) p.317〜340

・「ホテル・モンセラーテ」

牢を出てから、また違った意味で、こんなことが本当に現実に有り得るのか、と信じられないほどの狂騒の日々。ドタバタ劇。カオス、カーニバル。修道院のある竪穴の壁をみんなで引っ張って崩壊させるくだりとか最高。リアル『百年の孤独』かよ。

現実は小説よりも奇なり、というけれど、まさに小説よりも小説らしく、それでいて、小説では決して表現しえないようなものになっている。ヤバい小説を書こうと思ってもこうはならない。「奇想」小説なんてものを笑い飛ばすかのようなエッセイ。人生。

 

12/1(金) p.340~413

おわり!!!

そうやって亡命・出国したんだ……。てっきりごく小数でこっそり逃げ出したのかと。でもめちゃくちゃドラマチックだな。

「魔女たち」の章はミソジニーもあるけどなかなかに素晴らしかった。人生で出会ってきたさまざまな女性たちへの愛と憎しみを包括した尊敬の感情。

やっとのことでキューバから出国して亡命した先のアメリカ、マイアミ、ニューヨーク、資本主義体制には複雑な想いがある。もちろん、残してきた故郷キューバにはその何倍もの感情が。

カルロス・フエンテスに対面して「作家ではなくコンピューターみたいだった」と恐ろしがるのワロタ。ボルヘスは高く評価していて、ガルシア=マルケスは(主に政治的な対立で)大嫌いだったんだな。アレホ・カルペンティエルも。作風からボルヘスとは相性悪そうなのに。

マイアミで絶望していたアレナスが数少ない敬愛の念を送ったリディア・カブレラの作品読んでみたいな。

 

 

・そのあと、映画版を見ました(感想↓)

filmarks.com

 

 

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『夏期限定トロピカルパフェ事件』米澤穂信

 

夏期限定トロピカルパフェ事件』(2006)

 

 

・前巻の感想はこちら


 

※ふつうに謎解きのネタバレをするので注意

 

 

2024/1/31~2/1(2日間)

 


1/31(水)

・序章

あ、前作の直後の高1の夏じゃなくて1年以上経った高2の夏なんだ。高校3年間を四季一周で構成しようとしているわけか。

 

大目標 つかみ取れない六等星 

「小市民」の座は、もはやもらったも同然だ。 p.20

小市民なんて目指すようなものではない、という逆説が大前提 

 

 

・第一章 シャルロットだけはぼくのもの

おもしろいやん 探偵モノでたまにある、主人公が事件解決ではなく事件を起こす犯人側になるパターン。小鳩くん見直したぞ! 探偵やってるよりずっと好感度高いよ。

めっちゃしょうもないことだからこそ、小佐内さんを前にした時の緊張感が面白い。

犯行過程と思考をつぶさに描写したあとで、その犯行が見破られて、どこに穴があったのか、という形で読者に謎を提示する。こういうのもあるんだな。

前作のおいしいコーヒーの作り方みたいな、日常の些細な出来事ですき。

 

 ……途中から、ケーキの味なんてどうでもよくなっていた。川中島の合戦は、戦闘の意味にではなく両雄がぶつかりあったことにこそ知られるだけの価値がある。 p.63

小市民が「両雄」「英雄」になっててもいいのか?


最終的に戦いに負けて、まんまと夏休み小佐内さんのスイーツ巡りに付き合わされることが決まったの許し難すぎる!!! 

 

 どんな人格でもそうだと言われるかもしれないが、小市民というライフスタイルは他者との人間関係の中で確立されるものだ。 p.30

ふむ

 


2/1(木)

・第二章 シェイク・ハーフ

夏休みに三日と空けずに甘いものめぐり、挙句にじゃれつくようななぞなぞメール。これではほとんど、男女交際だ。 pp.69-70

そうですね

 

 ぼくと小佐内さんが志望しているのはぼんくらではなく、小市民だ。だけどぼくは、あえて訂正はしなかった。小市民は声高に自らを小市民だと言いはしない。 p.75

それはそう。ずっと言ってる


中学生が薬物事件で逮捕とか高校生を食い物にする薬物グループの暗躍とか、木良市治安悪いな……ミステリの舞台は一般にそうなりがちだが。

 

「小鳩くん、楽しそう……」
 しまった、と背すじが寒くなった。そうだ、ぼくはいま、健吾が残した何が何だかわからないメモを、読み解こうとしていた。それは、探偵的行為に他ならない。ぼくは小市民だ。小市民は意味不明のメモを見て、その真意を探ろうとはしないのだ。 pp.8-89

それはそう……というか、小市民はこういう風にいちいち自らの行為が小市民的かをいちいち思案しない。

 

 それにしても残念だ。健吾が電話に出ない以上、このメモは自分で解かなければならない。健吾は一人の女子生徒を助けるために活動している。そしてぼくに、助けを求めたのだ。それに応じるのは責任ある人間としてごく当然の行動であり、小市民としても、恥じることではない。
(中略。節またぎ)
 小佐内さんの目が何となく冷たいのを感じながら、ぼくは再びメモを見る。誰かから電話がかかってきたけれど、いま忙しいので保留する。
「いまの、堂島くんから……」
 何か小佐内さんが呟いたような気がするけど。 pp.89-90

小鳩くんの探偵行為忌避・小市民的自重が完全に形骸化・ギャグ化して扱われている。もうやめたら? でも、「小市民」だなんだとうだうだ言い続けることが彼にとっては探偵行為をするための必要不可欠な口実に他ならないんだよなぁ。あ~ほんとうんざりする!!


手書きの「半」のメモの謎、さすがに幼稚すぎんかと舐めてたらさらに何層にもトリック仕掛けてあって悔しい。

 

小佐内さんが小市民の誓いを捨てようとしている?

 


・第三章 激辛大盛

めっちゃ短くてびっくり 幕間みたいなもんか。
長編ミステリとしては当然いっぱい伏線を仕込んでいるだろうけど。
小佐内さんも出てこず、健吾の「泣き言」を聴き流しながら家系?激辛タンメンを食べる

 

「まあ、なんだ。いろいろ思うに、泣きごとを聞かせるにはお前が二番目に適してる」
「二番目? 一番は」
「穴掘って埋めとくのが一番だな」
 だけどそれでは、穴の上に葦が生えると風が吹くたびに泣き言が流れ出てしまう。 p.113

最後の一文、そういう定型句があるのだろうか。やけにウェットに富んでいておっええやんと思ったんだけど。
「風にそよぐ葦」という故事成語付和雷同みたいなこと)が『新約聖書』マタイ伝にあるらしいけど意味がびみょうに違うしなぁ

 

「踏み込みが足りないんだ。火の粉をかぶってまで川俣さなえを助けたいと思っていない。こいつは偽善だ……」
 ぼくは少し残念に思う。健吾は正義漢なので余計なことに手を出すけれど、迷うより先に手が出る単純な積極性は見ていてそれなりに面白いのだ。そんな健吾が偽善なんてタームを持ち出して自分を縛っちゃいけない。その言葉は、もっと冷笑的なタイプの人間が口にしてこそ面白いのに。 p.118

たとえば小鳩くんとかね。「小市民」なんてタームを持ち出して自分を誤魔化すような人間が。

 


・第四章 おいで、キャンディーをあげる

公然の仲の異性同級生の自宅でお相手のお母様と対面するシチュだ! テンション上がってきたぞ。

小佐内さんが年齢の割にとても若く、つまり小学生ぐらいに見えるのは、お母上の血のおかげなんだろうか。そう思ってしまうほど、目の前の女性は高校二年生の娘を持つ年齢には見えなかった。いくらなんでも高校生には見えないが、服装次第で大学生でも充分通るだろう。 p.129

アニメ化されたら宇崎母みたいな感じで小佐内母のエロ絵が娘よりも大量に流通するのだろうか。

 

麦茶を飲みながらふと、あの生活感の希薄さはこの部屋に由来するのではなく、小佐内さん自身に原因があるのかもしれないな、と思った。小佐内さんは、どうしてもちょっと、ずれてるから。
 もっともそれはぼくも同じで、そこのところの矯正こそがぼくたちの小市民計画の主眼だったりする。 p.131

え、そうなの? じゃあずれてる者同士でつるんでも矯正できないのでは。とっとと離れろバカ!あんぽんたん!!


事件経過に関する三人称っぽいパートが挿入されるが、これも小鳩くんの一人称の語りのなかに無理やり包含されるのだろうか。あとで読んだ新聞記事の引用、みたいなかんじで。

 

 

前作の終盤とほぼ同じ展開……いやもっとキツい、陳腐なプリンセス救出劇だが、これが終章ではないことが救いだ。つまりこれで終わりではなく、このあと絶対になにかひっくり返されるだろうから、つまらないと切り捨てるのにはまだ少しだけ早い。

 


・終章 スイート・メモリー

てか今更ながら、これだけ色んなスイーツ巡りをしていても、小佐内さんはこれから食べるスイーツを前にして写真を撮るようなことはせず、食べることに集中して楽しんでいるのがいいね。時代柄、スマホやインスタはまだ無いので当然とはいえ、前巻で買い替えた小佐内さんのガラケーにはカメラ機能がついているのに。(小鳩くんのには無い)

これは、「小佐内さんはインスタ映えとかを気にしない真のスイーツ好きでいいね」ということではない。(説明がややこしいのだけど)小佐内さんはスイーツの写真を食べる前に撮る選択肢があるのにそれをあえて選んでいないのではなくて、まだインスタ/スマホが存在しないことによって、そういう「選択」("深読み"といってもいい)が介在する余地がないところで、一心に好きなものを堪能しているのだと思えるところがいい。

 

この終章はまるごと解決篇だ。

〈ヒロイン〉の謎を〈ヒーロー〉=男主人公=名探偵が解き明かすことで、5つの章が連なった〈物語〉に調和が訪れる。決して誘拐事件の解決でミステリとしての調和が訪れるわけではない。

実はあの日すでに「りんごあめ」を食べてたんでしょ、と小鳩くんに指摘される小佐内さん。完全に「シャルロット」の件を意趣返しする構図になっててうまい。

やはり最終的には小佐内さんが真犯人、怪盗として名探偵の小鳩くんの前に立ちはだかる。『亡霊ふたり』の男女関係はこの逆だったから好きだったのかな。

実質同じであるという識者の意見もあります。まぁたしかにそうとも言えるか……

 

 夏休み中、幾度となく覚えた違和感の数々。ぼくの知る小佐内ゆきであればそうはしないだろうという行動が、ぼくは小佐内ゆきを大きく誤解していたのではという不安を招いていた。それらが整理され、誘拐への防衛策であることが推理され、本人もそれを認めたいま、ぼくはやっぱり小佐内さんのことを諒解できていたんだと思えた。 p.205

 

よくできてる。よくできてはいる、と思うけれど、根本的なところで好きになれない。こういう、最後の最後で、物語の冒頭からの前提を思いきりひっくり返す構造の作品を、小市民のみなさんは誉めそやすのかもしれないけれど、わたしは大市民なのでタラタラ文句を垂れ続けますよ。

 

でも、こういう、終盤で〈ヒロイン〉のこれまでの言動のすべてを伏線回収してどんでん返しする構造って、たとえばエロゲの『パルフェ』とかと何が違うの?とも考える。(わたしは『パルフェ』をベタに誉めそやす側の人間だ。)

ひとつ思い付くのは、『トロピカルパフェ事件』ではヒロインの言動の謎が明かされることで、やっぱり彼女はそういう人間だったんだね、ぼくの理解は間違ってなかったよね、と「諒解」p.205 されるのに対して、『パルフェ』ではヒロインのこれまでの言動の理由が明かされることで、なんて俺は彼女のことを何もわかっていなかったんだ、なんということだ……と、とても受け止めきれないほどの残酷な事実の奔流に男主人公はただただ押し潰され、そして〈彼女〉という人間の途方もない深みに戦慄する。つまり真逆であるともいえる。

端的にいえば、〈男主人公〉(=名探偵)が〈ヒロイン〉という謎を見事に解き明かしてしまうから『トロピカルパフェ』は綺麗にまとまっていて、とてもよくできていて、そしておもしろくない。それじゃあ駄目なんだ。男主人公が、名探偵が謎を解いてしまっては。けっきょく "そういう構造" になってしまうから。『パルフェ』では、男主人公は〈ヒロイン〉という謎をひとつも解き明かさない。解き明かせない。向こうからすべてを、訓練された軍隊の連鎖砲撃のようにぶちまける。彼は、その弾丸=真実にひたすら打ち抜かれてボロボロになるだけだ。そこに〈調和〉はない。〈破滅〉だけがある。彼女という謎をなにひとつ解き明かせなかったという罪だけが名探偵ではないエロゲ主人公のもとにはのこる。(そしてそのあとに、推理的解決とはなにひとつ関係のない行為/展開によって大団円──TRUE SEX──が訪れる。)

これが『パフェ』と『パルフェ』の違いであり、ミステリとエロゲの違いであり、ラノベ(一般文芸)とエロゲの違いである。

 


と、思ったら、さらにもう一段階どんでん返しがあるようだ。

小佐内さんの「もう一枚裏」まで解き明かし切って、

満足感を胸に、ぼくは呼びかける。 p.209

「満足感」!! 嗚呼!!! なんて奴だろう小鳩常悟郎!!!!

さいごに男主人公が「満足」してしまっては駄目なんだよ。。。 

 

 さあ、どうだ。
 犯人を目の前に推理の当否を問う瞬間。何度迎えても、このときばかりは息が止まる。取り乱されたり、怒り出されたり、いきなり泣かれたこともあった。ほんの数回だけど、心の底から「何を言ってるんだ?」と言われたこともある。小佐内さんは? p.212

そりゃそうだよなぁ。そういう反応が、「ミステリ」の外では自然だし当然だよなあ。
こういう記述があるということは、やはりこのミステリは、ミステリの外を視界に入れている。視界に入れたうえで、それでもミステリの内側に閉じこもって開き直ることをしているのだと思う。

 

「さすがに、小鳩くん。伊達に『小市民』なんておこがましいスローガンを掲げてない」 p.212

"『小市民』なんておこがましいスローガン" !!! いいフレーズですね。

 

「教えてあげる。小鳩くん。あのね……」
「待った」
 ぼくは思わず声を上げていた。
 新しい材料が出てきた。考え直す価値がある。 p.216

ほんっっっとこいつ!! 小佐内さんを性(分として探偵行為をしたい)欲のはけ口にしてやがる!!! 探偵行為をやめるための小市民同盟としてじゃなくて探偵行為を思う存分やるための都合のいい相手として組んでるんじゃねえか。もうやめなよ

 

「待った、って……。将棋じゃないのよ、小鳩くん」
「……」
「チェスでも、囲碁でも、バックギャモンでもカナンでもスコットランド・ヤードでもないの。それでも、小鳩くんは自分で説明したい?」
「小佐内さん……」
「終わったのよ。もう、誰も解決を必要としてないの。 p.217

うおおおおおおおクリティカル!!! もっと言ってくれ小佐内さん!!!!!!

 

「小鳩くん。その中身、もう、何だかわかるでしょう?」
 一言で答えられる問いだ。しかしぼくは、そこに余分な説明を付け加えずにはいられない。非常にタチの悪いことに、この期に及んでも自分がなぜ気づくことができたか説明しないではいられないのだ。 p.219

うわあ・・・・・ きもすぎて、うざすぎて、無様すぎて一周回って哀れにも思えてきた。作者がこういう小説を書こうとしたばっかりに、その主人公役として必然的にこういう "タチ" を付与されてしまった哀れな小鳩くん・・・・・・ほんとは「説明」なんて、推理なんてやりたくないんだよね。作者にやらされてるだけ、こういう性格にさせられてるだけだよね。かわいそうに・・・・・・・

 

 

 しかい、いまの小佐内さんの顔は、見たことがなかった。小佐内さんは笑ったようだけど、ゆっくりと視線を逸らしていった小佐内さんの笑みは冷たい、というよりもどこか寂しげな、疲れきったようにも思えるものだった。 p.225

傷物語 〈Ⅲ 冷血篇〉』のラストカット?

 

 

 小鳩くんはわたしを信じたと言ったわ。でもわたしも、いま小鳩くんを信じる。小鳩くんは絶対、わたしが怖がっていたということを、本当にはしてくれないの。なぜなら小鳩くんは、考えることができるだけだから。共感することができない人だから。……わたしと、おんなじに。 p.227

うおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!

 

わたしたちがとっても賢い『狐』でも『狼』でもないんだとしたら、『小市民』になろうっていうのも嘘なんだとしたら、何が残るか、ねえ、わかる?」
 本当は『狐』なんかじゃないのに自分を『狐』であると思い込んで、そして『小市民』になると宣言したんだったら。しかも、それすらも嘘なんだとしたら。
 それはまるで、綿菓子のよう。甘い嘘を膨らませたのは、ほんの一つまみの砂糖。
 何が残るか、もちろんわかるよ、小佐内さん。小佐内さんのくちびるが、ゆっくりと動く。
「残るのは、傲慢なだけの高校生が二人なんだわ……」 pp.227-228

そうそうそうそう!!! よくぞ言ってくれた!!!!! えっ!?!? マジでこんな自分好みの方向に進んでくれるの!?!????!? めっちゃ興奮してるけど信じられない気持ちもある。

 

「ねえ小鳩くん。わたしたち、もう一緒にいる意味ないよ」 p.228

きたあああああああああああああああああああああああ

 

中学生だったわたしたちには、その約束は絶対に必要なものだって思えた。多分、本当にそうだったと思うの。
 だけど、もう、きっと充分。船戸高校では、わたしたちは地味なカップル以外の何者とも思われてない。鷹羽中学のわたしたちを知ってる人も、二年も経てばもう何も言わないわ。
 何より、わたしたちが『小市民』を目指しているというのが嘘なんだから。口では小市民と言いながら、自分は本当はそうじゃないと思っているねじれ。小市民じゃないことがつらいと言いながら、本当に小市民になりきることなんて考えてもいないゆがみ。……わたしたちが二人でいる限り、それは永遠に解消されていないって、そう思わない?」 pp.228-229

思います!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ねえ、こんなに何もかもを当人の口から吐いてもらっていいの??? うれしい・・・・・・・・きもちい・・・・・・・・・

 

「わたしも、小鳩くんがいるっていう安心感に甘えていた。だけど、それならそれでもいいいの。本当の小市民になることに意味を見出せなくなっているなら、わたしたち二人、二人だけの秘密のように傲慢さを抱えたままでもいい」
 それはあまりに気持ちの悪い構図だ。ぼくと小佐内さん、二人は自分たちだけが特別と思い上がりながら、でも外面的にはそんなことをおくびにも出さずに高校生活を送っていく。……しかし、それがぼくたちの現状じゃないとは、とても言い切れない。 p.229

そうなんだよ!! 「あまりに気持ちの悪い構図だ」ったんだよ1巻の最初っから!!!!

 

でも、あまりにこいつらがキモいから感情的になってしまうけれど、冷静に考えたら、「自分たちだけが特別と思い上が」っているふたりなんて高校生ならむしろ当たり前で、健全とすら言えるんじゃないかとも思う。逆に「傲慢なだけ」じゃない高校生のほうが珍しいしちょっと異様で気持ちが悪いかもしれない。若者は傲慢なだけのくらいが、自分たちだけが特別と思い上がっているくらいがちょうどいい。

でも、ここで書かれているように、こいつらが真に「気持ちの悪い」不健全なのは、そういう傲慢さ、特別だという思い上がりをどこかで冷静に自覚していながらも、そうではない、という対外的なツラ/パフォーマンスを遂行しようとしているところにある。

この何重ものねじれ、ひねくれ、自縄自縛。そして何より、そういう「特別な(=フィクショナルな)関係」を小説というかたちでパッケージングして売り物にしていることの気持ち悪さ。だからやっぱり、根本的にはふたりは悪くないのかもしれない。もし現実にこういうふたりの高校生がいたとしても、そいつらにはなんも思わん。それにオトナが口出しするのはそれこそ犯罪的に気持ち悪い。でも、このふたりは小説の主人公たちだから。そういう風に演出されているから。だからこちらも読者として真摯に向き合った結果、気持ち悪いと思わざるをえないし、はよ別れろとしか思えない。

で、けっきょくそんな「願望」通りにこういう展開になるんだもんなあ・・・・・・マッチポンプだなあ・・・・・・・完全にマッチポンプ以外の何物でもないんだけど、こういうマッチポンプにはまんまとやられてしまうなあ・・・・・・・

 

 頭の中で、小佐内さんの提案を検討する。ぼくたちの『小市民』というスローガンは、その役割を終えたか?
 それはそうとは言えない。少し自制心をなくせば、ぼくも小佐内さんもすぐにまた、後ろ指をさされることになるだろう。それはいまでもつらいと思える。小佐内さんの言うように『小市民』に意味を見出せなくなっているということは、ない。
 では、その自制心を補うため、自制心を試されるような状況を避けるために小佐内さんという方法論に限界は来ているか?
 そうかもしれない。小佐内さんがいるからこそ謎を解く。ぼくにそういう面があるなら、ぼくがいるからこそ仕返しを目論むという考え方が小佐内さんにあっても不思議じゃない。そうなら、ぼくと小佐内さんの関係は、既に軋みをあげていたことになる。
 ……気づいてたけどね。 pp.230-231

な~にが「気づいてたけどね」じゃボケェ!!!! いや気づいてたのは事実だろうけど!!

 

「……やっぱり、そういう返事になるのね」
「そうならざるを得ない」
「違うの。返事の内容じゃなくて、その方法のこと。
 小鳩くん。わたし、いま別れ話を切り出してるの。別れ話って言い方がちょっと恋人っぽすぎるとするなら、関係解消を持ち出してるの。 p.231

「ほらね。わたしたち、さよならしようってお話を自分勝手に切り出されても、痴話喧嘩もできないの。それが正しいか、妥当なのかで判断しようとしてる。考えることができるだけ。怒らないし、ちっとも悲しくないの。 p.232

「関係解消」。そうだよな、このふたりは恋人というよりまだセフレに近い。お互いに「べっべつに恋愛的な意味で好きなわけじゃないしッ。お互いの利害が一致しているから関係を続けてるだけだしッ。『依存関係じゃなくて互恵関係』だしッ!」などとしょうもねぇ言い訳を並べているふたりが、今さら恋人にはなれなくて、最後まで「冷静」なふりをして「関係解消」した、というだけのおはなし。

 

とっくに依存関係だったんだから、そうと認めてしまえばよかったのに。それでも『互恵関係』だからと、『小市民』だからと、どうしても空虚な(空虚なことにしか意味がない)ことばを楯にすることしかできなかった。

これを突き詰めて考えると、ようするに安定的で恒常的で健全な関係というのは、多かれ少なかれ「依存関係」であるということだろう。「互恵関係」ではいずれ関係は破綻する。(というか、この語から一般的に連想するビジネスライクなパートナーシップならば一時的なもので当然だし、その関係が解消されても「破綻」や「破局」なんて大層な形容はしないだろう。) まったく依存的でない関係は不健全であり、これは一足飛びに考えれば、そもそも「健全な関係」は一時的なものでしかあり得ない、ということも示唆されうる。ずっと同じ相手とばかり関係を築くことはそれだけで不健全だ。一生を添い遂げるなんて美談どころかグロテスクな話だ。フィクション消費としても、「このキャラにはこのキャラしかありえない!ずっとこのふたりでいてほしい」という欲望は不健全で暴力的である。

そして、わたしは小佐内さんと小鳩くんの関係が解消されるとき、もっともこのふたりの関係をおいしいと感じている。別れ話を歓迎し、恒久的でない関係だけを称揚すること。これは新たな健全さでありひとつの倫理だろうか? それともまた別の単なる暴力的な欲望だろうか?

(でもまぁ、二次創作同人誌でも破局合同とか失恋合同とかふつうにあるだろうから、これもまたひとつの「†関係性†消費」に過ぎないのだろう……。 わたしはそういうのにも与したくないので、小佐内さんと小鳩くんにはとっとと疎遠になってそれぞれにもっと別の人間関係を健全にでも不健全にでも構築してほしいと心から願っています。 ……ねえこれ逃げ切れてる?)


わたしにとって好ましいのは、別れ話といっても、どちらか一方の責務で、一方的に "振る" かたちではなくて、あくまでふたりともに悪いところがあって、建前上は平等に罪を背負って別れる構図になっているところ。いや、まぁかなり小佐内さん側が振っているかんじではあり、そういうのがド性癖なので興奮しているだけ説も否めないけれど、でも完全に一方的な関係解消だと、けっきょくフラれた男主人公の自意識に物語/主題が収斂してしまうし、逆に男主人公側がフるのもそれはそれでキモいので、この塩梅がまじでちょうど良い、奇跡的なバランスだと思う。尊いとかじゃないんだよな。キモいんだよ、このふたりの関係は。そんな関係をいちばん好みのかたちで描いてくれた。

 


読み終わった!

くっっそ~~~~~これは・・・・・・・・・・これは好きだ!!! めっちゃ好みのやつだ!!!!!

拉致ではあるが誘拐ではなかった、という第三段階のひっくり返しにもふつうに感動していた(名探偵の推理が的を外す展開が性癖なので)が、それで冤罪だと小鳩くんに糾弾された小佐内さんが開き直って『小市民』互恵関係の徹底的な「嘘」を暴くくだり、およびその論理的な帰結としての「別れ話」が気持ち良すぎて・・・・・・マジでドーパミン出まくってたと思う。深夜に頭が冴えわたっていた。どんなオナニーよりもきもちよかった!!!!! 『パフェ』=『パルフェ』だったんや!!!!!

 

自称「小市民」のこいつらふたりに対してじぶんがずっと言いたかった思っていたムカついてたことを、小佐内さん自身がぜんぶ的確に言葉にしてくれた。はよ別れろ!!!!!!!!!!という(最初から抱いていた)心からの叫びがさらにどんどん大きくなっていて、いい加減我慢できそうになくなったところでマジで「関係を解消」させる・・・・・・・・・・・・ すべてが米澤穂信の手のひらのうえだったと思うとめちゃくちゃ悔しいけど、負けたなぁ・・・・・・・・ ひと夏の甘くて甘ったるくて「ひどい味」の青春ものじゃないか……こういうのがいっちゃん好きや・・・・・・・

 

けっきょくミステリの魅力は謎解きの完成度や面白さじゃなくてキャラなんだよな。人間関係、ヒューマンドラマのおもしろさ。キャラゲー=シナリオゲー。といってもこの小説は、キャラを好きなんじゃなくて逆に嫌いなキャラ同士の関係を作ってそれを計算し尽くされた最適なタイミング/シチュエーションで破局させることで読者(わたし)を絶頂させるという、かなり珍しいタイプの作品だ。過去には……『シンエヴァ』を観たときの気持ちよさ、後味の良さはかなり似てるな。しょうもないもの、嫌いだと思わせられるものを丁寧に構築したうえでそのしょうもなさを徹底的に暴いて虚仮にして台無しにして終わるキャラコンテンツの系譜。

(わたしのシンエヴァ感想はこちら↑)

 

 

ミステリにとって登場人物への思い入れがいかに小説としての面白さに直結するかが分かったし、「思い入れ」には好感だけでなく負の方向性もあるんだと分かった。
デスゲームものにも関係しそうだけど、いかにすごいトリックの殺人事件が起ころうとも、殺された奴に思い入れがなければわたしの中では「よくできたミステリですね。で、それが何?」で終わってしまう。(『密閉教室』がこれにかなり当てはまる。本作は『密閉教室』の終盤でやろうとしていたことをより成功させたと見做せるか。)

だから、殺されるのにいちばん適している登場人物はシリーズものの主人公やヒロインだ。しかしそれではシリーズが成立しない、というジレンマ。巻ごとに主人公が替わる群像劇的なのはありそうだけど。(非ミステリなら『チ。』とか)

正直に告白すれば、わたしは小市民シリーズの1巻とこの2巻を読んでいる時しばしば、「あ〜〜〜このシリーズが突如「日常の謎」から「本格」になって小鳩くん殺されねぇかなぁ〜」と思っていた。でも、ほんとうは殺されるより小佐内さんにフラれてほしかったんだ、と気付かされた。実際にその展開を読みながら。
たしかに、死んで小鳩くんというキャラの一生が無事に完結してしまうよりも、小佐内さんと別れて一生疎遠になってくれるほうがうれしいもんな。

 

要するに、こいつらふたりとも、気取って冷静になろうとせずに、しょーじきに「もう『小市民』『互恵関係』なんてキモい言い訳はやめる! あなたのことが好きです、付き合ってください」と言えばこれから先も一緒にいられた。でもこいつらはそんなことが言えるわけがないので(言えないからキモい言い訳をこれまで掲げてきたわけで)、やっぱり破局は必然だった。

(でもこれを普遍化してしまえば、年頃の男女が「恋人」関係以外で恒常的に親密な関係を築くことはできない、という異性愛主義の典型に陥ってしまう。だから、小鳩くんも小佐内さんも、普遍化なんて出来ないほどに「ヤバい奴」である必要がある。小佐内さんがそれに当てはまることは論を俟たないし、小鳩くんのキモさ/しょうもなさもまた無事達成しているといえるだろう。よかったね)


小佐内さんが最後にこぼした一粒の涙や「ごめんね」の言葉、それから少し前の「怖かった」という被害者としての想いの吐露のくだりなどは、"まだ安心できないな" という気持ちをわたしに抱かせる。わたしが見たかったのはふたりの関係の徹底的な破局だし、それがほんとうに見れたけど、でもこれは要するに、ドラマチックに破局させることでかえってこのふたりの関係を(メタに消費する場合に)より "強固" にしているのではないか?という疑念がある(し、多分これは疑念というよりも自明に読解できなければいけない機微だろう)。わたしが望んでいるのはふたりが別れてそのあと一生疎遠になることだけど、この「別れ」は暫定的な、ある種の予定調和であって、再会への、よりエモい関係に至るまでの布石なのでは? という不安がある。続編があるんだからそう考えざるをえない。これで続編でマジでふたりが交わらなかったらすごすぎるけれど。

ちくしょ~次の『秋期』はしばらくの間は読まないだろうと思ってたけど、こういう想定外に理想的すぎる終わりをされてしまったら、すぐさま読むしかないじゃないか・・・・・・ずるない?? 

 

 

 


 

 

 

 

『春期限定いちごタルト事件』米澤穂信

春期限定いちごタルト事件』(2004)

 

2024/1/27~28(2日間)

 

※真相のネタバレ普通にあるので注意

 

1/27(土)

・プロローグ
・羊の着ぐるみ

高校時代がはるか遠くのものになったのだなぁという感慨。
発狂しそう。小鳩くんの飄々としてますよ感に胸を掻きむしりたくなるし、小佐内さんとの関係はなんだこれ!?!? 甘ったる過ぎる!!!! うおおおおおお 好きとか嫌いとかでなくて、ひたすら "発狂" するしかねぇ

 

お互いを盾や言い訳に使って小市民たることを目指す、とかごちゃごちゃ言ってるけど、要するにふたりだけの甘美で居心地の良い空間を守りたいんだよな。本当に目立たずに平穏に暮らしたいなら、そもそもふたりでつるまないほうがずっと良いだろう。意識的にか無意識的にか、そこに関してだけは目をつむっている。「俺たちのイチャイチャ関係を邪魔するな」──そう言っているようにしか見えない。

 

〈小市民〉という自称ノンポリ的な政治的態度に憧れる子どもたちを大量発生させているであろうことには、プロパガンダとしての邪悪さを感じざるを得ないが、しかし繰り返すように児童向け作品にまで左翼的な倫理を求めるというのは(宗田治とかもあるけど)さすがにやり過ぎでは、という自重と、さらに翻って、いやむしろ子供向けだからこそそういう点が大事なんだ、という食い下がりの両方が思い浮かび引き裂かれる。あ〜〜発狂するぅ〜〜(それでいったら当然、「発狂」という語の無邪気な使用もまた大いに加害的/差別的であろう)

 

でもまじめに、若い男女が仲良くつるんでいる描写に恋愛的なコンテキストしか見出せないというのも感性が貧しいなぁと絶望する。ここは自己のそういう気持ちをなんとか抑えて、本当に彼らは恋愛や性愛の介在しないアロマンティック/アセクシャル的な関係を築こうとしているのだと捉えてみようか……あぁ難しい……

 

これは『氷菓』(アニメしか観てない)の千反田えるさんとか、『さよなら妖精』のマーヤとかでも思ったけれど、もしかして米澤穂信作品の(メイン)ヒロインってみんなこういう感じの、徹底的に(男子主人公から)客体化された造形なのか。男女バディものということで、『繭の夏』みたいに交替で語り手を務めてくれないかなぁ。小佐内さんの内面がまだほとんどつかめない。

 

ヤングアダルト向けの本に出てくる高校生たちにアラサーのおっさんが文句を垂れるというのは、犯罪よりも犯罪的だ。
この意味では中高生のうちにこれを読めなかったのは不幸というべきなのだろう。

 


p.32まで

探偵モノと怪盗モノを同時にやっている?

彼らが目指す「小市民」とは、なるべく目立たずに波風を立てずに……ということだから、必然的に目立ってしまう探偵行為をなるべくこっそり済ませようとするのは、探偵であると同時に優れた怪盗でもあることを求められる。(まぁ怪盗たる者、なるべくド派手に目立つべし!と謳う方々もいるだろうけれど……怪盗クイーンとか……)
だから、謎解きだけでなく、「いかに謎解きで自分を目立たせないか」という第二の課題に常に取り組むことになり、むしろそっちの方が彼ら及び本作にとっては重要である点に特徴があるのかもしれない。

(格好良く推理をキメて)目立ちたいけど目立ちたくない。そんなアンビバレントな自意識はプロローグの「夢」から明示されている通り。言い換えれば、このミステリははじめから「探偵行為なんて自意識過剰な恥ずかしい行為である」という認識の上に成り立っており、それでもどうしても惹かれてしまう欲望と、そんな己の浅ましさを隠蔽して〈小市民〉であろうとする欲望のダブルバインドをこそ「青春」として提示しようとしているのだろう。

 

 顔を上げた小佐内さんに、下から見上げられる。
「小鳩くんは、思い当たる節があるの?」
 ぼくは頬をかいた。
「うん」
「そう……。小鳩くん、やっぱり××したんだね」
 言葉に詰まった。小佐内さんの声が冷ややかだ。ぼくは、いささか慌てて言った。
「いや、そういうわけじゃないけどね」
 ふうんと呟くと、小佐内さんはぼくから視線を逸らした。なんとなく後ろめたさを感じながら、それを押し込めるようにぼくは続けた。 p.45

「××」のところ、原文では「推理」だけれど、こうして伏字にすると「浮気」とか「不倫」を当てはめてしまって興奮してくる…… 浮気を冷ややかになじってくる小佐内さん…………

 

 心の底から嬉しそうな顔、というには程遠いものの、小佐内さんは明るい表情で数回、手を叩いてくれた。
「さすがね、小鳩くん」
 顔が熱くなるのがわかった。嬉しいから、ではないのだけれど。 p.49

おい!!! なんだそれ!!!!!! 「嬉しいから、ではないのだけれど」!?????? 叙述トリックか…………

 

「わかればいいです。じゃ、わたしたちはこれで」
 言うと、小佐内さんはぼくの学生服の裾を引っ張りながら、後ずさっていく。なんとか穏便に切り抜けられそうだ、とぼくもほっとする。踵を返そうとしたところで、高田が哀れっぽい声をかけてきた。
「でも、お前らにはわかるだろ? 好き合ってるんなら。俺がどんな気持ちでこいつを仕込んだか」
 ぼくたちは顔を見合わせた。
 ……まあ、建前ということがある。ぼくたちは示し合わせたように同時に頷くと、今度こそ踵を返し、早足でその場を去った。 p.54

ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

「ねえ、小鳩くん。……小鳩くんは、わかる? 渡そうと思ってたラブレターを、チャンスだからってつい、思いびとの私物に忍ばせちゃう気持ちって」
「…………」
 ぼくは小佐内さんの言葉を聞きながら、このクレープやっぱり甘すぎる、ぐらいのことしか考えていなかった。
「わたしたちにはわかるだろって言ってたけど……」
 やめた。小佐内さんには悪いような気がするけど、これはぼくには無理だ。チョコバナナクレープをトレイに置いて、ぼくは溜息をつく。
「わからないなあ。ぼくには縁のないシチュエーションだ」
 まあ、それをわかりたいとぼくらが思うようになれば、そのうちわかる日も来るかもしれない。いま現在は、どちらかといえばどうでもいい。小佐内さんだって、ぼくが普通の速さでクレープを食べていれば、こんな話はしなかっただろう。
 街は夕暮れ。
「そうよね。……わたしも、そうなの」
 ウィンドウに顔を向けたままの小佐内さんに、夕陽の赤が差していた。 p.56

うわあああああああああああああああああ
・・・・・もうやめて・・・・・・・・吐きそう・・・・・・・・・・・・このクレープ甘すぎない?? 

叙述トリックというか、本気で信頼できない語り手だよな。もしかして青春ミステリは一般にそうなってしまうのか。『密閉教室』にもこんなかんじのシーンあったし。自らの恋心、感情をあえて語らない。読者に語らないというよりも、自分自身に語らないことで、それをもてあましている思春期の自意識がよく表現されている。

それでいて、「このクレープやっぱり甘すぎる」や「小佐内さんには悪いような気がするけど、これはぼくには無理だ」など、婉曲的に(モロに)表出してしまっているとも読めるのがほんとうに・・・・・・・

「小佐内さんだって、ぼくが普通の速さでクレープを食べていれば、こんな話はしなかっただろう。」なんて額縁に飾りたいくらいの一文ですよね。

 

恋愛関係とかではない、Ace/Aro的な関係としてちゃんと読もうとしていたところで、こういうのをぶっこまれると、あぁやっぱり結局 "そう" なんだね…………とガッカリしてしまう。ラブコメだと決して名指されないことが魅力のラブコメ、受け入れがたし。ちゃんと「痛々しい高校生男女カップルのイチャイチャ♡ミステリ(略してイチャミス!」と書いておいてほしい。

ところで「羊の着ぐるみ」って章タイトルはなんだったんだ。引用? 隠喩? 読解力が足りていない

 

 


・For your eyes only

これは……『さよなら妖精』の墓参りの挿話と似たような、最終的にそこそこ後味の悪い、人間の残酷さみたいなところに帰着するタイプの日常の謎だ。当時3歳の甥っ子へとプレゼントしようとして描いた絵を、高校の部室に保管したまま忘れたきりになってしまう。渡そうとしていた本人だけでなく、渡される予定だった子供のほうも、もう既に興味を持つ年齢ではなくなっているだろうから──と強引にまとめて「ゴミ」として破り捨てるオチは、ミステリとしての納得感よりも短編小説としての爽快感を優先したんだなぁと思う。

 

「やめられないんなら……、わたしを言い訳に使って、いいよ」 p.93

今度は小佐内さんが浮気相手だったときの妄想セリフとして読めるやつ
いけないことだとはわかってるのに彼女を前にするとついッ……(ビクンビクン

 

「だから、それがどうかしたの」
 わけ知りらしく質問をしてくるぼくに、勝部先輩は少々機嫌を損ね始めたようだ。気持ちはよくわかる。目の前で探偵めいた真似をされるのは決して気持ちのいいものではないと、ぼくは知っている。勝部先輩に不快感を与えていることを本当に申し訳なくおもうし、小佐内さんを楯にしているにしても居心地は悪い。 p.104

探偵行為の「不快さ」(=〈小市民〉らしくなさ)が相変わらず重要テーマであるようだ。

 

今回は、小鳩くんではなく小佐内さんが謎を解いたのだということにする(替え玉作戦)。

 

あとやけに高校の校舎の構造(「エ」の字型)が各章で強調されるのは、最終的にそれが大きな謎に回収されるからなのか? 

 


1/28(日)

・おいしいココアの作り方

これは謎解きとしてわりとおもしろかった。ずぼらな友人がシンクを一切濡らさずにおいしいココアをどうやって作ったのか。

そもそもやった張本人は、自分の行為を「謎」として解かれていることも知らずに別室でひとり取り残されている。つまり、謎が持ち込まれてそれを解くのではなく、第三者が半ば無理やり「謎」を見つけ出して(仕立て上げて)それを解こうとする。これこそが「日常の謎」の本懐ということだろうか。

面倒くさい手順を踏めば可能な方法は思い付くけれど、そもそも当人はそれを意識せずに自然にやっているのだし、しかもずぼらな人間の仕業である、という条件がかかってくるのがさらに面白い。単なる物理トリックや論理パズルではなく、「自然な」「意図せずに成立する」解法が求められる。最終的に辿り着く真相も、ずぼらな人間ならではのものとして納得感がある。

ミステリというよりウミガメのスープみたいだから好きなのかもしれない。

(高評価しておいてなんだが、じぶんはココアを作ったことが無いので、途中の試行錯誤の仮説や、前提があんまり共有できていなかった。話半分で、上記のシチュエーションを面白がって読んでいた。でも解決は同じズボラ人間としては共感できて良かった)

 

通底するストーリーとしては、健吾が小鳩の小学時代と今(高1)のあまりの変わりように驚き、中学時代に何があったのかと追及してくるも、小鳩はそれをいなす、という意味深なくだりがあった。日曜日に嬉々として「謎解き」に耽ってしまった小鳩に対して小佐内さんも「そっちの方が楽しいなら、そっちの小鳩くんになればいいじゃない。わたし、気にしないよ」p.146 と、まるで恋を諦めるかのような台詞を放ってくる。小学時代の小鳩くんマジでどういうやつだったんだ。小学生でそんなにブイブイいわせてたなんてことあるか? 中高生ならまだしも。

 

小佐内さんのキャラもまだあんまり掴めない。ミステリとしては、いちおう推理に絡む場面もありつつ、最終的には小鳩くんが真相を突き止めて終わるので、ワトソン役にとどまっているか。

自分に注目が集まったとたんに咄嗟に身を隠す場所を探すとか、かなり心配になる挙動をしていて、小動物的なかわいいヒロインという像にはうまくノれない。甘いものに目がなくて、自分が落ち込んでいるのを口実にしてちゃっかり小鳩くんにスイーツをおごらせようとするなどしたたかな一面も見せるが、『海がきこえる』の里伽子みたいな(私が好きな)超わがまま系ヒロインでもなさそう。

 

てか、そういえば今更ながら、小鳩くんと小佐内さんって中学で出会ってお互いに〈小市民〉になろうと結託して今のような(傍から見れば学生ヘテロカップル同然の)関係になったんだな。ふたりが出会うところから物語が始まるわけじゃなく、すでに関係が出来ているところからのスタート。本章での健吾やその姉の小鳩くんへの追及などで徐々に仄めかしてきているように、おそらくこの『春期限定いちごタルト事件』という小説最大の〈謎〉は、いかにして彼らが〈小市民〉を掲げるようになったか、というホワイダニットである。その〈謎〉は小説の語り手/主人公であり探偵役でもある小鳩くんにはもう明らかになっている(だって本人のことなんだから)。したがって、この〈謎〉ははじめから読者への挑戦であり、またそのようでしかあり得ない。小鳩くんが名探偵であると同時に優れた怪盗(〈謎〉をつくり演出する者)である必然性が、この観点からもいえる。

 

 

・はらふくるるわざ

章題は『徒然草』からの引用らしい

 そうだろうとも。小佐内さんが、ドリンク瓶を落とした犯人を知りたいと口にすれば小佐内さんの約束違反だし、もしぼくが真相に関する証拠を固めてきたことが知れればぼくの側の約束違反だ。あわよくば推理をさせて、などと目論んでいたのかもしれないけれど、そうは問屋が卸さない。約束がある以上、ぼくが小佐内さんにできることは、愚痴を聞いてやるくらいのものなのだ。
 ぼくと小佐内さんは約束をしている。互いに互いを逃がすこと。ぼくは、もう小賢しい知恵を働かせたりしないように、逃げると決めた。同じように、小佐内さんにも理由がある。健吾はぼくが変わったと苛立ったが、実は小佐内さんだって昔はこんなじゃなかった。小市民になると誓ったのは小佐内さんも同じ。そして、小市民は、身勝手な理由で試験を妨害されたとしても、いつまでも根に持ったりはしないのだ。小佐内さんは変わった。 p.167

これも、謎解き自体はめちゃくちゃどうでもいい、青春モノとしてベタなカンニングものであり、本当の問題はそれを実地検証で小鳩くんが解いたあとの小佐内さんとのやり取りにある。ある意味「被害者」であり「依頼者」である小佐内さんに、小鳩くんは真相を伝えない。伝えてしまったら、小鳩くんがまた「探偵」行為をしたことが、そして小佐内さんが謎解きの「依頼者」であることがふたりのあいだで明確になってしまい、「約束違反」というわけだ。小市民の誓いとは、小鳩くんと小佐内さんのふたりのあいだに、「探偵/依頼者」(解く者と解かれる者、救う者と救われる者)というある種の非対称な権力関係を発生させないがためのルールなのかもしれない。ふたりにそこまでの意図がなくても、事実上そのような効果を発揮している。

 

ただし、このエピソードは明らかに、そうして自らが被った理不尽・不利益をいつまでも根に持つことをやめて〈小市民〉たろうとすることの不健康さ、「無理がある」p.171 さまを暴き出そうとしている。もっと根に持っていい。怒っていいし、自分が巻き込まれてしまった事件なら真相を明らかにしたっていい。おぼしきことをどんどん言ったほうがいい。はらがふくれるのは好きなスイーツを食べるときだけでよくて、愚痴でも憤懣でも発露したほうがどう考えたって健全だ。

 

これまで、探偵行為の暴力性を回避するために〈小市民〉たろうとする──というポジティブな意味合いで捉えていたが、場合によってはむしろ〈小市民〉たることをやめて〈探偵〉の磁場のなかに身を置いたほうがいい、と示しているように思える。言い換えれば、ストレスや我慢ではらをふくらませてまで〈日常〉のなかに無理に閉じこもるよりも、日常の謎を暴き出して非日常的な〈ミステリ〉空間へと身を晒すことこそが適切な「逃避」であるような可能性を提示している。

 

小佐内さんたちが体現しようとしている〈小市民〉とは、ようするに「つまらない大人」になることではないか、と今回の話を読んで思った。日常生活のなかで謎に出会っても、それを謎と認めずに、見ないふりをして逃げる。解いても解いていないふりをして知らんぷりをする。コミットメントではなくデタッチメント。

子供と大人のはざまの〈青春〉真っ只中にいる小佐内さんたちは、大人であろうとするもどうしようもなく子供である自己に引き裂かれて煩悶している。うーん青春。

そしてそれは同時に、小市民であろうとするもつい探偵になってしまう小鳩くんの葛藤をも表している。うーん青春ミステリ。

 

つまり二項対立を並べるとこうなるだろう

  小市民   ⇔    探偵
  大人    ⇔    子供
  日常    ⇔ 非日常(ミステリ)
デタッチメント ⇔ コミットメント
 対等な関係  ⇔ 権力関係(非対称な関係)

必然的に権力関係を発生させてしまう探偵・ミステリの磁場から逃れるために、彼らは〈小市民〉というデタッチメント的な理想像を掲げて日常的な、対等な関係へと逃げて閉じこもろうとする。

それでも現実は大好物のスイーツのようには甘くなく、大好物のスイーツを食べる機会を逃したり自転車を盗まれたり試験を妨害されたりと、理不尽が襲い掛かってきて、容赦なく非日常的なミステリ空間へと絶えず引きずり込もうとしてくる。

それらを胃袋いっぱいに飲み込んではらをふくれさせてでも必死に無理して〈小市民〉であり続けようとするのか。それは不可能だし、なにより不幸で可哀想なことなのではないか…… そんなことを感じさせる印象深いエピソードだった。

ちょっと痛々しい小佐内さんの笑顔を見ながら、ぼくは思う。あんまり腹がふくれすぎると、いい日であるべきあしたに差し支えるんじゃないかな、と。 p.171

 

 

・狐狼の心

先の一件で、船高生徒指導部は小佐内さんの駐輪許可シールをつけた自転車は盗まれたものだと知っているはずだ。それを知っていてなお管理が悪いとは、なんとも理不尽な話。しかし小佐内さんは、その理不尽さは全く気にしていないようだ。もっともなことだ。理不尽を受け流すのは小市民心得の筆頭といっていい。 p.177

ええ…………

 

盗まれてから買い直した自転車を押して歩く小佐内さんと、その隣を歩くぼく。きのう通った道を、きょうも行く。街外れに近づき、家々の間に畑が挟まり始める。歩道の幅が狭くなり、二人横に並ぶとそれだけで道をふさいでしまう。後から年配女性が乗った自転車がやってきて、ぼくはそれを通すため小佐内さんの後ろにまわった。そして、そのまま後からついていく。黙ったまま、隣り合って歩くのが、ちょっと気詰まりだったのだ。 p.178

ここのなにげない情景と動作の描写、よく説明できないけど巧いというかすごく好きだな。単に夕方の田舎の帰り路というシチュエーションが性癖なだけかもしれないけど。ふたりの位置関係の変遷のさせ方とか、地味に脚本としても小説としてもうまいと思う。

 

「駄目だよ、小佐内さん。盗品は戻ったんだ。満足すべきだよ。それ以上は考えたら駄目だ。流すんだ。小市民になるって、約束したじゃないか。ここで泣き寝入りしなかったら、小市民じゃない」
 手を広げてアピールするぼく。小佐内さんの笑顔が消える。
「……うん。でも、わたし……」
「耐えるんだ。ここが我慢のしどころだよ」
 小佐内さんはくちびるを噛んだ。それから、自分が乗ってきた自転車を見、盗まれて壊されて戻ってきた自転車を見、そしてバスの行った先をまた見た。
「でも、わたしはなにもしなかったの。なにも。なのに!
  ……そうだ、ねえ、小鳩くん。こういうのは、どう?」
「どういうの?」
「小市民にとって、一番大切なものって、小鳩くんはなんだと思う」
 言下に答えた。
「現状に満足すること」
 しかし小佐内さんは、ゆるゆるとかぶりを振った。
小市民プチ・ブルにとって一番大切なのは……、私有財産保全ってことにしたら?」 pp.189-190

いやぁ~すばらしいな。なるほど。

ふたりが掲げる「小市民(つまらない大人)」という理想の欠陥があらわになったうえで、単純に「子供」に戻るのではなく、その語の歴史的な系譜に立ち返って「プチ・ブル」というルビを充てることで強行突破しようとする小佐内さん。一気に好きになった。

 

そして小佐内さんは「ラスボス」に、最後の事件の「犯人」になる。最後の物語は、真犯人が予め分かったうえで、なにをやらかすのか推測して対処する、というプロットだ。

小佐内さんが「犯人」になることのなにが良いかって、理不尽なことに巻き込まれた小佐内さんを救う小鳩くん──のような「救われる者/救う者」あるいは「依頼者/探偵」という非対称な権力関係を乗り越えて、「犯人」と「探偵」はまさに対等な関係にある、ということなんだよな。「謎を出題する者/謎を解く者」はどこまでも対等なライバル関係にある。(※後期クイーン問題を念頭に置くと原理的に犯人側がつねに優位である可能性すらある。)

これは、探偵行為の暴力性、ミステリの非-倫理性に向き合ったうえで、それでもそのジャンル内での倫理を見出そうとするもがきである。ミステリという倫理を構築せんとする営みに他ならない。

 


え、けっきょく中学時代に〈小市民〉へと方針転換した明確なきっかけ・挫折体験があるのね。まぁ小説としては当たり前だが。

 

「(前略)よくあることだと思うかい? そうきあもしれない。それに、そんなのよりずっとショックだったのは、だ。ぼくは気づいたんだよ。
 誰かが一生懸命考えて、それでもわかんなくて悩んでいた問題を、端から口を挟んで解いてしまう。それを歓迎してくれる人は、結構少ない。感謝してくれる人なんて、もっと少ない。それよりも、敬遠されること、嫌われることの方がずっと多いってね!」 p.200

それはそう。しかしこれだと、ちゃんと探偵行為のネガティブな面に向き合っているというよりも、それをイヤイヤ思い知らされて拗ねているだけのようにも読めて微妙だな。……まぁ高校生(当時は中学生)ならこのくらい子供っぽくて然るべきなのかもしれないけれど。

 

どうせそんなことはないだろうから、どうせそんなことだろうからなどと言っていては、探偵の真似もできはしない。つまり長いものに巻かれないということで、つくづく探偵は小市民的ではない。 p.210

わかりやすい表現が出てきた。そうだよなぁ
つまり長いものに巻かれる者こそが〈小市民〉だということ。

 

「小佐内さんが、知里先輩とそんなに仲がいいとは知らなかったな」
「いや。姉貴の基準じゃ、言葉を交わせば友達だ。家に来たお前らは親友扱いだろうさ」
 まあ、実は家に伺ったというだけじゃないのだけれど。知里先輩と小佐内さんとぼくとは、三人で「健吾の挑戦」を退けた仲なのだ。 p.228

ここわろた。「健吾の挑戦(なお健吾本人は挑戦したつもりもなければ挑戦を勝手に受けられて格闘されていたことも知らない)」  あのお姉さんそういう性格の人なのね。じゃないとさすがにあの回は不自然だものなぁ。

 

・エピローグ

おわり!!!

うーん………… 最後の事件でこれまでの章の細かい要素もなるべく回収してまとめるのね。よくまとまってはいるけれど、個人的にはあんま好きじゃないやり口。上で、最終章では学校校舎を舞台に展開すると予想したが、そうではなくて彼らの住む町の地理がそこそこ重要だった。自動車学校が2つもある田舎?

 

高校生の詐欺グループとかいう犯罪スケールへと物語が広がっていって、小佐内さんの身に危険が……という典型的なサスペンスの展開にはうんざりしたけど、まぁ最終的には彼女ひとりでほぼぜんぶ解決して、小鳩くんや健吾の助けはいらなかった、というオチだったからギリ良しとしようか。。

 

「狼」かぁ…… これまで小佐内さんのキャラを掴みどころなく描いていたのもそのためだったのね。えーー小佐内さん狼のままでいいじゃん! なんで小市民を目指さなきゃいけないの? 中学時代の話をしてくれないと分からん……(小鳩くんのほうはまぁだいたい分かった。ただ、それにしても名探偵として失敗して嫌われて恥をかいて情けない思いをしたからもう探偵はやめる!小市民になる!というのはあんまり理解できないが……)

最後の締めにしても、ようするにこの作品(シリーズ)にとって〈小市民〉とはひとつの建前、それを目指しているのだと発言し続けることによるパフォーマティブな効果にのみ関わっている観念であって、本質的に、小佐内さんは執念深い狼だし、小鳩くんは「またつまらぬ推理をしてしまった……」やれやれ系のウザい探偵(狐)だということだろう。小鳩くんは論外として、小佐内さんのこと絶妙に好きになれそうでまだなれてないな……というか小鳩くんと絡む必要性を感じない。。狼らしくひとり孤高に好き勝手高校生活を謳歌しててくれ。それじゃあ青春ミステリにはならない??そうっすね……

でも序盤で悶えていたような「イチャ♡ミス」の雰囲気は後半かなり鳴りを潜めたな。……完全に途絶えていない(むしろより濃くなっているんじゃないか疑惑もある)のが安心できないところだけれど。

 

続刊を読みたい気持ちもあるけれど、それよりも、続きを読んだらよりこいつらのことが好きになれなくなるんだろうな~めんどくせぇなぁ~という気持ちがギリ勝っている。


小市民シリーズを読む前のなんとなくの想像として、「ぼくは小市民でいたいのに、やれやれ……」と言いながら推理して解決しちゃうだけの話だと思っていた。それはそんなに間違っていなかったのだけれど、しかし、探偵行為の暴力性の自覚からくる忌避感と同時に、小市民であり続けることの息苦しさ、不健康さにまでちゃんと焦点を当てて、それらのダブルバインドによって懊悩する高校生を描いていたのでわりかし(予想してたよりは)良かった。

 

 

 

 

 

『アムラス』トーマス・ベルンハルト

 

 

「アムラス」と「行く」という中編小説2つを収録

2023/11/6〜17
計8日間

 

「アムラス」 1964年

『凍』に次ぐベルンハルトの第2作目

計4日間

 

11/6(月) p.7~p.26

文章がヤバい。長いし修飾関係もわかりにくいし日本語として文法が合ってるのかわからないくらい難解だ…… 訳の問題じゃないよなこれ。句点はあまり使われず、「……」で文が区切られる。読点は多用され、文が長くなりまくっている。

暗さと狂気に呑み込まれそう。自殺というオブセッション。2年前に冒頭だけ少し読んだ『ウィトゲンシュタインの甥』では、医者disが激しすぎてユーモアになっているというか、真顔でずっとふざけてるように思える文章だった覚えがあるが、今作は雰囲気が一転してダーク。すさまじい。言葉でこんなものを創造できるのか、と畏怖してしまう。

 

一家心中で両親が死に、未遂で生き残った兄弟がアムラス(地名)にある塔で暮らす様子が描かれる。

語り手:兄。19歳? 自然科学(生物学)が好き。
ヴァルター:弟。18歳? 音楽や文学が好き。母譲りの病弱体質で癲癇(てんかん)持ち

 

二本の支柱であるかのごとく両親にくくりつけられた全生涯を、わたしたちにとっていつでも不気味であり、母にあっても不気味だった「ティロール癲癇」に不安を抱きつつわたしたちは過ごさなくてはならなかった…… p.14

わたしたちに聞こえたのは、途切れなくも疲れ果てた化学結合をしている澄んだ水流であり、わたしたちに見えたのは昼であろうと夜であろうと、夜以外のなにものでもなかった…… p.15

気分を変えるにも互いを介するしかなく、わたしたちはアムラスで、たぎりたってはまた硬直する兄弟の結びつきにいるわたしたちを見た……くり返し問いつづけながら、どうしてぼくたちはまだ生きなくてはならないのか、と……だがいつまでたっても答えはなかった──明察に導いてくれる谺はこれまでなく、決まって脳卒中のようにはね返ってくるばかり!──それが人間にとってふさわしいとはいえ、わたしたち自身のなかで、わたしたちの周りでいっそうのこと、刻々と収縮してゆくふたり分の脳髄における孤独状態にあり、ほかによすがもないため互いを恃み、惨めなこときわまりない立ち居振る舞いで…… p.16

 


11/7(火) p.26~60

呪われた土地、呪われた家族、呪われた兄弟。『悪童日記』よりも前の作品か……
父親の仕事?が傾いて資産を失ったために一家心中しようとしたのか。
一方、わたしたち兄弟の後見人となってくれている地方政治家の「おじ」は裕福になっていた。父とおじが、「わたしたち」の兄弟関係とアナロジーになっている? おじは母のきょうだいっぽいけど。

「床と壁」「アウクスブルクの小刀」などの小さい章立て

数ヶ月だけ通った大学・アカデミアへの痛烈なdis

父の友人の精神科医ホルホーフへ宛てた何通もの手紙の形式で進む。

わたしたちはいつも互いの身体を嫌悪して生きてきて、それがしばしば切実だった、これは本当だ……ヴァルターの体質、過剰な体質は母の体質だったが、わたしには異質で…… わたしの体質は、父のそれで…… わたしたちふたりは一生涯、相互のあいだが媒介されていた…… ヴァルターの病を通じてわたしたちの(互いに寄せた)反感は、(互いに抗する)好感となった…… p.47


弟ヴァルター死んだ!!

内科医の癲癇患者用椅子と、病院のある建物の階段、何階建てかについて「わたし」は考えていた。

 


11/8(水) p.60~92
弟の手記! 短文集といったかんじ 「曲馬団」

 

ご承知のとおりわたしたちは散文の敵であり、おしゃべりな文学、愚かな物語、とりわけ歴史小説、資料や歴史的偶然の反芻には吐き気を催すのでした、たとえばサランボーにすら…… p.70

露骨にメタ自己言及っぽい記述。この小説自体が〈物語〉や典型的な〈散文〉とは対照的なうわごと小説だから。


ヴァルター「律」  再びアフォリズム集のような

全生涯。ぼくはぼくであるのを望まない。自己はありたいと望むのであり、ぼくであるのを望むのではない…… p.72

ぼくはぼくの死と理想的な関係にある。 p.73


「ある役者」 子供のグロテスクさを表すよくある寓話

「書付帳」 ヴァルターが自殺直前に書いたもの?

「アルドランスで」

ヴァルターは塔の窓からの飛び降り自殺であっただろうと推測された。
ひとり残った「わたし」はおじの伝手でアルドランスの山林監視所で働くことになる。
精神が比較的安定し、生物学や文学への関心も戻ってくる(文学はヴァルターのものを引き継いだ?)。

引きこもってるより毎日働いたほうが心身ともに健康になるのわかるわ~~
木樵たちへの言及。のちの『樵る』との関連は?


11/9(木) p.93~p.117

幼少のころよりすでにわたしは、世界からひそかに出てゆく、と考えていた……みんなのうちわたしだけがひとり残されている。 pp.93-94

山林監視所で働き始めて精神が安定したと思いきやそうでもない? 「わたし」のうわごとは続く…… だんだん断片性が高まってきているような。

「唐松林」「木樵」

山岳は人間に敵対する。高い山岳が人間を圧迫するときの残忍さ……人間の脳髄のなかへ進出する岩石の恐怖の方法。 p.98

人間・自分たちに対する自然の圧倒的な存在、自然に対して人は無力……的な文はしばしばある。語り手にとって自然とは。

 

「ねえ」と令嬢が言う、「ちょっと墓地に寄ってゆきましょうよ、この前の火曜日も墓地に寄りませんでしたっけ……おじさまのご家族のお墓に」…… わたしたちは門を抜け、それから左に折れ墓へ降りてゆくと、彼女が言う。「お墓参りがずっと好きだったんです。」祖母とともに彼女はいつでも「手の届く」あらゆる墓地を訪れた…… p.99

農園の「令嬢」とかいう女性キャラが初めて登場した。ヒロイン? 

 

わたしが先に歩き、令嬢のために森の藪をかき分けるよう努める……彼女はかき傷だらけで……上着の袖を掴んでわたしを植林したばかりの若い森から連れだし、唐檜の幹と幹のあいだへと背を押す…… 彼女のあとを追おうとするが、彼女は左右に跳ねながら進む…… わたしが隠れ、彼女が隠れ…… わたしが呼ぶと彼女は応えず、彼女が呼ぶとわたしは応えず…… p.104

ここやけにキャッチーですき

 

いろんな固有名詞の単語を羅列する。地名から専門の生物学用語へ

 

わたしたちは考えることをはじめたときから、両親がわたしたちの家に導き入れた精神の高山性近親交配のなかでつねに生きてきた。 p.111

どゆこと?(今更

 

あの両親のもとに生まれていなければ、とか、この地域に生まれていなければ、という呪詛。親ガチャ、出身地ガチャ。

 

大学教授宛ての書簡のなかから鬱病大学院生向けの文章みつけた

わたしの思考は役に立たず、もはや思考ではありませんし、わたしの感情も同様です…… 規則にしたがい何か月ものあいだ講堂で過ごさなくてはならなかった暗い時代につづいて、突如としてこのうえなく暗い時代となったのでした…… わたしはこれ以上なにも研究をいたしません、精神の均衡を完璧に破壊され、圧殺された経験の森のなか、それらの経験を精神の物凄まじい根拠としてわたしは歩んでいます、すべては死にました、すべての書物は死にました、わたしが吸い込んでいるのも死んだ空気にすぎません…… pp.113-114

 


おわり!!

なんだこのおわり。えーと、とりあえず「わたし」は山林監視所のあるアルドランスや、(おそらくより広範の地域を指す)ティロールを立ち去ったらしい。「将来、なんとか自分自身でやってゆく……」 がんばれ。お先はどう考えても真っ暗そうだけど。

うーむ…… 序盤、文章の雰囲気の異様さ、陰鬱さと狂気に目が眩んで衝撃を受けたけれど、途中からはあんまり入り込めずついていけなかった。まぁそもそも難解で意味が取りにくい内容ではあるけれど、後半になるにつれてアフォリズム感が強くなっていったのもまた、乗りにくかった原因のひとつだろう。こういうのが強烈に刺さるひとがいるのはわかる。じっさい自分も若干刺さったというかかすって刺さりかけていたけれど、最終的には惜しい!ってかんじ。

ただし、ベルンハルトの小説のなかでこれは比較的読み易くストーリーがあるほうだとどこかで聞いたのにはマジかよ!嘘だろ!!嘘だと言ってくれ……と慄いている。これもほとんどストーリーねぇじゃん。狂人のうわごとじゃん。ベケットってこういうのをもっとヤバくしたかんじなのかな、読める気しねぇな。

 

 

「行く」 1971年

11/14(水) p.121-135

冒頭からずっとヤバい。「アムラス」はベルンハルトのなかではまだ「普通の小説」寄りだというのがわかる……

ほぼ改行がなく、最初にひとつの最小限のシチュエーションが提示されてから、それをひたすら語りによって反復し、語り手のうわ言・独白が続く。グルーヴ。テクノミュージック? ジャズ? 

いちおう三者関係モノではあるのか…。

なんか反出生主義・反生殖主義っぽい記述が続くぞ。子供に対する国家の養育費支援をも批判しているのはちょっと流石に同意できないが。ラディカルすぎる。

 


11/15(木) p.135〜170

見ることと考えること。

カラーはルステンシャッハーの店で店主と甥と議論をしたことで発狂した?
カラーの学生時代からの親友である化学者ホレンシュタイナーが国家から研究資金を引き下げられたことで自殺したのも関係している?

オーストリアの郷土の風景への愛着は認めるが、国家はボロクソに貶す。
結構エリーティズム、優生思想っぽさがある。

 


11/16(木) p.171〜214

カラーを診療する精神科医シェラーへのエーラーの悪口。ほんと精神科医嫌いだなベルンハルト。

カラーが発狂直前に入ったルステンシャッハーの店はズボン屋だった。店のズボンがどれもほつれていることから、チェコスロバキア製の低質な生地を使っているのではないかとカラーは店員(ルステンシャッハーの甥)にイチャモンをつける。迷惑客。イギリス製の最高級の布地だと言い返す甥。

「アムラス」ほど読みにくくはない。この文体は慣れればむしろスイスイ読める。「…とルーラーは言った」などの文が途中に入っているのをうまく無視して肝心の発言内容だけを繋ぎ読みすることができてくるから。
ただ、読み慣れてはくるものの、この小説、何??という異様さへの当惑は依然として高まるばかりである。ヤバ。

 


11/17(金) p.214~246

「行く」おわり!!! 変な小説ではあったがおもしろかったかといわれると全く頷けはしない。75点くらい?
歩行と思考の関係
めっちゃロジカルな文体ともいえる。コンセプチュアル。ふたつの人物や概念の入れ替えで文を連鎖・反復させていく感じとか。。

 


・訳者解説

「アムラス」バレエ化や演劇化がされてるってマジかよ。まぁ舞台が塔の中とか限られているからやり易いのか。
「行く」、エーラーとカラーがユダヤ人だったなど全く分からなかった。アメリカ亡命ってそういうことね。
「~~とエーラーは言う」という挿入文節は漫才におけるツッコミのようだという指摘、わかる。

郷土を憎んでいるが出ていくこともせず、出ていきたいと願いながらも出ていけず留まり続ける……岡田麿里は実質ベルンハルトだった…

 


 

 

 

 

『繭の夏』佐々木俊介

『繭の夏』1995年刊行

 

 

2024/1/24~26(3日間)

 

読むきっかけ

↑これで◎が付いていたので。(他にも何冊か注文したなかでもいちばん早く届いたので)

 

※ ふつうに真犯人とかのネタバレ書いてるのでご注意ください

 

 

1/24(水) p.9~47
読み始めた。二章まで。
まだ物語はほとんど始まっていない。

文体が『密閉教室』よりも普通に気取っていて読みにくい。無駄な情景描写とかに労力を使いたくない(情景描写一般が無駄だと思っているわけではなく、海外文学とかで素晴らしいものを読んできているからこそ、どうせそのレベルではないからと見切りをつけてしまっている。ただミステリだとそこに伏線や大事な情報が潜んでいる可能性が常にあるから余計に読み飛ばせず疲れるんだよな……情景描写を純粋に情景描写として読ませてもくれない。嫌い! まぁまだそうと決まったわけじゃない早合点だけど。。)

17歳男子高校生の弟(主人公)と、22歳大学4年生の姉のきょうだい2人暮らし。両親を早くに亡くして親戚に引き取られて育てられたからか、こいつら異様に仲がいい。姉ちゃんが来年就職してからも2人暮らしを続けるつもりのようだ。経済事情ゆえとはいえ。。
お姉ちゃんがめっちゃ萌えで草生える 実姉モノエロゲだ。 おとーとくんは典型の文学青年

 


1/25(木) p.48~150
第三章
えっ!? 語り手が姉の祥子に交代した! きょうだい2人で代わる代わる語っていく系か いいね👍

 

第四章
ゼミ同期の轡田くん、祥子のこと好きなん?

 

第五章
スリーピング・マーダー(回想の殺人)
夏(休み)の気怠さと、若者が社会に出ていく直前のモラトリアムの憂鬱と、「何かワクワクするようなことを成し遂げたい」という漠然とした欲望がないまぜになった「青春」感を、過去に起きた(かもしれない)謎めいた事件を探っていく、という後ろ向きの冒険と掛け合わせているわけか。探偵行為の暴力性(不謹慎さ)もとうぜん扱われている。

 

第六章
第七章
咲江さんの同期の児文研メンバー4人ひとりひとりに話を伺うパートが始まった。ここでも祥子と敬太郎が代わる代わる語り手(兼インタビュアー)を務める。

 


1/26(金) p.150~328
第八章~終章(第十六章)

読み終わった! 最後の終章、咲江さんの死の夜の〈真相〉を語るくだりだけ、回想ではなくて当時の現在時制に戻って三人称で語られる。それは、曲がりなりにも〈スリーピング・マーダー〉を標榜してきた作品のオチとしてどうなんだ? 最後に投げ捨てたか? と思ってしまった。まぁ、擁護しようとすれば、「いや、むしろ本作はこの終章で三人称視点を持ち込むことによって〈回想〉行為の挫折──ひいては主人公ふたりのひと夏の〈謎解きゲーム〉の苦い終幕──を決定づけることに成功した。そうして表現されるものこそが真の青春であり、〈繭の夏〉なのだ」的なこと言えるとは思うけど。
あと、それでいて、三人称で終わるのでもなくて、終章の後半はまた敬太郎視点で軽くビターエンドを描いて終わる、というのもまた、どっちつかずで首をかしげた。最後は敬太郎視点かーい、という(フェミニズム的な?)文句にかんしては、まぁその前の章での実質的なゆいいつの〈推理〉パートがまるごと祥子に委ねられていたことから、バランス取れていて許せるけど。

 

ラストの、深夜に布団の上で姉弟が抱き合う光景はあからさまに近親相姦っぽくて、哀しい真相を知ったことからくるビターさとはまた別の背徳感を読み込んでしまった。本筋・主題には近親姦の要素を見出すことは難しいが、強いていえば宮沢賢治生命倫理(動物倫理)や子供の残酷さ、それから咲江のルッキズム的苦悩(の末の「……キスしてよ。この場で、私のこと、抱いてよ」という切実な脅迫)などのテーマの関連として結び付けられるか? ……苦しいっすね。

 

咲江さんの真相は確かにとても哀しくてやるせなくて、尾を引くような読後感だったけれど、ただ、これまで聖母のように優しくて純粋無垢だと思われていたキャラクターの内面のぐちゃぐちゃした怒りと絶望があった──というどんでん返しは、エロゲとかでもよくあるので、正直あ~こういう系か~と陳腐にも思えてしまった。(青春)ミステリとしては、仲のいいきょうだいが始めたひと夏の謎解きゲームだけれど最終的には自身の好奇心=暴力性を後悔するほどの辛い真相に鼻をへし折られるビターエンドで、まぁ座りはいいんだろうけれどやっぱり凡庸さは否めない。

 

あと、直前に読んでた『密閉教室』と比べてしまうと、謎解きの完成度はどうしてもかなり劣っていると思う。「回想の殺人」だから仕方ないとはいえ、あまりにも都合よく、ふたりが行動すればするほど耳寄りの重要情報が手に入っていくさまはミステリというよりはドラクエのおつかい(クエスト)を眺めているみたいだった。「とにかく足を動かすことが大事」という教訓は得られた(それしか得られなかった)。細かいところでも、終章の真相パートでは本堂の指紋が窓枠とかあちこちに付いているのでは?とか、南に見せてもらった集合写真を借りるのは断られたけど、それをさらに写真撮影したいとか申し出ていたら自然に断るのはキツかったのでは?とか、咲江の睡眠薬関連はいろいろとガバガバ過ぎない?(咲江経由以外で手に入らなかったのか、通院日と飲み会日が被ってる都合の良さ、けっきょく常用してた咲江には効かなかったの草)とか、あれこれ引っかかるところはたくさんある。ロジックの完成度は重視していないのだろう。これは「本格ミステリ」ではないってことでいいの? これももしかして入るの? (まぁそもそも『密閉教室』が「本格」だというのもえぇ……と思ってしまったが。まず「どう考えても本格でないミステリ」を読んだことがないから判断のしようがない。『ディスコ探偵水曜日』とかはさすがに違うと思うが、あれはミステリかどうかもかなり怪しい奇書の類だろう。『さよなら妖精』などの米澤穂信作品も非-本格ってことでいいよね。『亡霊ふたり』は──どういう謎解きだったかもうさっぱり忘れてしまったが、非-本格でしょう、たぶん。(これ意味ある??) )

 

とはいえ、やはり、ミステリは読み易くていいですね。すらすら読める。小説を読んでいて、ストーリーの先が気になって読み進めたくなる、という体験を久しぶりにしている。そうか、先が気になる小説ってあるんだ・・・ストーリーがほぼ存在しない、苦行みたいな小説ばかり読んでいたから……ベルンハルトとかアレナスとかプラトーノフとか…………

 

 

 

 

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