『アサッテの人』諏訪哲史


読了日 2020/1/16

行方不明になった叔父は、突然「ポンパ」などの意味のない言葉を発する「アサッテの人」だった。
彼の残した日記や彼の亡き妻(朋子)の証言などをもとに「私」は『アサッテの人』という小説を書こうとするが、彼のアサッテ同様の、言語や日常の凡庸な形式への嫌悪感から筆が進まない。

 

冒頭の章がとても好み。

 

叔父の「アサッテ」を朋子が真面目に分析する辺り(「チリパッハ」の発音高低図などは最高)までは、端正な小説のなかに支離滅裂な単語が混ざっていること自体がとても面白かった。しかし叔父の日記の引用が連なり、吃音などから端を発した彼の悩みの内実がさらけ出されると、途端に面白みがなくなってしまった。
つまり、途中までは『バートルビー』のように叔父がこちらの理解の外にいて楽しかったのだが、後半で彼もまた凡庸な人間であることが理解され、アサッテ自体が凡庸な試みに思えてきた。最後までバートルビーを貫けばよかったものを。

 

自殺論や凡庸な流行歌への嫌悪感などはそれ自体が凡庸としか言いようがなく、「凡庸さからアサッテの方向へ抜け出たい」という願望自体がどこまでも凡庸である。それを分かった上でこの小説が書かれていたのだとしても、では何か偉大な一歩を残せていたかと言えば、自分が読む限りは見受けられなかった。残念。


文庫版あとがきの「全ての小説はメタフィクションである」的な言には全面的に同意するが、これもまた至極凡庸な論であると思うのに、格好つけて太字で書いている辺りが作者の凡庸さを窺わせる。で、それ(小説の作為性)に対して自覚的に乗り越えたのが本作だと放言していたが、私には果たしてそうは読めなかった。