『ガルガンチュア』フランソワ・ラブレー(1534)
2023/4/2〜8(計7日間、解説含む)
エラスムス『痴愚神礼賛』繋がりでモチベが高まったので注文した。岩波文庫よりも新訳のちくま文庫版のほうが良いとかめきちさんのブログに書いてあったので宮下訳で。
4/2日
巻末の訳者解説を読んだ。おもしろそう
4/3月 〜p.47
第2章おわり
グラングジエは、びんびんと元気なときにパルパイヨ王国の娘で、かわいくて美形のガルガメル姫と結婚した。そしてしょっちゅう、二つ背中の動物遊びをしては、楽しく、お肉をこすりあわせているうちに、姫はりっぱな男の子をみごもり、十一か月もおなかに宿したのである。 p.46
最高
4/4火 p.48〜104
6章まで。めちゃおもしろい。ど下ネタのオンパレード。自分好みのしょうもな文学の元祖はここにあったのか!!
クレヨンしんちゃんとかでんじゃらすじーさんとか、そういうのを爆笑しながら読んで/観ているときを思い出すしょうもなさ。
訳もめちゃくちゃ良い。翻訳不可能な言葉遊びもうまく訳している。
偉大な神さまは空の星(プラネット)をつくり、わしらは空の皿(プラ・ネット)をつくるのだ。 p.62
フランス語の言葉遊びを、漢語の音読み訓読み×日本語の言葉遊びに移し替えている。お見事!
──(前略)みなさま、見てましたよね。わたしは、この道では「名人で通って」ましてね。
──ブルン、ブルン! なら、わいは「通人でならしてまっせ」ましてね。(2)
注(2) maistre passe が prestre Mace となっている。いわゆる contrepêtrie という語呂合わせだが、翻訳は不可能。 p.64
訳注で「翻訳は不可能」と言い切っちゃうのもすごいし、そうは言いつつ結構うまく訳しちゃってるのもかっこいい
11章まで。11章はガルガンチュアの幼年期を「〜したり〜したりした。」という羅列形式で語るもので、映画における長回しワンカットで年月経過を表現する演出みたいでとても好きだった。
全58章と、細かく章立てされていることで、いきなり当色の議論や服飾の解説だけに費やすなど脇道に逸れる自由な章があっても成立するようになっているのだと思う。『ブラス・クーバスの死後の回想』もそうだったし。昔の散文作品って細かい章分けが一般的だったのかな。書き留めるメディアにも依存しそう。羊皮紙とか巻物とか。
細かく章で区切られていることが、自由奔放で前衛的な小説にとって大きなアドバンテージなのだとすれば、逆にいっさい切れ目のない『JR』なんかがいかに異様で革新的かに思いを馳せずにはいられない。まったく切れ目のない(長大な)古典文学ってあるのだろうか?
4/5水 p.105~p.188 第12章から第22章まで
「では、本題にもどるとするか。」
「本題って? うんこのこと?」
「いや、尻ふきの話だよ。」 p.119
絶対にここをエピグラフに使おうな
第14章の、ソフィストの家庭教師が付いて勉強を教わるくだりで一気に何十年も経過してガルガンチュアは幼児から少年/青年/大人?になる。とはいえ、ここでの数十年の年月経過描写はそういうふざけたギャグっぽいので真に受ける必要はないが、ガルガンチュアがいま何歳なのかここから追えなくなることはたしか。
第22章「ガルガンチュアのお遊び」では、200個以上の当時の遊び(カードゲームやボードゲーム、スポーツや鬼ごっこなど本当に網羅的に)が延々と羅列される。やりたい放題でしゅぎょい。ポストモダン文学とかを400年前にゆうに飛び越えてしまっている。
訳注で「フランス語としての初出」が多過ぎる。どんだけ現代フランス語に甚大な影響を与えている作品なんだよ。文学ってすげえな
4/6木 p.188〜p.252 第23章から第31章まで
ピクロコル戦争編開始。
平和主義についてもエラスムスに全面的に依拠しているが、すべてを下らない風に描いているところが異なる。
なにもいわずに、息たえだえになった者もいれば、死なずに、話している者も、話ながら死を迎える者もいたし、死にながら話している者もいた。 p.229
羅列同様によく見られる文型。何が起こっているか、何を指しているのかではなくて、言葉がまずあって、その言葉をいろいろと組み替えて場当たりで文を紡いでいく。すきだなあ
4/7金 p.252〜p.304 第32章から第39章まで
何千発の砲弾を頭部にくらってもガルガンチュアはハエがたかったくらいにしか感じなかった、などと、出てくる数量のスケールがとにかく大げさでふざけている。クソデカ羅生門はパロディネタだったけど、ガルパンはもとからこれだからな・・・。クソデカ羅生門みたいなことを人類は約500年に通り過ぎていたんだなあ。
4/8土 p.304~ 第40章から
でもって、このわたしくしもですね、朝には、この愉快で、かわいい聖務日課書を手にいたしまして、肺の蔵のお浄めをいたします。さすれば、ほれ、飲みかた準備完了という次第です。 p.312
注(2) 聖務日課書を酒瓶の意と解釈する読みもあるし、聖務日課を唱えることで、のどがかわいてくるからという解釈もある。
どっちでもいい感じがいいなあ。もともと両義性を意図しているのかどうかすら、どうでもいい(どっちでもいい)と思わせてくれるところがすき。こういうのが豊かな文学表現ってことだと思う。
さてピクロコル王は、トリペ隊長が内臓をえぐり出されて(1)、尻に帆かけて逃げ帰ってきた連中から、悪魔どもが兵士におそいかかったという報告を聞いて、大いに憤慨した。 p.320
(1) 原文は Tripet fut estripé となって地口になっている。étriper「内臓を取り出す」のフランス語としての初出である。tripe「臓物」との地口で「トリペ隊長」が生まれ、それがさらに動詞に変化をとげたわけで、いかにもラブレー的な現象。
こういうのが「いかにもラブレー的な現象」なんだ・・・最高だな・・・ くそしょうもねえダジャレから人物を作って、そいつを名前の由来通りに活躍(動詞化)させて、そこで新たに作った造語がフランス語の語彙として受け継がれ定着する・・・こうなると、ラブレーが最高なのと同時に、フランス語じたいに魅力を感じてくるな。
こういうとジャンは、一刀のもとに首をはねて、頭蓋骨をこめかみの上のあたりで輪切りにし、頭頂骨二枚、矢状縫合部、それに前頭骨のほとんどをぽーんと飛ばしてしまった。したがって二枚の髄膜が破れて、後部の脳室ふたつがぱっくりと口をあけたのだが、頭蓋骨はといえば、骨膜によって背中にたれさがっていた──外側が黒く、内側が赤く、さしずめ神学博士の帽子のような形なのだった。こうしてこの弓手も、ばったり倒れて息絶えた。 p.329
医者作家特有の、解剖学的なグロ描写。起こってることはかなりエグいんだけど、終始コメディチック/スラップスティックに描かれており、そのトーンが解剖学的な表現に奇妙に裏打ちされている。
おわり!!!
終盤は、なんと戦勝後にジャン修道士に褒美として望みを聞いて建設した、テレーム修道院とかいう六角形のめちゃ豪華な施設の説明に費やして終わる。
最後の第58章は、第2章でも出てきた謎歌(エニグマ)か。
宗教的な黙示録なのか、テニスの試合の説明なのか。深刻なことと馬鹿げた遊びの二重性を持っているのみならず、「球体」は地球ともテニスのボールとも解釈できて、宇宙スケールと小さなスケールの重ね合わせもおこなわれている。そこに、太陽やら蝕の話が入ってくるところなんかかなりアツい。読者への前書きで使った単語のリフレインもあるし、意外とちゃんと終わらせようとしている。
なんか最終的にはガルガンチュアよりもジャン修道士のほうがヒーローとして目立ってたな。
ガルガンチュアは、いつの間にか家庭教師のもとでめっちゃ成長して青年/大人になっていて、父親グラングジエに代わっていつの間にか王様っぽいポジションについていた印象があり、主人公としての連続性というか親近感というか存在感というか、が薄いような気はする。まぁ、もともと『パンタグリュエル』が売れたあとでその前日譚の前世代のおはなしとして書かれたものだから、本番はこれからなのだろう。
つづき↓
