「失われた花嫁」フアン・カルロス・オネッティ(『別れ』収録)

 

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前記事に引き続き、『別れ』に収録されたもう1つの短編「失われた花嫁」(1968)を読んだ。

 

「この恐ろしい地獄」で、そのレトリカルで難解な文章に驚き感動したが、この短編では文章の凄さというより「語り」が凄いと言ったほうが適切である。

この単行本の帯の背には「鮮やかに織りなされる語りの妙技」と書かれているが、まさにこのフレーズの通りに"妙技"としか言いようがないほど凝った語りによって本作は編まれている。

 

本作は、1人で結婚の幻に浸り続ける狂った花嫁の哀しく美しい姿──を、見守り続ける「私たち」サンタ・マリアの住民の物語である。多分。

例によって今回も物語の正確な筋や細部を一読ではほとんど掴めなかったが、おそらく何度読んだとしても掴みきれないようにわざと曖昧かつ錯綜させて書いている。

本作に感じたいちばんの魅力は、上記の通り、失われた花嫁の行動描写が幻想的で美しいところだ。しかも、それを「私たち」住民が見たり見なかったりするという、観察者と対象の距離感や隔絶が、その美しさ・哀しさをより引き立たせる仕組みになっている。

本作の真の主人公は花嫁でなく「私たち」であり、そして秋のサンタ・マリアという町そのものである。オネッティが創作し、彼の多くの小説の舞台となる町が変わりゆく様への郷愁が、花嫁の人生と共鳴してうまく描かれていた。

 

以下、付箋を貼ったところ

 

私が患ったあのサンタ・マリアの秋、何の共鳴も、何の事件もないまま、三月十五日という日がごく普通に、女性がハンドバックに入れて持ち歩くティッシュペーパーのように柔らかく、紙、それもただの紙ではなく、尻の間をそっと滑る絹紙のように優しく始まった。 p.123

 どんな比喩だよ

 

モンチャよ、この物語もすでに誰かの手によって書かれていたというし、たいしたことではないが、アメリカ人の手で解放されて分離した南部だか、ブラジルのどこかの町だか、ヴィクトリア時代伝来のイギリス伯爵領だかでは、このすべてはすでに別のモンチャによって体験済みなのだという。 p.124

 

言葉は事実を凌ぐ、お前にはもうその意味がわかるだろうか。 p.125

これはオネッティの小説そのものの説明っぽい。作中の「事実」とでも呼ぶべきものが読んでも判然とせず、事実を「言葉」そのものが上回っている。だから、何が起こっているかを気にすることなく、ただその言葉の連なりに身を任せるのがこの作家の小説に合った読み方なのではないかと思う。

 

私はただ黙って、女であるお前、両脚の間に真のお前を避けがたく包み隠したお前に当然支払われるべき敬意を、周囲にまで押しつけていた。 p.126

 

策略、手立て、謙虚さ、真実への愛、明確さの追求、秩序立った語り、そうした必要性から、ここで「私」は姿を消すことにして、以後「私たち」で話すことにしよう。誰もがそうしてきたのだから。 p.127

すごいポストモダンっぽい。これ以降「私たち」が主語になるかと思いきや、普通に「私は」のままなのウケた。しばらく経ってからちゃんと「私たち」に変わる。

 

誰もが旅に出るわけではなくとも、誰もがこの町へ戻ってくる。ディアス・グレイも、一度もこの町を去ることなく戻ってきた。 p.129

「一度もこの町を去ることなく戻ってきた」って表現いい。使いたい

 

 四頭馬車から、オレンジの花の匂いから、ロシア製の革座席から降りてくる女。私たちの頭のなかで巨大化し、物珍しい草木が伸びたあの庭で、容赦ない落ち着きを漂わせながら、シャクナゲとゴムの木の間で方向転換することもなければ、ありもしない香りを打ち消すこともなく、代父の腕にまったく重みのない体を寄せかけたまま進んでいく女。唇も舌も歯もない代父が、心のこもっていない型通りの古めかしい言葉を耳元で囁き、男として当然の上品な恨み節以外には何ら力を込めることもなく、彼女を花嫁に捧げ、月と衣装に白く輝くあの手入れの悪い庭で、彼女を結婚へと押し出す……

 そして、明るい月夜ごと、再び軽く震え出した幼い手を伸ばし、指輪を待つ儀式を繰り返す。この凍てつくような寂しい公園で、亡霊の前に跪いた彼女は、空から滑り落ちてくるようなラテン語のいつも変わらぬ響きに耳を傾ける。喜びのときも悲しみのときも、健やかなるときも病めるときも、死が二人を分かつまで、愛を誓い、助け合うこと。

 不遜なほど高い塀に四方を閉ざされたまま、私たちの平和な日常とは何の関係もなく、冷酷な白い月夜ごと、疲れも希望も知らず、この世のものとも思えぬこのあまりに美しい儀式は繰り返された。 p.131

ここが本作の白眉(のひとつ)。長く引用してしまった。幽霊譚とかゴシック小説みたいな雰囲気もある。

 

だから私たち、私たちの誰もが、予感も良心の呵責もなしに、短い第一部へ、何も知らぬ者たちのために書かれたプロローグへと彼女を導いていったのだ。 p.137

 

バルテー薬局の助手だか、愛人だかとなっていた屍集めのフンタはすっかり成長して、体も強く、大きくなっており、かつての内気な姿を彷彿とさせるものといえば、一瞬の白みを帯びた微笑みだけだった。 p.140

『屍集めのフンタ』(1964)ってオネッティの代表長編のひとつだよな。〈サンタ・マリア〉サーガとして繋がっているということかな。というか、薬局のバルテーもいきなり出てきて人物像が掴めなかったが、この長編を読めばわかるのだろうか。書いたのは『フンタ』のほうが先だから辻褄は合っている。

 

将来サンタ・マリアの生活と情熱についてあれこれ思索を巡らせる者もいるだろうから、彼らを喜ばせ、当惑させるために付け加えておくが、この時点ですでに二人の男は小説から、その揺るがぬ真実から外れていた。 p.143

 

理解できない人もいるかもしれないが、他のすべて、つまり、私たちサンタ・マリアの住民が相変わらず現実と呼ぶものは、モンチャにとって、健康であれば自動的に更新されていく生理的活動と同じく、まったく単純なものにすぎなかった。 p.150

 

大事なのは、みんなで協力して彼女の姿を再現したことだ。 p.151

 

いずれにせよ、ほとんど何も起こってはいなかったのだ。何を見ても、何もわかることなどなかった。ただ見ているだけだったのだ。 p.152

これも本作を読む読者自身への注釈として機能できる一節。しかしこうした読みは陳腐だし何も読んでいないのと変わらないようにも思えるので控えたい。

 

 

→続き:表題作を読んだ

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屍集めのフンタ

屍集めのフンタ

 

 


「この恐ろしい地獄」フアン・カルロス・オネッティ(『別れ』収録)

 

水声社の〈フィクションのエルドラード〉から寺尾隆吉訳で出版されている、オネッティの『別れ』を最寄りの書店で衝動的に買った。ウルグアイを代表する作家のひとりらしい。初めて読む。

まずは、100ページ弱の表題作ではなく、併録されている20ページほどの短編「この恐ろしい地獄」を読んだ。バルガス・リョサがべた褒めした作品だそうで。

 

・この恐ろしい地獄
元カノから定期的に写真が送られてきて怖い!という話。
文章がいちいち凝っている。凝ってないシンプルな文を探すほうが難しいくらい。リチャード・パワーズみたいな感じ。

p.102
オルロフ写真館で写真を引き伸ばすときに涙腺に光を入れられたせいで、その顔には、決然と幸福ばかり追い求める意思を隠すことで人生全体を愛するような、そんな奇妙な茶番が浮かび上がっていた。

どんな顔やねーん!

 

p.106
実際には彼は、それまで女を自分のものにしたことは一度もなかったし、本当のところはあの時も、成り行き上そうなっただけの状況を自分が作り出したと思い込んでいたにすぎなかった。二人は一心同体ではなく、グラシア・セサルはあくまでリッソの被造物であり、肺に入る空気、麦畑に訪れる冬のように、自分から独立した存在でなければ意味はなかったのだ。

 

p.111
生温かくも冷たくもある風に揺られていた夜、今や一人になった彼は、冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた。そのわずか十ブロックか十二ブロックの間に彼は、寄る辺ない自分の身の上を噛みしめ、二人で過ごした狂乱の日々は、未来もなければ何の媒介にもならない、そんな偉大さを秘めていたことを痛感した。

「冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた」がカッコいい。
「未来もなければ何の媒介にもならない」の後にふつう予想されるのは「偉大ではない」だと思うんだけど、そこをあえて裏切ってくる。こういう、最後まで読むと裏切られて結局何が言いたいのかわからない文がよくある。単なる逆張りならダサいんだけど、オネッティは上手いんだよなぁ。

 

p.114
あれは春の初めのじめじめした時期のことだったが、新聞社やカフェから歩いて下宿屋へ帰りながらリッソは、雨に名前をつけ、火で焙るように自分の苦しみを焚きつけては、他人事のようにじっくりと不審の目でこれを詮索し、したこともない愛の行為を想像しては、躍起になってすぐ同じ場面をまた思い起こした。

「雨に名前をつけ」ってめちゃかっこよくない?しかも「これ読みどころですよ〜かっこいい表現ですよ〜」という露骨な感じではなく、文の中にふと差し挟まって、何事もなかったように文が続くところがいっそうカッコいい。いいなぁ、こういう文書けるようになりたいなぁ。

 

pp.114-115
男を物色して一人だけ選び、一緒にカメラの前でポーズを取るグラシアと、何ヶ月か前まで、服や会話や化粧を工夫し、子供を可愛がることで、落胆にまみれた男の気をひいていた娘、女に差し出すことのできるものといえば驚くほど忠実な無理解のみというこの安月給の男に近づいてきたあの娘は、同じ一人の女なのだ。

「女に差し出すことのできるものといえば驚くほど忠実な無理解のみというこの安月給の男」って言い回し凄く好き。

 

p.116
「男と男の話」諦めたようにランサは切り出した。「というより、生きているというあやふやな幸せ以外に何の幸せもなくなった老人の戯言だと思って聞いてください。(中略)毎朝、自分がまだ生きていることがわかっても、悲しくもなければ感謝の気持ちも湧きません。…(後略)」

この老人の語りすきだなぁ。

 

p.118
だが、何がわかるのか彼女にはわかっていなかったし、当のリッソとて、皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒を見つめながら、どうあがいても何も理解することはできなかった。

「皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒」という情景描写がバチバチに決まっててカッコよすぎ。震えた。

 

p.118
白んだ窓から目を離すことなく、彼は、ゆっくりと巧みに、余計な物音を立てないように胸の上で写真を引き裂いた。新しい空気の流れを感じて、少年時代に嗅いだことのある香りを思い出し、部屋を満たすこの懐かしい空気がよろよろと通りや剥き出しの建物へ向かって流れ出していくような、そして、その空気が明日から、明日から数日間、彼を守ろうと待っていてくれるような思いに浸った。

いや〜やばすぎ。上の「皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒」もそうだけど、何気ない動作や何気ない事物の描写が、その文章・物語の流れのなかに適切に配置されたときに読み手に豊かな感情を喚起させる力を得ることがあって、それをオネッティは職人的に使いこなしている、という感じがする。胸の上でゆっくり写真を引き裂く、という行為から、「新しい空気の流れ」につながる。これはまだ素朴な次元にとどまっているのが良い。だって、たしかに写真を引き裂いたらその影響で空気はわずかに動くだろう、という素朴な共感が持てるのだから。そこから「少年時代に嗅いだことのある香り…」へと次第に文学的な飛躍をしていく過程が鮮やかすぎる。マジでこれ読んだときびっくりした。

 

ーーー読了ーーー

 

ヤンデレ文学…というには耽美かつ婉曲的すぎる

男女関係と写真・カメラのファインダーにまつわる不穏な短編という点ではコルタサル「悪魔の涎」に少し似ている。

写真の内容を直接書かずにこちらの想像を喚起させるのはボラーニョ「はるかな星」っぽい。

 

マジで文章がうますぎる。上手いというか格好良い。超好み。読みにくいけど。コルタサルから日常に潜む幻想的なオブセッションを除いて難解でスタイリッシュな文体を残した感じ。
→訳者あとがきにて、オネッティがコルタサルの「追い求める男」を読んで刺さりすぎて洗面室の鏡を割ったエピソードが紹介されていた。というか、本作を「絶対的傑作」と評したというバルガス・リョサのオネッティ論『フィクションへの旅』(2008年刊)めっちゃ読みたいんだけど。だれか訳してくれ〜〜(まずオネッティがマイナー過ぎるのはある)

 

「元カノからヤバい写真が送られてきて怖い」以外の筋をぜんぜん理解できていない。結局最後どうなったのか全くわからんが、文章が好みすぎるので満足してしまっている。
「結局どういうストーリー、どんなオチなのか全くわからないけど文章が良すぎて満足」なのはまさにコルタサルを読むときと同じだ。

 

こういう小説を読むと「小説ってこんなに凄いんだなぁ。こんなに自由ではるか遠くまで行けるんだなぁ」と感動する。
実験小説とは違う。実験小説みたいに形式的にアクロバティックなことをやらずとも、本当に文章の内容だけでこんな想像もしていなかった地点まで到達できるんだ、という感動。こういう小説に出会うために自分は海外文学を読んでいるんだなぁ、という気がする。


まだこの本『別れ』には短編と中編(表題作)が1つずつ残ってるので楽しみ。

 

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<他の方の書評>

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『ボディ・アーティスト』ドン・デリーロ

 

上岡伸雄 訳(ちくま文庫 )で読んだ。

初デリーロはこれと決めて昨年の11月に読み始めたが序盤で放置しており、ちょうど本作でオンライン読書会が開かれるということで数時間前に読み終えた。

付箋を貼った文を引用しながら読んでいる最中に思ったメモを記す。

 

 

第1章

 こういうとき、あなたはより確かに自分が何者であるかを知る──嵐が過ぎ去った後の陽射しの強い日、ほんの小さな落ち葉でさえも自意識に刺し貫かれているような日に。 p.10

「ほんの小さな落ち葉でさえも自意識に貫かれているような日」って表現すごいな、と読み始めて思った。

静謐な文体。夫婦間のややズレた異様な会話。日常的な動作を執拗に描写する。
10ページ以上の前の発言に返答する(その間は別の些細な話題に逸れていたり、些細な動作の描写が挟まったりしていた)

鳥たちは餌台から羽の音を立てて飛び立った。羽の音はみなbの音とrの音だった。bの文字の次にビブラートのrがいくつも続く。しかし、実際はまったく違っていた。それでは羽の音を表したことにならないのだ。 p.26

ポストモダン文学らしい人を喰ったような描写の訂正。しかし全体的に文が静かというかスローなのであまりおふざけ感がなく少しこわい。

 

あなたは新聞の日曜版を他の部分から分ける。 p.30

あなた?二人称?「彼女」(妻)のこと?夫婦とは別の人物を指す?
→その後もちょくちょく二人称があるが、どうやら妻を指すっぽい。そもそも冒頭(p.10)が二人称

p.41
突然第1章が終わった。終わりそうなところで終わらず、終わらなそうなところで終わった。

自死したという映画監督のレイ・ローレンツは第1章の男性(夫)だと思うが、女性(妻)はレイの3番目の妻でボディ・アーティストのローレン・ハートケ?
「最後の朝のことだった」p.10 とあるように、第1章はおそらくレイの自死の日の朝のこと。彼は午前中にマンハッタンのアパートで発見されている。しかもアパートの居住者はレイの最初の妻でファッション・コンサルタントのイザベル・コーラス
第1章の家はマンハッタンぽくない。自然に囲まれてる感じ。というか2階とか言ってたからアパートではない。
レイは1章のあとマンハッタンに移動して自死した?……とするとあの女性はローレンである可能性が高い。

 

第2章
やはり章の冒頭だけ二人称

すべてが緩慢で、靄がかかり、空っぽで、そしてそれはすべて「……のように思われる」という単語との関わりで起きている。 p.48

ここもメタというか語りの言語を再帰的に語る。

「胸に重い痛みを感じながら」p.49 や「最初の頃、彼女は車から降りると崩れ落ちそうになった」p.52 など、ローレンが夫を失った悲しみや喪失感や虚脱感が意外と率直に語られている。

p.59
新聞、ラジオの天気予報やニュース、そしてコンピュータでのフィンランドの道路のライブ配信……メディアによって空間的に離れた世界と繋がり、今この場の自己の身体性に影響が及ぶというのは『ホワイト・ノイズ』など他のデリーロ作品にも共通する要素か。

 

彼女はその翌日、小さな寝室で彼を見つけた。 p.64

これ最初、夫が生き返ったか幽霊になって現れたと思ってビビった。どうやら別人らしい。
しかも少年かと思ったら彼女より年上
3ヶ月位前から彼のたてる物音が聞こえていたようだけど、どうやって来たのか。非リアリズムではないよね。

 

第3章

彼女は彼が横向きに家の中に入って行くのを見た。少し足を引きずるように歩きている。おそらく浮遊するのを恐れているのだろう。 p.71

最後の1文好き。

素朴に、もし自分がローレンだったら1人で住む家に前から見知らぬ成人男性が住み着いていたらめちゃくちゃ恐ろしいんだが。女性と男性という意味でも。ホラーもあるし、性加害や犯罪的な意味でも怖い。しかしローレンはそうした反応はまったく見せない。それは夫を亡くした虚脱状態だからなのかもしれないが、現実的に考えたらそういう弱っている時に遭遇するのは余計にたちが悪いし恐ろしい。
ローレンは彼を最初から自分に危害を加える存在ではないと感じていたことになる。

 

その声の端には何かがあった。収入のレベルとか、動詞の時制とか、両親がテレビで何を見ているかとは関係のないものが。 p.80

この並びに動詞の時制を入れるところが示唆的。1ページ前でまさに過去形から現在形への転換について書いているのでそのことだろう。

タトル先生とレンツとローレンが互いに同一化して入れ替わる。p.81の最後らへんどうなってるんだ。

 

 

第4章

こうした言葉はすべて間違っている、と彼女は思った。 p.86

典型的ポストモダン

 

僕が思うに、きみはきみひとりの小さな全体主義社会を築こうとしているんだよ、そうレイはかつて言った。もちろん、きみはその社会の独裁者なんだけど、同時に抑圧された民でもある。 p.93

この言い回しどっかで聞き覚えがある。→と思ったら、以前相互フォローだった人のプロフ欄で引用されてた。

 

これはエロチックであると同時にエロチックさのパロディでもあった。 p.94

 

レイの最初の妻イザベルからの電話。めちゃくちゃマウントとってくるなこの人。

私たちは二人でひとつの人生を生きていたけど、それは彼の人生だったの。 p.96

ここだけ切り取るとフェミニズムっぽい。

 

彼女は考えた。おそらく、彼は物語性を持たない時間の流れの中で生きているのだろう。 p.106

示唆的……というより露骨。説明的過ぎ。

タトル先生の支離滅裂な感じ、オースター『ガラスの街』の序盤に出てくる依頼人?にちょっと似てる。

夫の影をタトル先生に見ることは、精神的な不倫とトラウマからのリハビリを同時にやっているようにも思える。

 

第5章

彼女はこれを何と呼んだらよいのかわからなかった。歌を歌っているのだ、と考えてみた。 p.122

日常言語(リアル)として意味不明でも、歌や詠唱(フィクション)としてなら受容できる。
タトル先生の思考・発言が地の文のレベルまで浸透していたらアイラやアレナスやコルタサル(悪魔の涎)のような「ヤバい」センサーに引っかかったかもしれないが、あくまで彼のカッコ「」の中にその異様さが閉じ込められており、それを異様だと感じるローレンに語りの水準があるので、それほど刺さらない。むしろ、彼女が彼をどう受け止めてどう接していくか、彼にどう影響されるのかがポイントだと思う。

 

p.126
時間の連続性を認識できない人を描くのはいいんだけど、それを客観的に説明的に描写するのが好みでない。そんなの大したことなくね?と思ってしまう。語り自体に彼の主観を憑依させてくれれば面白かったんだけどなぁ。

 

大柄な男が突然、彼女の頭上に現れる。それは外界からの衝撃、打撃、侵害されたという驚き。その瞬間の表象のされ方は、見る側を心底震え上がらせる──ずっと隠遁生活を送ってきた二人の人間、自己に没入できる環境で暮らす人間たちにとっての脅威。 p.129

突然映画的な描写が始まってびっくりしたが、よくよく読むとそんなに変なことは言っておらず、ローレン視点ですべて理解できる。単に比喩として映画やらショットやらを使っていただけだった。

 

彼女は犬の比喩を使わないようにする──彼女の想像上の話だが。この家主と同様、迷子になった飼い犬が家に戻ってくるといった比喩をタトル先生に当てはめたりはしない──良心の呵責からであれ何であれ。 p.131

これ何でだろう。やっぱりローレンのタトル先生に対する認識や思いの部分がいちばん興味深い。

 

彼の名を呼ぶのはいつでもひとりきりで、テープレコーダーに向かって話すときだけだった。なぜなら、もちろん──そうなのだ──その名前がかわいくて、相手を見下しているからだ。 p.134

 

そして彼女は、自分がこの場面を心の中で人に解説していることに気づいた──その人とはマリエラかもしれない、そうではないかもしれない──まるで彼が発見された芸術作品で、彼の有用性という問題に関して二人きりで話し合う必要があるかのように。 p.134

ローレンがタトル先生をいかに認識し、いかに描写するかがポイント。
カオティックなリアルと対峙した人間(フィクション)はどうするのか。

 

バカね、面白いことなんてたくさんあるわ、でも真実には全然近くないのよ。 p.136

いかにもラインマーカーを引きやすそうな文

 

5章終わり
うーん説明的すぎ!
皮膚を削ってその片に想いを馳せるとか、〈身体性〉というタームで批評しやすそうなところとか、いかにも文学的で苦手
静かに、日常の細部に潜む輝きと深淵、記憶と生──みたいな雰囲気は朝吹真理子『きことわ』っぽくもある。
それから、記憶と記録の再現といえばカサーレス『モレルの発明』も思い出す。

 

第6章
章の始めは例によって二人称。「クリップを落とす」たったこれだけのことでこんな文章を作文できるのは流石にすごいというか面白い。物量でゴリ押された。

「どういうわけか」。言語の中でも最も弱い言葉。それから「多かれ少なかれ」。それから「多分」。彼女はいつでも「多分」と言っている。 p.153

「どういうわけか」とか地の文でも結構使っているイメージがある。曖昧にしたり言ったことを否定したりと、主観性を持たせている印象。
原語が気になる。somehow, somewhat, probably? いやmore or lessか。

 

彼はこの状況に気づいていなかったのだ。彼女はそう確信した。でなければ、このことが自分の人生の条件にあまりにもぴったりであると考えており、これに気づくことも気づかないでいることも彼にとってはまったく同じだったのだ。意識の中でほんの小さな地位しか占めなかったのだろう、夏の日に小さな咳をする程度にしか。 p.156

最後がすき。「ほんの小さな地位」の比喩として「夏の日の小さな咳」を持ってくるの格好良い。


ボディ・アートの極限」
旧友マリエラによるローレンのボディ・アートに関する記事。
ボディ・アートの内容はこれまで書かれてきた彼女の行動(車道のライブ配信、タトル先生との交流)がほぼそのまま反映されていた。
ローレンとタトル先生の会話がテープレコーダーで録音されていたように、この記事を書くインタビューの席にもボイスレコーダーが置かれていたのは象徴的だ。

身体と声についてはやや気になる。ここまでボディ(身体)が強調された作品でありながら、その内実はタトル先生がレイやローレンの声真似をするという〈声〉性にかなり頼っている。声も体の一部、あるいは体のどの部位よりも身体性を発露するツールである、みたいな捉え方なら丸く収まりはする。
ボディ・アート最中は身体は変わりまくるのにあくまで録音した音声に合わせて口パクで、インタビュー時にはじめて声の憑依を披露してマリエラを驚かせる。声が変わるより身体が変わるほうが非現実的でショッキングだと思うのだけど、そこらへんの転倒が果たして転倒のつもりでやっているのかよく分からない。

それは我々が何者なのかに関わるのだ。自分たちが何者かを練習していないときに我々が何者なのか。 p.179

 


第7章

彼女はノズルを持ち、噴出口を頭に向けて、プラスチックの引き金を指で引いた。刺激を強めるために舌を突き出して。
これが人々のすることなのだ、と彼女は考えた。 人々がたったひとりで生きているときにすること。 pp.187-188

浴室の掃除中にふと消毒スプレーを自分の頭にかける。ここはひりつくような哀しさがあって良い。

 

素晴らしいアイデアではないか、手がないなんて。これは日本人女性に関して知るべきことすべてを表わしているし、パフォーマンスにはうってつけであったろう。 pp.189-190

思い切りのいいわけわからん偏見が炸裂しててすき。

 

このようなことを現実に目にしても、なお想像できないのか? p.201

想像が現実を上回るのではなく、現実が想像を越えていく。現実が想像の余地を塗り替えていく。

 

最後らへんはタトル先生が再び帰ってきたのかどうか判然とせず、彼女の記憶と動作の自制が錯綜し、わりと前衛的な文でクライマックス感を煽る。しかし1章と同様に、終わりそうなところで終わらず、わかり易く落ち着いたところで終わる。
うーむ、微妙

 


読み終えた。
訳者あとがきによれば「この小説の醍醐味は、言語の崩れ、時間認識の崩れが、言語によって再現されていることだろう。」ということだが、それが全然面白いと思えなかった。想像を超えず、「まぁこういう小説もあるわな」という感じ。難解ではなくむしろありきたり過ぎる。
川上弘美による短い解説(というか短評)も無難でつまらない。

 

うーん……デリーロ合わないかも……
基本的に地味だと噂のデリーロ作品のなかでもまだ自分が興味を持てそうな部類として『ボディ・アーティスト』を選んだのだが、これでもダメとは……。なんとなくダンスに近いのかなと思って読んだけど、ボディ・アート思ってたのと全然違った。
『ポイント・オメガ』とか更に合わない可能性あるな。逆に『ホワイト・ノイズ』『アンダーワールド』のような大長編のほうが好きかもしれない。読み通せる気まったくしないけど。(ホワイト・ノイズ新訳&リブラ復刊まだ?)

 

ピンチョンやギャディスを初めて読んだときのような「な、なんじゃこりゃ〜〜〜〜」という驚き、自分の小説観を覆してくるヤバさがまったく感じられなかった。上で多数引用したように、部分部分では「おっ」となる文もそこそこあったが、全体としては「読んで良かった〜〜!!!」とは思えない。(まぁようやくデリーロ1冊読めたという実績解除の嬉しさは大きいが)なんかな〜こういうのだったら国内文学でも普通にありそうな気がするんだよな〜古井由吉とか?(読んだことないけど)

こういうテーマや文体が好きで大絶賛するひとがいるのはわかるが、自分の好みではなかった。

 

 

 

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

 

 

 

「愛」「別れ」ウラジーミル・ソローキン

 

初ソローキン

 

○愛
1年くらい前、沖縄時代に書庫で冒頭のこれだけ読んで「脳みそをハンマーで殴られたような」(クリシェ!)衝撃を受けたのを覚えている。急転直下のオチ、「何かの機械に突然人間がすり潰されて肉塊になる」くらいしか覚えてなくて、今回わりと新鮮に再読できた。
気になるのはやはり冒頭と締めで仄めかされる、語り手の老人?と、語られている若い「君たち」について。どういう状況?
あと、「…………」が1ページ以上続くところは老人が本当に黙っているのか、それとも本当はしゃべってるけど検閲的な感じで非表示にされてるのか、別の何かなのか、気になる。ここはあえて問わないのが本作の楽しみ方って感じもするけど。



○別れ
"晴れ渡った夏の朝だった。
そう、そう。晴れ渡った夏の朝。
それはかつてあり、現にあり、そしてこれからもある。
どこにも逃げていきやしない。" p.18

 

「愛」で「お行儀のよい文学的描写は急転直下への前フリ」であることをよく意識させられた状態で、これ以降の短編を読むことになる。それを意図したうえで「愛」を最初に持ってきてるんだと考えると、なかなか練られた構成の短編集だなぁ……
というようなことを、「別れ」を読みながら思った。
つまり、なんだかやたらにお行儀がよく風光明媚でエモい(夏の日の朝!子供時代!初恋の女の子との初キッスの思い出!)描写が始まったので、一文一文読み進めているときの僕の胸中は「ファーーーーーーwwwwこれぜってえ前フリだろwwwwいつ来る?いつオチる?どうだ!?まだか!?」というようなものだった。
しかし、こうした「お行儀のよい文章⇔行儀の悪い文章」という二元論はいささか安易で解像度が低すぎる。(2bitだ)
「いつオチるか」だけでなく、読書中の自分により強く差し迫ったのは「どのようにオチるか」である。
「急転直下」と一言でいっても、オチかたには無数のバリエーションがあるのだ。前作では(「……」という沈黙をはさんで)物語世界が突如グロテスクかつバイオレンスになるという急転直下の仕方だったが、グロテスクやバイオレンス以外にも、お行儀の悪ぶり方はいろいろあるはずだ。したがって、どんな方向に小説がぶっ飛ぶのかを予想しながら読み進めることになった。
こういう心持ちで読んでいると、あらゆる描写やささいな展開が「急転直下のきっかけ」なんじゃないかとビビりまくることになる。(きっかけが不条理で予測不可能だから急転直下なのにね。)
崖下の川で大きな魚が数回跳ねた!それ見ろ!みるみるうちに巨大な怪魚と化してこちらに向かってくるぞ!

 

で、もちろんこうした僕の心境はすべてソローキンの手のひらの上で、まったく予想もつかない形で裏切られることになった。

 

・・・そうきたか!!!!!!うわ~~~~~~~なるほど~~~~~~
たしかに「エモさ」の反対は「下品さ」かもしれない※。それを思うと予想ができた気もするが、後の祭りだ。
知ってしまえば、要するに「描写されていない点(語り手の服装)は読者が無意識に埋める」という摂理を逆手に取ったギミックで、単純だし、くだらない。くだらないんだけど、この短編集の2番目の作品として読者が読むかぎり、上述のような心境になることが計算されており、そうした状況までふくめて本作の読書体験だとすれば、これは見事だとしか言うほかない。
この短編集の楽しみ方がわかってきたぞ。「どうオチるかビクビク予想しながら読む。そして盛大に裏切られる」だ。
この「楽しみ方予想」も裏切られることになるのかな。楽しみだ。

 

※「エモの反対は下品」というのはあまり適切ではないかもしれない。下品さってのも難しくて、「官能的」から容易に「耽美さ」につながりかねない。すると俄然、エモと相性がよくなってしまう。
あと、そもそも本作のオチを「下品」と評するのもまた不適当かも。「青筋を立てて震えている」「菫色の太い静脈を蛇行させて」とか、むしろ猛々しさとか頑強さ、父権的な神話性すら感じる。(それでいて、やはり滑稽さも感じられるからすごい。)

 

<他に好きなところ>

 

滑らかな若い白樺の幹に体を押しつけて彼は彼女にキスをした。その幹は夜になってもぬくもりがあった。 pp.16-17

 

ここすき。「その幹は夜になってもぬくもりがあった」という温度感覚が時間を飛び越える、やや過剰な(それでいて過剰"過ぎない")表現で当時の瑞々しい感覚を描写するの、シンプルに上手い。どこかでパクりたい。ピンチョンやアレナスのような、「その気になればいつだってエモい文くらいかけますよ」という印象の《エモ芸》が得意な作家が僕は好きなんだけど、この並びにソローキンも入りそうな予感がする。



「別れ」、エモ描写の上手さといい、それの「台無しにさせ方」といい、めちゃくちゃ好み。最高


次はどんな話かな~~。「読み進めるのが楽しい短編集」ってなかなかないぞ。いいな。
 

 

愛 (文学の冒険シリーズ)

愛 (文学の冒険シリーズ)

 

 

「ガイジン」「こんなところで死にたくない」ラッタウット・ラープチャルーンサップ

タイの作家ラープチャルーンサップの短編集『観光』から、気分で2編選んで読んだ。


○ガイジン
典型的なボーイミーツガールの骨格に、タイの観光小島の風景や混血児の葛藤が織り込まれている良作。
シンプルに良い。この短編集ってもしかしたら初めて読む海外文学にピッタリかもしれない。
読みやすく、ストーリーもシンプルながら力強い筆致で感動でき、異国の描写がふんだんに盛り込まれている。

 

「おまえがいくらこの国の歴史や寺院や仏塔、伝統舞踊、水上マーケット、絹織物組合、シーフード・カレー、デザートのタピオカを見せたり食べさせたりしてもね、あの人たちが本当にやりたいのは、野蛮人の群れのようにばかでかい灰色の動物に乗ること、女の子の上で喘ぐこと、そしてその合間に海辺で死んだように寝そべって皮膚ガンになることなんだよ」 p.9

 

今朝早く、クリント・イーストウッドがその女の子の股ぐらに鼻を押しつけてにおいを嗅いだのだけれど、彼女はほかの女の子のように叫び声をあげもしなければ、飛び上がりもしなかったし、豚をひっぱたきもしなかった。そのときぼくはこれが愛だとわかったのだ。 p.10

 

そして、ぼくらをアメリカに呼び寄せると彼が約束して帰っていくまでの数年間、軍曹とぼくは架空の任務をいっしょに遂行し、海辺でだらしなく寝そべるガイジンの群れの中を突っ切っていった。 p.13




○こんなところで死にたくない
アメリカから、タイで妻を見つけて家庭を営む息子のもとに連行され同居することになった要介護老人のミスター・ペリーが、「こんなところで死にたくない」という思いを日々募らせてゆく話。
主人公はプライドが高く息子の妻などに対して不遜な態度をとる"やな奴"。あと彼の古い血統主義的な価値観も好きではない。
好きではないんだけど、それでも彼の置かれたどうにもならない状況の哀しさに感情移入でき、最後に寺院内(!)の移動遊園地で乗ったバンパー・カートのくだりは目頭が熱くなった。
優れた小説は、読者に主人公を嫌わせたまま、それでも感情移入させて何らかの地点まで持っていくことができるのだなぁと思った。


動きのあるシーンで締めるのは、チンピラに追われる自分の豚を助けるためにヤシの木の上から実を投げつけまくって終わる「ガイジン」と似ている。どちらも、このラストで何らかの感慨を読者に抱かせるために、そこまで周到に人物や状況設定を積み上げているタイプの短編ではないか。
こうした「巧く作られた」小説ってあんまり好みじゃないんだけど、この作者の短編は気に入ってしまうのはなぜだろう。
まず長編でなくて短編だから、まとまった構造を持っているのは当たり前って面はあるか。
短編であるから許せることに加えて、この作家の作品は小細工なしで直球に物語をぶつけてくる点に魅力がある作風なので、好感が持てるのかもしれない。(これはトートロジカルでぜんぜん理由の分析になっていないかもしれない)

 

ただこの作品が「ガイジン」と微妙にかつ決定的に異なるのは、ダイナミックなシーンで終わるのではなく、その熱狂が冷めた後の描写まで入れている点だ。この熱狂が終わった後の寂しさや切なさ、それでもまだかすかにくすぶる興奮がよく表現されていて良かった。コルタサル「南部高速道路」の終わりに近いかも。「南部高速道路」は車が走り出して終わるのに対して、こっちは車から降りて終わるから真逆であるとも言える。

 

観光 (ハヤカワepi文庫)
ラッタウット ラープチャルーンサップ
2010-08-30


 

『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン

野崎訳:光文社古典新訳文庫で読んだ。



世界観が面白い!
シュルレアリスム・不条理文学なんだけど、不気味というよりむしろ小気味良い快活さの香る数々の小ネタ。
物語の大筋はド王道の恋愛悲劇で、細部のエピソードや描写に奇想が盛り込まれている。

 

50pまで。大ホラ吹きって感じ。架空のダンス「ビグルモア」とか突如あほみたいな物理理論をでっち上げてきて笑った。
知らん顔でふざけてる感じはアレナスとかアイラに似ている。大好き
小説って結局、ほら話なんだよな。すごく良質なほら話。

 

主人公コランは今のところ金持ちで悠々自適な生活をする女好きであまり好感は持てないが、三人称の語りが彼を突き放している感じなので楽しく読める。コメディチックというか。ニキビが明日できませんようにという願掛けが失敗するところとか、スケートリンクでスピードスケートをする人に股抜けされて風圧で吹き飛んで二階席の手すりにつかまるのに失敗して落っこちるとか。ドタバタコメディで起こることだよな。



p105 18章まで
インパクト狙いの奇想でもない。
面白い発想がふんだんに盛り込まれているが、この小説の面白さはそれに頼っていない。そこが好きだしすごいと思う。


「うん」シックが言った。本欲しさのあまり、よだれを垂らし始めていた。両足のあいだによだれの小さな流れができ、歩道の端をとおって、埃のかすかなでこぼこを迂回しながら流れていった。 p.111

よだれの解像度が無駄に高い。「埃のかすかなでこぼこを迂回」って想像できるようなできないような……


240pまで。
スピード結婚にスピード病状悪化にスピード逝去。
「肺に睡蓮の花ができて蝕まれる病気」っていかにも悲劇のヒロインだなぁ
コランとクロエの関係の積み重ねや繊細な心理描写はあまりなく、恋愛小説って感じはしない。
少なくとも『肉体の悪魔』のような恋愛心理小説ではない。
あくまで軽妙で奇想的な世界観のなかで王道の悲恋モノをやってるかんじ。
ただ、最初の方が面白かったな……クロエの体調が悪くなっていくほど、あんまり面白くなくなった。

 

過酷な労働描写とかお役所たらい回しとか、ちょっとディストピアものっぽい。
不幸を前日に告げて罵声を浴びせられる仕事とか、24時間ひらすら歩いたり寝そべったりする仕事とか、なんなんそれ。
資本主義ブラックジョークとでもいうべき、貧乏人用の葬式プラン(わざわざ追いかけてきて墓に石を投げつけるオプションが強制的についてくる)はこれ逆に赤字じゃねえか?

 

軽いというかユーモアに溢れているところはレーモン・クノーっぽいな。とか考えていたらクノーのアナグラム(脚注)の人名が出てきて驚いた。同時代のひと?クノーより前の作品かと思ってた。

 

読了

 

「つまり、その人は不幸なんだろう?……」
「不幸なんじゃないわ」ハツカネズミは答えた。「心が痛いのよ。それがあたしには耐えられないの。(後略)」 p.344
 
最後の章、かなし〜〜〜そうくるか〜〜〜。コランたち人間の「心の痛み」を直接描くよりもずっとかなしいわこの締め方。
本作が完全なリアリズム小説ではないと読者が確信するほぼ最初の要素──人語を解しコランと同居(?)している黒い口ひげのハツカネズミ──にフォーカスして幕が閉じるというのはなんとも見事な構成だし、非リアリズムの存在を通して婉曲的にコランの末路が語られ、更にはそのハツカネズミが生を終えることでこの小説が終わるというのは……。最後の一文、完璧すぎるだろ……



「あれを見ろ!……」のように、!のあとに……がくっつく表記おもしろい。ヴィアン流?
……が付かない場合もあるのでニュアンスで使い分けているっぽい。



訳者解説がとても良かった。
「睡蓮」を何らかのメタファーと見るのだけは本当に勿体ない読み方だと思うが。



・その他よかったところ引用
 

p.7(まえがき)

大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。以下に続く少しばかりのページはそれを証明するものだが、強みはもっぱら、全部が本当にあった話だという点にある。なにしろそれは何から何まで、ぼくが想像した物語なのだ。

 

「なぜなら醜いから。」まで引用されることが多いが(なぜなら格好いいから)、それ以下の文がむしろ大好き。
自分で想像した物語は、すべて本当にあった話である。ここではじめワクワクしたなぁ。この作者信頼できるぞ〜って。
(これは一見、小説の内容で作者について何らかの情報を得ることができると思いたくないスタンスに反しているように思えるが、まえがきを本文に含めるかどうかは微妙なラインだということでひとつ手を打ってもらおう)



彼は力のかぎり走った。すると目の前の人々がゆっくり傾いて、ボーリングのピンのように歩道に横倒しになり、大きなボール紙を倒したときのようなぱたんという乾いた音を立てるのだった。 p.169

 

稲垣足穂の『一千一秒物語』にこんな感じの挿話なかったっけ。坂で自分を落として転がっていく話。感覚的に似てる

 

二人は外に出た。青みがかった緑の空はほとんど道路の石畳まで垂れ下がっていて、地面のところどころにある大きな白い染みが、雲が地面にぶつかった場所を示していた。 p.255

 

訳者解説にもあるように、字義通りに理解したい。じっさいに空は地面すれすれまで垂れ下がっているし、雲が地面にぶつかって白い染みをつくったのだ。



『恐怖の兜』ヴィクトル・ペレーヴィン

すぐに読める長篇を求めていて、全編チャット形式で読みやすそうだから手にとった。読みやすかった。
実験的なものが好きなので、チャット形式の小説に興味があったという理由もある。

 

端的に、いい意味でしょうもなくくだらない話だった。
間違っても傑作などという評が似合わない小説で、長篇だけど「小品」って言葉が似合う。
あるいは、他の長篇の息抜きとしてこれを書いたんじゃないかと思う。他の読んだことないけど。

 

全編がチャット形式ということで、全編会話調の小説に読み味は近い。ベイカー『もしもし』とか。
あとは、うわ言をお互いに言い合ってる感じはマヌエル・プイグの『このページを読む者に永遠の呪いあれ』っぽい。
まぁ『このページを…』はちゃんと読んだことなくて書庫でパラパラとめくっただけだけど。

 

約300ページに渡って、10人ほどのハンドルネームたちがしょーもないチャットを繰り広げるだけなのだが、そのしょーもなさのある程度の割合(全てとは言わないが)は、彼らが置かれた閉鎖環境に由来するため仕方ない。アリアドネの見る夢に頼るしかないくらい、ほんとうに馬鹿げた状況。
恐怖の兜のメカニズムについて議論するくだりとか、マジでしょーもなすぎて好き。あの混乱は、要するに形而上と形而下のものごとをごちゃまぜにしているのが要因なのだろうが、それを真剣に考えるしかない彼らの置かれた状況は申し訳ないがコメディである。

 

それぞれの部屋の外には十人十色な景色が広がっている、という設定は精神分析に相性が良さそう。

 

テセウス候補たちの意見表明のくだりは悪いポストモダン的な衒学理論を風刺するようなたわ言が語られていた。



ただ、テセウスが登場?してからの最後の20ページは、それまでのしょーもなさとはナンセンスの次元が変わり、単純に意味がわからなくなった。それまではみんなしょーもないことを話しているとは自覚していながら仕方なくチャットをしていた感じが、以降は彼らの認識が明らかに変容しており、読者の私だけ置いてけぼりにされたようだった。結局何が起こったのか、「真相」と呼ばれうるものがあるにしろないにしろさっぱり理解できなかった。理解するような作品ではないことは、それまでの260ページで十分にわかっていたつもりだが、最後の20ページで更に突き離された。



変な小説で、これだけではペレーヴィンが好みなのか全く判断できないが、訳者あとがきを読んだら俄然興味が出てきた。ちくしょう、いい仕事しやがるじゃねえか……






・しょーもない引用

 

自由意志だなんて、笑わせないでくれ、ウグリ。人生は屋根からの落下のようなものさ。止まることができるかい? 否。後戻りできるかい? 否。横へと方向転換できるかい?そんなことは、水泳パンツのコマーシャルの中でだけ可能なのさ。自由意志というのは、要するに落下中にたわ言をいうか、地面に激突するまで黙っているかのどちらを選択すべきかという問題に過ぎない。古今東西の哲学者が論じてきたことは、このことさ。 p.196




モンストラダムス
何もうらやむことはない。君のところも行き止まりさ。ただベニヤの側壁が私のところよりも長く続いているだけのことだよ。くるみ割りのところにはベニヤの代わりにテレビ。みんな行き止まりさ。違いはただ、それがすぐわかるのではなく、わかるまでに、いくらか時間がかかるということに過ぎない
 
もしかしたら、その「すぐ」と「いくらかの時間」の違いが、重要なのかもしれませんね。行き止まりと明らかになるまでの、この「いくらかの時間」こそ、人生だとは思いませんか? p.218