本書の最後を飾っている表題作「黄金の少年、エメラルドの少女」を読んだ。
20ページ強の短編
彼は母親だけの手で育てられた。同じように、彼女は父親だけの手で育てられた。二人にデートをさせた彼の母親は、このことを彼に話したのだろうか、と彼女は考えた。 p.269
冒頭から文章が強い。
「彼」と「彼女」の間を視点の重心がスムーズに行ったり来たりする三人称の語りが凄い。
さっきまで彼女について語っていたと思ったらいつの間にか彼を主語にとっていて、その変遷がシステマチックになり過ぎず、物語のなかで自然な形で行われている。
これら人称代名詞で呼ばれるジェンダーの対称性と非対称性、可換性や倒錯性が露骨ではなく浮き上がってくる。
その相手が五十代か六十代のこともあった。初めてこういう候補者を口を酸っぱくして勧められたとき、父親との結婚を求められているような妙な感じがした。後になって初めて、自分がもう若い女ではないことに気づいた。 p.272
中年女性を書かせたら右に出る者はいない作家ことイーユン・リー
女と子供が見えなくなると、思余(シーユー)は十二歳で自転車通学を始めたら、父親が毎朝校門まで走ってついてきた話をした。走る父親に同伴される生徒は他にいなかったので恥ずかしかったが、やめてとは言えなかった。
「実に愛情深いお父さんだね」寒楓(ハンフォン)は言った。
思余はうなずいた。カウンターの向こうの扉が開いて、また閉まり、揺らめくろうそくの灯りが一瞬消えそうになった。登校中、父親がうるさいほどあえいで人目を引かないように、下り坂でブレーキをぎゅっと握らなくてはならなかった。 p.285
昔ながらの近所の人々や親しい人々の目には、恩知らずの冷たい娘と映っただろう。でも、自分だけが知る無茶なスピードで人生を走り抜けているときに、父親の目の届くところにいることなどできはしない。すべては説明がつかず、初めから求める権利もない愛のせいだ。 p.286
こんなん泣くわ。
題から異性間カップルの話かと思ったら、親子関係や師-教え子の関係の話だった。
「人生」とか「愛」とか、大それたことを真正面から扱う。卓越したストーリーテリングによる、一流の文学だ。
もしも人々が彼女の秘密を知ったら、年配の女性をずっと愛してきたのは、母親の姿を求めているからだとすぐに決めつけるだろう。しかし思余は、母親がいたとしても何ら変わりはなかったと考えていた。 p.286
シーユーと、ハンフォンの母親の風変わりな師弟?関係は、見方によってはこれも特殊な百合といえるかもしれない。年齢が離れた女同士の独特の関係。
読了
これもまた、孤独な者たちが寄り集まった歪な家族モノであった。
最後の文はなんだか変に前向きというかヒューマニスティックだと感じたが、訳者あとがきの解説によれば、本作はウィリアム・トレヴァーの短編「三人」を下敷きにしており、
物語を似た雰囲気にしたんですが、終わりのほうまで書いたら「三人」という物語の陰鬱さや宿命観に打ちのめされてしまって、最後の一行を書くときは、同じ語り口にしながらも多少優しさを加えたのを覚えています。 p.298
とリー本人がインタビューで語ったらしい。聞く限り「三人」のプロットの男女を反転させたのが本作っぽいので、トレヴァーと読み比べたい。しかし未訳らしい。
ハンフォンの幼少期に母親と旧知の仲だという女性が訪ねてきた意味深な挿話があったが、その人がハンフォンの真の母親で、戴教授と血は繋がっておらず孤児(養子)だったということ?ほのめかすに留まっているが、養子設定が大好きだし……
「優しさ」ほどではないが、たった20ページでこれだけ「誰かの元に生まれること」「誰かと共に生きること」の残酷さと切なさと温かみを描いたのは傑作という他ないだろう。
本書はあと5つの未読短編が残っているが、読むかは分からない。
イーユン・リーの第一短編集『千年の祈り』も気になるが、「優しさ」を越える作品は無さそうなのでどうしようかな。長篇も気になる。
イーユン・リーを読んで感じたのは、言語越境作家・移民文学が好みなのではないかということ。
大好きなミラン・クンデラやアゴタ・クリストフなどの亡命作家もそうだし。
自分が海外翻訳文学を好むのは、国内小説では感じられない"遠い"世界観に惹かれるのが大きく、移民文学や言語越境文学(の日本語訳)は、より言語・世界越境の段階を重ねている分、もっと好きになり易いのかも。
ジュンパ・ラヒリ(インド系アメリカ人)やダイ・シージエ(中国系フランス人)、ジュノ・ディアス(ドミニカ系アメリカ人)辺りを読んで検証してみたい。
あ、ナボコフも言語越境作家か。
【続き】
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