『密閉教室』法月綸太郎

 

原著1988年刊行(デビュー作)

 

※ふつうに犯人とかのネタバレしてるので注意

 

2024/1/21(日)~23(火)

 

 

1/21(日)

なんかここ数日ミステリ読みたい気分なので読み始めた。なんでだろう? 小市民シリーズがアニメ化決定したから?(それで積んでた『春期限定いちごタルト事件』を開いてみたけど文体がラノベだったのでウッ……となってすぐに閉じた。代わりにこれを選んだということ?)

 

とりあえず第一部まで読んだ。 ~p.123

序章「プレリュード」だけ三人称で、本編は男子主人公:工藤の一人称になった。高校3年の11月の話。
文章は(ジャンル成立以前なのでとうぜんラノベとは異なるが)かなり平易で読みやすい。
今のところ主人公の振る舞いがウザい。そういう探偵の暴力性を告発する作品らしいけど。
担任の男性国語教師:大神(工藤は内心"ネロ"と呼んでいる)は純文学・私小説好きでミステリ嫌い(クイーン『チャイナ橙の謎』で失望した)。工藤とは正反対という示唆的な設定。他にも副担任の男性英語教師が趣味でジェイムズ・ジョイス研究をしてるらしい。なにそれ

 

男子生徒の密室死が起こった7組の教室から消えていた48個の机と椅子の「謎」、めちゃくちゃしょうもなくてワロタ 警察それに気付かないって嘘だろ
ゼロックス・コピー」とか耳馴染みがなくて時代を感じる。今は深夜コンビニのコピー機があるので話が成立しない。
同級生の真部くんがいきなり自殺未遂の夜の体験を語るシーンはなかなか迫真的で面白かった。

章がマシャード並に細かく分かれていて読みやすくていい。これもトリックに使われたらどうしよう。ある章ではこっそり語り手が変わってるとか。

 


1/22(月) p.124〜288

第二部
吉沢さん相手にいきなり敬語に切り替わるの怖すぎる
工藤が警察に協力を要請されるのとか、何もかもがミステリとして都合良すぎて違和感がある。おそらく意図的な上滑り。

 

第三部
主人公(工藤)は吉沢さんのことが好きで、吉沢さんは殺された中町と付き合っていたけれどクラスのマドンナ梶川さんに取られていた……なんだかドロドロの痴話っぽくなってきた。副担任の八代と、海外文学趣味繫がりで梶川さんは噂を立てられていたけど事実無根だった?
中町は実は一歳年上だったのがどれだけ重要なんだ。
大神先生の人文学スタイルの推理(というか"批評")シーン迫力あって良かった。
犬塚の強襲。やっぱり飛龍館事件(女子トイレ窃視事件)も関わってくるか。

 

1/23(火) p.289~

チャンドラー『長いお別れ』の引用

 

第四部

教師たち全員が密室トリックの犯人だったことで、生徒vs教師 という構図が鮮烈に立ち上がった。それによって、森警部が学生である工藤に捜査協力を頼んだ、というファンタジー展開もある程度納得がいくようになった。その理由は幾つかあり、説明が難しいが、まず、覚醒剤シェルターの件で森警部は始めから教師陣をクロだと思っているために、彼らに深い協力を仰ぐことは出来ず、したがって代わりに生徒に接近するのはまぁ妥当であること。そして、実際に工藤が役に立つか否かに関わらず、捜査戦線に学生がいること自体が教師陣への牽制になると森警部は考えていた可能性もある。この意味でもやはり工藤は道化だった。さらにそもそも、メタに見たときに、ここで生徒vs教師の構図(工藤vs大神の構図)をよりあからさまにするための展開だったともいえる。したがって、単にミステリの主人公だから、推理が得意だから、という理由でそうなっているわけではないと考えられるため、割と許せる。

 

教師対生徒の構図はブラフだった…… 一度、先生たちが犯人ということで終わりそうになった話の重心が、学生達の痴情のもつれへと帰ってくる。おかえり。

 

いろんな人物が推理を開陳しては空振り、何度も真犯人が書き換えられていく。ようこんな(に)トリック、話を思いついて小説としてまとめられるわ……ようやるわ〜〜

しかし、よく出来たトリックや事件、ミステリを読んだとしても、正直なところ、「すごいけど……だから何?」と思ってしまう節もある。いっときその建造物の完成度に感嘆して、あとは立ち去って、感慨は尾をひかない。推理パズルじゃなくてヒューマンドラマを求めてるんだと思う、結局は。小学生の頃、パスワードシリーズやはやみねかおる作品に心酔してたのも、根本的にはキャラが良かったからだと思う。彼らの恋路とかに胸をときめかせていた。

 

工藤と吉沢さん、めっちゃキてて草 それを工藤の一人称ではわざとぼかしたり省略してるのがまた小憎らしいですね。キュンキュン…するか?
てか、このおはなし400ページ以上あってたった1日の話なの凄いな今更ながら。

 

読み終わった!! どういうこと!?!? モヤモヤする!!!

え、けっきょく吉沢さんの推理通り、梶川さんが真犯人でいいの!? そんなわけなくない?? なんか最終的には、聞いてた通り、工藤の名探偵面が(好きな女子でありさっきまでいい感じだった)吉沢さんから徹底的に糾弾される展開で幕を閉じた。そこだけ見たらまぁ工藤ザマァwww とメシウマだけど、しかし吉沢さんの推理にも到底納得出来ないのでモヤる。納得感を求めている時点でお前も工藤と同じ穴のムジナだよ!と言われるかもしれんが、それを言ったらこれをミステリとして書いている作者がいちばん悪いからな……
(第四の壁系メタエロゲのプレイヤーへのダイレクトアタックに対する引っ掛かりに似ている)

 

中町をナイフで殺した真犯人、降旗じゃないの? 完全に勘だけど。事件当時に校舎内にいたし、ナイフの持ち主だし……。メタ読みだけど、後半あまりにも影が薄かったのも怪しい。

 

吉沢さんが根拠とした梶川さんの胸ポケットから塩が出てきた件は確かに分からんけど、それだけで真犯人だというのもオチとして弱すぎねぇ?と思うし……八代先生ともやっぱりデキてて、その恨みで擦りつけるために教官室内でわざわざ掻き切った、というのも納得がいかない。それから、翌朝クラスで死体を見た瞬間に昨夜自分が殺したことを「忘れてしまえる」というのも飲み込める訳がない。総じて、梶川さんが真犯人だとすると、そうして梶川さんというひとりの人間をヤバい奴として徹底的に外部化して終わることになるから、フェミニズム的にもミステリ的にも受け入れ難い。

 

あと最後のあとがきコーダの手紙もマジで分からない。誰?

真相をボカして仄めかしたままで終わる系ミステリ、どうせネットで「考察」を読む羽目になるから嫌なんだよなぁ。。読むけど……

結局この事件はどういうものとして描きたかったのか、というのと、この小説はどういう狙いがあるのか、という両層でモヤモヤしている。

さっきまで、いくらよく出来た話だとて!!と一蹴していたのが、今はむしろその事件の真相について頭を悩ませているというのは、上手く踊らされているようで悔しいなあ。そういう狙いの作品ってことかあ?

 

解説よんだ。
なんかそんなに褒めてなくてワロタ
細かい章区切りはヴォネガット猫のゆりかご』かぁ

 

 

最後の「コーダ」から作品全体を考察している文章あった。

エヌ氏調査報告書〜法月綸太郎に関するエトセトラ。


えーとようするに、この小説じたいが最後の手紙の受け取り主の創作で、工藤くんが吉沢さんに(名探偵として/求愛者として)すげなくフラれただけでなく、それをミステリ作品として愉しむひとつ上の次元のミステリ好き(≒作者/われわれ読者)もまた、高校時代の想い人にすげなくフラれるってわけね・・・。 え~~? そういう安易なメタフィクション読み、しょうもなくない???
ん~~…………まぁこういう読みをすれば、本作の青春小説としての格(?)は上がるかもしれないけど、いち青春小説好き(兼ミステリ嫌い)としては、べつに嬉しくないなあ。。
思春期の(ヘテロ)男子の独善的で恥ずかしい恋愛衝動と、ミステリ好きの独善的で恥ずかしい創作/読書衝動をアナロジーとして位置づけているのかもしれないが、その時点でそういうとこやぞミステリマニアめ!!!と言ってやりたくなりますね(いつもの藁人形論法)

(探偵ぶりたい/ミステリ好きの)僕はこんなにしょうもないんです、だから好きな女子にもすげなくフラれちゃうんです……じゃねぇんだよ!! そういう自虐・自意識を開陳することそのものがウザいんだっつんてんのこっちは!!! もっとシャキっとせい!!!!(マッチョイズム/パターナリズム?)

 

 


なんかいろいろ否定的に書いてしまったが、スラスラ読めた、それだけでかなり心象は良いです。青春モノかつラノベ的文体でない、という厳しい条件をくぐり抜けている稀有な作品かもしれない。いや、わたしが知らんだけでいっぱいあるだろうが……

 

http://blog.livedoor.jp/mirakulepipi0412/archives/52491416.html

自分と同じように降旗を真犯人だとなんとなく思ってる方の記事。どうしても憶測の域を出ないように周到に計算されている物語なので、読後に真犯人を当てようとすればするほど「自分の見たいものしか見ていない」主人公の工藤と同じ醜態を晒すような仕組みになっているのですよね。うーむ……やはり、この次元でもよく出来てはいるとは思うけど、だから何?感が拭えないんだよな……

最後のコーダの手紙の宛先主まで降旗(に相当する人物)ではないか、という意見。一考の価値はあるか。いずれにせよ、吉沢さん(に相当する人物)にすげなくフラれた文面で作品をナルシスティックに終わらせている事実は動かないので、そんなに評価が好転はしないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『土台穴』アンドレイ・プラトーノフ

 

 

アンドレイ・プラトーノフ『土台穴』(1930年執筆)

 

2024/1/9〜19(計10日間)

 

 

1/9(火)  p.3~23

自然の擬人化が多め? 抑制的だがやや独特な文体。生きることの哀しみ、憂鬱さ。『あまりにも騒がしい孤独』を少し思い出す。

陽が西にとっぷりと傾くまで、ヴォーシェフは黙々と町を歩きまわった。それはまるで世界が広く知られる時を待ち望んでいるかのようだった。しかし彼には、この地上のことがあいかわらずぼんやりしていて、何もないのに、何かがはじまるのを何も妨げない静かな場所が体の闇にあるのを感じていた。 本人不在のままで暮らす者のように、ヴォーシェフは人々のそばを散策し、 嘆き悲しむ頭が力を増していくのを感じつつ、ますます自分の窮屈な悲しみへ引き籠っていった。 p.15

こういう文章が頻繁にある。「世界」「体の闇」よく出てくる

主人公ヴォ―シェフはASD傾向っぽい。というか三人称の語りそのものが。「世界」とか、やけに抽象的に風景事物を捉えている。

もう「土台穴」出てきた。主人公たちの労働現場か

>空き地に技師が一人立っていた。年老いてはいなかったが、その白髪には自然の年輪が刻まれていた。彼は世界全体を死体のように想像していた。彼は世界を、自分がすでに建物に変えた部分によって判断していた。世界はいたるところ自然の惰性という意識にのみ閉じられた彼の注意深い空想的な知恵に屈していた。物質はつねに正確さと忍耐力に屈していた。よって、物質は死んでおり、虚ろなのだ。しかし、人間は生きていて、もろもろの倍しい物質のなかにあって価値があった。だから技師はいま、職人たちの組合(アルテリ)に丁重に微笑みかけていた。 技師の両頬が、十分な栄養のせいではなく、心臓の余分の鼓動からピンク色に染まっているのにヴォーシェフは気づいて、この男の心臓がいきいきと脈うっていることが気にいった。 pp.20-21

「土の下にはなぜか傲慢さがあったんだが、ここは粘土が出はじめた。 じきに石灰石が出るぞ!……わけないことさ。起こるべきことが起こったんだ。鉄なんぞで土を掘るなよ。 そんなことしたら、バカ女みたいに土が寝ちまう。やれやれ!」 p.22
どゆこと?

 

粘土の素っ気なさと、アルテリの擁する人手が足りないという意識から、チークリンは古い土壌を急いでつき崩していき、おのれの体の全生命を、死んだ地面に打ちつけることに向けていった。彼の心臓はいつも通りに脈うち、がまん強い背中は汗で憔悴し、皮膚の下には余分の脂肪がまったくなかった。彼の古びた血管と内臓は皮膚の表面に身を寄せあい、計算や意識はないながら彼は的確に周りのものを感じていた。かつては彼も若い頃、娘たちに愛されていた。おのれを惜しまず、すべての人々に捧げられた力強い体、どこへでもゆったり歩いていく体に対する貪欲さからだった。その頃、いろんな女たちがチークリンを必要とし、彼の誠実なぬくもりに保護と安息を求めた。しかし彼は、自分にも何かが感じられるようにあまりに多くの女たちを保護しようとしたため、嫉妬した女たちや仲間たちから見放された。そして、チークリンは寂しくなると、夜ごとバザールの広場に出向いていっては屋台を倒したり、どこかへ持ち去ったりし、それがためにやがて牢獄で苦しむはめとなり、桜の咲く夏の夜に彼はそこから歌を歌うのだった。 pp.22-23

「かつては彼も若い頃……」からの、ヌルっと簡潔にサブキャラの個人史を描写する手つきがうまい。そして最後の一文で飛躍する。

いつのまにか人名がたくさん出てきててもう分からなくなった。

 

1/10(水) p.24〜37

上部構造とは、精神活動、文化みたいなものか

すでに黄昏が迫り、遠くで紺青の夜が立ち上がり、眠りと涼しい息吹を約束していた。まるで悲しみのように、大地の上に死んだ高みが漂っていた。 p.29

「大地の上に死んだ高みが漂っていた」??

 

プルシェフスキー技師はすでに二五歳の時から自分の意識が圧迫され、生命のさらなる理解に終止符が打たれているのを感じた。暗い壁が、感じとろうとする彼の知恵の前に執拗に立ちはだかっているかのようだった。それ以来、彼はその壁のそばで悶々とし、つまるところ、世界と人々が一つに結合した物質のもっとも中心の、真のなりたちを体得した、として心を落ち着かせた。欠くべからざる全ての科学は意識の壁の前でいまも足踏みしているが、壁の向こう側には、ことさらめざさなくてもよい退屈な場所があるだけなのだ。しかしそれでも、だれか、その壁をよじ登り、出ていったものがいたか、ということには興味があった。 p.32

この後、プルシェフスキー技師が自殺を決心した


1/11(木) p.38〜71

ふたりの男がそれぞれ工場主の娘とすれ違ったエピソードを引きずっている。
ヴァーシェフが主人公というより、土台穴の工事関係者たちの群像劇か。
男しかほぼ出てこない、めっちゃホモソーシャルっぽい空間。

引退して年金生活に入ることができるのか→コズローフ。怪我や病気などの事情がないと駄目?

 

ジャーチェフは台車ですでにすぐそばまで来ていた。やがて台車を後ろに引くと、勢いをつけて突進をはじめ、コズローフの腹めがけ全速力でもの言わぬ頭を突っ込ませた。コズローフは恐怖のあまりひっくり返り、最大限の社会的利益という願いをしばし失った。チークリンはかがみこむと、台車もろともジャーチェフを持ちあげ、勢いよく空中に放り出した。ジャーチェフは運動のバランスをとると、飛行線から辛うじて言い分を伝えることができた。「なぜだ、ニキータ! おれはやつに、第一等の年金をもらってほしかったんだ!」そして彼は落下の力を借り、体と地面の間で台車をばらばらに砕いた。 p.66

いきなりバトルアクションパート始まって草

「片輪者」ジャーチェフいいな。足は不自由だけど台車を使えるというキャラ立ち
こんだけガッツリ社会主義体制批判みたいなことしてるのに弾圧されないのは、周りのこいつらも結局は体制に抑圧される労働者階級だからなのか→いやジャーチェフは資本主義・ブルジョワ階級ガチアンチで社会主義にはむしろ賛成か。


1/12(金) p.72〜93

チークリンは、自分が大人になり、うかうか感情を浪費し、遠い土地を歩き回り、いろんな仕事をしてきたことが、悲しくもあり、神秘的でもあった。 p.73

😢😢😢

 

中庭を通りすぎるなり、チークリンは急にもとの場所に引き返し、死んだ女に通じるドアの前に砕けたレンガや、古い石の塊や、他の重いものを積み上げた。プルシェフスキーは手助けをせず、後からチークリンに尋ねた。
「なぜ、そんなことをしているんです?」
「なぜかって?」チークリンは驚いて尋ねた。「死人だって人間だからさ」
「でも彼女には何も必要じゃない」
「彼女にはね、でも、おれには必要なのさ。人間の何かが節約されるといいんだ。死んだ人間の悲しみや骨を見ると、なぜ自分がいきなければならないかってことを、おれはものすごく感じるのさ!」 p.88

チークリンが故郷のタイル工場跡地へ行って、例の女性の今際の際に立ち会った。ほんとか?
老婆かと思ったら32歳だった。
その娘の少女を土台穴の工事現場バラックへ連れてきて、みんなで歓迎した! なんかいきなりものすごくキャッチーで読み易く分かりやすくやって草

「君はどこのだれかな?」とサフローノフが尋ねた。「君のお母さんやお父さんは何の仕事をしていたの?」
「あたしはだれでもないわ」と少女は答えた。
「どうしてだれでもないんだね? ソビエト政権のもとで生まれたことで、女性であることのなんらかの原則が君の役に立ったろう?」
「でも、あたしは生まれてきたくなんてなかったの。あたし怖かったもの、生んだお母さんがブルジョワだったら、って」 p.89


社会主義用語がなんとなく分かってきた。前衛(社会主義体制下で模範的)⇆後進(社会主義的に宜しくない) ってことね。ブルジョワは資本家で敵。「意識」も用語っぽい


1/13(土) p.94〜121

 土木作業員たちは少女のそばに近づき、少しかがんで尋ねた。
「どうしたい?」
「さあてと」と少女は注意を向けずに言った。「あたし、ここにいてつまんなくなっちゃった。だって、あなたたち、あたしのこと好きじゃないんだもの。夜になって眠り込んだら、あなたたちのことを殺してやるわ」
 職人たちはたがいを誇らしげに見交わすと、この幼い生命の知恵とすばらしさが湧き出てくる温かい場所を感じとるために少女を抱き、胸もとでもみくちゃにしてしまいたいと思った。 p.102


時系列がとんでコズローフとサフローノフが出張先?で一緒に死んでいた! ちょうど物語の折り返しあたり。 過労死じゃなくて他殺なのか。コズローフ年金生活に入ったんじゃなかったのか……あとサフローノフはわりと偉い人じゃなかったか

 

「きれいになったな」。そこでチークリンは言った。「二人を殺したのはいったいどこのどいつだ?」
 「チークリン同志、われわれには分からんのです。われわれが生きてるのも、たまたまなんですから」
「たまたまだと!」とチークリンはそう言うなり、意識的に生きはじめるようにと、百姓の顔を一発なぐった。
 百姓は倒れかかったが、チークリンに自分がどこかの富裕民とみられるのを恐れて大きくのけぞらず、前よりもさらに彼の近くに立った。見るも無残な片輪者にしてもらい、その苦しみを助けに、貧農としての生活権を得たいと願っていたのだ。チークリンは、目の前にそうした人間を見て、機械的にその腹部をなぐりつけると、百姓はひっくりかえり、黄色い目を閉じた。
 おとなしく脇に立っていたエリセイがやがてチークリンに、百姓は死んだと告げた。 p.121

え、なんかチークリンが黄色い眼の百姓を殴って死んじゃった! ここにきて人死にが多発している。


1/15(月) p.122〜148
コルホーズ=集団農場

 プルシェフスキー同志はこう書いていた。
「ぼくは辛いので、だれか女の人を好きになり、結婚するんじゃないかと思います。というのも自分が社会的な意義をもっていないからです。土台穴は完成し、春には石を敷くことになります。ナースチャは活字体が書けることがわかりました。君にその紙を同封します」 p.133

 

1/16(火) p.148〜168

 チークリンはナースチャを抱いて鍛冶場に入ってきた。エリセイがひとり外に残った。鍛冶屋はふいごを振り回しながら炉のなかに空気を送り、熊がまるで人間のように鉄敷のうえの灼熱した帯状の鉄を槌で叩いていた。
 「早くしろ、ミーシュ、何てったっておれとおまえは突撃班なんだ!」と鍛冶屋は言った。
 しかし熊は、それでなくても仕事に熱が入りすぎ、利益をあげるのに夢中だったので、金属の火花で焦げたウールの臭いが漂っているのすら感じてはいなかった。
 「これで一丁上がり、と!」鍛冶屋はきっぱり言った。
 熊は叩くのをやめ、もち場を離れると、喉の渇きをうるおすために半ヴェドローほどの水をぐいと飲み干した。それから、プロレタリアートらしい疲れきった顔をぬぐうと、手に唾を吐き、ふたたび仕事にとりかかった。 p.166

槌工の熊ミハイル!?!?
幼女と熊……

 

1/17(水) p.169〜191

富農たちを筏で川流しにして、コルホーズは勝利のパーティーに酔いしれ踊り明かす。
歩けないのにジャーチェフの機動力がヤバい。こいつなんやねん
ヴァーシェフは貧農たちが使っていた品々を拾い集めてきて、ナースチャに渡す。

 喜びいさむ民衆の群れを長いこと眺めながら、チークリンは胸のなかに善の安らぎを感じていた。ポーチの上から彼は遠い清らかな月を、消えた光の悲しみを、全世界の穏やかな眠りを見つめていた。その世界は、あまりの困難と苦しみが支度に費やされたので、この先、生きていく恐怖を知らずにすむよう、それはすべての人々に忘れ去られた。
「ナースチャ、そんなに長く体を冷やしちゃだめだ。こっちに来なさい」とチークリンは呼んだ。
「ちっとも凍えてなんかないわ。だってみんな息がはずんでるもの」。やさしい声で怒鳴っているジャーチェフの手を逃れながら、ナースチャは答えた。
「手をこするんだ。でないと凍えちまう。空気はでっかくて、きみはちっこいんだから」
「もう手はこすったわ。だまって見てらっしゃいよ!」

 

1/18(木) p.192〜215

「あんたはおばかさんよ」と言って、ナースチャは小作人の遺品をかき回しながら説明した。「なぜってあんたは見ているだけだもの。仕事をしなきゃだめなの。そうでしょう。ヴォ―シェフおじさん?」
 ヴォ―シェフはその時すでに空になった袋を被ったまま横になり、体全体をある望ましからざる生命の彼方へむりやり引っ張っていく無意味な心臓の鼓動に耳を傾けていた。「分かりません」とヴォ―シェフはナースチャに答えた。「どんなに一生懸命働いたって、最後まで働ききって、すべてのことが分かったときには、もう、へとへとになって死んでしまうんですからね。ナースチャ、大きくならなくなっていいんです。どうせ悲しい思いをするだけなんですから!」 p.193

名言

 

 「同志! 文化革命のために私たちのところにきたのはあなたですよね?」
 プルシェフスキーは目から両手を下ろした。彼のかたわらを少女たちや少年たちが読書室の農家に歩いていくところだった。一人の娘が彼の前に立っていた。フェルトの靴をはき、信頼に満ちた頭にみすぼらしいプラトークを載せていた。その目は驚きに満ちた愛で技師のプルシェフスキーを見ていた。というのも、この人間に隠されている知識の力が彼女には分からなかったからだ。だから、もし彼が、全世界を知り、そこに参加するすべを教えてくれさえすれば、彼女は白髪まじりの見知らぬ彼を、献身的に、永遠に愛することに同意しただろう。彼の子を生むことに、毎日でも自分を苦しめることに同意しただろう。彼女にとっては、若さなど、自分の幸せなど無であった。かたわらを疾走していく熱い動きを彼女は感じ、空をはばたく普遍的な命の風に心が高ぶっていたが、その喜びを言葉にすることはできず、いま、彼女は、それらの言葉を、すべての世界を頭のなかで感じ、世界が輝く助けとなる能力を教えてほしいと頼んだのだった。少女にはまだ、その識者が、自分と一緒に出かけてくれるかどうか分からず、活動家とこれからもまた勉強する覚悟でぼんやりと彼を眺めていた。
 あなたとこれから出かけます」とプルシェフスキーは言った。
 娘は思いきり喜びの声をあげたかったが、プルシェフスキーが腹を立てないようにそうせずにいた。
 「行きましょう」とプルシェフスキーがきっぱりとした声で言った。
 道に迷うなど不可能だったが、少女は技師に道を示しながら、前へ歩き出した。彼女は感謝の思いを示したがったが、後から歩いてくる人のためのプレゼントは何も持ち合わせていなかったのだ。 pp.203-204

プルシェフスキーがなんか少女に出会ってトゥルーエンドみたいな感じでひとり勝手に物語を終えやがった。なにこれ?


ナースチャに酷いことを言う活動家にキレたチークリンがまた殴る。こいつも死んだ? ほんと、しれっとすごい暴力が起こる……筏での富農放逐もそうだけど、こういうのがまさに社会主義体制下の残虐さってことか。

 

1/19(金) p.216〜230

活動家にとどめを刺してからヴォ―シェフが、人が変わったように覚醒してコルホーズ員を仕切り出した。

 ヴォ―シェフは組織本部のドアを空間に向けて開け放った。するとこの仕切られた広がりへ生きていきたいという願いが分かった。そこでは、たんに冷たい空気のみならず、大地のすべてのぼんやりした存在を克服するというまことの喜びから心臓が鼓動できるのだ。 p.218

 

「チークリン、どうしてあたしはいつも知恵を感じていて、絶対にそれを忘れないのかしら?」とナースチャは驚いたように言った。
「わからないな。きっと君が何ひとつよいことに出会わなかったからだろうね」
「でもなぜ、町では夜も人が働いていて、眠らないの?」
「それはきみのことを心配しているからさ」
「でもあたし、体中が変よ……チークリン、ママの骨をもっと近くに寄せて。あたし、それを抱いて眠るの。あたしもう、さびしくてたまらないの!」 p.222

 

ヴォ―シェフは、開いたまま何も言わぬ口と、その無関心な、疲れはてた体を見ながら、ナースチャに軽く触れた。ヴォ―シェフは立ったまま、静かになった子どもをけげんな思いで見おろしていた。彼にはもはや分からなかった。何よりもまず子どもの感情に、確固たる印象のなかに共産主義がないのなら、はたしていま、それはこの世界のどこにあるのか。もしも、真理が喜びとなり、運動となるような幼くて正しい人間がいないのなら、なぜいま、生の意味が、全世界の起源の真理が自分に必要なのだろうか? p.227

 

おわり!!

ひとりのいたいけな子どもさえ死なせてしまうような革命などいらない。そんな社会主義など破滅するだけだ。最後の展開だけ追えばそういう、非常に分かりやすい話になる。けれどこの小説の価値はそういう表層にはないんだろう……うーむ、むずかしい……

 

訳者解説。20世紀ロシア文学の最高傑作に数えられる。本場のロシア人にも難解なようで安心した。僕だけじゃなかったんだ……

ソビエト時代の歴史とか、社会主義について知識が無さすぎるのと、そういう次元に留まらない読解力を要求する何重もの難解さがあり、しかし少女や熊などやけにキャッチーな要素もある、不思議な小説だった。あまりにも茫漠としていて、とにかく寒々しく静かなのに恐ろしくて、寓話的だけど理念的でもあり。

 

解説も難しくて草
二分化を強制してくる全体主義体制を両義性によって討つ。まあ文学批評でありがちな論か。
え、でも集団農業には断固反対だけど、必ずしも反-社会主義体制、反ユートピアではないんだ……完全にそうとしか読めなかったが。
少女ナースチャがいくらスターリニズムを強烈に内面化した苛烈な発言をしてもなお、自分は少女であるというだけで「無垢」な存在だと認識してしまっていたので反省しなければならない。。

 

積んでる『チェヴェングール』を読むモチベは正直かなり下がったな……だってむずいしノれないんだもん…… 『土台穴』だけが飛び抜けて難解らしいけど……

 

 

 

 

 

 

『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー

 

 

 


2023/10/20~26
計6日間


10/20(金)
10/22(日)

太陽の男たち(1963)

バスラ(イラク)からクウェイトへの密入国を試みる三人の男たち。彼らをタンクの中に隠して走る車の運転手の男。
前半の三人それぞれのバックグラウンドを描写するパートは瞬間的に回想を往還する意識の流れのような文章でやや困惑した。
茫漠とした荒野や砂漠を舞台にした話に気持ちがのらない、というのはある。ルルフォ『燃える平原』やブッツァーティタタール人の砂漠』とか。申し訳ないが……
去勢された男。

 

うおー……なんとも衝撃的な話だ…… めっちゃ極限状況。「視界がにじんだのは涙のせいか汗のせいか」というシチュエーションはままあるが、そういう小説のなかで最も迫力が極まっているひとつだろう。

灼熱の暑さ・眩しさとか、密閉空間に閉じ込められるとか、単純に状況が想像越しでもイヤ過ぎてキツイ…… ホラーやスプラッタと同じ苦手さ。読書体験としても身に迫ってくる。それはつまり小説としての描写の強度が高い、という美点なのだけど、それはそれとして拒否反応が出る。これこそ海外文学の醍醐味ではあるが……。

最後の「想念」とは何なのだろう。わからない。でも運転手の男は三人のためによくやったと思うよ。裏切るかと思ってた。崇高で尊敬する。がゆえに徒労感・絶望感がすごい。

 


10/23(月)

悲しいオレンジの実る土地

前作とは文体がぜんぜん異なり、好み。こういう文章も書くんだ。訳者が違うから?
「ぼく」の一人称語りで「きみ」と二人称でも呼んでくる。
故郷パレスチナを追われ難民となり、もう子どもではいられなくなってしまった者たちの物語。子供が大人になる過程を描いた王道の話。

 


10/24(火)

路傍の菓子パン

これも大人の「ぼく」が、可哀想な難民の少年との交流について語る短編で、文体が前のと似ている。同じ訳者。
可哀想な境遇に同情して気にかける主人公の暴力性、薄情さを描いた? 可哀想だと思ったら実は嘘をつかれていて騙されたと思ったけどやっぱり可哀想だったし、はじめから自分のことを見抜かれており向こうが一枚上手だった……そう……。

 

盗まれたシャツ

短い話。理不尽と不正義を目の当たりにした一家の長がシャベルで人を殺す。

 

彼岸へ

お、主人公が可哀想な難民や貧困層ではなく富裕層の権力者なのは初めてだ!と思ったら、被抑圧者の亡霊?的なものが出てきて怨嗟と絶望にまかせた怒涛の叫びをし続けて終わった…… 権力者側は徹底して糾弾の対象にしかならない。
恨みがこもった迫真の語りは目取真俊っぽさがあった。

 


10/25(水)

戦闘の時

常に戦闘状態にある難民の家庭内の長男の話。複数の家族が同じ家に寝泊まりする、難民の常態。

 

ハイファに戻って (1969)

文章があんまりスルスル頭に入ってこない。疲れているのかな……
「太陽の男たち」と同様に、過去回想と現在描写が入れ替わり立ち替わり語られて、それこそ迷子のようになる。

 

10/26(木)
「ハイファに戻って」読み終えた。これは・・・めっちゃキツイ、言葉を失うような話だなぁ……

人間は究極的にはそれ自体が問題を体現している存在だ。あなたはそう言った。それは正しい。しかし、それはどんな問題なのですか。それが私の問いです。 p.251

 

「あなたは私達がこのまま誤りを続けると信じていますか? ある日、私達が誤りを終りにしたら、あなた方には何が残されるのですか」
 そこで彼は、自分たち二人は立ち上がって去るべきだと感じた。すべてが終ったのだ。もはや言うべきことはなかった。その時、彼はハーリドにたいして一種言い難い強い希求を覚えた。説明し難いが無性に彼のところへ飛んで行き、彼を抱き、接吻し、彼の肩にもたれて泣き、父と息子の役割を代わってもらえたらと思った。
「これが祖国というものだ」彼はそうつぶやいて微笑した。それから妻の方を向いた。
「おまえには祖国とは何だかわかるかい、ねえソフィア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起ってはいけないところのことなのだよ」 p.257

はじめここ、ハーリドではなく目の前のハルドゥンを抱きしめたいと思ったのかと勘違いしてた。

 

ハルドゥン(ドウフ)の立場も当然だという気がするけどなぁ……『さよ朝』のメドメルとレイリアのように、幼児のときに離れ離れになった親との感動の再会が、子供側にとってただ幸福なものであるはずがない。親であるとすぐ受け入れてくれるはずがない。『西鶴一代女』もこの系譜の話があった。

たしかにサイードにとっては、20年ぶりに成長した姿で邂逅した息子が「敵」(「向う側の人間」)になっていてショックを受けて、「われわれの内なる恥辱」だと思うのも仕方がないが……

イード・Sの二人の息子、ハルドゥン(ドウフ)とハーリドは、それぞれユダヤ人とアラブ人のアイデンティティを追求し、「祖国」のために戦う武装集団へと向かっていた。

イードは息子ハーリドを「ただ未来を見つめている」存在として自分たち「祖国とは過去のみだとみなした」者と対置して礼賛しているが、これはどうなんだろう。過去ではなく未来を。そうした歴史の忘却は、特にパレスチナ問題に関してはもっとも危険な傾向のように思えるのだけれど。


追記

岡真理さんの緊急講演で本作品の一節が言及されていた。やはり、いくら「かわいそう」でも/だからこそ、イスラエル側に加担するハルドゥンは糾弾すべきであり、彼に対して父サイードが発した言葉は本質的に重要である。そしてパレスチナ解放のために立ち上がろうとしていた別の息子ハーリドの未来志向はやはり肯定すべきものである。すぐ上に書いたことばは幾重にも誤っていた。

私の妻は、われわれが卑怯であったことが、あなたが現在かく在ることへの権利を与えることになるかと尋ねているのです。 p.256

私はあなたがいつかこれらのことを理解してくれることと思いますが、その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼らの犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いち自分の罪とを正当化すると考えることなのです p.257

「あなたは私達がこのまま誤りを続けると信じていますか? ある日、私達が誤りを終りにしたら、あなた方には何が残されているのですか」 p.257

(追記終わり)

 

途中で入る隣人の挿話もかなり印象深い。殺された兄の写真を壁に掛けたまま家を追われ、二十年ぶりに戻ってきたら新しい居住者によってすべてはもとのまま保存されており、写真の兄もその新しい家族の一員のようになっていた。一度は写真を壁から引きはがして持って帰ろうとするも、思い直して現住人に返してしまう男の話。なんとも……


フェミニズム批評としてはどう読めるんだろう。妻ソフィアの表象とか、かなり典型的なセクシズムだと思うが。他の作品についても。すべて男性が主人公であり、女性は周縁化されている。

訳者あとがきで引用されていた無名の青年の文章。パレスチナ問題について分かり易くまとめられており、小説を読むよりも考えさせられるかも……

 

 

 

 

 

 

 

 

『オデュッセイア』ホメロス

 

 

2023/4/17~5/24(計21日)

 


23/4/17月 第1歌

山本直樹『ありがとう』の序盤みたいな設定。父が長らく家を空けているうちに、女を狙って男どもが我が物顔で家を占領し、子供は困り果てている。オデュッセイアが元ネタだったのか。

 

4/18火

中務訳が言うほど読みやすくなかったので、岩波文庫の松平訳の第1歌序盤を少し読んでみた。うーん……文章に限っていえば、これら2つの訳は、現代性も、古めかしさ(格調高さ)もさほど違いがない気がする。ただし、中務訳は注が巻末ではなくすぐ下にあるため参照し易いのは大きな利点である。また、松平訳はふつうの小説のような、改行の少ない散文形式なのに対して、中務訳は叙事詩の韻文形式に近いため、1行ずつ目を進めていきやすいように思う。すなわち、文章というよりも、UI(版組や訳注など)のユーザーフレンドリーさにおいて、新訳に軍配が上がるかな、と言ったところ。

 

 

4/19水 第2歌

求婚者たち厚かまし過ぎる。英雄譚だけど、最終的に倒すべき相手がめちゃくちゃどうしようもない小物たちだというのは意外だ。倒すより帰ることが主眼なのだろうが。

ゼウスやアテネら神々の、人間たちとの距離の近さに驚く。オリュンポス山にいても、常に人間たちのやってることを聞いていて、何かあったら即介入する。神がゲームプレイヤーで、人間たちがゲームキャラクター(NPC?)の、シュミレーションゲームを見ているような気分。あるいは、小説の三人称の語り手(擬似作者)と登場人物の関係に似ている。神話の叙事詩の変容体としての三人称小説……という仮説はどうだろう。議論され尽くしてそう。

 


4/24月 第3歌

訳注に「構文を忘れた」が多い。叙事詩という唄うこと前提の文章だからこその特徴でいい。これと対比する形で、歌唱データがすでに打ち込まれている、「無時間的」な歌としてのボカロ曲、というテーマで何か書けないか。Orangestarの「」に括りがちな詞の特徴と関連付けるとか。

 

4/25火 第4歌
息子視点から父オデュッセウス視点に切り替わった。

 

4/26水 第5歌

 

4/27木 第6歌、第7歌

 

4/28金 第8歌

 

5/1月 第9歌

 

5/2火 第10歌

 

5/3水 早朝 第11歌

 

5/8月 第12歌
前半終了
やっとオデュッセウスのこれまでの漂流遍歴語りが終わった。計5章くらいほぼずっと語ってたぞ。
これでようやく物語が現在時制に戻り、ここからおうちに帰るまで、未知の開けた旅路が広がっている。
さて後半だ!

 

 

5/9火 第13歌
えっ、もうイタケに着いちゃったの!? あと半分なにするんだ…
と、思ったらアテナがオデュッセウス襤褸を纏わせて老人の姿に変装させ、身バレしないようにさせた。
オデュッセウスは自身の召使いである豚飼いに招かれて、嘘の遍歴譚を語り始めた。フィクションの紡ぎ手としてのオデュッセウスか。

 

5/10水 第14歌

 

5/11木 第15歌

 

5/15月 第16歌
遂にオデュッセウスと息子テレマコスが邂逅・再会して抱き合った。あとはチンピラどもをぶっ殺すだけや
てか求婚者たち、十数人どころか数百人もいるの!? オデュッセウスの屋敷どんだけデカいねん

 


5/16火 第17歌

オデュッセウスが身をやつしていても愛犬だけはすぐにご主人様だと気付いてかけよろうとするが、身体がもうボロボロで動けないの泣ける。そのあと無事に20年ぶりに再会を果たした直後に、思い残すことがなくなったかのように死ぬ……いちばん感動した。
チンピラどもをぶっ倒すスカッとジャパン展開が刻々と近づいている。何百人もいるのはスカッと倒すのに都合が悪いからなのか、特に性悪なリーダー格のアンティノオスとかいう奴をメインで立てていくのはエンタメとして正しい。
にしても、ほんと、俺TUEEE系の元祖というか、ここ数年なろうで流行ってる追放モノ・復讐モノの源流はこれだよなぁと思う。

 

5/17水 第18歌
妻ペネロペイアと変装してるオデュッセウスが再会したが、まだ気付いてない。

 

5/18木 第19歌
妻には気付かれないが、乳母?には脚を洗うときに気付かれる。足の傷跡が目印。気付くときのたらい桶の水と瞳の涙の描写がここだけ近代小説っぽい。

 

5/19金 第20歌、第21歌
牛飼と山羊飼には自ら正体をバラす。
求婚者どもの前で弓で並んだ斧の孔を射抜く。
いよいよクライマックスか。

 

5/23水

第22歌
求婚者たちを無慈悲にぶっ殺しまくるオデュッセウス

 

第23歌
ようやく妻ペネロペイアに正体を明かして再会する。すぐに抱き付かずに疑ってかかる焦らしプレイ

 

第24歌
また冥界での話が。
オデュッセウスの「帰郷」の締めくくりは、妻じゃなくて父ラエルテスだったか・・・。そして息子テレマコス、自分、父の男系三代がそろい踏みしての戦いで〆。どこまでも父権性の話だったなぁ。
というか、あれだけ無慈悲に求婚者たちを虐殺しておいて、殺し終わったら「有望な若者たちをこんなに殺しちゃったらイタケ中の民から復讐されね?」と冷静に反動を予期するのウケる。そして実際にそうなるし。(ただしけっきょく最後までアテナに助けられてあっさり勝利&和解)

 

 

おわり!!!

やっぱ女神パッラス・アテナが主人公のお話だったな。アテナがゲームプレイヤー、オデュッセウスたちはプレイヤーに直接・間接的に操作されて動く、プレイアブルキャラクターとNPCの中間みたいな存在。そういう、女神が実質主人公の物語を人間である詩人が語っている、というメタな枠組みまで考慮しても面白いし、その詩人だって、最初にあるように、詩の神からの叡智を授けられ、半ば憑依されたようにして吟じているのだから、さて何重の神-人間のミルフィーユだろう。

紀元前のはなしということで、紀元前の生粋のミソジニーが随所に見られてなかなか凄かった。「女性の客体化・モノ化」どころのはなしではない、そもそもはじめから女なんて非-人間のモノに過ぎない、というレベルなので一周回ってテンション上がる。憎しみがすごい。妻の求婚者たちと寝た碑女(はしため)たちを全員絞首刑にする……とかも可哀想だけど、当の妻ペネロペイアに対しても、夫オデュッセウスは愛ゆえにずっと信じているのかと思いきや、「女なんてどうせ……」みたいなところがある。(息子テレマコスも母に対してそんな節がある) 人間(の男)だけじゃなく神々からしてそういう価値観・世界観。ただ、この生粋のミソジニーを踏まえた上で、この物語の仕掛け人でありオデュッセウスの庇護者・救済者であり実質主人公であるのが女神アテナである、というのを考えるとなかなか興味深い。人間の女性と女神は全く異なるということか? それとも、アテナさえも、「都合よく自分を助けてくれる」存在としてミソジニーの枠組みのなかで理解できるのか? 

神と人間の関係・距離感がいちばん興味深かった。キリスト教以前の作品だが、神への信仰がキリスト教っぽい道徳律(驕るな、常に信心深く謙虚でいろ。祈祷と奉納を怠るな)として機能していて、むしろこっちが元ネタなのか?とすら思うほど。というか人類の普遍的な道徳律・信仰形態なのだろうけど。

そもそも、『オデュッセイア』がギリシャ神話のメジャーどころのひとつ、であるというのも知らなかった。ギリシャ神話を元ネタにした二次創作的なものかと思ってた。でも、そもそも神話には一次創作も二次創作もないんだね。

あと、オデュッセウスはいちおう神ではなくて「死すべき者」人間なのだろうけれど、人間のなかではいちばん神に近いすごい存在として描かれるし、あと祖先の系譜を辿っていくと神の子孫とも呼べる…的な言及があった気もするし、そもそもすべての人間は父なるゼウスの子だしで、この意味でも人間と神の境界線があいまい。たほうで、アテナやゼウスといった神の介入シーンでは、その境界線を明確にするようなトーンも数多くある。両義的。

また、オデュッセウスが自分の正体を隠して別人になりきって「嘘」の来歴・冒険譚を語るシーンが幾度もあるのが意外だった。漂流者・英雄としてのオデュッセウスではなく、創作者・虚構の紡ぎ手としてのオデュッセウス。人類史上でももっとも代表的な「物語」が、このような、物語内物語に満ち満ちたものであるということ、そしてそれらの半分近くはそもそも「嘘」のものであるということ、これらの事実には深く感じ入らざるをえない。

訳者解説の、叙事詩としてのリズムの型のくだり面白い。そんなにガチガチに決められていたんだなぁ。だからこそ即興詩として成立する、という理論もおもしろい。

 

九歌から十二歌で語られるオデュッセウスの海洋冒険はいずれも昔話や船乗りの驚異譚から採られたもので、そのまま現実世界で語られたなら全くの虚誕となろうが、詩人の工夫は、これがパイアケス人相手に語られることにしたところにある。パイアケス人の国スケリアは島か大陸か明確にされないが、いずれにせよ再訪することの叶わぬ桃源郷である。(中略) オデュッセウスの冒険譚は昔話の住人(パイアケス人)に向けて語られるという工夫のお蔭で、英雄叙事詩にそぐわぬおとぎ話という印象を薄めている。 p.735

へぇ~~~おもしろい

ファンタジックなおとぎ話が、おとぎ話の住人によって語られることで逆説的にある種のリアリティを獲得しているってことよな。そもパイアケス人の国がそんな桃源郷だったという理解もできていなかった。

物語の「語り手」の属性・位相によって、語られる物語の属性・位相も変わる……という定式は当たり前だが、ここでは物語の「聞き手」=「語られ手」の属性・位相によって語られる物語の位置付けが変わり得るという主張をしていて、すごく興味深い。そうだよな、語られ手の存在・問題って物語文学にとってクリティカルに重要なんだよな……

てか、じぶんにとっては英雄叙事詩だっておとぎ話くらいファンタジックで寓話的な物語だよ、という無粋なツッコミをしたくはなる。。

 

 

 

 

 

 

 

 

『丁子と肉桂のガブリエラ』ジョルジェ・アマード

 

 

 

 

2023/7/7〜28
13日間


7/7金 p.30まで
ブラジル文学・ポルトガル語圏文学強化期間の一環として、(数ヶ月前に買っておいたものを)読み始めた。
三人称。章題からして饒舌。さっそく土地の守り神?聖ジョルジェの視点からも叙述する。

1925年、イリェウスがカカオ栽培によって急速に発展・文明化していた時代の恋物語
ひとつの町の発展史といえば当然『百年の孤独』が思い出されるわけだがこっちのほうが古い。あと石牟礼道子『椿の海の記』とも重ねて読んじゃう。

一文がけっこう長い。並列や羅列を多用する。
すでに人物が大量に出てきて収集がつかなくなっている。
ほぼ読んだことないけど、バルザックみたいな感じなのかな。今のところ20世紀というよりは19世紀の小説っぽい。

けっこう読みにくい…… 一日で20ページくらいしか進まなかった。文章の問題よりもまず、版組の問題だと思う。これぜったい二段組にしたほうが読み易いって!! 1ページあたりの文字数が多いのと、上から下までギッシリなので、すらすら読みにくいのかもしれない。。
毎日読んでも一ヵ月以上はかかるなこれ。

 


7/11火 p63まで

誤字脱字が多すぎる! ろくに校正してないなこりゃ

物語はノってきた。博士(ドウトール)、有力者ムンディーニョ・ファルカンetc.
いろんな登場人物の家系の年代記やらが饒舌に語られる。物語の奔流、これぞラテンアメリカ文学

まだガブリエラが出てこねぇ!!


7/12水 p.100まで
"ドス・レイス姉妹とキリスト生誕群像(プレゼーピオ)"  の節めっちゃおもしろい!

双子の姉妹は、あわせて128年間処女をがっちり守ってきた快活な年寄りだった。 p.71

まさかのお婆さん姉妹だった

プレゼーピオはまさにバフチン的なカーニバルの様相。

ご想像のとおり、プレゼーピオは、遠いとおいパレスチナの貧しい厩でキリストが誕生する場面を再現している。だが、東洋の荒地は今や、多様な世界の中心に息づくささやかな一場面にすぎなくなっていた。周りに広がる世界には、ありとあらゆる人物と場面、歴史上のありとあらゆる時代が、民主主義的に混在していたのである。この世界は年を追うごとに大きくなっていった。そこには有名人物、政治家、映画監督、軍人、文学者と芸術家、家畜と猛獣、やせこけた聖人が、映画スターの輝くようなセミヌードと並んでいた。 pp.74-75

 


7/13木 p.153まで
第1部おわり! 最後にようやくガブリエラが登場した。第1部はガブリエラ到着前のイリェウスの町の様子を活写して、これから始まる恋愛劇の下ごしらえのための導入部であった。きっちり舞台設定・人物設定をおこなってから物語を始める、バルザック的な小説構造。
ガブリエラの人物造形もすごく好みそう。

 

 

第2章 グローリアの孤独

妻に浮気された大佐が、妻とその不倫相手の若手歯科医に復讐してピストルで殺害する事件が起こる。
既婚男性が妻以外と遊ぶのはいいけど、既婚女性が夫以外と関係を持つのは殺されても仕方のない罪、という差別的な倫理観が構成員に完全に内面化されている共同体の話。
裁判・弁論が最高の娯楽である町ってすげぇな。
目撃され殺されたとき、被害者は黒いストッキングだけを身に纏っていた、という情報に胸を高まらせる男性陣が滑稽で良い。

「あの女、素っ裸だったって……」
「全裸ってことか?」
「一糸まとわぬ?」。隊長の声に煩悩が宿る。
「すっぽんぽんよ……身につけていたのは黒いストッキングだけ」
「ストッキングだと?」。憤慨するニョー=ガーロ。
「黒いストッキングか、おー!」と言って隊長は舌打ちした。
「自堕落な女め……」とマウリーシオ・カレーイスが有罪宣告をする。
「きっときれいだったんだろうなあ」。突っ立ったアラブ人ナシブの脳裏に突然、素っ裸のシニャジーニャが映し出された。黒いストッキングを穿いている。ナシブはため息をついた。 p.142

 

シコはテーブルの前で立ち止まっていた。シコだって人の子だ。噂話には興味があるし、「黒いストッキング」のことも知りたい。
「それが最高級品なんだってさ、舶来ものの。イリェウスでは売ってないんだと……」とアリ・サントスが追加情報を披瀝する。
「きっとバイーアから取り寄せさせたんだろうな。親父の店を通して……」
「すごいなあ。この世にあるんだ、そんなものが……」。マヌエル・ダス・オンサス大佐があっけにとられてぽかんとしている。
「ジェズイーノが入っていったときには絡まってたらしいぜ、おふたりさん。人の気配にも気が付かなかったんだと」
「でもジェズイーノが入ってきたとき女中は叫んだって……」
「あの最中はなんにも聞こえないんだよな……」と隊長。
「ご立派です。大佐は正義を全うなさった……」 pp.143-144

殺された不倫歯科医の診察室には日本製の椅子があり、その先進性の象徴のように描写されている。不貞を働いた妻を夫は殺すべし、という前時代的すぎるイリェウスの風土と対比されるかたちで……。

 

フェリズミーノにしてみれば、贅沢好きで女王様気分の浪費家を愛人に丸投げするほど、洗練され、それでいてぞっとするほど恐ろしい復讐方法はなかったのである。だが、イリェウスにはユーモアのセンスが欠けていた。だれも医師の行為を理解できず、反世間的で臆病で不道徳な男だと考えた。 p.151


まだガブリエラとアラブ人ナシブが出会ってない! とっとと料理女として雇え!!

 


7/18火 p.215 第2章おわりまで
ナシブがガブリエラを雇った! さぁどうなる
雇った次の日の夜には手ぇ出しとるやないかーい
今のところガブリエラがどういう人物なのか掴めないというか、典型的なファム・ファタールか……

めちゃくちゃ俗っぽい小説。直木賞狙えそうな
まぁ『百年の孤独』だってめっちゃエンタメだったしな・・・

 

シリアは恐ろしい土地で、女はバラバラにされ、男は去勢されるという話はナシブの法螺で、すべて口からでまかせだった。悲しんでもくれなければ、優しい言葉をかけてくれない粗暴な年老いた夫を騙したくらいで、若くて美しい妻が死ななければならないなんて、ナシブに考えられるだろうか? 今や故郷となったこのイリェウスこそ、実は、文明果つる地だった。 p.165

 

「正気になりなって。ありゃ一緒に暮らせる女じゃないがよ」
「それ、どういうことだ?」
「どういうって……そういう女だってことよ、おれに言わせりゃ。あいつと寝るこたできるかもしんねえ。ナニすんのもな。でも、自分のものなんかにゃできねえって。物みたいに持ち主になるこたできねえ。もっとも、だれにもできねえ相談だけんどな」 p.178

 

ナシブは頭を振った。ナシブは、隊長もトニコも、アマンシオ・レアルも博士も、どちらの陣営とも友人だった。どちらとも一緒に飲み、遊び、語らい、娼家に行く。そもそもナシブの懐に入るお金の出所はこの友人たちなのだ。それなのに、友人たちが今や分裂し、二つの陣営に分かれている。全員の意見が一致しているのは、貫通を冒した妻を殺してもかまわない、というただその一点だった。 p.212

バールの店主ナシブという主人公の置かれた象徴的な中立ポジション

 

 

7/19水 p.269まで

第二部 丁子と肉桂のガブリエラ

第3章 マルヴィーナの秘密

自立した女学生マルヴィーナさんいいな
ガブリエラはマジで男(主人公ナシブ)にとって都合が良すぎる存在でこわい。自分の信念・芯がちゃんとあった上で結果的にこちらがいちばん都合良く消費できてしまうのが……。男女関係なんてどうせ消費行為でしょ?お互いに都合良く消費し合いましょうよ、みたいなことなのか。しかしナシブとの結婚にはまんざらでもなさそう(自己評価が低いので実現するとは思っていないが)なのがなぁ…

 


7/20木 p.290まで
町の男どもがガブリエラを自分のものにしようと躍起になっているのに耐えられず病んでいくナシブ。ガブリエラ本人はどこ吹く風なのか?

町をこれまで支配してきたラミーロ・バストス老大佐に対して明示的に対立する新参者の輸出業者ムンディーニョ・ファルカン。保守と革新の分かり易い対立であるが、ムンディーニョ側もけっきょく自身の家柄の権威によってうまく立ち回れているに過ぎないのが皮肉であり、本人もそれを嫌々ながら感じざるを得ないのがなんとも哀れ。

 


7/21金 p.329まで
マルヴィーナいい! 保守的な環境に抗う先進的な若い女性が死を選ぶ悲劇的なプロットごと蹴っ飛ばしてくれて本当によかった……

ガブリエラはナシブの腕のなかでこの男たちと、いや、他にもおじ以外の男たちと、夜ごと寝ていたのである。今日はこれ、明日はあれというように。でもいちばんたくさん寝ていたのは若いベビーニョとトニコだった。二人ともとてもステキだった。もっとも想像するだけでじゅうぶんだが。 p.301

マルヴィーナはアルイージオおじさんが、肩を血で真っ赤に染めて家の外壁にぐったりもたれている姿をまたもや目にした。メルクよりもはるかに若い、ほっそりとした快活な美男子。馬や牛などの動物が好きで、自分で子犬を育て、居間で歌も歌えば、マルヴィーナをおんぶしたり、一緒に遊んでくれたりする。生きるのが好きな人だった。それは六月のことだった。 p.322

こういうプチ回想挿話の語りがシンプルに良い。

 

 


7/24月 p.376まで
ジョズエ先生が失恋から、Twitterによくいるインセル・ミソジニスト男になっている。

 

第5部 月明かりのガブリエラ
ナシブもまた保守的な女性像・上流階級の貞淑な妻像にガブリエラを押し込めており、破局必至……

 


7/25火 p.426まで
イリェウスにとってはライバルでもある内陸部の隣町イタブーナの行政首長アリストテレースさん有能かつ聖人な政治家過ぎる……と思っていたらあーあ。生きててほしい
一気におはなしが動き出した。ガブリエラが動くとおもしろいな

イリェウス全体が港口の作業のなかで暮らしていた。潜水夫の他にも、浚渫船に据え付けられた機械が人々の感嘆と驚きを引き起こした。機械は砂を取り除き、港口の底を掘削し、水路を広げる。その地震のような音は、まるで、町の暮らしそのものを永遠にひっくり返してしまいそうだった。 p.384

町の港の砂を削る。あまりにも象徴的かつ具体的。
「浚渫」って「しゅんせつ」って読むんだ……

 

 


7/26水 p.470まで
うおおおお ガブリエラ!!!
抑圧からの解放、というベタ過ぎるプロットだが、それがいい

一行は他の通りで踊るために歌いながら出発しようとしていた。ガブリエラは靴を脱ぐと、まっしぐらに走り出した。ミケリーナの手から旗を奪う。全身はくるくる回り、尻は激しく揺れ、自由になった足はステップを踏み始めた。その後ろを行列がついてゆく。義姉が「あらまあ!」と叫んだ。

ジェルーザが目を遣ると泣き出しそうなナシブの顔。恥ずかしさと悲しさで真っ白になっている。と、ジェルーザも飛び出した。ひとりの羊飼い娘から提灯をひったくるとステップを踏み始める。男の子がひとり、またひとりとそれに加わった。イラセーマがドーラの提灯を奪い、ムンディーニョ・ファルカンがニーロのホイッスルを奪った。ミスター夫妻も踊る。六人の子持ちで善良にして陽気なジョアン・フルジェンシオの妻も行列に加わった。他の奥様連も隊長もジョズエも、みな後に続く。ダンスパーティー全体が外に出て踊り狂っているようだった。行列の最後尾にはナシブの姉とその夫の博士の姿。戦闘ではガブリエラが旗を手にしていた。 pp.455-456

(裸足で)踊ることがとにかく好きなガブリエラ最高。ダンス/ステップのジャンルに細かい好き嫌いがあるようなのは意外。それぞれどんな踊りなのか調べたいな

ガブリエラはナシブ、トニコ、アリ、隊長と踊った。優雅なターンを見せる。しかし男の腕の中で回るこうしたダンスが好きではなかった。ガブリエラにとってダンスというのはまったく別物。腰をふるココ、サンバの輪舞、速いマシシェ、アコーディオンに乗せて踊るポルカのことだ。アルゼンチンタンゴもワルツもフォクストロットも好きではない。広がった足指がぎゅっとひとつに締め付けられるこの靴ではなおさら。 p.453


ここにきて博士の祖先?のオフェニージアがイリェウスにとって大きな存在になってきた。文化開花。共同体のアイデンティティのイコンとしてのヒロイン(英雄)

ジョアン、われらのご先祖さまオフェニージアのことだけどさ、博士が例の小冊子で描いている肉体的な特徴が変化したことに気づかなかったかい? よく覚えてるよ。以前は干物みたいに痩せこけてお肉なんかついてなかった。ところじゃ今度の本はまるまる太ってる。四十ページを読んでごらんよ。だれに似てるかわかるか? ガブリエラだよ……」 p.458

 

 

 

あー やっぱ不倫・姦通ほど面白い文学の主題はないよなぁ!?パート2になっている。(『ドン・カズムッホ』以来1か月ぶり)

あと70ページか。ここからさらにもうひと展開あるってことよな。終わり方次第では超面白くなりそう。

殺さなかったのは、ナシブが人を殺せるように生まれついていないためだった。みんなに語って見せるシリアの例の恐ろしい話など、ただの出任せにすぎなかった。怒ればナシブだって殴ることはできる。事実、まるで借金や延滞金を一気に返済するように、ガブリエラを容赦なく殴りつけた。でも、殺すことはできなかった。 p.465

ナシブのシリア出身設定は重要だと思うんだけどあんまり前景化してこないんだよなぁ。。 イリェウス生まれではなく「よそ者」である(他のみんなと同様に)のはひとつだけど、それだけじゃなく、なぜアラブ/シリアなのか。。

「でも、もしガブリエラがただの愛人だったらどうだ?」と本屋は言葉を継いだ。「それでもきみはイリェウスを出るか?」 苦しみの話をしてるんじゃないぞ。結婚したからって苦しいわけじゃない。愛しているからこそ苦しいんだ。でも殺したり、町を出たりするのは結婚しているからだ」 pp.467-468

 

7/27木 p.506まで

「なんで説明しなくちゃいけないんだ? したくないよ、そんなこと。説明するとは限定することだ。ガブリエラを限定したり、あの娘の魂を解剖したりなんかできない」 p.473

なんてばかげた、説明のつかない現象だろう。男のひとたちって、自分がいっしょに寝ているおんなのひとが、ほかの男のひとと寝ると、なんであんなに苦しむのかしら? p.475

ひとりの男をこれほど愛し、最愛の人のためにこれほど深い愛のため息をつき、これほど死にそうに気が遠くなることのできる女は、世界広しといえどもガブリエラを措いて他にはいなかった。 p.477

他のひと、物事のことなどどうでもよく、その人だけを愛することが、その愛の深さを示す……のが近代のロマン主義だとすれば、ガブリエラの愛のありようは、前近代的なそれだろう。他の人へ浮気をすることが、そのひとへの裏切りになるのではなく、多くのひとを愛し、それでもなおひとりの人を深く愛することができるありかた。それは自他の境界が未分化で、ガブリエラの本質を「説明できない」のと同根である。

前近代から急速に近代化するイリェウスという町の発展史を描いているこの小説のヒロインとして、ガブリエラのこうした前近代的なありようはどう位置付けることができるか。
ただ、ラミーロ・バストス大佐のような古き悪きマチズモにガブリエラが親和的なわけでもない。不倫を働いた妻は殺されて然るべきだという「貞淑な妻」概念にもっとも反発しているのがガブリエラなのだから。
セルタン(奥地)からガブリエラがやってきた、という出自は重要だろう。奥地とは、ラミーロ大佐たちが懐古する、まだ密林だった開拓期のイリェウスともまったく異なる風土だということか。
やはり『大いなる奥地』それから『世界終末戦争』を読むべき……

 

「近代とはなにか」という問いを考えるうえで、「なぜ不倫は罪なのか」という問いは重要かもしれない。
(とはいえ、近代以前…それこそ古代ギリシャの時代から、姦通は罪、という価値観はあったような気がするが…… 不倫についての勉強が必要だ。)

ガブリエラのような嗜好や香りや熱気のある女はいなかった。死ぬほどの快楽を感じ、与えることもできる女は。 p.479

ようするに、ガブリエラには、人に与えたら与えたぶんだけ自分の持ち分は減る、という資本のトレードオフの価値観がない。所有権という概念がない。

ガブリエラがフェミニズム的に良いか悪いか微妙で判断しづらいのも、おそらくフェミニズムという思想が近代以後の概念であるからだろう。そもそも近代的な個人主義の前提を共有していないので、近代の枠組みでガブリエラを理解/説明しようとするとエラーが起こり、掴みどころがない。

 

日はとっぷりと暮れ、宵闇が畑のあいだに入りこんでゆく。宵闇とともに狼男、ラバの姿をした神父の愛人の亡霊、昔待ち伏せで殺された人々の魂が現れる。カカオの木のあいだを彷徨うのだ。フクロウが夜行性の眼を開け始めた。 p.487

しれっと書いてるけど、これまじ? 物語にはほぼ関係ないけどひっそりと魔術的リアリズムというか、より直球のファンタジック土着的死生観が描かれている。

 

連日市民集会で沸き立っていたが、そのなかでも最も大きな集会で、ある驚くべきことが起こった。エゼキエルがこれまでになくカシャサをあおって霊感冴えわたる演説を打ったあと、ナシブが演壇に立ったのである。エゼキエルの演説を聴いているうちに心中溢れ出すものがあったらしい。ついに思いを抑えきれなくなり、発言を求めた。空前絶後の大成功だった。ポルトガル語で話し始めたが、頭のなかにうまい言葉がどうしても見つからず、ついにアラビア語で話しだしたのがその主たる原因だった。驚くべき速さで言葉が奔流のように次々と溢れ出してくる。拍手喝采はいつまでも終わることがなかった。
「全選挙戦を通じても、これほど真摯で、これほど霊感に満ちた演説はなかった」とジョアン・フルジェンシオは振り返っている。 p.494

こういうのラテアメ文学ってかんじで大好き


ラミーロ大佐の葬儀
こういう形で決着か。しんみりするなぁ

 


7/28金 p.541

読み終えた!!!

最後のほうはあまりにも収まるところに収まった、平和でご都合主義的な展開。だが、港口の工事が終わって初めて外国船を招いたときのスウェーデン水夫が発した「おれはイリェウスのカシャサが好きだ!」という台詞に、まるで自分もイリェウス人かのように嬉しくなってしまったくらいには、この小説の舞台イリェウスという町に愛着が生まれていた。これだけで、この作品を好きだと言うには十分すぎる。1ヶ月ほど、この町に滞在させてもらった気分だ。めちゃくちゃ保守的でマチズモがすごい気風とはいえ、小説越しに読むと、ほんとうに不思議と好きになってしまうんだよなぁ。

めちゃくちゃどうでもいいけど、ナシブ自身は料理できないのだろうか? 料理人を探して駆けずり回ってそんなに悩むくらいなら、自分が料理スキル身につければいいのに、と思うのは商売センスがないか。ナシブは店の責任者として、運営や会計や、そして通常時は店内のホールを回って友人たちと語らって常連の輪をつくるという重要な仕事をしていはする。


訳者解説にて、やはりバルザックの名が挙げられていた。
ドナ・レイス姉妹のプレゼービオがいちばんお気に入りの挿話だというのも同意。

ナシブのバールを観客席として、聖セバスティアン広場を舞台の上のように眺めるところは民衆劇の要素がある、という指摘が興味深い。

章題に上がった4人に、不倫して夫に殺された黒ストッキングのシニャジーニャを加えた5人の女性の造形の見事さについての解説、なるほど…。


ガブリエラがセルタンから稼ぎを求めてイリェウスにやってきたことから、イリェウスにとってのセルタン地方って、石牟礼道子作品での水俣にとっての天草地方のような感じなのかなぁと思った。

セルタン(奥地)について調べていて、1年前に出版された三砂ちづる『セルタンとリトラル』(弦書房)という本に興味を惹かれたので注文した。弦書房ってどっかで見覚えあるな……と思って、届いた本の後ろのほうを眺めていたら、渡辺京二による石牟礼道子論『もうひとつのこの世』などを出版しているところだった!(九州/福岡の出版社) それだけでなく、この著者の三砂さんも渡辺京二と親交があり、共著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』という本まで出している! そういえば、たしかに渡辺京二『私の世界文学案内』にて、まさにローザ『大いなる奥地』を紹介していたことを思い出した。
すべてが繋がっていく…… ブラジル、ジョルジェ・アマード、水俣石牟礼道子渡辺京二…… やっぱり上で石牟礼作品を連想したのもあながち間違ってなかったのか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー

 

 


2023/2/3〜2/16(計10日)

 


【上巻】 2/3金〜2/9木(計6日)

 

・第一章
2/3金 p.7〜p.63
33歳の白痴ベンジー(本名ベンジャミン?)による語り。
名高い実験的な語りってのはこれかぁ〜 たしかにこの文体のフォロワー無数にいそう。

石牟礼道子苦海浄土』を読み終わったばかりなので、どうしても、喋れもせず自分で食事もできないベンジー水俣病患者の描像を重ねてしまう…… ただ、『苦海浄土』はあくまで他人である「わたくし」による水俣病患者の語りの「きき書」(再構成)であるのが本質なのに対して、こちらはベンジーの一人称主観での語りなので、その点は決定的に異なる。

反復やズレを含んだ小気味の良い会話のやり取りはTHE・アメリカ文学ってかんじ。これが源流なのか。ドン・デリーロとかを思い出す。平易な文のみで構成された会話メインの実験的文体、というとギャディス『JR』も思い浮かぶ。あと米文学じゃないけど『ゴドーを待ちながら』の2人の会話。

とりあえずベンジーの「姉貴分」らしき7歳のキャディは高飛車系ツンデレヒロインってことでおk?

 


2/4土 p.64~p.100
キャディ×ベンジー良すぎる…… 昨日はちょっと勘違いしていたけど、幾つかの並行する時系列の1つでは、ベンジーが13歳、キャディが14歳だということなので、キャディのほうが一歳年上なのね。実の姉なのかはまだわからんけど、キャディまじで好き。一人称の語り手(主人公)を甘やかしてくれる1つ上の生意気少女、エロゲヒロインじゃん……と思いながら読んでいる。読んでいたら、チャーリーとかいう男にキャディが(広義の)寝取られ展開発生して草 ボクもベンジーと一緒に泣きたいよ

 


2/6月 p.100〜p.166
第一章おわり!
ベンジーの元々の名前はモウリーで、母親が「ベンジャミン」に変えた?

 

 

・第二章 (p.151〜)

語り手がクエンティンに交代して、文体も一気に変わる。ベンジーの「自我」が欠落していてある種プリミティブに世界を眼差す一人称から打って変わって、ハーヴァードに通う(?)インテリ長男の一人称語りは語彙・思考のレベルが高く、普通の意味で「難解」な文章。こっちはこっちでかなり前衛的な部分(たぶんこれが「意識の流れ」)もあるし、読みやすくなったわけではない。むしろベンジーのほうが語彙・表現は平易で(何が起こっているのか判然としないが)スラスラと読める節はあった。

今何時なのか知ることがないように努める。「妹と近親相姦をした」と父親に告げる回想。

 

2/7火 p.166〜p.234
姉萌えNTR)の第1章、妹萌えNTR)の第2章


2/8水 p.234〜292

第1章と第2章で、2人の男子視点で、同じ身近な少女への巨大感情を錯綜した文体形式で語り、近親相姦が1つの重要モチーフとなっているところなど、エロゲ『CARNIVAL』みたいだ。これで第3章がキャディ視点だったら完全にそう。瀬戸口蓮也の読解ってドストエフスキーがよく引き合いに出されるけど、フォークナーの影響もあるのか。

インテリ青年が都会を彷徨しながら、歳下の無垢な女の子と交流して最後に自殺する話って、めちゃくちゃサリンジャーやん。ライ麦畑にうってつけの日
また露骨に無垢な少女が出てきた

マジでエロゲみたいな感じやな……
兄から妹への巨大感情!!! うおおおお

ウルフ『灯台へ』の意識の流れは、食卓を囲む人々の思考を、一文で主語がいつの間にかすり替わっている文体で一体化させて描くものだった。一方で本作の意識の流れは、あくまで語り手ひとりなのは固定で、その人物の記憶(や妄想)がフラッシュバックするように時空を繋いでいく手法。意識の流れにもいろいろあるんだな

 


2/9木 p.292〜345

上巻おわり! ちょうど1週間(日曜日は読んでないので実質6日間)で約340ページを読み終えた。

最後のほうの、クエンティンがお父さんとの対話を回想するくだりで一気にいろいろとわかりやすくなった。結局キャディと近親相姦はしてないんかい。ハッタリかよw(自身へのハッタリでもある)

いよいよ肝心な話になってきたぞ p.341

文中でもこうやって露骨に書かれててわろた

 

絶望だとか自責の念だとか死別による無念だとかをはじめて激烈に感じたぐらいでは 誰もそんなことはしやしないのだよ むしろ絶望や自責の念や死別による無念というものさえ 暗黒のサイコロ振りにとってはたいして重要ではないのだとわかったときに はじめて人はそういうことをするのさ p.342

わかる〜〜〜 これぞ「青春(の喪失)」の本質ってかんじでわかり味が深い。
おやすみプンプン』ラストシーンのプンプンの涙とかも、まさにこれだよな。

するとお父さんが 「もうない」というのはあらゆる言葉の中で一番悲しい言葉なのだよ 世の中にはほかになにもないのだ 時間の流れに呑み込まれるまでは絶望ですらないし「もうない」となるまでは時間ですらないのだよ pp.343-344

 

で、結局クエンティンはこれで自殺したのだろうか。お父さんとの対話のかんじだと、クエンティンは「自殺する」と言い張って結局できない人間である、っぽいが。
大学寮の部屋でガソリンをぶちまけてるけど、焼死? でも隣に友人の部屋があって、自分の部屋だけを器用に燃やすことは出来ないだろうから、気体性の中毒自殺?

 

えーと、上巻(第1章ベンジー視点と第2章クエンティン視点)を読み終えた限りでは、そうだな……「ちょっとおもしろい」くらいで、まだ全然、圧倒される感じではないかなぁ。

もちろん、これがアメリカ文学史上の金字塔であり、これ以降、アメリカ国内に留まらず世界中でフォロワー作家が現れた、絶大な影響力を誇る作品なのは何となく理解できる。ここでしか読めないような凄い文章はあちこちにあるし、何よりこの文体形式と構成が画期的だったのは言うまでもない。

ただ、じぶんの好みでいうと、まだそれほどではない。ネタバレが怖くて付録の年表とかを見てないので、正直ぜんぜん何が起こっているのか、誰が誰でどういう人間関係なのか等、理解できていない割合はとても大きいと思う。それでも、根本的にテーマとして描きたいこと、表現しようとしていることは何となく分かった(つもり)。上巻まででは、コンプソン家のきょうだい──クエンティン、キャディ、ジェイソン、ベンジー(元モウリー)──の複雑な「絆」、今風にいえば「巨大感情」のはなしであって、1章ではベンジーとキャディ双方向のピュアな姉弟愛が、2章ではクエンティン→キャディの妹愛が、面倒くさくてエモい文体(意識の流れ)で表現されている。また、2章のクエンティン視点では、「父」なるもの、家父長的なもの(マッチョなエリート学生のジェラルドらも含む)への反発という、これまたありきたりな主題も入ってくる。

このように、言ってしまえば陳腐でありがちな題材を、(当時としては)画期的な手法で複雑に、エモく演出して描いている小説であると受け止めた。「エロゲっぽい」と感じたのはその点である。だから、キャディという露骨な萌えヒロインを用意しての巨大感情の描写など、すごく馴染み深くしっくり来る面はもちろんあるのだけれど、それは正直いって、エロゲとかマンガとか、他の媒体の他作品でもこれまでさんざん味わってきたものなので、「20世紀世界文学における大傑作」としての圧倒されるほどの凄みは今のところそんなに感じられてはいない。下巻に期待。昨夜Amazonで注文して、さっき帰宅したら届いていた。よっしゃあ〜

 

意外だったのは、第2章でハーヴァード大学生のクエンティンがマサチューセッツ州ボストンの街をぶらつく、都会的な舞台設定であること。というのも、有名な「ヨクナパトーファ・サーガ」の噂では、アメリカ南部の田舎の共同体の、きわめてローカルな物語群だと聞いていたので、都会的なイメージがなかったから。ちょうど2週間ほど前に観たトリアー監督の映画『ドッグヴィル』みたいなのを想像してた。アメリカの閉塞的な村のはなし。フォークナーの影響が色濃いという『百年の孤独』はマコンドという1つの村でほぼ物語が完結していたのに。

「田舎の話だと思っていたら都会の話だった」系のアメリカ名作文学でいえば、『ライ麦畑でつかまえて』とほとんど同じだ。あれも、タイトルからてっきりライ麦畑が広がる田園風景の田舎を舞台にした話かと思って蓋を開けてみたらニューヨークを少年が彷徨する話だった……。

 

 

 

 

【下巻】 2/10金〜2/16木

下巻のほうが薄いじゃん! こちらも二部構成。1928年4月6日と8日ってことは、第1章のベンジー視点の現在時制の日(4月7日)の前日と翌日ってことか。お〜 なんか良さげな構成だ。

 

2/10金 p.7〜103

・第三章

語り手「俺」は誰だ? とりあえずキャディではなくて残念
これジェイソンか。それで、クエンティンってのは兄ではなくて、キャディの娘のことよな。
つまり、第3章は姉の娘──姪がヒロインなのか。お母さんに似て、めちゃくちゃいわゆるマセガキ/メスガキだし……果たしてわからせるのか…?

召使い黒人のディルシー、一人称が「おら」だから混乱するけどお婆さんなんだよね。
ジェイソンも結婚してる。

今のところ意識の流れがほぼ使われてなくて、大人になったジェイソンも語り手だった他の兄弟たちに比べてまともだし、普通の一人称小説の文体というか、読み易い。
ヒステリックな母親の典型的な造形はオースティン『高慢と偏見』を思い出す。

家出して結婚→出産したあとに夫に捨てられて、自分では育てられないからと娘を実家に"やる"奔放な女性というのもきわめて紋切り型だ。キャディ自身は母親キャロラインと絶縁していてコンプトン家を出禁になっているので、我が子にひと目会うために色々と画策する。

 

2/13月 p.104〜p.171

第3章おわり。

え、娘(姪)のほうのクエンティンの父親ってハーバートとかいう男じゃなくて、ジェイソンやキャディの兄クエンティンなの? マジで近親相姦してたってこと?
第1章でベンジー視点で描かれた、門から脱走して登下校中の女子を襲った事件の顛末が語られた。その女学生の父親に殴り止められてレイプ未遂で終わり、そのあとベンジーは去勢手術をさせられたらしい。

ジェイソン、関わるあらゆる人に対してナナメに構えて皮肉を飛ばしまくるからやんなっちゃうな。会話がいかにもアメリカ文学ってかんじ。
さて、最後の章だ〜〜〜

 


2/15水 p.173〜p.214

・第四章

ここに来て三人称視点の語り

序盤は一文ずつが非常に長い。老婆(ディルシー)が寂れた屋敷をひとり動き回る感じはウルフ『灯台へ』第2部を連想した。

 

2/16木 p.214〜p.307

第4章と「付録」おわり! 読み終わった!!!

第4章がいちばんつまらなかった。三人称の文体が合わない。直喩をそこそこ使っていて、わりと独特で普通に巧みではあろうと思うんだけど、なーんか苦手。情景描写も露骨にメタファーっぽい感じが好きじゃない。

「付録──コンプソン一族」は、実質これが真の最終章というかエピローグ。人物一覧の体裁でコンプソン一族の群像劇の掌編集っぽいことをやっている。ラスター14歳だったんか……さすがにもうちょい上だと思っていた。

田舎の屋敷を主な舞台とした一族の血と呪いにまみれた悲劇、系の文学だと、エミリー・ブロンテ嵐が丘』のほうがまだ面白かったなぁ。

第4章は三人称視点だが、強いていえばコンプソン家で長いこと現役で料理人・家事係をやっているディルシーお婆ちゃんに焦点が当たることが多い。お婆ちゃんキャラということでディルシーのことは好きではないのか、と考えるが、そもそも3章の途中くらいまではディルシーのことをお爺さんだと思いこんでいたくらい(口調の問題)なので、特別にお婆ちゃんキャラだから好きというわけではない。

第3章の主人公ジェイソンは、上のきょうだいの2人のために将来の可能性を閉ざされて、現在は一家と黒人たちを自分ひとりで養っていかなければならないという哀れな境遇ではあり、同情する気持ちもあるのだが、それ以上に性格・言動が苦手なので好ましくない。

 

訳者解説
フォークナーの草稿の引用

そこで妹を持ったことがなく、またやがて娘を生後すぐに失う運命にあったぼくは、美しい悲劇の少女を自分のために作りはじめた。 p.323

きも〜〜 そりゃあエロゲっぽいわけだわ。そして、じぶんがこの作品を好きになれない理由もまた何となく分かった気がする。

初めは第1章だけで完結するつもりだったんだな。確かにそれ以降は蛇足という見方も出来る。
付録は出版15年後に加筆したものだったのか。

 


・まとめ

初フォークナーということで、『響きと怒り』、とてもハードルを上げまくって期待して気合を入れて読んだのだが……そんなに面白くなかったなあ……残念……。フォークナーに影響されたラテンアメリカ文学の多くは好きなのに、本家はそれほど刺さらないのはなぜだ。

もちろん、上巻後に書いた通り、第1章・第2章は実験的で難解な叙述技法で語られているために、到底理解できたとはいえない。だから、「ある程度理解したうえで、つまらなかった」とは口が裂けても言えない。しかし、逆に、難しすぎて何にも理解できなかったから、良さもちっとも汲み取れなかった、というわけでもないと思う。わからないなりに、まぁこういうのがやりたいんやろなぁという意図・方向性は察することができたと自分では思っていて、その上で、うーん、そんなに言うほど革新的かなぁ……という感想だ。無論、"フォークナー以後"の20世紀文学をある程度読んできているからこそ、いざその原典に当たったときに凡庸に感じられてしまっている面は無いとはいえない。とはいえ、やっぱり原典はすげえええとひれ伏す可能性もあったわけで、そうなっていないのは、自分とフォークナーの相性の悪さに起因すると思われる。

自分は幻想文学が好きだ。自分のなかの幻想文学の本質とは、「本当に起こったこと」という小説内の〈事実〉が、叙述/文章によって徹底的に幻惑されて虚仮にされて破壊されて無化されていくことだ。つまり、「何が実際に起こったのか」よりも「どのような言葉で語られているのか」のほうが優勢であり、言葉の前では「事実」なんてものはナンセンスになってしまうような小説が好きだ。

フォークナーの『響きと怒り』およびヨクナパトーファ・サーガは、こうした「幻想文学」とは、ある意味で正反対だと思う。たしかに文章表現や構成は非常に凝っていて難解で幻惑的だが、その幻惑性は、「コンプソン家の実際の歴史」の事実性・強度を崩壊させるどころか、かえってその強固さを増す方向に明らかに作用している。巻末にきょうだいの年表やら屋敷の敷地の間取りやらクエンティン青年の彷徨マップやらが添付されているのは、本作の反-幻想文学性の証左といえるだろう。今風に軽薄にいえば、「考察」要素がある物語なのだ。第1章や第2章の意識の流れによる断片的な語りから情報を拾ってはパズルのように整合させて、自分の手でコンプソン家の者たちの人生を、歴史を、「事実」を浮かび上がらせていく──「考察」好きが喜びそうな佇まいである。

私はぶっとんだ前衛的な文学表現・技法は基本的に歓迎だ。しかし、その実験性/前衛性が、結局は、地に足のついた確固たる「架空の田舎町の架空の歴史」の構築に奉仕してしまうのは、とても肩透かしというか、もったいなく思う。『響きと怒り』で試みられている文章技法は、たしかに難解で前衛的で革新的だが、意味不明ではないし、ふざけてもいない。それが私には物足りない。こうした文脈でフォークナーと対置するとしたら、私の愛するラテンアメリカ作家たち──レイナルド・アレナスやセサル・アイラ、マシャード・ジ・アシス達になるのだと思う。アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』や『めくるめく世界』、アイラ『わたしの物語』などが顕著だが、終始ぶっとんでいてふざけまくっていて、「小説内現実」? なにそれ美味しいの? とばかりに何もかもを入れ替えて幻惑して撹乱しては変な方向へと邁進してゆく。あるいは最近読み終えたドノソ『夜のみだらな鳥』もまた、作中の「事実」の強度を徹底的に破壊して、登場人物たちの素性だけでなく、自我や個別性さえも融解させて、誰が誰だか分からなくなって、「本当は」誰が孕ませたのか、「本当は」妊娠していないのか、「本当は」生まれていないのか、すべての事実性と価値体系を根本からぶっ壊してできた極彩色のプールに溺れていく小説だった。(しかしドノソは明確にフォークナーから影響を受けているらしい。このへんは両作家をもっと研究しなければならない。)

訳者解説では、「言語表現の刷新それ自体を目的とした実験のための実験ではなく、その背後には語り手たちをふくむ、家族の深い人間関係、さらにはアメリカ南部の時間と空間がしっかり見据えられていて、最終的に物語は、くっきりとしたアクションの輪郭を描き出しながらその時空間へ回帰する」点が称揚されていたが、これが逆に自分には合わないんだなあ……

そもそも、プロットとしても、最終的にジェイソンが姪にこっそり(姪の養育費から盗んで)貯めていたお金を奪われるという"だけ"の話で、「だから何?」と興味が持てなかった。もっと殺人とかサスペンスフルな事件が起こることを期待していたからかもしれない。また、「家族」を大テーマとして描き出したと言われても、正直そんなに「家族」という概念・存在が真に迫ってくる作品とは思えなかった。レサマ=リマ『パラディーソ』はこの点、ものすごく迫真的で良かったのだけど。アメリカ南部の田舎町という舞台設定や、白人と黒人の人種問題も、これは自分が疎すぎるから、という面が大きいのだろうけれど、深みを感じられなかった。とりあえず黒人を出しとけば人種的な深みが出るとか、男性/女性のジェンダー的な議論の余地が出るとか、そういう薄っぺらい狙い以上のものは一読では汲み取れなかった。まぁどうせわたしが雑魚いアホだからなんでしょうね。

でも、「そこで妹を持ったことがなく、またやがて娘を生後すぐに失う運命にあったぼくは、美しい悲劇の少女を自分のために作りはじめた」という本人の発言が、私の感じる本書の薄っぺらさにかなり寄与しているとは思う。

アメリカ南部の黒人/女性の物語としてはトニ・モリスンに期待だな。フォークナーを1作でも読むという実績を解除したので、これで中上健次もトニモリもクエストが「解放」されて読めるようになった。それが本作を読んでいちばん良かった点だと思う。

とはいえ、なんかめちゃくちゃdisってしまったが、フォークナーへのモチベが失われたわけではなく、『響きと怒り』だけが合わないのか、フォークナー自体が駄目なのかを探求するためにも、『アブサロム』を読みたいですねえ。昨年古書店岩波文庫上下巻を買って積んでいるんだ。ちょっとパラ読みしたかぎり、アブアブのほうが自分好みそうなんだよな。まず老婆の語り聞かせってのがいい。期待してる。

 

 

 

『ブラジル文学傑作短篇集』アニーバル・マシャード ほか

 

 

2023/6/9金~6/14水
5日間


なんやかんやで〈ブラジル現代文学コレクション〉を買うのも読むのも初めて。。 まずは入門によさそうなこのアンソロジーから。

 

 

6/9
さいきん(大)長編ばっかし読んでるな~~だから途中で息切れ起こしたり放置したりするんだよな~~と思ったので、積んでいる短篇集のなかから、いちばん最近買ってモチベが高いこれを読むことにした。

 

 

アニーバル・マシャード 

・「タチという名の少女」Tati, a garota(1960s前半)

針子の服飾業で日銭を稼ぐシングルマザー(マヌエラ)と6歳の娘(タチ)の貧困生活を、主にタチの子供の視点から描いた物語。といっても、子供の未成熟で脈絡のない無垢な世界認識を、タチの一人称ではなく三人称の地の文として表現している。タチだけではなくマヌエラ側にも視点はシームレス/無秩序に切り替わり、母娘が渾然一体となった絶望的状況(子供はそれを認識できない)を提示する。イノセントな視点の意識の流れっぽい小説ということで、『響きと怒り』第1部ほどではないけど、その系統ではある。

設定はかなり典型的で、王道な内容を確かな鋭い筆力で描き切っている、といった印象。タチの無垢な描写はふつうに心を揺さぶってくるが、ぜったい最終的には子供の純粋な世界が崩壊するオチなんだろうな~~と思いながら読んでいたので、そうはならなかったのは意外だった。たしかに弟の死産や家賃未払いでの相次ぐ引っ越しなどの悲惨な出来事はふたりにふりかかるが、タチにとってはそれらは一瞬情緒のバランスを崩す程度の影響しかもたらさず、案外したたかに受け入れて(あるいは真相を理解せずに)元気に生きている。子供は強いということか。そして、借家から追い出され姉のもとへ身を寄せるための引っ越しの列車内で、マヌエルは娘の変わらぬ無邪気な姿に啓示的に感動し、娘への愛に目覚め、なんか良い感じに終わる。表面的にはハッピーだけど実際的にはこの先はもっと袋小路の不幸しか待っていないよね、と書かずに暗示するオチだと読んだ。同じくシングルマザーとその娘の少女を描いた映画『フロリダ・プロジェクト』のオチなんかも想起させられるが、本作にはそれほど心を動かされなかった。あっ、こっちかぁ……と。マヌエルが今さらタチの愛しさに覚醒するのも唐突で意味わかんないし、正直、その愛情は永続的なものだと思えない。仮に持続したとしても、ふたりを取り巻く環境はさらに悪くなる一方だろうから、やっぱりビターなエンドだ。そういう、フェミニズム的・社会派の正統的短篇だったなぁ以上の感慨はあまりない。
巻末解説では「微かな希望が見える」終わり方と評されているが、マジかよ……

 

原書の初出年を知りたいんだけど、本のどこにも書いてなくない!? そんなことある!?!? ついでにwikipediaポルトガル語)の作者ページをざっと見たかぎりでも書いてなさそう。
てかプロサッカー選手でもあったってマジ?? ブラジルすぎるだろ。

 

Contos que valem a pena: 92 – Tati, a garota – A. Machado

なんかネットの個人ブログに原文全文が落ちてる。

 

 

・「サンバガールの死」

これまた典型的な…… 今度は若い(黒人)男の、恋人?への性愛からくる暴力性と「男らしさ」の呪縛、愚かさ……みたいなのがテーマで、前作と合わせてジェンダー保守的な社会風土を浮きあがらせようという編者の意図が見える。

三人称の語りが主人公の男の内面に入り込んで実質的に一人称となるが、中盤で場面は変換し、自分の娘が殺されたに違いないと信じて発狂する多くの母親たちを描く。母娘の関係を扱う点は前作とも共通性があるが、このパートの狂騒感はやや良かった。

巻末解説では、娘が結婚前に性交渉をするのを何としても食い止めなければならない母親…みたいに書かれていたが、これはカトリックの教義なのか? もっと奔放なイメージがあった。

 


6/10土


ジョズエ・モンテロ

・「明かりの消えた人生」

またなんとも慎ましいというか抑制的な短篇だ。若い頃婚約者の男に裏切られ信仰の道に入り、独身のまま40歳になったメルセデスの教会的救いと、それでも感じる孤独感とのあいだで揺れ動く日々の1ページを描く。

前作「サンバガールの死」で、ブラジルの婚約-結婚制度が異質に見えてよく分からなかったが、この短篇ではそのテーマをより中心に据えており、次第にブラジル社会の文化・風習が見えてくる構成になっている。アンソロジー編者の腕が光る。「傑作短篇」集というより、傑作「短篇集」かもしれない。

交際5年、婚約6年で婚約破棄された27歳の女性が終盤に出てくるけど、どういうことだ!? 交際中は同じ町に住んで頻繁に会ったりしているけど、婚約中は別の街でいわゆる遠距離恋愛みたいなことをしてるってこと? 現代日本ではふつう婚約するヘテロカップルはすでに同棲していることが多いと思う(知らんけど)が、20世紀中盤のブラジル社会ではここらへんの慣習がどうなってるんだ。けっきょくますますわからん。恋愛結婚ではないってことかと一瞬思ったけど、5年は普通に交際してるっぽいしな……。

 

6/12月

・「あるクリスマス・イヴに」

お、おう……としか言いようがないほっこりオチ?の短編。30年前に別れた夫を想い続けて、アパートの部屋をすべてそのままに保存して生活をしていたって普通にめちゃくちゃこわいし不健康だろう。それがなぜか良い感じ?に演出されるものだから受容に困る。解説でも「当時の価値観を保存している点で意義深い」みたいに書いてあった。

 

 


リジア・ファグンジス・テーリス

・「蟻」

タイトルずばりの怪奇幻想ゴシックホラー短篇。コルタサル「占拠された屋敷」に似ている。じわじわ侵食されて追い出される(逃げ出す)オチとか、ふたりの近親相姦?的な関係とか。従妹らしい。
蟻のほかに「小人」というモチーフも不穏・恐怖の象徴として用いられている。

 

6/13火

・「肩に手が……」

タイトルまんまの怪奇幻想ホラー短篇。ところどころ切り取って愛でたくなる一文はあった。

不穏な「庭」の悪夢から醒めるがまたいつの間にか迷い込む→今度は眠りにつくことで脱出だ→残念でした

構成のお行儀の良さもさることながら、錯綜した意識に浮かんでは消える細かい諸々の要素も最後にお行儀よくリフレインしてから幕を下ろす。

妻や息子や召使いと暮らしてはいるが不遜で孤独な中年男性の精神の危機を象徴的に表した……みたいに安易な読みが出来てしまうのが残念。その点では前作のほうがもっと唐突で心許なくてよかった。

 

 


オリージェネス・レッサ

・「エスペランサ・フットボールクラブ」

小中学の国語か道徳の授業で使いやすそうな短編。

 

・「慰問」

こちらも人の本質的な善性・聖性みたいなものに焦点が当てられているが、ラストで単語のアクセントの好みから繋がるのは予想外だった。

 

 

ハケウ・ジ・ケイロス

・「白い丘の家」

荒野に佇むいわくつきの一軒家の住人の親子3代にわたる簡潔な年代記。名前がヴォルテール由来というところから解説では周囲の人々の愚かな差別意識に着目して読んでいるが、あまり乘れない。

 


6/14水

・「タンジェリン・ガール」

これはいいですね。毎日家の上空を飛ぶアメリカ海軍の飛行船とその乗組員の水兵に淡い憧れを抱く少女の失恋。

上を見上げる / 地面に物を落とす という上下の非対称性と、明らかになる水兵(たち)の可換性、という残酷な真実の共鳴がきれいでいい。飛行船(ブリンプ)すら毎日同じものではなかっただろうと少女は勢い込んで確信しているが、ここの真相はぼかされている。

 


マルケス・ヘベーロ

・「嘘の顛末」

これもどこかで聞いたことがあるような普遍的なおはなし。

 

・「扉を開けてくれたステラ」

ずっと「私」も女性だと思ってた。百合じゃなかった。

 

 

 

 

 

・まとめ

現代ブラジル文学をざっと知(った気にな)れるという意味では書名の通りの役割を果たしてはいるが、単純な好みでいったら全体的に面白くなかった。。

相対的に好きだったのは「タチという名の少女」「タンジェリン・ガール」「扉を開けてくれたステラ」の3編かな。