『あしたの幸福』いとうみく

 

理論社 2021年発行

 

「こんにちは、初めまして」帆波さんは人懐っこい笑顔で会釈した。その笑顔があんまり自然で……あたしはこの人を家に入れたくない、と思った。 p.88

 

「守られなければいけないのは、子どもです」
 そうですね、と帆波さんは小さくうなずいた。
「大人は、子どもが守るものじゃないですよね。守るのは社会なのかな」
 国吉さんはそれには応えず、あたしの目の奥をのぞいた。
「子どもは逃げません。でも、だから折れます」 p.237

 

国吉さん、子どもは逃げないんじゃないよ。逃げかたも、逃げる場所もあたしたちは知らないんだよ。 p.245

 


母から薦められて(渡されて)読んだ。

とても良かった!

序盤、国吉さんとの同居が始まった段階では、ヤマシタトモコ『違国日記』の児童書バージョンというか、子供(朝ちゃん)視点でのお話・・・みたいな、まぁよくある孤児引き取り/引き取られヘンテコ親子関係モノの類かな、と思っていたのだが(まぁ間違ってはいないが)、中盤、国吉さんと帆波さんが出会って3人での共同生活が始まるくだりからグッと面白くなった。最後の100ページくらいはずっと泣きながら読んでいた。国吉さんの働く洋食屋で雨音ちゃんの誕生日を祝うくだりとか、ベタだけど泣けること泣けること……。「洋食店で働いているのに家では和食を作る」ことの伏線回収とか、鮮やかでいいですよね。

それから、雨音と廉太郎くんとのヘテロ幼馴染関係もめちゃくちゃ好みだった。2人とも境遇から中2にしては大人びすぎていて可哀そうというかツラい面はあって、こういうヤングケアラー等の人物を、単純な美化ではないけど「美しく描く」ことに危うさも感じるのだけれど、まぁ、はい、好きなものは好きでした。

国吉さんは典型的な、というか戯画的なASDのひとで、こういう「変わってるけど実は良い(普通の愛情的なものもある)人」を描いて感動にもっていく仕組みはありふれているので、そこに直接的に感動することはないけれど、児童文学ということで、確かに子供にとってはいわゆる一般的な「大人」像には強く反発するがゆえに、こうした「変わった大人」が魅力的に見えることはあると思うので、ありふれたキャラを児童文学の枠組みの中で巧く活かしたなぁ、という印象。個人的にはやっぱり帆波さんが良いキャラで、この人がいないと凡庸な母娘関係再興モノになっていたと思う。

 

ところで、最初に引用したお気に入り箇所で、特に「大人は、子どもが守るものじゃないですよね。守るのは社会なのかな」という帆波さんの台詞は非常に重要だと思う。これに国吉さんは応えず、というのもこの問題に踏み込んでしまうとテーマがまたガラッと変わってしまい、到底児童文学に収まらなくなってしまうためであるが、しかし、踏み込まないにしても、この一言を入れた意義は相当に大きい。この作品では「逃げかたも、逃げる場所も知らない」ことを「子ども」の1つの定義にするが、本当のところ、子どもだけじゃなくて、大人だろうが誰であろうが、わたしたちは逃げかたも、逃げる場所も知らないのではないだろうか。そういうひとに逃げかたや逃げる場所を教えて提供してあげられる社会、あるいはそもそも逃げなくても健やかに生きていけるような社会を理想として掲げていくことが必要なのではないか。

 

・・・閑話休題。この作家さんの別の作品も読んでみたいと強く思わされた。(あ、いちおう言っておくと、わたしは花言葉のガチアンチなので最後の締め方/タイトル回収は別のかたちのほうが良かったです!!!)

 

 

ここからは余談・いらんことを言うコーナーに入りますが、この物語のキャラ構成をよくよく考えてみると、主人公の父親(40歳)は、元妻(国吉京香)と、婚約直前の現恋人(帆波)と、元妻の娘(雨音)という3人の女性からものすごく愛されている男性である。つまり、これは「ハーレムもの」の男主人公が死んでしまい、あとに残された女性(「ヒロイン」)たちが、その男への愛情やそれ以外の互いへの愛憎などを燃料として、どうやって〈中心=家父長〉がいない状態で新たな〈家族〉をつくっていくのかを模索している物語として読める。本書は父の娘を主人公にした児童文学だから面白く読めたけど、もし仮にこれが外崎父を男主人公にしたアニメ/ラノベ/エロゲだったら自分は絶対に主人公(外崎父)がキツくて嫌いになったと思う。ハーレムものから男性をオミット(排除)する発想は個人的にはとても斬新に映って興味深い。

とはいえ、結局のところ、「産みの親」である国吉さんと雨音が、徐々に「ふつうの」親子らしく距離が縮んでいく終わり方ではあるので、けっきょく至極保守的な着地なのでは?という気はものすごく、する。(雨音と廉太郎や、他の友人ふたりのヘテロ恋愛要素なども、そう。) とすると、やはりここで無視してはならないのが、血縁関係においては「部外者」の帆波さんで、この人物こそ、本作を上辺だけ新奇な梯子外し作品に堕させない、一筋の光なのではないか。帆波さんの、自室にズカズカ入ってきてベッドに座って悩み事を聞いてくれる、そして〈家族〉にもズカズカ入ってくる性格が必要なのだ。

とはいえ(2回目)、そんな帆波さんも、あのハーレム主たる〈父〉によって孕まされているので、けっきょくド直球の生殖主義・家族主義やないか~~い!というのは……ありますねえ……。もし仮に妊娠してなくても帆波さんが雨音(&国吉さん)との同居を強く望んでいたかどうか……あまり意義のない空想だが……。

 

ちなみに、やがて生まれてくる帆波さん(と外崎父)の子供が男か女か、というのを考えるのも面白い。女児だったら女性4人(夫=父を共有する母娘×2)でのものすごく奇妙な同居生活の〈家族〉になるだろうし、男児だったら必然的に、〈ハーレム〉の復活/再生産となる。どっちに転んでもなかなか考えさせられる。。。