『ディフェンス』ウラジーミル・ナボコフ(1930)

 

ナボコフの第3長編(ロシア語時代)

 

2022/7/30〜9/28水

 

7/30

ずっと前からナボコフの著作のなかで特に読みたいと思っていた本作がこのたび文庫化されたので即購入し、『夕暮れに夜明けの歌を』でロシア文学の機運が高まっているのもあり、読み始めた。

 

第1章

文章が装飾的で流麗で、これぞおブンガクって感じ。集中しないと振り落とされてしまうのでピンチョンの作品を読んでるときみたいな意識でいかないと。(というか、ピンチョンの数多くの文体模倣のモデルの一つがナボコフなのか?)

 

第2章

 

8/19 金
30-74
精密な描写や神童の物語という点でミルハウザーエドウィン・マルハウス』みたい。河出文庫だし。

 

8/22 月
74-114

 

8/26 金
114-
女っ気がない物語だからそろそろヒロインが登場するのかなぁと思ったちょうどその直後に登場してうんざりした。ミソジニーがすごい……フィッツジェラルドくらいヤバい。あと、天才プロチェスプレイヤー中年男性ルージンの造形・描写もなんだかなぁ……わりとテンプレに思える。

 

9/28 水

ようやく読み終わった!!! 初めてナボコフの小説を読み切った感慨よりも、もうこの話に付き合わなくていいという開放感のほうがおおきい。

 

文章がうまいのは否定しようがない。単に修辞的で技巧的なだけでなく、「流麗」とでも言おうか、ページの端から端まで一息で読ませる力がある。

 

特に好きだったのは第9章と第12章。

9章では、酔った男ふたりが道端で気絶しているルージンを拾ってタクシーで家まで送り届けたあと、ルージン宅から出られなくなってさまよう描写が特に面白い。
12章では、妻の父親の職場から譲ってもらったタイプライターで「とっと」と打つのにハマるくだりが諏訪哲史アサッテの人』みたいで好き。

 

しかし、作品全体としては全然好みじゃなかった。かなりキツかった。

トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』のような、抽象的で崇高な芸術vs現実的で凡庸な人生、という対比を主題とした芸術家小説。

天才チェス・プレイヤーの男(ルージン)に対して、「世俗」の象徴として女性(妻)を配置する時点でうんざりする。もうそういうのやめませんか……(100年近く前の小説にたいして何いってんだこの人!?)

妻に限らず、文章のすべてに強いミソジニーが浸透していて(序盤、幼少期のフランス人家庭教師の描写とか一周回って感動しちゃうくらい!)、それがいちばんのキツさの正体だと思う。

特権階級(芸術家)の中年男性の自己陶酔に満ちた「孤独」と「狂気」の話なんてもうウンザリだ! こういうのが「文学」として持て囃されてきた歴史の最後尾にいま自分が立っているという事実にちゃんと向き合わなければならない(とかいうけど、具体的には、どうやって?)

※しかし、この名前さえ与えられなかった「ルージン夫人」をたんに世俗の象徴と読むのも貧しい気はしている。彼女はなぜルージンと一生を遂げようと思ったのか。ルージンよりもむしろ彼女のほうが「特別」で「狂っている」のでは、ともすこし思う。(とはいえ「狂った妖しい女」というのもまた別の形骸的な象徴ではある……)

 

散りばめられたチェスの暗喩としての小説描写も基本的にはしょうもないと思った。床に映った窓枠の影が格子状で……とか、そういうのいいっす。モチーフ/記号の反復が作中人物によって「自覚」されるほどに強調されるのも好みではない。

深遠な意味をもって迫ってくる記号に主人公が囲まれて発狂する話──といえば『競売ナンバー49の叫び』も思い出す。

 

訳者解説で、ラストシーンは自殺ではなく、ルージンがこの小説からナボコフのいる現実世界へと「脱出」を果たしたのだという読みが語られていて、ちょっと面白いな、と思ったが、しかしどうだろう。仮にそう読むとして、それはルージンにとっての救いどころか、単純な作中世界での自殺よりももっと遥かに残酷な結末ではないだろうか。なにせ、本小説の作者ナボコフは(こんな長編を書いてしまうほどに)チェスが大好きで、この現実世界でも「ルージン」はチェスの天才として設定されていて、なにより、「作者=運命にあらがって主人公が小説から脱出する」という結末さえも作者によって緻密に構成された「一手」に過ぎないのだから。まさに神の手のひらの上。あの世界で以上に、ルージンはこの現実世界では生きていけないだろう。いずれにせよ彼は破滅するしかない。

 

 

 

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