「回転する動物の静止点」千葉集

 

 

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千葉集さんのブログ「名馬であれば馬のうち」は前から読者登録して読んでいたのだが、先日投稿されたこちら↑の記事が特にめちゃ良くて、そういえばこの人SF短編の賞とってるらしいなー読んでみよっかな〜〜 という明瞭な動線で、その短編が入っているKindleのアンソロジー『あたらしいサハリンの静止点』を購入した。

 

 

 

 

本書に収録される千葉集作品は、SF短編賞をとった「回転する動物の静止点」と、書き下ろしの「電話鳥(i, PhoneX)」の2つである。

 

「回転する物体の静止点」を読んだ。

 

《高野》の革命。それは「身の丈以上の動物も回せる」と示したことにある。シロクマを回せるのであれば、クジラだってなんだって回せる。十分な角運動量さえ与えれば、この銀河だって回るかもしれない。回りつづけることで死人さえ甦るようになるかもしれない。あの日の〈アリ地獄〉で回っていたのは純白の可能性だった。

ベイブレード文学だ。

 回すコマ(動物)がどんどんデカくなって、「回転」という概念を軸にして一気にシロクマ→クジラ→銀河と発想が飛躍するのが、いかにもSFって感じ。抽象化して概念を取り出しさえすれば、あとはそれに想像力を振りかけるだけで物語ができる。

草野原々さんが生放送で「SFの定義はデカい物事を扱うこと」と言っていたが、なるほどSFの本質は"過剰"なのかもしれない。コルタサルの「南部高速道路」とかもそういう観点ではド王道のSF的発想だよなぁ。

 

ハムスターは七投目の終わりに死んだ。
《シモン・マグス》は死体を回収せずに去り、代わりに《回転する物体の静止点》が校庭の隅に埋めて弔った。

止まった動物はどうやって〈アリ地獄〉から回収してるんだ?

 

「良い質問ですね、サナハラさん。もちろんふたりは親友ですよ。あそこに描かれた動物は動物そのものではなく、擬人化された存在です。昔からフィクションではそうやって、窮乏した動物に人間の精神を託すことで、逆説的に人間の特質を強調してきた」

やっぱりウマ娘じゃねーか!

ブログでもそうだったが、千葉さんは「フィクションにおける動物」というオブセッションを抱えているんだなぁ。作家としてキャラ立ちしててとても良いと思う。

 

「完璧に閉じているべきなんだ。キツネはキツネで、イヌはイヌで……擬人化だとかは、だめだ。いやだ」

 

わたしたちは腰掛けたベッドのはしから立ちあがることができない。

一人称複数「わたしたち」だ。『最愛の子ども』やミルハウザー形式で、動物回しをするクラスメイトという共同体そのものが個人を特定せずに語る……かと思いきや、読んでくうちにそうでもないっぽいと気付く。

これ、本当は普通の一人称単数「わたし」であるところを、なぜか機械的に「わたしたち」にすり替えている感じだな。明らかにベッドに腰掛けているの1人では。

→むしろクリストフ『悪童日記』に近かったと後にわかった。

 

あれ、欲しいな、とゆびの持ち主であるひいちゃんはいった。かつて舞踏における跳躍と回転は教会から禁止されたがゆえに神に近づく手段として広まるようになった、と彼女は語り、だったら跳んで回るあいつはまるで回転する世界の静止点じゃない?

発話の括弧をわざと閉じないこの感じ、いかにも狙ってるな〜〜〜

 

母の時代のコマは、ひとつずつ、わたしたちになっていくものだったらしい。わたしたちのコマは、ひとつずつ、わたしたちでなくなっていく。

 

オオサンショウウオもだいぶ大型のコマだったが、《時間割の天使》が繰り出した全長二メートル三十センチのミズオオトカゲには敵わなかった。この大食らいのトカゲは、彼の両親が離婚にいたった原因でもある。母親の水槽から盗み出したトカゲを回すのが、昏い怒りを発散する彼なりの方法だった。

2文目からホラ吹きのギアが加速して突き抜ける感じすき。これっきりのプチエピソードでいかにふざけ倒すかが勝負みたいなとこある。

 

 

出席番号十番《豹の歯の》はもうわたしたちではない。だが、シロクマ革命後のわたしたちの路線を決定づけたのは、間違いなく彼女だ。
彼女は移動遊園地で産まれた。移動遊園地は三匹の豹を所有していて、《豹の歯の》はそのうちの一頭である首まわりに斑のかかった黒豹のメスと、メリーゴーラウンドのもぎり係との子だという。誰がいったか。彼女自身だ。

メリーゴーラウンドのもぎり係って何???

 

 

記述が一日目のおわりまでたどりつくと、彼は日記を書く行為そのものを日記内に取りこむべきで悩み、結局悩んだ過程を含めて挿入することを決める。

突然円城塔じみてきた。

 

説得や懇願や譴怒といった両親の駆け引きはみな《ミスター・アルトロバラヌス》の耳から指先へと排出され、文字となって日記に喰われた。そのうち糞尿も椅子に座ったまま垂れながしだす。ズボンのすそからしたたる色と匂いもまた観察の対象として追加される。

いいね。『めくるめく世界』の鎖鉄球牢みがある。

 

 

本作のモチーフは大雑把に言えば「回転」と「内外(自他)の境界」という2つだと思う。
言うまでもなく前者は〈動物回し〉という愉快で奇怪なゲームに関わる。
後者は「わたしたち」という一人称複数の語りや、〈動物回し〉の敗者が「出席番号〇〇番《〜〜》はもうわたしたちではない」という執拗に反復されるキーフレーズに関わっている。

人間の心は複数の円環(サイクル)からできている、と彼女は主張する。個別の機能を割り当てられた円環を回すことで、人間は人間として動作する。

両者はこの「円環」という謎概念で1つに収束しているのだが、こんな無理やり収束させなくても、2本の柱で良かったのでは。

 

彼の目はフラミンゴを捉えていたが、フラミンゴは視線を返さない。動物園の動物とヒトとの関係で孤独なのはいつもヒトのほうだ。

なるほど? 

 

「滑るのは好きだった」《回転する世界の静止点》はいう。「ただひたすらに純粋な回転が欲しかった。だがヒトは動くものに意味を見出す。おれが見出してしまうんだ。跳ぶたびに、回るたびに。渦巻けば銀河だし、回転は地球の自転、螺旋運動は生命の律動だ。そういう類のくだらないメタファー、詩、俗な図像学。そういうクソをごてごてとおれにぬりたくりやがる。それで褒めたつもりになってやがる。不快だったよ。おれはただ回りたかっただけなのに。回転そのものでありたかったのに。あいつらがおれを人間にする。…」

さっき「SFの本質は"過剰"」とか何とか書いたが、こうしたSF的な意味付け/発想を露骨に否定する主張がここにきて作品内でされた。手のひらの上か?
もう少し露骨度を抑えてほしかった点以外は、こういうアンチテーゼとっても好み。

 


最初、〈動物回し〉なんてフザケたゲームを大真面目にやっていて、こういう奇想SFが好きだなぁ〜いいぞもっとやれ!と呑気に思っていた。しかし最終的には、姉弟/クラスメイトの喪失に対する遺された者の鎮魂と再生というかなりシリアスなテーマが、ミステリーチックに種明かしされてビビった。たしかにこういう小説、賞とりそうだな〜という感じの小説だった。

こういう、最近の上手いSFの書き手ってどうしてもエモに走ってしまう気がする。他に……伴名練とか? 別にそれが悪いというわけではないが、地に足が着いた優等生って感じの読後感で少し残念ではある。


まぁしかし、流石に面白いには面白かった。
文体とかほとんどブログと変わらない。ブログ記事がほぼSFの短編だもんアレ。
これからもフィクションと動物を愛でるその姿勢のまま突き進んでほしい。

 

 

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