『継母礼讃』マリオ・バルガス=リョサ

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 「ママのことさ、パパ、ほかのだれもテーマになんかならないよ」と、フォンチートは手を拍った。「タイトルのようなものもつけたよ。『継母礼讃』て言うんだ。どう?」
「なかなかいいね、とてもいい題だね」彼はほとんど考えもしないで、とってつけたように笑って言った。「ちょっとエロチックな短編小説に聞えるね」 (p.166)

 

ペルーの世界的作家マリオ・バルガス=リョサが1988年に発表した短めの長篇小説『継母礼讃』("Elogio de la madrastra")を読んだ。

 

本作はエロ本である。ジャンルは「人妻寝取られママショタ」もの。ペルーのリマに住む夫リゴベルトの再婚相手である40歳の人妻ルクレシアが、義理の息子アルフォンソに激しい情愛を向けられ、次第に堕落していく……というタイトル通りのおはなしで、はじめの入りなんかは「これノクターンノベルズで読んだことある!」と錯覚したほどベタベタな官能小説だ。

 

とはいえ、ノーベル賞作家リョサのことだ、単なる官能小説に収まらない要素も当然含んでいる。本書は1~14章とエピローグの計15章にわかれ、それぞれ視点人物や人称が異なる。そのうち、2, 5, 7, 9, 12, 14章では、上記の親子3人の現代の話ではなく、実在する「絵画」の人物に彼らを当てはめた一種のパロディ的寓話が語られるのだ。『IPPONグランプリ』の「写真で一言」のようなイメージで、ブッシェ『沐浴の後のディアナ』やベチェルリオ『ビーナスとキューピッドと音楽』などを巧みに"解釈"して、ルクレシアたちの心情や関係を別の角度から示唆・描写してゆく。

 

こうした絵画パロディは、あくまで現在自制のメインストーリーとは独立して走っているという認識で読み進めていたが、遂に第11章で本筋に絵画が絡んでくる。

 

「ママ、ママの知らないことを教えてあげるよ」アルフォンソは瞳に小さな光をかがやかせて叫んだ。「広間の絵の中にママがいるよ」 (p.134)

 

この広間の絵とは、シシュロの抽象画『メンディエータ10への道』である。これまでは女神や妃などの裸婦が描かれた人物画を取り上げてきたが、現実と交錯する転換点に抽象画を持ってくる、というのがとても効いている。アルフォンソの愛の導きのままに禁断の契を交わし、その背徳からより一層夫との毎夜の行為を愉しんでいるルクレシアは、もはやビーナスでもディアナでもなく、紫と薄紫で彩られた禍々しい抽象物でしかない。

 

息子にこう告げられて、その真意を理解したルクレシアがその晩夫リゴベルトに語り聞かせる「愛の迷宮」が次の第12章で、散文詩のような強迫的な独白には読んでいるこちらまで持っていかれるようなパワーがある。(原文は改行も少なかったが、敢えて詩的形式で訳したらしい)

 

エピローグ前の第14章ではアンジェリコ『受胎告知』の吹き替えが行われるが、これはマリアにルクレシアが明示的に重ねられているのでもなく、一見独立した挿話のように読める。ラストでこうした直接関係ない章を置く構成は、クンデラ『笑いと忘却の書』に近いと感じた。もちろん、ルクレシアが堕落する以前の清く幼い頃のエピソードであり、《居るのかいないのかわからないほどおとなしい》マリアの堕落と成長を暗示しているとも取れるだろう。

 

 

また、絵画パロディと並んで本書の特徴と呼べるのが、夫リゴベルトの「ナイトルーティン」を丹念に描写する章の数々だ。3, 6, 10章はそれぞれ、耳の手入れ、排便と足の手入れ(+歯磨き)、鼻の手入れを仰々しく語る。まるでニコルソン・ベイカー『中二階』を思わせる、偏執性が馬鹿馬鹿しさと偉大さの両方につながるような文章だった。

 

体毛は良いものだ。だが、あるべきところにあってはじめて、性の力強い装身具となる。頭や恥丘のそれは歓待されるし、また、なくてはならない。脇の下は──完全に確かめ調べ終わるまで(こういう探求心はヨーロッパ風の強迫観念かも知れない)部分的に譲歩してもいい。だが、腕や足には絶対あってはならない、胸なんて言語道断だ! (p.37)

このように、彼の熱い性癖語りも頻繁に挟まれる。脇毛がアリかナシか判断を留保しているのを「ヨーロッパ風の探求心」と形容するのに吹き出してしまった。

 

こうして、言わば「寝どられ役」のリゴベルトも非常にキャラが立っているが、やはり最も鮮烈な輝きを放っているのは「寝どり役」の息子アルフォンソである。義母を愛するあまり性的な接触をすることがなぜ悪いのか分かっておらず、その無垢性が突き抜けて大人に牙を剥くというキャラクター造形はありふれてはいるが凄みと恐ろしさを感じる。最後には継母だけでなく女中のフスチニアーナにまで魔の手を伸ばしているところを見ると、その裏には奸計と狡猾が渦巻いているように思ってしまうが、「実はすべて計算通りだった」よりも「本当に純真な子供らしさからの行為である」ほうがより恐ろしくて好みなので、後者であろうと解釈している。

 

 

ページあたりの字数が少なく200ページも無いため5時間ほどで読みきった。普通のひとなら2時間もあれば読了するであろう。

エロい話が大好きなのでエッチな小説が読みたくて手にとったが、正直大満足とはならなかった。リョサの文章は流石に上手く、スラスラと読み終えたが、そのぶん物足りなさも感じる。リョサでなくても書けそうな作品ではないかと思ってしまった。

 

『悪い娘の悪戯』に続いて本書がリョサ2冊目となった。これらは愛・官能を正面から描いた軽めの作品群として位置づけられているらしいが、リョサの作品のなかではマイナーなところから攻めている自覚はある。『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』の初期長篇、そして『世界終末戦争』あたりにいい加減挑みたいのだが……怖気づいてまた「軽め」の作品を手にとってしまう気もしている。

 

本書には続編『ドン・リゴベルトの手帖』がある。注文はしたが、すぐに読むかはわからない。

 

継母礼讃 (中公文庫)

継母礼讃 (中公文庫)

 

 文庫ではなく単行本で読んだ。引用ページ番号も単行本による。

 

ドン・リゴベルトの手帖 (中公文庫)
 

 

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)

 

エロ本文学といえばバタイユ。 無垢な子供が性に目覚める点では『眼球譚』も同じだが、『継母礼讃』のアルフォンソは最後まで無垢なままシラを切っていてたちが悪い。

 

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

 

 

中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
 

 

 

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『別れ』フアン・カルロス・オネッティ

 

併録されている2つの短篇はすでに読んで記事を書いたが、表題作の中編「別れ」をようやく読み終えた。あ〜長かった。 

 

 

・別れ ("Los adioses",  1954)


オネッティは「見る」ことと「語る」ことが各作品に通底するオブセッションとなっているように思える。

見たことを語ること、
見ていないことを語ること、
見たことを語らないこと、
見ていないことを語らないこと。
これら全てが小説のなかで重なり合い響き合い、幻想的な空間を形作っている。

 

ぼっち観察小説

 

p.13

「疑り深い」、私はあの晩一人で何度もこの言葉を繰り返した。そう、そのとおり、決して自分を欺くまいと固く決心したせいで、自分の内側から疑念が染み出し、疑り深くなった男。そして疑念の内側には、たやすく抑えることのできる絶望、生まれてきたときすでにごく自然に成長を止められた絶望、すでに体に染みつくほど慣れてしまった絶望がある。治る見込みがないと思っているわけではなく、治ることの価値、その意味をすでに見失っているのだ。

 

有望なバスケ選手だったが何らかの病気で引退を余儀なくされて生きる意味を失った男が療養先の田舎町へやってくる。のを、町のバー兼郵便局の店主(と町の住人たち)がひたすら観察する話

「失われた花嫁」もメイン人物を語り手(町の住人たち)が観察する話だったな

 

 

 

毎晩眠る前にベッドで本書を開いているが、5ページずつくらいしか進まない。それは疲れが溜まっているからというよりも、本作の内容による面が大きいと思う。オネッティの文章は基本的に一文一文が長い。さらに、修飾節が途中にいろいろ挟まっており、文の最後まで辿り着かないと意味が掴めない。

どこでもいいが、例えばこんな感じ

p.15

この店は郵便局の出張所も兼ねているのだが、男はわざわざ一時間近くかけて市まで赴いて手紙を投函する。そんなことをするのも、かくれんぼのようにたわいもない遊び、原因よりも結果のほうがはるかに重要であり、原因は取替も修正も可能、忘れてしまってもかまわない、そんなルールの遊びを続けようとするあまり、頑固に何も受け付けまいとして硬直した意思の結果なのだろう。

結局どういうことだってばよ・・・

 

 

p.37

ドア枠にもたれていた娘を見かけたのがその時だったか、今ではもう覚えていない。ペチコートの一部、靴の片方、トランクの側面といったものが、ランプの光に辛うじて照らされていたような気がする。年が明けたまさにその瞬間に彼女の姿を見たのではないかもしれないし、乱痴気騒ぎと夜のちょうど真ん中にじっと立ちつくしたその姿の記憶は、単に私の想像の産物だったのかもしれないし、とにかくよく覚えてはいない。

初登場シーンかっけぇ〜〜〜 こういうカッコいい文章を読むのがオネッティの醍醐味
「乱痴気騒ぎと夜のちょうど真ん中にじっと立ちつくしたその姿の記憶」とか最高だろ
「冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた」くらいカッコいい

 


p.39

まだ若すぎるし、病人にも見えない。三つか四つ彼女を形容する言葉があるかもしれないが、それがいずれも相矛盾しそうだ。

 

p.40

《若すぎる》また私は考えたが、《すぎる》という言葉の意味もわからなければ、どんな不快なことから彼女を、いや、彼女の若さを守ろうとしているのかもわからなかった。


p.45

そうではなく、この顔は、男だけの世界、男という存在の意味と向き合うための顔なのだ。いつも何かを求め、本当に驚くことはなく、あらゆることを一瞬で記憶し、遠い昔の経験に変える、そんな顔。愛の決定的瞬間を迎えるごと、出産するごとに脚を開いたこの娘が、興奮と警戒心と貪欲を織り交ぜたような顔で相手を受け入れる姿を思い浮かべてみた。そして、老いと死の前で、この平らな目がどんな秘密の表情を湛えるのかも想像してみた。

これぞスタイリッシュな文学的セクハラ
会ったばかりの若い女性が脚を開くときの表情や、死ぬときの表情を妄想する……

続きは

「彼のこと、ご存知なんですか?」両肘をトランクの上に乗せて、麦藁帽子をくるくる回しながら娘は尋ねてきた。
「店へ来ますからね」
「それはそうでしょう。元気なんですか?」
「医者に訊いたほうがいいでしょう。まあ、間違いなく数分後には元気になるでしょうがね」
「それはそうでしょう」

ワロタ
にしてもいきなり萌え度が高いヒロインが登場してびびる。アニメの6話くらいで初登場した新キャラがくっそ可愛かったときと同じ気持ち
「男」に最初に会いに来たサングラスの女性にはさほど魅力を感じなかったのだけど。

 


p.49

その間、あの二人のことで──「二人のために」とも言いたくなるのは、自分の想像力で二人を助けたいという迷信めいた希望があったからだ──私が想像できたことといえば、(中略)ゆっくりと着実に上を目指す二人の姿だけだった。

「自分の想像力で二人を助けたいという迷信めいた希望」ここがオネッティの1つの核という気がする。


想像の世界を作り出して自分を助ける現実逃避みたいなものは(『はかない人生』はそんな風らしい)ありふれているが、自分のみならず他人にまで自分の想像力の影響が及ぶ可能性を見ている。これは「語ること」によって世界を作り出す、創作の恣意性と強度に深くコミットしているからこそだろう。

(若い男女2人が夜中に山を登るって『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を思い出しちゃうな)

 


p.51

最初だけ二人は、別に会話をするというわけでもなく、ただひそひそ何かを呟き合っていた。ひとつ言葉が出ると、その後に三連句のようなものが続いたりすることもある。順番を守ってでもいるように交互に、二人とも困惑したように瞬きひとつせず、互いに相手の顔に自分の表情を探りながら、短い溜め息のような音だけを交わし合う光景は、どちらの記憶が豊かか、正確か、勝ち負けなしに競ってでもいるようだった。

この部分すげーオネッティっぽい。純度100%

会話してないのに何かを交互に呟き合ってるとか、困惑してるのに瞬きしないとか(ふつう困惑したら瞬きする描写が自然)、勝ち負けなしに競っているとか、微妙に矛盾しているというかズラしている修飾節がズラズラ続く文章。

そうして、こうした変な描写はすべて「私」が観察して見えたことであって、本当の二人の様子は読者には絶対にわからない。(「私」もわかっていないし、2人ですらわからないのかもしれない。)この文章、語りそのものからこうした光景が立ち上がってくるさまを楽しむのがオネッティの読み方で、おそらくこれがわからない人は向いていないと思う。しらんけど

 

この二人と、「私」&看護師のペアが互いに向こうの会話の様子をうかがい牽制し合う。単なる雑談シーンでなんでこんなに緊張感を出せるんだ。

 


p.52

疲労も意志もなく、ただ見ている以外何もする気力がない》、二人のことをあれこれ考えているうちにこんな言葉が私の顔に浮かんだが、市行きのバスがもうすぐ到着することを知らせたものか、まだ考えあぐねていた。

気力がないのに「疲労もない」のか……どゆこと……?だけど、この言葉はなんだか非常に自己言及的に作品の本質を表してくれているように思わざるを得ない。

 


p.53

バスが出発し、日が暮れ始めた頃になって私が思ったのは、彼らは「すべて」の外にいるだけでなく、その「すべて」が存在の重みを見せつけ、二人が見つめ合うのをやめる瞬間、男の手が女のスーツ、そのグレーの生地から離れる瞬間を待ち構えている、ということだった。

「待ち構えている」の主語が「彼ら」なのか「その「すべて」」なのかわからない。意味は後者のほうが自然に通りそうだが。

 


マジでダブルヒロインどっちを選ぶ問題みたいになってきた。ドラクエⅤか?
語り手の「私」は年齢が近い子持ちヒロインに賭ける(何を?)らしいが自分は逆だなぁ
グレーのスーツ、トランク、白手袋、麦藁帽子というキャラデザも好き

 


p.60

私に微笑みかけながら彼女は、もう一本煙草に火をつけ、しばらく煙の後ろで微笑み続けていたが、突如、あるいは、単に私がそれまで気づかなかっただけなのか、すべてががらりと一変した。二人のうち、弱者はこの私であり、勘違いしていたのもこの私だったのだ。

いきなりこれまでほぼ語られなかった「私」の境遇にピントが合って驚いた。

 


p.61

憎らしい女ならもっと楽なのに、こう私が内心思っていることにも気づいているのだろう。一見無駄話をしているだけのように見えて、窮屈そうに煙草を持った指の後ろから私に微笑みかけ、必要に応じて微笑みに含まれる皮肉と感動の割合を、そして、目の光り具合に込められた敵意を調節しながら、実は私に援助の手を差し出していたのだ。

すごい文だ。
若い女の子に全てを見透かされ見下されたうえで救われている……のだと妄想するおっさん。字面ヤバ

原義の感傷マゾに近い

 


p.61

「この町に住んでいると、時間が止まっているような、というか、時間が自分とは関係なく、あるいは、関係はしていても自分の生活を変えることなく流れていくような気がします」バスが到着したとき、私はこんな嘘をついていた。

 

p.62

あれから長い間、娘のあの姿が頭に残り、今でもあの姿が脳裏に焼きついている。高飛車に構えながらもどこか卑屈なところがあり、トランクを持つ腕のほうへ体を傾け、忍耐どころかその言葉の意味すら知らず、目を落として微笑んでいるだけで、生きていく欲望を十分すぎるほど与えられるような娘、瞬きだけで、頭を少し動かすだけで、こんな不幸を気にすることはない、不幸など日付の区切り目にすぎない、と誰にでも語りかけながら、我々が目撃する人生、我々が身をもって生きる人生の始めと終わりを明確に区切る娘、そんな印象だろうか。

どんな印象やねーん!
続きもすごくて

p.62

そのすべてがカウンターの向こう、私のすぐ目の前にあり、こうした無償の作りごとの総体が、釣鐘のようなこの店の薄闇、その生温かく湿った実体のない臭いのなかにある。

「こうした無償の作りごとの総体」か……
これは娘が他者に無償に与える影響(区切り)のことを指しているのか、それともこの娘の印象がすべて「私」による作りごとであることを意味しているのか……うーん難しい(けど最高)
「釣鐘のようなこの店の薄闇」なんてワードを続けて持ってくるセンスにも痺れちゃうね

 


辺鄙な田舎町にやってきた謎のぼっち男性をひたすら観察するクソ地味な話かと思ったら、なんやかんやでドロドロの不倫三角関係-女同士のバチバチバトルものだった。

 

彼らのプライベートなやり取り・行動(ホテルの部屋の中まで!)をこの町の人たち(看護師や女中含む)はさも見ていたかのように知ってるんだ……この、共同体がある特定の数人の私的領域を観察し妄想する感じ……『最愛の子ども』じゃん!!!

ただ、「私たち」という一人称複数ではなく、あくまで「私」による一人称単数形のままに、三人称っぽい自由で恣意的な語りをしている点が重要だろう。その点は地に足がついているというか、この小説世界の全体が「私」という単一の特権的存在のもとに保証されていなければこの作品はおそらく成り立たない。

 

 

結局三角関係がどうなったのかわからん。そもそも男はもう後先長くないので、結ばれたとしても悲劇だし、敢えて振った可能性もあるよな。

 

 

えっ!? 二人の女が和解してキスして別れた!? どゆこと・・・
あぁ、男がもうすぐ死ぬから、最期は好きにさせてあげようと、若い女と男が山の上の小屋で一緒にいることを妻が許したってこと? 妻可哀想すぎない? 男としては、もう自分は死ぬんだから妻には自分に囚われずに自由に、幸せになってほしいとかいう優しさのつもりなのかもしれんけど。

 


p.80

泊まり客にとって、彼がどれほど許しがたい、それでいて漠然とした侮辱であったか、それを言葉で表現することは難しい。(中略)彼らは、作業員がマネージャーに伝えるワインの注文量を細かくチェックし、山の家に閉じ籠もった男と若い女が、挑発か冒瀆のように世界のことなど忘れて過ごす様子を仔細に想像することで、何とか無聊を慰めていたのだ。

ここでも「他者を想像すること」が明け透けに取り上げられている。
なぜ、憎い人間が自分らを含む世界のことを忘れて悠々自適に過ごす様を想像することが慰めになるの? むしろムカつかない? 嫌いなヤツが愛人と2人で引きこもってたら。完全に野次馬根性だよなこれ。


だいたい10ページ/1時間ペース

 

遂に男と2人でちゃんと会話。ラスボス戦だ

 

p.83

あと見えているのは、頬骨、固まった微笑み、活発な子供のように落ち着きのない瞳。これだけで人間の顔が出来上がるとは何とも驚きだ。広く黄色い額、目の下の隈、鼻の両側の青い線、焦げ茶色の繋がった眉などは、私が想像で付け加えていたのだった。

WAO

 

娘の精神状態が心配。結局2人ともを泣かせてるじゃねえか

 

p.85

「懐中電燈の光を引きずりながら歩き去った。」って表現カッコいいな
「私」が雪降る夜の町中で男と会った時から長い懐中電燈を持っていたが、別れのシーンでこうして使ってくるとは。


p.87

太陽の断片が見え、土の床の真ん中に寒さが溜まっているようだった。

p.88

男は店の中心あたり、ちょうど寒さが集中しているように思われる地点を眺めていた。

こういう何気ない情景+仕草の描写がすげー上手いんだよな。実際に店の中心に寒さが集中しているかどうかは置いといて、このタイミングでこう描写されることに説得力があるというか、本当に寒さが溜まっている気になる。し、それがこの場面、男の心情、それを見る「私」の空気感みたいなものを一挙に演出してしまっている。

数行あとで「女は湿っぽく曇った窓から目を離し、男と同じように、店の真ん中を見つめ始めた」ともある。

 

よく考えると、土の床の真ん中に寒さが溜まっている"ようだった"」「ちょうど寒さが集中しているように"思われる"」と、あくまで「私」がそう思っているだけで、男や娘がそう思っているとは限らない。にも関わらず、そんな私の想像・思考があたかも二人の思考に影響を与えているかのようで──その様子を描写するのも「私」である──語りが他者や現実に及ぼす力、というよりむしろ、語ることではじめて「現実」や「他者」なるものが立ち上がってくる事実を細やかにかつ克明に表現している。

 


しれっと看護師と女中が破局してて草

 


Onettiあるある:「〇〇と△△の入り混じった表情/微笑み」 〇〇と△△にはやや相反する単語が入るのがふさわしい
例:p.88「怠惰と警戒心の入り混じった微笑み」

 

応用編
pp.75-76

食堂のドアから入ってきた彼が二人の姿を認め、痩せこけた体を伸ばしながら、軽蔑と警戒の混ざったような表情で近づいてきたとき、女の顔には悲しみも喜びもなく、その姿は若返ったようでいて、一層成熟したようでもあった。

Onetti全部盛りみたいな一文

 

応用編2
p.91「わざとらしい慈悲心と失神したような軽蔑を込めた小声で」/「敬意と不安を込めてこう訊きながら」

表情や姿以外にも「声」に2つの異なった単語を修飾するパターン。特に前者は1単語でなく「形容詞(節)+名詞」とボリュームアップさせている。

 


pp.89-90 えっ!? 娘って本当に男の娘だったの!? どゆこと?
「あの子はあなたの血を分けた娘で」,「あなたたち二人の間に割り込んだこの私こそ、実は邪魔者なのでしょう」

でも男ってそんなに年いってないと思うから、娘がそこそこ大きいのと辻褄合わなくね? しかも自分の娘と寝るのはちょっとレベル高い。どういう意味なのか結局わからん

 


p.91

この新発見を物語の冒頭に重ねてみると、すべてがあまりに単純に見えてきた。あたかも、男も娘も、それに女も子供も、誰もが私の意志から生まれ、私が予め決めたとおりに生きていたように思われて、内側から力が溢れてくる気がした。

まんま上で書いたようなことを言っちゃってるのだけれど、これは「私の意志(=想像)によって他者(=現実)が生まれる」という命題の礼賛や宣言というより、むしろ、その命題を自明視していないというか、逆説的にその命題の寄る辺なさをも暗示しているようにも思える。なぜなら、本当に「私の意志(語り)で現実が作られる」のだとしたら、それを「私」が知ることで動揺するはずがないし、このように力が湧いてくるようにも思わないはずだからだ。自分のすることに自分がいちばん驚いて影響を受けているというパラドキシカルな構図。

一見、すべて「私が予め決めたとおり」に思えるが、「私」がこうして驚いて影響を受けていることは「私が予め決めたとおり」ではない。では、本当にすべてを予め決めているのは「誰」か?

 

 

p.94

私はなぜか楽しくなって彼らを見つめ、手足を動かして体を温めようとした。

私の挙動がこわすぎる


p.94

バルコニーを歩く軍曹とグンツは、意図してなのか、寒さに輝く沈黙を、偏りなく固まった夜を一歩ごとに殴りつけていた。

おしゃれな言い回し


p.95

ほとんど息もできぬまま私は、娘があの場違いな総体、靴とズボンとシーツによって作られた、猥らなほど水平な塊の上へ身を屈めるのを見ていた。涙も出せぬままじっと眉を顰めた彼女は、私が数ヶ月前、最初に男が店へ入ってきたとき──死以外に何も残ってはおらず、それさえ誰とも分かち合う気はなかった──から見抜いていた事実を今ようやく理解し始め、その慎ましく不屈な永遠の姿で、自分では何も知らぬまま、いずれ訪れる嵐の夜に備えて身構えていた。

かっこいい締めだな〜
「慎ましく不屈な永遠の姿」「何も知らぬまま-身構えていた」あたりはOnettiあるあるを思う存分使ってる。

 

あー娘は男の回復の見込みがないと知らされていなかったのか。

 


最後でいきなりサスペンス?ゴシックホラー?になったな。
山の小屋でかつてポルトガル女三姉妹+従妹の4人が25歳で死んだ。(「感染」?)という始めの方の記述が意味深で伏線っぽいけどようわからん。

 

ただ、「私」が「すべてがあまりに単純に見えてきた」と言ったのはよく理解できた。
物語の結末がいかにもなクライマックス・幕切れであることを知ると、そこから逆算して、あたかも始めからすべては決まっていた、単純な構図の「物語」だったと思えてくる。・・・という物語一般に読者が抱きがちな感想を、本作の語り手が、自身で物語ながら自覚的に対面している、という点で、本作はある種のメタフィクション、物語についての物語といえる。
こうしたやや複雑な構成をとっているので、最後が「いかにも」でも嫌いになれないというか、まさにその「いかにも」性についての小説だったので、すげえなという感じ。
それに、やはりオネッティを読む醍醐味は話の筋や構成ではなく、「語りの妙」が凝縮された、回りくどく修飾的で意味が掴みづらい洗練された文章を味わうことにある。最後まで文章が素晴らしかった。

訳者あとがきで信頼できない語り手と書かれているけど、これがそうなんだ。

 

90ページ弱の中編に計10時間くらい(期間でいうと一ヶ月弱)かかり、正直ものすごく読み進めるのが大変かつモチベが上がらない作品だったが、不思議なことに、それでも嫌いとは程遠く、とても好みだった。

60年以上も前に書かれた作品であることに驚愕するほどスタイリッシュというか現代的というか新しいというか洗練されている。

 

 

 

というわけで、『別れ』に収録されている3作をすべて読んだ。

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3つとも同じくらい好きかな〜〜〜

語りがいちばん凝ってたのは「失われた花嫁」だったな
("凝ってる" は "読みにくい" とほぼ同義)

 

オネッティ非常に好みでした。また、胸を張って好きだと言えるラテアメ作家がひとり増えた。ただ、ゼッタイに一般受けはしないというか、少なくともストーリーやキャラクターでぐいぐい引っ張る小説ではない。正直かなり読みにくくて大変。(だがそこが良い!)

ラプラタ幻想文学らしい幻想性はあるが、ボルヘス/コルタサルのようにあっと驚くキャッチーな仕掛け・アイディアを中心にしているわけではないので、そこらへんと比較してもかなり地味。地味なんだけど、文章自体はとてもキラキラギラギラ、凝った言い回しが満載で、宝石を拾い集めるような読書が好きなひと向けの作家だと思った。

 

『はかない人生』『屍集めのフンタ』といった長篇も読んでみたいが、一年単位でかかるんじゃないか。長篇でも文章がこんな感じなのかが気になる。キャリアの時期別の文体の変遷も調べたいが、そこまでいくともうオネッティ研究者じゃん

 

 

 

 

本書の見事な書評(私の記事は書評ですらない)

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屍集めのフンタ

屍集めのフンタ

 

 

「天地創造」ドン・デリーロ(『天使エスメラルダ』収録)

 

天使エスメラルダ: 9つの物語

天使エスメラルダ: 9つの物語

 

 今読んでいる数冊の小説をバッグに入れ忘れたので、目の前にあった『天使エスメラルダ:9つの物語』を手に取り、冒頭の1編を読んだ。

 

 

天地創造 ("Creation" 1979年発表)

 

空港で男女が待ちぼうけする話とだけは聞いていた。実際はこんなに空港とホテルを何往復もするとは思ってなかった。

ある島にバカンスに来ている男女2人が帰国するため空港へ向かうが、キャンセル待ちに入れられて何日も滞在を伸ばさなくてはならなくなる。
空港までの車から見える道沿いの森や現地の人々と、ホテルの現代的な設備の差が不気味
清潔・洗練を求めた現代文明のほころびみたいなものを感じる

 

ズレている会話
洗練された不穏
これらがいかにも〜な文学性を醸し出している。

 

p.16

新しい場所の最良の部分は、我々自身の歓喜の叫びからも守られなければならない。言葉は数週間後、数カ月後の、穏やかな夜のために取っておく。そんな夜のちょっとした一言が、記憶を蘇らせるのだ。誤った一言で風景は掻き消されてしまう、と我々は一緒に信じていたように思う。この思いそれ自体も言葉にされぬものであり、我々をつないでいるものの一つなのだ。

乗代雄介みたいなこと言ってる。

 

p.17

「でも、私たちはアメリカ人よ。ご一緒しましょうと誘うことで有名なのよ」

 

p.18

「あなたって、退屈と恐怖が私にとって同じであることを理解した唯一の男ね」

 

 

ジルと僕は夫婦じゃないのか?
なぜジルだけ飛行機に乗せたんだ。1人しか乗れなかったのか、クリスタと不倫するためにわざと残ったのか。


p.23

すべてが新しいとき、喜びは表面的なものとなる。僕は彼女の名前を声に出して言うこと、彼女の体の色を挙げていくことに、不思議な満足感を覚えた。髪と目と手の色。新雪のような乳房の色。陳腐なものは何一つない気がした。僕は一覧表を作って、分類したかった。

ヤっとるやないかい!

 


p.27

「ドイツ語を喋って」と僕は言った。
「どうして?」
「それを聞くのが好きだから」「ドイツ語、知ってるの?」
「音が聞きたいんだよ。ドイツ語の音が好きなんだ。重金属が詰まっている感じ。"こんにちは" と "さようなら" をどういえばいいかは知っているよ」
「それだけ?」
「自然に話してみて。何でもいいから言ってみて。打ち解けて話す感じで」
「ベッドでドイツ人になりましょう」

結局クリスタはドイツ人ではないの?

 


会話のやり取りを追うのが結構たいへん。
ひとつひとつの喋ってる内容は別に難しくないが、それらの繋がりが断絶していることが多く、流れを捉えようとするのは無駄かもしれない。

 


p.30

僕は繰り返し外に目をやり、空を見上げた。前景では、色褪せたスカートをはいた女たちが道沿いに並んでいた。二人か三人ずつ定期的に現われ、湿った光の中に入って来る。骨太の顔、何人かは籠を頭に載せ、こちらを覗き込む。肩をいからせ、剥き出しの腕はピカピカ光っている。

既視感はソーンダーズのセンプリカ・ガールだ。そこに身近にいるのに、見えているはずなのに、同じ人間として扱わずいないかのように振る舞う不気味さ。


うーん・・・・終始「「いかにも文学」」って感じの印象だけ受けて終わった。デリーロやっぱ苦手かもしれん・・・
静かで淡々と、不穏で不条理な展開を記述し、ところどころで抽象的で解釈を喚起するような文章をまるでノルマのように入れ込んでくる。お文学として、いろいろ考えながら読むのには最適かもしれない。のっとふぉーみ

 

 

 

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「センプリカ・ガール日記」収録

 

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「生命線」「最後の恋」「女王人形」「チャック・モール」カルロス・フエンテス

 フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇』の他四篇を読んだ。

 

 

生命線

銃殺されるのを待つだけだった革命軍兵士の4人が監獄を脱出し、再び捕らえられ死ぬ


リーダー格で主人公のヘルバシオ・ポーラの感情の動きが目まぐるしく身につまされる。

こういうザ・男の血なま臭く乾いた話を読むのは久しぶりな気がする。ルルフォ『燃える平原』とか

各人の内面の吐露が〈〉で表されていて、独特な味わい・切迫感を醸し出している。

短いなかで4人のキャラを立たせている。


p.37

できれば、仲間のひとりひとりに代わって俺が牢獄から中庭へ歩いてゆきたかったんだが、そうはさせてくれなかった。俺は貧乏くじを引かされたんだ。

 

p.40

川底は血まみれの軍帽の羽飾りで干上がり、自分では気づかずに生贄の儀式を行っている人々のざわめきが聞こえ、旱魃と荒廃が作りだした多島海の島々を思わせる山々が連なっている。

「川底は血まみれの軍帽の羽飾りで干上がり」って? 川に兵士の死体が散乱している様子を婉曲的に表したのか、マジで軍帽の羽飾りで干上がったのか……
その次の生贄の儀式もよくわからない

 

p.45

「誰が勝つかなんてわかりっこない。すべてが勝つんだよ、ペドロ。誰も彼も生きているが、生き延びたやつが勝ちだ。この国じゃ、全員生き延びているだろう。さあ、立て、立つんだ」

そりゃ国民は生者だけで構成されてますけど……


p.46

頼むから足かせをしてくれ、でないとごろごろ転がり落ちてしまう。何かに縛られている方がいいんだ。生まれ落ちた瞬間から縛られているが、それが俺に科せられた逃れようのない罰なんだ。

 

 


最後の恋

子供の浜辺での遊び
やけに「無時間的」を強調するな…


若さと老い、清潔と猥雑 を前面に押し出したバカンス
バカンスの最中だけ若い女の子を雇って関係を持っている?
しかし雇った彼女は若くて健康な肉体の男と楽しそうにイチャイチャしている。その様子を嫉妬気味に観察し、2人の会話を妄想する中年男性
ウエルベックみたいだ


p.72

彼女は後でいろいろ説明するだろう。どういう説明をするんだろう。リリアは説明をするだろうか。ハビエルなら、リリアに説明してくれと言うだろうか。リリアはハビエルに説明するだろうか。

なんかいきなり変な狙った文章になって笑う。でもここがこの短篇ではいちばん好き


p.73

すべての人間がそういう醜い行いをしていると言うのか、そんなばかな! 彼は苦々しげに顔を歪めると、そう呟いた。誰もがそういうことをしていると言うのなら、わしの権力、わしの罪の意識が無意味なものになってしまうではないか。

あ、そういう。進んで悪者・加害者でありたいわけね。余計にキモいなぁ


中年ですらなくて老人なのか……
キモい爺さんがちょっと感傷的になる誰得な話だった。
なんか最後のほうは田山花袋『蒲団』みたいになってて笑った。
何が良いのかわからない

 


女王人形

 

pp.84-85

足音は庭園に敷き詰められた砂利の上を駆けてくると、僕の背後で立ち止まったが、それがアミラミアだった。彼女が何もしなかったら、きっと気づかなかったはずだが、あの午後、彼女はいたずら心を起こして、頬をぷーっとふくらませると、眉をしかめてタンポポの冠毛をふっと吹きかけて僕の耳をくすぐった。

なんだこのファンタジックで都合が良すぎる少女!? 7歳か……

 


イメージは『Summer Pockets』の紬

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やっぱり客体化された女性像をどの短篇でも扱ってるよなぁ
「純な魂」は女性主人公だけど、あれもやっぱり魔性の妹として客体化してる
(彼女を語り手に設定したのはその魔性を効果的に演出するため)

 

 


タイトルから察してはいたが、やっぱりkey作品のサブヒロインルートみたいな話(シナリオ)だった。(『サクラノ詩』にもこんなヤツいたな)
それにゴシックホラー味をふりかけた感じ。
フエンテスだーまえだった……?

 


チャック・モール

再読。『20世紀ラテンアメリカ短篇選』でかつて読んだことがある。
やっぱり、王道のホラー・怪談だなぁと思う以外に特に感慨はない。(そもそもほとんどホラーを読んだことがないのに「王道」なんて分かりようがないが、そうした素人が何となく「王道のホラー」だと感ずるところのもの、と受け取ってほしい)

女性が一切出てこないのが珍しい(「生命線」もそうか)
何だかんだで客体化された女性が出てこないと(すなわち都合よく消費できる女性が出てこないと)楽しめないのだな、と思い知らされて悩ましい。一丁前に悩んでいる素振りを見せずに開き直ればいいのかもしれないが。


p.12

キリスト教を供犠と典礼という熱情的で血なまぐさい側面から眺めれば、これはインディオたちの宗教が装いを変えてそのまま自然に拡張されたものだと考えられるだろう。だから、慈悲だの、愛だの、右の頬を打たれれば、左の頬を差し出せといったものがまったく無視されるんだ。メキシコでは万事、この調子だよ。人を信じようとすれば、その人間を殺さなければならないというわけさ。

(メキシコの)宗教の本質は血なまぐさい暴力性、ってこと?

 

p.23

僕はいまだに子供っぽい考えから抜けきれないでいるのだ。誰が言った言葉か思い出せないが、幼年時代というのは歳月によって食い荒らされた果実なのだ。僕は気がついてなかったが……。

 

 

訳者(木村榮一さん)による解説

 

pp.222-223

ここで「チャック・モール」の主人公フェリベルトを思い返してみると、彼はインディオが作った民芸品や古い時代の遺物や石像を収集し、自らインディオの文化のよき理解者をもって任じているが、これが真の理解でないことは言うまでもない。相互理解、それも対立する文化の相互理解というのは、民芸品や骨董品、古代の遺物をおっとり優雅に鑑賞するといった類のものではない。相手の文化を認めることが、時には自らがよって立っている文化的基盤を失うことになりかねないのである。その意味では、異文化間の相互理解というのは、人を死ぬか生きるかのぎりぎりの瀬戸際まで追いつめることもある。

なるほど〜。単なるゴシックホラーとか言って申し訳ありませんでした。
理解者になったつもりで「おっとり優雅に鑑賞」って、まんま海外文学を読んでいる自分にも刺さるよなぁ。勉強せねば。
(ただ、こうして明確な「作者からの立派なメッセージ」に小説を還元させてしまうのも考えもので、楽しむための読書と、学ぶための読書のバランス──両者の不可分性をめぐる態度が難しいところだ)


フエンテスバルザック信者なのね。リョサがフローベリアンだったように。
ラテアメ勢を読んでいくと結局フランス文学に行き着くなぁ

 

えっ、「生命線」は『澄みわたる大地』からの、「最後の恋」は『アルテミオ・クルスの死』からの抜粋なの!?
マジか、あのキモいおっさん、アルテミオ・クルスだったのか……

 

「女王人形」のアミラミアなど、フエンテスの作品によく登場する客体化された怪しく魅力的な女性像は、単なるヒロインではなく、エーリッヒ・ノイマンの言うところの「太母」であり、メキシコの根であるとかなんとか。ふーん

 

 

というわけで1冊読み終えたわけだが、「純な魂」がダントツで面白く好みだった。「アウラ」も結構面白かった。 他は微妙だったが、そのうち2作は後書きで「実は長篇の一部なんです」と知らされる罠。それじゃつまらなくても文句言えないやないかーい!

でも、『アルテミオ・クルスの死』を読むモチベが正直下がったな……あんなキモいおっさんに長々付き合いきれねえよ……

 

丸々1冊フエンテス読んだのは初だったが、どうだろう……うーん……「純な魂」は好きだけど全体としてはゴシック小説好きじゃないとキツいかも。文章も、作品ごとに仕掛けてくることはあれど、文体自体にそこまで魅力があるわけではないし。

1冊読んで判断するのは時期尚早とは言え、優先順位は下がったかもしれない。

 

 

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なんか岩波文庫がアマゾンの検索で出てこないんだけどなぜ!?

こないだは出たのに。

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澄みわたる大地

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ある島の可能性 (河出文庫)

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 老いて若い恋愛肉体関係を持てないことを嘆く中年男性の小説ならこっちのほうが好き

 

 

「アウラ」カルロス・フエンテス

 

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前記事に続き、岩波文庫フエンテス短篇集を読んだ。

 

 


アウラ

「君」……二人称小説だ!しかも『子供の領分』のような現在形

バス停でバスが停車せずスピード落とすだけってマジかよ。メキシコ…というか海外ではそれが一般的なのか?


老人の家に住み込みで雇われるって『ムーン・パレス』を思い出す


ホラーか?
指示の通りに建物を進んでいくなんてまるで「注文の多い料理店」だ

兎をベッド上に侍らせているお婆さん……
うさぎが日常に出てくると途端に幻想的な雰囲気を帯びるなぁ
コルタサル「パリにいる若い婦人に宛てた手紙」然り、「日常に潜む怪奇」の普遍的なモチーフなのか?

 


p.164

後ろを振り向いたとたんに、王冠のように並んでいる献灯の瞬く光に目を射られる。もう一度夫人に視線を戻すと、その目が異様に大きく見開かれている。目はまわりを囲んでいる角膜と同じ色をしているが、まるで液体のような透明感をたたえて大きく見開かれている。夫人は数分前までその視線を気取られまいとして目を閉じ、厚い瞼の皺の下に隠していた。いま君の目に映っているあの透明な目に影を落としているのは黒い瞳孔だけだ。その視線がふたたび乾いた洞窟の奥に身を潜めようとしている──退却しようとしているんだ、と君は考える。

すげー幻想的でまどろっこしい文体だ。明らかに雰囲気を作りに来てる

 


p.165

アウラ……」
君があの寝室に入ってはじめて夫人が身体を動かす。老女がもう一度手を伸ばすと、すぐそばで激しい人の息づかいが聞こえる。夫人と君の間にもう一本別の手が伸びてきて、老婆の指に触れる。横を見ると、若い娘がそばにいるが、真横にいる上に、突然音もなく現れたので、全身を見ることができない。たしかに音はしているのだが、その時は聞き取れず、あまりにも静かなので後になって音がしていたことに思い当たるといった類の物音だ。

びっくりした〜!音もなく真横から若い娘の手が現れるとかどんな状況だよ

 


p.166

寝室のまぶしい光が恐ろしいとでもいうように、少しずつ目を開けて行く。君はようやく、波のように打ち寄せ、泡立ち、静まって緑色になり、ふたたびふくれあがる海のような彼女の目を見るだろう。君はその目を見て、いや、思い違いだ、彼女の目は君がすでに見たことのある、あるいはいずれ見ることになるはずのべつの緑色の美しい目と変わるところはないと自分に言い聞かせるだろう。いや、自分を欺いてはいけない。打ち寄せ、変化して行くあの目は、君だけが予見し、求めることのできる風景を差し出しているのだ。

なんだこの文章!?!? 意味が取れない
アウラが現れてハッキリと文体が変わった。
>読了後追記:そういうことか。ここで既に伏線が貼られていたのね。


現在形だけでなく「君は〜するだろう」という推量・未来形の文も結構混じってきてる。

 

光と闇、視覚的な演出にかなり凝っている
映像的なことを小説でやろうとしてる?

 

自宅に荷物を取りに帰ろうとしたら止められたり、食卓に人数以上の食器が並んでいたり、屋根の上の庭で猫が燃えていたり、そんな庭や猫は存在しないとお婆さんに言われたり、めちゃくちゃ不穏だ〜〜〜生きて帰れる気がしねえ

 

p.186

目のところにぽっかり穴が開いた顔が間近に迫ってくるのを見て、声にならない叫び声をあげ、汗まみれになって目を覚ます。その手が君の顔と髪の毛をやさしく撫で、その唇が聞き取れないほどかすかな声でささやきかけ、君を慰め、静かにして、愛し合いましょうと語りかける。

悪夢から目を覚ましたっちゅーのに次の文もたいして変わらない光景が平然と続くのこわすぎ

 


p.189

「清らかで汚れない生活を送るにはひとり暮らしがいい、そう考えて皆さんは私たち女に孤独を強いるんですが、そういう人たちは、ひとりで暮らす方がかえって誘惑が多いということを忘れているんですよ」
「どういうことかよくわからないんですが」

本作でも女性思想について触れている
ズレまくってる会話がうまい

 


p.198

「これからお遊びをしましょう。あなたは何もしなくていいわ、私にまかせてくれればいいの」
オパール色の淡い光があたりを金色に染め、部屋にあるものやアウラをひとつに溶かし込んでいるが、ベッドに腰を下ろした君はその光がどこからくるのかと思ってまわりを見回す。光源を探して天井を見上げている君の様子を、アウラはそっとうかがっているのだろう。その声の感じから、彼女が君の前にひざまずいていることがわかる。
「空は高くも低くもなくて、私たちの上と下にあるの」

(読了後メモ)2人の相対的な位置関係と、光の空間的な配置と、それからこの建物=小説じたいの密室空間/時間を統合して扱っている文章がほんとうにうまい。最後の台詞はそれ単体で取り出してもかっこいい

 


p.203

それらの品物の名前をひとつひとつ読み、手で触れ、使用法や内容説明に目を通し、商標を声に出して読み上げるが、他者、名前も商標も、本来あるべき堅固さも欠けている他者のことを忘れようとして、そうしたものにしがみついているのだ。アウラはいったい僕に何を期待しているのだろう?

他者=アウラのこと?

 


p.205
「もうひとりの人」? やっぱりアウラとコンスエロ夫人は一心同体なのかな
片方が片方を乗っ取っているか、そもそも存在の根本から複製のようなものか

 


p.211

三枚目の写真には、軍服ではなく平服を着た老人と並んで、庭のベンチに腰をおろしているアウラが写っている。その写真は少しぼやけている。そこに写っているアウラは最初の写真ほど若くはないが、彼女であることはまちがいない。そして、彼……いや、写っているのは君だ。

なるほど〜これがしたかったがゆえの二人称なのね

 


p.212

君は時計に、人間の思い上がりが生みだした、偽りの時間を計るあの役立たずのしろものに二度と目を向けないだろう。時計の針は、真の時間を欺くために発明された長い時間をうんざりするほど単調に刻んでいるが、真の時間はどのような時計でも計ることはできない。まるで人間を嘲笑するかのように、致命的な速度で過ぎ去ってゆくのだ。ひとりの人間の人生、一世紀、五十年といったまやかしの時間を君はもう思い浮かべることはできない。君はもはや実体を欠いたほこりのような時間をすくい上げることはできないだろう。

時計で計れる単調な"まやかしの時間"の否定
本作でもメキシコ(新大陸)とフランス(ヨーロッパ)の対比が行われているが、真の時間(流動)⇔ 偽の時間(単調)という対立もここに重なってくるのだろうか

 


p.213

何時間も口をきかなかったせいで、まるで人の声のようにくぐもっている自分の声を聞くだろう。

こわっ。もう人ではなくなっているのか……

 


ーおしまいー

 

なるほど。
フェリーペ(「君」)、コンスエロ夫人、アウラの三角関係かと思いきや、夫人の夫リョレンテ将軍を含めた四角関係であり、そして本質的には男と女、たった2人の間の時間を超えた永遠の愛の話だった。
「純な魂」で一瞬勘違いした、いつの間にか視点人物が入れ替わったり人物の境界が融解する仕掛けがこっちではガッツリ使われていた。コルタサルっぽいな〜と思ってしまうが、時系列ではこっちが先だろう。
怪奇幻想ものとしてはポーの流れは当然汲んでいるのだろうなぁ

わりと正統派の怪奇小説なのに、ヨーロッパと対比する形でのメキシコのアイデンティティ……といった要素を主題に組み込んでくるのがとてもフエンテスらしい。

屋敷の壁を食い破るネズミやら松明・月などの照明描写、リョレンテ将軍の回想録、真っ暗な庭で栽培されている植物などなど、様々な要素が伏線としてキレイに回収され、非常に完成度の高い作品だった。
きれいにまとまり過ぎてるのは好みではないが、本作はみんな大好きファム・ファタルものだし、入れるべきところでギアを思い切り入れる文章にも凄みを感じ、かなり楽しめたというのが正直なところだ。


訳者解説によると、本作執筆中にパリで上映されていた溝口健二監督『雨月物語』と上田秋成による原作に衝撃を受けたらしい。川端『眠れる美女』にマルケスが影響されて『わが悲しき娼婦たちの思い出』を書いたように、日本の作品がラテアメ作家に意外と影響を与えていることが多くてびっくりする。そういえばプイグは小津安二郎成瀬巳喜男の大ファンだったらしい。

 

 

→次回

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子供の領分

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全編現在形ヌーヴォー・ロマン

 

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

 

 老人のもとで住み込みバイト

 

 兎, あちらとこちらが入れ替わる幻想怪奇小説

 

悪い娘の悪戯

悪い娘の悪戯

 

 大好きなファム・ファタル(=ニーニャ・マラ)小説

 

 

 

「純な魂」カルロス・フエンテス


ラテンアメリカ文学好きと言っておきながら未だほとんど読んだことがないフエンテス
この作家の名を初めてちゃんと認識したのは、セサル・アイラ『文学会議』──主人公のマッドサイエンティストが尊敬する作家フエンテスのクローンを大量生産して世界征服を企む──を読んだのがきっかけだ。最高の出会いである。


作品としては、その後に岩波文庫野谷文昭氏が編纂した『20世紀ラテンアメリカ短篇選』に収録されている短篇「チャック・モール」を読んだだけだ。この短編は怪奇ゴシック小説の傑作らしいが私にはあまりピンとこなかった。それも、今までフエンテスをしっかり読もうという気にならなかった遠因かもしれない。

 

フエンテスといえば、『澄みわたる大地』『テラ・ノストラ』そして最近岩波入りした『アルテミオ・クルスの死』(ふくろうさんの書評が良かったので積んである)といった大長篇こそ本命っぽいのだが、いきなりそこに挑んでも砕け散る予感しかしない。そんなとき、フエンテス入門としてうってつけの岩波文庫の短篇選『アウラ・純な魂 他四篇』が自室の本棚に見えたので(これ買ってたんだ……過去の自分ナイス!)喜び勇んで手にとった。

 気が早いが、本書が良かったら〈フィクションのエル・ドラード〉から出ている『ガラスの国境』を読んでみたい。積んでる『アルテミオ・クルスの死』にも挑戦したい。
そんな楽観と期待を胸に、まずは表題作の片方から読み始める。

 


・純な魂

ちょっとヤンデレっぽい女性がある男性に向けた1人語り書簡体?小説
この形式はやっぱりパワーがあるな
フエンテスの技巧によるものかはまだわからんが


やたらステロタイプな幼馴染エピソード
毎正月メキシコの海辺でふたり戯れた
3歳差かあ
尊い……

 

pp.121-122

海賊ブラッド、サンドカン、アイヴァンホーといったように新しい冒険をはじめるたびにあなたは変身したけれど、私はいつも名前もなければ、これといった特徴もない恐怖におののくお姫様という役どころだった。

次々と名前を変える勇敢な冒険者と、名前のない囚われのお姫様
『彼女の「正しい」名前とは何か』
ちょい家父長制への攻撃/皮肉っぽい?

 

p.123

私たちは真面目だったけど、決してもったいぶったりはしていなかった、ねっ、そうでしょう。うまく説明できないけど、私たちはきっとそうとも知らずお互いに支え合っていたのね。それはたぶん裸足の足の裏に感じとれる熱い砂や夜の静かな海、歩いている時にぶつかる腰、あなたがはいていた仕立ておろしの白くて長いズボンや買ったばかりの私の裾の広がった赤のスカート、そういったものと関係があったんでしょうね。


p.123

アン・ルイス、あなたも知っているように、たいていの男性は十四歳で成長が止まってしまうのよ──さいわい、私たちは十四歳にとどまってはいなかったけど。いつまでたっても十四歳のままで、自分が不安なものだから人に残酷なふるまいをする、それが男性至上主義の正体なのよ。


アン・ルイスは男性至上主義に染まりたくないからメキシコを飛び出してジュネーヴへ行ったというが、やっぱり根っからの男性至上主義に囚われているように思える。
風俗が嫌で女性をちゃんと理解したいという心がけは紳士かも知れないが家父長制と紙一重だ。


p.126

「私のことを忘れないでね。どうすればいつも一緒にいられるか、その方法を考えてね」

 


あれ、もしかして兄妹って比喩じゃなくてマジのやつ?
家が隣の幼馴染かと思ったらお兄ちゃん大好き妹だったのか。

 


p.133

あなたの手紙を読むたびに、これまでよくないとされてきたことすべてを聖別する必要があるということに気づきはじめたの。手袋をくるりと裏返しにしなければ生きてゆけない、そう自分に言いきかせているのよ、フアン・ルイス。いったい誰が私たち二人を引き裂いてしまったのかしら。奪い取られたものすべてを取り戻す時間なんてないわ。私はべつに何かしようと言ってるんじゃないのよ、プランを立てて何かしようなんて考えていないわ。私はラディゲと同じことを考えているだけなの。「純な魂のする無意識の工夫工面は、邪な心のする企みよりもはるかに特異なものである」

冒頭に引かれているように、題はラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』からの引用。

 


pp.135-136

クレールのそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。日曜になると、あなたたちは手をつなぎ、ひと言も口をきかずに何時間も歩いたのね。公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていた。長い間散歩しているうちに落葉を燃やす匂いが鼻をつくようになったけど、そんな風に散歩していて、むかし私たちが海岸を歩きまわった時のことを思い出したのね。

「公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていた、とあなたは書いた」や「公園には、枯れたヒヤシンスの残り香が漂っていたのね」ではなく、「漂っていた」と書くのには単なる省略以上の効果があると思う。
このように、フアンが経験した事柄で、ときおり伝聞調が剥がれてあたかも語り手がその場にいたかのように描写されるのがゾッとしていい。
普通の三人称小説における越権行為を一人称の語り手の狂気を演出するために適切に使用している。
ストーリーが割とありきたりなぶん、地味に技巧的というかマニエリスティックだ。露骨な実験性まではいかず、表層は通常の書簡体小説になっているのも技術の高さを感じる。

 

文章は事前に身構えてたよりずっと読みやすい。
古典的な「おはなし」の趣がある

 

 

いや〜妹が暴走してるだけかと思いきや、兄の方もけっこうヤバくないか
ジュネーヴで出来た彼女をかつての妹との思い出に重ねて比較して、それを妹への手紙に書く…
伊達に近親間恋愛してないな

 

p.136

僕が部屋でひとりでいる時は、いつも君のことを考えていたんだ。そうした時間が今、僕のものになったんだ。君の背中が僕の胸にぴったりくっつき、僕はうしろから君の腰に腕をまわして一晩過ごし、夜明けを待つ。君もそのことに気がついて、振り向くと、目を閉じたまま僕にほほえみかけるんだ、クレール。

きめぇ〜〜〜
妹と彼女の区別がつかなくなってるやん
でも「どうして手紙をくれないんだ」と言ってるあたり、ちゃんと区別したうえで敢えていもうとに宛てて「クレール」と呼びかけているようにも思える。余計にキモいわ。最高


p.137
うわっ!!!!!
え!?!?マジ?!?
やりやがった……そういうことか。
こんなにキャッチーな仕掛けを臆面もなくやるとは
伊達に実験的なラテアメ文学の源流のひとつとされてないな(そうなの?)

あちらとこちらが入れ替わる。コルタサルみたいだが、夢と現実の反転ではなく、あくまでリアリズムに基づいた、メキシコ(ラテンアメリカ)とスイス(ヨーロッパ)という歴史的文化的空間が小説の語りの構造を通してすり替わり融合する。
ラテンアメリカ性」みたいなのがこの作家の追求するテーマらしいけど、それがすごくわかり易くあらわれてるなぁ


いや、違った。早合点の勘違いだった。
上で書いたことはぜんぶ誤り
てっきり語り手が妹クラウディアから彼女クレールにすり替わったと思ったけどそんなことは無かった。ただクラウディアが現在スイスに滞在しているため「あなたはひとりで生きてゆこうと考えてこちらに来たんでしょう」と語っているだけだった。

 

p.139「私は癖のない金髪を撫でつける」
クレールもクラウディアも金髪ストレートで明らかに類似性をもたせてはいる。


p.140
まぁそうなるよな、さんざん仄めかされていたため驚きはない(こっちは早とちりではない)
ヤンデレとか形容したのが申し訳なく思えてきたが、でもやっぱり並々ならぬ執着を互いにしているのは間違いないし…

 

p.142

僕を見る彼女の目つきが、君にそっくりなんだよ、クラウディア。君が海岸の岩にしがみついて、食人鬼から助けてもらおうと待っている時と同じ目なんだ。君は、僕が君を助け出そうとしているのか、それとも牢番になって君を殺そうとしているのかわからないふりをしている。けれども、時々ぷっと吹き出してしまって、一瞬のうちにせっかくの遊びが台無しになってしまうこともあったね。

クレールとの話にクラウディアとの記憶がシームレスに介入してきて乗っ取る。どちらのことを話しているのか曖昧になる。

 

 

pp.143-144

私はどちらでもいいのよ、フアン・ルイス。でも、私ひとりでは決められないのよ。生活も仕事も成りゆきまかせでやってゆくというのなら、それはそれでいいのよ。それとも、生活も仕事も今のまま続けてゆくというのなら、それでも構わないわ。だけど、仕事はその場かぎりのもので、愛は永遠だとか、その逆だといった考え方にはついて行けないのよ、わかるでしょう

(フアンからの手紙中の)クレールの台詞
仕事と生活(恋愛)の扱い方がバラバラなのには反対ってどういうことだ

 


pp.144-145

自分自身の闇の中で、秘められた知性を研ぎすまし、魂のほんのかすかな動きにも敏感に反応するよう感受性を鋭敏にした上で、自分の知覚、予知能力、現在の厄介な問題を弓のようにぎりぎり引き絞った。未来を見つめ、それに狙いをつけて的に当ててやろうと考えたんだ。矢は放たれた。けれども的がなかったんだ。前方には何もなかったんだよ、クラウディア。手の先が冷たくなるほど懸命になり、苦しんだ末に心の中に作り上げたもの、それが打ち寄せる波に洗われる砂の町のように脆く崩れ去ったんだ。けれど、消え去ったわけじゃない、記憶と呼ばれるあの大海へ帰って行った、つまり、少年時代やいろいろな遊び、僕たちの浜辺、喜び、むせ返るような暑さといったものへと回帰して行っただけなんだ。僕たちは将来に向けていろいろなことを計画したり、びっくりするようなことをしたりしているけれど、すべてはあの頃の模倣でしかないんだ。

兄もめちゃくちゃ幼少期の妹との思い出に執着してんなー

 

p.145
クレールからクラウディアに宛てた手紙の末尾「妹クレールより」がクソ怖い
宣戦布告やん

 


pp.146-147

私たちに愛、知性、若さ、沈黙以外の何ものかになるようにと求めてくるものがあるけど、そういうものを断固として撥ねつけなければいけないわ。まわりの人たちは私たちを変えて、自分たちと同じ人間にしようと考えているの。私たちを許せないのよ。フアン・ルイス、負けてはだめよ、お願いだから、あの日の午後、文学部のカフェで私に言った言葉を忘れないでね。そちらに一歩でも踏み出したら、もうおしまいよ。二度と戻れなくなるわ。

「負けてはだめよ」って切実だなぁ…
若者と大人を素朴に対立させて前者の立場から語りながら、後者へと飲み込まれてゆく絶望を記述する、かなり古典的な青春小説の枠組みも含んでるんだな。トニオ・クレエゲルのような。

 


p.148
妊娠→流産→自殺も非常に典型的な展開。
ここで男女カップルの人生観・仕事観のすれ違いから、メキシコを離れる動機だった男性至上主義へと繋げるわけね。はいはい。よく出来てるな

 

え、どゆこと!?
クレール宛の手紙にクラウディアのサイン?

訳者解説を読んでやっと理解した。そういうことか。別に流産が原因で自殺したわけじゃないのね。
クラウディア怖いし、クレールの父親の彼女への態度もめっちゃ怖い。
どんな手紙を送ったら自殺に追い込めるんだ。流産との時系列もよくわからない。

 

クラウディアはフアン・ルイスにとってメキシコに残してきた自分の半身でありアイデンティティである、と解説されていた。まさにその通りだよなぁ
成熟したヨーロッパに浸り大人へと足を踏み入れたことで、青春期の自我を体現するメキシコの半身から猛烈な反発を受け、崩壊してしまう。
フアンの歴代の彼女がヨーロッパ諸国を象徴してるというのも反論しようがないがあまりにシステマチックで笑った。

こういうウェルメイドで隙のない八方美人的な小説は好みでないんだけど、これはかなり好きだなぁ


旧大陸/新大陸のアイデンティティ云々は置いといて、男女の狂おしい結びつきを女性側から淡々と語る形式と、失われた青春へのノスタルジーと切迫的な崩壊というテーマが非常に好み。
あと男女の三角関係モノでもある。性癖

妹小説としてもかなりパワーがある。ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない
また兄妹の近親姦っぽい雰囲気の短篇としてコルタサル「占拠された屋敷」に比肩する出来栄えだろう


家父長制や男性至上主義については、この兄妹を一心同体とみなせば表層的には無化される(自分が自分を抑圧することは(最もナイーブな次元ではとりあえず)できない)が、しかしより深い次元では、個人のアイデンティティの中に根を張る、抽象的で複雑なレベルの抑圧として立ち上がってくるのではないか。
つまり、本作で描かれるクラウディアやクレールといった女性も、〈男性〉的主体の内部に位置するイマジナリーな女性であり、女性のひとり語りの形式を採ってはいるものの、根本的には男がその内面化された家父長制から勝手に自分を引き裂いて自己崩壊する話のようにも思える。
まーあんましフェミニズム的な読みばかりやっていても仕様がないが。付け焼き刃だし


付箋を貼った文をタイプしてて思ったこと。
素朴でわかり易い文章と言ったものの、つくづくいい文章だなぁと感じる。
プロットも形式も文章も好みで、お気に入りの短篇がまた1つ増えた。大満足

 

 次は中編「アウラ」を読む。 

 →読んだ

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アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

 

 

 

 

「占拠された屋敷」

 

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『ズボンをはいた雲』マヤコフスキー

 

「自分では到底理解できないようなぶっ飛んだ小説に出会いたくて海外文学を読んでいる」と公言するにも関わらず、詩を一切読まないのはヤバいんじゃないか?という焦りがしばらく前からあった。しかし日本の現代詩にはあまり食指が動かず、薦められた小笠原鳥類や中尾太一の詩集も秒で挫折してしまった。

(ちなみに現代短歌には数年前の一時期どハマりしていたが今は全く興味がない)

そこで、国内小説より海外小説を好んでいるように、海外詩から詩に入門すればいいのでは?という知見を得て、オススメの海外詩人を幾つか教えてもらった。そのうちの1つが、ロシアの詩人マヤコフスキーである。名前すら全然聞いたことなかった。

 

図書館へ行き、この著者によるペーパーバックの薄い詩集が何冊か並ぶなか、『ズボンをはいた雲』を手にとった。(「長靴をはいた猫」みたいだ)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 

めっちゃ睨んでくるやん……

 


記憶にあるかぎり、マジのガチで海外詩なんて一切読んだことない(書庫でパウル・ツェランヴァレリーの詩集を一瞬開いただけで「読んだ」カウントしていいならあるけど。義務教育課程で知らない間に読まされた可能性はあるが覚えてない)ので、人生初の海外詩読書だ!!!うおおおおおお楽しみ〜〜〜


詩の読み方なんて何も知らない※が、とりあえず率直に感じたことを書き留めていく。

※「私は小説の読み方なら知っている」と言うつもりはない。まぁこういう一般人の趣味レベルの文学なんて「好きなように読めばいいんだよ」とNPC的に言いまくってるだけで""それっぽさ""を醸し出せるだろう。研究者レベルでは話は別

 

 

pp.17-18

ぼくの精神には一筋の白髪もないし、
年寄りにありがちな優しさもない!
声の力で世界を完膚なきまでに破壊して、
ぼくは進む、美男子で
二十二歳。

これsoudaiさんの記事で読んだことある!!!ってなった。
あーあのときの詩人かマヤコフスキーって

kageboushi99m2.hatenablog.com

 

 

 

ザ・思春期/青年期の男子って感じの若さと自負と情熱がほとばしる詩
要するに何を言いたいのか/言ってるのか、かなり把握しやすい。初心者にうってつけかも

冒頭から「君ら」「あんた方」と、読み手(≠読者)に向けて痛烈に語りかけ…いや宣言をしてくる。未成年の主張みたい

詩って小説よりも一層、語り手/語られ手 が希薄でふわふわしてるイメージがあったから、こんなに誰が詩を書いていて誰に聞かせているのかが前景化しているのは新鮮だな

 

 

p.25

きこえる。
ベッドから降りる病人のように、
しずかに
神経がひとつ跳び下りた。 
そして今、
初めはかずかに
うごめいていたが、
やにわに駆けだした、
猛り立って、はっきりと。

神経の擬人化!

 

 

p.29

恋するぼくはもういちど博打を打ちに行こう、
眉の曲線を炎で照らしながら。
かまうもんか!
焼け落ちた家にだって
時には宿なしの浮浪者が住むだろう!

瞳が恋の炎に燃えているのを直接描写せず、「眉の曲線を炎で照らしながら」と婉曲的に表現するのいいな

 

 

pp.30-31

おおい!
みなさん!
賽銭泥棒が、
頭脳犯罪が、
人間虐殺が
大好きな人たちよ、
これより恐ろしいものを
見たことがありますかね、
ぼくが
泰然自若たるときの
ぼくの顔
より恐ろしいものを?

いきりキッズみたいで草

 


失恋に狂う自分を、火事で焼け落ちる建物に喩える。
人間要塞カポネ・"ギャング"・ベッジか?

 

えーと……詩を要約するのは無粋でナンセンスであることは承知でまとめると、
「俺は美男子で若さに満ちあふれているけど失恋して激情がほとばしる!うおおお」って感じ?(ひどい)

 

 

pp.36-37

かつてぼくは思っていた。
本はこうして作られると。
詩人がひとりやって来て、
苦もなく口を開く、
と、たちまちお人好しの意気揚々たる歌が始まる。
とんでもない!
事実はこうだ。
歌が始まる前に、あいつら、
足を肉刺だらけにして永いこと歩き回り、
心臓のへどろのなかでは、愚かな赤腹が弱々しくもがく。
脚韻を軋ませながら、あいつらが
恋と鶯で何やらスープらしきものを煮え立たせる一方、
舌なしの町は身をよじる、
叫ぶべき語るべき言葉を持たぬ町は。

 

pp.39-40

こけおどしの眉をゆがめて
町に化粧してやる大小のクルップたち。
口の中では、
死んだ言葉の屍が分解し、
脂ぎって生きながらえたのはただの二人、
「悪党」と、
もうひとり、なんとかいった、
確か「ボルシチ」だ。

詩人たちは
しゃくりあげ、むせび泣きながら、
髪ふりみだして町から逃げ出した。
「こんな二つの言葉では歌いきれませぬ。
乙女も、
恋も、
露に濡れた花々も」

 

えーと……耽美で高尚っぽい詩を理性的に作るのはクソで、もっと(この詩のように)激情に身を任せて「「魂」」でうたえや!!!お仕着せの響きの良い言葉じゃなくて、「悪党」とか「ボルシチ」といった「脂ぎって生きながらえた」単語こそが至高。おすまし顔の知識人はクソ!!!……ってこと?


その(いかにも原始的で若い)主張の是非はともかく、自己正当化のシステムを内部に組み込んでいるのはちょっとダサいなと思ったけど、まぁ主張・言説ってどれもそんなもんか。

 

 

p.41

ひとまたぎ二メートルの
頑丈なぼくらだから、
服従ではなく、八つ裂きにするんだ、
あいつらを、
ひとつびとつのダブルベッドに
何かのおまけみたいにしがみついてるあいつらを!

一人称「ぼく」で冒頭からずっと不遜な言を並べていたが、2に入るといつの間にか「ぼくら」も使われだしている。
主語がデカい。肥大する自意識
それもまた「若さ」に吸収されるのか……こういう解釈はヤだな

 

 

p.46

のっぽで、
助平な笑い話みたいなやつだと、
今日の種族にあざ笑われる
このぼくには
だれにも見えない「時」が、
山を越えてくる、その姿が見える。

まんま厨二病だよな……
置かれるコンテクストによって「文学」にも「痛い戯言」にも「コピペ」にもなる

すば日々の間宮卓司感

 


ここまで「自分全肯定・(仮想)敵全否定」を貫くのは若さどうこう言えなくなってくるというか、凄い気もする
「あなたは正しい。わたしは間違っている」が座右の銘の自分としては真逆で憧れ……はしないけど尊敬する

 

 

pp.48-50

ああ、どうしてだろう!
なぜだろう、
明るい楽しさのなかへ
汚れた大きな拳を振り上げるのは!

ぽっかり現れて、
頭を絶望の幕で包むのは
癪狂院から離れられぬ心だ。

すると、
戦艦沈没のとき、
呼吸困難で痙攣が起こり、
開いたハッチから跳び出すように、
自分の
叫びが出るまでに裂けた片目を通り抜けて、
狂ったブルリュックが這って来る。
涙の出つくした瞼をほとんど血に染めて、
這い出ると、
立ち上がり、
歩き始めた
と思うと、脂ぎった男には思いがけぬ優しさで
だしぬけに言った。
「いいなあ!」

落ちサビ? 勝利確定主題歌が流れ出す1分前みたいな
と思ったがブルリュックってなんだ。ようわからん

 

 

後半のマリアさまのくだりはよく分からなくてキツかった
詩は読むのに体力使うな〜 いったん集中が切れると1ページ1行も読み進められん
小説読んでるときも、「ちゃんと読めてない」と自分で感じる文は何度も何度も戻って読み返さなくては気がすまない(無視して読み進めると、大切な何かを置き去りにしているようなゾワゾワした焦燥感を覚えて我慢できない)のだが、詩だとこの性質がより顕著に顕れて読書をさらに困難なものにする……
『アカシアは花咲く』なんかは全文理解できなくて逆に大好きだが、それは例外だろう

 


人間を街に喩えるのと、街を人間に喩えるの(擬人化)とが両方あってそれらが円環的に一体化している気がする

 

 

いや何言ってるのかほんとわからん。何かが起こってるっぽい(解像度最低)

 

 

p.66

マリヤ! あいつらの
脂肪太りの耳に優しい言葉を押し込むなんて無理な話だろう。
小鳥は
唄で物乞いする、
飢えても声高く
歌ってる、
でも、おれは人間だ、マリヤ、
肺を患う夜がプレスニャ通りの汚れた手に吐き出した、
単純な男なんだ。

なんか「おれ」くん自信喪失してる?
青春の称揚と挫折……

 

 

p.68

きみ!
こわがるな、
腹に汗をかいた女どもが、おれの猪首に
濡れた山みたいに座っていても。
これはおれが生涯にわたって引きずってるんだ。
何百万もの巨大な純愛と、何兆もの汚れたちっぽけな愛をね。
こわがるな、
またもや
裏切りの荒模様のなかで、
数千の美人におれが言い寄っても。
マヤコフスキーを愛する女たち!)
だってこれは一つの王家の歴代の女王たちが
狂った男の心につぎつぎと即位しているのだから。

すげえ自信だな
名前出しちゃってるよ

p.69

マリヤ、近う寄れ!

恥知らずの裸でもいい、
不安に震えながらでもいい、
とにかくきみの唇の枯れることなき魅力をおくれ。
心を持つおれはかつて一度も五月まで生き長らえず、
過ぎし日々には
ただ百度の四月があるばかり。

かっこいい

 

 

pp.71-72

きみのからだを、
おれは守り、愛するだろう。
戦争でかたわになった
役立たずで
だれのものでもない
兵隊が
たった一本の足を守るように。

マリヤ、
いやなのか?
いやなのか!

はあ!

それならば、再び、
暗く、うなだれて、
おれが心臓を手に取り、
涙をふりかけてから、
汽車に轢かれた足を
巣に
運ぶ
犬ころのように
心臓を運ぶだけだ。

こんなコンパクトなフラれ方ある? ふられた後の描写哀しい
自分も今度失恋したら「はあ!」って言おう

 


失恋の腹いせに神様と天使に八つ当たりしてる


おー……最後はなんというか……かなり余韻のある終わり方
『JR』のラストみたいな

 

 

1と4がわかり易く恋愛(失恋)してて好きだな

初めは若さ全開だったが、最後のほうは寿命が尽きたあとのことを書いてて、人の一生、趨勢の悲哀が滲み出ている

 

分かったつもりになれるところは面白く、さっぱり分からないところはキツいのだが、普段「分からない小説が好き。分かってしまう小説はつまらない」と言ってるのとガッツリ矛盾してて焦る。小説と詩では、主にこちら側の習熟度なら受容態度やらが異なっているのがわかる

詩の読み方、楽しみ方がまだ確立していないので、慣れと研鑽の必要を感じる

ただ、これのような長篇詩のほうがまだ、小説に近くて読みやすい気がする

 


あ、T.S.エリオットの『荒地』は大学時代に読んでたわ。初海外詩じゃなかった
あれ何もわからんかったなぁ。聖書の引用とか知らんし

 

訳者のメモ

pp.83-84

こうして「テトラプティヒ」の意味が判明すれば、この作品が四つの章にわかれていること、それらひとつびとつの部分の主張や叫びが、作者の言う現代芸術のカテヒジス(教養問答)をかたちづくっていることなどが、おのずから知れる。「きみらの愛を(1章)、きみらの芸術を(2章)、きみらの機構を(3章)、きみらの宗教を(4章)倒せ」というカテヒジスは、要するに、きみらの愛や芸術や社会機構は、なっちょらん! それらを創り、司っているのが、唯一の神ならば、俺はナイフをふりかざして神をアラスカまで追い詰めてやる! という若いマヤコフスキーの大声の啖呵であって、極東の昭和時代の曖昧で中途半端な無神論者だった訳者は、たちまち魅入られてしまった。

なるほど〜
なんとなくはわかっていたが、3章は社会機構への啖呵だから理解しにくかったのか。

この後の、列車の客室で同乗した女性に「ズボンをはいた雲」という単語を口走ってしまい、自分が詩を書く前にパクられないよう、忘れさせるために必死で関係ない話題を喋りまくったというエピソードがおもろい。なんなら詩本編よりもおもろい

 

他のも読もうかな……でもこれで十分にマヤコフスキーは掴めたようにも思う。

とりあえずエミリー・ディキンソンは早めに読みたい。数年前にちょっとだけ読んで以来放置しているペソアにも久しぶりに挑戦してみようかな

 

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 
荒地 (岩波文庫)

荒地 (岩波文庫)

 
JR

JR