「彼みたいな男」「獄」イーユン・リー

 

イーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』のうち「彼みたいな男」「獄」の2編を読んだ。

 

 

・彼みたいな男

 

娘が節足動物になったかのように蠍を描いてもよかったのだが、そういうことをすると彼の道徳基準を下回ってしまう。言葉であれどんな形であれ女を呪ったことはないのだし、ましてや最初に呪う相手が若い娘なのは嫌だった。 p.111

ネカマや匿名掲示板でのチャットの話とは。前編とはガラッと変わって面白い。

また養子主人公かよ!
また親の自殺かよ!
今のところイーユン・リーの短編への印象は孤独・養子・自殺の3つ。人生の残酷さが通底している。

 

母親がその日、この世のことで言うことは何もない、と言ったのだ。あきらめからというより、おもしろがって。彼はそのとき、彼女が自らの命を絶とうとはしないのがわかった。 p.119

60代異常独身童貞男性の話だ!!!
昼間っから連日ネカフェで未成年女性のHPへアンチ書き込みする60代男性とかヤバすぎてうける

 

とにかくヤバい初老男性のヤバさを誇張して描く話だとすればこれはこれで結構良いじゃんと思ったが、それにしても娘が弁護士に操られてるってのは流石にやり過ぎでは。

 

ロリコン文学だ!うめざわしゅん「唯一者たち」か?

 

自業自得で勝手に疎外された男性2人が何となく慰めあって終わる話って何?w
有害な男らしさとか、男性性に囚われた醜悪な存在を滑稽に描きたかったんだろうな、というのは分かる。

 

 

 

・獄

晩の寝床で手をつなぎ、二人は泣いた。結婚して二十年経ってからたった一人の子供を失い、将来楽しみなことがほとんどないにもかかわらず、なお愛し合っている、その事実だけで耐えがたかった。一蘭はときおり、互いに背を向けてそれぞれが一人で悲しみと向き合えたら楽になれるんじゃないか、と思った。 p.134

代理母の話なので仕方ないのだが、ザ・社会派って感じ。代理母に纏わる様々な倫理的・心理的・社会的問題を扱う。


16歳の愛娘ジェイドを交通事故で亡くした47歳の母:一蘭(イーラン)が語り手。

夫:羅(ルオ)のキャラ造形がちょっと類型的すぎないか?代理母となる女性を9ヶ月間の保育器だとしかみなしていない医者。

あと、代理母となった22歳出産経験アリの扶桑(フーサン)も、いかにもイーランが胎児と代理母自身を重ね合わせて、娘のように扱いたくなること前提のキャラって感じで、ちょっとなんだかなぁ。

にしても、誰かの嫁入りをしないと社会的に生きていけない女性の悲惨な境遇には本当になんと言ったらいいのかわからなくなる。

 

赤ん坊ができたら、二人の心は息を吹き返すだろうか。もしその子が大人にならないうちに、親が年をとったらどうなるのか。体が弱ってその子の面倒を見られなくなったら、誰に代わってもらえればいいのか。養子は二人の人生にとって通りすがりにすぎない──こういう子供は、面倒を見られる間は見るけれど、見られなくなると世間に送り返すことになるのが容易に想像できた──でも本当の我が子は違う。 pp.137-138

出生行為のエゴイスティックな面もめちゃくちゃ表現されている。
普通の生殖/出産でさえそうなのに、代理出産は輪をかけて強烈なエゴを感じる。

あとアメリカ-中国の文化資本格差。国が違えば世界がまるで違うというのが、中国に帰国しての代理出産では如実に現れる。

こうしてみると、代理出産は、イーユン・リーが小説で表現したい数々のテーマから、ある意味で必然的に選ばれた事物であると理解できる。代理出産そのものを取り上げたかったのではなく、アメリカと中国の越境と貧富格差やフェミニズム、生きることのやるせなさ、生まれることの残酷さ、家族になれなかった者たちの家族……こうした、筆者にとって重要なテーマ性からの自然な帰結として(国を渡っての)代理出産に付き添う母、という本作のプロットの骨子が導かれる。

 

二人は互いがいるというだけの理由でこの町にいるのであって、どこにでも急いで帰らなくていいのだった。扶桑の手は一蘭の腕に添えられていたが、それはもう導きを求めてすがりつく手ではなくなっていた。二人は友情と家族愛の間のどこかでつながっていた。 pp.163-164

代理母と実の母(卵子提供者)の関係……女性同士の関係にもこんなものがあったのか……!という衝撃


周りには姪と説明しているが、イーランからすればフーサンは娘のように思えている。娘を腹に宿した娘、という倒錯した存在。それだけでなく、夫と離れることも考えているイーランは、代理出産後、フーサンが自分の代わりに子供と渡米して夫の妻になってくれないかと密かに考えている。すなわち、娘としてだけでなく、夫にとっての自分の代わり(妻)、生れた子にとって自分の代わり(母)であることを夢想する、きわめて特殊な存在になっている。

親子のような、友人のような、1人の男に対する"女"同士であるような、1人の人間に対する"母"同士であるような、そんな歪な関係。そうかぁ、ここにそんな複雑な女同士の関係が転がっていたのか。
親子百合とも違うしなぁ。(てか親子百合って存在するのか……?)

 

一蘭は思った。これが母親になる代わりに私たちが払った代償だ。 p.172

「私たちが」というのは、p.160の「あたしたちに、そっくりな双子が生れてくるなんて」というフーサンの発言を踏まえたもの?夫と自分のことではないよね、だって「母親になる代わりに」だから。
胎内の子を人質にとってフーサンはイーランを脅す。ここでイーランだけが代償を払わされているのではなく、(本当の我が子を想って)そのように脅すしかないフーサン自身もまた、代償を払わされているということか。
そしてやはり、ここでは夫の影はまったくない。なにせ太平洋の向こう側にいるほどに無関係だ。男はなぜか出生に関する責任を免除され、代償を払わされるのはいつも女性であるという残酷な構図がまざまざと現れている。
ここでは、そのようにして代償を払わされている女性同士の特別な結びつきの希望から絶望への転換を鮮やかに描いている。

のだけれど、やっぱりテーマ性に関して直接的過ぎるというか、代理母という要素の周辺をぐるぐる回るだけで、たしかにその周辺には全く考えてもみなかったような痛切なものが落ちていたことは分かったが、そこから遥か遠くには連れて行ってくれなかった。というか、題材が題材なので、展開が派手というか分かりやすいんだよな。「優しさ」はもうちょっと抑制されたプロットでじんわりとした感動を与えてきたが、本作は有無を言わさず、テーマの押し付けがましさも感じる。

これが短編ではなく長編として、あの結末からの続き(代理出産をして、アメリカに帰った後)をしっかり描いてくれていたら、より興味深かったかもしれない。
イーランとフーサンの2人に物語が収束して終わり、意図的に男性である夫ルオは蚊帳の外だった。2人の関係を描きたかったのだろうから、それは圧倒的に正しいのだけれど、現実にはあそこで終わりではなく、ルオを蚊帳の外のままにはしておけないだろうから、やっぱり続きが読みたいと思う。

あと川上未映子『夏物語』と併せて読みたい。あっちは代理母ではなく非配偶者間人工授精(AID)の話だが、「産む性」である女性の苦悩や、そもそも出生することの責任と倫理みたいな面でも本作と大いに共鳴する点はある。

 

 

前回は同書収録の「優しさ」を読んだ。

hiddenstairs.hatenablog.com

 

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黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)

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パンティストッキングのような空の下
 

 少児性愛者を扱った短編漫画「唯一者たち」収録。

 

えれほん

えれほん

 

同じくうめざわしゅんの『えれほん』には、代理母ではないが、へその緒が繋がっていないと死んでしまう架空の難病についての短編「もう人間」が収録されている。社会派っぽさが「獄」と似ているかもしれない。

 

夏物語 (文春e-book)

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