時期別・ベスト長編小説best100!

 

 

kageboushi99m2.hatenablog.com

私がもっとも愛読しているブログである「タイドプールにとり残されて」に、私がもっとも切望していた記事が投稿された。

海外文学好きとして(私に)知られるsoudaiさんの長篇ベスト100だ。はてなスターを連打してから即ブックマークし、書店や図書館でことある毎に見返している。

 

ラインナップを見て思うのは、圧倒的なピンチョン率。twitterのヘッダーが映画版「インヒアレント・ヴァイス」であることからピンチョン好きだろうなとは思っていたが、まさかここまでとは。6冊ランクインで作家別ぶっちぎりの1位だ。

他にも現代アメリカ文学好きであることが伺える。3アーヴィング, 2フランゼン, 2サフラン・フォア, 2パワーズ, 2ティム・オブライエンなど。村上春樹/阿部和重/高橋源一郎/舞城王太郎好きなのが納得の並び。

あとボフミル・フラバルが2冊上位にランクインしてるのが意外だった。しかも代表作『あまりにも騒がしい孤独』『わたしは英国王に給仕した』を外してるのが通。

個人的には、ラテンアメリカ文学が『夜明け前のセレスティーノ』と『百年の孤独』の2冊しかないのに驚いたのだけれど、よく考えたら自分がラテアメ好きなだけで、普通の?ガイブン勢としてはスタンダードな比率なのかもしれない。

 

この100冊のうち、自分が現段階で読んだことのある作品は何冊か数えてみたところ、

 

夜明け前のセレスティーノ
アメリカの鱒釣り
空の中
好き好き大好き超愛してる
存在の耐えられない軽さ
ディスコ探偵水曜日
海辺のカフカ
さようなら、ギャングたち
きことわ
月と六ペンス
オン・ザ・ロード
百年の孤独
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
カラフル
ムーン・パレス
夜のピクニック
嵐が丘
V.
こころ
重力の虹

 

の20冊だった。

読みかけ・途中で挫折している本は
白の闇, ハローサマー・グッドバイ, エブリシング・イズ・イルミネイテッド, ガラテイア2.2
辺り。

 

上位の作品を中心に読んでいきたい。いつか100冊コンプリートを目指して!

 

で、せっかくなので私も似たような取り組みをやってみることにした。

とは言っても、本家のように「一切吟味せず」では100冊も思いつかなかったので、ガッツリ過去の読書ログを見ながら選んだ。

 

また、小学生時代・中高生時代・大学以降(国内/海外)の4つに分けて、合計で100作の長編小説を選んだ。

各時代においては、だいたい好きな順(例:小学生編1位は『ダレン・シャン』)だが、

時代をまたいでは順位をつけられない。

小説を読むきっかけになった本と、小説をまぁまぁ読むようになってから出会った大好きな本のどちらが好きか、比べようがないからだ。

(そこを無理にでも比べるのがオールタイムベストの醍醐味だ!と言われたらその通りなのだが……全体の1位は『ダレン・シャン』か『数学ガール』か『ゼツメツ少年』辺りのどれか)

 

長編かそうでないかの判定はガバガバ。メルヴィルバートルビー』は大好きなので上位に入れていたが、ぐぐったら「メルヴィルの短編小説」と出てきたので泣く泣く削った。似た事例が山ほどある。あと『ムッシュー・テスト』は作品集であって長編でないんだけどなぜか入っている(入れたいので)

 

なぜか戯曲の『シラノ・ド・ベルジュラック』も入っている。

それなら『ゴドーを待ちながら』『ハムレット』あたりも入れたかった(ガバガバ)



それではどうぞ

 

<小学生時代>10作

ダレン・シャン(シリーズ) ダレン・シャン

パスワード電子探偵団(シリーズ) 松原秀

都会のトム&ソーヤ(シリーズ) はやみねかおる

デモナータ(シリーズ) ダレン・シャン

ウォーリアーズ(シリーズ) エリン・ハンター

名探偵夢水清志郎(シリーズ) はやみねかおる

怪盗クイーン(シリーズ) はやみねかおる

ガフールの勇者たち(シリーズ) キャサリン・ラスキー

大どろぼうホッツェンプロッツ(シリーズ) オトフリート・プロイスラー

なん者ひなた丸(シリーズ) 斎藤洋



<中高生時代>(17作)

ゼツメツ少年 重松清

数学ガール(シリーズ) 結城浩

数学ガールの秘密ノート(シリーズ) 結城浩

疾走 重松清

キケン! 有川浩

三匹のおっさん 有川浩

バカとテストと召喚獣 井上堅二

くちびるに歌を 中田永一

ポニーテール 重松清

一人っ子同盟 重松清

偉大なるしゅららぼん 万城目学

プリンセス・トヨトミ 万城目学

舟を編む 三浦しをん

県庁おもてなし課 有川浩

下町ロケット 池井戸潤

三日間の幸福 三秋縋

海辺のカフカ 村上春樹



<大学以降(国内)>19作

〔少女庭国〕 矢部嵩

セカイ系 名倉編

大きな鳥にさらわれないよう 川上弘美

夏物語 川上未映子

夜のピクニック 恩田陸

六番目の小夜子 恩田陸

イリヤの空、UFOの夏 秋山瑞人

百年泥 石井遊佳

優雅で感傷的な日本野球 高橋源一郎

さようなら、ギャングたち 高橋源一郎

ペンギン・ハイウェイ 森見登美彦

第七官界彷徨 尾崎翠

乙女の港 中里恒子/川端康成

最愛の子ども 松浦理英子

アサッテの人 諏訪哲史

箱男 安部公房

文学部唯野教授 筒井康隆

西の魔女が死んだ 梨木香歩

旅する練習 乗代雄介



<大学以降(海外)>54作

悪童日記(3部作) アゴタ・クリストフ

不滅 ミラン・クンデラ

ムーン・パレス ポール・オースター

夜明け前のセレスティーノ レイナルド・アレナス

悪い娘の悪戯 マリオ・バルガス・リョサ

シラノ・ド・ベルジュラック ロスタン

ムッシュー・テスト ポール・ヴァレリー

わたしを離さないで カズオ・イシグロ

わたしの物語 セサル・アイラ

もしもし ニコルソン・ベイカー

やし酒飲み エイモス・チュツオーラ

黄色い雨 フリオ・リャマサーレス

JR ウィリアム・ギャディス

リンカーンとさまよえる霊魂たち ジョージ・ソーンダーズ

最初の悪い男 ミランダ・ジュライ

クローディアの秘密 E.L.カニグズバーグ

めくるめく世界 レイナルド・アレナス

昨日 アゴタ・クリストフ

エドウィン・マルハウス スティーブン・ミルハウザー

うたかたの日々 ボリス・ヴィアン

襲撃 レイナルド・アレナス

飛ぶ教室 エーリヒ・ケストナー

はるかな星 ロベルト・ボラーニョ

百年の孤独 ガルシア=マルケス

V. トマス・ピンチョン

オン・ザ・ロード ジャック・ケルアック

肉体の悪魔 レーモン・ラディゲ

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ

灯台へ ヴァージニア・ウルフ

ゴドーを待ちながら サミュエル・ベケット

トニオ・クレーゲル トーマス・マン

さらば、シェヘラザード ドナルド・ウェストレイク

固定観念 ポール・ヴァレリー

重力の虹 トマス・ピンチョン

ある島の可能性 ミシェル・ウェルベック

ピンポン パク・ミンギュ

モレルの発明 カサーレス

西瓜糖の日々 リチャード・ブローティガン

不在の騎士 イタロ・カルヴィーノ

月と六ペンス サマセット・モーム

青い麦 コレット

悲しみよ、こんにちは フランソワーズ・サガン

嵐が丘 エミリー・ブロンテ

競売ナンバー49の叫び トマス・ピンチョン

素粒子 ミシェル・ウェルベック

存在の耐えられない軽さ ミラン・クンデラ

フラニーとゾーイー サリンジャー

異邦人 アルベール・カミュ

ペドロ・パラモ フアン・ルルフォ

あまりにも騒がしい孤独 ボフミル・フラバル

予告された殺人の記録 ガルシア=マルケス

空の青み ジョルジュ・バタイユ

アメリカの鱒釣り リチャード・ブローティガン

夜間飛行 サン・テグジュペリ



 

小中学校時代のラインナップはガバガバで、忘れている作品がたくさんあると思われる。

 

なお、noteのほうで「作家ベスト100」も行ったので、興味のある方はどうぞ

note.com

 

 

「黄金の少年、エメラルドの少女」イーユン・リー

 

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

 

 本書の最後を飾っている表題作「黄金の少年、エメラルドの少女」を読んだ。

20ページ強の短編

 

彼は母親だけの手で育てられた。同じように、彼女は父親だけの手で育てられた。二人にデートをさせた彼の母親は、このことを彼に話したのだろうか、と彼女は考えた。 p.269


冒頭から文章が強い。

 

「彼」と「彼女」の間を視点の重心がスムーズに行ったり来たりする三人称の語りが凄い。
さっきまで彼女について語っていたと思ったらいつの間にか彼を主語にとっていて、その変遷がシステマチックになり過ぎず、物語のなかで自然な形で行われている。
これら人称代名詞で呼ばれるジェンダーの対称性と非対称性、可換性や倒錯性が露骨ではなく浮き上がってくる。

 

その相手が五十代か六十代のこともあった。初めてこういう候補者を口を酸っぱくして勧められたとき、父親との結婚を求められているような妙な感じがした。後になって初めて、自分がもう若い女ではないことに気づいた。 p.272

中年女性を書かせたら右に出る者はいない作家ことイーユン・リー

 

女と子供が見えなくなると、思余(シーユー)は十二歳で自転車通学を始めたら、父親が毎朝校門まで走ってついてきた話をした。走る父親に同伴される生徒は他にいなかったので恥ずかしかったが、やめてとは言えなかった。
「実に愛情深いお父さんだね」寒楓(ハンフォン)は言った。
思余はうなずいた。カウンターの向こうの扉が開いて、また閉まり、揺らめくろうそくの灯りが一瞬消えそうになった。登校中、父親がうるさいほどあえいで人目を引かないように、下り坂でブレーキをぎゅっと握らなくてはならなかった。 p.285

 

昔ながらの近所の人々や親しい人々の目には、恩知らずの冷たい娘と映っただろう。でも、自分だけが知る無茶なスピードで人生を走り抜けているときに、父親の目の届くところにいることなどできはしない。すべては説明がつかず、初めから求める権利もない愛のせいだ。 p.286


こんなん泣くわ。
題から異性間カップルの話かと思ったら、親子関係や師-教え子の関係の話だった。
「人生」とか「愛」とか、大それたことを真正面から扱う。卓越したストーリーテリングによる、一流の文学だ。

 

もしも人々が彼女の秘密を知ったら、年配の女性をずっと愛してきたのは、母親の姿を求めているからだとすぐに決めつけるだろう。しかし思余は、母親がいたとしても何ら変わりはなかったと考えていた。 p.286


シーユーと、ハンフォンの母親の風変わりな師弟?関係は、見方によってはこれも特殊な百合といえるかもしれない。年齢が離れた女同士の独特の関係。


読了
これもまた、孤独な者たちが寄り集まった歪な家族モノであった。
最後の文はなんだか変に前向きというかヒューマニスティックだと感じたが、訳者あとがきの解説によれば、本作はウィリアム・トレヴァーの短編「三人」を下敷きにしており、

物語を似た雰囲気にしたんですが、終わりのほうまで書いたら「三人」という物語の陰鬱さや宿命観に打ちのめされてしまって、最後の一行を書くときは、同じ語り口にしながらも多少優しさを加えたのを覚えています。 p.298

とリー本人がインタビューで語ったらしい。聞く限り「三人」のプロットの男女を反転させたのが本作っぽいので、トレヴァーと読み比べたい。しかし未訳らしい。

 

ハンフォンの幼少期に母親と旧知の仲だという女性が訪ねてきた意味深な挿話があったが、その人がハンフォンの真の母親で、戴教授と血は繋がっておらず孤児(養子)だったということ?ほのめかすに留まっているが、養子設定が大好きだし……

 

「優しさ」ほどではないが、たった20ページでこれだけ「誰かの元に生まれること」「誰かと共に生きること」の残酷さと切なさと温かみを描いたのは傑作という他ないだろう。

 

本書はあと5つの未読短編が残っているが、読むかは分からない。

イーユン・リーの第一短編集『千年の祈り』も気になるが、「優しさ」を越える作品は無さそうなのでどうしようかな。長篇も気になる。

 

イーユン・リーを読んで感じたのは、言語越境作家・移民文学が好みなのではないかということ。

大好きなミラン・クンデラアゴタ・クリストフなどの亡命作家もそうだし。

自分が海外翻訳文学を好むのは、国内小説では感じられない"遠い"世界観に惹かれるのが大きく、移民文学や言語越境文学(の日本語訳)は、より言語・世界越境の段階を重ねている分、もっと好きになり易いのかも。

ジュンパ・ラヒリ(インド系アメリカ人)やダイ・シージエ(中国系フランス人)、ジュノ・ディアス(ドミニカ系アメリカ人)辺りを読んで検証してみたい。

あ、ナボコフも言語越境作家か。

 

 

【続き】

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

【この短篇集のほかの作品の記事】

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

hiddenstairs.hatenablog.com

 

 

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

 

 

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

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独りでいるより優しくて

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  • 作者:イーユン リー
  • 発売日: 2015/07/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

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「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」柴田勝家

 

 

 
サークルの課題図書なので読んだ。20ページほどの短編
(上記Kindleではなく初出のSFマガジンで読んだ)
柴田勝家さんの著作を読むのは初
 
特段にこき下ろす点もないが、ほとんど加点する箇所もない、無味乾燥の習作といった感じだった。
劣化ボルヘスか劣化円城塔か。
要は「マトリックス」や水槽脳や、作中で言及されるメアリーの部屋やオリバー・サックス「色のない島へ」の問題設定の焼き直しであり、それらの先行例から特に進歩した興味深い内容は無かった。VR Chat利用者の実態を調べていったほうがよほどセンスオブワンダーを感じられそう。
「現実を相対化する」という、フィクションや思想史において何度も何度も扱われ掘り下げられてきたテーマに対して、本作が提示できた革新性は皆無といってよい。
 
詰まるところ、本作の新規性は「中国の山岳地帯に暮らす少数民族」と「VRヘッドセット」という遠そうな二者をくっつけたら面白いのではないか、という素朴な発想オンリーであり、確かにその発想はまぁまぁ面白いが、タイトルを読んで感じる表層的な興味深さと、実際に読んでの興味深さがほとんど変わらない。最初のワンアイデア以上の代物ではなかった。
 
語りや文体も、論文調を標榜する割には全然アカデミックではなく、そこらへんの学生がブログに書いてそうなレベルの文章だった。論文形式を採るんならもっとガチで難渋に難解に堅牢に書いてもよかったのでは。
 
唯一面白かったのは、死者を埋葬する際に数十年装着し続けたヘッドセットを取り外すときの描写である。
ヘッドセットに絡んだ髪や同化する皮膚、垢などを慎重に除去する描写には、ヘッドセットとともに有った人の生の質感がわずかに表現されていた。
この辺りをもっと丁寧に掘り下げてほしかった。
 
ワンアイデアとしてはそこそこ面白いので、これをワンアイデアの短編で終わらせず、部外者による報告調の論文形式でもなく、スー族の集落である程度の時間を過ごした者を主人公とした物語として読んでみたい。
もちろん、スー族自身による語りではなくアメリカの研究者による報告調にした必然性(スー族が生きるVRの世界が読者には判然としない点に現実の相対化というテーマが導かれる)はわかっているが、それが大して面白くなかったので別の方向性で読みたい。
 
論文と小説(物語)の差異みたいなものについては、今度のSFマガジン異常論文特集号とかを読むとより理解が進むかもしれない。
 
あと、本作では柴田勝家さんの真の筆力が発揮されていないであろうことは感じられるので、機会があれば長篇にあたりたい。(行けたら行く構文)
 

 

SFマガジン 2016年 12 月号 [雑誌]

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ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

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「回転する動物の静止点」千葉集

 

 

proxia.hateblo.jp

 

千葉集さんのブログ「名馬であれば馬のうち」は前から読者登録して読んでいたのだが、先日投稿されたこちら↑の記事が特にめちゃ良くて、そういえばこの人SF短編の賞とってるらしいなー読んでみよっかな〜〜 という明瞭な動線で、その短編が入っているKindleのアンソロジー『あたらしいサハリンの静止点』を購入した。

 

 

 

 

本書に収録される千葉集作品は、SF短編賞をとった「回転する動物の静止点」と、書き下ろしの「電話鳥(i, PhoneX)」の2つである。

 

「回転する物体の静止点」を読んだ。

 

《高野》の革命。それは「身の丈以上の動物も回せる」と示したことにある。シロクマを回せるのであれば、クジラだってなんだって回せる。十分な角運動量さえ与えれば、この銀河だって回るかもしれない。回りつづけることで死人さえ甦るようになるかもしれない。あの日の〈アリ地獄〉で回っていたのは純白の可能性だった。

ベイブレード文学だ。

 回すコマ(動物)がどんどんデカくなって、「回転」という概念を軸にして一気にシロクマ→クジラ→銀河と発想が飛躍するのが、いかにもSFって感じ。抽象化して概念を取り出しさえすれば、あとはそれに想像力を振りかけるだけで物語ができる。

草野原々さんが生放送で「SFの定義はデカい物事を扱うこと」と言っていたが、なるほどSFの本質は"過剰"なのかもしれない。コルタサルの「南部高速道路」とかもそういう観点ではド王道のSF的発想だよなぁ。

 

ハムスターは七投目の終わりに死んだ。
《シモン・マグス》は死体を回収せずに去り、代わりに《回転する物体の静止点》が校庭の隅に埋めて弔った。

止まった動物はどうやって〈アリ地獄〉から回収してるんだ?

 

「良い質問ですね、サナハラさん。もちろんふたりは親友ですよ。あそこに描かれた動物は動物そのものではなく、擬人化された存在です。昔からフィクションではそうやって、窮乏した動物に人間の精神を託すことで、逆説的に人間の特質を強調してきた」

やっぱりウマ娘じゃねーか!

ブログでもそうだったが、千葉さんは「フィクションにおける動物」というオブセッションを抱えているんだなぁ。作家としてキャラ立ちしててとても良いと思う。

 

「完璧に閉じているべきなんだ。キツネはキツネで、イヌはイヌで……擬人化だとかは、だめだ。いやだ」

 

わたしたちは腰掛けたベッドのはしから立ちあがることができない。

一人称複数「わたしたち」だ。『最愛の子ども』やミルハウザー形式で、動物回しをするクラスメイトという共同体そのものが個人を特定せずに語る……かと思いきや、読んでくうちにそうでもないっぽいと気付く。

これ、本当は普通の一人称単数「わたし」であるところを、なぜか機械的に「わたしたち」にすり替えている感じだな。明らかにベッドに腰掛けているの1人では。

→むしろクリストフ『悪童日記』に近かったと後にわかった。

 

あれ、欲しいな、とゆびの持ち主であるひいちゃんはいった。かつて舞踏における跳躍と回転は教会から禁止されたがゆえに神に近づく手段として広まるようになった、と彼女は語り、だったら跳んで回るあいつはまるで回転する世界の静止点じゃない?

発話の括弧をわざと閉じないこの感じ、いかにも狙ってるな〜〜〜

 

母の時代のコマは、ひとつずつ、わたしたちになっていくものだったらしい。わたしたちのコマは、ひとつずつ、わたしたちでなくなっていく。

 

オオサンショウウオもだいぶ大型のコマだったが、《時間割の天使》が繰り出した全長二メートル三十センチのミズオオトカゲには敵わなかった。この大食らいのトカゲは、彼の両親が離婚にいたった原因でもある。母親の水槽から盗み出したトカゲを回すのが、昏い怒りを発散する彼なりの方法だった。

2文目からホラ吹きのギアが加速して突き抜ける感じすき。これっきりのプチエピソードでいかにふざけ倒すかが勝負みたいなとこある。

 

 

出席番号十番《豹の歯の》はもうわたしたちではない。だが、シロクマ革命後のわたしたちの路線を決定づけたのは、間違いなく彼女だ。
彼女は移動遊園地で産まれた。移動遊園地は三匹の豹を所有していて、《豹の歯の》はそのうちの一頭である首まわりに斑のかかった黒豹のメスと、メリーゴーラウンドのもぎり係との子だという。誰がいったか。彼女自身だ。

メリーゴーラウンドのもぎり係って何???

 

 

記述が一日目のおわりまでたどりつくと、彼は日記を書く行為そのものを日記内に取りこむべきで悩み、結局悩んだ過程を含めて挿入することを決める。

突然円城塔じみてきた。

 

説得や懇願や譴怒といった両親の駆け引きはみな《ミスター・アルトロバラヌス》の耳から指先へと排出され、文字となって日記に喰われた。そのうち糞尿も椅子に座ったまま垂れながしだす。ズボンのすそからしたたる色と匂いもまた観察の対象として追加される。

いいね。『めくるめく世界』の鎖鉄球牢みがある。

 

 

本作のモチーフは大雑把に言えば「回転」と「内外(自他)の境界」という2つだと思う。
言うまでもなく前者は〈動物回し〉という愉快で奇怪なゲームに関わる。
後者は「わたしたち」という一人称複数の語りや、〈動物回し〉の敗者が「出席番号〇〇番《〜〜》はもうわたしたちではない」という執拗に反復されるキーフレーズに関わっている。

人間の心は複数の円環(サイクル)からできている、と彼女は主張する。個別の機能を割り当てられた円環を回すことで、人間は人間として動作する。

両者はこの「円環」という謎概念で1つに収束しているのだが、こんな無理やり収束させなくても、2本の柱で良かったのでは。

 

彼の目はフラミンゴを捉えていたが、フラミンゴは視線を返さない。動物園の動物とヒトとの関係で孤独なのはいつもヒトのほうだ。

なるほど? 

 

「滑るのは好きだった」《回転する世界の静止点》はいう。「ただひたすらに純粋な回転が欲しかった。だがヒトは動くものに意味を見出す。おれが見出してしまうんだ。跳ぶたびに、回るたびに。渦巻けば銀河だし、回転は地球の自転、螺旋運動は生命の律動だ。そういう類のくだらないメタファー、詩、俗な図像学。そういうクソをごてごてとおれにぬりたくりやがる。それで褒めたつもりになってやがる。不快だったよ。おれはただ回りたかっただけなのに。回転そのものでありたかったのに。あいつらがおれを人間にする。…」

さっき「SFの本質は"過剰"」とか何とか書いたが、こうしたSF的な意味付け/発想を露骨に否定する主張がここにきて作品内でされた。手のひらの上か?
もう少し露骨度を抑えてほしかった点以外は、こういうアンチテーゼとっても好み。

 


最初、〈動物回し〉なんてフザケたゲームを大真面目にやっていて、こういう奇想SFが好きだなぁ〜いいぞもっとやれ!と呑気に思っていた。しかし最終的には、姉弟/クラスメイトの喪失に対する遺された者の鎮魂と再生というかなりシリアスなテーマが、ミステリーチックに種明かしされてビビった。たしかにこういう小説、賞とりそうだな〜という感じの小説だった。

こういう、最近の上手いSFの書き手ってどうしてもエモに走ってしまう気がする。他に……伴名練とか? 別にそれが悪いというわけではないが、地に足が着いた優等生って感じの読後感で少し残念ではある。


まぁしかし、流石に面白いには面白かった。
文体とかほとんどブログと変わらない。ブログ記事がほぼSFの短編だもんアレ。
これからもフィクションと動物を愛でるその姿勢のまま突き進んでほしい。

 

 

proxia.hateblo.jp

 

 

傑作短編「南部高速道路」は大トリ

 

悪童日記

悪童日記

 

 

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

 

 

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

 

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 〈アリ地獄〉

 

ベイブレード BB-35 ブースター フレイムサジタリオ C145S

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僕の青春の一コマ

 

「彼みたいな男」「獄」イーユン・リー

 

イーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』のうち「彼みたいな男」「獄」の2編を読んだ。

 

 

・彼みたいな男

 

娘が節足動物になったかのように蠍を描いてもよかったのだが、そういうことをすると彼の道徳基準を下回ってしまう。言葉であれどんな形であれ女を呪ったことはないのだし、ましてや最初に呪う相手が若い娘なのは嫌だった。 p.111

ネカマや匿名掲示板でのチャットの話とは。前編とはガラッと変わって面白い。

また養子主人公かよ!
また親の自殺かよ!
今のところイーユン・リーの短編への印象は孤独・養子・自殺の3つ。人生の残酷さが通底している。

 

母親がその日、この世のことで言うことは何もない、と言ったのだ。あきらめからというより、おもしろがって。彼はそのとき、彼女が自らの命を絶とうとはしないのがわかった。 p.119

60代異常独身童貞男性の話だ!!!
昼間っから連日ネカフェで未成年女性のHPへアンチ書き込みする60代男性とかヤバすぎてうける

 

とにかくヤバい初老男性のヤバさを誇張して描く話だとすればこれはこれで結構良いじゃんと思ったが、それにしても娘が弁護士に操られてるってのは流石にやり過ぎでは。

 

ロリコン文学だ!うめざわしゅん「唯一者たち」か?

 

自業自得で勝手に疎外された男性2人が何となく慰めあって終わる話って何?w
有害な男らしさとか、男性性に囚われた醜悪な存在を滑稽に描きたかったんだろうな、というのは分かる。

 

 

 

・獄

晩の寝床で手をつなぎ、二人は泣いた。結婚して二十年経ってからたった一人の子供を失い、将来楽しみなことがほとんどないにもかかわらず、なお愛し合っている、その事実だけで耐えがたかった。一蘭はときおり、互いに背を向けてそれぞれが一人で悲しみと向き合えたら楽になれるんじゃないか、と思った。 p.134

代理母の話なので仕方ないのだが、ザ・社会派って感じ。代理母に纏わる様々な倫理的・心理的・社会的問題を扱う。


16歳の愛娘ジェイドを交通事故で亡くした47歳の母:一蘭(イーラン)が語り手。

夫:羅(ルオ)のキャラ造形がちょっと類型的すぎないか?代理母となる女性を9ヶ月間の保育器だとしかみなしていない医者。

あと、代理母となった22歳出産経験アリの扶桑(フーサン)も、いかにもイーランが胎児と代理母自身を重ね合わせて、娘のように扱いたくなること前提のキャラって感じで、ちょっとなんだかなぁ。

にしても、誰かの嫁入りをしないと社会的に生きていけない女性の悲惨な境遇には本当になんと言ったらいいのかわからなくなる。

 

赤ん坊ができたら、二人の心は息を吹き返すだろうか。もしその子が大人にならないうちに、親が年をとったらどうなるのか。体が弱ってその子の面倒を見られなくなったら、誰に代わってもらえればいいのか。養子は二人の人生にとって通りすがりにすぎない──こういう子供は、面倒を見られる間は見るけれど、見られなくなると世間に送り返すことになるのが容易に想像できた──でも本当の我が子は違う。 pp.137-138

出生行為のエゴイスティックな面もめちゃくちゃ表現されている。
普通の生殖/出産でさえそうなのに、代理出産は輪をかけて強烈なエゴを感じる。

あとアメリカ-中国の文化資本格差。国が違えば世界がまるで違うというのが、中国に帰国しての代理出産では如実に現れる。

こうしてみると、代理出産は、イーユン・リーが小説で表現したい数々のテーマから、ある意味で必然的に選ばれた事物であると理解できる。代理出産そのものを取り上げたかったのではなく、アメリカと中国の越境と貧富格差やフェミニズム、生きることのやるせなさ、生まれることの残酷さ、家族になれなかった者たちの家族……こうした、筆者にとって重要なテーマ性からの自然な帰結として(国を渡っての)代理出産に付き添う母、という本作のプロットの骨子が導かれる。

 

二人は互いがいるというだけの理由でこの町にいるのであって、どこにでも急いで帰らなくていいのだった。扶桑の手は一蘭の腕に添えられていたが、それはもう導きを求めてすがりつく手ではなくなっていた。二人は友情と家族愛の間のどこかでつながっていた。 pp.163-164

代理母と実の母(卵子提供者)の関係……女性同士の関係にもこんなものがあったのか……!という衝撃


周りには姪と説明しているが、イーランからすればフーサンは娘のように思えている。娘を腹に宿した娘、という倒錯した存在。それだけでなく、夫と離れることも考えているイーランは、代理出産後、フーサンが自分の代わりに子供と渡米して夫の妻になってくれないかと密かに考えている。すなわち、娘としてだけでなく、夫にとっての自分の代わり(妻)、生れた子にとって自分の代わり(母)であることを夢想する、きわめて特殊な存在になっている。

親子のような、友人のような、1人の男に対する"女"同士であるような、1人の人間に対する"母"同士であるような、そんな歪な関係。そうかぁ、ここにそんな複雑な女同士の関係が転がっていたのか。
親子百合とも違うしなぁ。(てか親子百合って存在するのか……?)

 

一蘭は思った。これが母親になる代わりに私たちが払った代償だ。 p.172

「私たちが」というのは、p.160の「あたしたちに、そっくりな双子が生れてくるなんて」というフーサンの発言を踏まえたもの?夫と自分のことではないよね、だって「母親になる代わりに」だから。
胎内の子を人質にとってフーサンはイーランを脅す。ここでイーランだけが代償を払わされているのではなく、(本当の我が子を想って)そのように脅すしかないフーサン自身もまた、代償を払わされているということか。
そしてやはり、ここでは夫の影はまったくない。なにせ太平洋の向こう側にいるほどに無関係だ。男はなぜか出生に関する責任を免除され、代償を払わされるのはいつも女性であるという残酷な構図がまざまざと現れている。
ここでは、そのようにして代償を払わされている女性同士の特別な結びつきの希望から絶望への転換を鮮やかに描いている。

のだけれど、やっぱりテーマ性に関して直接的過ぎるというか、代理母という要素の周辺をぐるぐる回るだけで、たしかにその周辺には全く考えてもみなかったような痛切なものが落ちていたことは分かったが、そこから遥か遠くには連れて行ってくれなかった。というか、題材が題材なので、展開が派手というか分かりやすいんだよな。「優しさ」はもうちょっと抑制されたプロットでじんわりとした感動を与えてきたが、本作は有無を言わさず、テーマの押し付けがましさも感じる。

これが短編ではなく長編として、あの結末からの続き(代理出産をして、アメリカに帰った後)をしっかり描いてくれていたら、より興味深かったかもしれない。
イーランとフーサンの2人に物語が収束して終わり、意図的に男性である夫ルオは蚊帳の外だった。2人の関係を描きたかったのだろうから、それは圧倒的に正しいのだけれど、現実にはあそこで終わりではなく、ルオを蚊帳の外のままにはしておけないだろうから、やっぱり続きが読みたいと思う。

あと川上未映子『夏物語』と併せて読みたい。あっちは代理母ではなく非配偶者間人工授精(AID)の話だが、「産む性」である女性の苦悩や、そもそも出生することの責任と倫理みたいな面でも本作と大いに共鳴する点はある。

 

 

前回は同書収録の「優しさ」を読んだ。

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黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

 

 

 

パンティストッキングのような空の下
 

 少児性愛者を扱った短編漫画「唯一者たち」収録。

 

えれほん

えれほん

 

同じくうめざわしゅんの『えれほん』には、代理母ではないが、へその緒が繋がっていないと死んでしまう架空の難病についての短編「もう人間」が収録されている。社会派っぽさが「獄」と似ているかもしれない。

 

夏物語 (文春e-book)

夏物語 (文春e-book)

 

 

 

「優しさ」イーユン・リー

 

 

 

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

 

 

河出文庫から出ているイーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』の最初の短編「優しさ」を読んだ。

本作を読むきっかけは、以下のツイートだ。

 

 

 

 

これを見て即アマゾンで注文し、めちゃくちゃハードルが上がった状態で読んだ。 

 

 

私は生れてこのかた一人として誰かを傷つけたことはない。というより、ついうっかり傷つけたとしても、与えた痛みはごくわずかで、あっというまに忘れてしまう程度のものだ──たとえ感じたにせよ。ところで、これでは幸せな人生になりえないどころか、ほとんど人生ではない、と言われてしまうかもしれない。たぶんそのとおりだろう。 p.8

 


「キノコと名付けたひよこ」とか「中都市の駐屯地」とか地味に韻を踏んでるのが気になる。翻訳による偶然だと思うけど。

 

この子たちのことはありがたいというより、行く末を知っているので不憫に思う。私のような無関心な人間でも、誰かの人生に潜む殺伐とした暗さを見るのは、ひどく恐ろしい。 p.8

 

以来、人生はそういうものだと私は悟った。一日一日が、最後には殻に戻ろうとしないひよこみたいになるのだ。 p.10

人生は殻に戻れないひよこみたいなもの。生まれ堕ちることの残酷さ、やるせなさ
ところどころ、出生を憐れむ一面を見せる。
当時の中国の生活レベルをよく知らないが、そういうのが醸成されやすい社会だったのかな

 

「どうして不幸そうなの」今日もなお、目を閉じれば、あごの下に触れる魏中尉の指を感じることができる。そうして春の暗がりに向け、私の顔を上げさせた。「教えてよ。どうすれば幸せ?」 p.8

 

百合か!?!?
年の差、(かつては)軍隊の上司-部下、(現在は)母親-独身……属性多っ

 

抑制の効いた淡々とした語り。事実が連なり、修辞的な比喩や言い回し、感情表現は少ない。
それだけに、「はい、中尉」のやり取りでなぜ泣いたのかよく分からない。実家を離れ厳しい軍生活が始まることへの不安?もっと意味深いもののような気がするが、掴めない。

 

p.27
故郷の公衆電話係の女性と、その知恵遅れの息子の挿話が良い。こういう細部のエピソードにこそ作品の風格が滲む。

 

現在は41歳一人暮らしで、18歳から入隊した軍生活を回想していて、そこに更に、より若い頃の杉教授との思い出などが語られる・・・という、重層的でかなりややこしい構造になっている。

 

私は窓の向こうの常緑樹に目をやり、その中の一本になりたいと願った。私は人よりも木のほうが好きだった。いまでもそうだ。杉教授が、人間ほど残酷な生き物はそういないわ、と言ったことがある。(中略)ここに並ぶどの木も、これから出会う人たちより値打ちがあるわよ。人にうんざりしても、まだ見ていられる木があるっていうのはいいことじゃない? pp.28-29

 

彼女の表情はすでに楽しげではなくなり、古老のようでありながらも永遠に年をとらないような顔つきになった。こんなふうにうたえるなんてどういう人なの、と私は思った──彼女は超然として俗世に侵されないように見えるけれど、もしこうした歌が訴える苦しみを感じたことがないなら、なぜここまで人の心に残るようにうたえるのか。 p.37


南(ナン)いいなぁ……
人間を魅力的に描くのがうまい。しかも一辺倒でなく、いろんな類の人を出してくる。

 

列車に乗っている間、合唱団の指揮者にチェスを教えてもらったの、と彼女は言った。その間小さい子たちはうたったり騒いだりしていたんだけど、まだ七つにもならないお人形のような女の子が、周りが見えない天使みたいに何時間もバイオリンを弾いていたんだよ。 p.38

 

振り返ってみると、あらゆる悲劇的な話に耐えられたのは、言葉をあまり理解できなかったからではないかと思う。ずっと私は、読んでもらった話とは違う話を思い浮かべていたのかもしれない。 p.41

 

ディケンズ『デイヴィッド・コッパーフィールド』、ロレンス、ハーディ……
外国語(英語)の小説をじっくり読み聞かせてもらって、段々と話が理解できるようになっていく。
こうした言語越境的な要素が入ってくると、中国からアメリカに渡って英語で書いている著者を意識せざるを得ない。

 

「悪いことを教えようとしてるなんて思わないでね。あなただってもう、こういうこと知っておいていい年だよ」潔は声を落として言った。小説の中に生々しい部分がたくさんあるの。男と女がセックスする場面に全部印をつけといてくれない? p.44

 

彼はためらってから、握手しようと手を差し出した。私はもっと何か言いたかったし、彼にも何か言ってほしかった。彼の手を取ったが、指が触れたとたんに二人とも手を離した。「さようなら、妮妮のお姉ちゃん」
「さようなら、妮妮のパパ」
二人とも、そこを動かなかった。一台の自転車のベルが鳴り、それに続いて他の自転車のベルも次々鳴った。鳴らす必要はないのに──きっと自転車置き場を通りかかった子供が、ベルを全部鳴らしたい衝動にかられたのだろう。 p.52


う、うめぇ……ストーリーテリングが、文章が、上手い・・・
なんて言うんだろう、奇をてらわずに率直にハートウォーミングな話を書いても、安直さや嫌味っぽさをまったく感じさせない。これはちょっとイーユン・リーすごいぞ。。。
このストーリーテリングの上手さはこれまで読んできた中だとバルガス=リョサに少し近いのかな。短編と長編という違いはあるが。王道の小説をどっしり構えて書いて、文句の付けようがないほどの作品を作り上げてしまう作家。
(訳者あとがきによればウィリアム・トレヴァーを敬愛してるらしいがトレヴァー読んだことない……)


英語読めない上司×英語読める部下 とか更に最高の属性が追加された

 

高校のとき、その年頃のたいていの女の子と同様、私にも一人や二人は男友達がいたのだが、私は彼らの手紙を新しい封筒に入れ、返事を添えずに返してしまった。始まってはいけないものを終わらせるには、これでじゅうぶんだろうと思いながら。 p.61

かわいそう過ぎて草

幼い頃の淡い恋ともつかない別れのせいかアセクシャル気味の主人公…‥小糸侑か?
それに年上の相手なんて。やが君じゃねえか


p.62
これは・・・・・・百合・・・・です・・・・・・・(昇天

これもうイーユン・リリーだろ・・・

 

 検索したらやっぱり同志はたくさんいた。

 

 

私はつるはしの柄にもたれ、班の二、三名が一緒に泣き出すのを眺めた。彼女たちの世界は、浅薄きわまりないジレンマでしか難しくならないのだ。 p.67

 

魅力的な人間を描くのがうまいと上で述べ、それは間違っていないが、どの人物もキャラ立ちしている。すなわち割とそれぞれに類型的ではある。主人公(人に興味がない)、魏中尉(ツンデレ鬼教官)、杉教授(人間嫌い)、南(天衣無縫)、屏(甘ちゃん)、潔(陽キャ)、妮妮のパパ(初恋の残念音楽家)……

従軍時代だけを書いたらめっちゃ面白い女子校モノっぽくなると思う、読んでみたい(共産党下の女子軍隊と女子高生をいたずらに同一視するのは宜しくないが)

 

母は他にも何か言いたいことがありそうだったが、私は別れを告げた。彼女はただ明るく笑い、若い女の子っていつもあわてているのよね、と言った。それから、もう放っておいてというように父と私に手を振った。 p.71

お互い大事に思っているのにすれ違う。
人と人のつながりの温かさとやるせなさを慎重に、柔らかい手つきで描く。

 

私たちはこの世でいちばん孤独な家族かもしれない。そのように運命づけられているのだから。 p.72

ヤバい泣きそう

百合小説であり、フェミニズム小説であり、傷付け合いながらもなんとか支え合っている家族(になれなかった家族)の物語でもある……これだけのページ数なのに読み応えがすごい……

 

豚が求めるものは単純で、幸せは容易にかなえられた。一方で男の子たちには悩みがあったが、それでも冗談を言っていた。彼らの夢は、仲間だけではなく本人にとっても滑稽だったのだ。 p.74

 

私が彼じゃなくて残念だね、と私が言うと、潔は、からかわないで、と答えた。私は本気で言ったのに、わかってもらえなくて悲しかった。彼女と私は軍を出たら疎遠になるのだ。私たちは仲良しではないし、実のところ友達ですらない。今夜の思い出を彼女のために覚えておくのは私ではない。 p.82


人間と人間〜〜〜〜〜〜 って感じ。

 

p.88
飲酒百合だ……

 

他の人だったら体重でカーテンレールが壊れただろうけど、あのとおりお母さんは痩せ細っていたからね、と老女が言っていた。まるで、ふくよかな女にならなかったことが、母の唯一の不運だったかのように。 p.97

 

「愛は人に借りを負わせるの」杉教授が言った。私はうなずいた。でも、それは父が母を愛するがゆえに永遠に母に借りを返していくということなのか、愛されても愛し返せないがゆえに母が父に借りを負っているということなのか、どちらだろうと思った。「最初からそんなものは負わないのがいちばんよ、わかった?」 pp.102-103

ご丁寧に全部言ってくれるじゃん。
杉教授、進撃の巨人でいうとジークイェーガーみたいな立ち位置。主人公は……始祖ユミル?お母さんの方が近いか。

 

むしろ私たちは、自分の物語よりも真実味のある他の人々の物語を読んだ。なにしろ自分の人生をうまく作っていく力がない私たちは、彼ら巨匠たちにはかなわないのだ。 p.103

 

母は若いときに、父は年をとってから、恋をした。二人とも愛を返してくれない人に惚れこんだ。でも結局のところ、二人の恋物語は私が誇れる唯一の恋物語だ。一人の男がしがない暮らしの中から女に手を差し伸べ、その女が成人してからの人生すべてでそれに報いた物語の証拠として、私は生きている。 p.104

「物語の証拠として、私は生きている」か・・・・・・

 

魏中尉が私との友情を求めてやまなかったのは、私を弟子にしようとした杉教授と同じ欲求があったからだ。二人とも新しい人間を作りたかったのであり、ただ魏中尉は杉教授と違い、他人の人生をまんまと乗っ取るには好奇心と敬意が強すぎたのだ。 p.105

 

優しさは愛と変わらないほど執拗に人を過去に縛りつける。そして杉教授や魏中尉のことをどう思おうと、優しさをもらったのだから私は彼らに借りがある。 pp.105-106


小糸侑がなんちゃってアセクシャルではなかった世界線の『やがて君になる』だった。

 

登場人物は割と類型的でシステマティックではある。しかし、どのイデオロギーが正しいか、という次元の話をしていないところが良い。相対主義とかでもなく、私が生きてきて、人から貰った優しさの贈与を借りだと感じること。借りの返し方は、夢に見るだとか、ときどき思い出すといったことで、これらはほとんど何の返しにもなっていない。意識的にする行為ではなく、無意識にそうなってしまう、そうならざるを得ないことだ。
「そうなるしかない」ことを肯定して生きていくこと。これはイデオロギーとしては現状追認の反動的姿勢だが、小説のなかで、ある一人の人間の生の物語として描かれると、そのような言葉で棄却することは到底できないように思える。


主人公は最後まで誰にもなびかないが、物語の根幹は恋愛至上主義っぽいところがあるのが面白い。それを相対化する存在として杉教授がいるのだろうけれど。

 

でも心からともに生きているのは、杉教授の本の数々だ。ディケンズ、ハーディ、ロレンス。彼らは年若い少女だった私と出会い、いつか老女となった私に出会うことになる。こうした本の中に生きる人々は、著者同様に私とは無縁な人たちだ。そして無縁だからこそ、その世界へ入っていきやすいのだろうかと思う。両親と血のつながりがないからこそ、二人の恋物語を抵抗なく自分のものと誇れるのと同じで。p.106

「若い少女だった私も、いつか老女となった私も、彼らに出会うことになる」ではなく、あくまで小説側が主語であり無時間的な存在として固定されている点が興味深い。ここで「私」は、現実に生きる人間の物語と、小説内の人間の物語を完全に同一視している。そして、「私」との無縁性を手がかりに、両親への愛情と、小説への愛情を結びつける。
いささか形式めいてもいるが、これによって上述の恋愛至上主義だとか、魏中尉や杉教授や「私」の思想性のどれが正しいかといった静的な話が、人が生きることという動的な話へ、そして物語として、記憶として読みついで"覚えておく"こと、という枠組みへと昇華していく。

 

 

優しさと記憶の話だった……

 

 

O・ヘンリー賞のその年の第一位をぶっちぎりで獲ったというのはよくわかる。文壇や文学好きに評価されやすい小説だなぁと思う。それは言うまでもなく、杉教授が「私」に読み聞かせ、また母親が寝床でくり返し読んでいる恋愛小説が物語のキーになってくるからで、「文学を読んでいる私って素敵」という文学ナルシズム的な側面があるからだ。
わたしも当然、文学好きだと自認しているので、そうしたナルシズムはあり、本作のそうした要素にも率直に感動し支持するわけであるが、しかしこれがナルシズムであることも心に留めておきたい。

 

とはいえ、これが大大大傑作であることは疑いようがない。

 

 

 

 

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

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千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

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聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)

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やがて君になる(1) (電撃コミックスNEXT)

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『推し、燃ゆ』宇佐見りん

 
読む前から薄々わかってはいたが、案の定じぶんがいちばん苦手なタイプの小説だった。
所謂「現代の若者の感性を生々しく描く」系で、表現したいことが(全体を通しても、場面場面でも)わかり易く、それをお行儀よくこなせている優等生純文学。時代の要請で半ば必然的に現れて、それが書かれなくてもいずれ似たテーマを扱った系統の作品は出てくるだろうな……と思ってしまうような類の小説。(こうした感慨はあらゆる意味で間違っている気もするが)

コンビニ人間』や『ねぇ、静かに、ねぇ』も同じで、この系統がいちばん自分には合わない。こういう系統に出会いたくないから国内小説をあんまり読みたくなく、海外文学に逃げているといっても過言ではない。フエンテス『テラ・ノストラ』あたりで浄化したい。

 

 

なぜ嫌かって、自分に近すぎるからだと思う。わたしは文学に「現実逃避できる性能」や「自分の理解を越えた何か」を何より求めている。だから、ラテンアメリカや東欧の小説のような、現代日本に生きる自分とは何もかも異なる世界と文章を宿すような小説、何がしたくてそれが書かれたのか/そもそも何が書かれているのか全く理解できない小説が大好きだ。(その極北がデボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』)


逆に、日常感覚に近い小説では現実逃避ができない。現実を突きつけられてしまう。
だから、「はいはい、そういうことがしたいんでしょ。わざわざ小説で読まなくてもわかってるよ」と言いたくなる、本書のような類は苦手だ。

 

あと、肉感的・肉体的な形容や描写を臆面もなく強調している(そもそもテーマがそれなので仕方ないのだが)感じは、最近読んだ『ボディ・アーティスト』にも似ていて、やはり苦手。

 

こうした作品が多くの読者を獲得し、時代に/社会に広く/深く受容されることに異存はない。「よく書けている」のだと思う。
でも、自分にとっては、よく書けていればいるほど苦手になる。のっとふぉーみー

 

本作はインターネット・SNS時代の若者の現実認識・価値観を文体にまで落とし込んでいただけに、小説というよりはインターネットのエッセイブログっぽいなと思った。この主人公のように、自身の肉体を持て余す若い女性のブログはnoteやはてなでさんざん読んだ覚えがある。

 

「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」という冒頭から、この炎上事件が決定的に主人公に作用してプロットの骨格を定めるのかと思っていたが、意外と炎上事件は尾を引かないし、主人公もそんなにショックは受けずに推し活を続けることに驚いた。

 

あと、主人公はSNSと〈解釈〉ブログをやっていて、その界隈ではわりと知名度がありフォロワー・読者もそこそこいるらしいのに、主人公のツイート・投稿の描写があんまりされなくて残念だった。学校・家族・バイトという現実面での描写が丁寧だった分、ネットでどのように振る舞い、どのように交流しているのかをもっと見せてほしかった。
それとも炎上以来マジであんまり更新してなかった? 敢えて現実での彼女だけを強調する意図があったのかも知れないけど…

 

終盤の展開も締めにいく文章も、いかにも出来合いの物って感じだった。お骨綿棒とか笑っちゃう。血と骨。体の重さ。這いつくばり。ちゃんとテーマ回収できて良かったですねー

 

主人公の姉の造形はわりと好きかも。真人間なところと歪なところのバランスが良い。

 

推す対象が3次元アイドルであって2次元アニメキャラとかではないところに、まだまだ我々は時代の過渡期にいるんだなぁと感じる。あと数年もしたら推し燃ゆ2次元ver.ゼッタイに出てくる(もう既にある?文学賞を獲るレベルではまだかな)
本書に出てくる上野真幸くんのような、""架空のアイドルを推す""若者の小説だったら面白そう。レム『完全な真空』みたいな。
誰か、「『推し、燃ゆ』を読んで上野真幸くんに沼った若者」の小説書いてくれ。小説っていうか現実のブログでもいいぞ。
いかに真幸くんがかわいくて推せるかを熱く語ってくれ。

 

 

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

かか

かか

 

『かか』のほうが好きそうなんだけど読むかわからん

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 

静かに、ねぇ、静かに (講談社文庫)

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テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

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ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

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完全な真空 (河出文庫)

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