『コレラの時代の愛』(1)ガブリエル・ガルシア=マルケス

 
 

 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 
 
なんか気分で借りて読み始めた。もともと読みたいとは思っていた。
大滝瓶太さんの好きな海外作家15人noteの1位でこれが紹介されてるのを久しぶりに読み返したのも一因。
 
これまでガルシア=マルケスは3冊読んだことがある。
人生初ラテンアメリカ文学だった『エレンディラ』から『予告された殺人の記録』そして2年ほど間を開けて『百年の孤独』と読んできた。
いま調べたら、2019年の2月に10日間で百年の孤独を読んでいた。(ギャディス『JR』の次だったので脳がバグっててスラスラ読めた)
2年ぶりのガルシア=マルケスということになる。
マルケスの長編といえば『百年の孤独』『族長の秋』『コレラの時代の愛』の3作が特に有名で評価が高い。
族長の秋はクッソ読みにくそうだし独裁者モノに全然惹かれないので、次はコレラの時代の愛をずっと読みたいと思っていた。
 
 
【登場人物まとめ】(暫定)
フベナル・ウルビーノ博士:80過ぎの超優秀なおじいちゃん医師。優しく皆から愛されてるかと思いきや意外と傲慢で引かれてるらしい。主人公?
ジェレミア・ド・サン・タムール:博士のチェス好敵手で親友。彼の自死から物語がはじまる。
ラシデス・オベリーリャ博士:ウルビーノ博士の愛弟子。医師25年目
フェルミーナ・ダーサ:ウルビーノ博士の妻。72歳
 
ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった。 p.13
 
冒頭から風格がすごいな。惹き込まれる。
 
 
ついには、写真館を開くための資金まで提供したが、ジェレミア・ド・サン・タムールははじめて店にやってきた子供たちを、マグネシウムを焚いてびっくりさせて以来、期日どおりに返済を続けて、ついに完済した。 p.24
 
これぞマルケスの文体。生き生きとした修辞。
「ジェレミアは開店以来、期日どおりに返済を続けて…」で十分に意味が通るところを、「はじめて店にやってきた子供たちを、マグネシウムを焚いてびっくりさせて以来」という小エピソードを修辞的に用いてジェレミアの人柄をより豊かに描写する。
しかも、ここだけ読むとジェレミアはいかにもな優しい良い人だという印象だが、すぐ後ろで博士の妻は"女の直感"で「友人として付き合うにはあまりいい人間ではないと感じ取っていた」と語られ、容易な人物像を結ばせないのも流石。
 
ジェレミアが博士に遺した手紙がこの物語のカギになるっぽい。
博士は読んでも我々に内容は知らせてくれない。ミステリー要素が持ち込まれ、これで引っ張っていくつもりかな?
 
 
眠ったような州都では、行政上の秘密さえたちまち知れ渡ってしまうが、二人の関係もむろん例外ではなかった。 pp.28-29
 
「眠ったような州都では」って言い回し良いなぁ。
 
 
p.29
え、どゆこと?この中年女性はジェレミアとどういう関係?妻でいいの?
萎えているのはジェレミアの両脚だけではないってどういう意味?禁じられた愛?完全に自分のものにはならない男性って?
 
 
ウルビーノ博士は、彼のことなら何でも知っているつもりでいたが、このような話を、それもこれほど単刀直入に聞かされるとは思っていなかった。今、この瞬間の彼女の姿を記憶にとどめておこうとして、五感をとぎすまして真正面からじっと見詰めた。黒の喪服に身を包み、耳にバラの花をさし、蛇のような目で表情ひとつ変えずに彼を見詰めているその女性は、川の女神の偶像を思い起こさせた。ずっと以前、ハイチの浜辺で愛し合ったあと、裸のまま横たわっているときに、ジェレミア・ド・サン・タムールが突然ため息混じりにこう言った。《俺は年をとらないつもりだ》。それを聞いて彼女は、すべてを荒廃させる時間に対して英雄的な戦いを挑むつもりなのだろうと考えた。しかし、彼ははっきりこう言った。六十になったら、どんなことがあっても自分の命を絶つつもりだ、と。 p.31
 
ウルビーノ博士の視点からいつの間にかジェレミア妻の視点に語りが移っている。(最初、博士とジェレミアが浜辺で愛し合ったのかと勘違いした)
川の女神の偶像…から先の怒涛の文章のドライブ感がすごい。
 
二人でよくそのことについて話し合ったが、自分たちの力では押しとどめることのできない奔流のような仮借ない時の流れを嘆いた。海を愛し、恋を愛し、犬を、彼女を愛していた。その日が近づくにつれて、自らの決断で死を迎えるのではなく、避けがたい運命であるかのような絶望感に取りつかれるようになった。
「昨夜、あの人を一人きりにしたときには、もうこの世の人ではありませんでした」 pp.31-32
 
 
話を聞きながらウルビーノ博士は、救いがたいこの女のことは記憶から消し去ろうと考え、その理由も自分なりに納得できるような気がした。つまり、悲しみを平静に受け入れることができるのは原則をもたない人間だけだ、と考えたのだ。 p.33
 
 
〈貧者の住む死の穴〉と、ジェレミアが死んでいた写影室のある家は別なのか。
というか別居してて、正式な婚姻関係には無かったけど愛し合っていたってことか。やっと掴めてきた。
 
 
夏には、真っ赤なチョークの粉のように目に見えないほど細かくてざらざらした砂が、思いつくかぎりもっとも小さな隙間にまで入り込み、さらに家の屋根を吹き飛ばし、子供を空中に巻き上げる狂った風が吹き荒れるのだ。 pp.33-34
 
ガルシア=マルケスの文書ってこんなに風格があったっけ。一文一文がヤバい。それが連なって流れをつくると更にヤバい。
《格》の違いを見せつけられている。『百年の孤独』は普通に面白くエンタメとして読んじゃって、こんなこと思わなかったぞ。
百年の孤独』は文学的大傑作、『コレラの時代の愛』はもっと読みやすくて面白い初心者向け、と聞いていたけど、今のところ印象が逆だな。
(まぁ百年の孤独も今後読み返せば印象は変わるんだろうけど…)
 
 
数年前までは、ひどく年老いたものの中に、真っ赤に焼けた鉄で押された奴隷の烙印が胸のところに残っているものも混じっていた。週末には踊り狂い、蒸留器で作った自家製の酒を浴びるように飲み、イカコの茂みで乱交にふけった。日曜日の真夜中になると、大騒ぎの果てに血なまぐさい乱闘騒ぎが持ち上がった。その同じ人たちが平日は、旧市街の広場や狭い通りに入りこんで何でも扱う小さな店や魚のフライの匂いがする市を開いて、死んだような町に活気を、新しい命の息吹をもたらしていた。 p.34
 
マジでなんだこれ。情景描写しかしてないのに泣けてくる。頭を抱える。一文を読むごとに殴られる。頭がクラクラする。
読書でこの状態になったのは、クンデラの『不滅』と、デボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』以来かな。
 
 
午後の二時になると、シエスタの薄暗がりの中でピアノの物憂いレッスンの音が響いてくるが、それが生命の唯一の証だった。香をたきこめた涼しい寝室で、女たちは人に言えない感染性の病気を恐れるように陽射しを避け、早朝のミサに行くときでさえ、マンティーリャで顔を隠すほどだった。彼女たちは恋をするときも悠長で、しかもめったに心を開かず、しばしば悪い予感におびえたものだった。たそがれ時から夜へと移っていく胸の苦しくなるような時間になると、沼沢地から肉食性の蚊の群れが雲霞のように湧き出し、生暖かく物悲しい人糞のかすかな臭いがし、そのせいで人々は心の中で死を確信するのだった。 pp.34-35
 
は?おいおい…おかしいだろ……
言葉そのもの、語りそのものだ。
描写によって読み手に豊穣なイメージを喚起させ、それによって物語に没入してもらうとか、説明を説明的で無くすとか、そういうことではない。
その一文で小説が終わってもまったく問題がないような、その言葉、その語りだけでこちらの五感を襲い、掴み、引きちぎるような、そんな濃密という次元を超えた何かが次から次へとやってくる。
 
オネッティやパワーズコルタサルのような、凝った文章とも違う。
文章が上手いっていうのかな、うーん……それもやっぱり何かズレている。
物語の一部分として見て、そうでしかあり得ないような文。それでいて、単体で取り出してきても魅力が一切落ちない文。
物語全体に対して一文一文が奉仕するのではなく、物語全体が一文一文に奉仕する、と言えばいいのだろうか。
マルケスを舐めてたという他ない。
 
 
p.35の1708年6月8日に起こったガレオン船沈没事件、調べたらウェージャーの海戦だった。
 
語られてるこの町がどこかよく分かんなかったけど、これでコロンビアのカルタヘナという都市だと分かった。
たしかにジェレミア妻の故郷、ハイチの首都ポルトープランスとはカリブ海を挟んで向かい合っている。
 
遠く離れたところにある凍てつくような首都では、何世紀にもわたって降り続く雨のせいで、現実感覚がおかしくなってしまうのだ。 p.35
 
さらっとこういうふざけてるのか本当かわかんないこと言う。
コロンビアの首都ってボゴタか。内陸にあるらしいので雨が振りがちなのかな。
 
 
ウルビーノ博士の家、めちゃくちゃ豪華すぎて腹立つな。
ベッドの隣に絹糸でできたハンモック(しかもゴシック体で自分の名前が刺繍済み!)とか趣味悪いわ〜〜〜
オウムを飼って溺愛してるのもいかにも富裕層って感じ(四則演算を覚えさせようとするのは草)
 
家全体に、大地をしっかりと踏みしめて生きている女性のセンスと心配りが感じ取れた。 p.37
 
これどういう形容?家のアレコレの家具配置とか、博士の妻がやっているというわけではなさそうだけど……
 
頑固な夫に対して、分別のある妻、といういかにもな関係らしい。
と思ったら妻ダーサは大の動物好きで、夫が動物嫌いなのにたくさんのペットを一時飼っていたと。強かだ。
 
 
最初はローマ皇帝の名前をつけた三頭のダルメシアンを飼っていた。九匹の子犬を産んだと思ったら、すでにもう十匹の子犬をはらんでいる点から考えてもメッサリーナの名に恥じない雌犬をめぐってこの三頭の犬は激しく争い、互いに噛み合って死んでしまった。その後、鷲のような横顔にファラオのように堂々とした風采のアビシニアン種の猫、斜視のシャム猫、オレンジ色の目のペルシャ猫を飼ったが、これらの猫たちは寝室の中を亡霊のように歩き回り、夜中に騒々しい求愛の鳴き声をあげた。 p.40 
 
列挙が上手い。「亡霊のように」でいきなりトーンが変わるの好き。それでいて「騒々しい求愛の鳴き声」で再びトーンを覆してくる
 
アマゾンから連れてこられたサルも何年か腰を紐で結わえられてマンゴーの木につながれていた。そのサルは悲しみにくれた大司教オブドゥリオ・イ・レイにそっくりで、ひどく純真そうな目をし、手をうまく使って自分の意思を伝えたので、みんなの同情を買った。しかし、女性がそばに来ると、敬意を表して自慰をするという困った癖があったので、フェルミーナ・ダーサはサルを手放した。 pp.40-41
 
 
 
 
とりあえずここまで。
このペースでいくと最後まで読むのに10記事くらい必要で半年くらいかかるから、ペース上げたいけど良い!ヤバい!と思ったとこは付箋貼りたいしなぁ〜〜〜