『コレラの時代の愛』(1)ガブリエル・ガルシア=マルケス

 
 

 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 
 
なんか気分で借りて読み始めた。もともと読みたいとは思っていた。
大滝瓶太さんの好きな海外作家15人noteの1位でこれが紹介されてるのを久しぶりに読み返したのも一因。
 
これまでガルシア=マルケスは3冊読んだことがある。
人生初ラテンアメリカ文学だった『エレンディラ』から『予告された殺人の記録』そして2年ほど間を開けて『百年の孤独』と読んできた。
いま調べたら、2019年の2月に10日間で百年の孤独を読んでいた。(ギャディス『JR』の次だったので脳がバグっててスラスラ読めた)
2年ぶりのガルシア=マルケスということになる。
マルケスの長編といえば『百年の孤独』『族長の秋』『コレラの時代の愛』の3作が特に有名で評価が高い。
族長の秋はクッソ読みにくそうだし独裁者モノに全然惹かれないので、次はコレラの時代の愛をずっと読みたいと思っていた。
 
 
【登場人物まとめ】(暫定)
フベナル・ウルビーノ博士:80過ぎの超優秀なおじいちゃん医師。優しく皆から愛されてるかと思いきや意外と傲慢で引かれてるらしい。主人公?
ジェレミア・ド・サン・タムール:博士のチェス好敵手で親友。彼の自死から物語がはじまる。
ラシデス・オベリーリャ博士:ウルビーノ博士の愛弟子。医師25年目
フェルミーナ・ダーサ:ウルビーノ博士の妻。72歳
 
ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった。 p.13
 
冒頭から風格がすごいな。惹き込まれる。
 
 
ついには、写真館を開くための資金まで提供したが、ジェレミア・ド・サン・タムールははじめて店にやってきた子供たちを、マグネシウムを焚いてびっくりさせて以来、期日どおりに返済を続けて、ついに完済した。 p.24
 
これぞマルケスの文体。生き生きとした修辞。
「ジェレミアは開店以来、期日どおりに返済を続けて…」で十分に意味が通るところを、「はじめて店にやってきた子供たちを、マグネシウムを焚いてびっくりさせて以来」という小エピソードを修辞的に用いてジェレミアの人柄をより豊かに描写する。
しかも、ここだけ読むとジェレミアはいかにもな優しい良い人だという印象だが、すぐ後ろで博士の妻は"女の直感"で「友人として付き合うにはあまりいい人間ではないと感じ取っていた」と語られ、容易な人物像を結ばせないのも流石。
 
ジェレミアが博士に遺した手紙がこの物語のカギになるっぽい。
博士は読んでも我々に内容は知らせてくれない。ミステリー要素が持ち込まれ、これで引っ張っていくつもりかな?
 
 
眠ったような州都では、行政上の秘密さえたちまち知れ渡ってしまうが、二人の関係もむろん例外ではなかった。 pp.28-29
 
「眠ったような州都では」って言い回し良いなぁ。
 
 
p.29
え、どゆこと?この中年女性はジェレミアとどういう関係?妻でいいの?
萎えているのはジェレミアの両脚だけではないってどういう意味?禁じられた愛?完全に自分のものにはならない男性って?
 
 
ウルビーノ博士は、彼のことなら何でも知っているつもりでいたが、このような話を、それもこれほど単刀直入に聞かされるとは思っていなかった。今、この瞬間の彼女の姿を記憶にとどめておこうとして、五感をとぎすまして真正面からじっと見詰めた。黒の喪服に身を包み、耳にバラの花をさし、蛇のような目で表情ひとつ変えずに彼を見詰めているその女性は、川の女神の偶像を思い起こさせた。ずっと以前、ハイチの浜辺で愛し合ったあと、裸のまま横たわっているときに、ジェレミア・ド・サン・タムールが突然ため息混じりにこう言った。《俺は年をとらないつもりだ》。それを聞いて彼女は、すべてを荒廃させる時間に対して英雄的な戦いを挑むつもりなのだろうと考えた。しかし、彼ははっきりこう言った。六十になったら、どんなことがあっても自分の命を絶つつもりだ、と。 p.31
 
ウルビーノ博士の視点からいつの間にかジェレミア妻の視点に語りが移っている。(最初、博士とジェレミアが浜辺で愛し合ったのかと勘違いした)
川の女神の偶像…から先の怒涛の文章のドライブ感がすごい。
 
二人でよくそのことについて話し合ったが、自分たちの力では押しとどめることのできない奔流のような仮借ない時の流れを嘆いた。海を愛し、恋を愛し、犬を、彼女を愛していた。その日が近づくにつれて、自らの決断で死を迎えるのではなく、避けがたい運命であるかのような絶望感に取りつかれるようになった。
「昨夜、あの人を一人きりにしたときには、もうこの世の人ではありませんでした」 pp.31-32
 
 
話を聞きながらウルビーノ博士は、救いがたいこの女のことは記憶から消し去ろうと考え、その理由も自分なりに納得できるような気がした。つまり、悲しみを平静に受け入れることができるのは原則をもたない人間だけだ、と考えたのだ。 p.33
 
 
〈貧者の住む死の穴〉と、ジェレミアが死んでいた写影室のある家は別なのか。
というか別居してて、正式な婚姻関係には無かったけど愛し合っていたってことか。やっと掴めてきた。
 
 
夏には、真っ赤なチョークの粉のように目に見えないほど細かくてざらざらした砂が、思いつくかぎりもっとも小さな隙間にまで入り込み、さらに家の屋根を吹き飛ばし、子供を空中に巻き上げる狂った風が吹き荒れるのだ。 pp.33-34
 
ガルシア=マルケスの文書ってこんなに風格があったっけ。一文一文がヤバい。それが連なって流れをつくると更にヤバい。
《格》の違いを見せつけられている。『百年の孤独』は普通に面白くエンタメとして読んじゃって、こんなこと思わなかったぞ。
百年の孤独』は文学的大傑作、『コレラの時代の愛』はもっと読みやすくて面白い初心者向け、と聞いていたけど、今のところ印象が逆だな。
(まぁ百年の孤独も今後読み返せば印象は変わるんだろうけど…)
 
 
数年前までは、ひどく年老いたものの中に、真っ赤に焼けた鉄で押された奴隷の烙印が胸のところに残っているものも混じっていた。週末には踊り狂い、蒸留器で作った自家製の酒を浴びるように飲み、イカコの茂みで乱交にふけった。日曜日の真夜中になると、大騒ぎの果てに血なまぐさい乱闘騒ぎが持ち上がった。その同じ人たちが平日は、旧市街の広場や狭い通りに入りこんで何でも扱う小さな店や魚のフライの匂いがする市を開いて、死んだような町に活気を、新しい命の息吹をもたらしていた。 p.34
 
マジでなんだこれ。情景描写しかしてないのに泣けてくる。頭を抱える。一文を読むごとに殴られる。頭がクラクラする。
読書でこの状態になったのは、クンデラの『不滅』と、デボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』以来かな。
 
 
午後の二時になると、シエスタの薄暗がりの中でピアノの物憂いレッスンの音が響いてくるが、それが生命の唯一の証だった。香をたきこめた涼しい寝室で、女たちは人に言えない感染性の病気を恐れるように陽射しを避け、早朝のミサに行くときでさえ、マンティーリャで顔を隠すほどだった。彼女たちは恋をするときも悠長で、しかもめったに心を開かず、しばしば悪い予感におびえたものだった。たそがれ時から夜へと移っていく胸の苦しくなるような時間になると、沼沢地から肉食性の蚊の群れが雲霞のように湧き出し、生暖かく物悲しい人糞のかすかな臭いがし、そのせいで人々は心の中で死を確信するのだった。 pp.34-35
 
は?おいおい…おかしいだろ……
言葉そのもの、語りそのものだ。
描写によって読み手に豊穣なイメージを喚起させ、それによって物語に没入してもらうとか、説明を説明的で無くすとか、そういうことではない。
その一文で小説が終わってもまったく問題がないような、その言葉、その語りだけでこちらの五感を襲い、掴み、引きちぎるような、そんな濃密という次元を超えた何かが次から次へとやってくる。
 
オネッティやパワーズコルタサルのような、凝った文章とも違う。
文章が上手いっていうのかな、うーん……それもやっぱり何かズレている。
物語の一部分として見て、そうでしかあり得ないような文。それでいて、単体で取り出してきても魅力が一切落ちない文。
物語全体に対して一文一文が奉仕するのではなく、物語全体が一文一文に奉仕する、と言えばいいのだろうか。
マルケスを舐めてたという他ない。
 
 
p.35の1708年6月8日に起こったガレオン船沈没事件、調べたらウェージャーの海戦だった。
 
語られてるこの町がどこかよく分かんなかったけど、これでコロンビアのカルタヘナという都市だと分かった。
たしかにジェレミア妻の故郷、ハイチの首都ポルトープランスとはカリブ海を挟んで向かい合っている。
 
遠く離れたところにある凍てつくような首都では、何世紀にもわたって降り続く雨のせいで、現実感覚がおかしくなってしまうのだ。 p.35
 
さらっとこういうふざけてるのか本当かわかんないこと言う。
コロンビアの首都ってボゴタか。内陸にあるらしいので雨が振りがちなのかな。
 
 
ウルビーノ博士の家、めちゃくちゃ豪華すぎて腹立つな。
ベッドの隣に絹糸でできたハンモック(しかもゴシック体で自分の名前が刺繍済み!)とか趣味悪いわ〜〜〜
オウムを飼って溺愛してるのもいかにも富裕層って感じ(四則演算を覚えさせようとするのは草)
 
家全体に、大地をしっかりと踏みしめて生きている女性のセンスと心配りが感じ取れた。 p.37
 
これどういう形容?家のアレコレの家具配置とか、博士の妻がやっているというわけではなさそうだけど……
 
頑固な夫に対して、分別のある妻、といういかにもな関係らしい。
と思ったら妻ダーサは大の動物好きで、夫が動物嫌いなのにたくさんのペットを一時飼っていたと。強かだ。
 
 
最初はローマ皇帝の名前をつけた三頭のダルメシアンを飼っていた。九匹の子犬を産んだと思ったら、すでにもう十匹の子犬をはらんでいる点から考えてもメッサリーナの名に恥じない雌犬をめぐってこの三頭の犬は激しく争い、互いに噛み合って死んでしまった。その後、鷲のような横顔にファラオのように堂々とした風采のアビシニアン種の猫、斜視のシャム猫、オレンジ色の目のペルシャ猫を飼ったが、これらの猫たちは寝室の中を亡霊のように歩き回り、夜中に騒々しい求愛の鳴き声をあげた。 p.40 
 
列挙が上手い。「亡霊のように」でいきなりトーンが変わるの好き。それでいて「騒々しい求愛の鳴き声」で再びトーンを覆してくる
 
アマゾンから連れてこられたサルも何年か腰を紐で結わえられてマンゴーの木につながれていた。そのサルは悲しみにくれた大司教オブドゥリオ・イ・レイにそっくりで、ひどく純真そうな目をし、手をうまく使って自分の意思を伝えたので、みんなの同情を買った。しかし、女性がそばに来ると、敬意を表して自慰をするという困った癖があったので、フェルミーナ・ダーサはサルを手放した。 pp.40-41
 
 
 
 
とりあえずここまで。
このペースでいくと最後まで読むのに10記事くらい必要で半年くらいかかるから、ペース上げたいけど良い!ヤバい!と思ったとこは付箋貼りたいしなぁ〜〜〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『旅する練習』乗代雄介

 
 

Twitterで「生き方の問題」を激推ししている人を見かけて文芸誌で読んでから、私のなかで乗代雄介はそこそこ興味のある作家になり、芥川賞候補になった次作「最高の任務」も読んだ。

興味があると言っても、2作ともめちゃくちゃ好きなわけではなく、好きな点もあれば残念な点もある、やりたい方向性は分かるし良いと思うんだけど、読み終わると何だかスッキリしない気持ちになる……という立ち位置の作家。

で、2度目の芥川賞候補となった本作は発表当時から評判が良く、当然読まない選択肢は無かった。

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旅する練習

旅する練習

 

 

 
 
 
中学入学を控えた亜美
小説家の語り手は妹と仲の良いお兄さんかと思ったら叔父かよ
ほのかに背徳の香り
 
「生き方の問題」ではモロにそうだったけど、乗代作品って正統的な行儀の良い純文学のわりに(だからこそ?)オタク臭さがあるんだよな。
自分がオタク的願望を勝手に読み込んでるだけ?
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「でも大丈夫、今は机の引き出しにカギかけて隠してるから。おかーさんにもおとーさんにも言えないもんね」 p.6
 
「バレないもんね」を「言えないもんね」と発話する子供のリアリティ
 
 

ゴラッソ:ナイスゴールのスラング

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静かなるドン:漫画

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鹿島臨海工業地帯の北の端の辺りで、最寄り駅は鹿島神宮駅。その先の鹿島サッカースタジアム駅は、試合開催日だけの臨時駅となる。 p.6
へー。そんな駅が実際にあるんだ。
 
 
鹿島市って佐賀県なんだ…
いや鹿島神宮駅ガッツリ茨城やないかい!!!
アントラーズの鹿島と鹿島市は別ってことか
茨城県のなかにも鹿嶋市と鹿島が別々にある!
もうわけわからん
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臨時休校期間
 
うおお
商業の文学作品でコロナ禍ガッツリ出してきたの初めて見たかも。
いいねえ時代だねえ。テンション上がるわ〜
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「旅の計画もパーだしさー」 p.8
 
逆にここはリアリティなくね?説明的すぎる
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「家ではヨーロッパサッカーと、あとは夜におかーさんが帰ってきたら毎日『おジャ魔女どれみ』見るから一緒に見てる、今タダで見れるんだよ、おかーさんぼろぼろ泣くからおもしろいよ」 p.8
 
おかーさん泣くのかw 世代なんかな
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もちろん、相手が本当に強い時はほとんど何もできずにつぶされる。そのふてくされ寸前の顔を見るのもまた楽しみだった。 p.9
 
性格悪いというかこわい
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算数じゃなくて数学だ。 p.9 
 
これ発話じゃなくて地の文なのか。
その時に口に出して訂正せず内心でツッコんだだけなのか、口に出してるけどカギカッコつけずにいるのか、それともその時はまったくツッコみもせず、当時を思い返してこの本文を書いている〈今〉初めて気付いてツッコんだのか……
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こんな状況では、「卒業の姪と来てゐる堤かな」という気分でもなかった。 p.9
 
「卒業の兄と来てゐる堤かな」・・・芝不器男という明治大正の俳人の俳句らしい
 
合宿で本盗んできたから返しにいくとか、状況・物語の大枠設定が意図的なほどに無骨というか、突貫工事感がすごい。
あえてやってるのかと勘ぐっちゃう
 
自分に懐いている小学生姪と2人旅っていかにもエロゲやん
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舞台がまさに自分がいま乗ってる常磐線で運命を感じた。
「そろそろ我孫子だ」のタイミングが作中と現実で完璧に一致していた!
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読みながら作中の舞台を歩きたいな〜〜〜
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というわけで、プチ聖地巡礼の旅をすることにした。
小説中の2人が訪れたところへ私も訪れ、小説を読み進めながら2人と同じ道を一緒に歩く。
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そういや「最高の任務」も家族で電車で旅する話だったな。
「生き方の問題」は毎夏の帰省の話だったような気がするし。
乗代さんは旅が好きなんだな。
あとマラドーナの伝記の記事書いてたのはサッカー好きだからか。
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人気のない風景を描写するの、めっちゃ良いな〜〜〜15
この人のように文章で情景描写はしないけど、離島やド田舎に一人旅して田園風景や何気ない交差点とかを写真に撮ったりその場で眺めてエモさを楽しんだりはする。118
 

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『旅する練習』には特に関係のないT字路。カーブミラー大好き
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志賀直哉の邸宅跡は台地の上ではなくその裾あたり、沼辺からものの数分のところ、我孫子駅から手賀沼に出る手前で曲がった崖下の道にある。今はその跡地として、裏手の崖地の木々も含めて整備され、何度か移築されたという凝った書斎だけはその姿を保存されている。母屋はもうないが、その実寸の間取りがコンクリートで示されていた。 p.15

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亜美は最初は土の上で、それから間取り図の土間の辺り、日当たりのいいところに場所を移してリフティングをしていた。別に志賀直哉も、自分が生活していた百年後に小学生がボールを蹴ったからって怒りはしないだろう。 p.16
 

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しかし、そう言っておいてすぐに手賀沼に出ることはなく、「瀧井孝作仮寓跡」の案内を見つけ、また崖の方へ上っていくことになった。 p.17
 
志賀直哉邸跡から少し東、子の神古墳群の円墳の二つがはっきり残っているところに、瀧井孝作の仮住まいがあったという。今、一帯は公園を兼ね、民家はあるが、生け垣と様々な木が立ち並んで落ち着く雰囲気だ。そこに一台だけ置かれたベンチに座って書いている。 p.18

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そのベンチ。季節が微妙にずれていて、サザンカトウネズミモチは見つけられなかった(私が植物に疎いだけかもしれないが)。118
 

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『旅する練習』には特に関係のないエモい下り階段。118
 
 
「せめて回数だけでもそっちに控えといてよ」
「なるほど」私は感心しながら記述の最後にその数字を書き加えた。 p.19

 ああ、風景描写の最後の数字は亜美のリフティングの記録だったのか。

19 

 

我々は再び崖を下り、住宅街を歩いて手賀沼に突き当たった。とはいえフェンス越しの堤が高く、水は見えない。散歩のための細道に、低い生け垣だけをはさんで家々の庭が面している。 p.20

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その突き当たり(堤の奥が手賀沼)。ここで作中の2人は左へ歩いていくが、時間の関係上、私は右の道から我孫子駅に戻った。いつか時間があるときに再チャレンジしたい。
 
ここからは、再び本のなかで2人の旅路を追いかける。
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寝る前に、亜美は日記を書いた。読ませようとはしなかったから、ここには載せないつもりだ。ただし、亜美の方から読ませてやろうと見せてくれた日記についてはその限りではない。これから書いていく先にそれが一つでも待っているということだ、私を大いに励ましてくれる。 p.33
最後の1文が気になる。つまり、これから先に亜美の日記があることは確定しているということか。それは、この練習の旅をしている〈今〉に対して、この本文(『旅する練習』)を書いている〈今〉は未来に位置しており、旅がすでに終わって、どのようになったのか全てを知っている状態で、基本的にはあたかもこの先を知らない体で旅程を記していることを意味する。
 
 
乗代は<書くこと>に極めて自覚的・批評的な眼差しを向ける作家だ。
『生き方の問題』は、書簡体小説として<書かれている今>と<書いている今>、そして<読んでいる今>がテクストから三位一体となって湧き上がる小説だった。
本作ではそれがさらに重層化し、回想の回想の回想の回想……といったややこしい入れ子構造になっている。
 
と書いたけど、本作でもこうした作風が端々から滲み出ている。
 
「旅の全貌をすでに知っているけど、知らない体で旅路を記す」というのは、今まさに私がこうして感想記事を書いている行為と非常に似ていると感じる。
「小説の全貌をすでに知っているけど、先の展開を知らない体で感想を書く」こと。
 
これは私のポリシーでもある。
 
普通の書評ブログ、普通の読書感想文というのは、その本を最後まで読んでから、自分なりに展開やテーマなどを咀嚼して、文章にまとめる形式がほとんどだと思う。
しかし、この記事や他の記事を見ればわかるように、私はこのブログで、そうした普通の体裁をとっていない。読書中に気になった文に付箋を貼っておき、その部分を引用し、そこを読んだときに感じたことを、どんな些細なことでもそのまま書く。
 
そもそも小説のあらすじを私は説明しない。
その本を読んだことのない人からすれば、当然、私の記事は読みにくい。どういう流れでその文があるのか分からないからだ。(読んだことのある人でも読みにくいだろう)
 
私がこうした「実況」の体裁で感想記事を書くのは、なにも読者へ嫌がらせをしたいわけではない。
 
私は読書を「私とその本との間で起こった出来事」だと捉えている。
そして、私がブログに感想を書くのは「私とその本との間で起こった出来事」を鮮明に記録するためだ。読者に本を紹介することが目的ではない。
 
だから、もっとも重要なのは「その本を読んでいる最中に感じたこと」である。「その本を読み終わって感じたこと」ではない。それは二の次、三の次だ。
小説の序盤の記述に引っかかって、その疑問を書き留めたとする。最後まで読めば、その疑問はまったくの勘違いだった、ということはありふれている。では、序盤で浮かんだ疑問は無駄なものだったのか?書き留める必要はなかったのか?
私はそうは思わない。たとえそれが勘違いだったとしても、後に自己解決するとしても、「そのとき」その疑問が浮かんだことは事実であり、読み終えたら忘れ去られてしまう、その寄る辺ない"事実"こそ、もっとも優先的に保護すべきだと私は思う。
 
21世紀に生きるわれわれの価値観(ex.地動説)で、昔の人々の価値観(ex.天動説)を「そんな明らかに間違ってること信じてるなんてバッカじゃねーのwww」と断罪することは極めて愚かな行為だ。
 
それとまったく同様に、ある本を読み終わっての感想をもって、その本を読んでいる途中の感想を否定したり無化したりすることは、私はなるべく避けたいと思っている。
 
さらに言えば、「その本を読み始めてすらいないときにその本に抱いていたイメージ」だって非常に重要だと思っている。だから、私はなるべく「どういう経緯でその本を知り、その本に出会い、手に入れ、興味をもち、読む始めるに至ったのか」や「読む前にその本・作家にはどのようなイメージを持っていたのか。どんな情報をネットや知人経由で知っていたのか」を書き留めようと思っている。全ての記事で出来ているわけではないが……
 
「読む前の感想」「読んでいる最中の感想」「読み終わっての感想」
私はこれら3つとも尊重したいと常々思っている。
また、こうした思想は「本は再読してこそ価値がある」とか「1冊の本を真の意味で"読み終える"ことは絶対にできない」などといった、ボルヘス辺りが言ってそうな思想とも相性がいい。再読を前提にすれば、「1回読み終わっての感想」は「2回読む前の感想」と同義になるからだ。読む前と読んだ後がイコールで結ばれて、無限の再読サイクルによって両者の差異が無化されていけば、〈私〉とその〈本〉のあいだの結びつきは開かれており終わることがない(し、始まりすらもない。1ページ目をめくる前から「読書」は始まっているのだから)ことは自明になるだろう。
(※しかし私は現状、ほとんど再読はしていない。他に読みたい本がたくさんあるから…)
 
 
いま、『旅する練習』の感想を離れてこうして長々と自分の読書観・ブログ観を語っているのも、全ては『旅する練習』を読んでいる最中に考えたことだからである。
 
私は自分語りが好きだ。ブログなんてそもそも自分語りのための場だろうに「ブログで隙あらば自分語りするのは恥ずかしい」などという風潮があるのは到底理解できない。(そんなに自意識の開陳が嫌ならそもそもブログをやるな。インターネットをやるな)
 
本作『旅する練習』の語り手たる「私」も、よく自分語りをする。自分語りというか、旅の最中に風景などから自由に連想したことを書き留める。瀧井孝作の名を見て講談社文芸文庫の解説の古井由吉を思い出したりとか、有名な木を見て柳田國男の学説を引用したりとか、正直言って「知識自慢か?」と鬱陶しくも思う。
しかし、それこそが必要なのだ。それが旅をする理由であり、価値なのだ。
客観的な土地や場所から、自分で自由に想像をふくらませ、有る事無い事に思いを馳せること。他の誰でもないこの私が、その場所に行って自分の足で歩いたことを保証するのは、そういった「自分語り」ではないのか。
 
だから私は、あらすじを説明して、読んだ後の感想や考察を、読んでいない人にも分かるように整理してまとめるやり方はなるべくしたくない。(するときもあるし、他人がそれをすることを貶すつもりはない。私の愛読している多くの読書ブログはその王道の形式である)
 
私は、本文とは関係のない自分語りができればできるほど、良い本だと思う。
その土地自体とは関係のない自分語りができればできるほど、良い旅であるのと同様に。
 
 
 
 
以上のことは、120ページ辺りまで読んだ段階で、考えて書いた。
本作がどう着地するのか、私はまだ知らない。
この「実況」としてはまだp.33までしか進んでいないので、今これを書いている私は、約90ページ分を「読んでいない体」で実況をしている、ということだ。
 
もちろん、理想的には、読んで感じたことを、感じた瞬間に書き付けることができれば最高だ。1文ごとに、1文字ごとに感じたことを文字に起こすことが。
 
しかし、それは現実的ではない。
だから、その場で感想を書き起こせないときは、とりあえず付箋を貼り、読み進め、あとでこうして「先を読んでいない体で」その瞬間の感想を書き付ける。
 
で、私が今やっていることと、『旅する練習』の語り手たる「私」が本書でやっていることはほとんど同じことだと思ったのだ。(やっと戻ってきた)
 
「これから書いていく先にそれが一つでも待っているということだ、私を大いに励ましてくれる。」という未来からの1文は、そうした「先を知らない体」がにわかにほころんで、「すでに旅の全容を知っている私」が一瞬顔を覗かせた描写であると思う。
 
こうした「未来からの言及」は、地動説と天動説の例の通り、あまりよろしくはない。そうした行為は暴力的であるとすら言っていい。
 
しかし、そもそも「書くこと」には原理的にこうした暴力性が伴っている。
「私は〜〜した。亜美は〜〜した」という過去形での描写はそれ自体が〈今〉から過去を振り返って(=見下して)断定するきわめて暴力的な行為である。
 
私は、本作の端々に、こうした「書くこと」で原理的に立ち上がってきてしまう複数の〈私〉=時制のズレ=暴力性と、それを隠蔽しようとする態度への葛藤を強く感じる。(それは、私がいつも読書の感想を書くときに強く感じていることだ)
 
現在形で「私は〜〜する」などと書くのは、前述の「読んで感じたことを、感じた瞬間に書き付ける」ことの非現実性と同様の理由で棄却される。どんなに「その瞬間」の現在時制を徹底しようとしても、語り手が認識したあとに描写しているのだから、それは「過去」のことである。本当は過去形であるのを現在形で取り繕うくらいなら、はじめから過去形で描写したほうがよほど素直だ。
 
ヌーヴォー・ロマンなど、現在時制に取り組んだ小説は数多くあるだろう。例えばモニック・ウィティッグ『子供の領分』は全編が子供による現在時制一人称の語りだ。しかし私はこうした小説に詳しくないので、ここで何か評価を下すことはできない。
 
※過去形でも現在形でもない、未来形の語りも多くの実例があるだろう。私がいま思いつくだけでも、リャマサーレス『黄色い雨』やカルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』は部分的に未来形の語りを採用している。ただ、「〜〜するだろう」という未来形の語りは、人物の将来の行動を予言できるほどの超越性・特権性をどうしても帯びてしまう気がする。そして、ここでの超越性・特権性とは上で言う暴力性のことだ。
 
 
そういえば今思ったんだけど、「旅をすでに終えた私」が「旅の最中の私」を描写する構図のアナロジーとして、旅の最中に「成人男性たる私」が「未成年女子である亜美」の保護者として付き添う構図を理解できないか?
〈書く〉という行為においては「現在」が「過去」に対して特権性を持っているように、現実では「年長者」が「年少者」に対して特権性を持っている。保護する/される という構図はその特権性・権力勾配の言い換えに他ならない。
また、年齢だけでなく、「男性」が「女性」に対して持っている特権性……みたいなフェミニズム的な構図も見出だせる。
それから、亜美は運動(サッカー)が大好きで読書や日記などは苦手なのに対して、「私」は小説家であり様々な教養を持っている。つまり、(適切な言葉選びではないが)「文化系の人間」が「体育会系の人間」に対して持っている特権性・優越性みたいな構図も見出だせるのかな。
学生生活とかでは逆にイケイケの体育会系(陽キャ)が文化系(陰キャ)を抑圧しがちであるというステレオタイプがあるように思うが、ここでのポイントはやはり「書く」というフィールドの話だ。文字として残る言論空間においては当然ながら圧倒的に文化系が有利で、体育会系を好きなようにこき下ろすことが出来る。
……いやまぁ作中で「私」はそこまで亜美の学のなさを馬鹿にしてもいないと思うけど。字が汚いとか、真言を忘れるとか、日記をサボるのに対して少し咎めてたりはする。
まぁあまり良いアイデアじゃなかったけど、「小説では本好きが肯定されがちだけど、それって自分のフィールドで特権性を誇っている浅ましい行為でもあるよね」という自戒としては少し価値があるかもしれない。
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「今の、ぜったい日記に書くからね」
実際、この話は日記に書かれた。むしろ、亜美の日記によってこの会話を思い出したから私はこうして書いていると言った方がいいかも知れない。 p.44

ここも露骨に、書かれている今と書いている今の時間的なズレを主張している。しかも、本書に出てくる「書きもの」は、

①「私」の日記(=『旅する練習』)

② 亜美の日記(中学の課題)

③「私」の風景描写練習

と、少なくとも3つある。これらが相互に影響しあって重層的にテクストを形成している。「私」だけでなく亜美という別人も書く主体になっており、筆者間の権力関係をも扱っている点で、前作『最高の任務』から更に問題意識が進んでいると言えるかもしれない(前作をあんまり覚えてないけど)

(亜美が忘れないよう手に書いた真言や、みどりさんが残したメモ書きなども、ミニマムな「書きもの」として追加できるかも)

118

 

それは珍しい光景かも知れないが、思い浮かべた以上、あんまり出くわしたいものではない。起こってもいないことを考えて、その通りだとか違っていたとか、そういう気分から離れたくて歩いているのに。 p.45

わかるようなわからないような。「答え合わせ」の煩わしさ、やるせなさからの逃避としての旅=読書
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途切れた文を目にするたびに亜美の「あ」という声が聞こえる気がする。 p.51
 露骨過ぎて笑っちゃうNo.3
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みどりさん
女子小学生だけでなく女子大生まで出てきた。オタクの妄想か?(元気な亜美とは対照的な人見知りキャラってのもいかにも〜〜〜)
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 「アビ?」とその人は興味深そうに言った。「どうやって書くの?」 p.55
 うわ〜〜〜〜ってなった。露骨とかそういう次元ではない。狙いすぎであることを隠そうともしないという狙いすぎ感
要するに「書かれている今」と「書いている今」だけでなく、この文章を「読んでいる今」すなわちわれわれ読者とのズレを意識させようという魂胆よな。最初に説明するほうが自然なのに敢えてそうはしなかったということだから。
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p.83
亜美ちゃんとみどりさんのやり取り、いいな〜〜〜。「私」いらなくね?(百合の間に挟まる男は許せない並感)
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我々はとりあえず、ガードレールの外側の土手下から橋のぎりぎり、等間隔に三本立っている堰柱の陰までやってきた。 p.84
 
Googleストリートビューで彼女らが歩いている道を追いかけながら読むことにした。
この橋はたしかに歩道がなく、渡るのは大変そうだった。
3人が車の往来を見ながら立ってたガードレールの端っこってここか〜〜〜などとテンションが上がった。
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その謎はともかくとして、書き残されない常人の感覚というものは、私の興味を大いにかき立てるものだ。 p.92
「書くこと」に焦点が当たるとき、それは同時に「書かれなかったこと」が視界から外れていることを意味する。そうした〈今、ここ〉の外部へのまなざし、目配せ。相変わらず露骨だけど。テーマ性はすごく好きなんだけど、もうちょっとさり気なく書けないかなぁと乗代作品を読んでいるといっつも思う。
 
あと、「書くこと」によってその土地に当時住んでいた人々の記憶を記録に残す切実さ、みたいなテーマは『君の名は。』じゃん!と思いながら読んでる。
キャラだけでいったら実質『よつばと!』なんだけど。
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私しか見なかったことを先々へ残すことに、私は──少しあせっているかも知れないが──本気である。そのために一人で口を噤みながら練習足らずの言葉をあれこれ尽くしているというのに、そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たちだという事実が、また私をあせらせる。 p.97
ん〜〜〜??? 意味深〜〜〜〜〜〜〜〜
実は、本書を読み始めの頃に母親に薦めて、私より先に読み終えたんだけど、「最後がどんでん返しで〜〜…改めて最初から読み直したら確かにところどころで〜〜…」というメタバレ(「この作品はネタバレ厳禁です!」というメタ情報によるネタバレ)を食らっている。
いまこの文章を書いている時点では、わたしは118ページまでしか読んでおらず、「どんでん返し」に到達していないが、メタバレされているので、オチの予想は嫌でもしてしまう。
「そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たちだ」という部分は、やっぱりそういうことなんかな……
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水郷の町 佐原を舞台にした小島信夫の短編『鬼』読んでみたい。
いまKindleで探したら『馬』読書会のために『アメリカン・スクール』を購入していたのでいつでも読めるじゃん
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そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。この忍耐は何だろう。その不思議を私はもっと思い知りたいし、その果てに心のふるえない人間が待望されているとしても、そうなることを今は望む。この旅の記憶に浮ついて手を止めようとする心の震えを沈め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだろう。 p.104
 「本作の核心」っぽいの来たな……
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 馬頭観音から口数も減ってかなり速いペースで歩く亜美の背中を思い浮かべ、「運命を承認するかのごとく」と引きながら、私は少し複雑な気分だ。本当は運命なんて考えることなく見たものを書き留めたいのに、私の怠惰がそれを許さない。心が動かなければ書き始めることはできない。そのくせ、感動を忍耐しなければ書くことはままならない。 p.118
BLEACH』5巻のチャドの巻頭歌みたいな構文。
でも分かる気がする。
読書中に感動した一節には付箋を貼って、その感動を後々に残るようにしたいのに、「付箋を貼る」とか「後々に残そう」と思うその行為じたいが、感動を一歩引いた目線で客観視する作用があり、その瞬間に最初の感動は薄れて、決定的に損なわれてしまう。書くという行為は、常にこうした「熱さ」と「冷たさ」の対流によって駆動していて、それをここでは「感動」と「忍耐」で言い換えている。・・・と、私は読んだ。
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ちょうど鎮守の森を一つ回り込み南進する道に入ったところで、小高い林が囲む広い田園の視界が右から左へと開けていく。 p.119
おそらくここの道。Googleマップでかなり苦労してようやく見つけた。168
 
 
 

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三叉の道で田圃に背を向け、小山に通された道を上っていく手前に観音寺はあった。 p.119
の三叉路。左が来た道。後ろが「小山に通された道」。右が観音寺訪問後に進む道。168

 

 

 

もう反対側の木立の前の民家まで来ていたが、振り返って春に備える田の先へ目を向けている。見れば、ちょうど田園に視界の開けた辺り、我々も通ったその一本道を人が一人歩いていた。夏だったら青い稲に隠されてきっと見えないほど、小さい赤い点になって。 p.122

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「反対側の木立の前の民家」。亜美が振り返ったところ。
 

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亜美が振り返った視界はおそらくこんな感じ。画面の真ん中らへんにみどりさんが歩いていると思われる。どんだけ視力いいんだよ……
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上の3箇所(と観音寺)の位置関係はこんなかんじ。
亜美は走り出した。(中略)角を曲がって、こちらに少し膨らんだ林の前を書けていく亜美には、顔を上げる素振りもなく歩いているみどりさんの姿は見えなくなったろう。林を回って、今度は私から亜美の姿が消える。やがて、抜けるような青空に、みどりさんを呼ぶ声が遠く高く響いた。 p.122
という描写を完全に理解した。
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もちろん、そこに座り込んで書くことなんて思いもよらない。しかし、状況というものは刻一刻と変わるものだ。川の流れのように季節は巡り、今いる者はもういない。私は二ヶ月以上経った後でまたこの場所を訪れ、あの時三人で立っていた場所に今度は一人で座り、忘れ難いその時のことを必死に思い出しながら書いた。 p.128
え、二ヶ月後にもう一度「私」は旅をしてるって既出情報だっけ。
「書いている今」の時制がさらに錯綜する〜〜〜
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「ただ大事なのは発願である」 by 柳田國男
「願ったんなら叶えてしまえや」by Orangestar
我々の発願は、それをもたらしたものは、そこから続く日々の行いとは何か。…発願なしには信心も練習も開発も始まらないが、度重なる行いの中に願いは少しずつ溶けていく。…しかし、こうした透明な成就が、そんなことを知る由もない人々の営みが、不思議と当人たちを慰めてくれることもある。 pp.147-148
…は中略部。「透明な成就」はなかなか興味深い言葉だ。
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p.168
読み終えた。
 
いや〜〜そう来るか〜〜〜
外れた方のオチ予想を書いておくと、亜美ちゃんもみどりさんも実は存在せず、「私」が一人で歩いているのみ…という2人は空想の産物エンドを覚悟していたけど、もっとありきたり……というか、ストレートなやつだった。はいはい、そっちね。
 
『最高の任務』の感想では「本作は軽いミステリ・謎解き要素と、叔母や家族との絆といった感動的要素が盛り込まれて、比較的キレイにまとまっているが、それが逆に作品をこじんまりとさせている」 と書いたが、本作もわりと安直な感動要素(?)で最後に総括した感じ。
 
ん〜〜〜駄目とは言わないけど、なんだかなぁ。
もちろんそれが、長々と上で書いた、書くことによって記憶に残す切実さ、みたいなものに繋がるとか、そういうロジックは分かるんだけど(だって作中でめちゃくちゃ説明してるし)……
あの最後が無くとも、本作でやりたいテーマ性は十分に表現できていたと思う。逆に、ああした終わり方でなければ読者に本作の核心が伝わらないとか、不十分であると思っているのなら、もう少し小説を、読者を、自分を信じてもいいのでは?と不相応にも思う。
 
こういう風じゃない乗代作品も読んでみたいと強く思う。テーマ性にはすごく共感できる分、乗代さんにはもっと先へと行ってほしい。偉そうだけど、率直な感想として。
 
 
にしても、旅をしながら書いていく紀行文の形式はすごくいいな。じぶんも「旅する練習」をやってみたい。
 
乗代さんで読んでないのは『十七八より』『本物の読書家』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』。
なかなか良いと噂のデビュー作『十七八より』はKindkeで積んでいる。
 
 
 

 

旅する練習

旅する練習

 

 

 

最高の任務

最高の任務

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: 単行本
 

 

 

十七八より

十七八より

 

 

 

乗代雄介さんのブログ

norishiro7.hatenablog.com


 
 

『やし酒飲み』エイモス・チュツオーラ

 

 

 

尊敬する読書家の知り合いが「やっぱり『やし酒飲み』みたいな小説の語りが最強だよ」的なことを言っているのを聞き、翌日図書館で単行本版を手に取り、すぐにこれはとんでもない作品だと確信したため生協で岩波文庫版を買った。

 

 

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。 p.7

常体と敬体が混ざっていて不思議な語り。これ原文の英語どうなってるんだ?

 

父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのため専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのため毎日やし酒を造ってくれることであった。 p.7

最高じゃん。酒好きだったらもっと楽しいのかな。

 

父が死んで六ヶ月経ったある日曜の夕方、やし酒造りは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、その時ふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。 p.8

「やし」がゲシュタルト崩壊するこの冗長性すごいな。「わたし」が実際に見ていないであろうことを何で語れるのだろうと思うけど、まぁここは木の根元で死んでた状況から推測したとしても不自然じゃないか。

死んだやし酒造りが住む町を目指して旅に出る。なんだ、酒飲んでるだけのニートかと思ったら意外とバイタリティあるやん

 

神である彼の家に、人間が、わたしのように気軽に、入ってはならないのだが、わたし自身も神でありジュジュマン juju-man だったので、この点は問題がなかった。 p.11

クソワロタ。おまえ神だったんか。先言えよ〜〜(ジュジュマンてなに?)
実は神で、次から次へと吹っかけられる難題を割とサクサクこなしていく様はなろう小説っぽくもある。

 

わたしがベルを持って帰ってきたのを見て、老人と妻はびっくり仰天し、同時に、また強いショックを受けた。 p.12

こっちがびっくり仰天だよ。「びっくり仰天し、同時に、また強いショックを受けた」って何だよ。「彼は頭痛に悩み、またそれだけではなく、頭がひどく痛むことに苦しんだ」みたいな重言表現。驚き具体を強調するための修辞だろうけど、こんな風に平然と繰り出されるから驚く。言葉とは、世界の感じ方、世界の語り方そのものだという事実を思い知らされる。この小説の語りにおいては我々の常識を捨てなければいけない。

 

さて、どの道が「死神」の道なのか、皆目見当がつかず、途方にくれていたのだが、たまたまその日は、市の立つ日だし、市場へ行った連中がそろそろ帰ってくる頃だということを思い出し、わたしは道路の合流点のど真ん中で、頭、左手、右手、両足をそれぞれ五つの道路の方向に向けて大の字になって、ねたふりをしていた。 p.13

ここ、『重力の虹』で発散手前のスロースロップが十字路の中心でねそべってロケットの落下を待つ印象的なシーンを思い出した。(なんかそんな感じのくだりあったよね?)
「死神」の道がどれか調べる方法としても面白い。

 

「死神」の家から「死神」を連れ出したその日から、「死神」には永住の場所がなくなりました。わたしたちがこの世で「死神」の名をよく耳にするようになったのは、そのためなのです。 p.18

クソワロタ。お前のせいじゃねぇか。こういうことをいけしゃあしゃあと語られるのほんと笑う。

 

完全な紳士に変装した「頭ガイ骨」の跡を追って家までついて行ったからといって、この娘をとがめることは、到底わたしにはできないことだった。もしわたしが女だったら、わたしだって彼の跡をつけて、彼の行く所まで行っただろうし、その美しさ故に、この紳士が戦場へ行けば、敵だって、彼を殺したり捕えるようなことはしないし、爆弾を落とそうとしていた男も、彼が町にいるのを見れば、彼のいる所には爆弾を落とさないだろうし、もし仮に落としたとしても、爆弾の方で、この紳士が町を去るまでは炸裂しないだろうから。 p.28-29

しびれる〜。「もしわたしが〇〇だったら〜〜」で軽い同情や感情移入から始まり、徐々にドライブしていって爆弾まで行き着く。荒唐無稽さをシームレスな語りで緩和している。(し、何より好きなのは、おそらく「狙ってやっていない」だろうこと。実際どこまで推敲していたかは知らんが、私にそう思わせてくれた時点で勝ち)

 

「頭ガイ骨」どもは、奇声を発し、大きな石のように地面をころがりながら、森の中を迫ってきて、すんでのところでわたしを捕えそうになり、また仮に、そのように逃げまわってみても、所詮やがては捕まってしまうことが明らかになった時、わたしは、娘を子ネコに変えて、わたしのポケットの中に入れ、わたし自身は、英語でいえばさしずめ「スズメ」にあたる、とても小さな小鳥に姿を変えることにした。 p.33

英語でいえば、か。語り手は英語ができるのか?元はどの言語で語っている設定なんだ。これだけ言語の異質性を全面に押し出した作品だけに、こういう些細な点はめちゃくちゃ気になる。


ある日、やし酒を採集していた農園までわたしについてきた妻のふくれ上った親指に、やしの木のトゲがささった時、驚いたことに、突然親指が破裂して、そこから男の子が生れてきて、まるで十歳の子供のように、わたしたちに話しかけはじめるのだった。
親指から地上に降り立つ間に、その子供は、三フィートとちょっとの大きさになり、声は、まるで誰かが鋼鉄のハンマーで、カナトコを叩いているような、よくききとれる声になっていた。 p.37-38

とつぜん指が「浮袋のように」ふくれ上るのは目取真俊「水滴」を思い出す。
指が破裂して子供が出てきたこと自体より、地上に降り立つ間にみるみる成長するスピード感にやられた。しかも「成長」をあらわすために「三フィート」という視覚情報だけでなく、「まるで誰かが鋼鉄のハンマーで、カナトコを叩いているような」声という聴覚情報を2番目に付け足すのが見事。

この子供ほんとすげー不気味かつ恐ろしかった。本作に登場するキャラでいちばん怖いかもしれない。

 

赤ん坊をつれていった所に、人間になぞらえていえば、「ドラム・ソング・ダンス」という名の、三人の、わたしたちと同じ種類の生きた生物がいた。 p.46

ダンス!!!いいねぇ。そうか、こういう原始的な三要素挙げるとしたらその3つになるんだ。ヒップホップの四大要素的な。

 

わたしたちは火に変わったのだから、空腹などは感じないだろうなどとお考えにならないで頂きたい。わたしたちが火であることは、まぎれもない事実ではあったが、ひもじさは人一倍感じていたのだった。だからといって今すぐに、人間の姿に戻ったならば、即座に白い生物たちに、殺されるか危害を加えられることは、火をみるより明らかだった。 p.53

かましいわ!!!・・・とツッコんでふと、いや待て原文はどうなってるんだ?と思い至る。

 

その男は、王様に命じられた通りに、情容赦なくわたしたちを突き刺したので、わたしたちは苦痛を感じ、思わず口を利いた。ところが、わたしたちの声を聞いたとたんに彼らは、まるで爆弾が破裂したように、ドッと笑い出した。そしてその夜わたしたちは、人間にみたてて言えば、その「笑の神」と、熟知の仲になったのだった。わたしたちを笑うのを彼らは、止めてしまったのに、「笑の神」は、二時間も、笑いをやめなかったからです。 p.56

さいしょ「彼ら」が「笑の神」なのかと思ったけどどうやら1人っぽい。文の連なりで巧妙にずらしてきてる……というよりも、やっぱり自分が文章に求める整合性がここでは通用しないと考えたほうがいいだろうな。

 

それに衣裳をまとった時の「島」の生物たちのあでやかな姿は、まるで人間そっくりで、彼らの子供たちの晴れ姿を見ているうちに、あなた方はきっと、子供たちがいつも、舞台劇を上演しているのだという錯覚に、捕えられることでしょう。 p.59

いきなりこっちに話しかけられるとビビる。それに「島」の謎の生物たちの「子供たち」が舞台劇を上演している錯覚って描写もなかなか怪奇幻想めいててすごいな。

 

──ところが、途中で、膝に目がくっつき、モモから腕が生え、おまけにその腕が足より長くてどんな木のテッペンにでも届くという、後ろ向きに歩く男に出くわして、またまた度ぎもを抜かれたのだった。 p.69

いやいや情報量がすごい……!降参降参

 

そこでもう少しその道を歩き続け、今までのように森林の旅をつづけるためには、そろそろ左へ折れ曲がらなくてはならなくなった時、どうしたことか、わたしたちは曲がることもできず、さりとて停止することもならず、また後ろへ戻ることもできなくなってしまい、道はただ一つ町に向って前進あるのみということになってしまい、とまろうと全力をつくしたが、駄目だった。 p.73「不帰の天の町」への旅

 

この未知の生物たちは、何かにつけて、人間の逆張りを行くのだった。たとえば、木に登る時には、まずハシゴに登っておいて、そのあとから、ハシゴを木にもたせかけたし、また、町の近くに平坦地があるのに、家はすべて、傾斜の急な丘陵の中腹に建てたし、そのために居住者も落っこちそうなぐらいに、家は傾斜し、事実、子供たちは、家からいつもころがり落ちていたが、親たちは一向におかまいなしといった調子だった。 p.74

おもろい。「事実、子供たちは、家からいつもころがり落ちていた」じゃねぇよ・・・こういう真顔ユーモアすき


妻の存在感の無さ。それでいて、夫にひたすら従順に影のように付き従っているから存在感がないというわけでもなく、お互いに自分第一で精神的に自立してる感が良い。ビジネス上の仕方のない同行者って感じ。
かと思えば

そして、そのために、「両手」が、わたしたちをさし招いて、来いという合図をした時、妻はわたしを指さし、わたしは妻を指さし、妻はわたしに、まず先に、むりやりに行かせようとし、わたしは妻を押して先に行かせようとして、妻とわたしは、お互いに相手を敵に売ったのだった。 p.84

こういうシーンがあるから面白い。妻もわたしも生き生きとしてて良いね。

 

さて、白い木の内部に入る前に、わたしたちは、戸口の男に、七十ポンド十八シリング六ペニーで、「わたしたちの死を売り」渡し、同様に、一ヶ月三ポンド十シリングの金利で「わたしたちの恐怖を貸与」してしまっていたので、わたしたちはもう、死について心を煩わすこともなく、恐怖心を抱くこともなかったのだった。 p.85

おいおいおいおい・・・こういうことが些細なことのように流されていくのほんと最高。夢中で読んでたらスルーするぞ。
てか「わたし」の神様設定はどうなったんだ。神って死ぬの?


誠実な母、マジで誠実だった。こういう、過酷な旅の途中で唐突に現れるめちゃくちゃ良くしてくれる人物って「注文の多い料理店」にしろ「雪女」にしろ、実は主人公らを食おうとする悪者だと相場が決まっている(たしか岡崎京子『僕たちはなんだか全て忘れてしまうね』にもあったな)のだけれど、この作品にそんな"相場"なんてものは存在しない。
いやー木の中に入るときに死と恐怖を買い取られた時点で絶対よからぬ事を企む施設だと思ってたけどな〜
本作のいいのが、自分の期待を裏切ってくれる点というより、そもそも期待や相場を裏切るつもりもないところで物語が紡がれているのだろう、ということ。
その根拠はこれがアフリカ文学であるから、などというメタな情報による面もなくはないが、何よりこの奇想天外な物語をここまで読んできて、そういうレベルの話ではないことがよ〜く分かっているためだ。

 

それから、わたしたちは、借主から「恐怖」をとり戻し、最後の金利を払ってもらった。そのあと、わたしたちから「死」を買いとった男を見つけたので、「死」を返してくれと交渉したが、それはわたしたちから買いとったものだし、代金もちゃんと払ったのだから、返すわけにはいかないと断ってきた。そこでわたしたちは、「恐怖」だけをもって、「死」の方は、買主の方に任せておいたのだった。 p.93

そうだ、「恐怖」を貸してたんだ。すっかり忘れてた。「死」を売り払って死ななくなるの得しか無くない?

 

──「この「赤い町」の住民はすべて、昔は、人間だったのです。その頃はわたしたち人間の目はすべて、ヒザに付いていたし、また引力の関係で、空に向けてかがんだし、歩き方にしても、後ろ向きに歩いて、決して現在のように前向きには歩きませんでした。 p.96-97

大ほら吹きの面目躍如といった有様。
物語って、何よりもまず想像力の賜物だったな、ということを思い出させてくれる。

 

わたしはもちろん、彼らの言うことなどには耳を貸そうともせず、彼らをアミとワナから取り出して、火に入れようとしたのですが、彼らはなおも、自分たちを絶対に火の中に入れてはならないと、誇らしげに、くりかえして言うのでした。 p.98

川の赤い鳥と森林の赤い魚を火炙りしようとしている場面。「誇らしげに」ってのがなんかいい。彼らのプライドや価値観が伝わってくる。

 

妻はその時、こんな謎めいたことを言った。──「このことによって短い期間、一時的には女を失うことにはなりましょうが、男を恋人から引き離す期間は、もっと短いものになりましょう」妻は、預言者のように、比喩を使って話したので、わたしには、その言葉の真意は、つかめなかった。 p.101

いきなりどうした妻!?こっちも真意をつかめないよ。

 

実は、その女は、大きい方の「赤い木」の前にいた「赤い小さい方の木」でした。そして大きい方の「赤い木」は、「赤い町」と「赤い森林」の「赤い住民」の「赤い王様」であり、大きい方の「赤い木」の「赤い葉」は、「赤い森林」の中の「赤い町」の「赤い住民」たちだったのです。 p.109

は????(最高)

 

そして一旦その町の住民全部と森林の生物が一緒におどりだした時、まるまる二日間ぶっつづけにおどり、誰もおどりをやめさせることはできなかった。しかし「ドラム」はやがて、自分がこの世の者でないことをさとって、ドラムを打ちながら天国へ帰って行き、その日からは、二度とこの世に姿を見せなくなった。すると今度は、「ソング」が歌いながら、意外にも、大きな川に入って行き、それが、彼の姿のこの世での見納めということになってしまったのだった。そして最後に「ダンス」は、おどっているうちに山になり、その日以来プッツリと消息を断ってしまった。そこで墓から起き出してきた死者たちはみな、また墓へ戻り、その日から二度と起き上がることができなくなってしまい、のこりの生物たちもみな、森林などに戻って行き、その日以来、彼らは町へ出て、人間とか、その他の類と一緒におどることができなくなったのだった。 p.111

かなしい・・・。踊り始めるのも解散するのもスピード感がすごい。「意外にも」大きな川へ入って行き、ってどういうこと?山になったのなら消息は掴めているのでは?などという無粋なツッコミをしてはいけない。

 

そこでわたしは、彼に金を貸したものかどうか、妻に相談すると、妻は、この男は「すばらしくよく働く労務者ではあるが、将来きっとすばらしい泥棒にもなりましょう」と言った。もちろんわたしには、妻の言った言葉の真意はわからなかった。 p.113

おい!!!わかれよ!!!真意てかそのまんまじゃねえか!!!まさか前の「比喩を使って話す予言」が前フリだとは思わんかったぜ……

 

五分間ばかり、彼らはそのようにじっとわたしたちを見つめてから、その一人がわたしたちに、どこから来たのかと訊いたので、わたしは、わたしの町から来たと答えると、その町はどこにあるのかと訊くので、この町からずっとずっと遠く離れた彼方ですと言うと、彼は、その町の住民は生きているのか、死んでいるのかと訊きかえすので、その町には死んだ者は一人もいませんと答えた。 p.128-129

このまったく「文学的に洗練された文章」とはほど遠い冗長なやり取りよ。最高
「美文」を書くという三島由紀夫堀江敏幸に見せてやりたいね

 

そしてわたしたちが、彼の合図に答えられないのをみて、彼は、わたしたちのところへきた瞬間から、わたしたちと一緒にその町で住むわけにはいかないことに気がつき、話をはじめる前に、わたしたちのために、小さな家を建ててくれた。 p.131

こういうとこやぞ!!!さらっとスピード建築すな!!!

 

やがて森林の奥深く入りこんだ時、彼は、彼と同類の生物に出会った。すると彼は足をとめ、二人で袋を今度はあちら今度はこちらという具合に、放り投げては、拾い上げ、しばらくの間そんなことを何回かくり返しているうちに、袋の投げ合いをやめ、彼は元通りに、黙々と歩き続け、夜が明けるまでには、例の道路からは三十マイルも奥に入っていた。 p.140

袋の投げあい全く意味分からなくて不気味ですき

 

そして、この九人の生物と一緒に農園で働いていたある日、その一人が、何を言っているのやらわたしにはわけのわからぬ彼らの言葉で、わたしをののしったので、それがはずみでけんかになり、わたしに殺意があるのを見てとった残りの連中が、次々にわたしに組みついてきた。わたしは、最初に立ち向ってきた生物をまず殺し、そのあと二番目に向ってきた生物もという具合に、次から次へと血祭りにあげ、いよいよ最後に、彼らのチャンピオン格の生物だけが残った。 p.143

いやお前のほうが強いんかい!!!謎の生物の描写あれだけ恐ろしかったのに……クソワロタ

 

やがて、彼の姿がほとんど見えなくなってしまったその瞬間、ふとわたしの心に、わたしと一緒に森林をさまよいながら、「死者の町」までわたしについてきてくれた貞節な妻、そしていかなる苦難にも、決してたじろがなかった勇気ある妻のことが浮かんできた。そして妻は、このようにわたしから決して離れなかったのだから、わたしだって、断じて「飢えた生物」が妻を連れ去るままに放っておいてはならないと、自分に言ってきかせた。 p.149-150

激アツ展開。どうした?普通の小説みたいじゃないか

 

さてこの「混血の町」には、土着民の法廷が一つあって、わたしはいつも出廷して、多くの裁判を傍聴していた。ところがある日、驚いたことに、友人に一ポンド貸したある男が法廷にもちこんだ裁判を裁くように、依頼をうけたのです。 p.151-152

いきなり法廷パート始まって草
というかいつも裁判を傍聴していた時点でツッコみたい。
そしてこの依頼されたエピソードのハチャメチャさがすごい。自分も「私の職業は、金を借りることだ。わたしは借金を頼りに生活しているのだ」と言い切りてぇ〜〜〜
寓話的になりそうなのにならない(それでいてちゃんと裁きがいのある)のがすごい

 

そんなわけで、「混血の町」の住民たちはみな、ひたすらわたしに戻ってきて、両案件の判決を下してくれることを切実に願っている次第ですので、もしも、この物語をお読みの方の中でどなたかこの二件とはいわず、一件でも結構ですから、可及的にしかるべき判決を下され、その内容をわたし宛にお送り頂ければ、これにまさる幸いはございません。 p.158

だからいきなりこっちに話しを向けられたらビビるって! この物語、どういう位置づけでこのひとは語ってるんだ?
マジか〜〜頼まれちゃったよ〜〜ゲラゲラ笑いながら両案件を聞いてたのに笑ってる場合じゃねえ

 

そこで彼らがわたしに何か手を出す前に、わたしは自分を、さっさと、平たい小石に姿を変えてしまい、自分で自分を投げながら、故郷への道を急いだ。 p.161

でた!!!僕の好みの自己撞着案件だ!!!
稲垣足穂一千一秒物語』の「ポケットの中の月」

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころとどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった おうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

みたいなやつ。

 

最後までわけわからんまま駆け抜けたなーー。普通そこは主人公が「天の神」へと御供物を奉納しに行くとこでしょ。最後がぽっと出の奴隷・・・。未完のまま作者死んだ?ってくらい唐突な終わりだな。

 


読み終えた!!!最高!!!!!

「これぞ海外文学」って感じ。自分の身近な世界とは何もかもが違う世界の語り方に出会わせてくれる。


「先進国」かつ「未来」に生きる私の立場からこういうアフリカ文学のエキゾチシズムに触れて大絶賛するのは、それはそれでオリエンタリズムっぽくて自省はしなけれないけないけど。最高だった。


初心者向け海外文学リストにこれは絶対入れたい。短いし読みやすいうえにバカバカしくて面白い。


小学生でも十分に読めそうというか、むしろ子供こそ本作を純粋に楽しめるかもしれない。

 

こないだ読んだオネッティが「何が起こっているかではなく、いかに語るか」で魅せる小説だったのと対照的に、『やし酒飲み』はひたすらに「〜〜した。〜〜だった。〜〜でした」という出来事の羅列が息する間もなく続く。とにかくスピード感がすごい。ただし「いかに語るか」に魅力がないわけではなく、敬体と常体が混じった、やや冗長で「駄文」とさえ言ってしまえるかもしれない独特の文体が内容のわけわからなさにこれ以上なく適している。内容・文章ともに至高の文学作品だと思う。

 

小説というよりも童話に近い。ガルシア=マルケスの小説でさえ、このドタバタ感・スピード感には敵わないんじゃないか。

 

いちばん連想した他作品はアレナス『めくるめく世界』。世界観も倫理観も何もかも我々の常識とはかけ離れている奇想天外な冒険譚。

ただし、本作の前ではアレナスでさえもまだまだ前衛的な文学性を真面目に志向している「お利口さん」の文学だったんだなぁと思う。アレナスがお利口さんってマジかよ。

 

「死者」が「定年退職したひと」くらいの感覚で平然と登場してくるのは『ペドロ・パラモ』とかラテアメ文学でもありがち。
主人公(と妻)、旅の先々で死にそうな目にあっては命からがら逃げているけど、しれっと大虐殺もしている。

 

こういう世界観・文体をトレースして現代日本に舞台を移した小説を読んで/書いてみたいが、卑近な舞台だとこうはならないかなぁ。風刺性がどうしても無駄に生まれてしまいそう。

 

一時期Twitterでバズったなろう小説『すばらしきアッシュ』にも少し似ているかも。小説の文法作法を逸脱している感じが。
私は大真面目に『アッシュ』は"世界文学"だとみなしている。「緑色のドカーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」という冒頭は、『重力の虹』の「一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる」にもまったくひけをとらない。


上でオリエンタリズムと言ったような、拙い文章を「安全圏」から逆に面白がって持ち上げて持て囃すような姿勢を幾らかも含んでいないか、と問われたら、否と断言することはできない。
ただ、わたしの今の文学観・好みでいえば、こうしたエネルギーのある独特の文体の小説は諸手を上げて評価したい。
「わざと拙くてぶっ飛んだ小説を書く」ことは非常に難しく、その達成には文学的価値があると思う。

 

 

訳者あとがき、勉強になる。多和田葉子の解説、まぁまぁ良い。(いかにも多和田葉子が好きそうな小説ではある)

 

 

大学生のときにラテンアメリカ文学に出会って好んで読んできたけど、アフリカ文学もめちゃくちゃ好みな可能性が高いと、本書を読んで思った。ようするに自分は、自分から「遠い」作品をもとめて海外文学を読んでいるので、こうしたエキゾチックな香り全開のものが好きなんだろう。


これまでに読んだアフリカ文学・・・今パッと思い浮かぶのは南アフリカ出身のクッツェー『恥辱』だけど、これは普通にお行儀のいい正統派ヨーロッパ文学という感じで駄目だった。アチェベ『崩れゆく絆』とか読んでみたい。『やし酒飲み』のだいぶあとにチュツオーラが書いた『薬草まじない』も気になる。
あと、アフリカ人初のノーベル文学賞受賞者の劇作家ウォーレ・ショインカも読んでみたい。

 

 

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

めくるめく世界 (文学の冒険シリーズ)

 

 

一千一秒物語 (新潮文庫)

一千一秒物語 (新潮文庫)

 

 

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

 

 

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

 

 

薬草まじない (岩波文庫)

薬草まじない (岩波文庫)

 

 

 

「蟹」庄野潤三

2/26

庄野潤三「蟹」を読んだ。

 

 

海辺の宿にバカンスに行く5人家族の話。

 


語りの視点?がふわふわしている。対象に目を向ける(描写する)順番の独特さというか。
「〜したり、〜したり」といった反復・並列の言い回しが心なしが多い気がする。蟹の「往きつ戻りつ」と掛かってる?まさかね……

 

やっぱこの人の文体って全体的に静かというか、描写している対象から語り手が距離をとってどこか他人事として語っている感じがする。だから静かというか冷めているというか……。三人称は一般的にそうなりがちではあるが、それを踏まえてもちょっと独特の雰囲気がある。いやどうなんだろう、こういう小説に自分が親しんでいないだけで、日本近代文学とかにはありふれてるのかな。

 

あ、海外の話じゃないんだ。てっきり登場人物は外国人で舞台も海外かと。セザンヌとかルノワールは単なる宿の部屋名ね。

 

プライバシーの観念はあるけどプライバシーを保持する設備環境がこの時代の宿には整ってないの面白いな。


なんか3つの部屋が繋がって修学旅行の夜みたいになってる。

 

・・・とか言ってたら終わった。最後が意味深〜〜〜そうだよな〜窓越しに見えた外国人の男ってのがどういう意図で差し込まれたのか考察のしがいがあると思ってたらまさに締めで使われた。
それがなければ普通に海辺のバカンスの平和で生き生きとした情景をありのままに綴ったスケッチという感じで、何も意味をもってない素朴さが良いなと思っていたのに。

 

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

 

 

hiddenstairs.hatenablog.com

「ナチュラル・ウーマン」松浦理英子

河出文庫松浦理英子ナチュラル・ウーマン』に入っている3つの作品のうち、表題作だけを読んだ。

 


1
なんだか少女マンガか、女性作家のサブカル青年漫画でありそうな雰囲気の話だなぁとしか思わない。
男の人に心を寄せられない私が出会った「運命の人」……!という感じで、典型的なシンデレラストーリーをジェンダーだけ倒錯させてなぞっているようにしか今のところ思えない。
メイン2人とも、容姿の面では恵まれていて、周りの人を男性も女性も貶めて、自分たちだけの特別で甘美な関係を構築しようとしている感じがキツい。
しかしそれは恋愛小説なら一般的なことで、殊更に反発を覚えるものでもない気がするが、私が受け入れられないのは結局、異性愛中心主義やミソジニーを露呈しているだけなのかと思うと怖い。

 

2

奴隷解放宣言前後のアメリカの黒人を主人公にした漫画ばかりを描き継いでいる花世は音楽も有色人種のものしか聴かない。 p.134

なにそれおもろ。

 

花世=女であることに執着する。男性経験抱負

容子=女であることに執着しない。男性経験ナシ
という図式。

異性愛規範を内面化する女としない女が、お互い初めて同性愛に耽る

 

男性経験ないのに手を突っ込んでも出血しないのはホントに体質なのだろうか。意味深

というかいきなり手を突っ込むのって下手したら同性間レイプだよな……痛そう

 

「本当のセックス」とか露骨にテーマ性を打ち出してきてやっぱり今のところ好みじゃない。綺麗に作品が図式化されていて、提示した問題意識への解答を上手く行っている系の「優等生」の文学には興味ない。

 

3

結ばれても互いにどこか分かり合えず、体を重ねながらすれ違う。

 

花世の顎が少し上がった。視線が私の顔に移った模様だった。今まで花世の眼に映っていたものが視線と共に顔面に移動したような気がして、私は頭を横に向けた。 p.150

ちいちゃんの影送り

 

容子、「私が可愛いからでしょ」ってそういう自覚はあるんだ。自己評価低めかと。

 

4

「だけど、男にはリードさせるんでしょう?」
「だからままごとなのよ。男と女ごっこ。」
「ままごとじゃないセックスなんて、あるの?」
p.154

 

暗がりで際立つ花世の白い肌はとても魅惑的なのだが、触れると肌の白さに弾き飛ばされそうだった。 p.155

この表現なんとなく好き。視覚(色彩)情報から触覚への比喩

 

「あの子に言わせると、私はどこからどう見ても女だけれど、容子にはいわゆる女らしさがない。もちろん男のようでもない。一般的な性別には属さない、と言うの。では何に見えるかと言えば、夕暮れに家に帰りそこねた子供に見える。属すべき性別を見つけることができなくて戸惑ってる雰囲気があるんだって。」
「それはいいけど、なぜ小僧なの?」
「家に帰りそこねても生きて行けるしたたかさがあるのは小僧に決まっているからよ。だたの子供じゃ飢えるか凍えるかして死んでしまうわ。」 p.158

「夕暮れに家に帰りそこねた子供」とかいうエモい形容をいきなりぶっこんでくるの好き

 

5-6

いや〜マジで全然面白いとも凄いとも思えないのなんでだろ。傍から見れば至極しょーもないけど本人たちにすれば命よりも切実で大真面目に悩んでいる恋愛心理のすれ違いを描く……って、例えばラディゲの『肉体の悪魔』とかもそうだったけど、あっちはまぁまぁ良さは分かったのになぁ。やっぱり女性同士だとダメなのかな。異性愛中心主義を内面化したクソ野郎だとしたら絞首台に上るしかないな。

 

7

私には皮膚の鳴る音が笑い声に聞こえた。 p.178

実際の音は知らないけど、つま先立ちすればギリ理解に手が届きそうなくらいの連想すき

 

8
肉感的というか、身体(やそれに伴う精神)の瑞々しい動きを注意深く描写する小説が苦手というのはある。デリーロ『ボディ・アーティスト』もそうだったけど。

 

もうだめだ、と瞼をきつく閉じた時、冷えた紅茶が腿の付け根に振りかかった。まがまがしい音がして火は消えた。 p.187

まがまがしい音!

 

花世、DV夫(と表現するのはまたセクシズムだが)みたいで普通に嫌だなぁ。別に小説のなかで嫌な人物が出てきたからといって小説自体を嫌いにはならないが、うーむ。それになあなあで絆されている容子もなぁ。
なんか単純に好きなカップリング関係じゃないからヤなのかな。
この2人のやりとりを注意深く拾い上げて、深遠だか純粋だか業が深いだか何だか知らないが、大層な文学的価値を見出だせるひとは凄いなぁと思う。煽りじゃなく。自分のような恋愛……だけでなく人間関係全般に疎い人間にはわかりませーん

吉村萬壱「クチュクチュバーン」の感想でも書いたけど、やっぱり自分は人間関係や人間じたいにあんまり興味が無いからこういう作品を楽しめないのかな。

 

9
そういや圭以子が仲人だったな。
何度目のサイン会やねん。同人漫画サークルにいただけの筈がいつの間にやら地方都市でも複数回サイン会が開催される人気作家になっていることに現実感が感じられない。2人の恋愛のことしか描写がなく、漫画どうこうに文字を割いていないので。わざと空疎な現実として恋愛と対比させる演出なのか?
スリッパビンタ3連発はなかなか良い。女性も暴力を振るえることを示してる?とか余計なことを考えてしまう自分が嫌だ。

 

10

「何だか、いつもあなた1人がいろいろなことをわかってたみたい。私は何も知らなくて。」
花世は少し驚いた風に私を見た。
「それは逆でしょう? 私はあなたが怖かったくらいよ。あなたは空を飛びかねないほど自由で、私は愚鈍に地べたを這いずり回っていて。」 p.205

お互い様

 

男性経験豊富で女であることに執着していた花世が「一生誰とも寝たくない。私はセックスが苦手なの。よくわからないのよ」と言うようになり、男性経験が無く、自分が女であることに執着しなかった容子が「いつかナチュラル・ウーマンになるのかしら?それとも、そのままでナチュラル・ウーマンなの?」という言葉を投げかけられて動揺し絶望するまでになった。という変化を描きたかった?


別れのシーンは……「やってんねぇ!」という感じ(は?)


んーなんか最後まで圭以子は容子あるいは2人あるいはこの小説にとって都合のいいポジションの道具的キャラクターでしかなかったように思えて残念だな。最後にいきなり圭以子が飛び降りたりしたら面白かったのに(私はこれを冗談で書いているのかどうか分からないほど自分に失望し憔悴し混乱している)

 

 

「こういうお行儀の良い優等生小説は嫌い」とか「こういう肉感的な小説は苦手」などという言葉が、異性愛中心主義者や性差別主義者としての自分を覆い隠すためのおぞましい弁明なのではないか(という風に反省する仕草をここに書き加えることが、自分は差別主義者かもしれませんけど自覚はあるし自省もしてるから許してーという魂胆であることを否定できない)という気がして本当に参る。これを読んでいた時間は、小説を読んでいたというより、自分とひたすらマッチポンプの対話と自傷に見せかけた自己擁護を繰り返していただけのように思う。

私は自分を嫌いになるために小説を読んでいるのではない。

 

 

 

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

 

 

【追記】

巻末の解説を読んで、本書が独立した短編集ではなく短編連作だったと知った。「いちばん長い午後」「微熱休暇」は全然関係ない別の話だと思ってた。(ので、それらを読まずにいきなり3つ目の「ナチュラル・ウーマン」だけ読んだ。)そりゃあ良さが感じられないわけだ、という安堵もありつつ、前2編を読むかはちょっと分からない。あまり気が向かない。

 

『最愛の子ども』松浦理英子

 

 

 


知り合いから「松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』は大傑作だから是非とも読んでほしい」と薦められ、そのときちょうど出張をしていたので地域の本屋を探して入店した。それほど大きな書店ではなく、敷地面積の半分はCDやDVDに占められているような店だったのでそう都合よく並んではいないだろうと半ば諦めながら本棚を探していたところ、『ナチュラル・ウーマン』はないものの、『最愛の子ども』だけは売られていた。その店にある松浦理英子の本はこの一冊だけのようだった。そもそも松浦理英子についてほとんど何も知らないし、当然『最愛の子ども』なんて全く知らなかったわけだが、わざわざここまでチャリを漕いできたのだし、と思ってレジへ持っていった。(ちなみにルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』とマーガレット・アトウッド侍女の物語』も一緒に買った。女性作家が並んだのは偶然である)

 

読み始めてまず感じた率直な思いは「純文学とラノベの中間みたいな小説だなぁ」というものだ。これには私の純文学やラノベへの偏見が漏れ出ている上に、読んでいる本をいちいち「これは純文学か?」と問わずにはいられない恥ずべき読書態度が伺えるのだが、本当にこう思ってしまったのだから仕方がない。これは非難でも称賛でもなく、純粋な反応である。
わたしは純文学…というか文学を(勝手に)「語り手が読者にどれくらい媚を売っていないか」で判断している。(もちろん数ある判断基準のうちの1つではあるが。)逆に「読者(である私)に媚を売っている」換言すれば「読みやすい」小説はラノベに接近する、という意識である。


女子高生の親密で独特な生態系を扱っている本作は、純文学ほど語り手と読者に距離があるようには思えないが、かといってラノベほど語りが軽くもない、微妙なバランス感覚で成り立っているなぁと感じた。それが特に良いとも悪いとも思わないが、とにかくそう感じたことは事実なのでここに書き留めておく。

 

次に私が気になったのは、本小説の最大の特徴であるとも言えるであろう、「わたしたち」という一人称複数形の語りの形式についてである。私はありふれた一人称や三人称の語りには、小説を物語ることができてしまうという不可思議な事実への驚きや自覚が一切ないものが多く、怒るとまではいかないが名状しがたいモヤモヤを抱えたまま読むか、本を閉じることがしばしばある。逆に一人称複数など、それほど一般的ではない語りの形式には、前述の事実への目配せや問題意識の提示がされていることが多く、好ましい作品が多い。一人称複数の小説としてまず思い浮かぶのはアゴタ・クリストフ悪童日記』であり、またスティーブン・ミルハウザーの諸作品である。

 

『最愛の子ども』の「わたしたち」という語りの形式もまた、これらの名作に引けを取らないほど独特で魅力的な設定に基づいている。すなわち、ある高校のクラスの仲が良い3人を〈わたしたちのファミリー〉として疑似家族化し、彼女らの交流を観察し、ときには都合よく妄想し捏造しさえする、半透明なクラスメイト達の集合体としての「わたしたち」。「わたしたち」を構成する具体的な人物名は一切描写されず、3人と関わりのある複数名の女子たちが平等に混交して成り立っているものと考えられる。
この小説に感じたいちばんの面白さは、上で述べた「3人の行動や心情を都合よく妄想し捏造する」ことで物語が紡がれている形式である。

 

当人たちよりもわたしたちの方が面白がっているのかもしれない。わたしたちは、日夏と真汐が空穂の頬に唇をつける光景さえ見たことがあるような気がする。日夏が空穂の頬にキスすると、真汐も空穂の頭を引き寄せて髪の生えぎわに唇を持って行く。そんな場面を想像するだけで、わたしたちは痺れるような感覚に見舞われる。 p.32

 

このように、3人のエピソードが長々語られた後に「以上のことをわたしたちは妄想した」のように梯子を外す。梯子を外されるのは不快ではなく、むしろ小説を紡ぐ上で誠実な姿勢であると好ましく思う。私がメタフィクションを好きなのは、それが小説という虚構性に抗うための切実な方法論であるためであり、本作の語りもまた、3人の描写のどこまでが「わたしたち」の目の前で繰り広げられた「事実」であり、どこからが「わたしたち」の想像力の広がるままに語られた「虚構」なのかを曖昧にし、読者を混乱の只中に誘うことで、「『最愛の子ども』は小説という虚構である」という大枠の事実に必死に抗っているのだと私は読んだ。これも私にとって都合の良い妄想である。
ちなみに、こうした『最愛の子ども』の語りの形式はフローベールの『ボヴァリー夫人』にも少し似ていると知り合いから聞いたので近いうちに読んでみたい。

また、先日記事を書いたオネッティ「失われた花嫁」にはかなり近いかもしれない。あちらは観察対象に積極的に興味があるわけではなく、むしろ無視したり距離を置いたりする中で語られる悲痛を描いている点は異なるが。

 

〈わたしたちのファミリー〉の3人は、それぞれ日夏=〈パパ〉、真汐=〈ママ〉、そして空穂は〈王子様〉であり〈最愛の子ども〉であるという風に、「わたしたち」から家族になぞらえて消費される。
こうした疑似家族構造を了解し、3人それぞれの人物像がわかってきてから、私はどうしても、この3人を「シャニマス」のノクチルのメンバーに照らし合わせて見ることしかできなかった。


すなわち、日夏=浅倉透、真汐=樋口円香、空穂=福丸小糸 という対応である。市川雛菜に対応する人物はいない。
私はノクチルについて、幾つかイベントコミュを観た程度の知識しかないので、当然のことながら「いや全然違うだろ」という誹りを受ける可能性があることは承知している。承知しているが、それでも今の私には、『最愛の子ども』の3人はほとんどノクチルを描いているようにしか思えなかった。だから何というわけではないが。

 

私は、解説で村田沙耶香が述べていたような「家族」や「女」や「愛」などにまつわる純粋で切実な物語として本作を深く受容することはできない。文学を読む上で私にとってそれほど興味のある問題ではないためだ。(こうした態度がポリティカル・コレクトネスの観点から適切なものとは言えないことも承知している)

本作を絶賛する人たちの感想を読んでいると、わたしは本作をそこそこ楽しんで読んではいたものの、本作にわたしは「選ばれていない」、この物語をもっと価値観や人生の重要な位置に据え置ける人は他にいるんだなぁ、という寂しさをすこし感じる。(満足もしているが)


私は本文の大半を、もっとエンタメ的に、女子高生たちが幾ばくかの緊張を孕みながら互いに関わり合い場を共有している空気感を「ふ〜ん、ええやん」程度の低解像度で無責任な態度で楽しんだ。きらら系の日常漫画を読んでいるときと同じような心境であった。『ゆゆ式』みたいな。だから、大きな流れもなくずっとゆるゆるとこの小説が続いてほしいと願う気持ちもあったが、しかしながら「わたしたち」の語る虚構性を始めから誠実に提示している本作が、高校時代の有限性を隠蔽することなど絶対にしないことも分かっていたので、終盤はしんみりとした感動とともに物語を見送った。

 

読み終えてから振り返るに、私は本作のうち、3人の関係やエピソード自体にはそれほど感動も感心もしなかった。「ノクチルだなぁ」と思ってしまった時点でそれ以上は特に何も掘り下げる気力も関心もなかった。私が良いなぁと思うのは、3人の秘匿な関係そのものではなく、3人とそれ以外の「わたしたち」クラスメイトが場を共有して話したり盛り上がったりする場面であった。冒頭の、作文で職員室に呼び出された真汐を教室でダラダラ待っている雰囲気とか、終盤の、後夜祭で歌う曲を皆であーだこーだ話し合う場面の多幸感とか、そういった青春の1ページを鮮やかに描く筆致にいちばん魅力を感じた。クラス外の男子や苑子や教師やそれぞれの両親といった「わたしたち」の外部との関わりもしっかり描いてくれた点も良かった。


他に印象に残ったのは、最後で伏線回収される日夏の〈何かを踏みにじるステップ〉で、これはダンス関連の事柄がふいに挟まれると無条件で好きになってしまう自分の性癖によるものだ。


あと、上で書き忘れたが「わたしたち」による都合のいい語りというのは、オタク文化における二次創作論にも引きつけて考えることが出来ると雑に思うが、疲れたのでここでは深堀りしない。

 

次は『ナチュラル・ウーマン』を読む。

 

 

最愛の子ども (文春文庫)

最愛の子ども (文春文庫)

 

 

snowwhitelilies.hatenablog.com

私が愛読する以上のブログでは本作を「2018年百合総合部門優勝。どころか、2010年代のベストも堅い。」と絶賛している。

「プールサイド小景」庄野潤三

庄野潤三プールサイド小景静物新潮文庫

 

 

こないだ大阪梅田から徒歩圏内の詩歌中心の古書店葉ね文庫」の100円ラックで大量に買ったうちの1冊。
プールサイド小景」って名前だけ聞いたことがあって、名作らしいという噂を頼りに買った。
当然ながら初庄野潤三。いつぐらいの時代の人かも知らずにまずは表題作から読み始めた。

 

 

プールサイド小景

てっきりプールの話かと思ってたけど夫婦・家庭の話なんかーい!(いや"プールサイド小景"という題の通りだけど)

ザ・昭和の小説って感じ。
それは「〜である。」「〜なのだ。」的な文体からも、また現代では炎上しそうな古風な夫婦観からも感じる。
夫の帰りを待ち、愚痴を聞いて慰めるべき夫人。夫はバーでの女遊びも許される。

夫人は、小柄で、引き締まった身体の持主である。赤いサンダルを穿いて、麻で編んだ買物籠を片手に道を歩いている時の彼女を見ると、いかにも快活な奥さんと云う感じがする。駅の近くのコーヒー店へ犬を連れたまま入って、アイスクリームを食べているところを見かけることがあるし、二人の男の子と走り合いをして、子供を負かして愉快そうに笑っていることもある。 p.44

犬を連れた奥さん!?

 

彼女はそれを覗き見ようとしてはならない。追求してはならない。そっと知らないふりをしていなければならないのだ。 p.57

夫人側の物分りがいいというか(不当なまでに)夫への配慮をしてあげてる感じは島尾敏雄『死の棘』とは大違いだ。

 

──そこは、美貌で素っ気ない姉と不美人でスローモーションの妹が二人でやっているバアだ。 p.51

「スローモーションの妹」って何!?と思ったけどどうやら実際に動きが遅い(気怠げ?)らしい。

 

僕の会社のあるビルでは、各階のエレベーターの横に郵便物を投げこむ口があるんだ。
それは九階から一階まで縦に通っている四角い穴というわけだ。廊下に面したところでは、透き通っていて、手紙が落ちてくるのが外から見えるようになっている。その前を通りかかると、白い封筒が落下してゆくのを見ることがある。それは廊下の天井のところから床までの空間を、音もなく通り過ぎるのだ。続けさまに、通り過ぎるのを見ることもある。
この廊下が、うちのビルは特別薄暗い。あたりに人気のない時に、不意に白いものがすっと通るのを見かけると、僕はどきんとする。その感じはどう云ったらいいだろう。何か魂みたいなもの──へんに淋しい魂のようなものなんだ。 p.59

ここ、なぜかいきなり幻想的というかSFチックというか、鮮烈な映像を想起させるくだりを入れてくるなぁと驚いた。好き。
こういう縦長で透明な郵便受けみたいなのって実際にあった/あるのだろうか。

 

彼等を怯えさせるものは、何だろう。それは個々の人間でもなく、また何か具体的な理由というものでもない。それは、彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時にも、なお彼等を縛っているものなのだ。(中略)
誰もいない朝、僕は椅子や机や帽子かけやそこにぶら下がっているハンガーを見ていると、何となく胸の中がいっぱいになってしまうことがあった。それらは、ここに働いている人間の表象で、あまりに多くのことを僕に物語るからだ。 p.61

いかにも本作の核心っぽい部分。「いかにも昭和っぽい小説」と言ったけど、こういう今の社会にも通じる勤労形態・サラリーマンの原型みたいなのって昭和のこの時期に一般化し始めたのかな。だから、そうした部分での人間や人生の在り方についてこうして文学で描写する余地・必要が生まれた?いや全然しらんけど。

 

自分の睫毛のまたたきで相手の睫毛を持ち上げ、ゆすぶるのだ。それは不思議な感触だ。たとえば二羽の小鳥がせっせとおしゃべりに余念がないという感じであったり、線香花火の終り近く火の玉から間を置いて飛び散る細かい模様の火花にも似ている。 p.65

ここの描写なかなかいい。睫毛同士を接触させるのが「彼女が発明した愛撫の方法」だなんて官能的だし、それが比喩によって途端に幻想的な手触りを得る。

 

やがて、プールの向う側の線路に、電車が現れる。勤めの帰りの乗客たちの眼には、ひっそりとしたプールが映る。いつもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。 p.67

最初と最後に現れるこの、プールを電車内の会社員たちの視点から捉えるシーン、なんか覚えがあると思ったらあれだ、小島信夫「馬」で、電車から自分の家の方角を眺める描写だ。

 

ー読み終えたー

 

ほとんどどこにも引っかかることなく「ふーん」という感じで読んでしまった。こういうのが文学として受容されていた時代があったというのが新鮮。(いや今でも愛読者はいるのだろうけど)

巻末の解説によれば「蟹」「静物」あたりが最高傑作らしいので次はそちらを読もう。 

 

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

(自分が買ったのはもっと古い装丁のやつ)

 

 

アメリカン・スクール(新潮文庫)

アメリカン・スクール(新潮文庫)

 

 「プールサイド小景」と同時に芥川賞をとったのがかの有名な「アメリカン・スクール」らしい。大学の授業で読んだけどほぼ覚えてない。「馬」も確かこれに入ってる。

 

 

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 

 みんな大好き日本文学の極北にして私小説の終着点こと死の棘。半分読んで力尽きた。だってやってることほぼずっと変わらないし…

 

 

 「犬を連れた奥さん」の何が良いのか全然理解できなかった覚えがある。チェーホフの良さがわからない自分はセンスが無いんだなと落ち込んだ。「ねむい」は好き。