『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン

野崎訳:光文社古典新訳文庫で読んだ。



世界観が面白い!
シュルレアリスム・不条理文学なんだけど、不気味というよりむしろ小気味良い快活さの香る数々の小ネタ。
物語の大筋はド王道の恋愛悲劇で、細部のエピソードや描写に奇想が盛り込まれている。

 

50pまで。大ホラ吹きって感じ。架空のダンス「ビグルモア」とか突如あほみたいな物理理論をでっち上げてきて笑った。
知らん顔でふざけてる感じはアレナスとかアイラに似ている。大好き
小説って結局、ほら話なんだよな。すごく良質なほら話。

 

主人公コランは今のところ金持ちで悠々自適な生活をする女好きであまり好感は持てないが、三人称の語りが彼を突き放している感じなので楽しく読める。コメディチックというか。ニキビが明日できませんようにという願掛けが失敗するところとか、スケートリンクでスピードスケートをする人に股抜けされて風圧で吹き飛んで二階席の手すりにつかまるのに失敗して落っこちるとか。ドタバタコメディで起こることだよな。



p105 18章まで
インパクト狙いの奇想でもない。
面白い発想がふんだんに盛り込まれているが、この小説の面白さはそれに頼っていない。そこが好きだしすごいと思う。


「うん」シックが言った。本欲しさのあまり、よだれを垂らし始めていた。両足のあいだによだれの小さな流れができ、歩道の端をとおって、埃のかすかなでこぼこを迂回しながら流れていった。 p.111

よだれの解像度が無駄に高い。「埃のかすかなでこぼこを迂回」って想像できるようなできないような……


240pまで。
スピード結婚にスピード病状悪化にスピード逝去。
「肺に睡蓮の花ができて蝕まれる病気」っていかにも悲劇のヒロインだなぁ
コランとクロエの関係の積み重ねや繊細な心理描写はあまりなく、恋愛小説って感じはしない。
少なくとも『肉体の悪魔』のような恋愛心理小説ではない。
あくまで軽妙で奇想的な世界観のなかで王道の悲恋モノをやってるかんじ。
ただ、最初の方が面白かったな……クロエの体調が悪くなっていくほど、あんまり面白くなくなった。

 

過酷な労働描写とかお役所たらい回しとか、ちょっとディストピアものっぽい。
不幸を前日に告げて罵声を浴びせられる仕事とか、24時間ひらすら歩いたり寝そべったりする仕事とか、なんなんそれ。
資本主義ブラックジョークとでもいうべき、貧乏人用の葬式プラン(わざわざ追いかけてきて墓に石を投げつけるオプションが強制的についてくる)はこれ逆に赤字じゃねえか?

 

軽いというかユーモアに溢れているところはレーモン・クノーっぽいな。とか考えていたらクノーのアナグラム(脚注)の人名が出てきて驚いた。同時代のひと?クノーより前の作品かと思ってた。

 

読了

 

「つまり、その人は不幸なんだろう?……」
「不幸なんじゃないわ」ハツカネズミは答えた。「心が痛いのよ。それがあたしには耐えられないの。(後略)」 p.344
 
最後の章、かなし〜〜〜そうくるか〜〜〜。コランたち人間の「心の痛み」を直接描くよりもずっとかなしいわこの締め方。
本作が完全なリアリズム小説ではないと読者が確信するほぼ最初の要素──人語を解しコランと同居(?)している黒い口ひげのハツカネズミ──にフォーカスして幕が閉じるというのはなんとも見事な構成だし、非リアリズムの存在を通して婉曲的にコランの末路が語られ、更にはそのハツカネズミが生を終えることでこの小説が終わるというのは……。最後の一文、完璧すぎるだろ……



「あれを見ろ!……」のように、!のあとに……がくっつく表記おもしろい。ヴィアン流?
……が付かない場合もあるのでニュアンスで使い分けているっぽい。



訳者解説がとても良かった。
「睡蓮」を何らかのメタファーと見るのだけは本当に勿体ない読み方だと思うが。



・その他よかったところ引用
 

p.7(まえがき)

大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。以下に続く少しばかりのページはそれを証明するものだが、強みはもっぱら、全部が本当にあった話だという点にある。なにしろそれは何から何まで、ぼくが想像した物語なのだ。

 

「なぜなら醜いから。」まで引用されることが多いが(なぜなら格好いいから)、それ以下の文がむしろ大好き。
自分で想像した物語は、すべて本当にあった話である。ここではじめワクワクしたなぁ。この作者信頼できるぞ〜って。
(これは一見、小説の内容で作者について何らかの情報を得ることができると思いたくないスタンスに反しているように思えるが、まえがきを本文に含めるかどうかは微妙なラインだということでひとつ手を打ってもらおう)



彼は力のかぎり走った。すると目の前の人々がゆっくり傾いて、ボーリングのピンのように歩道に横倒しになり、大きなボール紙を倒したときのようなぱたんという乾いた音を立てるのだった。 p.169

 

稲垣足穂の『一千一秒物語』にこんな感じの挿話なかったっけ。坂で自分を落として転がっていく話。感覚的に似てる

 

二人は外に出た。青みがかった緑の空はほとんど道路の石畳まで垂れ下がっていて、地面のところどころにある大きな白い染みが、雲が地面にぶつかった場所を示していた。 p.255

 

訳者解説にもあるように、字義通りに理解したい。じっさいに空は地面すれすれまで垂れ下がっているし、雲が地面にぶつかって白い染みをつくったのだ。