『案内係』フェリスベルト・エルナンデス(1942,)

 

主に20世紀前半に活動したウルグアイ作家フェリスベルト・エルナンデスの日本オリジナル短篇選集『案内係』を読みました。

 

24/11/10〜12/20
計19日間

 

 

11/10(日)

人に薦められて数ヶ月前に書店で買い、読んでいた別の短編集をやっと捌いたので、ようやく読み始めた。

 

第Ⅰ部

わが短篇に関する偽の解説

これを選集の冒頭にもってくる編者の気持ちはよーく分かる。
こんなタイトルだけど結論が「どうやって作ってるのか自分でも正直よーわからん」なのはネタなのか本音なのか。
語られてる内容は、短篇執筆と「意識」の微妙な関係についてであり、意識がまったく介在しないわけでも、完全に意識の統御下にあるわけでもない、両義的で曖昧な関係で書かれる小説こそが良い……という、まぁわりと素朴に理解・共感しやすいものだった。
むろん「偽の解説」とわざわざ銘打っており、これを著者フェリスベルトの本当の執筆理念だと見なすことはできないが、真相がどうであれ、短い文章としてなかなかに好み。

 

 

誰もランプをもっていなかった

あ〜これは好きだ。好みの作風、文体。聞いていた通り、とても地味でダウナーで内省的・個人的な雰囲気だ。文章が修飾過多でなく読み易いのもいい。めちゃくちゃ風変わりというわけではなく、あぁこういうタイプね〜〜わかるよ〜好き〜♡とすぐに魅力を感じられるが、具体的に類似するものを挙げられるわけではない。

前作から引き続き、こちらも「短篇」に関する、短篇小説家を主人公とした、おそらく自伝的でメタい作品。「ぼく」の一人称の語り。

朗読を聴いている聴衆の予想外の「受け」に語り手が戸惑う箇所が二度ほどあるが、たしかに、この文章はウケ狙いで書いてないだろうなと思わせるものだ。コルタサルマルケスボルヘス、ドノソといったイスパノアメリカ文学の有名作家たち(ブームの世代など)に比べて、圧倒的に派手さがない。インパクトやキャッチーな引きがない。この点ではなるほど同じウルグアイのオネッティに近い。

ちらと巻末の訳者解説を読んでしまったのだが、そこで密に支援されていたというシュペルヴィエルの影響も確かにそう言われれば色濃く見出せる気がする。

静かに黙々と自分の世界=短編小説を作り上げているかんじ。読者を驚かせてやろうとか、衝撃を与えようとか、売れようとか、そういう姿勢が読み取れない、とにかく地味ぃ〜で自己完結的な、マイナー趣味の読者にのみ偏愛されるタイプの作家。たかが掌編二作読んだだけで作家の何が分かるんや、って感じだけど。

意外性と納得度がともにある比喩表現もいい。
オチは……なんなんだ。ボーイミーツガールというか、作家の男が風変わりな女性に邂逅してちょっといい感じの雰囲気になりかける話だが、最後のは彼女側から誘ってきたということ?
なんにせよ、終わるときも、衝撃的なオチとか鮮やかな伏線回収とかよくある不穏宙吊りオチでもなく、ただなんとなく終わっただけ感がいい。

 

 

案内係

「川で溺死する娘」というイメージ、オブセッションは前篇と共通している。
川/河とはラプラタ河のことだろうか。「大都市」モンテビデオとそこに横たわるラプラタ河についての小説か。無料食堂の席で川に向き合っているか背を向けているかまで描写されているのだから。
スープの中に頭を突っ込んで死ぬ男。そんな『インフィニット・ジェスト』の電子レンジ自殺みたいな。なるほど、「皿」と「川」が、同じく水(液体)の入っているモチーフとして対比されているのか。更にそこに自らの内の「沼」の比喩が呼び出される。とにかく水分・水気と死がオブセッションとして密接している。
ラプラタ川=モンテビデオという都市のなかで溺死する若者・現代人……みたいなこと? つまらない解釈だ。
とにかく内省的。みずからのうちに孤独を深めていく語り手。

モンテビデオの人口は138万人。さいたま市京都市と同じくらい。思ったよりしっかり大都市だ。
あとモンテビデオって意外とラプラタ川の河口の開けた下流側に位置するんだな。対岸のブエノスアイレスが結構奥まった上流沿いにあるので、そのすぐ向かい側を想像してた。

えぇ…… 目から光が出るようになる、という地味すぎる幻想要素。夜の活動に便利、くらいしか使い道がなさそう。(実際に目が光源になったら何も見えなくなるだろうが。)
じっさい主人公の男も、自室の壁にグラス・ビン類を掛けておいて、夜にそれらを照らして楽しむ、という何とも慎ましいことしかしていない。なんだこれ
その状態で鏡で自分の顔を見るの、そりゃ怖いよなぁ

夜、無料食堂の隣の暗い部屋に、秘書を脅して忍び込んで、ショーケースを眺める?ために通うようになった。意味深に書いていた隣の部屋は伏線だった。
そこで「絶世の美女」に出会い、寝そべっている身体を踏まれるプレイ/逢瀬を繰り返す。また男がこちらを挑発してくる謎めいた女に出会うやつかよ!! そういう意味でも夢想的だなぁ

女は夢遊病者だったのか何なのかよく分からないが、その食堂の主の娘だったらしく、男は女を骸骨にしか見えなくなってしまい、逢瀬は終わる。眼光も弱まりつつある。案外ふつうのオチ?

うーむ……なんというか、典型的な怪奇幻想短篇といえばその範疇に収まってしまう気もする。あーはいはいよくあるやつね、と。前篇のほうが好きかな

 

 

24/11/18(月)

フリア以外

これは……なんだこれ。すげぇ異様な怪奇幻想?短編。
学生時代の同級生の男と大人になってから再会した「ぼく」は、毎週末に彼の別荘へ泊まらせてもらうことに。そこで彼は、暗いトンネル内で、両側に並べた4人の少女の顔や品物を触る儀式のような趣味をとりおこなっていた。「箱の中身はなんだろな」やや似ている。
やがて彼は少女のひとり、フリアを特別視し始める……。
と、このようにプロットも夢のような、何をやっているのかよく分からないまま淡々と進んでいく内容だが、文章もかなり変で、異様な直喩もいっぱいある。

男が少女(若い娘)にもつ執着が一貫して描かれてはいる。

「ぼくは自分の……病気の方が、人生より大事なんだ。ときどき、治ってしまうんじゃないかと考えるとひどく絶望するんだよ」 p.49

「わかったかい?」
ぼくはこう答えるのが精一杯だった。
「わかるように頑張ってみる」 p.50

ほんとうにこれ。

彼の頭は空の片隅にある一切れの静かな雲みたいで、ぼくはそれが通ってきただろう別の空の広がる別の場所に思いを馳せた。 p.51

なんとなく分かるけどすごい表現だ。

ここじゃ話しづらいな。光が強くてトンネルのことが考えられない。画像がまだ定着していないのに写真家のカメラに割り込んでくる光みたいだ。 p.52

当時の写真機事情に明るくないのでわかりづらいが、これはそこまで特殊な喩えではないか。

そのまま降りていくと、上から食堂の薄暗がりが見えた。その真ん中に巨大な白いテーブルクロスが、まるで上に乗った品物によって蜂の巣にされて死んだ幽霊さながらに漂っていた。 p.52

どういうこと?

するとぼくは、彼は暗闇の中に指を植えているのだと考えた。じきに彼が指を拾い集め、全部の指が少女の顔の前で再会することになるのだろう。 p.58

すごい比喩表現だが、これは言わんとすることはわかる。

 

 

11/20(水)

初めての演奏会

コンサート当日の朝になってようやく、今までの練習の成果を差し引いても自分の望む状態にはほど遠いばかりか、あと一年練習しても届きっこないことに気づいた。 p.74

ピアニストのコンサート当日の心理を追いかけて克明に描写した短編。
ちょっと変な比喩は相変わらず。
演奏時の集中と高揚に基づく心理描写も面白い。

音の塊に手をつっこみ、変形する熱した物質をあつかっているかのように形を整えていった。 p.79

心配していた演奏本番だが、黒猫が舞台に上がるハプニング?が起こり、なんとか乗り切る。しかし黒猫は「ぼく」の幻覚だった?

 

 

緑のハート

自分の部屋のことを考えると、まるで五つの指の腹みたいなつるつる頭の五つ子のことが思い出された。 p.83

緑のハート型の石付きピンを手のひらで転がすうちに、主人公の過去の回想に遡っていく文章がめっちゃ良い……

11/21(木)
ウルグアイの人にとってアルゼンチンのブエノスアイレスってどういう都市なんだろう。対岸にある憧れの街?

回想時には、時系列を圧縮したような文がある。
ニャンドゥ?

レア (鳥類) - Wikipedia ja.m.wikipedia.org  

ダチョウみたいな鳥なんだ。なるほど

ノスタルジックでとても好きな短編だった。

家具の店〈カナリア

なんだこのポップな設定のSF?幻想?不条理?モノの掌編は。電車内で突然、男に注射を打たれると、家具の店〈カナリア〉の宣伝広告が頭の中に流れるようになる。ワクチン陰謀論みたいな

 

 

11/22(金)

ワニ

これはまたキャッチーな設定の……正統派にもヘンテコにも思える短編だ。
はじめは涙活の話かと思ったが、泣き落としでストッキングを売りつけるセールスマンの話だった。獲物を捕食するときに泣くワニになぞらえて、そう呼ばれることになる。
やっぱり「ヒロイン」のような少女との出会いには固執しているようで、本作は特にストッキングフェチものかと思うくらいそういう描写が色々とあった。なんなんだ
オチはかなり優等生的

数時間前に何気なく動かしたおもちゃでまたこっそり遊ぼうとするみたいに、独りになりたかった。 p.102

この何ともいえない直喩よ

「ここでみんなの前で泣き出したら、どうなるかな?」乱暴なアイディアだと思った。でもしばらく前から、突飛なことをしでかして世界に探りをいれてみたくてうずうずしていたのだ。 p.105

狂気のタックスヘイブンっぽい

その目は内側から色を塗ってあるみたいだった。 p.110

 

 

11/25(月)

ルクレツィア

目を閉じるとぼくは、ルクレツィアの目に出くわした。あの青色が、瞼とこすれたせいですり減ったようだった。 p.129

くたびれ果てたぼくの足が下からぼくを呼んでいるのに合わせて、ぼくは一人の友人が足に同情してくれている様を思い浮かべ、ほっこりした。 p.122

修道女のあとを追いかける「ぼく」は、遠い未来からやってきた? 意味がわからない。SFなのか
ルクレツィアへ書状を渡すために来た。
語り手はスペイン出身で、舞台はイタリア?

みんなろうそくの近くで食事をとっていて、まるで光を食べているかのようだった。 p.128

ろうそくの光が必死に揺れ、ろうそくから離れたがっていた。 p.129

まだ眠りに落ちる前、彼女の目がまるでばねでもついているかのように見え、一人の女教師がこう言うのが聞こえた。「目は、二つで一つの体の部位としては唯一、同時に回転するものです」 p.130

自分が二十世紀から来たなんて告げる考えは微塵もなかった。それにもし向こうがぼくのかつての未来の人生について飲み込めたところで、ぼくが自分の世紀について説明できようか? ぼくは何度も、その当時自分が利用したものすべて、それに関する自分の乏しい知識について思いを馳せた。今このルネサンスで、ぼくはアスピリンすら作るすべを知らない。 pp.135-136

二十世紀からルネサンス期(十五世紀前後)にタイムスリップしている? スペインからイタリアへの旅、というのは空間移動だけでなくこの時間移動も込みなのかな。二十世紀スペインからルネサンス期イタリアへの「使者」。

11/27(水)朝
10歳くらいの少女との出会い、別れ(病死)、供養。

ろくに眠れなかった。目が覚めるとまた泣いた。突然、泣き続けるためにもっといろんなことを思い出そうとしている自分に気づいた。そこで泣き止んだ。 p.140

最後の方は「ぼく」のエゴイスティックで自己陶酔的な面が強調されて終わった。オリエンタリズム的な? 時間遡行も含めて。ルクレツィアや少女、修道女などの女性を都合よく客体化する男のどうしようもなさも絡んでいる? 少女の父なのか叔父なのかともに分からない兄弟の存在とか。

けっきょく旅の目的はルクレツィアの話を聞いて見聞録に纏めること、つまりこの小説そのものがその目的であり成果ってこと? よう分からん。SF・ファンタジー設定もあるのに前景化してこない。

同じラプラタ幻想文学のなかでも、コルタサルのほうが「あっ」と驚く仕掛けに満ちているし、オネッティのほうが文章が前衛的・技巧的というか、文学エリート感がある。フェリスベルト・エルナンデスは今のところ、それらのいずれでもなく、ひたすら地味な幻想小説。「夢のような」というのが、極彩色めいた派手な夢ではなくて、本当に夢のように忘れてしまうくらい些細でまとまりがないものの形容として使われるにふさわしい。

 

水に沈む家

未亡人恋慕モノ? 極貧生活から、歳上の未亡人の屋敷に引き取られた「ぼく」。めっちゃエロゲみたいな設定。人里離れた館モノ
「うわの空だが気前のいい女」p.145

プロットがかなり「ルクレツィア」に似ている。女性の屋敷に泊まらせてもらいお世話になる「ぼく」。

あなたはお客様ですから、この家ではゆっくりお寛ぎください。ただ、わたしの乗るボートを漕いで、わたしの話に付き合ってくださいますよう。こちらからは、お口座に毎月の給金を振り込ませていただきます。お役に立てれば何よりです。あなたのお書きになった短編は、発表のつど拝読させていただいております。 p.148

これなんてエロゲ??
まだ会ったこともないのにモーニングコールを頼んでしてもらってて草

11/28(木)
ついに「ぼく」へ明かされた、スイスで夫を亡くした頃のマルガリータ夫人の回想。立ち寄ったイタリアのホテルで噴水の水に話しかけられているように感じ、パラノイアのように水に感情移入していく。それが今の水に沈む家を作るけっかけ?

12/1(日)
屋敷の一階がすべて浸水してるんだ。

12/2(月)

夫人は目の前の出来事に困惑していたが、突然彼女の体は、まるで原因不明の地震のように笑いに揺れ、顔にまで笑みが浮かんだ。なぜ笑いだしたのか理由を探し当てているような様子だったが、ついにこう独りごちた。「この雨ったら、うっかり勘違いをやらかした女の子みたい。土の上に降らなきゃいけないのに、水の上に降ってるんだもの」。それから、海が雨を受け止めるときの甘美な心地を思い、心が和んだ。だが巨体を揺らして船室に戻ると、水がもう一つの水を呑み込む光景を思い起こし、あの女の子は死へと向かっているのだという思いが浮かんだ。 p.171

おわり! ……これはバッドエンドというかノーマルエンドだなぁ。夜に夫人の寝室のベッドでふたりになるところまでは進んだものの、それ以上はいかずに、夫人に暇を告げられた。
夫人の水への執着、信仰が面白いといえば面白いが、そうした「狂気」が結局は夫を亡くした反動として理解できてしまうので、惜しいとも思う。
幻想的な舞台設定ではあるが、散水器やモーターといったいちおう現実的な装置で成り立っているようであるので、どちらかといえばSFに近いか。

 

 

第Ⅱ部

12/5(木)

クレメンテ・コリングの頃

思い出を子どものように擬人化する
ノスタルジックかつ、かなり凝っている懐古の語りの文章。路面電車に乗っている現在時から、通り過ぎる風景が喚起する昔の思い出を回想している?

──ぼくはすでに彼女を汚すことを考えていた。──たぶん彼女に到達するには、知性を思いきり振り絞って、高く飛び立たねばならないだろう、ちょうどミツバチが女王バチを追い求めるときの飛び方のように。 p.184

でも悲しみの中に何か灰色がかったものを置いていったらしく、ぼくの悲しみは台無しになった。 p.185

12/9(月) p.186-196
すげぇなんとも言えない、掴みどころのない茫漠とした話だ。ざっくり言うと「いろんな思い出を語っている」に過ぎないのだから。
語り手は少年の頃から歳上の妙齢の女性に憧れているのか。老婆までいける。ショタおば?

12/10(火) p.196-205
遠縁の叔母ペトローナが他人の癖を笑う。特に芸術鑑賞中のポーズについて。分かるっちゃあ分かるけど、すごい取り留めのない話だ……。
小説というより架空のエッセイのようだ。
ようやくクレメンテ・コリングが出てきた。話の全体像がさっぱり掴めない。少しずつ読み過ぎてて忘れてしまう。

12/11(水) p.206-217

一大饗宴と、見るという劣情を思った。 p.215

彼はすべてのパートを、まるで貸家の案内でもするかのように弾いた。 p.217

コルタサル「追い求める男」っぽさは少しあるか。音楽と回想。

12/12(木) p.218-227
コリングに対する当時の印象と今それを思い出すことに関する随想的な表現がすごい。

12/13(金) p.227-234

12/18(水) p.234-255
コリングという他者と記憶についての作品か
尊敬、疑念、幻滅
50歳で亡くなった。意外と若い?
読み終わったけど…… 最後のほうとかマジで思弁的・抽象的すぎてついていけなかった。ようするに、コリングという人間に潜む「謎」というのは、別にそんな深遠なものではなく、ささやかなものであるが、だからこそ彼が死んで長い時が経ってもこうしてたまに思い出して語る対象になる──みたいなこと?? なんなんだこれ。ほぼ小説であることを放棄している。構成もプロットもなにもない。序盤のほうが好きだった。後半は難しいというか、なんともいえない。この作家にしか書けない文章・作品ではあると思うが、「すごい」とかでもない。

 

 

第Ⅲ部

ギャングの哲学

献辞
虚栄心について。ゲシュタルト崩壊しそう

それとは別に君には、この本を読む際、できるだけ読書を中断するようにお願いしたい。おそらく、ほぼ確実に、君がその中断のあいだに考えることこそが、この本の最良の部分だろう。 p.262

わろた

 

タクシー

ぼくは借り物の隠喩に乗り込み、〈事務所〉へ向かう。隠喩はブルジョワの快適な乗り物で、いろんな場所に行ってくれる。 p.263

「隠喩」は車らしい。何を言っているのかよく分からない。眠いからか?
一文一文が行き当たりばったりで、あまり脈絡がないように思える。登場人物も自分しかいないといってよく、物語ではない。とてつもなく内省的でひたすら何かの話題について内省的に語っている。

 

 

12/19(木)

フアン・メンデス または考えの雑貨屋 またはわずかな日々の記

ノートに文章を書きつける語り手の文章 書くことについて書く
「皮相な人々」と「深遠な人々」という二項対立の止揚
内なる「キャラクター」に助言をもらいながら書く
前作以上に(敢えて)行き当たりばったりで小説の体を成していない!! 行き当たりばったりな筆致そのものを主題として書かれた散文。

12/20(金)

今日わがキャラクターは、私が静かなのを見て私を正気だと思い、私がこんな書き物までしてとこまで行くつもりなのか訊くのには今こそもってこいだと考えた。曰く、もしこれを読んだ誰かに一体何が言いたいんだと訊かれても、私はかしこまった答えは何も言えないじゃないか。 そしてまさしく、私の様子がかしこまっていると思ったキャラクターは、何か読者への助言となるような、読んだ結果何らかの教訓や人類を導く新たなスローガンを見出すことのできるような作品を私に書いてほしがっている。そうすれば私は一つの善い評価の内に収まり、優越感にひたりながらときどきをめて考え込み・・・・・・というわけだ。
そこで私は意を決し、彼には理解できないことを説明してやった。曰く、私はどこへ行くかなどまったく興味なしに書いているのであり――たとえそのこと自体がどこかに行くことになるとしてさしずめ次の目的地は、悦びを引き出し必要を満たすこと以外にない。私の中にあるこの必要というのも別に、何かを教えることになどまったく関心はない。もし私の書くものが結果として、楽しませ感情を揺さぶるものに関心を示しているのであれば、それも結構だが私は少しずつ埋まってゆくこの素晴らしいノートを埋め、やがて埋まった日にはフルスピードで読んでみるという以外、何もしようとは思っていない。 p.277

私は風について考察を始め、二つの計画を思い描いていた。一つは、この風の印象についての考えを心理学の論文にすること。もう一つは、この風について短篇小説の形で書くこと。 p279

まあ、短篇なら開かれて謎めいたものに、論文なら限定されたものになるだろう。そしてもちろんここで、真実を見つけることと美しいものを作り上げるのと、どちらにより誇りを感じるか考えだすことになるだろう。私は、二着のスーツを身につけるようにして、両者を備えたいと思う。ある日は心理学の教授、別の日は文士。 p.280

まさに、ここで並置されている「短篇」と「論文」のあいだのような、小説らしくない思弁的・随想的な文章になっている。まぁ論文といえるほどの客観性は欠片もないが。

 

おわり!!

 

 

感想まとめ

前半の短篇「誰もランプをつけていなかった」「フリア以外」「緑のハート」が好きだった。

目から光が出るようになる「案内係」、ワクチン注射で脳内にCMが流れ出す「家具の店〈カナリア〉」、二十世紀からルネサンス期へとタイムスリップしているらしい「ルクレツィア」など、幻想小説というかSFっぽい設定の話もあったが、いわゆるSF的な面白さはまったく志向しておらず、ひたすら内省的で地味なのが特徴。後半の「クレメンテ・コリングのころ」「ギャングの哲学」「フアン・メンデス」などは、内省的すぎて小説というよりは思弁的な随筆に近く、小説らしい物語の快楽はまったくない。文章も特異といえばそうなんだけど、こちら側のコンディションもあってか、あんまり乗れずに終わってしまって悔しい。

ボルヘスコルタサルを代表とするラプラタ幻想文学の系譜に位置付けられはするが、両者には似ておらず、強いてあげるなら同じウルグアイのカルロス=オネッティだろう。しかしオネッティよりも更に地味で内省的で、斬新さや派手な魅力とは縁遠い、「偏愛」するにふさわしいというか、愛するとするならば「偏愛」するしかない作家だという印象。文学的な「すごさ」はあんまし無い、と思う。

べつにフェリスベルトに限らないのだが、政治性が薄く、そういう志向を忌避して幻想や内省に耽溺しているような「文学」がここ数年で苦手になってきたと感じる。アレナスとか、ラテアメ作家でもゴリゴリに政治闘争に身を投じた人も結構いるんだけど、単に幻想文学に遊んだり、自分という殻に閉じこもって思索を深めるだけなのはちょっと……となってしまう。その点、コルタサルが晩年に政治の世界へ傾倒したのは、文学研究者からの評価は低いとはいえ、むしろかなり好印象なのかもしれない。

 

 

訳者あとがき

えっ!? クレメンテ・コリングって実在の有名人なの!?!? 知らんかった……
ジュール・シュペルヴィエルに「クレメンテ・コリングのころ」が絶賛されて有名になったのか。ウルグアイ生まれだからちょくちょくラテンアメリカ作家の伝記に顔を出す。幻想短篇という点ではまぁ影響は感じる。
ボルヘスとフェリスベルトは互いに全く興味を示さず評価しなかったの笑う まぁそうだろうなぁ 自分は……どちらかといえば断然フェリスベルト派かな
この作家をコルタサルやフアン・ホセ・サエールが愛読していたのはわかるが、ガルシア=マルケスまで好評価だったとはやや意外。
四度離婚するなど、わりと浮き名を流している。作中での女性の扱い・オブセッションを鑑みれば納得。パリで知り合った三人目の妻はソ連のスパイだった、という興味深すぎるネタなんなんだ。パドゥーラ[『犬を愛した男』]読みたくなっちゃったじゃないか。そんな[フィクションのエルドラード]間での連関あるんだ
政治にほとんど関心なさそうなのも作品からの印象通り。
「イスパノアメリカ文学における近代性の創設者」by フエンテス ←そんなに!? まぁフエンテス先生はいつもこんな調子だから……
本書は計3部構成のアンソロジーだが、後期→中期→初期と、次第に時代を遡るように配されていたということは、じぶんは後期の作品がもっとも好みだったということになる。技術的にも円熟してきた頃の作品ということで、妥当か。第3部は初期だから読みにくく尖ってたんだなー
オートフィクションの先駆者?
なるほど連想をつないでいく脈絡が無さげな語りはプルースト譲りか~ 
若い頃から独学で哲学・思想に傾倒していた。なるほどね だからあぁいうのが書けるのか
シュルレアリスムにも通じていたが、その前衛運動の集団性とは無縁に独りで書き続ける。
アルゼンチンのもう一人の「奇人」マセドニオ・フェルナンデス気になる
文学からも哲学からも音楽からも「らしくない」「中途半端」と言われる、という不安定なアイデンティティ
ロートレアモンモンテビデオ生まれなのか。『マルドロールの歌』はラテアメ文学の系譜を辿ってるとよく行き着くな~(レサマ=リマ『パラディーソ』)

ウルグアイ文学が「奇人」を掲げるのは、1940年以降のアルゼンチン幻想文学への対抗心と差別化のための「戦略」ではないか、という論おもしろい。そりゃあ川を挟んで向こう側にクソデカい文学大国があったら、「小国」としてはマイナーなりに独自路線を突き進んで打ち出していくしかないよなぁ