『別れ』フアン・カルロス・オネッティ

 

併録されている2つの短篇はすでに読んで記事を書いたが、表題作の中編「別れ」をようやく読み終えた。あ〜長かった。 

 

 

・別れ ("Los adioses",  1954)


オネッティは「見る」ことと「語る」ことが各作品に通底するオブセッションとなっているように思える。

見たことを語ること、
見ていないことを語ること、
見たことを語らないこと、
見ていないことを語らないこと。
これら全てが小説のなかで重なり合い響き合い、幻想的な空間を形作っている。

 

ぼっち観察小説

 

p.13

「疑り深い」、私はあの晩一人で何度もこの言葉を繰り返した。そう、そのとおり、決して自分を欺くまいと固く決心したせいで、自分の内側から疑念が染み出し、疑り深くなった男。そして疑念の内側には、たやすく抑えることのできる絶望、生まれてきたときすでにごく自然に成長を止められた絶望、すでに体に染みつくほど慣れてしまった絶望がある。治る見込みがないと思っているわけではなく、治ることの価値、その意味をすでに見失っているのだ。

 

有望なバスケ選手だったが何らかの病気で引退を余儀なくされて生きる意味を失った男が療養先の田舎町へやってくる。のを、町のバー兼郵便局の店主(と町の住人たち)がひたすら観察する話

「失われた花嫁」もメイン人物を語り手(町の住人たち)が観察する話だったな

 

 

 

毎晩眠る前にベッドで本書を開いているが、5ページずつくらいしか進まない。それは疲れが溜まっているからというよりも、本作の内容による面が大きいと思う。オネッティの文章は基本的に一文一文が長い。さらに、修飾節が途中にいろいろ挟まっており、文の最後まで辿り着かないと意味が掴めない。

どこでもいいが、例えばこんな感じ

p.15

この店は郵便局の出張所も兼ねているのだが、男はわざわざ一時間近くかけて市まで赴いて手紙を投函する。そんなことをするのも、かくれんぼのようにたわいもない遊び、原因よりも結果のほうがはるかに重要であり、原因は取替も修正も可能、忘れてしまってもかまわない、そんなルールの遊びを続けようとするあまり、頑固に何も受け付けまいとして硬直した意思の結果なのだろう。

結局どういうことだってばよ・・・

 

 

p.37

ドア枠にもたれていた娘を見かけたのがその時だったか、今ではもう覚えていない。ペチコートの一部、靴の片方、トランクの側面といったものが、ランプの光に辛うじて照らされていたような気がする。年が明けたまさにその瞬間に彼女の姿を見たのではないかもしれないし、乱痴気騒ぎと夜のちょうど真ん中にじっと立ちつくしたその姿の記憶は、単に私の想像の産物だったのかもしれないし、とにかくよく覚えてはいない。

初登場シーンかっけぇ〜〜〜 こういうカッコいい文章を読むのがオネッティの醍醐味
「乱痴気騒ぎと夜のちょうど真ん中にじっと立ちつくしたその姿の記憶」とか最高だろ
「冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた」くらいカッコいい

 


p.39

まだ若すぎるし、病人にも見えない。三つか四つ彼女を形容する言葉があるかもしれないが、それがいずれも相矛盾しそうだ。

 

p.40

《若すぎる》また私は考えたが、《すぎる》という言葉の意味もわからなければ、どんな不快なことから彼女を、いや、彼女の若さを守ろうとしているのかもわからなかった。


p.45

そうではなく、この顔は、男だけの世界、男という存在の意味と向き合うための顔なのだ。いつも何かを求め、本当に驚くことはなく、あらゆることを一瞬で記憶し、遠い昔の経験に変える、そんな顔。愛の決定的瞬間を迎えるごと、出産するごとに脚を開いたこの娘が、興奮と警戒心と貪欲を織り交ぜたような顔で相手を受け入れる姿を思い浮かべてみた。そして、老いと死の前で、この平らな目がどんな秘密の表情を湛えるのかも想像してみた。

これぞスタイリッシュな文学的セクハラ
会ったばかりの若い女性が脚を開くときの表情や、死ぬときの表情を妄想する……

続きは

「彼のこと、ご存知なんですか?」両肘をトランクの上に乗せて、麦藁帽子をくるくる回しながら娘は尋ねてきた。
「店へ来ますからね」
「それはそうでしょう。元気なんですか?」
「医者に訊いたほうがいいでしょう。まあ、間違いなく数分後には元気になるでしょうがね」
「それはそうでしょう」

ワロタ
にしてもいきなり萌え度が高いヒロインが登場してびびる。アニメの6話くらいで初登場した新キャラがくっそ可愛かったときと同じ気持ち
「男」に最初に会いに来たサングラスの女性にはさほど魅力を感じなかったのだけど。

 


p.49

その間、あの二人のことで──「二人のために」とも言いたくなるのは、自分の想像力で二人を助けたいという迷信めいた希望があったからだ──私が想像できたことといえば、(中略)ゆっくりと着実に上を目指す二人の姿だけだった。

「自分の想像力で二人を助けたいという迷信めいた希望」ここがオネッティの1つの核という気がする。


想像の世界を作り出して自分を助ける現実逃避みたいなものは(『はかない人生』はそんな風らしい)ありふれているが、自分のみならず他人にまで自分の想像力の影響が及ぶ可能性を見ている。これは「語ること」によって世界を作り出す、創作の恣意性と強度に深くコミットしているからこそだろう。

(若い男女2人が夜中に山を登るって『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を思い出しちゃうな)

 


p.51

最初だけ二人は、別に会話をするというわけでもなく、ただひそひそ何かを呟き合っていた。ひとつ言葉が出ると、その後に三連句のようなものが続いたりすることもある。順番を守ってでもいるように交互に、二人とも困惑したように瞬きひとつせず、互いに相手の顔に自分の表情を探りながら、短い溜め息のような音だけを交わし合う光景は、どちらの記憶が豊かか、正確か、勝ち負けなしに競ってでもいるようだった。

この部分すげーオネッティっぽい。純度100%

会話してないのに何かを交互に呟き合ってるとか、困惑してるのに瞬きしないとか(ふつう困惑したら瞬きする描写が自然)、勝ち負けなしに競っているとか、微妙に矛盾しているというかズラしている修飾節がズラズラ続く文章。

そうして、こうした変な描写はすべて「私」が観察して見えたことであって、本当の二人の様子は読者には絶対にわからない。(「私」もわかっていないし、2人ですらわからないのかもしれない。)この文章、語りそのものからこうした光景が立ち上がってくるさまを楽しむのがオネッティの読み方で、おそらくこれがわからない人は向いていないと思う。しらんけど

 

この二人と、「私」&看護師のペアが互いに向こうの会話の様子をうかがい牽制し合う。単なる雑談シーンでなんでこんなに緊張感を出せるんだ。

 


p.52

疲労も意志もなく、ただ見ている以外何もする気力がない》、二人のことをあれこれ考えているうちにこんな言葉が私の顔に浮かんだが、市行きのバスがもうすぐ到着することを知らせたものか、まだ考えあぐねていた。

気力がないのに「疲労もない」のか……どゆこと……?だけど、この言葉はなんだか非常に自己言及的に作品の本質を表してくれているように思わざるを得ない。

 


p.53

バスが出発し、日が暮れ始めた頃になって私が思ったのは、彼らは「すべて」の外にいるだけでなく、その「すべて」が存在の重みを見せつけ、二人が見つめ合うのをやめる瞬間、男の手が女のスーツ、そのグレーの生地から離れる瞬間を待ち構えている、ということだった。

「待ち構えている」の主語が「彼ら」なのか「その「すべて」」なのかわからない。意味は後者のほうが自然に通りそうだが。

 


マジでダブルヒロインどっちを選ぶ問題みたいになってきた。ドラクエⅤか?
語り手の「私」は年齢が近い子持ちヒロインに賭ける(何を?)らしいが自分は逆だなぁ
グレーのスーツ、トランク、白手袋、麦藁帽子というキャラデザも好き

 


p.60

私に微笑みかけながら彼女は、もう一本煙草に火をつけ、しばらく煙の後ろで微笑み続けていたが、突如、あるいは、単に私がそれまで気づかなかっただけなのか、すべてががらりと一変した。二人のうち、弱者はこの私であり、勘違いしていたのもこの私だったのだ。

いきなりこれまでほぼ語られなかった「私」の境遇にピントが合って驚いた。

 


p.61

憎らしい女ならもっと楽なのに、こう私が内心思っていることにも気づいているのだろう。一見無駄話をしているだけのように見えて、窮屈そうに煙草を持った指の後ろから私に微笑みかけ、必要に応じて微笑みに含まれる皮肉と感動の割合を、そして、目の光り具合に込められた敵意を調節しながら、実は私に援助の手を差し出していたのだ。

すごい文だ。
若い女の子に全てを見透かされ見下されたうえで救われている……のだと妄想するおっさん。字面ヤバ

原義の感傷マゾに近い

 


p.61

「この町に住んでいると、時間が止まっているような、というか、時間が自分とは関係なく、あるいは、関係はしていても自分の生活を変えることなく流れていくような気がします」バスが到着したとき、私はこんな嘘をついていた。

 

p.62

あれから長い間、娘のあの姿が頭に残り、今でもあの姿が脳裏に焼きついている。高飛車に構えながらもどこか卑屈なところがあり、トランクを持つ腕のほうへ体を傾け、忍耐どころかその言葉の意味すら知らず、目を落として微笑んでいるだけで、生きていく欲望を十分すぎるほど与えられるような娘、瞬きだけで、頭を少し動かすだけで、こんな不幸を気にすることはない、不幸など日付の区切り目にすぎない、と誰にでも語りかけながら、我々が目撃する人生、我々が身をもって生きる人生の始めと終わりを明確に区切る娘、そんな印象だろうか。

どんな印象やねーん!
続きもすごくて

p.62

そのすべてがカウンターの向こう、私のすぐ目の前にあり、こうした無償の作りごとの総体が、釣鐘のようなこの店の薄闇、その生温かく湿った実体のない臭いのなかにある。

「こうした無償の作りごとの総体」か……
これは娘が他者に無償に与える影響(区切り)のことを指しているのか、それともこの娘の印象がすべて「私」による作りごとであることを意味しているのか……うーん難しい(けど最高)
「釣鐘のようなこの店の薄闇」なんてワードを続けて持ってくるセンスにも痺れちゃうね

 


辺鄙な田舎町にやってきた謎のぼっち男性をひたすら観察するクソ地味な話かと思ったら、なんやかんやでドロドロの不倫三角関係-女同士のバチバチバトルものだった。

 

彼らのプライベートなやり取り・行動(ホテルの部屋の中まで!)をこの町の人たち(看護師や女中含む)はさも見ていたかのように知ってるんだ……この、共同体がある特定の数人の私的領域を観察し妄想する感じ……『最愛の子ども』じゃん!!!

ただ、「私たち」という一人称複数ではなく、あくまで「私」による一人称単数形のままに、三人称っぽい自由で恣意的な語りをしている点が重要だろう。その点は地に足がついているというか、この小説世界の全体が「私」という単一の特権的存在のもとに保証されていなければこの作品はおそらく成り立たない。

 

 

結局三角関係がどうなったのかわからん。そもそも男はもう後先長くないので、結ばれたとしても悲劇だし、敢えて振った可能性もあるよな。

 

 

えっ!? 二人の女が和解してキスして別れた!? どゆこと・・・
あぁ、男がもうすぐ死ぬから、最期は好きにさせてあげようと、若い女と男が山の上の小屋で一緒にいることを妻が許したってこと? 妻可哀想すぎない? 男としては、もう自分は死ぬんだから妻には自分に囚われずに自由に、幸せになってほしいとかいう優しさのつもりなのかもしれんけど。

 


p.80

泊まり客にとって、彼がどれほど許しがたい、それでいて漠然とした侮辱であったか、それを言葉で表現することは難しい。(中略)彼らは、作業員がマネージャーに伝えるワインの注文量を細かくチェックし、山の家に閉じ籠もった男と若い女が、挑発か冒瀆のように世界のことなど忘れて過ごす様子を仔細に想像することで、何とか無聊を慰めていたのだ。

ここでも「他者を想像すること」が明け透けに取り上げられている。
なぜ、憎い人間が自分らを含む世界のことを忘れて悠々自適に過ごす様を想像することが慰めになるの? むしろムカつかない? 嫌いなヤツが愛人と2人で引きこもってたら。完全に野次馬根性だよなこれ。


だいたい10ページ/1時間ペース

 

遂に男と2人でちゃんと会話。ラスボス戦だ

 

p.83

あと見えているのは、頬骨、固まった微笑み、活発な子供のように落ち着きのない瞳。これだけで人間の顔が出来上がるとは何とも驚きだ。広く黄色い額、目の下の隈、鼻の両側の青い線、焦げ茶色の繋がった眉などは、私が想像で付け加えていたのだった。

WAO

 

娘の精神状態が心配。結局2人ともを泣かせてるじゃねえか

 

p.85

「懐中電燈の光を引きずりながら歩き去った。」って表現カッコいいな
「私」が雪降る夜の町中で男と会った時から長い懐中電燈を持っていたが、別れのシーンでこうして使ってくるとは。


p.87

太陽の断片が見え、土の床の真ん中に寒さが溜まっているようだった。

p.88

男は店の中心あたり、ちょうど寒さが集中しているように思われる地点を眺めていた。

こういう何気ない情景+仕草の描写がすげー上手いんだよな。実際に店の中心に寒さが集中しているかどうかは置いといて、このタイミングでこう描写されることに説得力があるというか、本当に寒さが溜まっている気になる。し、それがこの場面、男の心情、それを見る「私」の空気感みたいなものを一挙に演出してしまっている。

数行あとで「女は湿っぽく曇った窓から目を離し、男と同じように、店の真ん中を見つめ始めた」ともある。

 

よく考えると、土の床の真ん中に寒さが溜まっている"ようだった"」「ちょうど寒さが集中しているように"思われる"」と、あくまで「私」がそう思っているだけで、男や娘がそう思っているとは限らない。にも関わらず、そんな私の想像・思考があたかも二人の思考に影響を与えているかのようで──その様子を描写するのも「私」である──語りが他者や現実に及ぼす力、というよりむしろ、語ることではじめて「現実」や「他者」なるものが立ち上がってくる事実を細やかにかつ克明に表現している。

 


しれっと看護師と女中が破局してて草

 


Onettiあるある:「〇〇と△△の入り混じった表情/微笑み」 〇〇と△△にはやや相反する単語が入るのがふさわしい
例:p.88「怠惰と警戒心の入り混じった微笑み」

 

応用編
pp.75-76

食堂のドアから入ってきた彼が二人の姿を認め、痩せこけた体を伸ばしながら、軽蔑と警戒の混ざったような表情で近づいてきたとき、女の顔には悲しみも喜びもなく、その姿は若返ったようでいて、一層成熟したようでもあった。

Onetti全部盛りみたいな一文

 

応用編2
p.91「わざとらしい慈悲心と失神したような軽蔑を込めた小声で」/「敬意と不安を込めてこう訊きながら」

表情や姿以外にも「声」に2つの異なった単語を修飾するパターン。特に前者は1単語でなく「形容詞(節)+名詞」とボリュームアップさせている。

 


pp.89-90 えっ!? 娘って本当に男の娘だったの!? どゆこと?
「あの子はあなたの血を分けた娘で」,「あなたたち二人の間に割り込んだこの私こそ、実は邪魔者なのでしょう」

でも男ってそんなに年いってないと思うから、娘がそこそこ大きいのと辻褄合わなくね? しかも自分の娘と寝るのはちょっとレベル高い。どういう意味なのか結局わからん

 


p.91

この新発見を物語の冒頭に重ねてみると、すべてがあまりに単純に見えてきた。あたかも、男も娘も、それに女も子供も、誰もが私の意志から生まれ、私が予め決めたとおりに生きていたように思われて、内側から力が溢れてくる気がした。

まんま上で書いたようなことを言っちゃってるのだけれど、これは「私の意志(=想像)によって他者(=現実)が生まれる」という命題の礼賛や宣言というより、むしろ、その命題を自明視していないというか、逆説的にその命題の寄る辺なさをも暗示しているようにも思える。なぜなら、本当に「私の意志(語り)で現実が作られる」のだとしたら、それを「私」が知ることで動揺するはずがないし、このように力が湧いてくるようにも思わないはずだからだ。自分のすることに自分がいちばん驚いて影響を受けているというパラドキシカルな構図。

一見、すべて「私が予め決めたとおり」に思えるが、「私」がこうして驚いて影響を受けていることは「私が予め決めたとおり」ではない。では、本当にすべてを予め決めているのは「誰」か?

 

 

p.94

私はなぜか楽しくなって彼らを見つめ、手足を動かして体を温めようとした。

私の挙動がこわすぎる


p.94

バルコニーを歩く軍曹とグンツは、意図してなのか、寒さに輝く沈黙を、偏りなく固まった夜を一歩ごとに殴りつけていた。

おしゃれな言い回し


p.95

ほとんど息もできぬまま私は、娘があの場違いな総体、靴とズボンとシーツによって作られた、猥らなほど水平な塊の上へ身を屈めるのを見ていた。涙も出せぬままじっと眉を顰めた彼女は、私が数ヶ月前、最初に男が店へ入ってきたとき──死以外に何も残ってはおらず、それさえ誰とも分かち合う気はなかった──から見抜いていた事実を今ようやく理解し始め、その慎ましく不屈な永遠の姿で、自分では何も知らぬまま、いずれ訪れる嵐の夜に備えて身構えていた。

かっこいい締めだな〜
「慎ましく不屈な永遠の姿」「何も知らぬまま-身構えていた」あたりはOnettiあるあるを思う存分使ってる。

 

あー娘は男の回復の見込みがないと知らされていなかったのか。

 


最後でいきなりサスペンス?ゴシックホラー?になったな。
山の小屋でかつてポルトガル女三姉妹+従妹の4人が25歳で死んだ。(「感染」?)という始めの方の記述が意味深で伏線っぽいけどようわからん。

 

ただ、「私」が「すべてがあまりに単純に見えてきた」と言ったのはよく理解できた。
物語の結末がいかにもなクライマックス・幕切れであることを知ると、そこから逆算して、あたかも始めからすべては決まっていた、単純な構図の「物語」だったと思えてくる。・・・という物語一般に読者が抱きがちな感想を、本作の語り手が、自身で物語ながら自覚的に対面している、という点で、本作はある種のメタフィクション、物語についての物語といえる。
こうしたやや複雑な構成をとっているので、最後が「いかにも」でも嫌いになれないというか、まさにその「いかにも」性についての小説だったので、すげえなという感じ。
それに、やはりオネッティを読む醍醐味は話の筋や構成ではなく、「語りの妙」が凝縮された、回りくどく修飾的で意味が掴みづらい洗練された文章を味わうことにある。最後まで文章が素晴らしかった。

訳者あとがきで信頼できない語り手と書かれているけど、これがそうなんだ。

 

90ページ弱の中編に計10時間くらい(期間でいうと一ヶ月弱)かかり、正直ものすごく読み進めるのが大変かつモチベが上がらない作品だったが、不思議なことに、それでも嫌いとは程遠く、とても好みだった。

60年以上も前に書かれた作品であることに驚愕するほどスタイリッシュというか現代的というか新しいというか洗練されている。

 

 

 

というわけで、『別れ』に収録されている3作をすべて読んだ。

hiddenstairs.hatenablog.com

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3つとも同じくらい好きかな〜〜〜

語りがいちばん凝ってたのは「失われた花嫁」だったな
("凝ってる" は "読みにくい" とほぼ同義)

 

オネッティ非常に好みでした。また、胸を張って好きだと言えるラテアメ作家がひとり増えた。ただ、ゼッタイに一般受けはしないというか、少なくともストーリーやキャラクターでぐいぐい引っ張る小説ではない。正直かなり読みにくくて大変。(だがそこが良い!)

ラプラタ幻想文学らしい幻想性はあるが、ボルヘス/コルタサルのようにあっと驚くキャッチーな仕掛け・アイディアを中心にしているわけではないので、そこらへんと比較してもかなり地味。地味なんだけど、文章自体はとてもキラキラギラギラ、凝った言い回しが満載で、宝石を拾い集めるような読書が好きなひと向けの作家だと思った。

 

『はかない人生』『屍集めのフンタ』といった長篇も読んでみたいが、一年単位でかかるんじゃないか。長篇でも文章がこんな感じなのかが気になる。キャリアの時期別の文体の変遷も調べたいが、そこまでいくともうオネッティ研究者じゃん

 

 

 

 

本書の見事な書評(私の記事は書評ですらない)

blog.goo.ne.jp

 

 

 

 

屍集めのフンタ

屍集めのフンタ