『恐怖の兜』ヴィクトル・ペレーヴィン

すぐに読める長篇を求めていて、全編チャット形式で読みやすそうだから手にとった。読みやすかった。
実験的なものが好きなので、チャット形式の小説に興味があったという理由もある。

 

端的に、いい意味でしょうもなくくだらない話だった。
間違っても傑作などという評が似合わない小説で、長篇だけど「小品」って言葉が似合う。
あるいは、他の長篇の息抜きとしてこれを書いたんじゃないかと思う。他の読んだことないけど。

 

全編がチャット形式ということで、全編会話調の小説に読み味は近い。ベイカー『もしもし』とか。
あとは、うわ言をお互いに言い合ってる感じはマヌエル・プイグの『このページを読む者に永遠の呪いあれ』っぽい。
まぁ『このページを…』はちゃんと読んだことなくて書庫でパラパラとめくっただけだけど。

 

約300ページに渡って、10人ほどのハンドルネームたちがしょーもないチャットを繰り広げるだけなのだが、そのしょーもなさのある程度の割合(全てとは言わないが)は、彼らが置かれた閉鎖環境に由来するため仕方ない。アリアドネの見る夢に頼るしかないくらい、ほんとうに馬鹿げた状況。
恐怖の兜のメカニズムについて議論するくだりとか、マジでしょーもなすぎて好き。あの混乱は、要するに形而上と形而下のものごとをごちゃまぜにしているのが要因なのだろうが、それを真剣に考えるしかない彼らの置かれた状況は申し訳ないがコメディである。

 

それぞれの部屋の外には十人十色な景色が広がっている、という設定は精神分析に相性が良さそう。

 

テセウス候補たちの意見表明のくだりは悪いポストモダン的な衒学理論を風刺するようなたわ言が語られていた。



ただ、テセウスが登場?してからの最後の20ページは、それまでのしょーもなさとはナンセンスの次元が変わり、単純に意味がわからなくなった。それまではみんなしょーもないことを話しているとは自覚していながら仕方なくチャットをしていた感じが、以降は彼らの認識が明らかに変容しており、読者の私だけ置いてけぼりにされたようだった。結局何が起こったのか、「真相」と呼ばれうるものがあるにしろないにしろさっぱり理解できなかった。理解するような作品ではないことは、それまでの260ページで十分にわかっていたつもりだが、最後の20ページで更に突き離された。



変な小説で、これだけではペレーヴィンが好みなのか全く判断できないが、訳者あとがきを読んだら俄然興味が出てきた。ちくしょう、いい仕事しやがるじゃねえか……






・しょーもない引用

 

自由意志だなんて、笑わせないでくれ、ウグリ。人生は屋根からの落下のようなものさ。止まることができるかい? 否。後戻りできるかい? 否。横へと方向転換できるかい?そんなことは、水泳パンツのコマーシャルの中でだけ可能なのさ。自由意志というのは、要するに落下中にたわ言をいうか、地面に激突するまで黙っているかのどちらを選択すべきかという問題に過ぎない。古今東西の哲学者が論じてきたことは、このことさ。 p.196




モンストラダムス
何もうらやむことはない。君のところも行き止まりさ。ただベニヤの側壁が私のところよりも長く続いているだけのことだよ。くるみ割りのところにはベニヤの代わりにテレビ。みんな行き止まりさ。違いはただ、それがすぐわかるのではなく、わかるまでに、いくらか時間がかかるということに過ぎない
 
もしかしたら、その「すぐ」と「いくらかの時間」の違いが、重要なのかもしれませんね。行き止まりと明らかになるまでの、この「いくらかの時間」こそ、人生だとは思いませんか? p.218